文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.144

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2010年(平成22年)5月10日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.144
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
前期4/19 4/26 5/10 5/17 5/24 5/31 6/7 6/14 6/21 6/28 7/12 
  
2010年、読書と創作の旅
前期の旅は、観察(車中と日常) & 名作読み・発表・表現
5・10ゼミ
5月10日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1.「2010年読書と創作の旅」車窓・「米軍基地問題」について 
  2.名作「空中ぶらんこに乗った大胆な青年」読みと感想
  3. テキスト読み(車中作品「網走まで」、見本作品)・感想 比較『三四郎』
      
4・26ゼミ、観察
8名の登録者、正副班長、ゼミ誌担当者即決
 提出された希望カードは4月21日時点4名だった。26日、最終希望者は何人か・・・あれこれ思い巡らしての車中だった。航空公園駅下の書店に寄る。新刊『山脈はるかに』の店頭置き依頼。ゼミ参加者4名増加で8名。旅するには、最適人数。正副班長・ゼミ誌正副編集長は、ほぼ自発的に決定。幸先よい旅立ちとなった。
 月日は百代の過客…2010年の旅の無事と目標成就を祈願して記念撮影。同行者全員


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.144 ―――――――― 2 ―――――――――――――
車窓雑記       初心忘るべからず    
          文芸学科と一般読書家との違い   
 最初の授業は、いきなり中編の作品を読んでもらった。初っ端、中・高の入試問題にはなっているが、名作でもテキストでもない個人的作品の読み。戸惑った人も多かったと思います。おそらく、いまどきの子供は、誰も体験しないような、10年を一昔とすれば十昔前の自伝話である。とりあげたのは、以下の二つの理由から。
 一つは、自己紹介の一環として。ゼミ初日、初対面の人もいたので、8名の参加者全員に自己紹介をしてもらった。愛読書、将来の夢、前ゼミ、動機、意欲など。それぞれの個性がみられました。この一年、どんなふうに成長させるのか楽しみです。
 さて講師の紹介ですが、還暦を過ぎてしまった人生。60余年の歳月ですが、どの年代もパッとしません。特急で履歴を追えば地元大の教育学部受験失敗のあと海外技術協力隊員を目指して日大に入るも退学。文学を志すも、いまだ途上にての未完人生である。現在、形あるものといえば道場ぐらいか。で、テレビの道場再建ビデオを見てもらうことにした。が、なにせ8年前の話。昔の週刊誌を読むようなもので現実味がない。ビデオの操作も忘れてしまったので中断。自分が何者か。知ってもらうには、やはり子供時代の話しかない。そんな気がして『ひがんさの山』を読んでもらうことにした。
 戦後すぐの信州の山奥の村。電化製品は電球とラジオしかなかった時代。そのころの出来事で雪が降ったりすると、よく思い出すのは、部落の大人たちと、うさぎ狩りにいったことである。子供にとって遊びは、人生のスタート。いまは、いろんな遊びがあります。が、最初の遊びは、忘れがたいものです。名作映画『市民ケーン』もそれがポイントとなっています。大富豪で新聞王、この世の欲しいもの全てを手に入れた彼が臨終においつぶやいた言葉「バラのつぼみ」、それは何か。
 二つには、こちらの理由が本来の目的ですが、あえて、短編でなく中編を、それも、自分たちの知らない話を(うさぎ追いを体験した人はいないとみて)読んでもらったのは、興味ない、退屈な作品を耐えながら読む。それを実感してもらうためでした。大学で文芸を学ぶということは、恣意的に読書するのとは違います。文芸学科は、読んで書いてナンボの世界を学ぶことにあります。それ故に俎上されたものは完読し批評する。それが要求されます。全員の読みをみて「意志あれば道あり」を感じ安堵しました。
