土壌館下原道場・読本

公開日: 

「土壌館下原道場の柔道精神は、この戯曲の中にあります。」
脚本 下原敏彦
獅子と白菊 (富田常雄原作『姿三四郎』より) 
                           
登場人物
矢野正五郎(劇中では浩)   大学講師
矢野須賀子          その姉
矢野一作           その父
戸田雄次郎          正五郎の弟子
椿 早苗           須賀子の友人
泉 専太郎          巨漢の柔術家、正五郎の兄弟子
その他            その手下一、二
看護婦(声のみ)               
時代背景 明治十四年
――― 一幕 ―――
東京の佐賀町にある矢野正五郎の部屋。周囲には本棚とうず高く積まれた洋書の山。右端に文机。その上にランプ。正面に障子戸。
第一場
季節、夏の終り。時間は夕方。矢野は文机前に正座して書きものをしている。部屋中央で戸田が稽古着を縫っている。外からはひぐらしゼミの鳴き声。
矢野はかすりの着物を、戸田はかすりの着物に袴をはいている。


戸 田  (ため息をして顔をあげる)先生・・・先生。
矢 野   ん・・・(手を止め振り向く)。
戸 田   あのう、ちょっとよろしいでしょうか。
矢 野   うん、何だ。(筆を置いて向き直る)
戸 田   先生、あの話は本当なんでしょうか。
矢 野   あの話・・・?はて、何の話かな・・・。
戸 田   あの噂です。外務省の井上郷が何か妙なことを画策しているという。
矢 野   ほう、珍しく戸田にしては早耳だな。政治の方が柔術よりよほど関心があるとみえる。(笑)
戸 田   先生、からかわんでください。ちょっと耳にしただけですから。
矢 野   悪い、悪い。私も先ごろ、そんな話を聞いたぞ。なんでも西洋文明を広めるために洋館を建てて、そこで夜会やら社交ダンスなるものを催すそうだ。
戸 田   馬鹿な話です。日本人を欧米人にする改造計画ですか。まったく馬鹿げてやしませんか。政府は、一体この日本をどうしょうと言うんでしょう。柔術を野蛮な時代遅れなものと決めつけて西洋のものならダンスでもなんでも取り入れようとして。・・・そりゃあ、サーベルもピストルも洋式訓練も、軍艦も大砲もいいでしょう。しかし、武道の心がなかったらそんなもの何になります。そんなものただの人殺しの道具に過ぎません。武士道がなくて、なんの大砲、洋式訓練ですか。
矢 野   そう怒るな。我々はただ自分の信じる道を進めばいいのだ。
戸 田   先生、柔術をやることが、これほどいろいろな故障をこしらえるとは、正
直、私は思いませんでした。先生にたいしても学士が今日の日本に逆行してけしからんなどと、世の中は間違っています。
矢 野   怒るな、怒るな。怒ったところで、感心する人間も、理解する人間も出てはこないぞ。安心しろ、日本人はそう捨てたものでもない。いつの日にかきっと本来の己の姿を取り戻す時がくる。そして、柔術は栄えるようになる。そんな日が必ずくる。・・・ただし、それが何年先になるかわからんがな。三十年、いや五十年はかかるかも知れんぞ!((笑)
戸 田   五十年!?そんな先でも先生は柔術のために辛抱されるつもりですか。
矢 野   うん、そうだ。五十年とは言わん。一生だな。
戸 田   人生をかけて柔術を統一されるんですね。
矢 野   そうだ、統一して大いに盛んにするのだ。
戸 田   私も、一生を捧げます。
矢 野   お前は外交官になるのが志しだったのではないのか。
戸 田   いえ、私は先生と一緒に柔術をやっていく決心をしたのです。
矢 野   そうか、戸田が一緒だと心強いな。だが、私が考えているのは単に柔術のみとは言わん。武術一切の復興が目的なのだ。それが私の究極の道でもあるのだ。武魂逞しくて国栄え、武魂衰えて国滅ぶ。私はそう信じている。文明の利器などなんのそのだ。(膝を打って)大きくでたか。矢野も大ボラ吹きになったと笑われそうだな。
戸 田   いえ、そんなことありません。私もそう思います。
 突然、右手(母屋)からオルガンで「庭の千草」の曲が流れてくる。二人とも驚く
ことなく黙って聴き入っている。つづいて早苗の歌う声。(しだいに大きくなっていく)
   
   庭の千草も 虫の音も
      かれて淋しく なりにけり
      ああ白菊 ああ白菊
      ひとり遅れて 咲きにけり
     
 露にたわむや 菊の花
      霜におごるや 菊の花
      ああ あわれあわれ ああ白菊
      人の操は かくてこそ
(オルガンの音、しだいに小さくなって消える)
             間
戸 田   早苗さん、お上手になりましたね。西洋のものでいいものといったらあの曲ぐらいです。
矢 野   うん、だがしかし西洋から学ばなければならないことはたくさんある。いいものはどしどし取り入れる。それが今の日本に必要なことだ。柔術家もいがみ合うのではなく互いによいところを取り入れて新しい柔術をつくりださねば・・・そのためには戦いもまたやむなしだが――。
戸 田   戦いもまたやむなし、ですか。(意気込んで)誰ともですか!?
矢 野   そうさ、えり好みもできまい。
戸 田   先生、では先生は、泉専太郎とも試合をされますか。
矢 野   うん、相手が望むならな。しかし、どうしてだ、戸田。
戸 田   免許皆伝のことで先生を恨んでいると聞きました。それで、いつか先生と勝負をつけるのだと公言しているそうです。
矢 野   そうか 泉君は兄弟子にあたるが、挑まれれば仕方あるまい。
戸 田   先生、怒らんで下さいよ。先生は泉専太郎と試合して、勝つ自信がありますか。
矢 野   うん、それは・・・あるようでないような・・・さあて、困ったな。(ピシャリと首筋の蚊をたたく)
戸 田   答えてたください。どちらなんです。いくら大男といつたって先生の技の前にはかなわないと思いますが。
矢 野   いや、わからないのが本音だ。それが、勝負をやる前の本当の姿だ。その後は無心だから、勝負の結果は他人の眼に任せるほかあるまい。たしかに泉は強かろう。掛札兵介の殺当流もすざましかろう。良移心当流の村井半助、戸塚道場の木島太郎などはすでに達人の域かも知れぬ。が、しかし、矢野正五郎より優れているかどうかは、本人たちも私も知らぬ。まったくわからないのだ。面白いではないか、なあ戸田。
戸 田   面白くありません。もし負ければ、畳水練の折り紙がつきます。
矢 野   (笑)大久保彦左衛門め。家光なら五百畳の道場を作っていようが・・・しかし、庭稽古では私の彦左も栄えないな。(笑)
戸 田   まったく先生はのんきなものです。学校でも柔術界でも四面楚歌の状態にあるというのに、よくそんなにのんびりかまえていられますね。
(舞台左手から須賀子の声)
須賀子   浩さん、お邪魔してもよろしくて。
矢 野   どうぞ。
須賀子と早苗の笑い声がして舞台左手から二人が入ってくる。(須賀子は手に菓子箱を持っている。須賀子は着物、早苗は袴姿)
早 苗   おじゃまします。
須賀子   何を話していらっしゃいましたの。母屋まで聞こえてまいりましたわよ。大きな声が。
矢 野   いま、戸田に叱られていたところです。
須賀子   また何か無理を言って困らせていたのでしょう。ごめんなさいね。
戸 田   とんでもありません。違います。
須賀子   いいのよ。浩さんのわがままは承知していますから。
矢 野   戸田は世話焼き女房なんですよ。
須賀子   まあ、勝手なことばかり言って。
矢 野   (早苗に向かって)どこでも座ってください。
