文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.142

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2010年(平成22年)4月19日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.142
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
前期4/19 4/26 5/10 5/17 5/24 5/31 6/7 6/14 6/21 6/28 7/5 
  
2010年、読書と創作の旅
前期の旅は、観察(車中と自己) & 名作読み・発表・表現
4・19ゼミ
4月19日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
 1.「2010年読書と創作の旅」について・ゼミの目標など 
 
 2.テキスト・授業について & その他(自己紹介・質疑応答)
 
 3.  顕義伝  表現稽古=紙芝居
      
はじめに
 みなさん、こんにちわ。下原ゼミにようこそ。いよいよ新学期がはじまりました。2年生になった(そうでない人もいるかも知れませんが)感想はいかがですか。皆さんにとって、今年は、所沢校舎最後の年です。自分の希望に合致したゼミを選び、有意義な1年間を過ごしましょう。それには、まず、しっかり各ゼミの内容を知ることです。
「2010年読書と創作の旅」について
 下原ゼミは「2010年読書と創作の旅」と銘打っています。由来は、1968年に公開されたキューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」にあやかったものです。この旅の目的は、人間とは何かを知るためでした。原作者のアーサー・クラークは昨年、亡くなり、『2010年』、『2030年』と書き続けた謎解きも『2061年』で途絶えました。人間とは何か。戦争、虐待、振り込み詐欺など、人間の謎は毎日のニュースに溢れています。2010年という時間の車窓には、はたしてどんな出来事・事件が映るのか。
※ ちなみに19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーは、17歳のとき、人間は謎です。ぼくはその謎解きを人生の仕事にします。そう宣言して作家を目指した。
ゼミの目標
 既に「講座内容一覧」などで当ゼミの内容は、ご存知かと思います。が、まだ見ていない人、忘れてしまった人のために改めて講座内容を紹介します。
 下原ゼミは、上記の目的(人間の謎解き)の旅によって書くこと、読むことの習慣化、日常化を目指します。それによって執筆力、批評力を身につけ高めます。
書くこと、読むことの 習慣化、日常化


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.142 ―――――――― 2 ―――――――――――――
「2010年、読書と創作の旅」計画
 この1年間の旅は、あくまでも予定ですが、以下のような実施要綱です。
1.「2008年、読書と創作の旅」における日程
 ○ 前期 → テキスト・名作読み。課題発表。ゼミ誌についての話し合い。
 ○ 後期 → テキスト・名作読み、課題発表。ゼミ誌編集。合同発表稽古。
 ○ 名作配布 → 毎回「読むこと」の習慣化するために名作コピーの配布、音読。
 ○ テキスト → 志賀直哉の車中作品と動物観察作品。他、世界の名作、主に短編。
2.内容(書くことの基盤は観察です) 
 ○ 課題 → 観察したものを提出。提出原稿は、すべて発表。
 ○ 観察 → 主に毎日、乗る電車の中の観察、動物、自分の話(エッセイ・創作・日記)
 ○ 提出 → 原稿用紙1枚~5枚程度。作品は、「ゼミ通信」に掲載。
        
 ○ 新聞 → 事件、出来事、問題を議論する。三面記事から短編を創作する。
※ 提出原稿は、手書き、メールで。但し、手書き掲載は、遅れる場合も。
      
※ 発表することの意義は、他者の作品を聞くことによって自分の文章の見直しと批評する
  眼を育てる。
3.紙芝居について(娯楽として)
 ○ サブカルチャーを知る。60年前の大ベストセラー劇画物語。「少年王者」
 ○ 口演することで演技性を身につける。
 ○ 後期後半は百人一首大会。
4.合宿・発表会について
 
○ 合宿 → 実施すれば、マラソン朗読会。毎年、恒例。テープ切りは何時か。
       タイムスリップ旅行。
○ 発表会 → 後期前半終了日に合同発表会。
        毎回、出し物=裁判小説の寸劇、又は紙芝居口演
5.評価について 
○ 出席日数+提出課題+その他α=60~100
以上
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読書のススメ
 
 たとえば健全の身体には健全の精神が宿る、という言葉がある。文字通り取って一生懸命に体を鍛えれば、健全の精神になるのか。むろん否だが、読書する身体には、とすれば、立派な標語になる。例えば「よりよい読書にはよりよい精神が宿る」とかである。
 ところで健全な精神とは何か。端的に云えば教養と正義を持つ心である。正義は、その人の性格、資質。取り巻く環境から身につくが、真の教養はそうはいかない。努力が必要である。教養と正義、両方の精神を育ててこそ人は真の意味で全うな人間になれる。
 健全な精神を持てない人間は、どんなに美しくてもブランドもので身を飾ろうと卑しい。例え権力者になろうと、大金持になろうと、いかなる名声を得ようとである。
 昨今、大学は入学するためだけの、よりよい就職先を見つけるためだけの場所となっている傾向がある。しかし、本来の大学の目的は、健全な精神が宿る立派な人間を育てるところである。健全な精神を持った人間を社会に送り出し、誰もが幸せに暮らせるよりよい社会を築いてもらう。その人材を作るために大学は存在するのである。冨や名声を得るためのところでも、学歴を自慢するところでもない。森羅万象の調和を目指すことを学ぶ場。大学の使命は、常にそこにある。書くことも研究することも全てその一点にあるのである。
 それでは、健全な精神を育てる為には何をなすべきか。ただ、大学に通って、テストでよい点を取って単位だけをとって卒業すればいい。断じてそういったところではない。世に為政者や役人、経営者、教育者たちの腐敗・不正が後を絶たないのは、そうしたことだけに汲々とした学生生活を送った者が、いかに多いかという証拠でもある。罪を犯さなくても、自分一人だけの欲望を叶えたとしても、大学で学んだ意味がない。あくまでも人の役に立ってこそ、人のためになってこそ学んだ意味があるのである。
 では、健全な精神を育て持てるには、どうしたらよいか。それは読書することである。大学生活という空間のなかで、青春という果てなく思える時間のなかで、とにかく読書すること。それより他にない。しかし、それもただ本を読めばいい、というものではない。巷に書物はあふれている。悪書は何冊読んでも浪費の体験にはなるが、プラスにはならない。良書も、ただ読んだだけでは、健全な精神を育てる肥料にはならない。ただやみくもに肥料を与えても植物は育たないのと同じである。読書は簡単だが難しい。
「若いときの苦労は、買ってでもせよ」という格言がある。同じかどうかは知らないが「若いときの読書は、どんな宝物より代えがたい」と言いたい。
 ならば、読書は、どんなふうにしたらよいのか。なぜ若いときの読書は必要か。それについて、今日の近代日本人をつくった明治の偉大な教育者・嘉納治五郎(1860-1938)が著書「青年修養訓」で説いている。後の頁で紹介、音読。
 
書くことの意味
 書くことの意味・・・文芸学科の学生に、なにを今更と思うが、釈迦に説法だが、これが案外、無視できないところがある。携帯やパソコンという便利な機具の普及で文章を発することは、いまや日常化している。メールは電話がわりになっているしケイタイで書く小説が流行っているとも聞く。ブログや動画で自分を紹介する人もいる。このように21世紀初頭の現在は、伝達文化が華やかなりし時代である。だが、ただ恣意的に書くだけでは、書く意味にはならない。なぜ書くのか、その目的を持ってこそ、書くことに意味がある。
 何のために書くのか。志賀直哉という作家は、常にそれを意識した小説家です。人類の救済は、森羅万象の調和にあると訴えたのは、ドストエフスキーです。その意味から、下原ゼミは、志賀直哉をテキストにしました。
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2010年、読書と創作の旅・観察
テキストについて
  
