文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.159

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日本大学芸術学部文芸学科     2010年(平成22年)12月13日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.159
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/27 10/18 10/25 11/8 11/15 11/22 11/29 12/6 12/13 1/17 1/24 
  
2010年、読書と創作の旅
12・13ゼミ
12月13日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。301教室
1. ゼミ雑誌作成経過報告
12月14日、ゼミ誌納入日
 2. 3ゼミ合同発表会
一、 清水ゼミ → ドストエフスキー研究
二、 下原ゼミ → 志賀直哉の観察作品読み・模擬裁判
三、 山下ゼミ → 宮沢賢治研究
      
12・6ゼミ観察
3ゼミ合同発表、複数役で再決定
 3ゼミ合同発表は、テキスト志賀直哉作品の『范の犯罪』から「奇術師美人妻殺害疑惑事件」の模擬裁判を予定した。が、欠席者多数で配役が決まらず、6日に持ち越された。
しかし、この日も参加状況芳しくなく、出し物の変更が話し合われた。が、越智さん、竹下君が複数役で頑張ると決意をみせ、模擬裁判に再決した。
土壌館日誌
公団自治は無縁社会解決の鍵
 このところ背中の手術傷が気になる。傷痕はすっかり治っているというが、何か違和感がある。原因は、連日のボランティア活動かも知れない。が、いまのところは予定通り、参加するしかないようだ。8日、日米開戦日だが九段下へ行く。九段会館ホールで「2010年全国公団住宅居住者総決起集会が開かれ、全国から1068名が集まった。国への要請は主に、家賃値上げ反対、公団住宅民営化反対だった。国会議員は10名ばかり挨拶したが、URの仕分けを画策している与党議員の歯切れは悪かった。反対に、野党議員の考えははっきりしていた。各国会議員は、自分の演説が終わるとさっさと帰っていった。彼らに本当に聞いてほしかったのは、東海地区代表の近況報告だった。6割が外国人家族というその団地は、外国人にとって故郷のようになっているとのこと。彼らは、団地がなくならないようするために日本人以上に協力的だという。大会の決議は、値上げと民営化反対だが、ふとこのとき思ったのは、現在日本社会を根幹から揺さぶっている問題、無縁社会。この問題を解く鍵は、無用論が叫ばれて久しい公団、都市再生機構にある。そのように思えたのである。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.159―――――――― 2 ―――――――――――――
名作読み 12月といえば巷では第九と相場が決まっている。が、アポリネール(1880-1918)のこの詩を思い出す人も少なくない。木枯らし吹く師走の夕暮れ、一人行く雑踏のなかでこの詩を思い出してください。「ミラボー橋」は1913年の作品。これはセーヌ川にかかる鉄製の橋の名前です。(詳しくはネットで)
  Le pont Mirabeau            ミラボー橋
Sous le pont Mirabeau coule la Seine.  ミラボー橋の下をセーヌは流れる
Et nos amours              そして私たちの愛も
Faut-il qu’il m’en souvienne       思い出さねばならないのか?
La joie venait toujours apres la peine  悲しみの後に必ず喜びが来たことを
Vienne la nuit sonne l’heure       夜が来て、鐘が鳴り
Les jours s’en vont je demeure.     日々は去り、我は一人。
Les mains dans les mains         手に手を取り
restons face a face         顔に顔を合わせ
Tandis que sous le Pont         私たちの腕が作る橋の下を
de nos bras passe          永遠の微笑みが流れる間に
Des eternels regards l’onde si lasse   水は疲れていった
Vienne la nuit sonne l’heure       夜が来て、鐘が鳴り
Les jours s’en vont je demeure.     日々は去り、我は一人。
L’amour s’en va comme cette eau courante 愛は流れ行く水のように去っていく
L’amour s’en va comme la vie est lente  愛は人生は遅すぎるかのように
Et comme l’Esperance est violente    そして望みは無理であるかのように
                     去っていく
Vienne la nuit sonne l’heure       夜が来て、鐘が鳴り
Les jours s’en vont je demeure.     日々は去り、我は一人。
Passent les jours et passent les semaines日々が去り、週が去って行くのに
Ni temps passe              時は去らず
Ni les amours reviennent         愛は戻らない
Sous le pont Mirabeau coule la Seine   ミラボー橋の下をセーヌは流れる
Vienne la nuit sonne l’heure       夜が来て、鐘が鳴り
Les jours s’en vont je demeure.     日々は去り、我は一人。
 句読点を使わないという画期的な手法を使った作品集「アルコール」の特徴
がこの詩にも出ています。(検索)
 去っていった恋人、マリー・ローランサン。詩人は38歳の短い生涯。が、彼女への愛は永遠に終わらない。
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新年の授業のお知らせ
新年は、1月17日、24日とゼミがあります。最後の授業ということで、名作『最後の授業』の読みと、お別れ会ということで百人一首カルタ大会を行います。百人一首とは何か。簡単に書きましたので、以下、みてきてください。
昔の正月の遊び
 最近の家庭は、どうか知らないが、私の田舎、長野県伊那谷の山村では、正月は百人一首と相場が決まっていた。そのころは、まだ大家族で、どの家にも数人の子供がいた。私の部落はほとんど親戚だったことから、同じ年頃の子供たちは、一塊になって親戚の家々を泊まり歩いた。遊びは、はじめ子供だけのうちは花札、トランプだが、大人たちが加わる夜更けになると百人一首大会となる。子供にとっては、お菓子やみかんをかけての大勝負だった。緊張した熱気と雰囲気。正月がくると、思い出す。もう半世紀も前になる。