 読むことは、文芸研究の根幹です。初心を忘れず、この1年を旅しましょう。八剣士の皆さんのためにより有意義な旅とならんことを祈ります。
 ※「ひがんさの山」は、私が25、6歳のときの作品です。ある出版社に持ち込んだのですが、多分、体のよい断りだったのか。「簡潔な文体はいいのですが、もう少し直して持ってきてください」と指導された。親切だったが、かえってどうでもいいように思えて、なにか面倒になってしまいそのまま押入れの奥にしまいこんだ。そのころ、近くに住んでいたある作家と深夜の街を徘徊していた。彼は、「これはいいよ」と励ましてくれたが、彼自身、壁に突き当っていた。賞金も使い果たし、また同居の女性にも逃げられていて、それどころではなかった。で、「ひがんさ」作品は、そのまま化石となった。
 10年の後、ファミコンで遊ぶわが子を見て、子供時代が懐かしくなった。探し出し書き直したが、もはや陳腐なものに思え再び押入れに。10年の後、田舎の新聞社が郷土文学作品を募集しているのを知った。思い出し応募した。今度は採用された。が、話題にはならなかった。2004年、それまで書いたいくつかの短編とまとめて『伊那谷少年記』として出版した。子供時代の思い出を残したかったからである。
 20年近く日陰にあった作品群だが、本になったら皮肉なことに光が当たりはじめた。埼玉県はじめ大阪府などの公立高校入試問題作品として採用された。四谷・大塚はじめ進研ゼミ、旺文社、ベネッセなどの「過去問研究」に収録されはじめた。2010年の今年度も東筑紫学園高等学校が入試問題として採用している。
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「2010年、読書と創作の旅」同行者紹介
 この一年2010年の時空を旅する8名の皆さんです。仲良く楽しく逞しく!(4/26現在)
4月26日ゼミで、以下、8名全員の自己紹介がありました。
・立川 陸生(たちかわ りくお)95A-014-4
動機:「二人での話や車内など、そうした狭い空間での話に興味があるので」
PR:「一年次は佐藤ゼミで、わりと自由に書いていたので、どちらかといえば自由に書くのが好きですが、ジャンルを固定した作品も書いてみたいので」
□第一印象は、当てにはなりませんが、そうでないときもしばしばです。たまたま近くにいたそれもありますが、瞬間なんとなくみんなをまとめてくれる。そんな雰囲気を感じたので班長に指名しました。よろしくお願いします。
・重野 武尊(しげの たける)95A-072-7
動機:「自分の中で、よいゼミができるような気がしたからです」
PR:「だいたい何でもできる人間です」
□たとえば幕末に「棲みなすものは心なりけり」という下の句があります。自分のなかで思ったことは真理です。きっとよい一年になると確信します。マルチは頼もしいですね。頼みにしています。
・塚本 笑理(つかもと えり)95A-114-8
動機:「正直なところ私は、志賀直哉の作品を読んだことがありません。武者小路実篤の「友情」が好きで、あの作品の主人公に感情移入すると、志賀直哉がモデルと言われている大宮が、嫌いになり、ついつい読もうと思えませんでした。なので、電車と志賀直哉が結びつくイメージはありませんでした。今回、このゼミで手にとらなかった志賀直哉の作品を読み、印象を一掃したいと思います。」
PR:「私の家は鎌倉です。所沢キャンパスに来るまでに、大船~池袋で約1時間、池袋~所沢~航空公園でも約1時間かかります。なので、車内小説を書くという意味では、とてもめぐまれています。
□志賀直哉は多くの作家から「小説の神様」と言われています。それはなぜなのか。この一年で解けるかどうかわかりませんが、挑戦しましょう。長い通学時間を有効利用する。いいですね。でも、無理しないで気楽に観察してください。実は、私も私鉄~JR津田沼~東京~池袋と乗り継いできます。大半が居眠りです。
・越智 美和(おち みわ)95A-126-4
1年ゼミでは宮沢賢治と林芙美子をやってきました。
□越智という苗字から四国出身でしょうか。知り合いに何人かいますが、みな四国の人だったように思います。林芙美子については、『江古田文学71』林芙美子特集で従軍ルポ「『北岸部隊』を読む」を寄せています。
