文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.146

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2010年(平成22年)5月24日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.146
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
前期4/19 4/26 5/10 5/17 5/24 5/31 6/7 6/14 6/21 6/28 7/12 
  
2010年、読書と創作の旅
前期の観察旅は、(車中と日常) & 名作読み・発表・表現
5・24ゼミ
5月24日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1.「2010年読書と創作の旅」車窓、課題発表
  2.古典車内観察・名作「心と手」O・ヘンリー
  3. テキスト(車中作品「網走まで」)の比較作品『三四郎』
      
ある日の午後観察
わがこころ高原に
17日は途中、小用があったので、早めに家を出た。用事は簡単に済み、運よく快速、急行と乗り継げたので航空公園駅には、2時前に着いた。いつもより1時間も早かった。
五月晴れの午後は、物憂くもあるが、和やかだ。駅前を行く人々の歩が緩慢に見える。
繁れる街路樹や公園の若葉に「書を捨て街にでよう」こんな言葉が頭をよぎる。『異邦人』のムルソーは、太陽が暑すぎて殺人を犯したと供述した。が、5月の太陽は、心地よすぎて、何処かへ誘う。私の足は、ふらっと公園の森に向かった。
汗ばむような日差しだったが、公園の森の中は、三々五の散歩者。若いカップルあり、中高年者夫婦あり、ジョギングする人ありだった。小犬を連れた老夫婦が、道端の草の上に新聞紙を敷いて休んでいた。しばらく行くと林の中に広い草原の広場があった。観客席のベンチに若者が二人、上半身裸で寝転んでいた。一人は本を読み、もう一人は眠りこけていた。広場は人気はなく、静まり返っていた。時おり聞こえてくる私鉄電車の轟音もより静寂を深めた。私は、ベンチに座って、ぼんやり時を過ごした。鳩が二羽、足元で無心に地面をつついていた。一陣の風が通り過ぎていった。心地よい風だった。私は、いつの間にか信州の実家の裏山を歩いていた。風が吹くたびに木漏れ陽が雨のように降り注いだ。
話し声で目が覚めた。が、一瞬の間、私の心は信州の裏山にあった。起きて振り向くと老夫婦が、通り過ぎたところだった。3時のスクールバスに間に合いそうだ。私は、公園をでた。ゼミの終わり、後藤君が本を返しにきた。先週紹介の名作、気に入って古本屋で見つけたといった。サローヤンの『わがこころ、高原に』だった。昭和47年(1972年)発行で、当時270円の本だったが1000円の値がついていた。(早川書房)価値は、微妙か。
出席者は8名
 この旅の参加者者11名で、ほぼ決まりのようだ。はじめて今日からの同行者が一人。が、3人欠席。この日の参加者は、次の8名の人たちでした。
・伊藤果南  ・後藤大喜  ・重野武尊  ・竹下晃誠  ・高口直人
  ・阿井大和  ・塚本笑理  ・伊藤光英


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.146―――――――― 2 ―――――――――――――
車窓雑記 風薫る五月、この爽やかな季節に、車窓は
大山鳴動して