 核家族になった現代では、都会ではむろん、田舎でもほとんど百人一首は遊ばなくなったようだ。従兄弟の数も減ったし、いろんなゲームが増えたこともある。昨年ゼミで話したところ、16名の学生全員が一度もやったことがなかった。授業が選択になったせいか、教育現場でも学ばなかったようだ。が、皆、興味は持っていた。「やってみたい」そんな声があがったので、後期後半のゼミは、百人一首大会にした。時間がなく途中でベルになってしまったが、ちょっとはできてよかったとの感想。今年は、ぜひ、全部を読みきりたいものである。最近NHKのテレビ時代物ドラマで百人一首を扱ったものがはじまった。日本文化の最高峰にある作品である。復活なるか、楽しみである。
百人一首とは何か
 百人一首とは何か。カルタひろいから入れば、それほど縁遠いものではない。おそらく苦手とする人は、学校教育の一環、古典文学と考えるからと思う。昔の人が優雅に風景や、四季、恋、失恋を詠んだもの、文法ではなくリズムで思い描いてみよう。
 百人一首とは、何か。HPでは、このように紹介している。
 藤原 定家(ふじわら の さだいえ、1162年(応保2年) – 1241年9月26日(仁治2年8月20日))は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。法名は明静(みょうじょう)。
 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道の家としての地位を不動にした。代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。
 摂関家藤原北家道兼流・宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)が京都嵯峨野に建築した別荘、小倉山荘の襖色紙の装飾の為に、蓮生より色紙の依頼を受けた鎌倉時代の歌人藤原定家[1]が、上代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが小倉百人一首の原型と言われている。男性79人(僧侶15人)、女性21人の歌が入っている。成立当時まだ百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」や「嵯峨山荘色紙和歌」などと称された。
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 いずれも『古今集』 、『新古今集』などの勅撰和歌集から選ばれている。歌道の入門書として読み継がれた。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まった。より人々が楽しめる遊戯として普及した。関連書に、やはり藤原定家の撰に成る『百人秀歌』があり、『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は「後鳥羽院・順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の3名が入っている」「源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく別の歌である」2点である。現在、この『百人秀歌』は『百人一首』の原撰本(プロトタイプ)と考えられている。
2010年読書と創作の旅 百人一首一覧
 1.秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ     天智天皇 
 2.春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山        持統天皇  
 3.あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む  柿本人麻呂
 4.田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士のたかねに 雪は降りつつ  山部赤人
 5.奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき       猿丸大夫
 6.鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける       中納言家持
 7.天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも      安倍仲麿
 8.わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり     喜撰法師
 9.花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに   小野小町
10.これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関    蝉丸
11.わたの原 八十島かけて 漕き出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね  参議篁
12.天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ      僧正遍昭
13.筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる    陽成院
14.陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに     河原左大臣
15.君がため 春の野にいでて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ     光孝天皇
16.立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む    中納言行平
17.ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは    在原業平朝臣
18.住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ     藤原敏行朝臣
19.難波潟 短かき蘆の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや     伊勢
20.わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ   元良親王
21.今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな    素性法師
22.吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ   文屋康秀
23.月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど   大江千里
24.このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに   菅家
25.名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな   三条右大臣
