文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.161

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2011年(平成23年)1月24日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.161
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/27 10/18 10/25 11/8 11/15 11/22 11/29 12/6 12/13 1/17 1/24 
  
2010年、読書と創作の旅
1・24ゼミ
1月24日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. ゼミ雑誌作品報告(今年、はじめての人)
2. 何のために書くか(第一回芥川賞の行方についてのetc・・・)
 3. 2010年、読書と創作の旅、解散宣言
    
貴重な青春を大切に
 2010年、読書と創作の旅もいよいよ今日が最後です。どんな一年だったでしょうか。何か身についたことはあったでしょうか。書くこと、読むことの習慣化を目指しての旅でしたが、成果は得られたでしょうか。ゼミ授業を料理にたとえると、お金を払ったまま食べにこない、そんな人が目立ちました。ゼミの料理より他に美味しいものがあったと推測します。
青春は短いです。これからの大学生活、いまこの時間、自分には何が一番大切か、重要か、しっかり見定めて歩んでいってください。
1・17ゼミ観察
    ゼミ雑誌『そして誰もいなくなった』全員掲載
 ゼミ雑誌が期日までに刊行できました。が、編集後記を読むまでもなく、竹下晃誠君の孤軍奮闘のおかげでした。大いに感謝しましょう。ゼミ誌には全員の作品が掲載されました。及第の最低ラインがゼミ誌発表でしたので、全員の通貨が確定しました。皆勤だった人、精勤の人、一回しか顔をださなかった人、課題提出の有無など、評価基準に照らすと格差さまざまですすが、ここは棄権、脱落、不明がなかったことを良しとします。
百人一首大会、楽しく
 この日の参加者は、竹下君、立川君、阿井君、重野君。百人一首大会には、ちょうどいい人数でした。経験者は、立川君が中学生のときに少し。あとの人は皆、同じくらいか。はじめに坊主めくり。こちらは初体験の人も。阿井君につきがあったようです。二回戦とも土壇場で、姫どり。百人一首大会は、下原が詠み、4人が拾いました。こちらは、やはり経験者の立川君が多く取れたようです。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.161―――――――― 2 ―――――――――――――
土壌館日誌
熊谷元一とは何か
昨秋、101歳で亡くなった熊谷元一氏についてメディアは、その業績を遅まきながら評価しはじめている。功績を昨年暮れから何度か放映しているが、担当する若いディレクターは「知れば知るほど偉大な人だったとわかってきました」と感想をメールで伝えてきている。氏に関するテレビ放映は、暮れに地方局、「おはよう日本」、1月14日に地方局、今週28日(国会中継の場合延期)に全国放映と広がりつつある。
昨日23日(日)に、この28日(金)放映に先立って、私が住んでいる団地の集会所で、「熊谷元一ミニ写真展」を催した。独居老人誘い出し作戦の狙いもあったが、宣伝不足で入場者は少なかった。しかし、来場者は、写真に感銘を受けた。一日だけの開催を残念がった。そして、熊谷元一氏とは誰か、よく知りたがった。で、再紹介したい。
氏は、写真家・童画家としてひろく知られていた。訃報に際して新聞記事は、見出しで「写真・童画家」と紹介していた。朝日新聞長野局も「満蒙開拓民の記録写真 熊谷元一さん死去」と報じた。氏は終生アマチュアカメラマンを冠としたが、その実績と行動は、誰もがプロ写真家と認めるところだった。『会地村 一農村の写真記録』(38年、朝日新聞社刊)、『一年生』(55年、岩波写真文庫)は、写真界の金字塔といっても過言ではない。1997年に岩波書店は、日本の写真家40人の1人として『熊谷元一 日本の写真家17』を発行している。童画家としての氏は、村の子供たちの暮らしや遊びを独特の筆致で描いてきた。長野県の一山村ではあるが、その地に伝わる風俗文化を童画の世界に留めた。1968年刊行の『二ほんのかきのき』は、30年間で100万部を超えるロングセラーとなっている。氏は、写真家・童画家という二足のわらじを履ききって、その生涯を閉じた。氏の著作の数々は、激変著しい時代のなかで貴重な記録、伝承作品としてますますその付加価値を高めていくに違いない。