戸 田   どうぞ。(立ち上がってランプをつけながら) 先生、座布団とうちわ、母屋の大(おお)先生のところから拝借してきましょうか。
      (ランプがついて部屋の中が明るくなる。障子に夕焼が映えはじめる)
須賀子   いいのよ、戸田さん。わたしたちはじめからあるなんて思ってやしませんから。
早 苗   いつまでもお客様扱いなんて嫌ですわ。
      (須賀子と早苗、部屋中央で二人に向かい合って座る)
矢 野   早苗さん、オルガン、戸田が上手になったと誉めてましたよ。
早 苗   恥ずかしいですわ。上手もなにもわたし、あれ一つしかできませんの。
須賀子   早苗さんの歌はいつきいてもすてきよ。オルガンだってすぐにお上手になられて、わたし何度聴いても聞き惚れますわ。
早 苗   いやですわ。お姉様まで。
須賀子   (前に置いた菓子箱をあけて) これ早苗さんのお土産。風月のビスケット
ですって。
矢 野   ああ、あの風月の―――ありがとう。(軽く頭を下げる) しかし、来るたびに土産はいらんですよ。客扱いなんかできませんから。
早 苗   いえ、いいんです。お気になさってはわたし困ります。
須賀子   早苗さんいいのよ。真に受けなくたって。どうせあてにしているんですよ、二人とも。
矢 野   顔に出てましたか。(笑) じゃ、見透かされたところで、遠慮なくいただくとします。
須賀子   戸田さんも遠慮なさらないで。(菓子箱を押出しながら) また稽古着のつくろいですの。
戸 田   は、はい。
須賀子   よく破けるのね。わたしがつくろってあげましょう。こっちへお出しなさい。(手をのばして受取ろうとする)
戸 田   い、いいんです。自分がやります。実に、汗臭いですから――。
須賀子   いいわよ、そんなの、さあ。
戸 田   (稽古着をうしろに隠して)こんど洗濯しましたら、その時にお願いします。
矢 野   姉さん、あまり世話を焼くと戸田が逃げ出してしまいますよ。それより早苗さん、遠慮なしにビスケットを食べてください。これは美味いですから。西洋のものでよいものにこのビスケットも入りそうだぞ。戸田、それは後にして早く食べんか。
戸 田   はい、いただきます。(食べて) うん、これならいくら西洋でもかまわんです。
矢 野   (笑って) 現金な奴だな。さ、早苗さん、あなたも遠慮なしに。
早 苗   ええ、いただきます。
須賀子   あきれた。浩さん、早苗さんのお土産を、あなたが恩に着せておすすめするのはおかしいわ。まるであなたが持ってきたみたいですわ。
矢 野   そうですか。しかし、私と戸田にくれたものだというので、早苗さん、遠慮されると悪いでしょう。
須賀子   まあ、勝手な理屈を。これで新進文学士の肩書までもつ学習院教師なんですからね。ごめんなさいね、早苗さん。
矢 野   (笑って)姉さん、こんな私の部屋に来るんだから気になんかしませんよ。
早 苗   ええ、わたしちっとも。
須賀子   それは早苗さんのお人柄がよいからですわ。そうでなかったら、なんで名
家の子女が通うことで誉れ高い桜井女学校の生徒が好き好んで来るものですか。
早 苗   お姉様ったら。わたし身の置き所がありませんわ。学生とは名ばかり。英語など戸田さんにはるかに及びませんわ。
矢 野   戸田は外交官志望だから比較にはなりません。ところで、学校といえば歌をうたっていますね。先日、学校の前を通ったとき聞きました。なんとも不思議な気持ちになりますね、あの歌は。
早 苗   あれ賛美歌ですわ。
矢 野   そうですか、あれが・・・。
早 苗   先生は、西洋のものはお嫌いですか。
矢 野   嫌いなものか。ここにある書物の半分は西洋のものだ。(後ろに積まれてある本を振り返って)
早 苗   ああ、よかった。
須賀子   そのくせ柔術などという日本の骨董品にとり憑かれているんですからね。だから変わり者と言われるんです、浩さんは。(笑う)
矢 野   弁明しょうがありません。じゃ、変わり者と呼ばれついでにお願いしておこうかな、姉さん。
須賀子   なんですの。
矢 野   私は人形が欲しいんです。男の子の。
須賀子   お人形をどうなさるの。
矢 野   ままごとをします。
須賀子   (笑って)いやですわ、浩さん。なにを言い出すとおもったら。
矢 野   それは冗談が半分ですが、でも、ぜひ欲しいんです。先日、水天宮に参ったときも人形屋に飛びこむつもりだったんですが、立ち止まったら戸田が妙な顔をしましたからやめました。
戸 田   先生、私は妙な顔なんかしません。
矢 野   すると、私自身が妙な気がしたのかな。抵抗がないといえば嘘になるから。
早 苗   男のお人形、わたし、持ってまいりますわ。
矢 野   それ、いただけますか。
早 苗   はい、でも何になさいますの。
矢 野   柔術衣を着せたいんです。
早 苗   まあ・・・可愛いでしょうね。わたしお人形によく似合う柔術衣をこしらえて着させてからお届けしますわ。
矢 野   ありがとう、助かります。
早 苗   須賀子姉さまに形を教えていただいて縫いますわ・・・帯は黒ですの、白ですの。黒の方がよく似合いますね。
矢 野   そう、黒がいいでしょう。しかし、贅沢な布はだめですよ。
早 苗   ええ・・・?
矢 野   ぼろを着せてください。人形も手荒く稽古しますから。
早 苗   えっ!?
須賀子   浩さん、人形と稽古するんですか。
矢 野   はい、やります。それで必要なんです。
須賀子   本当にですか!?・・・また、わたしは飾って置くのかと思いました。
矢 野   いや、私の弟子を一人増やすつもりで欲しいのです。戸田一人では淋しいですからね。だから早苗さん、丈夫一点張りに頼みますよ。くれぐれも絹なんか使わんでくださいよ。
早 苗   はい、わかりました。
須賀子   ごめんなさいね。そんな無理なことお願いして。早苗さん、お忙しい上にお体だって、そんなに丈夫でないのにねえ。わたしがやっても・・・
早 苗   いえ、いいんです。わたし、縫ってみたいんです。何か成し遂げられる目的を持っていたいんです。それに丈夫な柔術衣を縫えばわたしも元気になれるような気がするのです。
矢 野   それじゃあ、あらためて遠慮なくお願いしますよ。(再び稽古着を縫い始めた戸田を見て)縫い終ったのか。
戸 田   はい、これで――(歯で糸を切る)
矢 野   それではそろそろやろうか。
早 苗   あら、これから稽古なさいますの。
矢 野   ええ、これからです。
早 苗   またお庭で。
矢 野   そうです、庭でやります。
須賀子   早苗さん、稽古が始まると大変なのよ。どしんどしん地響きがして。お父様は根だが緩(ゆる)むだろうと心配なさっているのよ。
矢 野   お茶もあげられなくてすみません。姉さん、母屋で差し上げてください。
須賀子   はい、はい。体のいい追い出しね。
矢 野   また見透かされましたか。(笑)
須賀子   仕方ない人たちね。お土産をいただいてしまうと、すぐにこれですものね。
早苗さんあきれたでしょう。
早 苗   いいえ、少しも。(立ちあがって頭を下げる)お邪魔しました。
矢 野   やあ、失礼しました。早苗さん、またビスケット持って遊びに来て下さい。
須賀子   早苗さん、浩は我がまま者ですね。ほんとに許してください。
早 苗   いえ、そんな・・・わたし楽しいんです。
須賀子、早苗、一礼して出ていく。
須賀子   (外から声だけ)すっかり暗くなってしまいましたわねえ。足元に気をつけてね。
早 苗   (外から声だけ)ええ。
(足音・話し声、遠ざかる)
矢 野    今日は、あのお客さんたちで稽古が遅れてしまった。急ごう、戸田。
戸 田    はい!