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・阿井 大和(あい やまと)95A-111-2
動機:「読書するのは好きであったが、読書自体について深く考えるということなかったので、これを機会として見つめ直してみたいと思った。読書をし、そして書くという習慣化をしたいと思った。また、自分自身、柔道初段のため、嘉納治五郎が出てきて興味を持った」
PR:「現在、合気道をやっています。志賀直哉は、今まで読んだことがないですが、これを機に読んでみたいと思います。」
□好きこそ物の上手なり、といいますが、何事も、この一語に尽きます。それさえあればどんな困難も乗り越えられます。合気道も嘉納治五郎と深い関わりがあります。
・後藤 大喜(ごとう ひろき)95A-002-8
動機:「良い創作は、良い読書からということは前々から自分も思っていたことで、(ガイダンスに)共感しました。また車中小説という限られた空間での人間観察か描写に興味があります。」
PR:「去年は、ゼミ委員として、ゼミ合宿企画、ゼミ誌製作に積極的に参加しました。」
□ガイダンスで、きちんと授業説明できたかどうか不安でしたが、しっかり理解していてもらえたようで、うれしく思いました。ゼミ誌に昨年の経験を生かしてもらえれば楽しみです。
・藤重 はるか(ふじしげ はるか)95A-171-9
動機:「小説を作りたいなら、書くという実践も大切だが、小説を見る目も大切である。という考えに興味を覚えた。作者にも、的がしぼられているので、内容が明確化されそうだし、日常生活における時事問題も取り扱うという点が魅力だと思った。」
PR:「今年、映画学科から転科してきました。コースは、脚本だったので、作品を読む時、脚本の書き方、読み方、という視点から自分なりの考えを展開できたらと思います。」
□どんなに映像や演技者がよくても、脚本がだめだと目もあてられません。脚本は、時事、日常生活のように生ものと思っています。映画批評・感想も発表し書いていきましょう。
脚本読み(富田常雄原作『姿三四郎』)を実施。
・伊藤 光英(いとう こうえい)95A-091-1
動機:「初めて小説を書いたとき、こんなものが書きたいと思い浮べていたのが『城の崎にて』でした。しかし、最近ではよく観察しょうという心構えが希薄になってしまっているように自分で感じます。よく観察する目を養うために、このゼミを希望します。」
PR:「真面目に出席します。」
□名探偵、名刑事は、徹底観察で、犯人の完全犯罪を打ち破ります。コロンボしかり、ホームズしかりモンクしかりです。心境小説といわれる『城の崎にて』が名作なのは小動物の命観察をしっかり書いているからです。蜂、ネズミ、電車にはねられた自分。車中のあと、動物観察も、志賀作品テキストに実施予定です。
感想      ここが一番、そんな気概で
 受講カードを提出するまでは、迷いや登録溢れで第一希望はずれの不運があったかと思います。が、常にここが一番、そんな気概で学びましょう!!
 おもしろき こともなく世をおもしろく(高杉晋作)
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4・26ゼミニュース
各担当者決まる! ゼミ開始時の難所、班・ゼミ編集役員決めは即決でした。
班長は → 立川陸生さん  副班長・後藤大喜さん、に
ゼミ誌編集長は → 伊藤光英さん   副編集長・塚本笑理さん、に
早速の快諾、ありがとうございました。「自他共栄」「融和協調」「精力善用」の理念で
まとめていってください。各担当者の主な活動は以下の事柄です。
☆ 班長・立川陸生さん  副班長・後藤大喜さん
 正副班長は、ゼミの要です。緊急時の連絡、ゼミ合宿申請などの活動をお願いします。
 ※ 最初の活動は、ゼミ合宿有無の採決です。実施すれば、時空旅・マラソン読書です。
   ちなみに2007年軽井沢合宿の模様は、ドキュメント「あの感動をもう一度」として
   『江古田文学66』ドストエフスキー特集に記録してあります。
☆ ゼミ誌編集長・伊藤光英さん  副編集長・塚本笑理さん
 
