文芸研究Ⅱ  下原ゼミ通信 No.143

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2010年(平成22年)4月26日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.143
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦

                              
前期4/19 4/26 5/10 5/17 5/24 5/31 6/7 6/14 6/21 6/28 7/5 
  
2010年、読書と創作の旅
前期の旅は、観察(車中と自己) & 名作読み・発表・表現
4・26 ゼミ
4月26日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1.「2010年読書と創作の旅」出立を前に(同行者自己紹介など) 
  2.課題作品読み(解答) テレビ番組制作協力作品紹介
  3. テキスト読み(車中作品、見本)名作読み。(サローヤンの短編)
      
4・19ゼミ、ガイダンス観察、感想
18名の見学者で盛会、1名立ち見も!
 いつのときも新学期のはじまりは、希望と不安が入り混じる。今年は、どんな学生と出会えるだろうか。毎年楽しみである。が、その前にガイダンスの入りも気にかかる。噂では、見学者が30名を越す大盛況のゼミもあったという。が、うちはたいてい閑古鳥の巣となっている。なにしろ月曜の5時限目である。休み明けの夕暮れ時とくれば、家が恋しくなる時間帯、とても勉強する気にならない。それも人情というものである。
 ところが、教室に入って驚いた。椅子が全部埋まっていた。それどころか遅れて一人入ってきたので、その女学生は立ち見となってしまった。が、実際に登録する勇者は、何人か・・・(毎年、嘉納治五郎の青年訓読みがハードルとなっているようだ)
簡単過ぎたゼミ 質疑1名1問

 実を言うと、これまでガイダンスでは、あまり授業説明してこなかった。そんな気がする。どうせ授業がはじまればわかることだ。そう高を括っていた感もある。が、今年は怠けないでやってみよう。そんな殊勝心を起こしてやってはみたが、見学者の反応はイマイチだった。
質問者は、男子学生の「課題の量と強制の有無について」この1問だけだった。

嘉納治五郎、山田顕義の知名度、薄氷

 柔道の創始者である嘉納治五郎を知る人は1名だった。もっとも柔道界でも知らない人が多い。日本大学の学祖・山田顕義も、あまり知られていないようだ。松下村塾最後の塾生で明治まで生き抜き、近代日本のために尽力した数少ない幕末の志士だが。

速報!!4月25日現在、希望登録者4名
4月25日までに、登録した人は4名ということです。今年は少数精鋭でいけそうです。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.143
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車窓雑記       最近のニュースから    
          
児童虐待の謎
       

 このところ毎日のように、児童虐待のニュース記事が新聞に載っている。いたいけな子どもをイジメ尽くして殺す。それも自分の子どもを。義理の夫や妻にと云う場合もあるが、虐待の大半の加害者は実母か実父だという。なぜわが子を・・・大きな謎である。
 いつも児童虐待のニュースを知ったとき、最初に思うのは、両親への怒りである。いったいどんな親か。鬼子母神でさえ、涙するというのに。親への非難感情が先走る。
 が、児童虐待の根は、精神医学的には相当深いところにあるようだ。表層だけでは解明できない謎があるらしい。その謎を解かない限り、刑事事件として法律だけで、その罪を罰してもこの悲しむべき忌むべき事件をなくすことはできない。毎日の記事が証明している。
 それにしても、親がわが子を、それも年端もいかぬ幼子をイジメ殺す。ライオンは、雄が代わると、そのオスは前のオスの子どもは皆、かみ殺すそうだ。が、これは生存本能からくるもので人間のイジメ殺しとは違うようだ。わが子をイジメ殺すのは、おそらく人間だけの所業ではないかと思う。
 以下、最近新聞報道された主な虐待事件(年齢はいずれも当時のもの)である。

