文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.156

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2010年(平成22年)11月22日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.156
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/27 10/18 10/25 11/8 11/15 11/22 11/29 12/6 12/13 1/17 1/24 
  
2010年、読書と創作の旅
後期ゼミは、社会・家族観察を中心に
11・22ゼミ
11月22日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. ゼミ雑誌作成経過・編集作業報告
  2. 名作読み&裁判観察
      
11月18日(木)、経過順調で退院
 下原は、今月1日、胸椎黄色靭帯骨化症で手術入院(自宅近くの習志野第一病院)しました。が、術後の経過順調で、18日予定通り退院することができました。
8日、15日ゼミ休講など、ご迷惑をおかけしました。また、ご心配いただいた皆さまにはき厚くお礼申しあげます。
胸椎内にできた2骨化の削除摘出成功
手術は4日(木)、午前9時から開始12時30分に成功裏に終了した。翌日、「これが神経を圧迫していたのです」といって小さな透明なケースを受け取った。中にホルマリン漬けになった小さな白い歯のようなものが二つ入っていた。長年(8年間)、私の両足をシビレさせていた元凶。なぜ発生したのかは不明。故に特定疾患に認定されている。なお、リハビリは2~3月要することからコルセット着用となる。が、なにはともあれ、ほっとしました。
【胸椎黄色靭帯骨化症】とは何か
 ヒトの神経には、脳からの命令を手足に伝える役目を担っている運動神経と、手足や体の各部からの知覚情報(熱い・痛いなどの感覚)を脳に伝える知覚神経があります。これらの神経は人体の中心部では背骨の中の空間(脊柱管とよばれます)に保護されるような形で存在しています。この部分の神経は脊髄と名付けられています。脊髄を入れている脊柱管は胸部では12個の胸椎から成り立っています。これら12個の骨は幾つかの靭帯組織により連結されています。これらの靭帯のなかで、脊髄の背側にあって各々の胸椎を縦につないでいるものが黄色靭帯と呼ばれる靭帯です。
 黄色靭帯骨化症とは、この靭帯が通常の何倍もの厚さになり、なおかつ骨の様に硬くなり(靭帯の骨化)、徐々に脊髄を圧迫してくる病気です。この病気は欧米人と比較して明らかに私たち日本人では高頻度に発生することが知られていますが、残念ながらなぜこの様な靭帯の骨化が生じてくるのかに関しては原因は分かっていません。軽症の方や、全く無症状で偶然発見される方も多いものですが、ある程度症状が進行する場合には現段階では手術治療が必要となります。(脊髄脊椎疾患治療センター)