矢 野    (立ちあがりかけて)そうだ、その前に――(机の上から本をとってランプの下でひろげて)見ろ、戸田。これだ面白いじゃないか、西洋にも柔術に通じる体術(もの)がある上に、その業まで似ているものがある。今夜は、ここにある業を研究してみようか。
戸 田    (覗き込んで)何です、これは・・・!?
矢 野    これはラスラ(レスリング)と云って、日本の相撲に相当するものだ。前に頼んでおいた本だが、昨日、やっと手にいれることができた。
戸 田    西洋の相撲ですか。
矢 野    うん、だが、組んで抑える点は柔術に通じている。ただ、この写真を見てもわかるように、闘っている彼らの一切が、力にはじまって力に終っていることだ。しかし、ここから採るべき点は多々あるぞ。(頁を繰る)
戸 田    先生、これは肩車ですね。
矢 野    そうだ、肩車に似ているな。泉専太郎のような大男にかけてみたい業じゃあないか。
戸 田    はい・・・しかし、先生。この業は崩しから、作りにかけて非常に無理がありませんか。
矢 野    工夫だ、早苗さんに人形を頼んだのも、そのためだ。この西洋の業の利点
を、いかにして柔術にとり入れるか。机の上でも人形ならば稽古ができる。人間相手ではままならぬ時がある。そうした時に、人形に業の形をさせてみるのだ。崩した時の重心がどこにあるのか。作りの力をどこに集中するか。私は自分の手首と人形で研究したいと思っている。さあ、行くぞ。
戸 田    はい!(ランプを消す)
(薄暗くなった部屋。障子に夕焼けが映える。庭木の影)
矢野、戸田、二人は右手に去る。誰もいなくなった部屋。間 左手から須賀子と早苗、こっそり入ってくる。
須賀子   (笑)早苗さん忍び足ですよ。見ると怒りますから。こちらからそっと覗いて見ましょう。(障子戸を少し開けて覗く)
夕焼けが映える障子に庭木と激しく稽古する矢野と戸田の上半身の影。ぶつかり合う地
響き、気合。幕までつづく。障子に映える夕焼けは、しだいに色あせ薄闇がひろがる。 
須賀子    はじまってますわ。毎晩十二時頃まで、あれなのよ。
早 苗    ・・・。
須賀子    びっくりなさったでしょう。こんなことしてるから、浩は学生時代から体じゅう、生傷が絶えたことがありませんのよ。気違い沙汰にお思いになるでしょ。柔術がよほど好きなんですのね。でも、いまどき柔術に熱中している浩など、時代遅れにお思いになるでしょ。
早 苗    (激しく首を振って)いいえ、わたく羨ましく思います。わたし、先生がとっても羨ましいです。(いきなり泣き出す) 
須賀子    (驚いて、障子戸を閉めて)どうしたの、早苗さん、どうなさったの。 
早 苗    お姉様、わたし、学校をやめなければならないかも知れません。
須賀子    どうしてです。
早 苗    父の命令ですの。やめて結婚しろというのです。
須賀子    まあ・・・。
早 苗    わたし、その相手というのを知りません。父にすれば知っても知らなくても構わないのでしょう。
須賀子    でも、早苗さんのお父様は立派なお方ですから、きっとお考えあってのこ
とでしょう。
早 苗    わたしも柔術を稽古して強くなりたい。
須賀子    早苗さん・・・。
(須賀子、泣く早苗を抱きしめて動かない) 
障子に肩車の稽古を繰りかえしする矢野と戸田の影
――― 幕 ―――  
第二場 
一ヶ月後、矢野の部屋。午後、矢野正五郎が一人文机に向かって本を読んでいる。着物と
袴姿。 
早 苗   (外から、声だけ)先生、早苗です。おじゃましてもよろしいでしょうか。
矢 野   ああ、どうぞ。(本を閉じ、部屋の方に向き直る)
早苗、長方形の箱を持って入ってきて座る。
早 苗   ちょうど、こちらに来たものですから、お届けしょうと思いまして。
矢 野   はあ・・・? 届け物といいますと、それですか。
早 苗   ええ。
矢 野   何ですか。箱の形からして、いつかの風月堂のビスケットですか。少し大きいようですが。
早 苗   いえ、今日は風月には寄りませんでしたの。ごめんなさい。
矢 野   謝られては困ります。請求したようで、また姉に叱られます。それより、それは何です。
早 苗   わかりません・・・あててご覧になって。(微笑)。
矢 野   うん、何だろう。私は易を見ないからなあ・・・白旗だ。(笑) 
早 苗   これ、先日お約束したお人形ですの。(差し出す)
矢 野   (受け取って)人形・・・ですか。ああ、そうか。また姉に叱られそうだ。忘れるなんて、申しわけない。(頭を下げる)
早 苗   そんな謝られたら、わたし困ります。
矢 野   わざわざ持ってきてくれたんですね。どうもありがとう。あのとき勝手に無理をお願いしたから困っているのでは、と後で後悔していました。
早 苗   そんなことありませんわ。わたしほんとうにつくりたかったのですから。ただ、稽古着の仕立に骨が折れましたの。それで、すっかり遅くなってしまって、すみません。
矢 野   (箱から人形をだしてみる)ほう、よくできていますね。
人形は、白い稽古着に黒帯をしめている。
早 苗   足がそろわなくて、おかしいでしょ。
矢 野   そんなこと構わんです。どうせ、稽古をするんだから。それに、おかしくなんかありませんよ。じつによくできている。立派な人形です。
早 苗   このお人形、投げたり、飛ばしたり。あの、先生と戸田さんのお稽古みたいになさいますの。
矢 野   うん、場合によっては――。
早 苗   可哀そうですのね。
矢 野   (笑)めったにそんな乱暴なことはしませんよ。机の上でちょっと勉強の相手に
なってもらうだけです。女の子の人形遊びと同じですよ。
早 苗   人形遊び、・・・ですか。安心しましたわ。(胸をなでおろして笑)でも、先生、よほど柔術が好きなんですのね。人形まで相手にして研究なさろうというんですもの。
矢 野   あなたから見ると随分おかしいでしょう。大の男が――。
早 苗   そんなことありません。ただ先生のご熱心が羨ましいだけです。
矢 野   (人形をながめて)うん、これはいい。黒帯は勇ましいな。
早 苗   稽古着が白地だから目立つようにと黒にしました。
矢 野   実にいい。私が考えていたより、よほどいい。
早 苗   あのう、おたずねしてもよろしいでしょうか。
矢 野   何です。
早 苗   先生は、どうして柔術をお始めになりましたの。前からお聞きしたいと思っていました。
矢 野   柔術ですか・・・私は子供のころ、小さくて弱かった。今も体は、この通り小さいですがね。(笑) 弱虫と言われるのが口惜しくて、刀も他の武器も使わ
ず、小さい者が大きい者を投げるにはどうしたらよいのか、果たして、そんな夢のようなことが本当にできるものなのかと考えました。そして、それを実現できるのは柔術しかないと思ったのです。それ以来、父にせがんでやり始めました。はじめは日本橋の福田八之助先生に、先生亡き後は、神田お玉ケ池の磯先生の道場で修業しました。
早 苗   それで、本当でしたの。小さな者が大きい者を投げられるって。
矢 野   ええ、稽古を積めば、柔よく剛を制すことができます。しかし、私は柔術のなかに、そんな勝ち負けではないものがあるのを知りました。それが、何であるかまだ漠としていますが、柔術の修業の奥に見えているのです。
早 苗   じゃ、これから先も、まだ稽古なさいますの。
矢 野   ええ、やるでしょう。ますますやります。継続することは、物事をより極めるための近道です。より稽古して、柔術の向こうにあるものを見るのです。