 ゼミ誌は、1年間のゼミ成果の現われです。常時、編集会議を開き全員の協力を得ながらすすめていきましょう。
 
※ 最初の仕事は、6月上旬に開かれる「ゼミ雑誌作成ガイダンス」への出席です。
   そのとき説明と申請書類を受け取る。日程は連絡ありしだいお知らせします。
ゼミ雑誌作成予定
 1.6月上旬ゼミ雑誌作成ガイダンス
 2.「ゼミ雑誌発行申請書」を出版編集室に提出
 3.ゼミ誌の装丁を決める
 4.9月末をメドに原稿締め切り
 5.印刷会社を決める。レイアウトなど編集作業
 6.「見積書」を出版編集室に提出
 7.11月半ばまでに印刷会社に入稿
 8.12月15日(後期前半授業終了日)刊行のゼミ誌を出版編集室に提出 締切り厳守
 9.印刷会社からの「請求書」を出版編集室に提出
重要事項 → 「ゼミ雑誌発行申請書」「見積書」「請求書」の提出
※ ゼミ誌掲載作品について、課題提出の観察作品も掲載できればと思っています。
※ 観察作品のなかから「土壌館文芸賞」を選考します。
2010年12月15日納品締切り厳守!!
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「2010年読書と創作の旅」5・10プログラム
本日のゼミは、以下の要領ですすめます。
1.連絡事項、「ゼミ通信」配布、その他 しもはら
2.合宿の実施有無 正副班長採択  班長・立川陸生さん  副班長・後藤大喜さん
  □ 行う    □ 行わない  □ 考えてくる(次回までに)
 合宿実施の場合 
  1.学科事務室に連絡 学科主任の許可を得る。
   2.学科事務室より書類を受け取る ① 郊外授業申請書
                   ② 参加者名簿
                   ③ 銀行講座振込み書
  3.上記書類3点を実施1ヶ月前までに学科事務室に提出
  4.学生課を通じて予約
  5.一週間前までに施設宿泊費の納入
3.司会進行指名 以後、司会者しきり。司会進行 → 
 
車窓風景観察  いま現在、車窓には、どんな風景や出来事が 
 
 いま連日、車窓に映る風景は、沖縄の米軍基地問題です。沖縄にある米軍基地、というより日米安保は、戦後日本の最大の難題。60余年間のあいだ内閣が変わるたびに議論された。が、いつのときもうやむやに過ぎていた。日本人特有の利己主義的無責任さ、くさいものには蓋をの自民党政権。その国民性と長期政権の政治腐敗が功を奏して、今日まできた。
 そんなことでこの問題は、日本国民にとって蚊帳の外だった、今年になって、にわかに注目されはじめた最大の要因は、鳩山首相が、絵に描いた餅を配りすぎたためである。「最低でも県外」「5月末には決着」いかに政権をとるためとはいえ実現不可能な公約を大々的に掲げすぎた。そのことで、いま自民野党はじめマスメディア、識者、国民から連日、責められる羽目になっている。腹案らしい辺野古や徳之島もまったくだめらしい。
 しかし、どう誹謗しても鳩山さんにいい考えがあるとは思えない。お金なら、催促すれば、お母さんがなんとかするだろう。が、この問題ばかりは、お金でも母親の愛情でもどうにもできない。現世界情勢は、話し合いや環境保護で動いているのではない。現実は軍事力と核保有で回っている。例えば、少し前になるが国民がさらわれたのにいまだ帰してもらえない日本と、クリントン元大統領が行っただけで、すぐに返した北朝鮮の出方をみればわかるというもの。あれは米国の外交が上手だったからではない。もしクリントンが手ぶらで帰ったら、どうなるか。武力と核に頼る北朝鮮は、一番知っていた。ただそれだけのことだ。2010年、人類が築いた文明世界は、残念ながらまだ、そんな段階でしかないのだ。
それにしても野党もマスメディアも無責任すぎる。まるで他人事である。「沖縄は気の毒だ」「米軍はけしからん」「鳩山首相はなんとかしろ」「グアムはどうか」の解説ばかりで建設的意見や解決策がないのである。
 だれも、どうしたらよいのか言わない。日大闘争時代だったら、ベトコンみたいにと、威勢がいい答えがでるかも知れない。もっとも、ベトコンと北の正規軍が勝利するまでに100万とも200万ともいえるベトナム人民の犠牲があった。米国を追い出してからも100万人ものボートピープルをだした。そして、その結果、どうなったといえば、現在のベトナムはド
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イ・モイ(刷新)政策をすすめ、自由で豊かなアメリカ社会の国を目指している。貧富の格差もひろがっているという。アメリカを追い出して平等で、誰もが幸せに暮らせる社会をつくる。あの理想はどうなったのか。そんなこんなを考えれば、結局のところ、「何もしない方がよい」のか。いまの日本の答えが、まさにそれかも知れない。
米国と日本の歴史関係の発端
 普天間を辺野古をどうするか。なぜ、沖縄に米軍基地があるのか。その前に、米国と日本の関係を知らなくては、はじまらない。何事も発端がある。両国の関係は、1853年ペリーが艦隊をひきつれて浦賀にあらわれたときからはじまる。徳川時代300年も鎖国していた日本は、米国の圧倒的軍事力の前に日米修好通商条約を結ぶ。この条約は、在留外国人への裁判権のない(治外法権)や関税主主権のない、いわゆる不平等条約である。ちなみに、下記がその「日米修好通商条約」の一部です。
第三条 下田箱館港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くべし。
    神奈川、長崎、新潟、兵庫 (期限略)
    神奈川港を開く後六ヶ月にして下田港は鎖(とざ)すべし。…双方の国人品物を売買
する事総て障りなく其の払い方などについては日本役人これに立会はず。
第四条 総て国地に輸入輸出の品々別冊の通日本役所へ運上を納むべし。
第六条 日本人に対し法を犯せる亜米利加人は亜米利加コンシュル裁断所にて吟味の上亜
    米利加の法度を以って罰すべし、亜米利加人へ対し法を犯したる日本人は日本役人
    糺の上日本の法度を以って罰すべし。
 上記の条約から88年後、日本は富国強兵政策で軍事国家となっていた。が、米国と比較すると、まだ子供にも満たない成長だった。しかし、欧米列強のモノマネでアジアにおいては、絶大な権力を持つまでになっていた。大東亜共栄圏。理想ばかりが先走りした誇大妄想は、もはや後戻りできないところまできていた。1941年12月8日。なんと、日本は、巨大国家アメリカに戦いを挑んだ。武力、経済、科学、どれをみても日本の数倍は勝る大国に。しかも正義は彼ら連合国にありなのだ。これより前、1938年に、シンガポールで封切られた映画「風と共に去りぬ」を見た海軍士官たちは、撮影技術の高さ、スケールの大きさに驚いた。こんな映画をつくる国との戦争はあり得ないと思ったそうだ。無謀な戦争は、すぐに勝敗がみえてきた。ミッドウェー、インパール作戦、相次ぐ敗退。
 1945年3月下旬、約55万のアメリカ軍は、怒涛のように沖縄攻略を開始した。日本の守備軍は僅か9万6000、3ヶ月に及ぶ戦いは、沖縄県民12万をこえる人たちの命を奪った。6月末守備隊は壊滅。沖縄本土はアメリカ軍の占領下に入った。そして、1960年「日米相互協力及び安全保障条約」(新安保条約)に調印した。(先週、鳩山首相は沖縄入りし、勉強して基地が抑止力になることを知ったと会見したが、この条約を読み直したのか?)
 
