文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.147

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2010年(平成22年)5月31日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.147
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              編集発行人 下原敏彦
                              
前期4/19 4/26 5/10 5/17 5/24 5/31 6/7 6/14 6/21 6/28 7/12 
  
2010年、読書と創作の旅
前期の観察旅は、(車中と日常) & 名作読み・発表・表現
5・31ゼミ
5月31日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1.「2010年読書と創作の旅」車窓、課題発表&合評
  2. テキスト「出来事」(車内観察)
  3. 古典自分観察・書簡小説「あしながおじさん」ウェブスター
  4. ゼミ前期中日・中休み演芸(口演「少年王者」紙芝居)
      
5・24ゼミ観察    大雨予報の為か出足鈍く
 この時期にしては大雨の予報。口蹄疫拡大で騒然とする九州地方は昨夜来から激しい雨とのこと。関東地方は夜になって雷雨になる模様。そのせいか、この日のゼミ欠席者は三分の一にのぼった。最後の登録者の伊藤果南さんは昨夜メールで課題提出。先陣を切って最初の課題提出者1号となった。が、本人欠席で発表ならず。
ゼミ合宿希望者0で、実施無しに決定 
毎年、夏休みに行う課外授業、いわゆるゼミ合宿について、後藤副班長が実施の有無を採決した。17日と24日で2度目の審議だった。結果は、前回同様、実施賛成0、消極的7名(出席者全員、前回17日も8名全員)ということで、今年2010年のゼミキャンは無しということに決定。実施すれば「時空探検」と銘打って1845年5月6日のロシアペテルブルグにタイムスリップする予定だった。若き詩人と作家が体験したあの感動を実体験し、文豪ドストエフスキー誕生の瞬間を目撃する計画だった。が、やはり7時間の時空旅は、敬遠されるようだ。(ちなみに過去の探検隊は、無事、21世紀に生還。その感動体験を得たい人は、テキストとした『貧しき人々』を独自に挑戦してみてください。)
テキスト『網走まで』について、比較・漱石『三四郎』
 『網走まで』の網走とは何か。イメージ、理由、同時期に発表された夏目漱石の『三四郎』との違いなどを議論した。印象は、40年前も今も「刑務所のある町」は、変わらないようだ。なぜ、網走に、は、だいたいのところ同じであった。「地の果て」の効果である。辺鄙なところに行く母子への同情。国策で富国強兵をすすめる明治政府への批判など。
出席者は7名
 この日の参加者は7名。ゼミ開始から5日が過ぎた。旅スタートから4日。同行者は決まった。が、11名全員そろうのはなかなかである。司会進行は、伊藤光英さん。
・藤重はるか  ・後藤大喜  ・重野武尊  ・竹下晃誠  ・阿井大和  
 ・伊藤光英   ・越智美和


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.147―――――――― 2 ―――――――――――――
車窓雑記 
夢は尽きない 101歳写真家の挑戦
  
 26日、朝食中、電話が鳴った。取ると受話器の向こうから「くまがいです」と元気な声がきこえてきた。清瀬に住む恩師である。恩師は、私が小学一年生のときの担任だが、アマチュアながら写真家として広く知られている。日本の写真家40人の一人である。1955年、第1回毎日写真賞で、有力候補だった土門拳、木村伊兵衛、林忠彦といった名だたる写真家を押えての受賞は、いまや伝説となっている。
1935年(昭和10年)からはじまった芥川賞の第1回受賞者は、無名の新人石川達三だった。本命だった太宰治ら流行作家を破っての受賞だった。文壇と写真界では、分野もが違うし、注目度も違うが、内容的には匹敵するものがある。
恩師は、この7月で101歳になる。が、足腰が弱くなった以外は健全で頭脳明晰、いまも現役魂を持ち続けている。早朝に電話をかけてくるときは、なにかある。たいていは、新聞に興味ある記事を見つけたときか、なにかアイデアを思いついた時である。はたして、そうであった。「これを最後の仕事にしようと思っているんだ」と、唐突にきりだした。
恩師が写真家として認められている一番の業績は、信州の一山村(私の郷里)の人々を70余年間撮り続けたことにある。加えて、担任した子供たちを1年間、撮ったこと。
 この間、撮影した写真約5万点がCDに収録されている。出版された写真集も、多数ある。それらはいまや貴重な記録、時代の証言物となっている。なかでも戦前1938年に朝日新聞社から刊行された『会地村-一農村の写真記録』と戦後1955年に岩波写真文庫から出された『一年生――ある小学教師の記録』は、日本写真界の金字塔といっても過言ではない。『会地村』は、当時、「アサヒカメラ」に一ページ大の広告が掲載された。それによって「『会地村』は、たんなる一農村の記録にとどまらない評価を次第に得ていくことになる。」(矢野敬一著『写真家・熊谷元一とメディアの時代』)被写体を撮り続けるという恩師の手法は、写真技術の進んだドイツでもみられなかった。故に逆教書として翻訳されたともいう。
しかし、その評価は、予想もしなかった方向にも向かった。「この当時、『会地村』は地方翼賛文化運動の高揚に伴ってさまざまな機会に取り上げられていく。恩師の撮影意図とは別に、ともすれば『会地村』は、「愛郷心」の延長線上にあるとされた「愛国心」と結び付けられて」(同書)いた。一農村写真が愛国教育の手本となる。驚きだが、これだけみても恩師の写真技術の奥深さ、幅広さを窺い知ることができる。
先般、教育基本法が改正された。それによって法律によって愛国心教育がすすめられることになる。が、当時、恩師の写真は、押し付けることなく、義務づけることなく郷土愛を伝え訴える。写真にそうした力が潜んでいる。そのように思えるのである。
話を元に戻そう。この朝、恩師の頭にひらめいたというアイディアは、最初の写真集に載っている写真の撮影場所を、いま再び撮って回り、一冊の比較写真集をつくりたい、というものだった。最初の撮影からすでに70年余り過ぎている。被写体となった村の変貌は著しい。正確な撮影場所を探すのは困難に思われた。が、恩師は、熱く夢を語る。その思いは青年のようだった。老いは年齢ではない。還暦過ぎた私にあらためて教えてくれた。恩師、いまだ担任である。