 あれほど大騒ぎした普天間米軍基地移設問題だが、ここにきて鎮静化に向かいつつあるようだ。口蹄疫被害拡大という、思わぬ災害。21日現在で約20万5000頭の殺処分対象が決まったという。九州全域は、もはや米軍基地どころではなくなった。加えて北朝鮮による韓国艦沈没疑惑。もしかのときは米軍頼み。鳩山首相にとっては、不幸中の幸いともいえる出来事が相次ぐ。それに勉強すればするほど大きくなる抑止力。国民の意識のズレもある。たとえば米軍基地は、日本を守るために必要。こんな見方が一般的だが、外国からみれば百八十度違うらしい。米軍が駐留するのは、日本の軍国化を見張るため、そんな注意があるようだ。戦前の日本軍に対する恐怖。忘れているのは日本人ばかりか。
米軍基地問題は、早い話、日本人自身では、どうにもならないタブーだった。そのことをマスメディアも政府も知っていたのか。5月23日付け読売新聞朝刊の一面に大見出しで「辺野古で日米大筋合意」の見出しが躍った。「21日には「結局埋め立て」とでた。20日の朝日も一面に「普天間 月内に共同声明 日米最終調整 辺野古移設を明記」と発表した。参議院選も7月11日と決まったようだし、どうやら、これで終息しそうだ。結局、大山鳴動して鼠一匹という話だった。
引きこもりの人推定26万世帯に
 定義「社会的参加を避け、原則6カ月以上家庭にとどまりつづける状態」19日厚生労働省が発表したところによると、4134世帯を対象に調査した結果、23世帯に10~40代の引きこもりを確認したという。これにより全体では約26万世帯と推計。対策を迫られている。引きこもりの多くは精神障害とみられる。
 引きこもっていた人間が、ある日、突然人を殺したくなった、といって凶行に走る事件がたまにある。裁判になると裁判員を悩ますケースである。以下の裁判がそれに当たる。
「透明な存在」という悪魔
20日京都地裁であった裁判員裁判は、ある意味で難しい判決だった。事件は母親の被告(37)が2004年から2008年の4年間のあいだに岐阜大や京都大の大学病院で、当時2歳の三女(事件後死亡)、四女(死亡当時8カ月)、当時1歳の五女(3)の点滴に古い水道水などを混入し、結果的には2人を死亡させ、1人を重体にさせた。可愛い盛りの、それも年端もいかない娘をなぜ ? この母親を知る周囲の人たちは、「信じられない」「子どもたちを可愛がっていたやさしいお母さん」だったと好評。そんな母親が、なぜ、誰もが疑問に思うところだ。結審で裁判長は、「身勝手な動機に同情の余地はない」と述べ、懲役10年(求刑15年)を言い渡した。この裁判が、なぜ難しいか。それは、犯行に及んだ動機にある。可愛いわが子を次々と毒牙にかけた理由。それは、なんと「病気になった娘を献身的に看護する自分をみせたい」とする不可解なもの。自分が甲斐甲斐しく働いているところをみせたい。そのために子どもに毒を盛り、病気にさせる。そんな動機が真実あるだろうか。
「代理ミュンヒハウゼン症候群」。この症候群は、一種依存獣の仲間らしい。ある病院に原因不明の病気で入院し続ける子どもと、献身的に看護する母親がいた。医者たちは、あの子の病気は、いったい何か。頭を悩ませた。外部からの影響か。考え得ることは、それしかなくなった。そこで、密かに病室に隠しカメラを設置した。犯人は母親だった。点滴に汚物を入れていたのだ。なぜ母親はそんなことをしたのか。新たな謎が生じた。依存症状とみることで理解された。買い物依存、薬物依存、摂食障害、と同じ「自分をよくみせたい依存」なのだ。ゼミガイダンスで「ドストエフスキーとギャンブル」を読んでもらったが、文豪も患っていた、恐ろしい嗜癖。健常な肉体のなかに潜む「透明の存在」という悪魔。この悪魔を本人から追い出すのは至難の業である。
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.146
 
「2010年、読書と創作の旅」同行者
 「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」というわけで、ことしも新たな旅がはじまりました。三々五々の出立でしたが、先週の17日、3名欠席でしたが、同行者は、全員を確認しました。以下、 2010年の時空を旅する全員11名の皆さんです。改めて紹介です。自他共栄の精神で有意義な一年にしましょう。
