文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.157

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2010年(平成22年)11月29日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.157
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/27 10/18 10/25 11/8 11/15 11/22 11/29 12/6 12/13 1/17 1/24 
  
2010年、読書と創作の旅
後期ゼミは、社会・家族観察を中心に
11・29ゼミ
11月29日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. ゼミ雑誌作成経過・編集作業報告
  2. テキスト『灰色の月』評・名作読み&裁判観察
      
ゼミ誌原稿、全員提出で見通し立つ
 11月22日、ゼミ誌編集局と竹下晃誠さんの報告でゼミ雑誌原稿が、11名全員から集まったことがわかった。ゼミ誌刊行への見通しがついたことで安堵した。入稿のあとは、刊行に向け全員一丸となって校正など編集作業を進めてください。
22日、ゼミ再開
22日、下原の退院でゼミ再開となった。が、連休の谷間とあって所沢校舎閑散。課題として、裁判結審再考と名作読みを予定していたが、出席の竹下さんと、冷戦崩壊後の世界、アジア事情と現在日本の政治問題について話し合った。
11・23映画完成記念シンポジュウム
 11月23日(火・祝日)退院明けで体調万全ではなかったが、知人が講演するというので、「”私”を生きる」制作実行委員会主催の映画完成記念シンポジュウムに参加した。会場は、明治大学駿河台キャンパス(リバティタワー8F1083教室)共催は明治大学政経学部社会思想史(生方)ゼミナール。定員200人会場ほぼ満席。中高年が大半。男女半々。
 古本街に行くときお茶の水にある明大校舎の前をよく通る。23階もある高層の立派な建物だが、中に入るのは、はじめてだった。この日1階は、就職説明会かスーツ姿の学生で混雑していた。子供連れの親子が多勢2階に行くので何だろうと見に行くと塾の受付。塾として教室を貸し、塾講師として学生をバイトさせれば学校としては一石二鳥か。
 シンポジュウムは、土井敏邦というドキュメンタリー映画監督(主に中東パレスチナを撮っているという。『ガザに生きる』など)の映画完成記念で開かれた。午後2時から6時までの長丁場である。知人は第2部に出演する。コルセットを巻いた身動き不自由な体なので終了までもつかと不安だった。が、途中抜けることなく全過程参加することができた。
第Ⅰ部は、映画「”私”を生きる」上映(2時間を1時間に短縮して放映)と出演者感想。
 第2部は、「かたりの椅子」の劇作家永井愛さんと、元NHKプロデューサーの永田浩三さん対談。新国立劇場次期芸術監督選出騒動とNHK制作改変現場の体験。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.157―――――――― 2 ―――――――――――――
車窓雑記     NHK大河ドラマ「龍馬伝」に想う
毎回の大言壮語劇、最終回で安堵