26.小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ      貞信公
27.みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ    中納言兼輔
28.山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば     源宗于朝臣
29.心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花      凡河内躬恒
30.有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし      壬生忠岑
31.朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪      坂上是則
32.山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり     春道列樹
33.久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ        紀友則
34.誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに        藤原興風
35.人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける      紀貫之
36.夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ     清原深養父
37.白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける     文屋朝康
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38.忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな     右近
39.浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき     参議等
40.忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで     平兼盛
41.恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか   壬生忠見
42.契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは      清原元輔
43.逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり        権中納言敦忠
44.逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし   中納言朝忠
45.哀れとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな    謙徳公
46.由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな      曽禰好忠
47.八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり    恵慶法師
48.風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな     源重之
49.みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ   大中臣能宣朝
50.君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな      藤原義孝
51.かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじなもゆる思ひを   藤原実方朝臣
52.明けぬれば暮るるものとはしりながら なほうらめしき朝ぼらけかな  藤原道信朝臣
53.なげきつつひとりぬる夜のあくるまは いかに久しきものとかはしる  右大将道綱母
54.忘れじのゆくすえまではかたければ 今日を限りの命ともがな      儀同三司母
55.滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ      大納言公任
56.あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな   和泉式部
57.めぐりあひて見しやそれとも わかぬまに雲がくれにし夜半の月かな  紫式部
58.有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする       大弐三位
59.やすらはで寝なましものをさ夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな    赤染衛門
60.大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立         小式部内侍
61.いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな       伊勢大輔
62.夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ     清少納言
63.いまはただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな   左京大夫道雅
64.朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木     権中納言定頼
65.うらみわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそをしけれ   相模
66.もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかにしる人もなし       前大僧正行尊
67.春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなくたたむ名こそをしけれ     周防内侍
68.心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな     三条院
69.あらし吹くみ室の山のもみぢばは 竜田の川の錦なりけり       能因法師
70.さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくもおなじ秋の夕ぐれ   良選法師
71.夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろやに秋風ぞ吹く       大納言経信
72.音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ    祐子内親王家紀伊