  班長・立川睦生      副班長・後藤大喜
     
   ゼミ誌編集長・伊藤光英  副編集長・塚本笑里
ゼミ誌編集委員・全員
・伊藤 果南(いとう かな)95A-089-2
動機:「1年次のゼミではなかった、互々の作品の合評。また共通の文学作品を読み内容の探求を行うという授業内容に惹かれました。特にいまの私に必要なひたすら書くこと、書いたものを人に読んでもらう機会をゼミという少人数の中で得たいと思い、そのような目的に沿ったゼミに是非入りたいと考え希望した。」
PR:「身近な女性(特に母)を題材に主にエッセイを書いていますが、今後は小説などのフィクションも書きたいと考えています。また今までは、戦前の物故作家を中心に読んできましたが、この1年では、古典(和洋問わず)を読もうと思っています。谷崎潤一郎、岡本かの子、マルグリット・デュラスが特にくり返し読んでいます。」
□自分が宿る「私」とは何か。多くの作家は、まずこの疑問を観察します。「私」の行動や考えを作品にしたい。その思いから、たくさんの私物語、書簡小説・日記小説が生まれています。このゼミで、その思いの種を育てましょう。「私」の次に観察したいものは母親のようです。志賀直哉もそうでした。が、なかなか書けませんでした。私もです。
・立川 陸生(たちかわ りくお)95A-014-4
動機:「二人での話や車内など、そうした狭い空間での話に興味があるので」
PR:「一年次は佐藤ゼミで、わりと自由に書いていたので、どちらかといえば自由に書くのが好きですが、ジャンルを固定した作品も書いてみたいので」
□第一印象は、当てにはなりませんが、そうでないときもしばしばです。たまたま近くにいたそれもありますが、瞬間なんとなくみんなをまとめてくれる。そんな雰囲気を感じたので班長に指名しました。よろしくお願いします。
・重野 武尊(しげの たける)95A-072-7
動機:「自分の中で、よいゼミができるような気がしたからです」
PR:「だいたい何でもできる人間です」
□たとえば幕末に「棲みなすものは心なりけり」という下の句があります。自分のなかで思ったことは真理です。きっとよい一年になると確信します。マルチは頼もしいですね。頼みにしています。
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・塚本 笑理(つかもと えり)95A-114-8
動機:「正直なところ私は、志賀直哉の作品を読んだことがありません。武者小路実篤の「友情」が好きで、あの作品の主人公に感情移入すると、志賀直哉がモデルと言われている大宮が、嫌いになり、ついつい読もうと思えませんでした。なので、電車と志賀直哉が結びつくイメージはありませんでした。今回、このゼミで手にとらなかった志賀直哉の作品を読み、印象を一掃したいと思います。」
PR:「私の家は鎌倉です。所沢キャンパスに来るまでに、大船~池袋で約1時間、池袋~所沢~航空公園でも約1時間かかります。なので、車内小説を書くという意味では、とてもめぐまれています。
□志賀直哉は多くの作家から「小説の神様」と言われています。それはなぜなのか。この一年で解けるかどうかわかりませんが、挑戦しましょう。長い通学時間を有効利用する。いいですね。でも、無理しないで気楽に観察してください。実は、私も私鉄~JR津田沼~東京~池袋と乗り継いできます。大半が居眠りです。
・越智 美和(おち みわ)95A-126-4
1年ゼミでは宮沢賢治と林芙美子をやってきました。
□越智という苗字から四国出身でしょうか。知り合いに何人かいますが、みな四国の人だったように思います。林芙美子については、『江古田文学71』林芙美子特集で従軍ルポ「『北岸部隊』を読む」を寄せています。
・阿井 大和(あい やまと)95A-111-2