ことし1月からはじまったNHKの大河ドラマ「龍馬伝」がやっと終わった。毎回見たわけではないが、なにか騒々しいドラマだったので何かほっとした。なにしろ見るたびに、だれかが大声で怒鳴っているか、走っている。「新しいニッポン」とか「世界にのりだす」とか、いわゆる革命的言葉を絶叫しているのだ。ナレター役目の岩崎弥太郎も、いつも鳥かごを背負って泣きわめいてばかりで、何言ってるのかさっぱりわからない。人物像について三菱からクレームがあったという話を新聞か何かのコラムで読んだが、将来の大財閥を想起できない人物像だ。泥にあっても金剛石というのを現せていない。小道具にしてもトウモロコシの粉を振りまいたというが、そもそもあんなに埃っぽくする必要があったのか。いつも疑問に思ってしまう。もっとも、そんな不満があっても、歴史物好きの性というやつか、日曜日のこの時間帯、他に見る番組がないせいもあるが、気がつくとこのドラマを見てしまっている。見ながら文句を言うのは歳のせいか。視聴率はよかったらしいが、とにかく大言壮語いっぱいで疲れるドラマだった。最期は、あっさり終わって可も無し不可もなし。
幕末に日大闘争をみた
「龍馬伝」は、政治的会話の場面が多かった。いつ見ても若者たちが集まり体制を憂いて大声で喚きあい怒鳴り合っていた。なにか戦前の大東亜共栄圏に燃える若者たちを連想した。が、同時に昭和40年のはじめの全共闘時代の若者とも重ね合わせてみた。
昭和40年のはじめというと今から40何年か前である。高度成長期で昭和元禄と呼ばれ浮かれていた時代でもある。筆者の青春時代でもあるのだが、あの時代の若者たちはよく政治的議論をしていた。「世界革命」とか「学園自治」とか。ノンポリという言葉も生まれたが、どの大学にも思想・政治的活動家が雨後のタケノコのように生まれていた。
彼らは、学園紛争を皮切りに、ベトナム戦争、成田闘争、赤軍、そして内ゲバに燃やした。当初、彼らは街のあちこちに出没しビラを配ったりアジ演説したりしていた。が、そのうち外国に行ったり地下にもぐって仲間殺しをはじめた。彼らのおかげで国家権力は、機動隊を強くすることができた。スーダラ節や「日本一無責任男」が流行る世相だったが、映画「幕末太陽伝」的光景もくりひろげられていたのである。
初期の日大闘争は、幕末を思わせるところがある。三崎町の日大本部を幕府とするなら、関東四方八方に散在する各学部は、倒幕各藩といえる。芸術学部をはじめ、生産工学部、医学部、文理学部、法学部などほぼ全学部である。さしずめ神田は京の街である。あくまでも想像だが幕府が雄藩の同盟を恐れたように、日大本部も各学部の学生の連帯を恐れた。
1968年1月26日新聞記事「都内某私大の有名教授、裏口入学で三千万円、謝礼金をポケットへ」を発端に、学生たち怒りは、さざ波から大波へと変わっていった。黒船となってマンモス大学を揺らしはじめたのだ。そして、昭和元禄を動乱の日大闘争時代に巻き込んでいった。幕末と昭和元禄。似て非なる二つの時代ではあるが、構図はどこか重なる。
大政奉還と9・30大衆団交
想像ついでにいえば、結末も似ている。「龍馬伝」で、坂本竜馬は、幕府と薩長はじめ倒幕各藩の融和をはかり大政奉還を果たすが、結局は、倒幕内乱になっていく。日大闘争も同じような過程をたどる。『反逆のバリケード』によれば一端は、9・30の大衆団交での本部の自己批判。学生との融和が見られた。まさに大政奉還だったが、こちらは政治家の横やりから鳥羽伏見、戊辰、函館戦争と同じように、底なしの泥沼学園紛争にはまっていった。
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.157
坂本竜馬暗殺
 21日放映の「龍馬伝」は、竜馬の奔走で大政奉還が実現したところまでだった。28日の最終回は、いよいよ竜馬暗殺である。いったい誰が、やったのか。幕府の見廻り組はじめ、薩摩の大久保、土佐の後藤象二郎などなど想像されるが、実際は不明。犯人分からずである。このドラマでは、どのような決着をつけるのか。
ちなみに事件当日1867年11月17日刷りの幕末新聞(株アスベスト)は、号外でこう報じている。
号外    坂本竜馬 潜伏先の近江屋で暗殺 !