73.高砂のをのへのさくらさきにけり とやまのかすみたたずもあらなむ 前権中納言匡房
74.憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを   源俊頼朝臣
75ちぎりおきしさせもが露をいのちにて あはれ今年の秋もいぬめり   藤原基俊
76.わたの原こぎいでてみれば久方の 雲いにまがふ沖つ白波 法性寺入道前関白太政大臣
77.瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ      崇徳院
78.淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守       源兼昌
79.秋風にたなびく雲のたえ間より もれいづる月の影のさやけさ    左京大夫顕輔
80.長からむ心もしらず黒髪の みだれてけさはものをこそ思へ     待賢門院堀河
81.ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただありあけの月ぞ残れる   後徳大寺左大臣
82思ひわびさてもいのちはあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり   道因法師
83.世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる     皇太后宮大夫俊成
84ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき   藤原清輔朝臣
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85.夜もすがら物思ふころは明けやらで 閨のひまさへつれなかりけり   俊恵法師
86.なげけとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな        西行法師
87.村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕ぐれ       寂蓮法師
88.難波江の蘆のかりねのひとよゆえ みをつくしてや恋ひわたるべき  皇嘉門院別当
89.玉の緒よたえなばたえねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする   式子内親王
90.見せばやな雄島のあまの袖だにも ぬれにぞぬれし色はかはらず   殷富門院大輔
91.きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む 後京極摂政前太政大臣
92.わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそしらねかわくまもなし   二条院讃岐
93.世の中はつねにもがもななぎさこぐ あまの小舟の綱手かなしも    鎌倉右大臣
94.み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり        参議雅経
95.おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣に墨染の袖      前大僧正慈円
96.花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり     入道前太政大臣
97.こぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ    権中納言定家
98.風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける     従二位家隆
99.人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆえに物思ふ身は    後鳥羽院
100.ももしきやふるき軒ばのしのぶにも なほあまりある昔なりけり   順徳院
百人一首について
 「百人一首」についてカルタでは知っているが、歴史、選者についてはあまり知られていない。編集室も右同じである。古文は苦手ということからゲーム以外には目を向けなかった。が、講談社学術文庫・有吉保全訳注『百人一首』を買って読んだら、これが解り易くて面白い。いろいろわかったこともある。で、解説の1部を紹介する。以下、同書解説から。
一、書 名
 百人一首とは、百人の歌人から各一首ずつ歌を集めたもの、という意味である。この書名は、現存の百人一首注の最古の奥書をもつ『百人一首応永抄』(応永十三年1406年の藤原満基の奥書)の内題に「小椋(倉)山庄色紙和歌」とあるものの、その序文には「世に百人一首と号する也」とあるように、古くより「百人一首」と呼ばれていたとみられる。その後、足利義尚の『新百人一首』や『武家百人一首』『女房百人一首』などが世に出て、それらと区別するために「小倉」を冠として「小倉百人一首」と呼ぶようになった。「小倉」「小倉山荘」などを付した名称となったのは、後述するように、百人一首の成立が藤原定家の小倉山荘と深い関係にあると考えられたからである。
二、選者と成立
 百人一首は、中世以来藤原定家の撰と信じられてきた。しかし、近世になり、安藤為章(年山)が『年山紀聞』(元禄十五年成る)で、定家の『名月記』分暦二年(1235)5月27日の条に
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とあることにより、入道蓮生(為家の妻の父)が自身の嵯峨中院の別荘の障子に貼るため、歌をみずから選び染筆のみを定家に依頼したという説を示した。その後、諸説があったが、百人一首の成立問題は稿者の『百人一首応永抄』「百人秀歌」の紹介により一つの曲がり角を迎えたと思われる。そして「墨美」に定家筆とされる後鳥羽院「ひともおし」の小倉色紙が掲載されたことにより、近来の諸説は、後述するように定家撰説が有力で、部分的補ていの点で意見の相違がみられる。
 ところで、先に掲出した『名月記』分暦二年(1235)5月27日の記事は『百人一首』と深い関係にある『百人秀歌』の記述とみられるので、まず『百人集荷』について検討しておきたい。
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三、「百人一首」の成立
 百人一首は、既に完成していた百人秀歌を草稿として、成ったものとみられる。そして、この両書とも定家の手になるものと考えるのが多くの意見であるようである。
 しかし、現存の『百人一首』は、色紙との関係や補訂者とその時期をいつと考えるかに問題がまだ残されているようにみられる
常用漢字表29年ぶり改定、2136字に
  11月30日、新しい「常用漢字表」がない内閣告示された。(朝日新聞12・1参照)
【常用漢字表】
 法令、公文書、新聞、雑誌、放送など一般社会で使用する際の漢字の目安。現行は1945字で1981年に内閣告示された。学習指導要綱では、中学で常用漢字の「大体」が読めること、高校では「主なもの」が書けるようになるよう求めている。
外された5字、読み方が変更された32字
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今回追加された196字一覧(朝日新聞から)