【2010年3月】
・奈良県桜井市で、両親が5歳の長男に食事を与えず餓死させる。
・埼玉県蕨市で、両親が4歳の次男の育児を放棄。餓死する。
・大阪府堺市で生後2ヶ月の長女を母親(24)が揺さぶりで殺害。
・大阪府門真市で同居男性(19)が、女性の2歳連子を暴行死させる。
【4月】
・大阪府寝屋川市で、1歳10ヶ月の三女を揺さぶりで死なす。
・福岡市で母親(27)が3歳の次女をテーブルから突き落とした。
・大阪府大東市で、21歳の父親が0歳児に暴行。重傷を負わせる。
・大阪府堺市、同居男(23)が、1歳半の連れ子を虐待死させる。
観察力と忍耐力の日常化が必要

 いまこの瞬間にも、どこかで起きている幼児虐待。どうすれば可哀そうな子どもたちを救えるのか。手段として関係者の早期通報や親の説得があげられている。が、事件はつづく。
 周囲の観察、両親への指導。それらは必要だが、もっと根本的なことがある。根本的とは何か。忍耐力というか気長さをつける訓練である。いまの世の中、すべてがスピーディーに動いている。なんでもがより速くである。速読はむろん野菜づくりは、温度調整で。家畜は餌付けで、バイオで、といったようにである。しかし、人間の子育てだけは、どうしても育児速度をあげることはできない。半年過ぎなければハイハイしないし、1年半を過ぎなければオムツもとれない。それでも、大抵の親は「早く、早く!」と急きたてるばかりだ。
 私は、このところ故あって0歳児の孫を子守りするようになった。親のときは、夢中でわからなかったが、赤ん坊の子守りは、相当の忍耐力が必要とわかった。昔のゆっくりした時間のなかでだったら自然に身についていたが、スピードの現代で育った今の親には、それがない。「泣き止まないから」「言うことをきかないから」「なんどもそそうをするから」わが子を殺した親たちの動機である。教育は時間がかかるが、育児は、それ以上に時間がかかるのだ。そのことを認識し日常化しない限り、児童虐待は、なくならない。

最近の大学生関心ニュース(駒沢大学)BSテレビ
 
1位、イルカ保護問題(ブラジル)
2位以下、ガン子供有給休暇(フランス)、が海賊に24人人質(ソマリア)、メコン河口会議など。
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4・26ゼミプログラム
 
 今日のゼミは、以下の手順で授業をすすめます。旅立ち準備。
【2010年、読書と創作の旅】同行者の動機と自己PR(順不動)
この一年、共に旅する仲間です。お互いのことをよく知り合いましょう。4月25日までに退出された「ゼミ希望カード」からの紹介です。
・阿井 大和(あい やまと)95A-111-2
動機:「読書するのは好きであったが、読書自体について深く考えるということなかったので、これを機会として見つめ直してみたいと思った。読書をし、そして書くという習慣化をしたいと思った。また、自分自身、柔道初段のため、嘉納治五郎が出てきて興味を持った」
PR:「現在、合気道をやっています。志賀直哉は、今まで読んだことがないですが、これを機に読んでみたいと思います。」
□好きこそ物の上手なり、といいますが、何事も、この一語に尽きます。それさえあればどんな困難も乗り越えられます。合気道も嘉納治五郎と深い関わりがあります。
・後藤 大喜(ごとう ひろき)95A-002-8
動機:「良い創作は、良い読書からということは前々から自分も思っていたことで、(ガイダンスに)共感しました。また車中小説という限られた空間での人間観察か描写に興味があります。」
PR:「去年は、ゼミ委員として、ゼミ合宿企画、ゼミ誌製作に積極的に参加しました。」
□ガイダンスで、きちんと授業説明できたかどうか不安でしたが、しっかり理解していてもらえたようで、うれしく思いました。ゼミ誌に昨年の経験を生かしてもらえれば楽しみです。
・藤重 はるか(ふじしげ はるか)95A-171-9
動機:「小説を作りたいなら、書くという実践も大切だが、小説を見る目も大切である。という考えに興味を覚えた。作者にも、的がしぼられているので、内容が明確化されそうだし、日常生活における時事問題も取り扱うという点が魅力だと思った。」
PR:「今年、映画学科から転科してきました。コースは、脚本だったので、作品を読む時、脚本の書き方、読み方、という視点から自分なりの考えを展開できたらと思います。」
□どんなに映像や演技者がよくても、脚本がだめだと目もあてられません。脚本は、時事、日常生活のように生ものと思っています。映画批評・感想も発表し書いていきましょう。
・伊藤 光英(いとう こうえい)95A-091-1
動機:「初めて小説を書いたとき、こんなものが書きたいと思い浮べていたのが『城の崎にて』でした。しかし、最近ではよく観察しょうという心構えが希薄になってしまっているように自分で感じます。よく観察する目を養うために、このゼミを希望します。」
PR:「真面目に出席します。」
□名探偵、名刑事は、徹底観察で、犯人の完全犯罪を打ち破ります。コロンボしかり、ホームズしかりです。『城の崎にて』が名作なのは小動物の命観察をしっかり書いているから。
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2010年読書と創作の旅
「自他共栄」「融和協調」「精力善用」この理念で
イ.登録者自己紹介 この1年間、一緒に旅する友です。楽しく有意義な旅にするには、
  自分のことをよく知ってもらう必要があります。(全員)
ロ.班長、副班長を決める。緊急時の連絡、ゼミ合宿まとめなど。(自薦・他薦・指名)
 
