文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.140

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2010年(平成22年)1月18日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.140
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
後期9/28 10/19 10/26 11/9 11/16 11/30 12/7 12/14 1/18 1/25 
  
2009年、読書と創作の旅
後期の旅は、観察(表層観察と内面観察)から創作(&社会問題コラム)へ
1・18ゼミ
1月18日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。3階文芸教室
 1.出欠、通信・資料配布、連絡、司会指名、正月休み報告 
 
 2.ゼミ誌報告(編集委員)&ゼミ誌掲載作品合評
 
 3. 名作読み&小倉百人一首
      
12・14ゼミ報告
 昨年末12月14日の後期前半最終日ゼミは、恒例となっている三ゼミ合同授業を行った。参加ゼミは山下ゼミ、清水ゼミ、下原ゼミの三ゼミである。各ゼミとも一年の締めくくりとして、2009年度の授業成果を発表した。一番手の山下ゼミは、宮沢賢治研究をすすめていることから、『よたかの星』を朗読した。大きなスクリーンに映された野や山の色彩。それと照明の鮮度がマッチして、メルヘン的雰囲気をかもし出し、十分な宮沢賢治作品を感じた。つぎの清水ゼミは、一年間読み込んできたドストエフスキーの『罪と罰』の授業内容を報告した。下原ゼミは、志賀直哉の観察作品をテキストに授業をすすめてきたが、この日は、心理観察の総仕上げとして「ナイフ投げ奇術師美人妻殺人疑惑事件」(『ハンの犯罪』)の法廷寸劇を行った。裁判結果は以下の通りでした。
有罪、懲役3年、執行猶予3年で結審 
 ナイフ投げの演芸中に、的となっていた妻の首にナイフが刺さり妻は死んだ。夫婦仲は悪かった。はたしてナイフ投げは有罪か無罪か。ここで難しいのは、演芸中ということで、業務上過失致死とみられること大ということである。が、もし意図的、計画的だったら完全犯罪が成立してしまうことになる。計画的でないなら、なぜ不安定な精神のまま、演技をつづけたか。争点は、その二点に絞られた。午後四時から所沢法廷で開かれた「ナイフ投げ奇術師美人妻殺害事件」の裁判は、有罪が確定。懲役3年執行猶予3年で結審した。
 検察は、かねてからの夫婦間のこじれから、被告は業務上過失致死を装った完全犯罪とし有罪を主張。無期および終身刑を要求した。
 弁護団は、一貫して精神の心神耗弱を主張し、かつ被害者の無防を指摘した。
妥当な判決とみる人が多かった。
 最後に、下原が断りとして、当裁判はあくまでも文学的見地からの判決と説明した。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.140 ―――――――― 2 ―――――――――――――
昔の正月の遊び
 最近の家庭は、どうか知らないが、私の田舎、長野県伊那谷の山村では、正月は百人一首と相場が決まっていた。そのころは、まだ大家族で、どの家にも数人の子供がいた。私の部落はほとんど親戚だったことから、同じ年頃の子供たちは、一塊になって親戚の家々を泊まり歩いた。遊びは、はじめ子供だけのうちは花札、トランプだが、大人たちが加わる夜更けになると百人一首大会となる。子供にとっては、お菓子やみかんをかけての大勝負だった。緊張した熱気と雰囲気。正月がくると、思い出す。もう半世紀も前になる。
 核家族になった現代では、都会ではむろん、田舎でもほとんど百人一首は遊ばなくなったようだ。従兄弟の数も減ったし、いろんなゲームが増えたこともある。昨年ゼミで話したところ、16名の学生全員が一度もやったことがなかった。授業が選択になったせいか、教育現場でも学ばなかったようだ。が、皆、興味は持っていた。「やってみたい」そんな声があがったので、後期後半のゼミは、百人一首大会にした。時間がなく途中でベルになってしまったが、ちょっとはできてよかったとの感想。今年は、ぜひ、全部を読みきりたいものである。最近NHKのテレビ時代物ドラマで百人一首を扱ったものがはじまった。日本文化の最高峰にある作品である。復活なるか、楽しみである。
百人一首とは何か
 百人一首とは何か。カルタひろいから入れば、それほど縁遠いものではない。おそらく苦手とする人は、学校教育の一環、古典文学と考えるからである。昔の人が優雅に風景や、四季、恋、失恋を詠んだもの、文法ではなくリズムで思い描いてみよう。
 百人一首とは、何か。HPでは、このように紹介している。
 藤原 定家(ふじわら の さだいえ、1162年(応保2年) – 1241年9月26日(仁治2年8月20日))は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。法名は明静(みょうじょう)。
 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道の家としての地位を不動にした。代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。
 摂関家藤原北家道兼流・宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)が京都嵯峨野に建築した別荘、小倉山荘の襖色紙の装飾の為に、蓮生より色紙の依頼を受けた鎌倉時代の歌人藤原定家[1]が、上代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが小倉百人一首の原型と言われている。男性79人(僧侶15人)、女性21人の歌が入っている。成立当時まだ百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」や「嵯峨山荘色紙和歌」などと称された。
 いずれも『古今集』 、『新古今集』などの勅撰和歌集から選ばれている。歌道の入門書として読み継がれた。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まった。より人々が楽しめる遊戯として普及した。関連書に、やはり藤原定家の撰に成る『百人秀歌』があり、『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は「後鳥羽院・順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の3名が入っている」「源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく別の歌である」2点である。現在、この『百人秀歌』は『百人一首』の原撰本(プロトタイプ)と考えられている。
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2009年読書と創作の旅 百人一首一覧
 1.秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ     天智天皇 