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写真界の鬼才、熊谷元一さん逝去を悼んで
信濃毎日新聞 2010年11月13日 土曜日付け
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追悼 先の本通信にも書いたが、去る11月6日、写真家・童画家の熊谷元一が亡くなった。101歳だった。熊谷の岩波写真文庫『一年生』は、写真界の金字塔ともいえる。熊谷は、1938年、朝日新聞社『会地村』の刊行を皮切りに写真活動を開始。アマチュア写真家ながら高い評価を得てきた。とくに1955年の第一回毎日写真賞では、土門拳、木村伊衛兵といった名だたる写真家候補をおさえて受賞。生涯一教員だったが、日本の写真家40人に堂々名を連ねた鬼才である。他の主な写真集『なつかしの一年生』(河出書房)、『写しつづけて69年』など。童画『二本の柿の木』は30年間で100万部のロングセラーとなっている。
 以下は、地元紙「南信州新聞」に掲載された追悼文である。 2010年12月1日付け
追悼・熊谷元一先生と四足のわらじ
下原敏彦
 熊谷先生は、ご自分の人生を「三足のわらじを履いた人生」にたとえられていた。三足とは、童画家、写真家、教師の人生である。昭和28年、村の小学校に入学した私たち一年生は、幸運にもこの三足の恩恵を受けることができた。
童画家としての先生からは、自由に描く楽しさを教わった。先生の絵画指導で、多くの子が賞状を手にする栄誉を得た。私もその一人だった。新聞社が主催した「第一回版画コンクール」では、共同制作の作品紙版画「どうぶつえん」が全国第一位になった。写真家としての先生からは、貧しかった時代にあって、本当に多くの写真を残していただいた。1955年出版の岩波写真文庫『一年生』は、ひろく世に知られ私たちの一生の宝物となった。
教師としての先生からは、人生の糧となることを学んだ。叱るより褒める教育だった。「ほう、面白いじゃないか」寡黙だが、その一言に自信がもてた。先生の教育は学校に止まらなかった。退職後の人生そのものが教育だった。一つのことをつづけること、観察することの大切さ。いくつになっても目標を持つことの大事さ。継続は力、その実践教育は、還暦を過ぎた今日まで、私たちを励まし、勇気と希望を与えてくれた。
今年の夏だった。記念文集『還暦になった一年生』の刊行を終えほっとしていると、先生から電話があった。「おもしれいことを思いついたんだ」先生は、うれしそうにおっしゃつた。なんと、またしても新しい写真集の企画が浮かんだというのだ。101歳を過ぎたというのに、尽きぬ興味と意欲に驚いた。周囲の人たちの困惑を思って苦笑した。が、なにか新しい力をもらったようで元気がわいた。「はい、手伝います!」私は、思わず返事した。
思えば、それが先生との会話の最後になった。先生の訃報を知ったのは病院のベッドの上だった。脊椎手術で身動き不自由な体だった。葬儀の日、無念な思いで病室の窓の秋空をながめたていたら、重大なことを思いだした。先生との約束である。先の貞子奥様の葬儀のとき、先生から「わしの葬式のときバンザイで送ってくれ」と頼まれた。皆には断られたらしい。「おまえさんが是非やってくれ」ユーモアのある先生だが冗談は言わない。私は、笑ってあいまいにうなずくほかなかった。だれかやってくれただろうか。葬儀が終わる時刻、私は、天高くひろがる西空に、小さくバンザイを告げた。
後日、先生の最期の言葉を伝え聞いた。見舞った曾孫さんに「わしはいくつだ」と尋ね「101さいだよ」といわれて「そうか、そんなに生きたのか」と、しみじみつぶやかれたという。先生は三足のわらじの他に、人を楽しませる、思いやるわらじも履いていた。先生は四足のわらじを履いていたのだ。
退院の日、小春日和の日差しの中で、ふとそんなことを想った。そうして、四足のわらじに改めて感謝したい気持ちになった。
先生、本当にありがとうございました。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.159 ―――――――― 12 ―――――――――――――――
12・8は何んの日、歴史教科書を読む
      
大日本帝国軍、米英に宣戦布告
 
12月8日、この日がなんの日か、すぐにわかる人は、少なくなった。テレビのレポーターが街頭でマイクを向けていたが、若い子は、ほとんど知らなかった。戦後に生まれた世代が65歳になるご時世である。無理もないといえば無理もないことではあるが・・・。
69年前のこの日、なにがあったのか。1941年12月8日午前7時。日本は、突如、アメリカ合衆国・大英帝国と戦争状態に入ったのだ。なんと、あのホロコーストで有名なドイツのヒトラーと手を組んでである。今日、日本は、当時まるで連合国側にでもいたように、ユダヤ人問題のドキュメンタリーを作ったり、アメリカ兵士の戦争ものを観たりしている。が、日本は、悪役の敵国だったのだ。そのへんの意識が薄いのは、ゆとり教育で日本史の授業が減ったせいか。ちなみに高校日本史(実教出版)ではこう書いている。
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 1941年(昭和16)12月8日、航空母艦を主力とする日本海軍の機動部隊は、ハワイ諸島を奇襲し、真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊に大損害をあたえた。また、同日、日本陸軍は、イギリスの植民地であるマライ半島北部に上陸作戦を開始した。
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 超大国米国と戦争する。いまではとても考えもつかない。なぜ、日本は開戦したのか。1904年の日露戦争の流れがあったと推測する。あのときも超大国ロシアに、極東の島国日本が勝つとは(決して勝ったのではないが)、世界中のだれもが思ってみなかった。死の床にあったチェーホフも、愛する日本のことを心配していた。それが、まさかのまさかであった。
 今日、北方領土問題がこじれているのも少なからず日露戦争の影響があると思っている。こんな中、NHKで『坂の上の雲』を放映するのは、何か意図あってのことか。歴史を振り返りなががら今の国際情勢をみてみると面白い。
お知らせ
           
■ 12月25日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第242回読書会『貧しき人々』
池袋西口・東京芸術劇場小会議室7 1000円(学生半額、下原ゼミ生0円)
※ 詳細並びに興味ある人は「下原ゼミ通信」編集室まで
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編集室便り
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出 + α + ゼミ誌原稿 = 100~60点(S,A,B,C)
課題提出は、まだ受付けます。書くことの日常化の為にも、どんどん書いて提出ください。
☆課題提出は、執筆力もあがり点数もよくなる。まさに一挙両得です。
課題は、「車内観察」「自分の一日観察」「社会観察」など。
2010年、読書と創作の旅の皆さん、よいお年を!

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