第六条 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することが許される。
その後、1972年沖縄は祖国復帰した。が、基地は残ったまま。条約もペリーのときの不平等条約と、たいして違わなかった(地位協定)。それどころか、日本を守る理由で散在していた県外基地も、沖縄に集結し、現在、日本にある米軍基地の7割が沖縄に集中している。
討議 米軍基地についての質問 →  いる    いらない    その理由 
    いるなら、基地はどうするか →  現状維持  削減   沖縄以外  国外
課題1. 「沖縄米軍基地」(「日米安保条約は必要か」)について
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2010年、読書と創作の旅5・10ゼミ
名作読み サローヤン短編(大恐慌時代の青春)
 
 名作読みの最初として、サローヤンの作品を紹介している。が、ゼミ初日は、時間がなかったのと、本格的授業は連休明けから。そんな理由もあって読めなかった。で、改めて今日、5・10ゼミで読みます。
 アメリカの青春文学といえば、代表として今年1月27日91歳で亡くなったサリンジャー(1919-2010)の『ライ麦畑でつかまえて』(1951)をあげる人が多いと思う。僕という一人称ストーリーが受けて真似た作家もいた。旧くは『赤ずきんちゃん…』で芥川賞を受賞した作品や、いま『1Q84』で話題の村上春樹の『風の歌を聞け』もそうだ。
しかし、サローヤンのこの短編も捨てがたい。『ライ麦』より知名度はないが、文学を目指す青年にとっては、『空中』の方がより私的衝撃が強いに違いない。ここにはトーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』に匹敵するものがある。現在の日本の作家は、文学修業時代がない。漫画家や漫才師は、それなりの修業時代があるようだが・・・。この作品は、大恐慌時代の文学青年のある一日。 
ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年
原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房
 1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。
 この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。
■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。
 作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃である。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。
「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など
作品は、次のようなものがある。
【ハヤカワNV文庫】に収録
『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。
【新潮文庫】サローヤン短編集
『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。
【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』
『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。
★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。
課題2. 作品感想
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車中観察の見本 テキスト紹介 『夫婦』は車中での作者のするどい観察眼がよくあらわれた小作品である。夫婦でしかありえない行為と機微を見事にとらえている。
         夫 婦         志賀直哉
 函南(かんなみ)の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川(もんがわ)の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ(婆)-ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。
 家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。
 私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。
 その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。
 玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)
 日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。
(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)
この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。
※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であったと想像する。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように夫婦の絆をとらえ描いている。
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2010年、読書と創作の旅・テキスト読み
5・10ゼミ テキストと比較作品読み
 