同席していた中岡慎太郎も死亡
 前月10月15日、徳川幕府は大政奉還し、260年の歴史にピリオドを打った。この一番の立役者というか功労者は土佐藩脱藩浪士坂本竜馬といわれている。
 が、この歴史的大仕事の喜びもつかの間、一ヶ月後に、竜馬は暗殺されることになった。33歳だった。以下、号外記事と、事件推移である。
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京=1867年11月17日
薩長同盟から大政奉還、船中八策と、独創的なアイディアで新国家を創ろうとした坂本竜馬が、志半ばで凶刃に斃れた。坂本は11月15日夜9時ごろ、京の醤油商、近江屋に潜伏しているところを数名の刺客に襲われ、闘死した模様。同夜坂本と会談していた陸援隊の中岡慎太郎も難に遭い、17日に息を引き取った。30歳。(幕末新聞)
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【事件推移】土佐藩脱藩浪士坂本竜馬暗殺事件推移はこのようであった。
1867年11月15日、夜8時ごろ、坂本竜馬が潜伏している京の醤油商、近江屋に数名の約束なしの訪問客があった。手札を差し出して面会を求めた。近江屋主人井口新助の証言によれば「十津川郷士」、あるいは「松代藩士」と名乗ったという。
ところが下僕の藤吉が二階の坂本に取りついでいる間に、彼らは勝手に二階にあがり藤吉を刺殺。「こなくそ!」(土佐の言葉で、この野郎の意)と叫んで部屋に飛び込んでいった。このとき坂本は、たまたま来た中岡と会談中だった。不意をつかれ両名とも応戦するも
――坂本は、刺客の太刀を刀の鞘で受けようとしたが、受けきれず、額から脳にかけて斬り下げられ、一端は「医者を呼べ」と命じたが、「もういかんき」とつぶやき、前のめりに斃れて絶命した。中岡は、片腕や足を斬られるなど六カ所に傷を負うが隣家の屋根に逃れる。しかし、二日後、息を引き取る。暗殺団は、夜の闇に消えた。
【犯人はだれか】当時の政治状況からみて、嫌疑は複数の団体、藩にかかった。
1. 新撰組 現場に新撰組関係者の鞘や下駄が残されていた。が濡れ衣的要素が強いところから限りなくシロに近い。当時の状況から、暗殺を隠す必要がない。
2. 見廻組 自分たちが襲ったと宣伝している。自己宣伝的で灰色。ドラマはこの線か。
3. 紀州藩 いろは丸沈没事件で、9万両も弁償させられた恨み。実行的にはシロに近い。
4. 長州藩 武力倒幕に固執していたが、木戸、坂本の人間関係からシロに近い。
5. 土佐藩 脱藩浪士に、手柄をとられた。後藤象二郎の嫉妬。灰色、クロに近い。
6. 薩摩藩 「こなくそ」と似た言葉で「こげなくそ」という言葉が薩摩にある。強硬に倒幕をすすめる大久保説もある。クロに近い灰色
※新撰組を除いて、どこも灰色といえる。犯人は、複数なのに、(見廻り組の他)、その後一人も名乗りでないのは、強固な組織集団といえる。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.157 ―――――――― 4 ―――――――――――――――
10月25日ゼミでテキスト最終読みとして『灰色の月』を読んだ。この日、参加者の感想は「終戦の8月15日から、二か月後とは思えない」「終戦後の車内の雰囲気がでている」「作品が読者に何か訴えている」「自分が乗り合わせていても同じ」など、このようでした。
□参加者は、後藤大喜さん、高口直人さん、竹下晃誠さん
この作品について本通信で分析、考察してみました。(休講してしまったので時間の都合で)
『灰色の月』を読む
はじめに
 この作品は、僅か6、7枚の分量なのに、中長編にも匹敵するものを感じる。千枚の告発文にも勝るものがある。その夜、乗り合わせた乗客から人間の哀しみや怒れる声が聞こえる。それはなぜか。たぶんに、作者志賀直哉の車内観察が、表層に終わらないからだろう。僅か数行の人物描写でも、時代を超えて真理を見ることができる。そこから、人間の愚かさ、無力さ、悲しさを感じ取ることができる。それ故にこの作品は、というよりこの作者の車内観察作品は、一時代の一車内を映しながらも普遍でありつづけるのである。