岩波写真文庫『一年生 -ある小学教師の記録ー』1955年刊行 2008年復刻版
河出書房新社『なつかしの一年生』2001年3月発行
福音館・絵本『二ほんのかきのき』ロングセラー110万部
信濃路出版『ある山村の昭和史 信州阿智村39年』
郷土出版・画集『熊谷元一の世界』
東京プライズエージンシー制作(28会・下原共著)『還暦になった一年生』
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.147
 
「2010年、読書と創作の旅」5・31プログラム
本日のゼミは下記の要領で実施します。
「ゼミ通信147」配布 点呼 11名全員いれば再度記念撮影 「車窓雑記」、司会指名
 ※司会者は、名作、テキスト読みの配分を考えて、全員に読んでもらうよう、読みの途中で区切りを指示してください。討議・合評・感想では司会してください。
司会進行
1. 5・25ゼミ雑誌作成ガイダンス報告 伊藤・塚本正副編集長
2. 課題・観察作品発表と合評
3. テキスト『出来事』・読みと感想
4. テキスト『網走まで』・夏目漱石『三四郎』について
5. 時間あれば、中休みで・口演「少年王者」
1. ゼミ雑誌作成ガイダンス報告 伊藤・塚本正副編集長
ゼミ雑誌誌作成計画
ゼミの一年間の成果は、ゼミ誌にあります。皆で協力して、記念碑としてください。ちなみに、すべてのゼミ雑誌と実習誌を対象とした
2009年度の「第二回 金のたまご文学賞」
の創作部門で2008年下原ゼミⅡ『ドレミファそらシド』から小黒貴之君の「宙をくりぬく」が選ばれています。
1.ゼミ雑誌作成ガイダンス5月25日正午12時20分から教室1 正副編集長参加
 2.「ゼミ雑誌発行申請書」を出版編集室に提出
 3.ゼミ誌の装丁を決める
 4.9月末をメドに原稿締め切り
 5.印刷会社を決める。レイアウトなど編集作業
 6.「見積書」を出版編集室に提出
 7.11月半ばまでに印刷会社に入稿
 8.12月15日(後期前半授業終了日)刊行のゼミ誌を出版編集室に提出 締切り厳守
 9.印刷会社からの「請求書」を出版編集室に提出
重要事項 → 「ゼミ雑誌発行申請書」「見積書」「請求書」の提出
※ ゼミ誌掲載作品について、課題提出の観察作品も掲載できればと思っています。
※ 観察作品のなかから「土壌館文芸賞」を選考します。
2010年12月15日納品締切り厳守!!
メモ
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文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.146 ―――――――― 4 ―――――――――――――――
2.課題観察作品発表・合評
観察度ポイント
1. 想像・物語性への広がりを感じるか。(どうなるのかという興味)
2. 核になるところはあるか。(『夫婦』の機微のような)
3. わかりやすいか。(まずは、これが一番である)
課題1・車内観察発表  (仮)は編集室
(仮)青春老女
                            伊藤 果南
 先日電車に乗り込むと、目の前に一人分には少し狭いようなスペースの座席が空いていた。一瞬悩む幅、けれども横に座ったおばさんが、自分のお尻に懸命に上着の裾をたくし込んでくれるのを見たら、座らないと悪いような気になった。
 「あなた良かったわね。あそこにいる人が席を譲ってくれたんだけど、あの人のときは一人分だったのよ、私たちなら二人座れるわ」
 おばさんの指差す先には大柄な男性が。ちょっと笑ってお礼言うと、ふと、そのおばさんのネイルが素敵なことに気がついた。ゴールドのマットなベース、親指には白椿の花を描いている。なかなかのセンスだった。
 「素敵なネイルですね」
 「ああ、これ?あなたのも素敵じゃない。ご自分で描いたのかしら?」
 「はぁ、でも私のは手入れしないので、剥げかけちゃってて…」
 「私はね、お正月に百合の花を描いてたんだけど飽きちゃったのよ。それで今度は白椿にして観ようと思ったの。出掛けに履いた靴がたまたまゴールドだったもんで、わざわざネイルも塗り直したのよ」
 そう言うおばさんの指先を、もう一度まじまじと見てみると、職人芸と呼べるほどの細やかさで、椿の花弁一枚一枚がとても丁寧に描かれている。私は自分の剥げかけた爪先に再び視線を落として、なんだかとても恥ずかしくなってしまった。
 「すごいこだわりですね」
 「お近くだったらして差し上げるのに。私、三島から来てるのよ。そうそう、この真珠のブレスレッドも私が作ったの」
 「へえ、手作りには見えないくらい粒が揃ってますよ。いつも素敵なファッションでいるっていいですよね」
 「うふふ。主婦失格ってことだけど、こういうこと、好きなのよ。私ももう八十一になってるんだけど」
 私はびっくりして隣で微笑む”おばさん”を見た。ハタチになる私より、半世紀以上長く生きてきたとは到底思えないその老女は、八十を過ぎていると言いながらも、どこか私には持ち得ない、女の色気を感じさせてならなかった。
□そうですね、「車窓雑記」にも書きましたが、お年寄り度は年齢ではないですね。
以下のアンケートに答えてください。評価ではなく、あくまで自分の感想・見方です。
1(わからん)、2(何かもの足らない)、3(普通)、4、(情景浮かぶ)、5(もっと読みたい)
観察度    →  1   2   3   4   5  理由は→
リアル度   →  1   2   3   4   5  理由は→
まとまり度  →  1   2   3   4   5  理由は→
――――――――――――――――― 5 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.147
課題1・車内観察発表
女装趣味の男
重野 武尊
 
先日、私は本厚木まで用事があり、夜7時過ぎに小旅行用の荷物と一眼レフカメラを持ち、出かけた。所沢から秋津まで西武新宿線で行き、そこから徒歩6分の新秋津まで行く。そこでJR武蔵野線府中本町行きへ乗った。その中で見かけたことである。
私がなにげなく座っていた席の正面に明らかにおかしい女性が座っていたのだ。頭にバンダナ(口)に大きなマスク、男もののくつ、ジャンパー、そして女子高生の制服のような短いスカート。そして、何より変なのが、その人が電車内の誰よりもでかく、マッチョだということであった。大きな体に短いスカートは、あまりにも不恰好だった。バンダナのすきまから、短く刈られたえりあしが見えた。おそらく男の人だ。車中人々の注目を集めつつ、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいた。彼はキャリーバックと紙袋を2つ持ち、西国分寺で降りていった。