 下原ゼミでは、テキストに志賀直哉の車中作品をとりあげている。なぜ車中作品か。(毎年、ガイダンスで説明しているが)、志賀直哉の車中作品には、創作の基本があるからである。創作の基本とは、観察力である。事実を的確に精緻する目と、想像する目。この二つの目がしっかりしているから志賀文学は、普遍である。よく志賀直哉の作品は、私事や家庭の葛藤のみで社会を描いていないと言われる。が、それは誤りである。この作家の視点は、常に「私」から「家族」「社会」、そして「全人類」を見つめている。世界の大文豪ドストエフスキーは、神や人類の問題を描いたが、その視線は常に人間個人の心の中を照射し、突き抜け魂の裏側に届いている。逆もまた真なり。そこに志賀直哉の真髄がある。
 志賀直哉は、「小説の神様」と呼ばれている。それは何故か。それを知るには、まず車中作品を読み解くこと。それが糸口と思っている。
志賀直哉(1883-1973)の主な車中作品&車中関連作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4
 号にて発表。31歳。
○電車関連作品として『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻第5号。
 34歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。
 以上の作品は、車中・車外からの乗客観察である。乗客の様子が鋭く描き出されている。『城の崎にて』は、心境小説ではあるが、電車にはねられての療養から車中作品の範ちゅうとした。『児を盗む話』は、犯罪者・誘拐犯の誘拐心理状態を克明に追っていることから、新聞の事件ものとして加えた。
志賀直哉評論の紹介
中村みつ夫著『志賀直哉論』筑摩叢書50 昭和41年4月25日
…亡霊をつくりだす原因は、いつもそれを見る者の側にあります。志賀直哉の芸術の本體を知り、彼の才能と特質と限界を見極めることが、現代の文学にとって緊要である所以…
清水 正著『志賀直哉とドストエフスキー』鳥影社 2003年9月20日
…我孫子に生まれ育ったわたしにとって志賀直哉は中学生の昔から著名な小説家であった。…わたしは何度も志賀直哉の作品を読もうとしたが、そのつど挫折した。今回、志賀直哉の作品を読んで、一向に飽きなかったことに我ながら驚いた。…
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2.嘉納治五郎の読書のススメ
第15 精読と多読
 
    『嘉納治五郎著作集 教育篇』(五月書房)
 精神の健全な発達を遂げようとするには、これに相当の栄養を与えなければならぬのであるが、その栄養を精神に与えるのは読書である。人は誰でも精神の健全な発達を望まないものはないにもかかわらず、実際その栄養法たる読書を好まない者も少なくないのは甚だ怪訝に堪えぬ。かくの如きは、その人にとっても国家にとっても実に歎(タン)ずべき事である。読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり、実務に従事しいるものにあっては競争場裡の劣敗者たるを免れしむる保障となるものである。看よ、古来名を青史に留めたるところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試みにその二、三の例をあげてみれば、徳川家康は常に東鑑(吾妻鏡)等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。またカーライル(イギリスの歴史家・評論家)は一年に一回ホーマー(ホメロス)を読み、シルレルはークスピーアーを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントン(イギリスの将軍・政治家)はバットラーの著書(『万人の道』「生活と習慣」など)やアダムスミスの国富論に目を曝しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠らないようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにするということの必要なるは多言を俟(ま)たないのである。
「読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり」と、このように読書の必要性を説いている。では、どんな本を読んだらよいのか。それについては、このように述べている。
 読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。吾人(われわれ)の読む書物のどんなものであるべきかに関しては、ここにはただ一言を述べて余は他の章に譲っておこう。すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値があるというものを選ぶか、または古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい。また、昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙(ひもと)き見るようにするがよいのである。
 どんな本を読んだらよいか。本によっては栄養になるどころか害になるという。嘉納治五郎が言うのは、先輩識者が認めた価値のあるもの。つまり世に名作といわれている本である。他は、現在、たとえどんなに評判がよくても、百万冊のベストセラーであっても後回しにせよということである。そうして古典になっているものは、常に手にしていなさいと教えている。本のよしあし、作家のよしあしは時間という評者が選んでくれるのである。
 さて、このようにして読む本を選んだら、次にどのようにして読むか。いらぬ節介ではあるが、全身教育者である嘉納治五郎は、その方法をも懇切丁寧に述べている。
 次に方法の点に移れば、読書の方法は、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むのをいうのである。真正に完全の読書をするには、この二つが備わらなければならぬ。
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 つまり書物は偏らず、多くの書を読め、ということである。そうして読むからには、飛ばし飛ばし読むものには耳が痛いが、決していい加減にではなく、丁寧に読むべし、ということである。いずれももっともなことではあるが、人間、こうして指導されないと、なかなか読むに至らないのも事実である。が、そこは辛抱と努力で読んだとする。が、そのとき折角の読書にも陥りがたい短所がある。そのことを指摘し、注意している。
 世に鵜呑みの知識というものがある。これは教師なり書物なりから得た知識をば、別に思考もせず会得もしないで、そのまま精神中に取込んだものをいうのである。かようなものがどうしてその人の真の知識となって役に立つであろうか。総じて知識が真の知識となるについては、まず第一にそれが十分に理解されておらねばならぬ。次にはそれが固く記憶されておらねばならぬ。
 鵜呑みの知識。よく読書のスピードを自慢する人がいるが、いくら早く読んでも、理解していなければ、ただ知っている、ということだけになる。理解していない、あらすじだけの読書は、どんな不具合を起こすのか。
理解のされていない知識は他に自在に応用される事が出来ないし、固く記憶されていない知識は何時でも役に立つというわけにはいかない。したがってこれらの知識は、あるもないも同じ事である。かような理由であるから、何人たりとも真の知識を有しようと思うならば、それを十分咀嚼(そしゃく)消化して理解会得し、また十分確固明白に記憶しおくようにせねばならぬ。
 いい加減な読書なら、しないほうが増しというわけである。読書するからには、しっかりと頭に入るようにしなければならない。そのためには・・・・・
 さてこの理解記憶を全くしようとするにはどうしたらよいかというには、他に道は無い。その知識を受け入れる時に用意を密にする。すなわち書物をば精しく読まねばならぬのである。幾度か幾度か繰返し読んで主要点をたしかに捉えると同時に、詳細の事項をも落とさず隅々まで精確に理解をし、かつ記憶を固くするのである。こうして得た知識こそは真の栄養を精神に与え、また始めて吾人に満足を与える事が出来るのである。試みに想像してみれば分かる。何らかの書物をば百遍も精読し、その極その中に書いてある事は十分会得していて、どんな場合にも応用が出来、その知識は真のわが知識になって、わが血液に変じ筋肉と化しておったならば、その心持はどのようであろうか。真に程子(テイシ兄弟)のいったように、手の舞い足の踏むところを知らないであろう。書物の与える満足には種々あろうが、これらはその中の主なるものであって、また最も高尚なものである。
 書物を理解するには、繰り返し読む以外、方法はない。まさにその通りである。一に精読、二に精読である。そうすれば応用できるようになるし、真の知識ともなる、と説いている。また、この精読するということについても、こう述べている。
 かつまた一冊の書物の上に全力を傾注するという事は、吾人の精神修養の上から観ても大切である。何となれば人間が社会に立っているからには、大かり小なりの一事をば必ず成し遂げるという習慣がきわめて必要であるが、書物を精読し了するというのは、ちょうどこの一事を成し遂げるという事に当たるからである。今日でこそやや薄らいだようであるが、維新前におけるわが国士人の中には、四書(儒教の経典)の中の一部もしくは数部
をば精読し熟読し、その極はほとんどこれを暗誦して常住座臥その行動を律する規矩(きく・コンパス)としておったものが多いのである。伊藤仁斎(江戸初期の朱子学儒者)は18,9歳の頃『延平問答』という書物を手に入れて反復熟読した結果、紙が破れるまでになったが、その精読から得た知識が大いに修養の助けとなり、他日大成の基をなしたという
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事である。また荻生徂徠は、13年のわびしい田舎住居の間、単に一部の大学諺解(ゲンカイ口語による漢文解釈)のみを友としておったという事である。程子は「余は17,8より論語を読み当時すでに文義(文章の意味)を暁(さと)りしが、これを読むこといよいよ久しうしてただ意味の深長なるを覚ゆ」と言っている。古昔の人がいかに精読に重きをおいたかは、これら2,3の事例に徴するも分明である。学問教育が多岐に渉る結果として、遺憾な事にはこのような美風も今日ではさほど行われないようである。
 昔の人は紙が破れるまで読んだ。ひとつのものを徹底して読む。この美風、すなわち習慣は、現代においては、ますます為されていない。が、学生は、すすんで挑戦しようという気まがえがなくてはならぬ。と、いっている。
 しかし現に学生生活を送り近い未来において独立すべき青年らには、各率先してこの美風を伝播しようと今より覚悟し実行するように切望せねばならぬ。
 読書ということは、このような効能の点からいっても満足の点からいっても、また精神修養の点からいってもまことによいものであるが、しかしまた不利益な点を有せぬでもない。すなわち精読は常に多くの時間を要するということと、したがって多くの書物が読めないようになるから自然その人の限界が狭隘(キョウヤク)になるを免れないということである。例えていえば、文字において一作家の文章のみを精読しておったならば、その作家については精通しようが思想の豊富修辞の巧妙がそれで十分に学べるということは出来ない。どんなに優秀な作家とても、その長所を有すると同時に多少の欠点を有するものであるから、一作家の文章が万有を網羅し天地を籠蓋(ロウガイ)するというわけにはいかぬ。そこで精読によって益を受けるにしても、またその不備な点が判明したならば、これを他の作家の作物によって学び習うという必要が起きる。すなわち他の作物にたよるということは、多読をするという事に帰するのである。
 