 作品『網走まで』は一見、なんでもないエッセイのような話です。が、この車中作品からも多くのことが読みとれます。よく観察ししながら読んでみましょう。
 作品コピーを配布します。いまから、ちょうど100年前に書かれた作品です。全集からのコピーなので、旧かな読み、使われていない漢字などがあります。国語の時間ではないので、わからないときは想像をめぐらせて解釈を試みてください。
志賀直哉と『網走まで』について
 
 昨今、志賀直哉は読まれなくなったようだ。毎年、ゼミはじめに聞いてみるが、知る人は僅か、読んだ人となるとさらに僅かの実態。神様も時代には勝てぬようだ。
 小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。
もっとも最近は、そうでもないようだ。が、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作『網走まで』は、一見、なんの変哲もない小説とも思えぬ作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいます。
 かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、あらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきた。そうして、川端康成が評した「源泉」の源とは、処女作『網走まで』にある。そのように思えてきたのである。
 そして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを畢竟、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いた。
 小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっているのではないか・・・。
 1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。6年前、ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。
 しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石ころである。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない面白みのない作品。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」そんな感想も無理からぬことである。だがしかし、読者としてではなくあくまでも書く側の人間としてしっかり観察すれば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちるに違いない。文学の本質がわかると確信する。
 では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。          
課題3 『網走まで』感想
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.144
土壌館・実践的投稿術 No.12
 
文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。
 もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。
 土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞「声」欄に投稿をつづけています。なぜ「声」欄かというと、500字という字数は、人が飽きなく読む字数であるということと、文体を簡潔にできるからである。
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2000年(平成12年)4月2日 日曜日 朝日新聞
町道場の灯を支える教え子
 