ところで、この熊谷元一氏には写真家・童画家の他に、もう一つの顔がある。教育者としての顔である。しかし、そのことは、あまり喧伝されていない。たいてい「教員のかたわら」とか「小学校教員時代に」童画や写真をといった刺身のつま的報道であった。それだけに教師としての評価について言及されることは殆んどなかった。知っている限りでは静岡大学教授・矢野敬一氏が著書『写真家・熊谷元一とメディアの時代』、(青弓社05)の中で触れているのみである。が、恐らく氏の教員評価は、狭い村社会のなかで、厳しかったのではないかと推測する。戦後の貧しい時代にあってカメラと絵筆に専念する教師。村人の目にどう映ったかは、想像に難くない。しかし今日、改めて氏の教員時代を顧みると、その教育方法に瞠若させられる。そうして、氏の真髄は教育にあったのではないか。そう信じて止まない気持ちになる。私は昭和28年に村の小学校へ入学した。担任は、熊谷元一先生だった。このとき先生は44歳。旧制中学卒業後、代用教員として出発するも、治安維持法違反の赤化事件で教職を追われ戦中、戦後、紆余曲折を経て再び郷里の教壇に立ったのだ。
先生の教育は、ひたすら褒める教育だった。民主主義教育草創期、教育方針も定まらぬ教師も多かった。が、先生は、軍国教育から解かれたように創意工夫で自らの教育を進めた。学校でのこどもたちの様子を一年間写真に撮った。こどもたち一人一人の将来の夢をレコード盤に記録した。教師の聖域だった黒板を解放し、自由に描かせた。空き教室にはプラネタリウムを作った。天気が良ければ野に遊ばせた。放任主義に見えた教育だったが、違った。今思えば先生は、徹底した観察主義者だったのだ。けんかも、いたずらも静観してカメラに収めた。教室でのこどもたちの行動を知る動線調査を実施した。掃除の時間、子供たちはどんな動きをしているのか。各人の動きによって班をつくるため一人ひとりを何日かかけて観察したらしい。30人全員終わるまで一年間かかったという。「教育とは時間がかかるものだ」後に先生は、こう話されていた。
性急に結果をみたがる現代の教育において、見習う点は多々ある。
編集室
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ゼミ誌『そして誰もいなくなった』
【テーマに沿った創作】①家と犯罪 ②読書と創作の旅 ③自由創作
・重野武尊作「母と妹」「スイカ日和」「王様」「冷蔵庫」「電話」「違反」
 
・藤重はるか作「燃えあがる」
・竹下晃誠作「ただ、雨音だけが響いていた」
・立川睦生作「交錯殺人 前篇」
・阿井大和作「妹の家」
・伊藤光英作「銅色の彼女」
・後藤大喜作「 Toky Disco Music AII Night Long 」reprise
・越智美和作「絡操人形」
・塚本笑理作「茶色の染み」
・高口直人作「はろーわーく」
・伊藤果南作「家」
【自由企画】
・重野武尊作「その後の話」
・藤重はるか作「『12人の怒れる男』:映画レビュー」
・竹下晃誠作「ラカン刑務所の死神」
・立川睦生作「交錯殺人 後編」
・阿井大和作「ガラクタ複数」
・伊藤果南作「ネイル」
名作紹介
静のなかの緊張と動を見事に詠む
もののふの 矢並(やなみ)つくろう小手の上に 霰たばしる 那須の篠原
鎌倉右大臣實朝郷家集 岩波文庫『金槐和歌集』斉藤茂吉校訂 1972年7月20日発行
 凛とした寒さが張りつめる雪原の那須の野。時が静止したような静寂があたりをおしつつんでいる。時折り、霰がたばしるなか武士が一人黙々と矢並をつくろっている。
 実朝は12歳のとき、兄頼家の後を継いで鎌倉三代の将軍になる。が、1219年28歳で北条の手によって暗殺される。薄幸な生涯だった。
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最後の名作紹介 100冊の現代文学より1つの古典名作を・・・読みましょう。
 「2010年、読書と創作の旅」も本日が最後です。正真正銘の最後、というわけで、今日の読書のススメは、文字通り『最後の授業』ドーテーの作品を紹介します。
 
     最後の授業 ~アルザスの一少年の物語~
      A・ドーデー(桜田佐訳)
 その朝は学校へ行くのがたいへんおそくなったし、それにアメル先生が分詞法の質問をすると言われたのに、私は丸っきり覚えていなかったので、しかられるのが恐ろしかった。一時は、学校を休んで、どこでもいいから駆けまわろうかしら、とも考えた。
 空はよく晴れて暖かかった!