 2.春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山        持統天皇  
 3.あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む  柿本人麻呂
 4.田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士のたかねに 雪は降りつつ  山部赤人
 5.奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき       猿丸大夫
 6.鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける       中納言家持
 7.天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも      安倍仲麿
 8.わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり     喜撰法師
 9.花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに   小野小町
10.これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関    蝉丸
11.わたの原 八十島かけて 漕き出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね  参議篁
12.天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ      僧正遍昭
13.筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる    陽成院
14.陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに     河原左大臣
15.君がため 春の野にいでて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ     光孝天皇
16.立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む    中納言行平
17.ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは    在原業平朝臣
18.住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ     藤原敏行朝臣
19.難波潟 短かき蘆の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや     伊勢
20.わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ   元良親王
21.今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな    素性法師
22.吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ   文屋康秀
23.月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど   大江千里
24.このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに   菅家
25.名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな   三条右大臣
26.小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ      貞信公
27.みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ    中納言兼輔
28.山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば     源宗于朝臣
29.心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花      凡河内躬恒
30.有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし      壬生忠岑
31.朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪      坂上是則
32.山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり     春道列樹
33.久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ        紀友則
34.誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに        藤原興風
35.人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける      紀貫之
36.夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ     清原深養父
37.白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける     文屋朝康
38.忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな     右近
39.浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき     参議等
40.忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで     平兼盛
41.恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか   壬生忠見
42.契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは      清原元輔
43.逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり        権中納言敦忠
44.逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし   中納言朝忠
45.哀れとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな    謙徳公
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.140 ―――――――― 4 ―――――――――――――
46.由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな      曽禰好忠