 一つの書物を徹底して読む。それは必要だが、一つの書物だけでは不足だとも言っている。どんなに優れた人でも万能なはずはない、どんな天才にも欠点はある、というわけである。
つまり一つのことだけを信じすぎるな、ということである。物事は多角的に捉えてこそ、正しい判断ができる。例えば、ゼミ選びもそうです。できるだけ多くのゼミを覗いてみる。
 その意味で多読をススメている。
 またこの外の人文学科、たとえば歴史修身等においても、もしくは物理化学等の自然学科においても、一の著者の記述説明に熟すると同時に、他の著者はそれをどんなに記述し説明しているかを参照してみる必要がある。このように参照してみることは知識を確実にする上にきわめて多大の効能があるから、決して煩雑無用のことではない。精読はもとより希うべきであるが、また一面には事情の許す限り多読をして、その限界を狭隘にせぬようにするがよい。精読でもって基礎を作り、多読でもってこれを豊富にするは学問の要訣(ヨウケツ)であってこのようにして得られた知識こそ真に有用なものとなるのである。
 多読、すなわち参照。他のものとの比較は、自然科学においても同じだという。精読は必要だが、多読も大切、重要である、と説く。つぎに、最後になるが精読と多読を可能にした場合の読書方法は、このようであると示している。
 さらに精読と多読との仕方の関係を具体的に述べてみれば、まず精読する書物の中にある一つの事項に対して付箋または朱黄を施し、かくてその個所が他の参照用として多く渉猟(読みあさる)する書中にはどんなに記述説明されているかを付記するのである。換言すれば精読書を中心として綱領として、多読所をことごとくこれに関連付随させるのである。また学問の進歩の程度についていうならば、初歩の間は精読を主とし相当に進んだ後
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に多読を心掛くべきである。けれどもどんな場合においても精読が主であって多読が副である。そうしてこの両者のうちいずれにも偏してはならないことは無論であるが、もしいずれに偏するがよいかといえば、精読に変する方がむしろ弊害が少ないのである。精読に伴わない多読は、これは支離散漫なる知識の収得法であって、濫読妄毒となるに至ってその幣が極まるのである。
 読書のポイントは、精読した書物に付箋をつけ、他の書物を読み漁りながら、参照すること。ここで、注意しなければならないのは、あくまでも精読が先で、多読は後、ということである。多読を先にすると、浅薄な知識しか身につかない。
 また、多読、精読でも、このような場合は害以外のなにものでもない。
 また鼠噛(ソコウ)の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれをも読みとおさずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛(ソコウ)の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれも読み通さずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛の陋(ロウ)に陥ったものも多いのである。実に慎み謹ん(つつしみつつしん)で遠ざくべき悪癖である。
 精読、多読を目指すときに陥りやすい点は、ネズミのようにあちこちかじった果て、嫌になって投げ出してしまうことである。世の中には、そうした人が多い。
 以上、嘉納治五郎の説く読書の必要性を紹介した。どんな本を読めばいいのか。どんなふうに読めばよいのか。人それぞれの好き嫌いもある。それに、世に古典といわれる良書は山ほどある。となると読書も簡単ではない。が、文学の手本にするなら志賀直哉である。
(編集室)
本のチカラ
 