 一人でも通ってくる子供がいる限り、減り続ける町道場の灯を消すまい。そんな思いで柔道を続けてきた。
 しかし、年々少なくなる生徒の数。築三十年の老朽化した道場は、雨が降れば雨漏りの、風が吹けばトタン屋根の、稽古中はでこぼこ床の心配が絶えない。それだけに修理代もバカにならず、地主との契約もある。こんな状況に限界を感じ、道場をたたもうかと迷っていた。
 そんなとき職人風の若者が訪ねてきた。十数年前に通っていた生徒だった。社会に出てからやめてしまったが、また稽古したくなったとのこと。私が現状を話すと、見るまでもないが、彼は道場のオンボロぶりにあきれながらも「自分が直しますから」と申し出た。
 かつての生徒は大工になっていた。先日の日曜日、彼は材料を車に積んでやって来た。棟梁の父親も一緒だった。息子の心意気をかって、協力したいと言った。
 親子が一日がかりで根だを取り替え、床を張り替えた。「近くに柔道が出来る場所がないと困りますから」。若者は言った。「そのうち屋根も直しましょう」。屈託のない笑顔が頼もしかった。続けられる限り。そんな勇気がわいてきた。
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 彼のおかげでオンボロ道場は2002年5月まで持ちこたえることができた。先々週見たテレビ番組でリフォームしてから8年。またしてもそろそろ心配になってきた。
投稿術バックナンバー
No.1 「医師への金品 規制できぬか」   1994・2・2   朝日新聞「声」欄
No.2 「カラー柔道着 いいじゃないか」  1994・5・17  朝日新聞「声」欄
No.3  「立会人が見た 活気ある投票所」  2009・9・2    朝日新聞「声」欄
No.4 「勧誘の仕方 改められぬか」    1994・10・15 朝日新聞「声」欄
No.5 「団地建替え 住めぬ人びと」     1995・9・24 朝日新聞「声」欄
No.6 「地域に必要な 子供たちの場」   1996・11・5   朝日新聞「声」欄
No.7 「燃える家々に 戦争を実感」MoMo 1999・4・3    朝日新聞「声」欄
No.8 「嘉納」の理念 世界に発信を    2009・3・10   朝日新聞「声」欄
No.9 「50歳の1年生 師の撮影行脚」  1996・9・16   朝日新聞『声」欄
No.10 「教師の創意で 生徒に楽しさ」   1995・3・15   朝日新聞「声」欄
No.11 「子どもが集う道場は街の灯」    2002・5・8   朝日新聞「声」欄
No.12 「町道場の灯を支える教え子」    2000・4・2   朝日新聞「声」欄
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・144―――――――― 12――――――――――――――――
掲示板
課題 常時、社会観察・車中観察・日常観察 どれでも書けたら発表
課題1.「沖縄米軍基地について」
課題2.『空中ぶらんこに乗った大胆な青年』感想
課題3.『網走まで』感想
・車中観察は、毎日乗る電車やバスの中で、見たこと考えたことを書く。
・日常観察は、自分の生活を書く。(見本、林芙美子『放浪記』など)
・社会観察は、現在社会で話題になっていること。コラム
※作品は、授業内で発表批評できる範囲。ポイントは、短い枚数の観察で、どれだけの深み
 と情報を描きだせるか。
※メールで5月15日までに送信あれば、次号145号掲載可能。原稿の場合は郵送か
 5月15日当日に提出。通信掲載は146号になります。
 いずれも送信先は、下記、編集室宛。
4・26ゼミ報告
1. 写真撮影 登録者8名全員そろったので、資料室の田中さんに撮影依頼
2.自己紹介 8名 趣味、愛読書、将来などを話した。
 志賀直哉は、読まれなくなっている。
3.正副班長、正副編集長決め 自主的に決まる。
 すすんで引き受けてくれて安心した。
4.司会進行指名、音読の区切りや討議のしきり。
 ゼミ進行は、司会者形式ですすめる。
5.「ひがんさの山」音読 
 音読範囲をしきる司会者への説明不足。
土壌館日誌
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編集室便り
☆ 課題原稿、学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
□ゼミの評価基準は可(60~100)とします。評価方法は、次の通りです。
  課題の提出原稿数+出席日数+α=評価(60~100)
網走まで』を読む

 『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(一九一○)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、まずはじめに題名「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
 明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
 とにかく、どう読んでも網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。