 班長 =          副班長 =
ハ.ゼミ誌編集委員を決める。(自薦・他薦・指名・先送り)
 
 編集長 =          副編集長 =        編集委員 = 全員
ニ.ゼミ合宿実施。(有無)
ホ. 書くこと(投書)のチカラ 録画観賞「おんぼろ道場再建」日本テレビ製作 
  2002年6月23日、30日、7月7日の3連続日曜日昼12時30分~59分迄放映。
  番組「パワーバンク」
 投書がきっかけで民放テレビのバラエティ番組の制作に協力することになった。8年も前なので、今とは、だいぶん違ってきていると思うが、経緯は、およそこのようであった。
私は、開いている柔道の町道場がオンボロになったので、朝日新聞にこんな投書をした。
土壌館・実践的投稿術No.11
・2002年(平成14年)5月8日、水曜日 朝日新聞朝刊掲載 
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子供が集う道場は 町の灯
 いつのまにか、道場で稽古する子どもたちが大勢になった。畳はボロボロ、トタン屋根は穴だらけ。雨が降っても風が吹いても心配なオンボロ道場だ。1年半前、道場の借地契約が切れた。「町道場の灯を消さないで」。子どもたちの熱い声に押されて、地主さんにお願いして道場は残った。息子が小1で入門し、それから十数年、高齢の道場主に代わって指導してきた。何度もやめようと思ったが、父親に反抗していたり、両親が不仲だったりと、家庭のいろんな事情を抱えながら通ってくる子どもたちをみていると、投げ出すわけにもいかなかった。運動ができる立派な建物は、どこの町にでもある。が、いま子供たちが必要としているのは、地域の中の運動の場である。先日も近くの商店街で働く若者が二人入門した。店を閉じた後、仕事着のまま駆けつけて汗を流している。
 土曜も休みになったことで、これからは子どもたちの入門も多くなるかも。続けられる限り道場を続けてみようと思った。
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 ゆとり教育がスタートした年だったことでか、マスメディアの目に止まった。
・5月20日 日本テレビから電話がきた。オンボロ道場を修理する番組をつくりたい。
       困っている人をボランティアの若者が手助けする、という番組らしい。
・6月 1日 日本テレビと協力して「オンボロ道場再建」に着手。
・6月16日 工事終了。
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旅立ち前に
【授業手順】
1.司会進行(指名)   指名 =
2.「ひがんさの山」読み&課題解答合わせ(前回配布の土壌館問題集、解答配布)
  ことし平成22年度は、『伊那谷少年記』東筑紫学園高等学校入試問題に出題。
3. 名作読み サローヤン短編(大恐慌時代の青春)
 アメリカ青春文学といえば、代表として今年1月27日91歳で亡くなったサリンジャー(1919-2010)の『ライ麦畑でつかまえて』(1951)をあげる人が多いと思う。が、サローヤンのこの短編も捨てがたい。『ライ麦』より知名度はないが、文学を目指す青年にとっては、『空中』の方がより私的衝撃が強いに違いない。ここにはトーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』にも通低するものがある。 
ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年
原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房
 1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。
 この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。
■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。
 作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。
「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など
作品は、次のようなものがある。
【ハヤカワNV文庫】に収録
『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。
【新潮文庫】サローヤン短編集
『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。
【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』
『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。
★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。
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車中観察の見本 次回ゼミから各自が書いた車中観察を発表
テキスト紹介 『夫婦』は車中での作者のするどい観察眼がよくあらわれた小作品である。夫婦でしかありえない行為と機微を見事にとらえている。乗客観察のお手本。
         夫 婦         志賀直哉
 函南(かんなみ)の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川(もんがわ)の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ(婆)-ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。
 家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。
 私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。
 その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。
 玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)
 日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。
(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)
この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。
※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であったと想像する。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように人間の本質をとらえ描いている。
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2010年、読書と創作の旅「明日の車窓」
5・10ゼミ予告 テキストと比較作品読み
 