早 苗   そんなにお好きなものがあって羨ましい限りですわ。
矢 野   なに、たかが柔術にこんな大袈裟な理屈が必要かと笑われるでしょう。
早 苗   いえ、そんなことありません。
矢 野   そうですか。でもあなたは柔術というものをどんなものだと思っていました。遠慮なく言ってみて下さい。
早 苗   それは・・・。
矢 野   (笑) これは愚問でした。答えようがありませんね。柔術バカの当人を前にしているんだから。
早 苗   そんな・・・。
矢 野   いいんです。問われて躊躇するのは、我々、柔術家に責任があるのです。そもそも柔術は、徳川時代には、十指に余るほどの流派があって立派に栄えていたんです。それが、ご維新以来、これら諸流の柔術は、ちょんまげや腰の大小と同じように弊履(ワラぞうり)のごとく捨てられてしまった。その結果、多くの柔術の伝承者が、武士と同じように路頭に迷った。接骨師となるものは、まず救われる。浅草の奥山で見世物に出るのは、芸が身を助ける不幸せをかこちながらも生きられた。しかし、多くの者は、自暴自棄と、世の中の白眼視から無頼の徒と化してしまった。ゆすり、たかりから物取りにまで身を落としている者もいる。よって、古来から伝わり日本人の精神の要ともなってきた術も、今ここでもって終ろうとしているのです。
早 苗   柔術も柔術家もかわいそうなのですね。
矢 野   残念なことです。行くべき方向も失い、時代にもおいてきぼりになり、迷っ
ているのです。まるでストレイシープ、迷える子羊ですよ。
早 苗   先生、わかります。でも、とても子羊とは思えませんわ。それだったら迷える獅子ですわ。
矢 野   (笑) 早苗さんはうまいことを言う。迷える獅子か。なるほど、そうかも知れぬ。柔術家は、迷える獅子なのだろう。この、世をあげての文明開化の時代、誰もが野心を抱いて政治や欧米諸国に乗り出して行くというのに、いつまでも時代遅れの柔術にしがみついているのですから。世間の人から見れば、さぞ野蛮で無知な獅子でしょう。まして学問をやり、教鞭をとる人間がやるんですから呆れられても仕方ありません。
早 苗   いえ、わたしは決してそんなふうに思えません。たしかに知らなかったときは正直言って柔術家の方が怖くもありました。また、先生ほどのお方がどうしてそんな野蛮なものに夢中になったりするのかわかりませんでした。でも、須賀子様と親しくなり、こちらに来るようになってから少しずつ変わってきました。そうでしょう、これまで早苗の回りにいた人は誰もかれもがお金もうけか、立身出世のことばかり考えていたのです。これが人の世の中なのかと思うと悲しかった。でも、こちらに来てそんなことと縁のない世界があると知り、うれしく思いました。救われた気持ちになりました。はじめて先生と戸田さんさんのお稽古を拝見して――このあいだ須賀子様とこっそり拝見したのです。あのとき、わたしには柔術が、野蛮なものでも時代遅れなものでもなく頼もしくすばらしいものに見えました。迷っている獅子でもありませんでしたわ。百獣の王となるために、一生懸命に学び鍛えている、そんな姿に見えました。しっかりした目的をもった獅子を感じましたの。
矢 野   とうとう獅子にされてしまいましたか。(笑)よろしい、私が獅子なら、それならあなたは何かな。白菊の花ですか。あなたの好きな歌の・・・。しかし、早苗さんと柔術では、しっくりしません。獅子と白菊の取り合わせのように。
早 苗   そんなことありませんわ。獅子には白菊が似合います。
矢 野   ・・・そうですか。
間 
早 苗   先生、わたし学校を退学させられますの。父の命令で。
矢 野   うん、姉から、ちらりと聞きました。
早 苗   そうですか・・・。
矢 野   お嫁に行かれるのですか。
早 苗   いいえ、父の考え通りにはなりませんわ。父は財産と権力を交換する手段にわたしを犠牲にするのです。
矢 野   でも、一人娘のあなただ。お父上だって、あなたの幸福を願ってのことなのでしょう。
早 苗   ええ、わかっています。けれど、それは父の考えた幸福で、わたしの幸福ではありません。女だから何でも命令に服さなければならないのですか。先生、こんなことが許されていいのでしょうか。
矢 野   よいはずはありません。しかし、そのことをお父上に直接、申されたのですか。
早 苗   いえ、まだ・・・・。
矢 野   お父上と話し合って下さい。あなたの本心をぶっつけてみるのです。
(矢野、机に向かい、筆をとって書くと、向き直って見せる)
半紙に「力 必 達」と書かれている。
矢 野   つとめればかならずたっす。私は、この言葉を信念として柔術の修業に励んでいます。あなたが誠心誠意、心の底から訴えれば、お父上もきっとわかってくれます。感情的にならずに話し合ってください。一生懸命にやれば、必ずや成し遂げられる。そう信じることです。
早 苗   (力なく) ええ・・・それでは外に日とを待たせてありますので・・・。
(早苗、目頭を押さえて去る。矢野、じっと座ったまま見送る。間 戸田、入ってくる)
戸 田   先生、ただいま戻りました。早苗さん来ていらっしゃったのですね。そこで会いました。
矢 野   先日の人形を届にきてくれたのだ。
戸 田   はあ、そうですか・・・沈んだ様子でしたが・・・。
矢 野   うん、世の中はままならないからな。
戸 田   私にはわかります。今、世間の噂にのぼっているのは、財界の策士である椿家と前参議ではあるが、現在も政界に力を持つさる伯爵家との婚儀のことです。双方、火の打ち所のない良縁とのことですが、早苗さんは気がすすまな
いのです。早苗さんは・・・・。
矢 野   戸田、もうよい。彼女は、あれでなかなか芯の強い女性だ。白菊は、か弱くも誇り高き花だ。
戸 田   はあ、白菊・・・ですか?
矢 野   いや、何でもない。(本をひろげる)
戸 田   (独り言) 先生もいまは柔術より他はないからなあ・・・。
右手から矢野を呼ぶ、須賀子の声。
須賀子   浩さん、浩さん。
戸 田   はい。(出て行ってすぐに戻ってくる) 先生、大(おお)先生がお呼びでそうです。
矢 野   そうか、父上が・・・。(立ち上がって出て行く) 
―― 幕 ――
第三場
舞台  母屋の一作の部屋(床の間のある座敷)
一作、布団から半身起き上がって待っている。肩には羽織がかけてある。背後の床の間には、山水画の掛け軸。隣りに須賀子が座っている。矢野、左手から入ってくる。
須賀子   早苗さん、お急ぎでしたのね。
矢 野   ええ、人を待たせてあると言ってました。
一 作   (咳) 浩、早苗殿が須賀子のところに来るならともかく、お前のところに訪ねてくるとは一体どうしたことだ。早苗殿は、すでに婚儀の決まった身ではないか。椿の家に知れたら何と申し開きするつもりだ。
矢 野   別段、やましいことはありませんが。
一 作   お前がそうでも相手方はそうは思わないのだ。お前のそうした不注意さ無神経さが早苗殿を不幸に陥れるかも知れぬではないか。
矢 野   ・・・。
一 作   現に、お前はお前の姉を、その身勝手さから不幸な目にあわせている。
矢 野   姉さんを?
一 作   そうだ。今日、清閑寺家から手紙が届いた。高博殿との縁談を破談するとの知らせだ。
矢 野   えっ・・・。
一 作   理由は、聞くまでもあるまい。浩、お前が一番よくわかっていることだ。
矢 野   私が、ですか?