47.八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり    恵慶法師
48.風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな     源重之
49.みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ   大中臣能宣朝
50.君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな      藤原義孝
51.かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじなもゆる思ひを   藤原実方朝臣
52.明けぬれば暮るるものとはしりながら なほうらめしき朝ぼらけかな  藤原道信朝臣
53.なげきつつひとりぬる夜のあくるまは いかに久しきものとかはしる  右大将道綱母
54.忘れじのゆくすえまではかたければ 今日を限りの命ともがな      儀同三司母
55.滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ      大納言公任
56.あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな   和泉式部
57.めぐりあひて見しやそれとも わかぬまに雲がくれにし夜半の月かな  紫式部
58.有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする       大弐三位
59.やすらはで寝なましものをさ夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな    赤染衛門
60.大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立         小式部内侍
61.いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな       伊勢大輔
62.夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ     清少納言
63.いまはただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな   左京大夫道雅
64.朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木     権中納言定頼
65.うらみわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそをしけれ   相模
66.もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかにしる人もなし       前大僧正行尊
67.春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなくたたむ名こそをしけれ     周防内侍
68.心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな     三条院
69.あらし吹くみ室の山のもみぢばは 竜田の川の錦なりけり       能因法師
70.さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくもおなじ秋の夕ぐれ   良選法師
71.夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろやに秋風ぞ吹く       大納言経信
72.音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ    祐子内親王家紀伊
73.高砂のをのへのさくらさきにけり とやまのかすみたたずもあらなむ 前権中納言匡房
74.憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを   源俊頼朝臣
75ちぎりおきしさせもが露をいのちにて あはれ今年の秋もいぬめり   藤原基俊
76.わたの原こぎいでてみれば久方の 雲いにまがふ沖つ白波 法性寺入道前関白太政大臣
77.瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ      崇徳院
78.淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守       源兼昌
79.秋風にたなびく雲のたえ間より もれいづる月の影のさやけさ    左京大夫顕輔
80.長からむ心もしらず黒髪の みだれてけさはものをこそ思へ     待賢門院堀河
81.ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただありあけの月ぞ残れる   後徳大寺左大臣
82思ひわびさてもいのちはあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり   道因法師
83.世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる     皇太后宮大夫俊成
84ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき   藤原清輔朝臣
85.夜もすがら物思ふころは明けやらで 閨のひまさへつれなかりけり   俊恵法師
86.なげけとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな        西行法師
87.村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕ぐれ       寂蓮法師
88.難波江の蘆のかりねのひとよゆえ みをつくしてや恋ひわたるべき  皇嘉門院別当
89.玉の緒よたえなばたえねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする   式子内親王
90.見せばやな雄島のあまの袖だにも ぬれにぞぬれし色はかはらず   殷富門院大輔
91.きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む 後京極摂政前太政大臣
92.わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそしらねかわくまもなし   二条院讃岐
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93.世の中はつねにもがもななぎさこぐ あまの小舟の綱手かなしも    鎌倉右大臣
94.み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり        参議雅経
95.おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣に墨染の袖      前大僧正慈円