 次回ゼミ、5月10日は、テキスト1として『網走まで』の読みと感想を行います。併せて比較作品として夏目漱石の『三四郎』もとりあげます。
 この作品『網走まで』は一見、なんでもないエッセイのような話です。が、この車中作品からも多くのことが読みとれます。よく観察ししながら読んでみましょう。
 作品コピーを配布します。いまから、ちょうど100年前に書かれた作品です。全集からのコピーなので、旧かな読み、使われていない漢字などがあります。国語の時間ではないので、わからないときは想像をめぐらせて解釈を試みてください。
志賀直哉年譜(『網走まで』迄)
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1886年(明治19)3歳 芝麻布の幼稚園に入園。父直温文部省七等属会計局勤務。
1889年(明治22)6歳 9月学習院初等科入学。
1893年(明治26)10歳 父直温、総武鉄道入社。
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 日露戦争、「菜の花」を書く。
1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
1907年(明治40)24歳 家の女中に恋する。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1908年(明治41)25歳 8月14日『小説網走まで』を書く。
            同人のすすめで帝国大学の【帝国文学】に投稿した。が、没。
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ニュース・話題 
4月9日 作家の井上ひさしさん死去 75歳

 井上ひさしさんは、小説だけでなく戯曲、エッセイ、「九条の会」での平和運動など多くのことに熱心に取り組み活躍した人である。「むずかしいことをやさしく」がこの人のモットーだったようだった。長い、暗い、重いと敬遠されるドストエフスキー文学も、よく読み解いてわかりやすい作品として生み出した。『罪と罰』を下地に書いた「合牢者」が、その一つです。が、なによりもドストエフスキー作品を想起するのは、この人形劇です。