余談だが、私のとなりに座っていた女子大生は2駅乗り過ごしたようだ。
□ その人は、どんな日常生活をしているのでしょうね。相当ハチャメチャを想像しますが、ドストエフスキーを本当に読んでいたとしたら、案外、しっかりした生活をしている人かもしれません。
以下のアンケートは、評価ではありません。自分の書いたものを他者は、どう思うか。ものを書いて人に見せたいなら、そこが一番に肝心です。
1(わからなかった)、2(物足らない)、3(普通)、4、(情景浮かぶ)、5(もっと読みたい)
観察度    → 1   2   3   4   5 → 理由は
リアル度   → 1   2   3   4   5 → 理由は
まとまり度  → 1   2   3   4   5 → 理由は
課題2・自分の観察「普通の一日」
(仮)遠い目覚め
重野 武尊
 朝、目が覚めました。AM8:00です。雨ではないようなので自転車で行くことにします。自転車なら30分で着くので、もう30分眠ることにしました。
 目が覚めました。AM8:50です。もう1限には間に合いません。しかたがないので3限から行くことにしました。1,2限は出席をとるかどうか忘れたので、とらないのだ、とじぶんに言い聞かせ、とりあえず眠りました。
 PM0:00を過ぎたので、家を出ました。空は、すっかり晴れました。私は、「晴れたなあ、良い天気だなあ」と、一つとり残された、ぽっかり雲につぶやきました。
自転車に乗ります。ところどころで、とても臭いにおいがします。私は、栗の花のにおいなのではないだろうかとにらんでいます。
でも、そのいつもかぐにおいが、どこからやって来ているのか、今だにわかりません。私は、「臭いなあ」と桜の葉っぱにつぶやきます。
学校につきました。でも、3限も、4限も出席をとりません。めんどうくさくなったので、部室に行きます。誰もいないので、ゲームを始めました。でもつまらなくなって、すぐにや
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めました。テレビをつけました。何やら外国のドラマがやっております。私は「つまらないなあ」と窓から見える空につぶやきました。
帰ったらカレーを作って食べようと思います。
□ 絵画も同じですが、一目みて誰れのものかわるようにることが必要です。その意味では、自分の文体ができていると思います。習慣化することで、より確立してください。
観察度    → 1   2   3   4   5 → 理由は
リアル度   → 1   2   3   4   5 → 理由は
まとまり度  → 1   2   3   4   5 → 理由は
テキスト車内観察作品『出来事』
 ゼミでは、車内観察のテキスト1号として『夫婦』や『網走まで』をとりあげ、これら作品の重要性や疑問点を考察してきた。が、実際の車内観察、乗客観察といえば、この作品『出来事』である。夏のある午後に乗った電車。いろんな乗客がいる。何の縁もないが一時を同じ空間で過ごす人たち。作者は、暑さでデレーっとなった彼ら一人ひとりの様子を観察する。人身事故という出来事によって変身する乗客の様子がよく描けている。
 この作品は、1913年(大正2年)9月1日発行の『白樺』第四巻に発表された。志賀直哉30歳のときである。
7月28日の日記「子供が電車にヒカレかかった。(出来事)」。8月15日「病院。かえって『出来事』の了ひを書き直して出来上がってひるね」この夜、友人と散歩にでて山の手電車にはねられて怪我をする。☆ この怪我の治療に城の崎温泉に行き『城の崎にて』を書く。
車内観察
指定席の不安
 この数年、三か月に一度の割で山陽新幹線に乗っている。東京から新岩国まで、である。家人の郷里が山口県の岩国にある。岩国は、名橋・錦帯橋と米軍岩国基地で知られている。が、文学好きな人なら女流作家・宇野千代。漫画好きな人なら「課長島耕作」の作者の故郷ということである。家人の実家は、錦帯橋の袂近くにあって、両親が二人で暮らしていた。(昨年夏、義父は95歳で亡くなった。が、90歳になる義母がいる) そんなわけで、季節ごと、様子みに帰省している。なにしろ岩国までは遠いので、指定席にしている。
初のうちは、何号車で、座席は何番と注意し確認して乗っていた。が、慣れてきたせいもあって最近は、すっかり散漫になってきた。先般、いつものように東京駅で11時過ぎの「のぞみ」に乗った。季節はずれだったので、わりと空いていた。後ろの席と隣のABC席は中高年の女性の旅行客だった。駅弁を買ったので、早い昼にした。彼女たちは、それを見て、自分たちも食べようと、にぎやかにはじめた。「のぞみ」は、東京駅をでたばかりだった。が、旅行客は、早くも缶ビールをあけていた。まだ、酔うには早かったが、C席の、いかにもおしゃべりの好きそうな下町風の50歳ばかりのおばさんが、興味ありそうに聞いてきた。
「どこまで行かれますか」
「新岩国までです」私は、食べながら答えた。
「しん、いわくに・・・」横並びの三人がいっせいにみた。そして、不思議そうにきいた。「そこは、どこですか」
「広島の隣です」
「ヒロシマの隣にそんな駅があるんですか」
 次号へ、つづく
―――――――――――――――――――― 7 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.147
小説『網走まで』について(24日つづき)
 志賀直哉の処女作品『網走まで』には、大きな謎が二つある。先週の24日ゼミでは参加者7名で現在における「網走」のイメージと、作者・志賀直哉はどんな理由からこの題名にしたのかを話し合った。いろんな感想や意見がでた。が、まだ不明点は残った。で、今一度、本号で「網走」という謎について、考えてみた。
「網走」のこと
※前号と重複する箇所があります。
 「網走」とは何か。当時、東北以北は、文明開化が進む東京人にとっては、未開の地であったに違いない。その未開の地の果て、海を渡った蝦夷地の端にある網走は、おそらく想像もつかない遠い土地だったと想像する。実際、当時、網走は、まだ鉄道も敷かれていない僻地だったのだ。草稿に書かれているのは、「なだれのある」熊と無宿人の土地である。おそらく、東京に住む人たちの印象もそうだったに相違ない。むろん作者も。
 では、何故にそんな土地を題名にしたのか。行き先にする必要があったのか。作者に網走という土地に対する強い思い入れがあったという記録も記述もない。当時の作者の詳しい年譜をみても、これといって思い当たるものもない。25歳の作者にとって網走は、まったく関係のない土地、所であった。