 以下の投書は、あるガンセンター病院の図書室に投書された患者さんの読書に対する感想です。死と向き合ったとき、はじめて読書の大切さ、必要さを実感した。その思いが素直に書かれています。読書のススメには貴重な体験です。紹介します。
 退院まじかになって本に関する話ができて幸せだった。もっといたいような気がする。病院にいてもっといたいというのは妙なものだが、癒されるし落ち着く。生命がもっとあれば万巻の書が読みたい。
 にとな文庫より借りて読んだ上坂冬子の本(『死ぬという大仕事』小学館 2009)。死の直前までがんと対峙し昨年死去。惜しい人を失った。自分の死を悟りもう生命がつきるとわかっていたのだろう、自宅を売り払った。次の日に買い手がついたという。上坂冬子は生涯独り身だったが、自分のことは自分で結末をつけた。
 死に親しんだ小生、自殺未遂を3回も繰り返したが、後年がんになり生命が惜しくなる。本を読む時間が欲しくなると生きたいとより思う。
 にとな文庫のご意見ノートでご主人をがんで亡くした奥さんの手記を読みドーっと涙が出てくる。歳をとると涙腺が緩んで悲しいと感じるとすぐに涙が反応する。
 一刻の時間、コーヒーがおいしかった。まさに読みたい本があり、そこに生きる時間があるのは幸せの極みといえるだろう、- やっぱりパソコンはダメだ -。
 まだセリーヌも読んでないし、プルーストも全巻読んでいない。日記を書き始めて55年、野上弥生子にはどうしても勝ちたい。日記が途切れた日は手術2回の6日間と自殺未遂後の3日間。至福のときをありがとう。      
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精読と多読に関連して
志賀直哉とは何か
 「2010年読書と創作の旅」では、テキストとして志賀直哉の作品をとりあげます。来週からの授業では、志賀直哉作品を読んでいきますが、その前にこの作家について少しばかり触れておきます。
処女作三部作
 小説の神様といわれる志賀直哉とは何か。それを考えるには、まず処女作三部作を読み解く必要があります。
 処女作三部作とは、『菜の花と小娘』、『或る朝』、『網走まで』です。下原ゼミは、このなかで主に車中作品の『網走まで』を取り上げ、以後の車中関連作品を朗読・合評していきます。併せて自分たちの車内観察を発表します。
 ちなみに、これらの作品は明治37年(1904)から明治41年(1908)ころに書かれた。志賀直哉21歳から25歳のときです。
 志賀直哉はなぜ小説の神様といわれるのか。この謎を解く鍵は『網走まで』にあるとみています。が、その前に、人間・志賀直哉とは何か、を知るためには最初の作品『菜の花と小娘』にあります。それで、この作品について少しばかり紹介します。
 この作品は、明治37年5月5日の日記に「作文は菜の花をあんでるぜん張りにかく」と記し同年、作文「菜の花」として書かれ、明治39年(1906)23歳のとき「花ちゃん」に改題、改稿し大正9年(1920)に児童雑誌『金の船』に『菜の花と小娘』と題されて掲載
された。擬人法で書かれたこの作品は、このころ、愛読していたアンデルセン童話がヒントになったと考えられている。一見、なんでもない、誰でもすぐに書けそうな童話作品に見えますが、日本文学では名作に入ります。それだけに、現在、若い人たちにあまり読まれていないことが残念です。この作品には、若き日の志賀直哉の全てがある、といっても過言ではありません。この作品には、作者自身の思いが深くこめられています。
作者の深い思いとは何か
 作品に込められた作者の深い思いとは何か。作者は、菜の花を見て、この話を思いついたようです。菜の花は現在、千葉県が県の花にしている花です。
 房総半島は、春になると一斉に菜の花が咲きます。明治の当時も、同じ風景が見られたのかもしれません。明治35年(1902)、父親が総武鉄道(現在の総武線)の支配人兼会計課長となったことから、19歳の直哉は、鹿野山に遊びに行くようになります。
鹿野山
 鹿野山は、君津市にあり標高353㍍。房総三山の一つ。他は、鋸山、清澄山。広い山頂からの展望は最高で、現在、マザー牧場や登山道の桜のトンネルなどで人気の観光地となっている。当時も、桜や菜の花の名所だったようだ。毎年春になると直哉は、この鹿野山に登った。友人の里見弴(1888-1983)らと一緒のときもあったが、たいていは一人で登った。春の陽光の下、山頂から谷一面に咲き乱れる菜の花を眺めるのが好きだった。ときには何時間も、ときには何日も滞在してながめていたという。3月31日に来て、4月11日までいたこともある。いくら花が好きといっても二十歳前後の若者が、たった一人で何時間も何日も坐り込んで、ぼんやり菜の花をながめている。たとえ本を読んでいたとしても、ちょつと普通ではない気がします。咲き乱れる菜の花畑。賑やかな明るい黄色の海。しかし、後姿を創造するとなぜ寂しい孤独の影を感じます。
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菜の花に母の面影を
 明治45年(1912)に志賀直哉は、『母の死と新しい母』を発表している。創作余談では、「少年時代の追憶をありのままに書いた。一晩で書けた。小説中の自分がセンチメンタルでありながら、書き方はセンチメンタルにならなかった。この点を好んでいる」と述懐している。直哉の母、銀が三十三で亡くなったのは、明治28年、直哉が12歳のときである。ということは、母の死について書くのに17年間もかかっているということである。この歳月の長さは、直哉にとって母の死がいかに大きな悲しみだったかを教えている。菜の花は、暖か家庭を思わせるところがある。もしかして直哉は、菜の花に母の面影を見ていたのかもしれない。明治34年足尾銅山鉱毒問題で現地視察計画を父に反対されたことで、余計に亡き母、銀への思いが強くなっていたに違いない。加えて、この時期、直哉はあることで悩んでいた。人間の謎に突き当たっていた。
人間の謎
 「人間は謎です!謎は解かねばなりません」といったのは17歳のドストエフスキーである。やさしかった母の死と、心の中での渇望が実現した父の死。若き文豪が人間を謎としたのは、病気と殺人による両親の死を、どうしても受け容れたくなかったのだ。
 では、若き日の志賀直哉が、人間を謎としたのは、なぜか。このころ、直哉は恋をした。相手は志賀家に何人もいる女中の一人だった。直哉は結婚を夢みた。千葉県小見川にある彼女の実家にも泊まりに行った。若い二人の恋。だれもが祝福してくれると思った。しかし、だれもが反対だった。教訓をぶつ父親も、新しい美しい義母も、可愛がってくれる祖母も、だれもかれもが反対だった。理由は、あきらかだった。身分の違い。お金もあり、教養もあり、いつも立派なことを言っている人たちが、なぜそんなことを気にするのか。人間は、皆平等ではないのか。直哉には謎だった。折りしも、この頃、島崎藤村が『破戒』を出版した。自分と同年配の主人公瀬川丑松は、江戸時代、部落民といわれた階層だったために、明治になり教師になっても差別され、教壇を去らねばならない。士農工商もちょんまげもなくなったのに、なぜ人間は差別しあうのか。この本を携え、十日余り鹿野山に滞在し菜の花を眺め
ていた直哉の心うちはどんなだっただろう。人間って何んなんだ。理不尽なことが世の中には多すぎる。なんどもそう問いかけたにちがいない。
 『菜の花と小娘』を読んでみると、たいていの人は自分でもすぐに書けるような、気になるようです。しかし、実際にはなかなかです。
 人間とは何か。志賀直哉の作品は、すべてこの疑問を踏まえて書かれています。観察して、想像して書く。それがこの作家の創作方法です。それ故、テキストにしました。
ちなみに、「菜の花と小娘」は、このような話です。
菜の花と小娘
 或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。
 やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。
 ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。
「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。
「私を呼ぶのは誰?」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。
 小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。
 小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.142
「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。
「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。
「そんならならなぜ来たのさ」小娘は叱りでもするような調子で言いました。菜の花は、
「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」と悲しげに答えました。そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。
 小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。
 路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、
「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。小娘は、ちょっと当惑しました。
 しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。
「まあ!」菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、
「このまま流れて行くのよ」と言いました。
菜の花は不安そうに首を振りました。そして、
「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。
「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、
「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。
 菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。
 どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、
移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。
 菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。
「今度はあなたが苦しいわ」と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想に、
「心配しなくてもいいのよ」と答えました。
 菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。
 間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。
「まあ、少しそうしてお休み」小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。
「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。