『灰色の月』は、一見、なんの変哲もない車内エッセイである。だが、ここには現在、日本が抱える様々な問題が潜んでいる。日本の為政者は目まぐるしく変わっている。靖国神社参拝問題は、戦争責任は棚上げされたままだ。そんななか、まだ、あの戦争は正しかったのだ、という自衛隊トップもいた。現在の混沌する時代において日本は、人間は、どうするのか。この作品は、人類全体に向かって訴えている。そこに名作の所以がある。
なお、本文は小話48年発行の岩波書店『志賀直哉全集』を『下原ゼミ通信』編集室で現代読みにしたもの
灰色の月
表題に凝る作家と、頓着しない作家がいる。志賀直哉は、それなりに拘泥した作家のようである。例えば処女作の一つ「花ちゃん」は『菜の花と小娘』になった。『暗夜行路』も『和解』も簡潔だが、葛藤の深さを感じる。この作品も、草稿ノートには、「白いつき、白い月、しろいつき、しろいつき」という書入れがあったという。『灰色の月』に決まるまで、あれこれ模索したに違いない。が、つけてしまえばぴったりする。名題である。
灰色・・・はっきりしない、うっとおしい色である。そんな月が、都会の夜を照らしている。地上はほとんど真っ暗いに違いない。狼男かドラキュラでもでそうな不気味さがある。作品をよく表した題名といえる。それでは、作品を検証・考察していきます。
東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套で丁度よかった。連れの二人は先に来た上野まわりに乗り、あとは一人、品川まわりを待った。
東京駅は、大正3年12月30日アムステルダム中央駅をモデルにルネッサンス様式赤レンガ駅舎として開業された。原敬首相暗殺や浜口幸雄狙撃など、大きな政治的事件は起きたが、建築的にはいたって頑丈で、大正12年のときに起きた関東大震災でも被害はなかった。それなのに「屋根のなくなった歩廊」、とはどういったことか。疑問は、冒頭のこの光景からはじまる。なぜ、屋根がないのだろうか。日付も説明もないから、読者にはわからない。が、その疑問は、すぐに明らかになる。ちなみに「上野まわり、品川まわり」とあるが、山手線が現在の環状運転になったのは大正14年のことである。と、するとこの物語はそれ以降の話ということになる。「着て来た一重外套」から、季節は初秋とわかる。屋根のなくて見通しのよいホームからは何が見えるか。
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 薄曇りのした空から灰色の月が日本橋側の焼跡をぼんやり照らしていた。月は十日位か、低くそれに何故か近く見えた。八時半頃だが、人が少なく、広い歩廊が一層広く感じられた。
「日本橋側の焼跡」で、読者は、ようやく情景を思い描くことができる。都心の「焼跡」といえば、東京大空襲しかない。B29の爆撃で焼け野原と化した東京。文面の印象から静けさを感じるから、既に戦争は終わっているようだ。8月15日に終戦。山手電車も普通に走り出したのなら、10月初旬の頃だろうか。この時の乗客は、どんなだったか。
 遠く電車のヘッドライトが見え、暫くすると不意に近づいて来た。車内はそれ程込んでいず、私は反対側の入口近くに腰かける事が出来た。右に五十近いもんぺ姿の女がいた。左には少年工と思われる十七八歳の子供が私の方を背にし、座席の端の袖板がないので、入口の方へ真横を向いて腰かけていた。その子供の顔は入って来た時、一寸見たが、眼をつぶり、口はだらしなく開けたまま、上体を前後に大きくゆすっていた。それはゆすっているのではなく、身体が前に倒れる、それを起こす、又倒れる、それを繰返しているのだ。居眠りにしては連続的なのが不気味に感じられた。私は不自然でない程度に子供との間を空けて腰かけていた。
 ここには東京駅から有楽町までの車内の乗客観察が描かれている。当時の(終戦直後の)夜八時半頃の山の手電車の、乗車状況がどうだったかは知らない。しかし、「車内はそれ程、
混んでいず」とあるから7、8割の乗客があったかも。観察では、右隣の「もんぺ姿の女」