 と、すると作者が、地図の上でサイコロを振って決めたのか。それなら、お手上げである。が、そうは考えたくない。なかには、そんな作家もいるだろうが。(書いている最中に、郵便配達が二度ベルを鳴らした。それで『郵便配達人は二度ベルを鳴らす』そんなタイトルをつけたという米国作家の逸話話を聞いたことがある。が)志賀直哉は、他の作品をみても、そんな題名のつけ方はしていない。大概は、ストレートである。『城の崎にて』しかり、『和解』しかりである。いずれも、その題名に作者が関係しているか、想起できるものがある。
 ところが、この網走だけは、なんの関連も思い浮かばない。そこで、まったくの空想だが、この地名の謎を解くには、もう一つの謎が関係するのではないだろうかと考えた。つまり毒には毒をもってと同様、謎には謎をもって、というわけである。
 それでは、もう一つの謎とは何かを考えてみた。それは、作品『小説網走まで』が、応募先の編集部で没にされたという事実である。前号でも紹介したが、志賀直哉は一九○八年八月十四日、この作品を書き終えた。二十五歳のときである。このころ志賀は、同人四人と回覧雑誌(のちの『白樺』)をはじめたが、この作品『小説網走まで』は、同人達の好評を得た。同人達は、投稿をすすめた。で、志賀直哉は「当時帝国大学に籍を置いていた関係から『帝國文学』に投稿した」。が、没書された。志賀は、これについて創作余談で「原稿の字がきたない為であったかも知れない」と回想している。しかし、これは作者のやさしさか自虐的謙遜であろう。原稿の字が下手だから、きたないから採用しない。それ故に、不採用になった。作家は、もともと字が汚いといわれるだけにあまり聞かぬ話である。それよりプロの編集者というものは、たとえミミズがのたくっていようが読み解く業を心得ているものだ。それが真の編集者というものである。と、すると、当時の『帝國文学』には、真の編集者がいなかったのか。現に、そう評している作家もいる。しかし、文学を少しでもかじったものなら、(筆者のような浅薄な文学感覚さえ持ち合わせていない人間でさえ、そうだが)この作品を、駄作と見逃すはずはない、そう思いたい。
なんでもないエッセイのような車中作品。面白みも、物語性もない。だが、読んでいると何か非凡を感じる。人気流行小説にはないものがある。そんなふうに思うのである。
 それ故に、私としては、『帝國文学』の編集者に、見る目がなかったと思いたくない。きっと理由あってのこと。そう信じるわけである。
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 では、なぜ、彼らは小説『網走まで』を、没にしたのか。させたのか。没になったのは、顕然たる事実である。回覧雑誌の同人達、彼らは、この頃、若いとはいえ、のちの『白樺』の面々である。(武者小路実篤、里見弴ら)彼らが絶賛し、また現代においても、充分に評価の対象と成りえる作品。そんな作品をなにゆえ、いったいどんな理由から没としたのか。俄かには信じがたい。もし字のきれいきたないで採否を決められたら、採用されるのは書家か清書屋の額縁作品ばかりで、とても文学作品は生まれない。作家は、悪筆家が多いと言われている。
では、この作品はなぜ、採用されなかったのか。その理由として、想像できたものを四点ほど挙げてみた。
1. 編集者・採用者に目がなかった、文学的素養がなかった。
2. 志賀直哉が思ったように字がきたなかったから。
3. 網走という地名に不自然さを感じるから。
4. 真実ではないから。(この時代、網走まで鉄道は開通していなかったようだ)
 没になった作品はその後どうなったか。1910年(明治43年4月)『白樺』の創刊号に発表される。同雑誌への掲載者は、武者小路実篤、里見弴 有島武郎ら。ちなみに創刊号の小説は、志賀直哉の『網走まで』と、正親町公和の『萬屋』の二作だった。
 『帝國文学』の編集者は、一旦は採用した。そう取る方が自然だろう。そうして、掲載をめぐる編集会議において没にした。証言物があるかどうかは知らないが、想像するに『小説網走まで』は、そんな経緯をたどったような気がする。では、何ゆえに没としたのか。
 それは、この作品に大きな矛盾があるからではないのか。絶対に、あってはならないもの
があった。こう推理するのは、荒唐無稽だろうか。
 余談だが、以前、何十万部ものベストセラーになった作品が、直木賞から漏れた。そのことで選者、出版界、作者を交えて喧々諤々となったことがあった。読者、出版界が認める作品。その作品がなぜ受賞できなかったのか。詳しくは知らないが、物語のなかに、絶対ありえない出来事があったからだという。小説だから、なんだっていいじゃないか。創作とはそんなものだ。といえばそれまでだが、よりリアリズムを目指す作品においては、その作品が優れていればいるほど、そうはいかないというのか。嘘でも空想でもいい。だが、そのなかに些少の矛盾があってはならない。それもまた文学の大道。と、すれば当時も今も、その手の編集者がいたとしても可笑しくない。『帝國文学』の編集者は小説『網走まで』を名作と踏んだ。それ故に、矛盾は許しがたく没とした。独断と偏見だが、小説『網走まで』のごみ箱行きの謎解きは、そのへんにあるような気がしてならない。
 では、この作品における矛盾とは何か。早速に言えば、それは、元の謎に戻ってしまうが、やはり題名の「網走」にあったのではないだろうか。まったくの想像だが、没の謎を解く鍵としては、これより他に、思いつかない。当時、網走といえば、どんなところか。東京の人間は、どんな印象をもっていたのか。おそらくは、それほど知られてはいなかったのでは、と推測する。現に作品のなかでも、こんな会話がされている。
「どちら迄おいでですか」と訊いた。
「北海道でございます。網走とか申す所だそうで、大変遠くて不便な所だそうです」
「何の国になってますかしら?」
「北見だとか申しました」
「そりゃあ大変だ。五日はどうしても、かかりませう」
「通して参りましても、一週間かかるさうで御座います」
 ここからわかるように、当時は、網走といっても知られていなかったようだ。鉄道は北見
までしか通じていなかったらしいが、そのことを作者は知っていたかどうか。一週間かかるというのは、誰かからきいたのだろう。北の果て、よほどの遠く。作者にしてはその程度の
―――――――――――――――――― 9 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.147
知識しかなかったのでは。草稿で作者は、主人公に網走について「北見の網走などという場所でしている仕事なら、どうせヂミチな事業ではない。恐らく熊などのいる所であろう。雪なだれなどもあるところであろう」と語らせている。ここから判明するのは、網走という所は、まっとうな仕事をしていない山師のような人間が集まっている所。熊がでる所。雪も深い自然も厳しい所。つまり獣や悪人がいる秘境ということになる。当時、網走が、どの程度の思われ方をしていたのか、知るよしも無いが明治23年前身の「網走囚徒外役所」ができ1300人の囚人がおくられてから、既に18年が過ぎている。重罪犯人が集められた所として、それなりに名前は知れ渡っていたのではないかと思う。