動機:「読書するのは好きであったが、読書自体について深く考えるということなかったので、これを機会として見つめ直してみたいと思った。読書をし、そして書くという習慣化をしたいと思った。また、自分自身、柔道初段のため、嘉納治五郎が出てきて興味を持った」
PR:「現在、合気道をやっています。志賀直哉は、今まで読んだことがないですが、これを機に読んでみたいと思います。」
□好きこそ物の上手なり、といいますが、何事も、この一語に尽きます。それさえあればどんな困難も乗り越えられます。合気道も嘉納治五郎と深い関わりがあります。
・後藤 大喜(ごとう ひろき)95A-002-8
動機:「良い創作は、良い読書からということは前々から自分も思っていたことで、(ガイダンスに)共感しました。また車中小説という限られた空間での人間観察か描写に興味があります。」
PR:「去年は、ゼミ委員として、ゼミ合宿企画、ゼミ誌製作に積極的に参加しました。」
□ガイダンスで、きちんと授業説明できたかどうか不安でしたが、しっかり理解していてもらえたようで、うれしく思いました。ゼミ誌に昨年の経験を生かしてもらえれば楽しみです。
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・藤重 はるか(ふじしげ はるか)95A-171-9
動機:「小説を作りたいなら、書くという実践も大切だが、小説を見る目も大切である。という考えに興味を覚えた。作者にも、的がしぼられているので、内容が明確化されそうだし、日常生活における時事問題も取り扱うという点が魅力だと思った。」
PR:「今年、映画学科から転科してきました。コースは、脚本だったので、作品を読む時、脚本の書き方、読み方、という視点から自分なりの考えを展開できたらと思います。」
□どんなに映像や演技者がよくても、脚本がだめだと目もあてられません。脚本は、時事、日常生活のように生ものと思っています。映画批評・感想も発表し書いていきましょう。
脚本読み(富田常雄原作『姿三四郎』)を実施。
・伊藤 光英(いとう こうえい)95A-091-1
動機:「初めて小説を書いたとき、こんなものが書きたいと思い浮べていたのが『城の崎にて』でした。しかし、最近ではよく観察しょうという心構えが希薄になってしまっているように自分で感じます。よく観察する目を養うために、このゼミを希望します。」
PR:「真面目に出席します。」
□名探偵、名刑事は、徹底観察で、犯人の完全犯罪を打ち破ります。コロンボしかり、ホームズしかりモンクしかりです。心境小説といわれる『城の崎にて』が名作なのは小動物の命観察をしっかり書いているからです。蜂、ネズミ、電車にはねられた自分。車中のあと、動物観察も、志賀作品テキストに実施予定です。
     「ここが一番 ! 」、いつもそんな気概で
ゼミ誌作成計画
ゼミの一年間の成果は、ゼミ誌にあります。皆で協力して、記念碑としてください。ちなみに、すべてのゼミ雑誌と実習誌を対象とした
2009年度の「第二回 金のたまご文学賞」の創作部門で2008年下原ゼミⅡ『ドレミファそらシド』から小黒貴之君の「宙をくりぬく」が選ばれています。
1.ゼミ雑誌作成ガイダンス5月25日正午12時20分から教室1 正副編集長参加
 2.「ゼミ雑誌発行申請書」を出版編集室に提出
 3.ゼミ誌の装丁を決める
 4.9月末をメドに原稿締め切り
 5.印刷会社を決める。レイアウトなど編集作業
 6.「見積書」を出版編集室に提出
 7.11月半ばまでに印刷会社に入稿
 8.12月15日(後期前半授業終了日)刊行のゼミ誌を出版編集室に提出 締切り厳守
 9.印刷会社からの「請求書」を出版編集室に提出
重要事項 → 「ゼミ雑誌発行申請書」「見積書」「請求書」の提出
※ ゼミ誌掲載作品について、課題提出の観察作品も掲載できればと思っています。
※ 観察作品のなかから「土壌館文芸賞」を選考します。
2010年12月15日納品締切り厳守!!