ひょつこりひょうたん島の謎
 波をチャプチャプ チャプチャプチャプかきわけて(チャプチャプ)
 雲をスイスイ スイスイおいぬいて(スイスイスイ)
 ひょうたん島は どこへ行く
 ぼくらをのせて どこへゆく ぼくらをのせてどこへゆく
 1964年4月のある夕方のことでした。いきなりテレビから流れてきたこの音楽に高校生の私は思わず聞き入ってしまいました。この日から15分番組「ひょっこりひょうたん島」がはじまったのです。自分勝手でわがままで、それでいて憎めない大人たち。どうやったらあんなへんてこな人物たちを想像できるのか、ずっと謎でした。が、青春時代に読んだドストエフスキーの『スチェパンチコヴォ村とその住人』で謎が解けた気がしました。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.143 
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掲示板
課題 車中観察・日常観察して書いて提出してください。
・車中観察は、毎日乗る電車やバスの中で、見たこと考えたことを書く。
・日常観察は、自分の生活を書く。(見本、林芙美子『放浪記』など)
※作品は、授業内で発表批評できる範囲。ポイントは、短い枚数の観察で、どれだけの深み
 と情報を描きだせるか。
※メールで5月8日までに送信あれば、次号144号掲載可能。原稿の場合は郵送か
 5月10日に提出。通信掲載は145号になります。
 いずれも送信先は、下記、編集室宛。
テキスト観察作品 ゼミで読む主な車中外観察作品。
志賀直哉(1883-1973)の主な車中作品&車中関連作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4
 号にて発表。31歳。
○電車関連作品として『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻。34歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。
 以上の作品は、志賀直哉の主な車中・車外からの乗客観察である。『城の崎にて』は、心境小説ではあるが、電車にはねられての療養から車中作品の範ちゅうとした。『児を盗む話』は、犯罪者・誘拐犯の誘拐心理状態を克明に追っていることから、新聞の事件ものとして加えた。他に、裁判観察として『ハンの犯罪』もとりあげる。
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編集室便り
☆ 原稿、歓迎します。学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
□ゼミの評価基準は可(60~100)とします。評価方法は、次の通りです。
  課題の提出原稿数+出席日数+α=評価(60~100)
『網走まで』を読む
 
 小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。最近は、そうでもないようだが、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作『網走まで』は、一見、なんの変哲もない小説とも思えぬ作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいる。
 かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、あらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきた。そうして、川端康成が評した「源泉」の源とは、処女作『網走まで』にある。そのように思えてきたのである。
 そして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを畢竟、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いた。
 小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっている。
 1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。三年前、ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。
 しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石である。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない作品である。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」そんな感想も無理からぬことである。だがしかし、しっかり繰り返し読めば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちた思いがするに違いない。
 では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。乞うご期待。          
網走まで』を読む  二
 『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(一九一○)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、まずはじめに題名「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
 明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
 とにかく、どう読んでも網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。

 『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
 しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わった。完全なやくざ映画というわけである。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の強面が待つ敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
ドスを ドスを 片手になぐりこみ
どうせ おいらの行き先は 網走番外地
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところとだった。
 余談だが、1965年、昭和40年、今から42年前だが、筆者は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためであった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕事、途中で逃げ出す学生が多いから、覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)と住み込み三食つき500円につられた。(当時、バイト日給600~800円が相場)
 信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れはあった。が、遠い所だった。知っている地名は、札幌、函館、稚内、旭川ぐらいだったか。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名、駅名だった。地図でみると根釧原野のただなかにある。釧路から近いらしい、とわかったが、なにせ、地図のうえでは想像のしようがなかった。とにかく行けばわかるさ。大学一年18歳の夏、「計根別まで」が私のはじめての長旅となった。余談ついでに、当時を思い出した。
 7月の前期終了日、担当教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。計根別までが一番多く数名、あとは稚内や知らぬ土地だった。上野駅から夜行列車で出発する。夜のとばりがおりはじめた西郷像の下に多勢の学生が集合した。その面々、明治、拓大、農大などなどいろんな大学の学生がいた。が、やはり単位修得込みの私の学部の学生が多かった。
 皆、学生服に靴か高下駄。学帽もかぶっていた。肩には大きな信玄袋。中には作業服と下着。筆記道具とノート。それだけだった。このころアイビースタイルが流行っていたが、北海道でバイトしようという学生は、なぜか学ラン組が多かった。
『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)
 明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。
 「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
    
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土壌館・実践的投稿術 No.10
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 余談になるが、世に知られる日大闘争は、その憤怒の爆発である。起るべきして起きた一揆である。この決起に日大出身の識者有志(池田みち子、宇野重吉、佐古純一郎、埴谷雄高、後藤和子ら9名)は、支援の声明を発表した。「日本大学のこれまでの恥辱の歴史にたちあがった怒りの炎を、君らの胸にもやしつづけろ」(『朝日ジャーナル』1968・6・30号)と。
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一、われ等は日本人である。われ等民族は
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