一 作   そうだ、結局、お前がいつまでも柔術をやり、無頼の徒のような武道家連中と付き合い、教育者の名を辱め、時代に遡航するような蛮行をやりつづけるというので、清閑寺家に適さぬというのだ。
矢 野   私が柔術をやるから、姉の縁談を破談にするというのは、昔の罪人の罪が一家に及ぼすのと同一と考えねばなりません。その方が時代遅れの考えと言えるのではないでしょうか。
一 作   理屈を言うな!だいたいお前は何のために柔術をやるんだ。一体、学問をやる人間が柔術を学んでどうしようと言うのだ。向こう様は、もはやお前が柔術をやめても、須賀子を嫁に迎える気持ちはないと言うのだ。それほど矢野正五郎の思想は毒されている、というのだ。浩、お前の言い分はどうなのだ。
矢 野   私は、柔術を学校の教育のなかに持ち込むつもりでおります。そうしなければ日本の教育は、日本古来の精神を失って、学術のみの不具者を生んで国家を危うくすると信じております。私は、いかなる困難に遭いましょうとも柔術はよしません。これを興し、成就させるつもりでおります。(ひろく伝えてゆくつもりでおります)
一 作   馬鹿な、学校が柔術を取り上げると思っているのか。
矢 野   柔術を否定する学校ならば、私は奉職いたしません。
一 作   この文明の摂取時代に(文明開化の時代に)、柔術を取り上げたら、ちょんまげ時代に逆行じゃ。野蛮な時代に逆もどりして、さなきだに(それでなくても)遅れている日本は、それこそ、その一事で外国の侮りを受けるというものだ。時代遅れの暴論もはなはだしい。お前は、西洋の学問をやりながら、一体なにを学びとったのだ。
矢 野   日本の尊さを学びとりました。私は、柔術を教育のなかに植えつけることで、日本人本来の行き方をひらく所存です。これに一切の力をそそいで参ります。(西洋の文明と日本の芸術。この相反する両者を融合させ新しい人間を育て
たいのです。そのことを柔術で試みたいのです)
        
 間 (短い沈黙)
一 作   姉の幸せを踏みにじっても、か。
矢 野   ・・・・。
一 作   父の嘆きを他所に見ても、か。
矢 野   ・・・・。
一 作   矢野家を悲境に陥れてもか、浩。
矢 野   ・・・・。
一 作   どうだ、浩。それでもお前は悲しくないか。姉を可哀想とおもわないのか。
須賀子   お父様、わたくしのことは構いません。弟が柔術をやるから嫁にもらえぬ。それは、ただの口実に過ぎません。よしんば、それが口実でないとしたら、そんな家に嫁いだわたくしが不幸でございます。わたくしは浩が柔術をやるのに賛成でございます。こんな誰も彼もが西洋文明かぶれするなかで、一人流されることなく毅然と抗して踏みとどまっている浩が、わたしには頼もしいのです。それよりわたくしには、お父様が、なぜ浩にそのようなことをおっしゃるのか、合点がいきません。以前の、ご維新前のお父様だったら、決してそんな言い方はなさらなかったでしょう。浩は、武士の魂を守ろうとしているのでございます。いまや文明開化の嵐に消え去ろうとしている日本人の心を、残そうとしているのでございます。たった一人で・・・浩の学問の才なら今の世の中、いかようにも出世の道はひらけましょう。しかし、いっとき己だけの名誉、権力を得たとしても、それが一体なんになりましょう。浩は、もっと五十年、百年先の日本人を、日本の国家のことを見つめているのです。そのために身を呈して戦おうとしているのです。
一 作   もういい。姉弟そろって父親に意見するつもりか。わしは、聞く耳は持たんぞ。わしだってわからんでもない。しかし、先のご維新でどんな辛苦を嘗めさせられたことか・・・・お前たちはまだ若いのだ。浩――。
矢 野   はい・・・。
一 作   須賀子の思いはわしにだってある。おまえたちの理想の高さはわしの誇りだ。しかし、それはそれだ。実際の世の中というものは理想だけでは生きてゆけぬ。どうかわかってくれ。(咳き込む)このごろわしはよく夢を見るんだ。お前が柔術家と戦って殺される夢だ。必死に、わしは留めるのだがお前は飛び出
していって・・・おかしなことにそのときのお前は、いつも子供なのだ。わしが手を引いて浅草へ連れて行った頃のままなのだ。
矢 野   いつも駄々をこねておりましたから、それでそんな夢をごらんになるのでしょう。
一 作   そうかも知れぬ・・・が。
一 作   (突然)浩!ここは何も言わんで柔術をやめんか。須賀子やお前に俗物になり下がったと笑われようがかまわん。わしはお前の柔術だけが気掛かりなのだ。お前の柔術が、お前の将来を邪魔せぬか、人に嫌われやしないか、下司な人間どもと争って怪我をしはせぬかと、いつもそればかり案じられるのだ。
矢 野   父上、私はけっして乱暴なことはいたしません。それに私だって将来のことを考えないでいるわけではありません。私は、ただたんに柔術家だけで終ろうと思っているのではありません。これまで戦いの武器でしかなかった柔術を、和の柔術に変えたいのです。だれでもができる柔術。私は、教育者として、その柔術をひろめていきたいのです。同時に、武術の魂を日本の青少年に教えていく所存です。
一 作   うむ、それはわかる。わかっている。しかし、ここは黙って柔術をやめてくれ、須賀子が嫁にいけないのも、多分に柔術のためじゃ。浩、頼む。柔術をやめてくれ。(頭を下げて)この通りだ。
須賀子   お父様――。
矢 野   お許し下さい、父上。
一 作   よく考えてな、浩、よく考えて・・・。(布団に横になる) 
矢 野   父上・・・・   
      (矢野、須賀子動かず)
―― 幕 ――
第四場
二ヶ月後の矢野の部屋。晩秋の昼過ぎ。矢野正五郎は机に向かって読書している。
(戸田が早苗を案内して入って来る)
戸 田   先生、早苗さんがまいりました。
早 苗   お邪魔します。
矢 野   やあ、お元気そうですね。
早 苗   お勉強中でしたの。
矢 野   なあに柔術の本を読んでいたのですよ。
早 苗   柔術術の、ですか。
矢 野   ええ、柔術の歴史を書いた本です。なかなか面白い。
早 苗   どんなことが書いてありますの。お聞きしてもよろしくて。
矢 野   いいですよ。(咳払いして)まず、いつからといえば、柔術の精神は古代の『ちからくらべ』に発して、と古事記にあるのです。建御雷神(たけみかずちのかみ)の力を表現して、若葦(アシ)をかるがごとく、つかみ、ひしぎて投げ給う、と書いてあるのです。これが力を象徴した最初のものなんです。しかし、こんな話、早苗さんには少しも面白くないでしょう。
早 苗   そんなことありませんわ。もっと聞かせて下さい。早苗、柔術のことをもっと知りたいのです。
矢 野   そうですか、面白くなかったら遠慮なく言って下さいよ。いま古事記のところを話ましたが、それから王朝時代は、相撲。戦国時代は、鎧組討ち(よろいくみうち)となり、取り手の術の小具足が興り、竹内流などの一流さえ編み出されたのです。しかし、今日ある、柔、すなわち柔術は徳川時代になって興ったのです。が、その起源は諸説があってはっきりしません。やわらの語源だといわれるのに関口柔心説があります。この根拠は、倭訓栞(やまとおしえのしおり)の、やわらの条に、柔術などいえり、紀州の関口柔心を祖とす、異朝にはなきことなり、とある。また、嘉良喜随筆の、関口柔心というものヤワラを使い出す、初めは本田中書に出で、後には紀州の大納言へ出ず、柔心が仕出す故にやわらという・・・と、あるくらいだから、柔心がその具現者であることはほぼ間違いないでしょう。他に、今の制剛流の源となっている制剛僧の創始説や福野七郎右衛門説。また、明人の陳元ビン説などがあるがいずれも信頼に足らずだ。これら諸流の中で、解釈として最も妥当だと思うものは天神信楊流の伝書にある――戦場組み討ちの節、非力の者が剛力なる者を容易に組み伏せ勝負を得候時分の形など拾い集め、追い追い諸先生方工夫して諸流相出候――とある。こうした諸流は、徳川時代に発達してその盛衰はあるにせよ、今日まで残っている流派の数だけでも決して少なくないのです。(指で数えながら)関口流、渋川流、三浦流、起倒流、楊心流、天神真楊流、汲心流、良移心当流、心明活殺流、殺当流、不遷流、伝無双流、荒木新