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「2010年、読書と創作の旅」5・24プログラム
本日のゼミは下記の要領で実施します。
「ゼミ通信146」配布 点呼 11名全員いれば再度記念撮影 「車窓雑記」、司会指名
 ※司会者は、名作、テキスト読みの配分を考えて、全員に読んでもらうよう、読みの途中で区切りを指示してください。
1. ゼミ合宿採決報告 正副班長
2. 課題・観察作品発表と感想
3. 名作紹介「心と手」&テキスト『網走まで』『夫婦』のこと
4. 比較作品読み・夏目漱石『三四郎』車中観察場面
課題1・車内観察発表
青春老女
                            伊藤果南
 先日電車に乗り込むと、目の前に一人分には少し狭いようなスペースの座席が空いていた。一瞬悩む幅、けれども横に座ったおばさんが、自分のお尻に懸命に上着の裾をたくし込んでくれるのを見たら、座らないと悪いような気になった。
 「あなた良かったわね。あそこにいる人が席を譲ってくれたんだけど、あの人のときは一人分だったのよ、私たちなら二人座れるわ」
 おばさんの指差す先には大柄な男性が。ちょっと笑ってお礼言うと、ふと、そのおばさんのネイルが素敵なことに気がついた。ゴールドのマットなベース、親指には白椿の花を描いている。なかなかのセンスだった。
 「素敵なネイルですね」
 「ああ、これ?あなたのも素敵じゃない。ご自分で描いたのかしら?」
 「はぁ、でも私のは手入れしないので、剥げかけちゃってて…」
 「私はね、お正月に百合の花を描いてたんだけど飽きちゃったのよ。それで今度は白椿にして観ようと思ったの。出掛けに履いた靴がたまたまゴールドだったもんで、わざわざネイルも塗り直したのよ」
 そう言うおばさんの指先を、もう一度まじまじと見てみると、職人芸と呼べるほどの細やかさで、椿の花弁一枚一枚がとても丁寧に描かれている。私は自分の剥げかけた爪先に再び視線を落として、なんだかとても恥ずかしくなってしまった。
 「すごいこだわりですね」
 「お近くだったらして差し上げるのに。私、三島から来てるのよ。そうそう、この真珠のブレスレッドも私が作ったの」
 「へえ、手作りには見えないくらい粒が揃ってますよ。いつも素敵なファッションでいるっていいですよね」
 「うふふ。主婦失格ってことだけど、こういうこと、好きなのよ。私ももう八十一になってるんだけど」
 私はびっくりして隣で微笑む”おばさん”を見た。ハタチになる私より、半世紀以上長く生きてきたとは到底思えないその老女は、八十を過ぎていると言いながらも、どこか私には持ち得ない、女の色気を感じさせてならなかった。
□そうですねお年寄り度は年齢ではないですね。
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小説『網走まで』について
17日ゼミで8人の参加者は、テキスト2の『網走まで』を読んだ。音読前の紹介で、「ゼミ通信」編集室は、何の変哲もないエッセイのような作品に見えるかも、と述べた。はたして、読了後の皆の感想は、だいたいのところそのようであった。
「わからない」「なんとなく面白そう」「母と子にリズム感がある」「妄想的だ」「主人公が嫌味だ」「最後の意味するところは」「一つの女性観」等などである。
志賀直哉が、多くの人から「小説の神様」と云われる、(そうでないという人もいるが、100年過ぎても古さを感じないところに、論じる価値があるところに)その所以がある。
しかし、17日の一読で感じたように、すぐには理解できない。作品が意味するものを見つけられない。それも当然といえる。
もっとも独善的に短絡的に解釈すれば、志賀作品のすごさ、観察の鋭さ、深さ、その一点にあると思う。たとえば、前々回読んだテキスト1の『夫婦』にそれがよくあらわれている。『網走まで』の観察度を論じる前に、小編中の小編ともいえるこの作品を、少し分析してみたい。
テキスト1『夫婦』のこと
 『テキスト1として読んだ『夫婦』は、まだ、ゼミがはじまったばかりで、気もそぞろのうちに読み飛ばしてしまった。この小品について、たしか、編集室では、車内観察の見本お手本として紹介した。
車中観察の見本 テキスト紹介 『夫婦』は車中での作者のするどい観察眼がよくあらわれた小作品である。夫婦でしかありえない行為と機微を見事にとらえている。
と、その通り、短編ながら人間観、夫婦観がよく表れた小品である。
 志賀直哉は、よく社会を描かない作家と批判される。家庭のちまちました話ばかりだという。たしかに父親との葛藤を描いた『和解』、主人公とその家庭を観察した『暗夜行路』も表層面の読みでは、そんな印象だろう。これら大作にしてそうなのだから、『夫婦』においては何をかいわんや、そう思うところだが、観察度を探究すれば、そうでないことがわかってくる。たかが小品、されど小品である。たとえば、これが妥当かどうかは知らないが、一つの小石から宇宙全体を知る。そんな思想だか、哲学がある。もしかして、この小品は、その言に当てはまるような気がする。志賀直哉は、小説を書く目的を、世界人類幸福の為、とした。まさしく、この小品は、その目的に繋がっていると想像する。従って、社会が描かれていないなどと評する批評家は、志賀文学を読み解いていないとみる。
それでは、この作品がどんなふうに社会や時代と繋がっているのか。作品の中に探ってみることにする。
 この小品が発表されたのは、1955年7月7日の朝日新聞「学芸欄」というから志賀直哉が72歳のときである。全集に収めるときに末尾の夫婦に拘って修訂したというから、主眼は、古希を過ぎた老夫婦の一体化を描いたのかも知れない。が、作者が意図したかどうかはわからないが、真の主眼は、もうひと組の若い外国人夫婦にあったような気がする。
深夜近い電車の車内。狭い空間だが、作者の観察は、そこから人間や人類の幸福につなげている。時代の問題もそれとなく知らしめている。
 現在、日本は、米軍基地問題で揺れている。この作品が書かれた時代はどうだったか。1955年(昭和30年)。この頃の日本は1950年に勃発した朝鮮戦争の特需で、立ち上がりの機運をつかんでいた。前年に自衛隊が誕生し、この年の11月には、保守合同(自由、民主結成)いわゆる55年体制のはじまり、高度成長への登山口に達したときである。
 しかし、日本には問題が山積みしていた。ようやくにして占領下から独立したかにみえた日本だが、米軍基地問題は、はじまったばかりだった。砂川闘争は3年間つづいた。日本