「それで、いいのよ」小娘は言いました。
「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、
「いいのよ」と笑って取り合いません。
が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・142―――――――― 12――――――――――――――――
 少しきたところで、
「やはりあなたが苦しいわ」と菜の花はこわごわ言いました。
「何でもないのよ」と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。
 麓の村が見えてきました。小娘は、
「もうすぐよ」と声をかけました。
「そう」と、後ろで菜の花が答えました。
 しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。
 チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、
「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。
「どうしたのよ」小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。
「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。
「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。
 小娘は大きな声をして笑いました。
「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。
 小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。
 そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。
                                 おわり
ドストエフスキーについて
 現在、出版界は、大不況がつづいています。本も文学書は、なかなか読まれなくなった。文学書を買う人も減った。そんなわけで小売の書店はどんどん閉鎖に追い込まれている。社会全体では、そんな情況にあるんですが、ここ一二年、特異現象が起きています。ドストエフスキー文学が売れている。新訳の『カラマーゾフの兄弟』は100部のベストセラーだといいます。ドストエフスキーブームというのは、これまでにも何度かあるわけですが、今回は時代的背景に亀山郁夫さんという現代訳と光文社という比較的若者受けする本をだしている出版社、この三者が合致した結果、このベストセラー現象が生まれたといえます。
 では時代的背景とは、いったいどんなことか。たとえば最近のニュースで、こんな事件が報道されました。2010年4月18日「読売新聞」「朝日新聞」
 愛知県豊川市で閉じこもりの長男(30)が、父親にインターネットを止められたので、家族を殺してやろうと犯行にでた。5人刺され、父親と1歳の姪が犠牲となった。新聞によると「強いネット依存か」と解説していた。そういえば、このところ依存的な事件が多い。(児童虐待もその一種です)そんな気がします。依存は人類にとって大きな災害であり病です。悪魔の化身です。ドストエフスキーの作品は、そうした病に対する処方箋といえます。
故に、世界中で時代を越えて脈々と読まれつづけているのです。
 次の文は、ギャンブル依存という病を克服したドストエフスキーについての私のエッセイです。学燈社『國文学』別冊『ギャンブル 破滅と栄光の快楽』に掲載したものです。
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ドストエフスキーは、なぜ読まれるか
ドストエフスキーとギャンブル
 『貧しき人々』、『罪と罰』、『悪霊』、『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』の作者として知られる十九世紀のロシアの小説家ドストエフスキー。その人生は、国家反逆罪の廉で死刑判決の後、シベリア流刑を体験したことや癲癇症という先天性持病に苦しんだ患者ということでひろく紹介されている。しかし、この大文豪が一時期ギャンブル狂いしていたことは、あまり知られていない。シベリアから戻ってから約十年間。正確には一八六三年八月から一八七一年四月まで。年齢的には四十歳代の中年真っ盛りの時期、彼は外国で放浪暮らしをしながらルーレット賭博に明け暮れていた。(この事実を年譜や略歴に入れている書物は少なく、あっても「賭博好きな性格」といった程度である)
文豪とギャンブルの関係は、その後の文豪の人生を左右する重大事であり、且つドストエフスキー文学を理解する上で最重要事項である、と私は考える。そこで、このたびの特集を機会に「ドストエフスキーとギャンブル」の関係を検証してみたい。
 作家がギャンブルに熱中する。洋の東西を問わず、それ自体は珍しいことではない。自らのギャンブラーぶりを自慢する人さえいる。が、私はドストエフスキーの賭博熱は、そうした人たちのギャンブルとは、まったく違う性質のものだった、とみている。加えて、その賭博熱の突然の消え去り。そこには、あの『ダ・ヴィンチ・コード』をはるかに凌ぐ謎、全人類救済にとって必要不可欠な謎がが秘められている、とみる。
 ところで、その前段階として、文豪ドストエフスキーの賭博熱とはいったいどんなものだったのか、を考えてみよう。確かな証言としては、妻アンナ夫人の観察記録が残っている。夫人は、文豪がギャンブルに熱中している最中、一時期ではあるがその様子を克明に日記につけていた。そこに、文豪のギャンブル三昧の日々があますところなく記されている。この個所について『アンナの日記』(河出書房新社)の訳者木下豊房氏は、あとがきでこう述べている。
「賭博者ドストエーフスキイ」のテーマはそれ自体独立した興味を成すものであるが、バー
デン・バーデンでルーレットに明け暮れるドストエーフスキイのすざまじい姿は、日々傍らにあって生活を共にした夫人の『日記』(一八六七年六月二十三日~八月十一日)を読まなければほんとうにはつかめないだろう。
 私もそう思う。文豪のギャンブル狂いを真に知りたければ、これを是非、読んでもらいたい。ここに書かれてあるのは、ほとんどルーレットに持っていくお金の話なのである。
勝ってくるといって出かけていっては、すぐにすってしまったと戻ってくる。こんどこそ、といってお金をねだる。夫人がわたすと、また出かけていく。そして、すぐにすって子どものようにしょんぼりかえってくる。毎日が、このくりかえしだった。この時期の日記を無作為にひらいてみたとする。そこには――。
七月十八日(木曜)
 … フェージャ(ドストエフスキー)は出かけ、私は家に残った。でも彼は持っていった五枚を負けてしまったといって、間もなく帰ってき、もう五枚くれ、といった。私は渡し、残りは十枚となった。彼は出かけ、この五枚も負けた。もう五枚持ち出したが、これもすっかりすってしまったといって帰ってき、金貨一枚をくれ、といった。私たちの残金は、四枚だった。私は金貨一枚を渡した。フェージャは出かけたが、十五分後には帰ってきた。…
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七月二十三日(十一日) 火曜日
…したがって、彼の決意はほんの一日限りで、そのあとはまたもや賭博で、金をもうけたいというのだ。フェージャは出かけていって、むろん負けた。…
八月三日(七月二十二日) 土曜日
… フェージャはその間に、ルーレットに行った。五ターレル負けたら、すぐ賭場を出る、と彼は私にいっていたけれども、彼の言葉は信じられない。かならず負けてくるにちがいないと、と思う。彼は自分の金十ターレル持って出かけたのだった。しばらくして彼はもどってき、負けた、といった。…
どこを見ても、アンナに金をせびっては賭博に出かけ、負けて帰ってくる話ばかりである。懲りることなく、賭博場との往復が延々とつづく。
 この日記から推察できることは、文豪のギャンブル狂いが、単に賭博熱が高じたのものではなく、もっと他の、たとえば嗜癖という魔力に駆り立てられての行為だったのではないか、つまりギャンブル依存症だったのではないか、という疑いである。
 依存症と賭博熱は、傍目には同一行為に見えるが、似て非なるものである。アンナ夫人が、文豪のルーレット狂いをどのように見、どのように理解していたのか。夫人の貴重な記述があるので紹介する。
 はじめのうち、あれほどさまざまの苦しみ(要塞での監禁、処刑台、流刑、愛する兄や妻の死など)を男らしくのりこえてきたフョードル・ミハイロヴィチ(ドストエフスキー)ほどの人が、自制心をもって、負けてもある程度でやめ、最後の一ターレルまで賭けたりしない意志の力をどうして持ちあわせないのか不思議でならなかった。このことは、彼のような高い性格をもったものにふさわしからぬある種の屈辱とさえ思われ、愛する夫にこの弱点のあることが残念で腹だたしかった。けれどもまもなく、これは単なる「意志の弱さ」などではなく、人間を全的にとらえる情熱、どれほどつよい性格の人間でもあらがうことのできない何か自然発生的なものだということがわかってきた。そう考えて耐え忍び、賭博への熱中を手のほどこしようのない病気とみなすほかはなかった。
(『回想のドストエフスキー』)
 夫人は文豪の賭博熱を「手のほどこしようのない病気」、つまりギャンブル依存症とみた。この洞察力に私は驚嘆する。
ちなみにギャンブル依存症とは何か。あるホームページでは、このように説明している。(四国新聞社 シリーズ追跡「増えるギャンブル依存症」)
 ギャンブルで身を崩すのは、本人の意志が弱いせいだ――。こう考えるのが一般的だろう。
 しかし、「ギャンブル依存症」(NHK出版 2002)の著書がある北海道立精神保健福祉センター部長の田辺等氏は「自分をコントロールできないほどギャンブルにふけるのは、意志の問題ではなく病気」と強調する。
 ギャンブル依存症は、借金を重ねて仕事や家庭に大きな支障が出ても、なおギャンブルから抜け出せない症状。世界保健機関(WHO)も病気として認定している。
 田辺氏は「アルコール依存症や摂食障害も心理と行動との病的な障害という点では同じ」と説明する。だが、社会の認知度は違う。「体に害があれば認められやすいが、ギャンブルの場合は病気として受け入れてもらうのが難しい」
  (田辺 等著『ギャンブル依存症』NHK出版 2002)
 今日においても「受け入れてもらうのが難しい」病気。だが、アンナ夫人は、すでに百三十余年も前に見抜いていた。夫人が、いかに観察力の鋭い、また深い教養の持ち主であった
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かを改めて思い知る。その意味ではドストエフスキーは幸運であったといえる。このことは、また世界文学にとっても幸運であった。
依存症は、囚われたら最後、自力では抜け出すことのできない病魔、周囲の理解なしでは治すことはできない病なのだ。もし夫人が、気づくことがなかったら。また夫人の賢明な接し方がなかったら、私たちは『悪霊』以降の大作を読むことができなかったかも知れない。
 依存症という魔力は、ギャンブルに限らず、アルコール、摂食障害、薬物、最近ではネット、引きこもりなどあらゆる行為や考えを嗜癖化する恐ろしい病魔である。九年前神戸で「人を殺したくて仕方がない」そんな嗜癖にとりつかれ四人もの子どもを次々に殺傷した十四歳の少年がいた。彼は、自分にとりついた魔力について、このように表現していた。