 網走まで・・・当時、明治後年頃、その地はとても一般人が旅するようなところではなかった。そんなふうに思われていたのではないだろうか。そんなところに、赤子を背負った、病気がちの子供を連れた母子三人が旅するという。しかも、持ち物ときたら「荷といっても、女持ちの信玄袋と風呂敷包みが一つだけ」北見からは、囚人がつくった荒れ道を徒歩で行かなければならない。不可能とは思わないが、それにしても、無理があり過ぎる。実際に(網走まで行く母子を)見たのなら、それもやむなしと認めるところではあるが、全体、創作である。この作品が書かれた時代、明治43年頃、網走に行くには鉄路を札幌→帯広→池田→北見まで乗り継ぎ、後は囚人道路を徒歩で行くことになる。作品に登場する二人の子供連れの女が向かうには酷な目的地である。荷物からいっても、無理がある。矛盾が多すぎる。だというのに作者は、なぜ強引に「網走」としたのか。
 恐らくこの母子の旅を、読者により困難で悲劇的な旅に印象づけんがため。矛盾を押しやって網走とした。そうとるのは無謀だろうか。若き小説の神様は、作品をより深刻にせんがために、リアルを逸っして当時、日本一過酷で恐ろしい地の印象があった網走を母子の終着地にした。その作為を編集者は見逃さなかった。若き志賀直哉の勇み足である。
 だがしかし、現在において網走と聞いても、なんら矛盾は感じない。むしろぴったりの題名のように思える。と、いうことは「網走」には普遍性があったとみる。志賀直哉が小説の神様と呼ばれる所以の一端は、そこにもあるのかも知れない。
この作品の真の狙い
作者は、題名をなぜ「網走」としたのか。これまでの考察で、作者は、母子の旅を、より困難なものに印象づけようとした。それで目的地を無理を承知で、鉄道もまだ敷けていない網走にした。当時としては、若き小説の神様の勇み足と読み解いた。が、普遍的に捉えれば「網走」でよかったことになる。『網走まで』という題名に、何の違和感はない。むしろぴったりする題名と思っている。しかし、母子の旅を読者に同情させなければならないのか。矛盾をだしてまで過酷な旅にしたのは、戦争へ戦争へと暴走する明治政府への警鐘。そのように思えてならない。母子を乗せた、列車は、開拓地・網走を過ぎると、速度をあげ、満州の大平原をひた走っている。ヒロシマ、ナガサキを目指して。
そして、『灰色の月』、『夫婦』へと車内は変化していく。その意味で、志賀直哉の車内観察作品は、まだ来ぬ時代の車窓を映す壮大な叙事詩ともいえる。現在、課題の車内観察からも、その壮大の抒情の一端を感じ取れればと思うのである。
「日光」について
 この作品の車内観察は、未来へと繋がっている。考察と推理で、そのことがわかってきた。その結論を立証するため、次に内容について、もう少し詳しく分析してみたい。
 主人公について、ゼミ参加者の感想は、評判はあまり芳しくなかった。が、いったい主人公の「わたし」はどんな人間か。
 宇都宮の友に、「日光のかえりには是非おじゃまする」といってやったら、「誘ってくれ、ぼくも行くから」という返事を受け取った。(本文)
ここから「わたし」を読み解くと・・・・
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 冒頭の二行から、主人公は、気楽な身分の青年という印象を受ける。題名の網走は、当時どの程度知られていたか、わからないが、日光は、たいていの日本人なら知っている。江戸時代は、徳川家康が祀られていることで国民的知名度は抜群。東照宮といえば左甚五郎の眠り猫、言わず聞かざる見ざるの三猿も有名だ。中禅寺湖や温泉もある。明治になってからは名所旧跡の観光地、華厳の滝もよく知られている。この時代の華厳の滝は、
「明治36(1903)年5月、18歳の旧制一高生であった藤村操-ふじむらみさお-がミズナラの木に「巌頭之感-がんとうのかん-」を書き残して投身自殺をして以来、自殺の名所にもなってしまった。」このことでもかなり世間の注目を浴びていた。
 国民が日光を見る目は、このような情報であったと思う。とすれば、当然、主人公は日光に遊びに行った。そうとるのがふつうだろう。仕事でいったといっても読者は、疑問に感ず
るだけである。おそらく、この時代、東京人にとって娯楽のメッカといえば西の熱海、東の日光ということになろう。たぶん作者は、よく日光に遊びに行っていた。だから日光とした。そうとるのが自然である。が、作者の創作術を考えると、単純に、一概にそうだとも言い切れない。やはり、日光は計算された地名。そして網走も、である。題名を「網走」とした以上、本文の冒頭にどうしても「日光」を使いたかった。方や地の果て未開の地、方や娯楽と観光の地。あまりにも対極にある二つの地名。両地をだすことで、作者は、この作品の重みを読者に伝えたかった。インプットしたかったのではないだろうか。
 夏の夕方、上野から青森行きの列車に乗った。私は、文学仲間と日光に遊びに行く気楽な身分。宇都宮に住む友人が誘ってくれというのでが、行き先は宇都宮である。同席した、私と同じ年ぐらいの女性は、乳飲み子と、病気持ちの気難しい男の子を連れていた。色白で、美人とは書いてないが、(男の感覚としては)美人なのだろう。娘時代は、よい家庭で育った。階級色が強い明治時代だからわかるのかも。しかし、いまは、どうみてもみすぼらしい。男運が悪かったに違いない。聞けば、行き先は「網走」だという。鉄道も敷けていない未開の地だ。都会で、小説を書いている自分には想像もつかない旅である。あまりにも遠いところなので、私は言葉を失った。その地に、なぜ行くのか、という疑問より、大変だ。かわいそうだ。という思いの方が先に立った。「網走」という地名に、草稿では、熊がでる、ジミチではない連中が住むところ、という印象を持っている。
この幸薄い母子のために私は、何ができるのか。(全人類の幸福のために小説を書く)という「わたし」だが、できることはよれたハンカチを直してやることと、頼まれた葉書を出してやることぐらいだった。作者のやさしさが感じる作品。だが、作者の若さをも感じられる作品でもある。同情した。かわいそうに思った。だから葉書を見てもかまわない。そんな自己満足が垣間見える。(「同情するなら金をくれ」テレビドラマでこんなせりふがあった。人間社会の現実である。が、主人公はまだそんなことも知らないボンボンなのだ)
       
志賀直哉年譜(『網走まで』の)履歴
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1886年(明治19)3歳 芝麻布の幼稚園に入園。父直温文部省七等属会計局勤務。