 森の端でつぐみが鳴いている。リベールの原っぱでは、木挽き工場の後でプロシア兵が調練しているのが聞こえる。どれも分詞法の規則よりは心を引きつける。けれどやっと誘惑に打ち勝って、大急ぎで学校へ走って行った。
 役場の前を通った時、金網を張った小さな掲示板の傍に、大勢の人が立ちどまっていた。二年前から、敗戦とか徴発とか司令部の命令というようないやな知らせはみんなここからやってきたのだ。私は歩きながら考えた。
「今度は何が起こったんだろう?」
 そして、小走りに広場を横ぎろうとすると、そこで、内弟子と一緒に掲示を読んでいたかじ屋のワシュテルが、大声で私に言った。
「おい、坊主、そんなに急ぐなよ、どうせ学校には遅れっこないんだから!」
 かじ屋のやつ、私をからかっているんだと思ったので、私は息をはずませてアメル先生の小さな庭の中へ入っていった。
 ふだんは、授業の始まりは大騒ぎで、机を開けたり閉めたり、日課をよく覚えようと耳をふさいでみんな一緒に大声で繰り返したり、先生が大きな定規で机をたたいて、
「も少し静かに!」と叫ぶのが、往来まで聞こえていたものだった。
 私は気づかれずに席につくために、この騒ぎを当てにしていた。しかし、あいにくその日は、何もかもひっそりとして、まるで日曜の朝のようだった。友だちはめいめいの席に並んでいて、アメル先生が、恐ろしい鉄の定規を抱えて行ったり来たりしているのが開いた窓越しに見える。戸を開けて、この静まり返ったまっただなかへ入らなければならない。どんなに恥ずかしく、どんなに恐ろしく思ったことか!
 ところが、大違い。アメル先生は怒らずに私を見て、ごく優しく、こう言った。
「早く席へ着いて、フランツ。君がいないでも始めるところだった。」
 私は腰掛をまたいで、すぐに私の席に着いた。ようやくその時になって、少し恐ろしさがおさまると、私は先生が、督学官の来る日か賞品授与式の日でなければ着ない、立派な、緑色のフロックコートを着て、細かくひだの付いた幅広のネクタイをつけ、刺しゅうをした黒い絹の縁なし帽をかぶっているのに気がついた。それに、教室全体に、何か異様なおごそかさがあった。いちばん驚かされたのは、教室の奥のふだんは空いている席に、村の人たちが、私たちのように黙って腰をおろしていることだった。三角帽を持ったオゼールじいさん、村の村長、元の郵便配達夫、なお、その他、大勢の人たち。そして、この人たちはみんな悲しそうだった。オゼールじいさんは、縁のいたんだ古い初等読本を持って来ていて、ひざの上
にひろげ、大きなめがねを、開いたページの上に置いていた。
※分詞法=動詞が変形し、形容詞の機能を持つもの。インド・ヨーロッパ語族の諸国語に見られ、英語では現在分詞、過去分詞の二つがある。(『広辞苑』)
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 私がこんなことにびっくりしている間に、アメル先生は教壇に上がり、私を迎えたと同じ
優しい重味のある声で、私たちに話した。
「みなさん、私が授業するのはこれが最後(おしまい)です。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました・・・・新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです。どうかよく注意してください。」
 この言葉は私の気を転倒させた。ああ、ひどい人たちだ。役場に掲示してあったのはこれだったのだ。
 フランス語の最後の授業!・・・・・
 それだのに私はやっと書けるぐらい!ではもう習うことはできないのだろうか!このままでいなければならないのか!むだに過ごした時間、鳥の巣を探しまわったり、ザール川で氷滑りをするために学校をずるけたことを、今となってはどんなにうらめしく思っただろう!さっきまであんなに邪魔で荷厄介に思われた本、文法書や聖書などが、今では別れることのつらい、昔なじみのように思われた。アメル先生にしても同様であった。じきに行ってしまう、もう会うこともあるまい、と考えると、罰を受けたことも、定規で打たれたことも、忘れてしまった。
 きのどくな人!