のほかに「少年工」のことが書かれている。「連続的なのが不気味に感じられた」とあるから七、八分入りの車内で少年は目立った存在だったのだろう。が、ホームに着くたびに乗客は入れ替わる。志賀直哉(この作品では、主人公を志賀直哉本人とみるべきである。続々創作余談で「あの通りの経験をした」と語っている)は「車中の人々」を、どう描いたのだろう。みてみよう。山手電車は、有楽町、新橋と停車していく。
有楽町、新橋では大分込んで来た。買出しの帰りらしい人も何人かいた。二十五六の血色のいい丸顔の若者が背負って来た特別大きなリックサックを少年工の横に置き、腰掛に着けて、それにまたぐようにして立っていた。その後ろから、これもリックサックを背負った四十位の男が人に押されながら、前の若者を覗くようにして、
「載せてもかまいませんか」と云い、返事を待たず、背中の荷を下ろしにかかった。
「待って下さい。載せられると困るものがあるんです」若者は自分の荷を庇うようにして男の方へ振り返った。
「そうですか、済みませんでした」男は一寸網棚を見上げたが、載せられそうにないので、狭い所で身体をひねり、それを又背負ってしまった。
 若者は気の毒に思ったらしく、私と少年工の間に荷を半分かけて置こうと云ったが、
「いいんですよ。そんなに重くないんですよ。邪魔になるからね。おろそうと思ったが、いいんですよ」そう云って男は軽く頭を下げた。見ていて、私は気持よく思った。一頃とは人の気持も大分変わってきたと思った。
 乗客はリックサックを背負った人が多くなった。有楽町、新橋から混んできたというから、新橋あたりに市場があったのだろうか。しかし、時間を考えると戦後の闇市を想像する。話は逸れるが、闇市で思い出すのは、昭和40年前後に流行ったヤクザ映画の一つである。当時、高倉健、鶴田浩二の任侠ものが全盛時代ではあったが、それとは違う、戦後のドサクサを描いた、闇市ヤクザ路線も流行っていた。安藤昇という大学出のインテリヤクザが、足を洗い映画監督になってつくったもので闇市がリアリティあった。殺伐とした時代だが、主人公の観察は「一頃とは人の気持も大分変わってきた」と、戦争、終戦で埃のようにまいあ
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がっていた世の中が、漸く治まってきたと見ている。観察は、乗客の表層面から、会話や一人ひとりの感情や思考へと移っていく。
浜松町、それから品川に来て、降りる人もあったが、乗る人の方が多かった。少年工はその中でも依然身体を大きくゆすっていた。
「まあ、なんて面をしてやがんだ」という声がした。それを云ったのは会社員というような四、五人の一人だった。連れの皆も一緒に笑いだした。私からは少年工の顔は見えなかったが、会社員の云いかたが可笑しかったし、少年工の顔も恐らく可笑しかったのだろう。車内には一寸快活な空気が出来た。その時、丸顔の若者はうしろの男を顧み、指先で自分の胃の所を叩きながら、「一寸手前ですよ」と小声で云った。
男は一寸驚いた風で、黙って少年工を見ていたが、「そうですか」と云った。
笑った仲間も少し変に思ったらしく、
「病気かな」
「酔ってるんじゃないのか」
こんなことを云っていたが、一人が、
「そうじゃないらしいよ」と云い、それで皆にも通じたらしく、急に黙ってしまった。
 
 山手電車は、浜松町、田町、品川と過ぎていく。車内は益々混んできた。乗客も入れ替わったが、あの少年工は、まだ乗っていた。「依然身体を大きくゆすっていた」ところから、
他の乗客たちも注目する。奇妙な動作。主人公からは見えなかったが「少年工の顔も恐らく可笑しかったのだろう。」会社員たちは笑い、車内の雰囲気は快活になった。しかし、新橋から乗っている25、6の若者は、少年工をずっと観察していたので、なにかがわかったようだ。いまでこそ、若者は血色のいい丸顔であるが、戦時中は、この少年工と同じだったことがわかる。「そうじゃないらしいよ」その意味は、皆にもすぐわかった。ここから主人公は、この少年をじっくり観察することになる。
地の悪い工員服の肩は破れ、裏から手拭でつぎが当ててある。後前に被った戦闘帽のひさしの下のよごれた細い首筋が淋しかった。少年工は身体をゆすらなくなった。そして、窓と入口の間にある一尺程の板張りにしきりに頬を擦りつけていた。その様子が如何にも子供らしく、ぼんやりした頭で板張りを誰かに仮想し、甘えているのだという風に思われた。