96.花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり     入道前太政大臣
97.こぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ    権中納言定家
98.風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける     従二位家隆
99.人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆえに物思ふ身は    後鳥羽院
100.ももしきやふるき軒ばのしのぶにも なほあまりある昔なりけり   順徳院
百人一首について
 「百人一首」についてカルタでは知っているが、歴史、選者についてはあまり知られていない。編集室も右同じである。古文は苦手ということからゲーム以外には目を向けなかった。が、講談社学術文庫・有吉保全訳注『百人一首』を買って読んだら、これが解り易くて面白い。いろいろわかったこともある。で、解説の1部を紹介する。以下、同書解説から。
一、書 名
 百人一首とは、百人の歌人から各一首ずつ歌を集めたもの、という意味である。この書名は、現存の百人一首注の最古の奥書をもつ『百人一首応永抄』(応永十三年1406年の藤原満基の奥書)の内題に「小椋(倉)山庄色紙和歌」とあるものの、その序文には「世に百人一首と号する也」とあるように、古くより「百人一首」と呼ばれていたとみられる。その後、足利義尚の『新百人一首』や『武家百人一首』『女房百人一首』などが世に出て、それらと区別するために「小倉」を冠として「小倉百人一首」と呼ぶようになった。「小倉」「小倉山荘」などを付した名称となったのは、後述するように、百人一首の成立が藤原定家の小倉山荘と深い関係にあると考えられたからである。
二、選者と成立
 百人一首は、中世以来藤原定家の撰と信じられてきた。しかし、近世になり、安藤為章(年山)が『年山紀聞』(元禄十五年成る)で、定家の『名月記』分暦二年(1235)5月27日の条に
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とあることにより、入道蓮生(為家の妻の父)が自身の嵯峨中院の別荘の障子に貼るため、歌をみずから選び染筆のみを定家に依頼したという説を示した。その後、諸説があったが、百人一首の成立問題は稿者の『百人一首応永抄』「百人秀歌」の紹介により一つの曲がり角を迎えたと思われる。そして「墨美」に定家筆とされる後鳥羽院「ひともおし」の小倉色紙が掲載されたことにより、近来の諸説は、後述するように定家撰説が有力で、部分的補ていの点で意見の相違がみられる。
 ところで、先に掲出した『名月記』分暦二年(1235)5月27日の記事は『百人一首』と深い関係にある『百人秀歌』の記述とみられるので、まず『百人集荷』について検討しておきたい。
三、「百人一首」の成立
 百人一首は、既に完成していた百人秀歌を草稿として、成ったものとみられる。そして、この両書とも定家の手になるものと考えるのが多くの意見であるようである。
 しかし、現存の『百人一首』は、色紙との関係や補訂者とその時期をいつと考えるかに問題がまだ残されているようにみられる
 ※ 百人一首の内訳は、8頁に
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2009年読書と創作の旅、後期の記録
□9月12日 ゼミ合宿・那須塩原、参加5名 『貧しき人々』朗読 司会=白川
□9月28日 参加5名、司会・白川、愛読書発表(清水・白川・塩崎)『出来事』読み
□10月19日 参加4名、司会・河西 課題発表、『正義派』読み、名作『あしなが』
□10月26日 参加3名、司会・塩崎 課題発表「登録」塩崎作品、『灰色の月』読み
□11月 9日 参加者4名、司会・清水、課題発表・社会問題「登録」塩崎、「つなわたり」
       塩崎、テキスト読み『子を盗む話』途中
□11月16日 参加3名、司会・白川 テキスト読み『児を盗む話』、課題発・表時事「折
       りたたみ傘」清水理絵、「米軍基地を笑うとき」塩崎真佑、社会問題・オレ
       オレ詐欺「詐欺電話」白川、記事創作SF「アルディの一日」清水、「アル
       ディの森」塩崎。
□11月30日 テキスト読み「ハンの犯罪」、寸劇仮稽古「ナイフ投げ奇術師美人妻事件」
       参加4名、司会・河西、ゼミ誌報告、課題発表「華麗なる復讐」清水理絵、
       「タカシ」河西杏子
□12月 7日 参加者4名 司会・塩崎、ゼミ誌、寸劇稽古、課題発表「事件もの」
□12月14日 三ゼミ合同発表会、寸劇「ハンの犯罪」裁判 参加3名
  
後期提出作品内訳
「2009年読書と創作の旅」⑨ 新聞記事観察から創作・コラム
・白川達矢「ポカリ」(電車事故)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・塩崎真佑「窓」(電車事故)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・慈剛寺徳子「死にかけた」(電車事故)・・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・塩崎真佑「登録」(社会問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・清水理絵「私は中立」(ダム問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・塩崎真佑「ダム問題は誰のもの」(ダム問題)・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・清水理絵「好きになったんです」(新聞記事創作)・・・・・・・・・・・・・発表済み
・塩崎真佑「つなわたり」(新聞記事創作)・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・清水理絵「沖縄米軍基地」(時事・コラム)・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・慈剛寺徳子「アルディの一日」(SF・新聞記事創作)・・・・・・・・・・・発表済み
・河西杏子「タカシ」(社会問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・塩崎真佑「米軍基地を笑うとき」(時事)・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・塩崎真佑「アルディの森」(SF・新聞記事創作)・・・・・・・・・・・・・発表済み
・白川達矢「詐欺電話」(社会問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・清水理絵「華麗なる復讐」(事件観察)・・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
・清水理絵「始まりと終わり」(新聞記事・SF創作)・・・・・・・・・・・・発表済み
・塩崎真佑「あの先にある地」(新聞記事・SF創作)・・・・・・・・・・・・未発表