……時にはそれが、自分の中に住んでいることもある……「魔物」である。……魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りをさせているかのように俺を操る。……。とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない……。
 この少年にとりついた魔物は、離れることがあるのだろうか。少年は、現在、知らない土地で名を変えて生活しているという。最近、2010年3月21日の読売新聞に、この少年に関する情報が載っていた。記事は、〈彩花ちゃん母「私たちの苦しみも想像」〉の大見出しで
「神戸児童殺傷元少年の手紙」とあった。
 この事件は1997年に神戸市で起きた。彩花ちゃんは、最初に殺された少女。当時10歳だった。「人を殺してみたかった」ただそれだけの理由で、娘を殺された母親は、悲しみを癒すために本も出版したりしていた。犯行時14歳だった少年は、2005年に医療少年院を本退院し、社会復帰したという。記事によると4年前から、差出人不明で謝罪の手紙を送っていたらしい。が、今回は初めて差出人の名が書いてあった。被害者の母親は、「他者の存在によって自分が見つめられた」のではないか、と感想を述べられた。
 魔物は、彼の心から出ていった。いまは、それを信じるしかない。
 ドストエフスキーの凄さは、この魔物を作中人物として生み出し作品の中を闊歩させたことにある。文豪の作品には、あきらかに依存症と思われる人が大勢登場している。というよ
り、物語は、ほとんどそうした病魔に蝕まれた人たちの話である。なかでも夫人が速記した『賭博者』は、実際に賭博に溺れている者でしか描けない臨場感がある。
ロシアからやってきた金持ちの祖母さんが、「一旦この道へ落ち込んだものは、あたかも手橇に乗って雪の山を辷るように、だんだん早く落ちて行く(『賭博者』)」様は鬼気迫るものがある。ここなどは、一度でもパチンコやスロットマシーンなどにはまったことのある人なら、身にしみる場面であろう。彼の描く世界は、まさに依存症の只中にある体験者の手記なのだ。
他に処女作『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキン。彼は、若い女性にせっせと手紙を書き続ける中年男だが、その純情行為は、ストーカー的と言えなくもない。毎夜、マットレスの中に隠した金貨銀貨をこっそり数える、プロハルチン氏も吝嗇依存の極みである。大作『罪と罰』には、非凡人思想に憑かれた主人公ラスコーリニコフ、アル中の見本人間マルメラードフなど、様々な依存にとらわれた人物が登場する。『悪霊』で描かれるのは、水晶宮という魔力にとり憑かれた若者たちである。
 このようにドストエフスキーの作品の中には、賭博、アル中、吝嗇、思想などあらゆる依存にとりつかれた人間を見つけることができる。また、文豪は作品内だけでなく、現実の社会のなかにも依存にとりつかれ多くの人々を見つけていた。
たとえば、社会主義という崇高な理念のなかに人々を粛清し奴隷化したいという嗜癖が潜んでいることを、彼は見抜いた。(このことは、ソビエト時代の収容所国家をみれば頷ける)。
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犯罪者のなかに、依存という魔力に取り込まれた不幸な人を見つけ、彼らを救いだすために手を尽くした。
 ドストエフスキーは、なぜこのように作品や社会に依存的人間を書けたり見つけたりすることができたのか。これこそ、文豪が単なる賭博者ではなく依存症患者であったという証だと私は考える。同類だからこそ、書くことができ、見つけ出すことができた。そう考えた時、ドストエフスキーにとっての「ギャンブル依存症」は、文豪を語る上で絶対に欠かすことの出来ない、大きな意味を持つ病歴へと変わる。
 もっとも文豪の子孫にとっては、この病歴はあまり認めたくない、できることなら伏せておきたいことのようである。余談だが、二○○四年十一月、文豪ドストエフスキーの曾孫ドミトリー氏が初来日し(日本のドストエーフスキイの会から招聘され実現した)各地で講演した折、曽祖父とギャンブルについても触れられたが、その内容は、文豪の賭博熱をなんとか普通の道楽範囲に収めようするものだった。例えば、「ツルゲーネフなんかの方が、よほど夢中だった」とか。その賭博場は、あの「地球は青かった」のガカーリンも「お忍びで、遊んだ」ところだ、とか。講演では一貫して、「曽祖父ドストエフスキーのギャンブル熱も、その程度だったのですよ」と強調されていた。加えて癲癇についても「そうした病歴はなかった」と否定された。ソビエト時代、ドストエフスキーは反革命作家として冷遇されてきた。その評価は崩壊後も、根強く残っている。それだけに子孫としては、敢えて負の経歴を、という思いがあるのかもしれない。輝かしい文学的功績と不撓不屈な人生であるという思いが……。
今日、パチンコ、アルコール、薬物、摂食障害、ネットなどいろいろな依存が明らかになってきており、対策として様々な自助グループも増えている。だが、依存という底なし沼からの脱出は容易ではない。拒食や過食に陥った少女たちの書いたものを読んだり、アルコール依存症夫婦を描いた映画、「酒とバラの日々」(ブレイク・エドワーズ監督・ジャック・レモン、リー・レミック主演)を観れば、いかに依存からの脱出が難しいかはわかる。おそらく文豪のルーレット賭博も、いつ終わるとも知れぬものだったにちがいない。
では、なぜ、そんなかくも手ごわい病魔がある日、突然に消滅したのか。これこそ、ドストエフスキー最大の謎と言えるだろう。と同時にこれは、依存症に苦しむ世界の多くの患者にとって、是非に知りたいところでもある。
奇跡が起った記念すべき日のことを文豪はアンナ夫人へこう書いている。
「信じてほしい!じつは私の身に重大なことが起きたのだ。過去十年間にわたってわたしを苦しみつづけてきた、あのいまいましい賭博熱が、いまここにいたって消え果てたのだ。(一八七一年四月二十八日 書簡)」。
 だが、夫人は冷ややかだった。すぐには信じなかった。
「もちろんわたしは、夫のルーレット遊びの熱がさめるというような大きな幸福を、すぐに信じるわけにはいかなかった。どれほど彼は、もうけっして遊ばないと約束したことだろう。それでもその言葉が守れたためしはなかったのだ。(『回想のドストエフスキー』)」
しかし、この約束は真実だった。夫人はつづけてこう証言する。
 その後夫は、何度も外国に出かけたが、もはやけっして賭博の町に足を踏みいれようとはしなかった。……行こうにも遠すぎたのかもしれないが、それよりも、もう遊びに魅力を感
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じなくなったのだ。ルーレットで勝とうという夫のこの「幻想」は、魔力か病気のようなものだったが、突然、そして永久に治ってしまった。
 突然に雲散霧消した文豪のギャンブル熱。依存という魔力からの脱出。この奇跡こそ、ドストエフスキーが全人類救済の旗手たらん所以である。文豪は、なぜギャンブル依存のアリ地獄から抜け出ることができたのか。このことについて、文豪は何も語っていない。当時の書簡からも、妻アンナの日記にも、友人たちが残している記述にも、何ひとつその謎を解く手がかりは残されていない。『ドストエフスキー伝』の著者アンリ・トロワイヤは、この謎を、この夜、文豪がロシア教会とユダヤ教会を間違えたことからと推理している。
 これはわたし個人の見解だが、……ドストエフスキーのような病的なまでに神経質な、迷信深い人間にとって、それはどんな迷いからも一気に目をさまさせるに足りるものだったにちがいない。
(アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー』村上香佳子訳)
 不可解なこと、謎解けぬことを、最後にキリスト教に結びつけてしまうのには抵抗がある。この論理でいくと、依存症の治療は患者の信心深さの度合いによって治癒することができる、ということになってしまう。私は、この謎についてのアンナ夫人のこんな述懐が気になっている。
 ほんとうのことだが、わたしは、夫が負けてきたことを決してとがめなかったし、このことについて夫と言い争ったりもしなかった。
(『回想のドストエフスキー』)
 連日の賭博場通い。にもかかわらずこの夫婦には修羅場がなかった。夫人は、止めてくれることを願いながらもひたすら暖かく観察しつづけた。そればかりか、ルーレット遊びの経験から、夫はきっと、新しく激しい経験をして、冒険と賭博への情熱を満足させると、平静になって戻ってくるにちがいない、と励まし期待もしてもいる。ここから想像できるのは、こんな結論である。
文豪を常に自己嫌悪に貶め苦しめていたギャンブル依存。この怪物を葬り去ったのは、医学でも説得でも祈祷でもない。ただアンナ夫人の春の陽ざしのような見守りと根気ある観察にあった。魔物は、それに弱かった。突飛だが、私には、そう思えてならない。
 この拙稿を書いている最中にも、母親からパチンコ遊びを注意され、かなづちで殴り殺した大学生、父親に反抗して家族を焼死させた高校生など、依存という魔力が引き起こしたような事件が相次いで報じられた。もし容疑者たちにアンナ夫人のような愛情ある見守りと観察があったなら事件は起きなかった。私はそう固く信じてやまない。昨今続発する親殺しや、今年上半期を騒がせた秋田の連続幼児殺人事件にも同じ思いが重なる。
 最後になるが、なぜドストエフスキーが奇跡について何も語らないのか、という大きな謎について触れよう。
『作家の日記』という社会評論を続けた文豪が、こんな重大事についてまったく何も語らない。いったいそんなことがあり得るだろうか。
 結論から言ってしまえば、彼は語っていないように見えて、そのじつはすべてを大いに語っているのである。奇跡を自分のライフワークのモチーフとして、密かに温め、そうして、晩年、人類救済の最終章の作品として書き残した。
そう、それこそが、世界文学史上に燦然と輝く『カラマーゾフの兄弟』なのだ。この作品は、ギャンブル依存症脱出の謎について語った全人類へのメッセージである。少なくとも私はそう信じている。
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 人間を救うのは、神でも思想でも主義でもない。「かわいそうだと思う心」、これなのだ。そして、アンナ夫人の愛情ある観察眼は、最後の作品の主人公アリョーシャ・カラマーゾフの共感あふれる心に具現化される。
思えば、現代ほど、依存という魔力が横行している時代はない。家庭でも、社会でも依存の嵐が吹き荒れている。新世紀の世界もまた民族、宗教、差別という依存にとりつかれて混沌としている。全人類救済への道標はどこにあるのか。ドストエフスキーとギャンブルの関係を考えること。そこには、答えへと続く一歩が、確かに見つけられるのである。
別冊国文学No.61 学燈社 
『ギャンブル 破滅と栄光の快楽』
☆ 憲法改正問題について (現行憲法、特に九条を再読してみる)
 憲法をどうするのか。米軍基地と同じように日本の最重要課題です。下記は、注目されている現行憲法九条です。この問題を、私たちはどうしたらよいか。ゼミのなかでも考えていけたらと思っています。
前文について
【現行憲法】
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれら子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われわれはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであ
って、政治道徳の法則は、、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
現憲法の第二章【戦争の放棄】
 