 破れ、つぎはぎだらけの工員服。よごれた細い首。甘えるように頬ずりする子供らしい顔。一見、無邪気な光景描写である。しかし、読者は、凍りつく。少年の子供のような仕草は何を意味するのか。この世の全てを放棄した姿。恐れを知らぬ幼児の表情。それとも写真で見たホロコーストの順番を待つ人々の顔か。上野の山ではこのときもバタバタ飢え死んでいる。
「オイ」前に立っていた大きな男が少年工の肩に手をかけ、「何処まで行くんだ」と訊いた。少年工は返事をしなかったが、又同じ事を云われ、
「上野へ行くんだ」と物憂さそうに答えた。
「そりゃあ、いけねぇ、あべこべに乗っちゃったよ。こりゃあ渋谷の方へ行く電車だ」
 
 乗客は、少年の運命を知っている。なんとかしたい。男が聞いたのもその表れだろう。しかし、少年には、もはやどうでもよいことだった。こんな日本に誰がした。そんな怒りや絶望も、もはやない。乗客にできることは、電車の方向を教えることだけだった。
少年工は身体を起こし、窓外を見ようとした時、重心を失い、いきなり、私に寄りかかってきた。それは不意だったが、後でどうしてそんな事をしたか、不思議に思うのだが、その時ほとんど反射的に寄りかかってきた少年工の身体を肩で突返した。これは私の気持を
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全く裏切った動作で、自分でも驚いたが、その寄りかかられた時の少年工の抵抗が余りに
少なかった事で一層気の毒な想いをした。私の体重は今、十三貫二三百匁に減っているが、
少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。(一貫=3・75k)
 私は、なぜ少年を突返したのか。死神がついている。無意識にそれをみたのかも知れない。このときの私は、体重が13貫余りというから50㌔に満たないわけだ。少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。とあるから、少年は栄養失調を過ぎた体だったのだろう。この少年にたいして何をしてやれるのか。作者には『小僧の神様』になれる余裕も体力も気力もなかった。このときの気持を作者志賀は【続々創作余談】でこう述べている。
「あの場合、その子供をどうしてやったらいいか、仮に自家へ連れて来ても、自家のものだけでも足らない食料で、又、自身を考へても程度こそ異ふが、既に軽い栄養失調にかかっている時で、どうする事も出来なかった。まつたくひどい時代だった。」
「東京駅でいたから、乗越して来たんだ。―― 何処から乗ったんだ」私はうしろから訊いて見た。少年工はむこうを向いたまま、
「渋谷から乗った」と云った。誰か、
「渋谷からじゃ一回りしちゃったよ」と云う者があった。
少年工は硝子に額をつけ、窓外を見ようとしたが、直ぐやめて、漸く聞きとれる低い声で、
「どうでも、かまはねえや」と云った。
少年工のこのひとり言は後まで私の心に残った。
どうやら少年工は、山手線に乗ったままぐるぐる回っていたようだ。乗客たちは、おせっかいに、むろん悪気はないのだろうが騒ぎだした。少年も皆が自分の行き先に注目していることがわかった。山手線を一回りしようが何周しようが、少年にとってどうでもよいことだった。少年は、現世とは、もはや完全に縁を切った世界にいる。他者は、どうすることもできない。ヘミングウェイの短編に『殺し屋』というのがある。不況とギャングが横行するアメリカの暗黒時代の話だ。主人公のニックが働くレストランに二人の殺し屋がやってきた。時間まで待って殺す相手が来ないとわかると帰って行った。ニックは、知らせに走った。だが、狙われている「オール・アンダーソンは、きちんと服を着たままベッドに横になっていた」そうして逃げようともせず、他人事のように「どうしょうもねえんだ」と言うばかりであった。死ぬことも、殺されることも受け入れた人間の前にニックは、なす術もない。このときの作者も同じ気持であったのかも知れない。