・塩崎真佑「告白」(事件観察)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・発表済み
講 評
 後期は、主に新聞記事からの創作、時評などをすすめた。一つの記事から、物語を生む。観察からさらに踏み込んだ稽古だったが、皆、果敢に挑戦した。前期を含め読むこと、書くことの日常化、習慣化は、この一年で十分に果たされたようでうれしく思います。が、日々の精進が肝心です。江古田に行っても怠らぬこと。何事も孤軍奮闘、努力せよ!です。
 楽しい一年でした。皆さんの未来に期待しています。
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土壌館・実践的投稿術 ⑨
 文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。
 もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。
 土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞「声」欄に投稿をつづけています。なぜ「声」欄かというと、500字という字数は、人が飽きなく読む字数であるということと、文体を簡潔にできるからである。
 かって、ゆとり教育が奨励された。子供の学力と体力をあげることが目的だった。それで、公立の小中高では土曜日休みがはじまった。あれから何年、過ぎたか知らない。が、どうもうまくゆかなくなったようだ。学力低下、体力低下はいっそう顕著になったので、土曜休みは返上する方向にあるという。このことでわかったのは、教育は、制度を変えてもよくはならない。教師一人ひとりの資質と、人生という長い期間が必要ということである。
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◆ 1996年(平成8年)9月16日 ーー曜日 朝日新聞「声」欄 下原敏彦
50歳の1年生 師の撮影行脚
 私が小学校に入学したとき、担任の教師は1年間、子供たちを写真に撮った。教室、校庭、通学路。そして家庭での様子までも。昭和二十八年、山村の子供たちのあらゆる風景だった。その写真は認められ、当時『一年生』という写真集になった。
 あれから四十四年目、ことし米寿を迎えた先生は、今度は「五十歳になった一年生」を撮るために活動を開始した。
 だが、長い歳月のあいだに教え子たちは全国各地に散らばっていた。それだけにご高齢のことを考えると教え子一人ひとりの撮影は無理のように思われた。
 しかし、先般、私のところに訪ねてきた先生は、意気軒高だった。昔の担任のままだった。写真に撮った子供たちのことを実によく覚えていた。現在のこともよく知っていた。
 そして、活発でなかった子、写真集にあまり登場していなかった子のことをたいそう気にしておられた。教え子たちの人生についても、実によく調査していた。そのことが、初老に向かう私たちの励みになり、力になった。
 真の教育とは、学校を離れてみて、年齢を繰ってみて初めてわかった気がする。この二十二日、先生の米寿を祝って郷里の小学校で同級会を開くことにした。
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 当時、先生の活動はテレビのNHKのドキュメンタリー番組となって放映された。平成八年十一月二十四日の読売新聞テレビ欄「試写室」は、こう紹介していた。
「教え子たちの歳月」43年の空白を埋める師弟愛
 古い写真集がある。コッペパンをほおばる子、取っ組み合うガキ大将、家の野良仕事を手伝う子・・・将来を語るレコードも残っている。かわいらしい声で「百姓になりたい」、「いい人になりたい」・・・昭和28年、長野・会地村の小学校に66人が入学した。彼らを撮り、録音したのは、担任の熊谷元一先生。その子らが今年、50歳になった。今は東京に住む先生も米寿を迎えた。「教え子を再び撮りたい」これは、43年の空白を埋める先生の旅を追った記録だ。家業を継いだ者、集団就職で都会に出た者、道は違っても、みんな立派な大人になった。その人生模様が、戦後から高度成長へと歩んだ日本の縮図を垣間見せる。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・140―――――――― 8――――――――――――――――
 そして今秋、40人が村に集まり、先生を囲む会が実現した。「あのころに戻ってみたいなあ」。再会を喜び無邪気な一年生に帰る教え子たち。
 自分に重ねて郷愁に胸詰まる思いの同世代層も、きっと多いだろう。貧しく苦しかったけど、陰湿ないじめも受験戦争もなかったセピア色の昔。山あいの小さな村を舞台によみがえる先生と教え子の、ちょつといい話である。  (成)
 あれから14年の歳月が流れた。先生は、今でもご健在である。昨年7月に百歳になられた。私たちもとうに還暦を過ぎた。私たちは、いま『100歳になった先生と還暦になった一年生』の文集づくりをすすめている。ゼミ誌は、1年間の授業の成果だが、この年齢の文集は、あのときの教育の実りと思っている。
追記【百人一首の内容と選歌意識】
百人一首は、すべて勅撰和歌集から選んだもので、それを勅撰集別に掲げると、つぎのようになる。()内は百人秀歌。
一、古今集 24首(5、7、8、9、11,12、)
二、後撰集 7首(1 10 13 20 25 37 )
三、拾遺集 11首(3 26 38 40 41 43 44 45 47 53 55)
四、後拾遺集 14首(42 50 51 52 56 58 59 62 63 65 68 69 70 73)
五、金葉集  5首(60 66 71 72 78)
六、詞花集  5首(48 49 61 76 77)
七、千載集 14首(64 67 74 75 80 81 82 83 85 86 88 90 92 )
八、新古今集 14首(2 4 6 19 27 46 54 57 79 84 87 89 91 94)
九、新勅撰集 4首(93、96、97、98)
十.続後撰集 2首(99、100)
【下原ゼミⅡ雑誌刊行履歴内訳】
2004年『背中に人生を』飯塚、蛯沢、小倉、小山田、金牧、木佐貫、木村、坂江、寺嶋、
    友枝、林、御橋、若宮
2005年『柔』中谷、田中、林、関、小河原、平岩、林、中村、大島、津田、畑
2006年『サンサシオン』大江・中川・猿渡・高嶋・鈴木・神田・佐藤
2007年『COCO電』高橋・疋田・茂木・金野・山根
2008年『ドレミファそらシド』川端・大野・刀祢平・瀧澤・野島・本名・秋山・大谷
    ・坂本・飯島・長沼・橋本・田山・臼杵・小黒
2009年『下原先生と ちょつと不愉快な仲間たち』
     河西杏子、清水理絵、塩崎真佑、白川達矢、永井志穂、内田すみれ
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編集室便り
☆ 原稿、歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
□ゼミの評価基準は可(60~100)とします。評価方法は、次の通りです。
  課題の提出原稿数+出席日数+ゼミ誌原稿+α=評価(60~100)
2010年 本年もよろしくお願いします

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