1889年(明治22)6歳 9月学習院初等科入学。
1893年(明治26)10歳 父直温、総武鉄道入社。
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 日露戦争、「菜の花」を書く。
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1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
1907年(明治40)24歳 家の女中に恋する。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1908年(明治41)25歳 8月14日『小説網走まで』を書く。
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
『網走まで』と『三四郎』
時代背景
 『網走まで』は、明治四十三年(1910)に『白樺』第一号に発表された。が、実際に書かれたのは二年前の明治四十一年といわれている。作者が二十五歳のときである。明治三十九年七月に学習院高等科を卒業。九月に東京帝国大学文科大学英文学科に入学している。
 この時代、明治四十年代は、どんな時代だったのか。日清日露戦争に勝利した日本は、韓国併合(1910)を目指して大陸侵攻の準備を着々と進めていた。ポーツマス条約、明治三十九年(1906)には南満州鉄道会社を設立するなど富国強兵政策をますます強めていた。
 しかし、華々しい国策の裏で暗い出来事が次々起きていた。明治四十二年には伊藤博文がハルビン駅で暗殺された。また四十三年には、大逆事件が起き、幸徳秋水ら二十四名に、死刑、の判決がくだった。そのうち十二名が減刑され無期懲役となったが、幸徳秋水はじめ12名が絞首台の露と消えた。
 大逆事件は知識人に大きな衝撃をあたえた。森鴎外、永井荷風、石川啄木、与謝野鉄幹らのおどろきと打撃はかれらの作品に書きのこされている。(『高校日本史』実教出版)
 
 大逆事件(明治天皇の暗殺を計画したとされる嫌疑)は、明治四十四年(1911)二月十八日に上記の判決が下った。この死刑宣告の判決について、志賀直哉は、その感想を二十日金曜日の日記にこう書きしるしている。
二月二十日 金曜日
 ・・・一昨日無政府主義者二十四人は死刑の宣告を受けた。日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事である。自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思わぬが)その自分が今度のような事件に対して、その記事をすっかり読む気力さえない。その好奇心もない。「其時」というものは歴史では想像出来ない。
 漱石の『三四郎』は明治四十一年(1908)九月一日から十二月二十九日まで、百十七回にわたって東西の朝日新聞に掲載された。『網走まで』は明治四十一年(1908)八月十四日と執筆年月日が明記されていることから、両作品は、ほぼ同時期に書かれたとみてよい。
 同時期に書かれた『三四郎』と『網走まで』。この二つの作品の違いは、まず作者だが、『三四郎』を発表したときの漱石は四十一歳の男盛りである。前年、明治四十年(1907)一切の教職を辞して朝日新聞社に入社。すでに『草枕』を発表し、『我輩は猫である』『坊ちゃん』などを相次いで出版。押すも押されぬ大流行作家となっていた。が、文学一本に人生を絞ったのである。ちなみに『三四郎』を発表した年、明治四十一年の年譜をみると、このような文学活動をしている。
1月1日より4月6日まで『坑夫』を朝日新聞に連載。
『虞美人草』(春陽堂)出版。友人、森田草平に小説『煤煙』の執筆を勧める。
6月13日より21日まで『文鳥』を大阪朝日新聞に連載。
7月から8月にかけて『夢十夜』を東京・大阪朝日新聞に連載。
9月1日より12月29日まで『三四郎』を朝日新聞に連載。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・147―――――――― 12――――――――――――――――
 この時期、志賀直哉は、25歳の文学青年。同人誌『白樺』もまだだしていない。たとえ年齢は違っても時代を観察する眼は同じである。文豪となる夏目漱石の目に、日本の姿と将来はどのように映ったのか。未来の小説の神様の目には、どうだったのか。二つの作品の車内観察から文豪たちの見た日本を読み解いてみたい。
 二つの作品の車内観察は、同じ車内でも微妙に違っている。まず主人公である。三四郎は、これから大学生になる学生。『網走まで』の私は、すでに大学生か社会人になりながらもきままに暮らしている文学青年の様子。行き先は、三四郎は、東京。私は、日光だが、その前に友人と会うため宇都宮で降りる。はじめての上京、同席となった女の行き先である。
名作案内
5月の詩「谷間に眠るもの」
 前号に文学を志すなら、『トニオ・クレエゲル』は必読と書いた。同じように詩人に憧れるなら、まずランボーを知れである。野口雨情も中原中也も皆、ランボーに魅入られた。
 19世紀末のフランスに彗星のように現れ消えたランボーとは、どんな人間だったのか。金子光晴訳『ランボオ詩集』(角川文庫1970)の解説ではこのように紹介(抜粋)。
・1854年10月20日 ジャン・アルチュール・ランボオはフランスの北西にあるシャルルヴィルの町で生まれた。父は軍人、母は百姓。兄弟は5人。兄、次兄、姉、ランボー、妹。
・1865年、中学校に入った彼は、すばらしく優秀な生徒であった。ラテン語の詩をはじめ、すべての課目をマスターして、しばしばアカデミー・コンクール賞を獲得した。・・・彼は、文学と革命思想との魅惑から、詩人になることを自分の転職と考えるようになった。
・1870年8月、ランボー15歳、はじめてパリに家出する。以後、度々、家出する。
・1872年、18歳 詩人ヴェルレーヌとの放蕩生活。ロンドンで二人で放浪生活。
「地獄の季節」を書き始める。7月8日別れ話からヴェルレーヌ拳銃でランボーの左手首を撃つ。ヴェルレーヌ2年の禁固刑。
・1873年 19歳 散文詩「地獄の季節」の大部分を燃やす。以後、筆をとらない。
・1891年 5月マルセイユ病院に入院。11月9日死去。 37歳。 
代表作『酔っぱらいの舟』「韻文で書かれた彼の作品の頂点を示すものであろう。」訳者
以下、長篇なので出だしの触りを紹介。全篇は各自で。
       酔っぱらいの舟
 ひろびろとして、なんの手ごたえもない大河を僕がくだっていったとき、
船曳きたちにひかれていたことも、いつしかおぼえなくなった。
罵りわめく亜米利加印度人たちが、その船曳きをつかまえて、裸にし、
彩色した柱に釘づけて、弓矢の的にした。
 フラマンの小麦や、イギリスの木綿をはこぶ僕にとっては、