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.156―――――――― 2 ―――――――――――――
車窓雑記     追悼・101歳の恩師熊谷元一(写真家、童画家)
病室で知った突然の訃報
夏休み明けの「下原ゼミ153号」で、【車窓雑記】に「夏休み観察・ある写真展への旅」を載せた。山形県酒田市で開かれた熊谷元一の写真展を見に行ったことを書いた雑記である。熊谷はアマチュアカメラマンだが、写真界では、土門拳、木村伊兵衛ら同様ひろく知られている。日本の写真家40人の1人である。(岩波書店『日本の写真家17』)。今年7月101歳になったが、現役で写真家・童画家として活躍していた。この熊谷は、私が小学一年だったときの担任教師である。学校では4年間、教わったが、社会にでてから今日まで、私にとって、人生の師でありつづけていた。小学一年生のときのように、いつまでも担任だった。教師の教育の手本だった。それだけに、現在、文芸学科で教鞭をとる私には、いつまでもお元気でいて欲しかった。が、なにしろ101歳の高齢である。いつもどこかに不安はあった。今回、手術入院するときも、入院中、何事もなければよいが、と願った。
11月7日の夕方、病室に電話があった。4日に無事手術は終わったが、点滴、尿管をつけたままの不自由な体だった。電話の主は、地元新聞社の若い記者だった。「コメントをお願いしたいのですが」といった。次の瞬間、ぼんやりと実感はないが熊谷元一の死去を理解した。熊谷は、東京都下の清瀬市に住んでいた。所沢校舎からも近い。事あれば、飛んでいくところであった。が、ままならなかった。こんなときに・・・無念な思いでたちまちに色あせていく晩秋の空をみあげながら、熊谷元一とは何か、改めて想った。
日本写真界の金字塔『一年生』
熊谷が写真家として認められた一番の業績は、信州の一山村の人々を70余年間撮り続けたことにある。この間、撮影した写真約5万点がCDに収録されている。出版された写真集も、多数ある。それらはいまや貴重な記録、時代の証言物となっている。なかでも戦前1938年に朝日新聞社から刊行された『会地村-一農村の写真記録』と戦後1955年に岩波写真文庫から出された『一年生――ある小学教師の記録』は、日本写真界の金字塔といっても過言ではない。『会地村』は、当時、「アサヒカメラ」に一ページ大の広告が掲載された。それによって「『会地村』は、たんなる一農村の記録にとどまらない評価を次第に得ていくことになる。」(矢野敬一著『写真家・熊谷元一とメディアの時代』)熊谷の撮り続けるという手法は、写真技術の進んだドイツでもみられなかった。(ドイツは、この写真集を逆輸入したといわれている)しかし、その評価は、予想もしなかった方向にも向かった。「この当時、『会地村』は地方翼賛文化運動の高揚に伴ってさまざまな機会に取り上げられていく。熊谷の撮影意図とは別に、ともすれば『会地村』は、「愛郷心」の延長線上にあるとされた「愛国心」と結び付けられて」(同書)いた。一農村写真が愛国教育の手本となる。驚きだが、これだけみても熊谷の写真の奥深さ、幅広さを窺い知ることができる。昨年暮れ教育基本法が改正された。法律によって愛国心教育がすすめられることになる。が、熊谷の写真は、押し付けることなく、義務づけることなく郷土愛を伝え訴えていたのだ。
 写真家・熊谷を決定づけたのは『一年生』である。昭和30年に第一回毎日写真賞を受賞したこの作品は、多くの写真関係者から絶賛された。メディアにおいても「書評はいくつものカメラ雑誌だけではなく、「週刊朝日」「朝日新聞」他のメディアにも掲載された(同書)」とある。写真家としての輝かしい功績。確かに熊谷は写真において、すばらしい仕事をした。貴重な記録を残した。が、熊谷が真に伝えんとしたことは他にある。熊谷のエッセイ集に『三足のわらじ』というのがある。写真家、童画家、そして小学校教師としての自身の人生を顧みた本である。本書で感じるのは、熊谷の自分は写真家、童画家である前に教師であった、教育者であった、という強い思いである。
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 熊谷の教師生活は、昭和5年、郷里信州の山村で小学校代用教員としてスタートした。元々画家志望であったというから、一途に教師を目指したわけではない。戦時下、「教員赤化事件」に連座して教職を離れたが、戦後、再び郷里の小学校教員として復帰した。そして写真家、童画家として大成しながらも、定年まで生涯一教師を貫いた。
 教師時代の熊谷の教育は、どんなだったか。残されたものにB4のワラ半紙図がある。「熊谷は毎日一人ずつ対象を選んでは教室の掃除をするときの動きを記録していた。(同書)」そこには撮影ではない教師の目がある。その集大成が『一年生』となった。学校で教え子の様子を一年間撮りつづける。その行為は、教育現場において昔も今も不可能である。個人情報保護法が施行されている現代なら尚更である。が、熊谷にはできた。熊谷が教師だったからではない。人間熊谷と村人たちとの信頼関係の結果といえる。
 冒頭でも述べたが私は、1953年、小学校に入学した。そのときの担任が熊谷だった。熊谷は一年間、教え子たちを撮り続けた。が、なぜか、カメラを向けられた記憶はない。まだカメラが珍しい時代だったことを考えると不思議である。おそらく想像するに撮る行為が日常になっていたのだろう。熊谷はカメラと一体化していたのだ。写真家の極致といえる。
 一つの事物を観察すること。そして、その習慣化。おもうに熊谷から学んだのは、この実践教育手法であった。熊谷の教育の原点は、この一点にあったように思う。継続すること、観察することの大切さを熊谷は、その生涯を通じ身をもって教えてくれていたのだ。今日、混迷する日本の教育だが、熊谷の人生教育にこそ、その指針がある。そう信じても過言ではない気がする。恩師の死去を知って、改めてそのことを思った。合掌。  (編集室)
以下は、地元紙「信濃毎日新聞」11月8日(月)に掲載された訃報記事とコメント
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 2010年、読書と創作の旅 10月25日ゼミ報告
第5回ゼミ雑誌作成編集会議報告
 10月25日、竹下晃誠議長は、第5回ゼミ誌作成会議を緊急招集した。この日の参加者は竹下晃誠さん、高口直人さん、後藤大喜さんの3名。)
ゼミ誌作成は、見積書提出など、期限が迫っているため、決議はとらず、出席者の意向を優先、決定事項とした。決定事項は、以下の通りです。
◎ タイトル  →  『そして誰もいなくなった』
             レイアウト = 竹下君
◎ 表紙絵デザイン → 業者に任せるか、できる人(目下、できる人はいない)
【今後の制作手順】
1. 11月8日 → 「見積書」の提出。
2. 印刷会社と相談しながらゼミ雑誌作成。
3. 12月 → 14日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
ゼミ誌編集委員
 ゼミ雑誌編集委員は、次の11名の皆さんです。校正では協力し合って2年ゼミの記念になるものをつくりましょう。(順不同)
・越智美和さん ・阿井大和さん ・竹下晃誠さん ・藤重はるかさん ・後藤大喜さん
・高口直人さん ・塚本笑理さん ・立川陸生さん ・伊藤光英さん ・重野武尊さん
・伊藤果南さん   ◎ 編集長・伊藤・竹下 ○ 副編集長・塚本
2010年、読書と創作の旅評価について
この旅の評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出 + α + ゼミ誌原稿 = 100~60点(S,A,B,C)
課題提出は、まだ受付けます。書くことの日常化の為にも、どんどん書いて提出ください。
書くことは、自分の腕もあがり点数もよくなる。一挙両得です。
まだ、間に合います。課題をどんどん提出してください
課題は、「車内観察」「自分の一日観察」「社会観察」など。
お知らせ
           
■ 12月25日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第242回読書会『貧しき人々』
池袋西口・東京芸術劇場小会議室7 1000円(学生半額、下原ゼミ生0円)
※ 詳細並びに興味ある人は「下原ゼミ通信」編集室まで
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編集室便り
☆ 課題原稿、学校で直接手渡すか、下記の郵便住所かメール先に送ってください。
 「下原ゼミ通信」編集室宛
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net

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