 『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
 しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わった。完全なやくざ映画というわけである。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の強面が待つ敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
ドスを ドスを 片手になぐりこみ
どうせ おいらの行き先は 網走番外地
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところだった。
思い出のグリーングラス
 余談だが、1965年、昭和40年、今から42年前だが、筆者は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためであった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕事、途中で逃げ出す学生が多いから、覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)と住み込み三食つき500円につられた。(当時、バイト日給600~800円が相場)
 信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れはあった。が、遠い所だった。知っている地名は、札幌、函館、稚内、旭川ぐらいだったか。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名、駅名だった。地図でみると根釧原野のただなかにある。釧路から近いらしい、とわかったが、なにせ、地図のうえでは想像のしようがなかった。とにかく行けばわかるさ。大学一年18歳の夏、「計根別まで」が私のはじめての長旅となった。余談ついでに、当時を思い出した。
 7月の前期終了日、担当教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。計根別までが一番多く数名、あとは稚内や知らぬ土地だった。上野駅から夜行列車で出発する。夜のとばりがおりはじめた西郷像の下に多勢の学生が集合した。その面々、明治、拓大、農大などなどいろんな大学の学生がいた。が、やはり単位修得込みの私の学部の学生が多かった。
 皆、学生服に靴か高下駄。学帽もかぶっていた。肩には大きな信玄袋。中には作業服と下着。筆記道具とノート。それだけだった。このころアイビースタイルが流行っていたが、北海道でバイトしようという学生は、なぜか学ラン組が多かった。
『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)
 明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。
 「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
新刊読書感想・日本図書館協会選定図書『山脈はるかに』(D文学研究会)
『山脈はるかに』を読んで
今井 直子
例えばアレクセイ・カラマーゾフのように、真に価値ある人は自己主張するのではなく、他を生かす糧となる道を選ぶことで、逆にその個性を際立たせるものだ。なぜなら真理とは個人に宿るのではなく、あくまで関係性の中で生まれるのだから。そしていつの時代にも、アリョーシャのように舞台の片隅で小さな希望を紡ぎ出す努力を続けている人間は必ずいると信じたい。その存在こそが、私にとって、世の中はまだ生きる価値があり、善や正義など美しい瞬間が訪れうるのだと信じる”よすが”になっている。
 『山脈はるかに』は私のそんな想いを確実に支えてくれる作品だ。わんぱくな子供たちを相手に新米教師の奮闘ぶりが描かれている、と言ってしまえば、平凡に聞こえるかもしれない。だが、このほのぼのとした物語の中には、誰もが身に覚えのある感情――不安、悲しみ、安堵、幸福感といった感覚が繊細に描かれており、読み手の共感を誘ってやまない。単に心温まるストーリーというだけでなく、たとえば、世を生き抜くための逞しさを修得するには幾つもの試練を克服せねばならないことや、人は周囲の支えに救われながら生きていることなど、日ごろ見過ごしがちな、人生の大事なエッセンスが凝縮されているのだ。
偶然にも、私も蕗子先生と同じく新たな職場に飛び込んだばかりで、壁にぶつかっては悩み、些細なことで落ち込むといった日々を送っているため、すっかり彼女に感情移入してしまった。が、同時に生徒たちの姿に自分の子供時代を重ね、その年ごろ特有の残酷さで恩師を苦しめていたことに思い当り、胸が痛んだ。小学校の教師というのは、手っ取り早く感謝を得られない、損な職業である。だが同時に、この物語のラストにあるような僥倖に恵まれる機会も多いだろう。良き教育者との出会いは人の人生に大きな意味を与えるもので、そのとき気づかなくても記憶には残り、その有難味を認識できるときが必ず来る。幼少時の記憶の中に、自分に注がれていた愛情深い視線まで含まれていれば、それはありふれた思い出ではなく、豊かなドラマ性を秘めた宝物になるものだ。
自分の話で恐縮だが、私は小学生の頃、学校でイタズラをして、誰かが告げ口したのであろう、担任の先生に呼び出されたことがある。私はそのとき、自分は関係ない、と白を切った。だが先生は、恐らく真相を知っていたにもかかわらず、「分かった。信じる」と応じただけで、私を無罪放免にした。私にとってそれは「人に信じてもらうこと」の重みを初めて知った経験だった。私がその先生の偉大さに胸打たれて改心し、すっかり良い子になった、と言えれば話は簡単だが、そうはゆかないのが現実である。だがそのとき覚えた衝撃は、年を経るにつれて自分の心の中で重みを増している。その先生に、「あなたの教え方は正しかった、叱られるよりずっと厳しい罰を与えてくれた」と伝えたいものだが、それは叶いそうもない。彼に感謝を伝えられなかった悔いはいつまでも残る、そう思っていた。
『山脈はるかに』のラストシーンは、そんな私の悔いを少し軽くしてくれた気がする。誠実で信念をもって生きる人の思いは、いつか必ず報われる。私が伝えられなかった思いは、他の誰かがきっと伝えたはずだ――そう思えた。とかくすれ違いがちな人の気持ちがふと通じ合う瞬間、そんな奇蹟的な瞬間と出会いたいなら、何を大事にして生きてゆけば良いのか。その答えの一つが本書の中にある。
新連載 小説日本大学外聞 この物語は、すべてフィクションです。
 先日聞いた話だが日本大学を卒業していくある学部の学生に「日大生でよかったか」とのアンケートをとったところ、なんと大半の学生が「よくなかった」と答えたという。「松陰の大学」たらん。学祖・山田顕義の夢はるか。いまだ矜持ならずである。
 1960年代、日本大学は暗黒時代だった。高度成長化の濁流のなかで、日大の名は地に落ち10万日大生は屈辱にまみれた。しかし、彼らこそ草莽だ。松陰のいう草莽だった。大学改革の先人を切って六十余州を揺り動かし、そして何処ともなく消えていった。
 この物語は、彼ら草莽の青春群像である。
青春水滸伝
 
第一章 草莽たち

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