法――など、主なものだけでもこれだけあるのです。柔術の歴史をざっとかいつまんで話せば、こんなところです。
早 苗   随分と由来あるものなのですね。わたし何も知りませんでした。まるで能楽や歌舞伎の世界の話を聞くようです。
矢 野   そうです。柔術は伝統美を持った立派な芸術なのです。それだけに限っても我々は絶やしてはいけないのです。
早 苗   そんな大切なことを柔術家の方々はわかっていらっしゃるんでしょうか。
矢 野   うん、起倒流の飯沼恒民先生は転身して駅逓局の一雇員になられたが、未だ、柔術を捨ててはいない。必死で奥義を守ろうとしている。だが、残念なことに多くの柔術家はそうではない。社会から指弾されるべく拍車をかけているのだ。
早 苗   先生は、そのような柔術を守ろうとなさりたいのですね。伝承のために。
戸 田   守ろうとしているのではありません。先生は興そうとしているのです。新しい柔術を――興して教育の場に取り入れ、日本のために役立たせようとしているのです。
矢 野   戸田、そんな大風呂敷をひろげたら早苗さんに笑われるぞ。こんな狭い部屋の中で、そんなたいそうな計画をたてているのかと。
早 苗   いえ、そんな。わたくしお聞きして改めて感心しております。
矢 野   そうですか。戸田、これで同志が三人になった。心強いな。(笑)
戸 田   はい、頼りにできます。
戸 田   (早苗に頭を下げて)ちょっとお邪魔します。先生、大先生のところに行ってきます。
矢 野   薬の時間か。すまないな。
(戸田、一礼して出て行く)
早 苗   お父様、お悪いのですか。
矢 野   お年だからな。我々なら風邪ですむところだが、そうはゆかなかった。
早 苗   え、こんな日にすみません。
矢 野   いや、謝ることはない。いまは天に任すほかないのだ。
早 苗   先生、わたし、ほんとうは先生にも須賀子様にもお目にかからない心積もりでおりました。でも、女の感情としてそれは許されても、人間として、やはりきちんと挨拶しておくべきだと考えてお伺いしました。祝儀を控えているのに非常識な女とお思いになりますわね。
矢 野   そんなことは思いません。
早 苗   先生、許して・・・でも、わたし、決して父の命令ばかり聞いていませんわ。わたし、またきっと先生のところにお邪魔しますわ。そして、柔術のお話をもっとお聞きしますわ。そのときは、わたし、椿の娘でもなしに、お嫁に行った女でもなしにお会いしますわ。一人の人間として・・・・。
矢 野   早苗さん、私たちのやっている――といっても戸田と二人だけですが、柔術は決して無理しないところから生まれています。無心にして自然にです。わかってくれますね。
早 苗   はい。
      (外から須賀子の声)
須賀子   早苗さん、車夫さんが、お家の思惑を心配していますわ。お帰りにならないと。
早 苗   すみません。
矢 野   早苗さん、賛美歌の本のなかに、信じて祈れば山をも動かすという教えがありますね。その教え、私が新しい柔術に寄せる「力、必、達(つとめればかならずたっす)」と同じ意味と思っています。あきらめず堂々と、向き合えば何事も成就される。そう信じています。あなたも、流されたり背くのではなく自分の信念を理解されるようつとめてください。
早 苗   (力なく)はい、それでは・・・(一礼して出て行く)
矢 野   ・・・・(座ったまま見送る)
      間    (須賀子、急ぎ足で入ってくる)
須賀子   浩さん、早苗さんお帰りになったわ、よろしくって。
矢 野   そうですか・・・・。
須賀子   早苗さんは死にたいと言っていました。
矢 野   ・・・・・。
須賀子   本当によろしいんですか。
矢 野   姉さん、今の私には柔術の他は何もできません。早苗さんが、結婚されるというなら、それはそれで仕方ありません。
須賀子   そう・・・早苗さん、幸福になってくれればいいですよね。
矢 野   ええ・・・。
須賀子   いいえ!間違っているわ!あなたも、早苗さんも!
矢 野   信じた道を進むしかありません。
須賀子   悔しいわ。わたしにはどうしてあげることもできなくて・・・なら、浩さん、柔術はあきらめないでね。誰に遠慮もせず自分の思った通りにやってくださいね。(目頭を拭いながら、舞台右端に行って佇む)
矢 野   ・・・・。
      やや長い間 (庭から虫の音)
突然、物音がして、左花道から戸田が駆け込んでくる。
戸 田   先生!先生!
矢 野   どうした、慌てて。
戸 田   来たんです。来ました。
矢 野   どうしたというのだ。いったい誰が来たのだ?
須賀子   お客さまですの・・・。
右手から泉専太郎、手下二人を引き連れドヤドヤと入ってくる。
戸 田   (立ちふさがって)何です!無礼ではないですか!
泉、戸田の胸ぐらをつかむ。戸田も、泉の胸ぐらをつかむ。双方、投げの形になる。泉、
取り。戸田、受け。泉、後方に下がり、浮落しで戸田を投げる。
手下一   (転がった戸田に)ふん、青びょうたんめ。
泉     勝手に上がらせてもらいましたぜ。
手下二   矢野は逃げの名人だからな。
須賀子   あなた方は誰です!?何の用でおいでになりました?!
泉     知れたこと、矢野正五郎に用があって来たのだ。
須賀子   それならば、何故、玄関でお待ちになりませんの。まるで押し込み強盗まがいに断わりもなく家の中に入って来て。
泉     ふん、居留守を使われるといけねえからだ。
手下二   そうさ。小細工されるといけねえんで、先手を打ったんだ。
須賀子   何をおっしゃいます!無作法を棚に上げて。
泉     じゃかましい!お前さんは何だ?!昼間から女なんぞ相手にしているんか、
矢野は。(人形を指差して)それは、な、なんだ?まさか二人で人形遊びしてたわけじやあないだろうな。(笑)矢野は女みたいな奴だな。(笑)
手下一、二 (笑)
須賀子   私は姉です。
泉     姉!・・・そうか、やっぱり口だけは達者だ。学士の姉さんだけのことはあらあ。そんなことより、おい、矢野、いつまで女の後ろに隠れているつもりだ。
矢 野   姉さん、こちらはお玉が池の道場の兄弟子、泉君です。
須賀子   そうですか、磯先生のところの――。
泉     ふん、矢野に兄弟呼ばわりされたくもねえや!
手下一   本来なら泉先生が天神真楊流の奥伝を許され後継者となるべきところを、矢野が学士の弁口でまんまと騙しとったのだ。実力は雲泥の差なのにな!
須賀子   磯先生は、人間をみられたのでしょう。
泉     何い!
矢 野   姉さん、大丈夫ですから、父上を。
須賀子   そうですか。(泉に)では、ごゆっくり。
須賀子、出て行く。
泉     ふん、口喧しい女だ!。これで話がし易くなった。(座る)
矢 野   何用ですか。
泉     とぼけるな!あのときは、うまいこと先生をたぶらかせたが、免許といい、皆伝というのには法がある。その法を踏もうじゃないか、矢野。
矢 野   法!?・・・どんな法だ?