第九条 ① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、武力によ
       る威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを
       放棄する。
     ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国
       の交戦権は、これを認めない。
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顕義(あきよし)伝
 最後になりますが、皆さんの学舎であり、目標に向かって育つ土壌でもある母校、日本大学の誕生について簡単に紹介します。
 現在、NHK大河ドラマで「龍馬伝」をやっています。(あまり面白くはありませんが)毎回、騒々しいのはまさに幕末青春グラフティーか。ここに紹介するのは、この同じ時代を彼らとともに熱く駆け抜けた、一人の柳生新陰流剣士の49年の短い生涯の略歴です。
 彼は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、ときどき「塾生の」何々という程度にしか登場しません。端役の端役。たとえば、彼は「維新のみなもとは、じつにこのときからはじまる」と書いたように・・・とかです。しかし、幕末の混乱、維新の混迷をみたとき、彼の隠れた活躍がなければ近代日本の基礎は築けなかった、そう云っても過言ではありません。
 この人物、山田顕義(幼名・市之允いちのじょう)は、幕末・維新という嵐の時代をどのように生き、近代国家に生まれ変わる日本の国政で、どのような役割りをはたしたか。
 その人物が、どんな人間かを知るには、履歴が第一である。伝記などは筆者の思い込みが入るため偏りや独善的である。と、いうことで以下、略歴の抜粋である。
(HP・山田顕義、古川薫著『剣と法典』文藝春秋から)
1844年 山田市之允(やまだいちのじょう)長州藩(山口県萩市)に生まれる。
1853年 6月ペリー来航
1854年 1月ペリー再来日 ミシシッピー号、レキシントン号など7隻 日米和親条約
     吉田松陰、黒船密航に失敗。 
1857年 安政4年 吉田寅次郎(松蔭)の松下村塾に入塾。14歳。11月看板。
    ※松下村塾の塾生は、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、山県有朋らがいた。
    最近のニュースで、坂本竜馬が久坂の手紙を土佐(武市半平太)に持って帰ったと
    の記事。最近、発見された。
1858年 安政5年、12月26日、松陰に野山獄入りが命じられる。安政の大獄。
    別れに際して松陰は、15歳の市之允に漢詩を書いた扇を渡す。松下村塾消滅。
立志尚特異   立志は特異を尚ぶ。
            俗流与議難   俗流は与に議し難し。
            不顧身後業   身後の業を顧はず。
            且倫目前安   且つ目前の安きを倫(ぬす)む。
            百年一瞬耳   百年は一瞬のみ。
            君子勿素餐   君子素餐する勿れ。
               素餐=そさん(禄盗人になるな)
    日米修好通商条約締結=地位協定、関税などの不平等条約
1859年 10月27日 吉田松陰斬首。30歳
    遺訓「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
遺書・八章「今日、死を決するの安心は、四時の循環において得る所あり…僕は30歳、四季はすでに備わっている。花も咲き、30歳の実も結んだ。ただ、その実が単なるモミガラなのか、粟粒であるかは、僕の知るところではない。同志の君たちの中に、このささやかな真心を憐れみ、この志を継いでやろうという人がいるなら、それはのちに蒔かれる種子が絶えないで、穀物の収穫がつづけられて行くことになるのだ。同志よ、どうか僕の言わんとするところを考えてほしい」
 五千字に及ぶ師の遺書を読みながら17歳の山田市之允は、誓う。将来、必ずや恩師の志を遂げんと。外は、晩秋の雨である。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・142―――――――― 20――――――――――――――――
17歳の山田市之允作「松陰先生墓下小祥祀(ぼかしょうしょうし)」
白日光り無く陰雲垂る。
感慨腹に満ちて泣き且つ悲しむ。
墓門の昼暗し松柏(しょうはく)の雨。
粛々涙に和して新碑(しんび)にそそぐ。
           先生は遠く東市の役に従う
           今日勿ち小祥の記。      小祥=1周忌
           鈍生碌々17年。
           学業未だ成らず身未だ死せず。
声は樹間に激す百尺の瀑。
風は深山に叫ぶ万節の竹。
万感山の如く涙河の如し。
寒風浙々(せつせつ)として落木を吹く。
                 冷雨は寂寞として日はまさに斜めならんとする。
                 満目の風物恨みを含むこと多く。
                 偶々英霊を拝して一語無し。
                 真のわが功業は遂に如何に。
1863年 下関にて攘夷。米商船を攻撃。市之允初陣。
1864年 蛤御門の変。参戦。久坂玄瑞死す。第一次長州征伐。長州降参。
    アメリカ、イギリス、フランス、オランダ四カ国連合艦隊長州攻撃。
    市之允、御盾隊として奮戦も敗戦。高杉晋作の決起に参加。
1865年 慶應元年、長州藩の兵学寮に入る。教授の大村益次郎とはじめて会う。
    大村益次郎は、官軍の総大将。このときの二人の会話はこのようなものだった。
山田「私は松陰先生の兵学門下の末席に名をつらね、遺志を継ごうとしちょります」
大村「そうですか、松陰先生の門下がおられるのは心強い。あなた方はこれからです。しっ
   かり勉強してください」
 後に「用兵の奇才」とうたわれた山田顕義だが、大村と会ったこの日が、指揮官としての出発のときであった。
1866年 慶應2年、第二次長州征伐。小型砲艦の砲艦長として活躍。
1867年 慶應3年、高杉晋作が死んだ。六十余州を揺り動かした風雲児だけに皆は後任を
    心配した。高杉は、病床でこう告げたといわれる。「大村益次郎に頼め。その次は、
    山田市之允だ」市之允24歳であった。 
1868年 慶應4年、新政府討幕軍の参謀として官軍を率いて鳥羽・伏見。東北各藩、函館
    戦争を勝利に導く。長岡、会津、五稜郭。いずれも困難な戦だったが、「用兵の奇
    才」ぶりを十分に発揮した。
1872年 1月欧米視察団でアメリカ、ヨーロッパへ。吉田松陰の密航失敗から17年後。
    旅行中は、木戸孝允(桂小五郎)と同行。2月パリへ。ワーテルロー見学。
1873年 6月帰国。1年8ヶ月の旅。    
1877年 西南戦争に鎮圧出征。活躍して終結させる。
1885年 第一次伊藤博文内閣で初代司法大臣に。
1890年 日本大学の前身・日本法律学校を創設。
1891年 大津事件(ニコライ皇太子傷害事件)の責任をとって司法大臣を辞任。
―――――――――――――――――― 21 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.142
1892年 11月、兵庫県にある生駒銀山視察中に不審死。49歳。
1988年 12月20日、日本大学による墓地発掘。調査によると
    「頭蓋骨の形状などから、突き落とされたのではないか」との見解。
日本法律学校(日本大学)開校式模様
 明治23年(1890)9月21日東京飯田町にある皇典講究所で、ある法律学校の開校式が行われた。時の内閣総理大臣山県有朋をはじめとする政界有力者150人、学生200人設置した日本法律学校の開校式で初代司法大臣で本校の学祖・山田顕義は、恩師吉田松陰の意を継ぐ決心で
「営利的の学校とならずして、真に国家の為に尽くす学校たらんことを希望する」
と、挨拶した。
 まさに山田顕義を学祖とする「松陰の大学」後の日本大学が生まれた瞬間だった。
1.吉田松陰・松下村塾
2.松下村塾の兄弟子たち 久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔、山県有朋たち
3.鳥羽・伏見、戊辰戦争。大村益次郎
4.明治・新政府、米国・欧州視察(ワーテルロー見学)
5.大津事件
 