乗組員のことなど、なんのかかわりもないことだった。
船曳きたちの騒動がようやく遠ざかったあとで、
河は、はじめて僕のおもい通り、くだるがままに僕を連れ去った。
訳者・金子光晴(1859-1975)解説
 ・・・マラルメや、ヴァレリーとまた違った意味で、ランボーの詩は、難解な詩というふうに宣伝されすぎた嫌いがある。・・・・彼の想像と、幻想の中から生まれた海洋は、それ
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自身の血肉をもって、現実の海洋に拮抗し、それもより奥深いものにしようとした。・・・
新緑がまぶしいこの季節になると、この詩を思い出す。5月の光が燦々と降り注ぐ谷間。青葉しげる泉。詩人がそこにみたものは・・・・。『ランボオ詩集』金子光晴訳
アルチュール・ランボオ(1854-1891)37歳没 第一詩集(1870-1872)に収録。
 この詩の背景は普仏戦争。ランボー16歳、家出を繰り返していた時期。普仏戦争とは
普仏戦争1870年~1871年
プロイセンとフランス間で行なわれた戦争。スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦。プロイセン側が圧倒的に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降伏、退位。パリでは共和制の国防政府が樹立され抗戦を続けたが、1871年パリを
開城して敗戦。フランスはフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌ(アルザス・ロレーヌ地方)の大部分を割譲、賠償金50億フランを支払った。戦争終結直前の1871年1月8日、プロイセン王・ヴィルヘルム1世がベルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ統一が達成された。
プロイセン・フランス戦争、独仏戦争とも。(HP)
普仏戦争と名作
 戦争は、いつの時代でも悲惨で忌むべき出来事である。が、不幸な中に幸いを見つけるとすれば、この戦争を材料にした、多くの名作が生まれたことである。『月曜物語』「最後の授業」のアルフォス・ドーテ(1840-1897)、短篇「二人の友」「母親」などのギ・ド・モーパッサン(1850-1893)が、そうである。
名作・自分観察・書簡小説
『あしながおじさん』について
 
自分観察の手本として書簡小説読みをはじめます。最初は、募金活動の代名詞として今日すっかり社会の中に定着している「あしながおじさん」です。
 この作品は、自分観察、一日観察、友人観察、人間観察、大学観察といった複数観察で成り立っています。全体的に簡潔な、単純な観察ですが、そのなかに読む人の心をとらえて放さない魅力があります。そのへんに気をつけて読みましょう。
 テキストは、昭和35年(1960)刊行された本(角川文庫 定価七拾円)。厨川圭子訳の『あしながおじさん』です。
以下は、同本の【あとがき】の抜粋紹介です
 著者ジーン・ウェブスター(Jean Webster)は1876年7月24日、ニューヨーク州のフレドニアに生まれた。父は出版業者で、母は『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリイ・フィンの冒険』で有名な小説家、マーク・トウェーン(1835-1910)の姪にあたる。ジーンは長女で、トゥウェーンの母の名にちなんで名づけられた。
 ヴァッサー女子大学を1910年に卒業、専攻は英文学と経済学で、在学中も創作に没頭していた。「パティ、カレッジに行く」(When Patty Went to College)は、在学中、つづき物として、発表したが、後になって、1903年、単行本として処女出版した。「あしながおじさん」(Daddy Long Legs)とともに、ウェブスターの代表作品とされている。この両作品のモデルはカレジ時代の級友であった詩人、アデレイド・クラプシーであるといわれている。ヴァッサー在学当時から、ウェブスターは貧民や犯罪者の収容施設を度々、視察する機会があり、この方面の社会事業に大きな関心を抱くようになっていた。彼女の得た信念は、
不幸なスタートをした子供でも、人生の幸福や成功をつかめぬはずはない、ということであった。この信念を小説化したのが、「あしながおじさん」である。
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文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・147―――――――― 14――――――――――――――――
 (この物語の)結末はごくロマンチックな、「シンデレラ」的要素の濃いものだが、そのくせ、この作品は、単に甘い少女向き小説として片づけることのできない、すぐれたものを持っている。それは、ロマンチックな反面、しっかりと地に足のついたたくましい生活態度
を描き出しているからである。(観察がしっかりなされているからである)
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 ジーン・ウェブスターは後にこの小説を戯曲化し、それもまた成功した。更にサイレント映画時代、名女優メアリー・ビックフォードの主演で映画化された。・・・・・・・・・
※08年の「教育」映像で、最優秀賞は、「児童養護施設」。6月14日午後BSで放映された。京都府真鶴にある児童擁護施設。18歳まで、何らかの理由で親から離れている子供が暮らしている。日本全体では、3万人余りいる。年々増加現象だという。最近の特徴は、親の虐待で入所する子が多くなっているとのこと。高校までは行けるが、その上となるとなかなかである。小説『あしながおじさん』は、そうした女の子が、ある謎の人物の篤志で大学に行かれるようになった話。
悲恋映画の決定版 まだ観てない人は観て泣いてください。
哀 愁 Waterloo Bridge
ヴィヴィアン・リー、ロバト・テーラー主演 監督マーヴィン・ルロイ
原作ロバート・E・シャーウッド 脚本S・N・ベールマン、ハンス・ラモー、ゲオルク・フレーシェル 音楽ハーバート・ストサート
「それでも、君を愛している ―― 」
舞台は、第一次大戦下のロンドン・
英国将校クローニンとバレリーナのマイラは、出会い愛し合うが、クローニンは再び戦場へ。彼の帰りを待つマイラ。しかし、彼女に届いたのは、彼の「戦死」の知らせだった――。
戦火の下、運命のいたずらによって引き裂かれ、悲劇的な結末を迎える二人の恋物語。