 近くの乗客たちも、もう少年工の事には触れなかった。どうすることも出来ないと思うのだろう。私もその一人で、どうすることも出来ない気持だった。弁当でも持っていれば自身の気休めにやることも出来るが、金をやったところで、昼間でも駄目かも知れず、まして夜九時では食い物など得るあてはなかった。暗澹たる気持のまま渋谷駅で電車を降りた。昭和二十年十月十六日の事である。
                   (『志賀直哉全集』を現代読みに・編集室)
「暗澹たる気持」志賀直哉は、この「暗澹」、アンタンという言葉をこの時代、何度か使っている。が、おそらくこの言葉が最初に口にでたのは、あの日ではなかったか、と推測する。
昭和8年2月25日(土)の日記にこう書いている。
<MEMO 小林多喜二2月20日に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる。ふと彼等の意図ものになるべしという気する>
このとき志賀直哉が抱いたアンタンは、国民を戦争へと駆り立てていった為政者たちへの怒りと憎しみ、それを阻止できなかった悔やみと後ろめたさがある、と編集室は思う。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.157 ―――――――― 8 ―――――――――――――――
 土壌館日誌          11月の悪夢
紅葉狩り、小春日和といった言葉から11月は、物淋しいが、穏やかな季節を連想する。だが、月末に近くなると、過去の後味の悪い事件が思い出される。まず15日は竜馬暗殺。23日(米国22日)になると1963年にアメリカのダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件。この事件は、その日が近づくと特集が組まれるが、単独犯か組織犯かいまもって謎のままだ。映画も「ダラスの熱い日」から「JFK」など多数ある。次に25日がくるとマスメディアは、一斉に「三島事件」をとりあげる。三島の死はピンキリ諸説ある。が、衝撃自殺の威力で、年々神格化されている。ちなみに2010年ことしの新聞は「三島に負け続ける我々」(朝日・25・夕刊)「三島さんを恨んではいなかった」(朝日・26・朝刊)などなど三島非凡人説が台頭している。ケネディも三島も、真にどんな人間だったのか。いまとなってはわからない。が、不幸な死に方をすればするほど伝説化はすすむようだ。
龍馬と嘉納治五郎
 
幕末の志士、坂本龍馬と柔道の創始者嘉納治五郎。一見、なんの関連もみられない二人だが、その実、両者は懐かしい思い出と強い意志で結ばれている。親密な両者の関係は…次回。
2010年、読書と創作の旅・土壌館日誌 
ゼミ雑誌『そして誰もいなくなった』作成
1. 印刷会社入稿
2. レイアウトなど印刷会社と相談しながらゼミ作成。
3. 12月 → 14日までにゼミ誌提出、③「請求書」提出
 校正では協力し合って2年ゼミの記念になるものをつくりましょう。
・越智美和さん ・阿井大和さん ・竹下晃誠さん ・藤重はるかさん ・後藤大喜さん
・高口直人さん ・塚本笑理さん ・立川陸生さん ・伊藤光英さん ・重野武尊さん
・伊藤果南さん   
お知らせ
           
■ 12月25日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第242回読書会『貧しき人々』
池袋西口・東京芸術劇場小会議室7 1000円(学生半額、下原ゼミ生0円)
※ 詳細並びに興味ある人は「下原ゼミ通信」編集室まで
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編集室便り
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出 + α + ゼミ誌原稿 = 100~60点(S,A,B,C)
課題提出は、まだ受付けます。書くことの日常化の為にも、どんどん書いて提出ください。
☆課題提出は、執筆力もあがり点数もよくなる。まさに一挙両得です。
課題は、「車内観察」「自分の一日観察」「社会観察」など。

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