泉     知れたことよ。免許皆伝は、同じ流派の一番出来る人間がもらって跡を継ぐのだ。子供でも知っているわ。
矢 野   確かに。だから、なんだ。
泉     とぼけるな!たとえば、お前と俺だ。俺は、まだお前と勝負していないぞ。死んだ先生を悪く言いたくないが、勝負もせずに、先生はお前に免許皆伝を与えた。俺は、そのことに不服なのだ。
矢 野   そういうことか。君の不満はわかった。
泉     では、勝負するつもりはあるんだな。
矢 野   うん、場合によっては、な。
泉     よし、じゃあ、日と場所を決めよう。後になって反古されないよう念書を書いてもらうぞ。
矢 野   それには及ばん。
泉     なぜだ?
矢 野   ここでは、どうだろうか。
泉     ここで・・・今か?
矢 野   そうだ。二人だけの問題だ。あいにく道場はないが、庭で承知なら。
泉     庭?・・・い、いいだろう。望むところだ!(立ち上がりかける)
矢 野   その前に、話しがしたい。
泉     言った先にもう臆病風に吹かれたのか!立て!
矢 野   場合によっては、勝負してもいいと言っているのだ。君の話は聞いた。だから私の話も聞いてもらう。それからでも遅くあるまい。勝負となれば生き死にの問題だ。お互い納得して臨みたい。
泉     よかろう。(座り直す)で、なんだ、この期に及んで話とは。
矢 野   では聞くが、君はなぜそんなに私と戦いたいのか。理由を知りたい。
泉     理由か。言ってやろう。貴様は死んだ磯先生や福田先生から天神真楊流の免許皆伝を受けたな。奥伝を伝えられたとも聞いた。
矢 野   その通りだ。
泉     そこに俺の怒りがあるのだ。貴様は、流儀を知っているか。磯道場でも福田道場でも兄弟子は誰だ。泉専太郎は、貴様の兄弟子だ。たとえ、死んだ先生がやった事にせよ、奥伝を受けたとき、何故、俺に一言の挨拶もしなかった。それが同流の仁義か。兄弟子に対する態度か。
矢 野   それは、ご承知と思うが。天神真楊流奥伝は、これを受ける者以外、披見を許さず、口伝を許さず、とある。私は、ただそれに従ったまでだ。
泉     ・・・・。
矢 野   亡くなった先生の御意志によつたまでである。しかし、泉君、君がお望みとあれば奥伝はおゆずりする。免許もお返ししよう。私が、いまもって柔術をやっているのは、天神真楊流の看板が欲しいのではない。免許の形式が望ましいのでもない。要は、柔術を極めることだけにあるのだ。維新以来、柔術は堕落した。これは、ただ時代に取り残されて衰微した故の堕落ではない。柔術家自身の精神の堕落なのだ。術を芸人の芸に置き換えた時に、これはすでに武術ではない。従って、見世物にも出る。喧嘩の道具にも使う。威嚇の具にも用いられる。私の願いは、この堕落したものを、もう一度、日本の武
術に還すことである。滅ろばんとしている柔術を、蘇えらせたいのだ。
泉     ・・・・・。
矢 野   別の面から見れば、知ってのとおり、今日の諸流は一部門の柔術を一子相伝してきた。投げ業、捕手、逆業、絞め業、当身業と別々に修業して、その免許皆伝も、口伝、伝書の形で一人から一人へ渡されている。柔術一切の奥義に通達する道をはばんで来たのはこれである。私は、日本柔術に一貫して流れた精神と原理を求めて柔術の大道を築くことを念願した。もとより天神真楊流の奥伝を己一個のものとする偏狭は持たぬ。喜んで譲ろう。もし、君が真正な柔術をこれによって開拓してくれるなら、私は、むしろ喜ばしいのだ。
泉     ・・・・。
矢 野   今日の日本に必要なものは柔術の精神なのだ。武士の魂なのだ。私は、文明開化で外国に崩されていく日本の大地の揺るぎを日ごとに感じている。私は武士道を回復したい。その一人として、君が柔術の精神に正しく、修業に励み、迷える柔術家たちを導いてくれるとしたら、私は、盟友と思うだけである。同志を得たとして心強く思うだけである。お互いに柔術を志しながら、なんの勝負が必要であろう・・・。泉君、私の夢は日本に柔術の栄えることだ。国民の一人一人が稽古着を担いで道場へ通う日の姿だ。
泉     ・・・・。
矢 野   理屈を言ったな、泉君。わかってくれれば幸いと思う。
泉     ・・・・・・・・・。
      間
手下一   先生!な、なにをぼんやりしてるんです!?早いとこ、決着つけておくんなさい。
手下二   いつまでごたく並べさせておくんですか!?矢野の野郎に!!
泉     うるせえ!!(深く頭を下げながら)俺の負けた゛。矢野、柔術を頼んだぞ。
      泉、立ちあがって、早足で、右手に去る。
手下一   せ、先生!
手下二   待ってください!
      手下二人、慌てて後を追って去る。
――― 幕 ―――
第四場
場所 大磯にある椿家の別荘の応接間。白い壁の洋風の部屋。窓から海が見える。左隅に
オルガンが置いてある。季節は一月半ば、時間は昼過ぎ。矢野、窓際に佇み、海を眺めて
いる。
早 苗   (部屋の外から。声だけ)ありがとう。ここでいいわ。
看護婦   (同じく声だけ)今日は、お顔の色がとってもおよろしいわ。でも無理なさらないでくださいね。お加減、悪いようでしたらすぐにお知らせくださいね。
早 苗   (同じく声だけ)はい、はい。
      ドアが開き、早苗、入ってくる。
早 苗   先生、お待たせして、ほんとうに・・・。
矢 野   やあ、しばらくです。貴女が病気で倒れられたと聞いて驚きました。姉がお見舞いに来ねばと、気に病んでいましたが、なにしろ父上の看病で・・・。
早 苗   ご心配かけてすみません。無理に寝かされたせいで足がふらつきますの。失礼して。(椅子に座る)
矢 野   しかし、これなら姉も安心するでしょう。ちっとも病人のようにみえませんよ。貴女は、本当に病気なのですか。
早 苗   あら、仮病に見えまして。ふふふふ、ほんとは、そうかも知れないんですの。運命からの遁走。エスケープですの。おかげで、婚儀は無期延期。胸の病と聞いてあちら様は手の平を返したようにつれないんですの。ほとんど破談ですわ。計りがたきは人の身、人の心ですわ。
矢 野   妙ですね、それなのに貴女はうれしそうだ。もしかして戦うといっておられたのはこのことだったのですか。
早 苗   もし・・・そうだったら、先生、わたしを奪いとりに来てくださいます。
矢 野   来ます!
早 苗   ほんと!?ほんとうですの?
矢 野   嘘なものですか。もう誰にも遠慮はしません。馬車を花でいっぱいに飾ってやってきます。
早 苗   おとぎの国のお話ね。(笑)
矢 野   (笑)病気が治ったら、私は本当に迎えに来ますよ。約束します。
早 苗   本当にお約束してくださいますね。
矢 野   もちろんです。
早 苗   うれしいわ。けど・・・遅いんですもの・・・先生は。
矢 野   だから、貴女も病気に勝つことを約束してください。早く、元気になって時々、風月のピスケットをお土産に持ってきてください。
早 苗   ときどきなんて嫌です。
矢 野   そうですか。じゃあいっそう住み込んでもらいますか。戸田は柔術に専念できると喜ぶでしょう。でも、大変ですよ。稽古着を洗ったり、繕ったりできますか。
早 苗   へっちゃらですわ。お人形の稽古着、わたしがつくったのよ。
矢 野   ああ、そうでした。あれなら立派なものです。弟子が十人になっても大丈夫だ。
早 苗   たった十人ですの。わたし百人に増えたって平気ですわ。
矢 野   (笑)頼もしい限りです。
      早苗、不意に立ちあがって窓外をながめる。
早 苗   わたし、もう死ぬことなど怖くありませんわ。あの海・・・人の体はほとんど水からできているんでしょ。はじめのうち、死んだら、あの海の一滴になるのかと思うと怖かった。だから、いつもここに立って、あの打ち返す波とにらめっこをしていたの。負けるもんかって。でもこのごろはあの海がなつかしく思えるんです。だって、すべての生物は海から生まれたんですもの。わたしは、ただそこに帰るだけ。そう思ったら、死ぬことなんかちっとも怖くないわ。
矢 野   早く元気になって、私の道場に来るのではなかったのですか。あまり長く立っていると体にさわりますよ。
早 苗   構いません。早苗、楽しいんですもの。病気にならなければ、こんな幸せが得られないなんて。(目頭を拭う)
矢 野   病気にならなくたって、貴女を救い出しに来るつもりでしたよ。たった一人で戦っている貴女を放っておけるものですか。
早 苗   うれしいわ。早苗、もう何も思い残すことないわ。
矢 野   何を言うんです。元気になりますよ。元気になって、また私の柔術の話を聞
いてください。
早 苗   あ、そうでした。柔術のこともっと知りたいんですもの。私にも柔術を教えてください。いいでしょ。
矢 野   もちろんです。これで弟子が二人になった。(笑)
早 苗   楽しみにしていますわ・・・じゃあ、先生、そのときのお礼にオルガンをひかせてください。歌も。聞いてくださる?