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の軍事大国化、米軍駐留に対する国民の反対闘争は日増しに大きくなっていた。砂川(立川市)等の飛行場拡張受け入れ反対闘争は、その一つである。他に小牧、横田、新潟、伊丹、木更津等もあった。
 余談だが、55年体制、自民党結成で、総理大臣になった鳩山一郎は、翌年の国会答弁で「自分はこの憲法に反対であって、軍備をもつのがよい」と答弁し国会を騒然させた。できもしないことをうっかり失言する。今の鳩山首相にはじまったことではない血筋のようだ。
 戦時中は、鬼畜米英。終戦後は、神様仏様の米国、悪魔の米軍基地。日本の国民にはそんな印象だった。それはいまも変わることはないが、当時は、もっと強かったに違いない。
 家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。
若い外国人が子ども連れの夫婦らしいとはいえ、横須賀基地が近い横浜である。(アロハで推察したのか米国人とあるのは、当時、外人といえば占領軍=米軍人といったイメージだったのか)それだけに、夜の10時に乗り込んでくれば、緊張したに違いない。たとえ
男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。
としたとしても。いまは大リーグ中継で、ガムを噛む人は珍しくもないが、当時はどうだったのだろう。しかし、作者は、この外人夫婦をしっかり観察する。
細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。
この若い外人夫婦の行為から、何がわかるのか。子どもに対する親の愛情である。それは、とりもなおさず、子を思う親の愛情は、外人でも同じなのだ、という思いである。たとえ彼が憎き占領軍の兵士であったとしても、その心は、やさしい父親なのだ。この数行の観察が、そのことを教えてくれている。さらに、作者の観察は、驚く行為を目撃する。
細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。
作者の興味は、取り出した指先のガムに集中した。アメリカ映画や大リーグからの印象では、ガムは路上に吐き出すもの。いまでも、そんなふうに思える。それだけに当然、細君は、車中の床に投げ捨てる。そのように思ったかも。
しかし、なんと、彼女は、指先のガムを夫の口に押し込んでしまったのだ。無意識の行為のようだった。この行為に作者は、夫婦の絆というか一体観に感動する。世界中、夫婦というものは、同じだ。そのことを実感するのである。が、ここで、オチのようなユーモアがあるのは、ここである。
 私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのでは
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なく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。
 
思わず笑ってしまう場面である。感激して夫婦間の仲の良さを話したのに、細君は、無意識ですらなかったのだ。落語の小噺にしても、立派なオチになる。
 玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)
 
濡れて脱いだ足袋を、当然のように、夫のコートのポケットにねじ込む。夫は、そんな細君の無意識行為を観察しながら、おもわず納得する。
ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。と。
まったく別の環境で育った男女が結婚して夫婦になる。どんなに熱い恋愛でも、どんなにお金や地位があっても、平等化したいまの世の中、最後まで添え遂げるのは難しい。そうしたことを鑑みれば、お互いこんな無意識行為が生活のなかで生まれてくれば、もう大丈夫である。人間、何歳になっても、なかなか悟らぬものだが、志賀直哉は72歳にして臆面もなく悟ったと吐露する。そこにこの作家の偉大さがある。
『夫婦』の車中観察からわかるものは、親子の愛情、夫婦の絆、親子は夫婦は世界中、どこも同じ。そんな人類愛がみてとれる。何百字、何千字費やしても、はたせぬものが、この小品のなかにある。
(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)
この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。
※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であったと想像する。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように夫婦の絆をとらえ描いている。(編集室)
『網走まで』解説(『志賀直哉全集』岩波書店)
 明治43年(1910)4月1日発行の『白樺』第1巻第1号に発表され、大正7年(1918)3月、新潮社より刊行された白樺同人の作品集『白樺の森』に、現在のものにもっとも近いかたちになおして収め、「明治41年8月14日」と執筆年月が・・・明記されている。
 「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」いわゆる三つの処女作といわれる。
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
『網走まで』と紹介した名作
『網走まで』評が少々横道に入り逸れたついでに、これまで紹介した名作との関連を述べたい。最初、の名作で紹介したサローヤンの『空中ぶらんこに乗った大胆な青年』、一見、志賀直哉と関係なさそうだ。作者、作品とも、両者は経済的には、両極にある。が、自分観
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察においては、一致している。小説を書くということは、自分の現状を表層から深層まですべて観察すること。それが一番ということを両作品はおしえてくれている。
では、ハミルトンの作品は、何の関連か。古典とされるSF作品は、想像力・空想力の限界を描いているからである。H・G・ウェルズ、手塚治虫、アーサー・クラーク、ヴェルヌらの作品が名作といわれる所以はそこにある。故に想像力のお手本として紹介した。