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・142―――――――― 22――――――――――――――――
連載
土壌館・実践的投稿術 No.10
 文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。
 もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。
 土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞「声」欄に投稿をつづけています。なぜ「声」欄かというと、500字という字数は、人が飽きなく読む字数であるということと、文体を簡潔にできるからである。
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◆ 2010年(平成22年)3月 1日投稿    「没」でした
普天間移設は日本人全員の問題 
 現在、日本が抱える最重要課題は、沖縄米軍基地問題である。にもかかわらず先日、開かれた政府・与党の検討委員会では、またもや先送りになった。あきれるばかりだ。が、一概に政府・与党ばかりを責められない。具体案が決まらない背景に候補地の地元自治体の強い反発があるようだ。自分の所に移設されるのは、専ら御免。もっともだが、なんと利己主義で自分勝手かと思う。米軍基地問題は、一人政府・与党だけの問題でも、一県沖縄に押し付けて知らん振りを決め込んでいられる問題でもない。日本人全員が考えなければならない問題なのだ。現時点の国際情勢を鑑みて、米軍基地は日本にとって必要か否か。もし、水や空気のように必要不可欠なものだったら、与党も野党もない、全都道府県一丸となって考えねばならない。だというのに候補地の軒並み反発は無責任すぎる。加えて、先頃の井戸端党首討論は、あまりにも能天気すぎる。野党党首からは何の案もなかった。
 普天間移設について、国外をあげる意見もあるが恥ずかしい話だ。品格どころの話ではない。米軍にしても、有事になっても士気はあがらないだろう。
 いま地方空港は大赤字で閉鎖に追い込まれている。ならばそれらの各空港を岩国のように基地と併用したらどうだろうか。英語が話せるようになるため、一市民から政治家の子弟までこぞって留学する今日である。基地をプラスとして町おこし村おこしに繋げる。反対、反発ばかりでは希望はない。他者に押し付けたり、逃げるのではなく、すべての都道府県が手をあげてこそ問題解決への道が開けるのでは。
 悪イメージの米軍基地をどうしたら好ましい米軍基地像にできるか。基地諸条件を、どう改良整備できるか。いま日本が真に取り組むべき問題はそれである。
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投稿術バックナンバー
No.1 「医師への金品 規制できぬか」   1994・2・2   朝日新聞「声」欄
No.2 「カラー柔道着 いいじゃないか」  1994・5・17  朝日新聞「声」欄
No.3  「立会人が見た 活気ある投票所」 2009・9・2   朝日新聞「声」欄
No.4 「勧誘の仕方 改められぬか」   1994・10・15 朝日新聞「声」欄
No.5 「団地建替え 住めぬ人びと」    1995・9・24 朝日新聞「声」欄
No.6 「地域に必要な 子供たちの場」   1996・11・5   朝日新聞「声」欄
No.7 「燃える家々に 戦争を実感」MoMo 1999・4・3   朝日新聞「声」欄
No.8 「嘉納」の理念 世界に発信を   2009・3・10   朝日新聞「声」欄
No.9 「50歳の1年生 師の撮影行脚」  1996・9・16   朝日新聞『声」欄
No.10 「教師の創意で 生徒に楽しさ」 1995・3・15   朝日新聞「声」欄
―――――――――――――――――― 23――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.142
 1. 土壌館について
 土壌館の土壌は、作物(人)を育てる土壌の意と、ドストエフスキーの土壌主義(相反するものの折衷)がからとった名称。
 下原敏彦:1947年、長野県生まれ、海外技術協力隊を目標に農獣医学部拓植学科(現・国際地域開発学科)に入学。主に農場・酪農実習。日大闘争時は、カンボジアに。クーデター後、退学。ルポライター修業で業界紙記者、建設作業員などを経て土壌館下原道場開設。柔道教室を開きながら柔道の創始者・嘉納治五郎について調べている。他につづけているものは、読書と書くこと。読書の基盤は、ロシアの文豪ドストエフスキーで、この作家の全作品を読む会「読書会」(東京芸術劇場小会議室で隔月)を主催している。30数年間。書くことは、お知らせとして「読書会通信」を発行している。この「ゼミ通信」もその一環。現在、読書会開催238回、通信発行119号。ちなみにこんどの読書会開催日は、6月12日土曜日午後2時から。一般市民対象、参加者20名前後の老若男女。中高年者が多い。
【当時のカンボジアについて】
1968年 プノンペン シアヌーク王政時代。独裁社会主義国家という不可思議な国政。
1970年 ロンノル将軍クーデター。民主クメール共和国という軍事政権。
    米軍カンボジア領内への爆撃開始、ゲリラ・クメールルージュの活動が活発になる。
    日本政府は、米国傀儡のロンノル政権支援。
1975年 4月ポルポト軍プノンペン占拠。ジェノサイド(大虐殺はじまる)100~200万人。
    驚くべきことに日本政府は、恐怖政治のポルポトと親交。
    この頃のことは映画「キリングフィールド」によく描かれている。
1978年 ベトナム侵攻で、ポルポト政権崩壊、その後、1991年まで内紛。
【柔道について】
 大学時代からはじめて現在もつづけている。つづけている理由は、競技としての柔道より、創始者嘉納治五郎の理念に共鳴するからである。以下の二つの理念がある。
「精力善用」力はよいことに使う。
「自他共栄」自分だけがよくなるのではなく、皆がよくなるようにする。 
 つぎの投稿記事は、昨年3月、嘉納家が柔道界から退いたニュースを知って朝日新聞に寄せたものである。(2009・3・10 朝日新聞)
「嘉納」の理念 世界に発信を
 柔道の総本山である講道館第4代館長の嘉納行光氏が今月で勇退するという。127年間にわたり柔道の象徴として親しまれてきた「嘉納」の名が柔道界から消えることになる。時の流れとはいえ創始者嘉納治五郎を敬愛する者にとっては、一抹の寂しさがある。
 私は柔道を始めて44年、町道場で地域の子どもたちに柔道を教えて20年になる。経済的、時間的にも困難があるが、今も10人の子どもたちがいるから、と続けている。その理由は、ひとえに嘉納治五郎の理念「自他共栄」「精力善用」に魅せられたからだった。教育者として、コスモポリタンとして世界平和に奔走したことを尊敬するからである。
 現在、世界柔道人口は1千万人という。嘉納家は使命を立派に果たしたと思う。その功績をたたえたい。一方、嘉納治五郎が真に目指したのは人類の平和と幸福である。混迷する今日、その崇高な理念を改めて世界に発信したいと考える。
 嘉納治五郎は、近代スポーツを普及させながらも空手、合気道など日本古来の武道の擁護に力を注ぐ一方、だれでもが学校に行けるように義務教育制度確立に尽力しながら、小泉八雲、夏目漱石、魯迅ら文学者を育てた。学校を退官してからは国際人として、アジア初のオリンピック委員として、世界平和に奔走した。ロシアのプーチン首相は、いまも嘉納治五郎
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・142―――――――― 24――――――――――――――――
下原ゼミⅡゼミ雑誌紹介(2004年~)
2004年『背中に人生を』飯塚、蛯沢、小倉、小山田、金牧、木佐貫、木村、坂江、寺嶋、
    友枝、林、御橋、若宮
2005年『柔』中谷英里・田中大喜・林正人・関秀樹・小河原佑平・平岩理史・林絵美
    ・中村健人・大島直文・津田優也・畑茉林
2006年『サンサシオン』大江彩乃・中川めぐみ・猿渡公一・高嶋翔・鈴木秀和・神田奈都
    子・佐藤翔星
2007年『COCO電』高橋享平・疋田祥子・茂木愛由未・金野幸裕・山根裕作(文芸賞)
2008年『ドレミファそらシド』川端里佳・大野菜摘・刀祢平和也・瀧澤亮佑・野島龍
    ・本名友子・秋山有香・大谷理恵・坂本義明・飯島優季・長沼知子・橋本祥大
    ・田山千夏子・臼杵友之・小黒貴之(金玉賞)
2009年『下原先生と ちょつと不愉快な仲間たち』
     河西杏子、清水理絵、塩崎真佑、白川達矢、永井志穂、内田すみれ
新刊 椋鳩十記念・第8回伊那谷童話大賞特別賞受賞作品 2002・11・17
         やまなみ
下原敏彦著『山脈はるかに』D文学会 2010・2・22
 昭和28年、高校を出たばかりの谷蕗子は、山村の小学校に代用教員として赴任した。30名の新一年生の担任だった。彼女を待っていたのは悪童たち。女性教師の悪戦苦闘の物語。
 8年の沈黙を破って、いま刊行!感動の学校小説。
東京プライムエージェンシー出版 2010・2・22
28会&下原編集『還暦になった一年生』
 岩波写真文庫『一年生 -ある小学教師の記録-』(1955)、写真集『五十歳になった一年生』(1998)、NHKドキュメンタリー『教え子たちの歳月』(1996)の一年生が還暦を過ぎた。撮影した先生は100歳。いまも健在で写真を撮り続けている。
旧刊 中学、公立高校入試出題作品『伊那谷少年記』(鳥影社)
点字図書作品『ドストエフスキーを読みながら』
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編集室便り
☆ 原稿、歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
□ゼミの評価基準は可(60~100)とします。評価方法は、次の通りです。
  課題の提出原稿数+出席日数+α=評価(60~100)
新連載 小説日本大学外聞 この物語は、すべてフィクションです。
 先日聞いた話だが日本大学を卒業していくある学部の学生に「日大生でよかったか」とのアンケートをとったところ、なんと大半の学生が「よくなかった」と答えたという。
 1960年代、日本大学は暗黒時代だった。高度成長化の波のなかで、日大の名は地に落ち泥にまみれた。幕末の志士、明治国家の立役者、そして日本大学の学祖・山田顕義が吉田松陰の意志を継ぐために創った「松蔭の大学」は、文字通り草莽となっていた。10万日大生は踏みしだかれ、地を這った。だが、そんな時代でもまさに「滅びざらまし」の魂はあった。あの六十余州を揺り動かした松下村塾の若者たちのように、日本大学に矜持をもった熱い青春群像があった。いまそれを伝えたい。
青春水滸伝
 余談になるが、世に知られる日大闘争は、その憤怒の爆発である。起るべきして起きた一揆である。この決起に日大出身の識者有志(池田みち子、宇野重吉、佐古純一郎、埴谷雄高、後藤和子ら9名)は、支援の声明を発表した。「日本大学のこれまでの恥辱の歴史にたちあがった怒りの炎を、君らの胸にもやしつづけろ」(『朝日ジャーナル』1968・6・30号)と。
 「一、大学は学問追究の場として、学生の、表現・出版・集会の自由を認めよ」など四つの声明文がそれである。日大闘争の発端は、当時の金額で34億円といわれる使途不明金の発覚にある。が、学生一揆に至るまでの要因は、この問題だけではなかった。大学をマンモス化し、学生を商品のごとく扱ってきた故である。世間は日大生を草莽のごとく踏みにじり見下した。日本国の名を掲げているにも拘らず、日大の名は失笑された。
 日本大学を、かくのごとき事態に貶めたのは、誰か。一人学校当局にあらず。真の犯人は時の為政者と政府、そして歴史のなかにある。日本大学とは何か。
 が列席した。この日本法律学校の趣旨は、東京大学で法制史や国法学の教授が協力した。
一、われ等は日本人である。われ等民族は
 
 日本の国家名を冠とした学府が、いかに凋落の道を辿ったか。

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