矢 野   聞きましょう。しかし、大丈夫ですか?
早 苗   ええ、わたし、とても気分がよくて歌いたいんですもの。
      早苗、オルガンの前に座る。
早 苗   では、椿早苗の十八番をお聴かせいたします。
      早苗、オルガンを弾きながら歌いだす。
      庭の千草も 無視の音も
      かれて淋しくなりにけり
      ああ白菊 ああ白菊
      ひとりおくれて咲きにけり
      ―― 幕 ――
      (幕の内側から歌と曲、徐々に小さくなって消えていく)
      露にたわむや 菊の花
      霜におごるや 菊の花
      ああ あわれあわれ ああ白菊
      人の操は かくてこそ
第五場
 一ヶ月後。矢野の部屋。深夜、戸田、一人机に向かってランプ明かりで英語の勉強をし
ている。矢野、入ってくる。
戸 田   先生、大先生のごお容体はいかがでしょうか。
矢 野   うん、漢方医も西洋医学の医者も手だてがないそうだ。
戸 田   そんな・・・。
矢 野   なにせ高齢だからな。戸田、稽古の相手ができなくてすまないな。
戸 田   何をおっしゃいます。先生、こんなときに稽古などできません。
矢 野   うん、そうだが・・・。これからは、いつ何時、試合を申し込まれるかも知れぬから、稽古は絶対によせぬのだ。
戸 田   でも・・・。
矢 野   お前一人でもどこかの道場で稽古してきて欲しい。
戸 田   えっ、それでは他流と試合をしてもよろしいのですか。
矢 野   うん、私は戦いをはじめる。他の柔術家たちとも、世の中とも。柔術諸流統一の道は、それより他あるまい。勝っても負けても。戦うのは、憎しみでもこだわりでもない。あくまでも大きな和を求めてのことだ。
戸 田   先生!私はやります。関口流とも、良移心当流とも、心明活殺流とも、戦って先生の新しい柔術を証明してみせます。
矢 野   柔術の統一。新しい柔術。道場もない、貧乏な若造のくせに理想ばかり高いと柔術家や世間は笑うだろうな。
戸 田   笑うものですか。あの泉専太郎が改心しました。
矢 野   うん。そうだな。
戸 田   今度は、私が大先生についてきます。先生は休んでいてください。
矢 野   すまないな。
      戸田、出ていく。矢野、腕組をして文机に寄りかかる。間 須賀子、置きランプを持って入って来る。
須賀子   浩さん、ちょっと。
矢 野   姉さん・・・何か?
須賀子   悲しい時には、悲しいことが重なるものだわ。
矢 野   何です?!
須賀子   大磯から使いの人が、今、みえたのです。
矢 野   大磯から!?こんな時間にですか・・・?
須賀子   早苗さんが今日、お骨になって東京に帰ってきたんですって。
矢 野   えっ!早苗さんが。
須賀子   亡くなってしまわれたんですって!おかわいそうに。
      須賀子、泣き崩れて去る。矢野、流れる涙を拭わず、じっと座っている。
間 
戸田、入ってくる。
戸 田   大先生、おやすみになられました。
矢 野   戸田!早苗さんが亡くなられた。
戸 田   えっ!そ、それは、いつのことでしょうか。
矢 野   先ほど、知らせがきたらしい。いま姉が伝えにきた。
戸 田   そんな、早苗さんが・・・。(座りこむ)
矢 野   やっぱりいけなかったようだ。
戸 田   先生、お察しいたします。(泣き崩れる)
矢 野   泣くな。(机の上から人形をとって)これが遺品になろうとは・・・ひどく汚れてしまったな。明日からは休ませねばなるまい。これからは机の上の大将だ。
戸 田   どうして・・・。(嗚咽)
矢 野   泣くな・・・。
  
      突然、母屋からオルガンで『庭の千草』の曲が聞こえてくる。
戸 田   (驚愕して)先生!あれは。
矢 野   姉が弾いているのだ。
      二人は、じっと聞き入る。オルガンやんで静寂。
戸 田   早苗さんの好きな曲でしたね。
矢 野   ああ・・・。
      間
戸 田   先生。
矢 野   ん・・・。
戸 田   (矢野と向き合って姿勢を正す)先生。
矢 野   どうした、あらたまって。
戸 田   先生は今、何をお考えになっておられるでしょうか。
矢 野   今か。
戸 田   もしかして先生は、柔術をやめようと・・・。
矢 野   私は柔術をやめようとは考えていない。父上を苦しめ早苗殿を不幸に陥れたのは決して柔術のせいではない。
戸 田   どんなことがあってもですか。
矢 野   もちろんだ。
戸 田   こんなとき先生に失礼なことを申し上げて済まんこととは思いますが、私は先生が柔術をおやめになるのではないかと不安なのです。
矢 野   心配するな戸田。私は命のある限り柔術を極める。たとえなにが起ころうとだ。よく言うではないか、太陽が西から出ようとも、河の流れが逆になろうとも、私は職を失い、肉親を失い、世間から嘲笑されようとも、この道を極めていくのだ。父上は、いつかはわかってくださる。早苗殿もそうすることを喜んでくれるはずだ。今や、柔術を極めることが早苗殿への手向けでもあるのだ。私はそう考えている。
戸 田   先生!私は、どこまでも先生について行きます。
矢 野   やろうな、戸田。私は柔術の精神を生かして、新しい柔術をつくる。そのためには死も辞さぬ。この道を阻む一切と戦う。お前も一緒について来い。苦しく、辛かろうが、これが柔術に魅入られた人間の人生なのだ。死と対峙した早苗殿のことを思えば、そんな苦労などなんのそのだ。
戸 田   は、はい!
      (間)
 
(障子戸が、薄っすらと明るくなる。)
矢 野   いつのまにか夜が明けたようだな。
戸 田   はい、いつの間に。
矢 野   そうだ、今日から新しい柔術の始まりとしようではないか。
戸 田   新しい柔術のはじまり、ですか。
矢 野   うん、考えていたのだが柔術あらため日本伝紘道館柔道。で、どうだろうか。
戸 田   日本伝紘道館柔道ですか。
矢 野   そうだ、柔術を柔道と変えたのは、術の小乗から道の大乗に達するためだ。どうであれ、これが私の流儀の名になる。
戸 田   日本伝紘道館柔道、いいですねえ、先生、実にいいです。(人形を手にとって)早苗さん、聞きましたか。日本伝紘道館柔道、すばらしい名前でしょう。
矢 野   戸田が気に入ってくれて私も嬉しいぞ。
戸 田   はい!
      (障子戸が急に明るくなる。)
矢 野   おお、日が昇るところだ。
二人、立っていって障子戸を開ける。
    ――― 幕 ――              

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