『網走まで』は、観察力と想像力を混ぜ合わせて書きあげた佳品である。それゆえ、どこまでが真実か、どこからが創作か、わかりにくい。そこに、100年たってもこの作品を埋もれさせないエネルギーがある。テキストとして使用できるものを秘めている。
「網走」とは何か
『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。最初の疑問は、なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(1910年)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。母子の旅の目的地にしたのか。大いに疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、はじめに題名「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。「網走」という地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
 明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治12年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。
 そして、明治12年に最初の囚人が送られた。以後14、17年とつづき、網走には明治23年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ1300人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。しかし作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。
では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。どう読んでも、物語の流れは網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」について
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もう少し検証してみることにする。
完全な創作
 『網走まで』は、僅か20枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、1908年(明治41年)である。草稿末尾に8月14日と明記されている。志賀直哉25歳のときである。一見、エッセイふうで、体験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、370年前、寛永二年頃(1625年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する
「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」
の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに知られており、現実的だったに違いない。それなのになぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。
作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。1876年(明治9年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから30余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
 しかし、41年後、1951年(昭和26年)68歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。
網走と映画
 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わ
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った。完全なやくざ映画というわけである。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の強面が待つ敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで1960末~70年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。次号へ
掲示板
課題 作品は、授業内で発表批評できる範囲。ポイントは、短い枚数の観察で、どれだけの深みと情報を描きだせるか。
5・17ゼミ報告
1. 8名参加、
2. 自己紹介 伊藤さんが初日で 
3. ゼミ合宿の有無、やらない方向に採択。司会進行指名、阿井大和君
5. 名作紹介、5月の詩編「谷間に眠る者」SF古典「フェッセンデンの宇宙」音読 
6. テキスト2『網走まで』読みと感想
※ 課題・プリント2枚配布「車内観察」「自分観察」
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編集室便り
☆ 課題原稿、学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
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  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
□ゼミの評価基準は可(60~100)とします。評価方法は、次の通りです。
  課題の提出原稿数+出席日数+α=評価(60~100)
課題・3    自分観察「普通の一日を記録する」
2010・5・24
                            名前      
課題・4      車内観察
5・24
                            名前      
課題・5      社会観察「米軍基地問題」
5・24
                            名前      

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