ヴィヴアン・リ―とロバート・テイラーの世紀の美男・美女コンビの共演。そして、ハリウッドを代表する名匠マーヴィン・ルロイ監督のロマンテックムード溢れる演出で、恋愛映画のお手本として今なお、語りつがれる名作となっている。
オススメ図書 トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』訳・実吉捷郎
この作品を知らずして文学を語るなかれ。作者の自叙伝風作品だが、「芸術と生活、もしくは芸術家と人間という対立が、ここではきわめて率直に、さまざまな角度から、さまざまな濃淡をつくして、照らし出されている」(訳者1951年)是非、読んでください。
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推薦図書 大正15年春のことである。歳のころ22、3の若者がのどかな漁村、千葉
県浦安町(現浦安市)に、一人下駄の音を響かせながらぶらりやってきた。小脇にスケッチブ
ックを抱えている。が、画学生にしては、本ばかり読んでいて絵は拙い。妙な奴…と町の人
が訝しんでいと「景色が気に入った」と住みついた。そうして4年ばかりゴロゴロ暮らし
ていたが、ある日、突然、若者は家財一切を置いたまま、夜逃げするように町を去った。そ
して、何年か後、この町で暮らした日々を書いた。日本文学屈指の短編集となった。
山本周五郎著『青べか物語』
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中日中休み・紙芝居口演
 前期ゼミも早いもので中日になります。11名の同行者、なかなか全員が揃いませんが、前期半ばなので中休みレクレーションとして表現の稽古をします。
 作品を発表する。これまでやってきましたが、ただ発表するだけでは、人は振り向きません。どのように発表するかが必要です。それには表現方法が必要です。
 というわけで本日は、紙芝居を口演します。テキストは、山川惣治の『少年王者』です。
回想法・山川惣治作・画『少年王者』(1.おいたち編)
 
□ テキスト
 政治も社会も、朝鮮半島も、いいニュースを聞かぬ日はありません。人心も荒んできます。そんなときは懐かしい気持になることです。それには、心を癒す方法として回想法があります。で、戦後すぐ大ベストセラーとなった『少年王者』をとりあげました。
□ 表現方法として
 作品は、カットごとに画と文で構成されている。が、これを紙芝居ふうに作ってみた。全カット使用した。(第一部・おいたち編が)面白ければ二部も口演する。
 ※作品には、差別的な用語や表現が多い。が、そのへんを考えて口演する。
『少年王者』とは何か
 この物語は、アフリカがまだ暗黒大陸といわれていた時代のお話。その頃、ケニヤは英国が、カメルーンはフランスが、コンゴはベルギーが植民地にしていた。しかし、奥地は人跡未踏で謎につつまれていた。その魔境で日本の少年が活躍する。
 『少年王者』第一集「おいたち編」が出版されたのは1947年(昭和22年)戦後すぐである。敗戦で打ちのめされた日本。そんななかで子供たちにとって、真吾少年の活躍は、胸のすく物語だった。たちまちに大ベストセラーとなった。
 
山川惣治 – 絵物語作家。福島県出身。 (1908年2月28日~1992年12月17日)
■代表作 『少年王者』『 少年ケニヤ』『 荒野の少年』がある。
新聞記事紹介 2008年6月4日水曜日 朝日新聞夕刊 抜粋
「少年ケニヤ」山川惣治 生誕100年の回顧展
〈少年たちに夢とロマン〉
「少年王者」に「少年ケニヤ」。猛獣が群れなすアフリカの密林で、親とはぐれた日本人の少年・・・・・・・。山川の代表作の主人公は同じ境遇だ。手にはナイフ一つ。その姿は敗戦ですべてをうしなった日本そのものだったのかもしれない。
 「水泳の古橋選手」、ノーベル賞を受けた湯川博士、そして絵物語の山川さん、この三人を抜きにして昭和20年代の少年の心象風景は語れない。優輝づけられました。夢中でしたね」と国立歴史民族博物館の春成秀爾教授。
 どんなに過酷な環境に置かれても、くじけない。体は小さいが、知恵と勇気で象やゴリラを仲間にして・・・・・。
内紛と飢餓のつづく現在のアフリカの現実は、あまりに悲しいが、この作品は夢でもある。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・147―――――――― 16――――――――――――――――
掲示板
「2010年、読書と創作の旅」の記録
4月19日 ガイダンス 嘉納治五郎の「読書のススメ」、志賀直哉「菜の花と小娘」読み
4月26日 司会=越智美和 担当決め(正副班長=立川・後藤 ゼミ正副編集長=伊藤・
塚本)自己紹介、ビデオ「おんぼろ道場再建」、「ひがんさの山」参加8名
5月10日 司会=立川、参加7名、車窓観察「沖縄米軍基地問題」討議、名作観察「空中
ぶらんこに乗った大胆な青年」、車内観察テキスト1「夫婦」
5月17日 司会=阿井大和、参加8名、名作紹介、5月の詩編ランボー「谷間に眠る者」SF古典「フェッセンデンの宇宙」テキスト『網走まで』読みと感想
5月24日 司会=伊藤光英、参加7名、ゼミ合宿採決=無し、名作観察O・ヘンリー『心と手』、『網走まで』の「網走」解説、比較作品『三四郎』、
課題 1.車内観察 2.自分観察「普通の一日」 3.社会観察「振込詐欺はなぜ」
課題提出状況(5月31日現在)
伊藤果南=「車内観察」1  重野武尊=「車内観察」1、「自分観察」1
お知らせ
■ 6月12日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第239回読書会
        『作家の日記』「おかしな人間の夢」
        池袋西口・東京芸術劇場小会議室5 1000円(学生半額、セミ生0)
※ 詳細並びに興味ある人は「下原ゼミ通信」編集室まで
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
編集室便り
☆ 課題原稿、学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
□ゼミの評価基準は可(60~100)とします。評価方法は、次の通りです。
  課題の提出原稿数+出席日数+α=評価(60~100)
課題・6    自分観察「普通の一日を記録する」
2010・5・31
                            名前      
課題・7      車内観察
5・31
                            名前      
課題・8   社会観察「振込詐欺はなぜなくならない」
5・31
                            名前      

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