 彼はこの最後の授業のために晴着を着たのだ。そして、私はなぜこのむらの老人たちが教室のすみに来てすわっていたかが今分かった。どうやらこの学校にあまりたびたび来なかったことを悔やんでいるらしい。また、それは先生に対して、四十年間よく尽くしてくれたことを感謝し、去り行く祖国に対して敬意を表するためでもあった・・・・
 こうして私が感慨にふけっている時、私の名前が呼ばれた。私の暗しょうの番だった。このむずかしい分詞法の規則を大きな声ではっきりと、一つも間違えずに、すっかり言うことができるなら、どんなことでもしただろう。しかし最初からまごついてしまって、立ったまま、悲しい気持で、頭もあげられず、腰掛の間で身体をゆすぶっていた。アメル先生の言葉が聞こえた。
「フランツ、私は君をしかりません。充分罰せられたはずです・・・そんなふうにね。私たちは毎日考えます。なーに、暇は充分ある。明日勉強しょうつて。そしてそのあげくどうなったかお分かりでしょう・・・・ああ!いつも勉強を翌日に延ばすのがアルザスの大きな不幸でした。今あのドイツ人たちにこう言われても仕方がありません。どうしたんだ、君たちはフランス人だと言いはっていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか!・・・この点で、フランツ、君がいちばん悪いというわけではない。私たちはみんな大いに非難されなければならないのです。」
「君たちの両親は、君たちが教育を受けることをあまり望まなかった。わずかなお金でもよけい得るように、畑や紡績工場に働きに出すほうを望んだ。私自身にしたところで、何か非難されることはないだろうか?勉強するかわりに、君たちに、たびたび花園に水をやらせはしなかったか?私があゆを釣りに行きたかった時、君たちに休みを与えることをちゅうちょしたろうか?・・・・」
 それから、アメル先生は、フランス語について、つぎからつぎへと話を始めた。フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強い言葉であることや、ある民族がどれいとなっても、その国語を保っているかぎりは、そのろう獄のかぎを握っているようなものだから、私たちのあいだでフランス語をよく守って、決して忘れてはならないことを話した。それから先生は文法の本を取り上げて、今日のけいこのところを読んだ。あまりよく分かるのでびっくりした。先生が言ったことは私には非常にやさしく思われた。私がこれほどよく聞いたことは一度だってなかったし、先生がこれほど辛抱強く説明したこともなかったと思う。行ってしまう前に、きのどくな先生は、知っているだけのことを
すっかり教えて、一どきに私たちの頭の中に入れようとしている、とも思われた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.161 ―――――――― 6 ―――――――――――――――
 日課が終わると、習字に移った。この日のために、アメル先生は新しいお手本を用意して
おかれた。それには、みごとな丸い書体で、「フランス、アルザス、フランス、アルザス。」と書いてあった。小さな旗が、机のくぎにかかって、教室じゅうにひるがえっているようだった。みんなどんなに一生懸命だったろう!それになんというし静けさ!ただ紙の上をペンのきしるのが聞こえるばかりだ。途中で一度こがね虫が入ってきたが、だれも気をとられない。小さな子どもまでが、一心に棒を引いていた。まるでそれもフランス語であるかのように、まじめに、心をこめて・・・学校の屋根の上では、はとが静かに鳴いていた。私はその声を聞いて、
「今にはとまでドイツ語で鳴かなければならないのじゃないかしら?」と思った。
 ときどきページから目をあげると、アメル先生が教壇にじっとすわって、周囲のものを見つめている。まるで小さな校舎を全部目の中に納めようとしているようだ・・・無理もない!四十年来この同じ場所に、庭を前にして、少しも変わらない彼の教室にいたのだった。ただ、腰掛と机が、使われているあいだに、こすられ、みがかれただけだ。庭のくるみの木が大きくなり彼の手植えのウブロンが、今は窓の葉飾りになって、屋根まで伸びている。かわいそうに、こういうすべての物と別れるということは、彼にとってはどんなに悲しいことであったろう。そして、荷造りしている妹が二階を行来する足音を聞くのは、どんなに苦しかったろう!明日はでかけなくてはならないのだ、永遠にこの土地を去らなければならないのだ。
 それでも彼は勇を鼓して、最後まで授業を続けた。習字の次は歴史の勉強だった。それから、小さな生徒たちがみんな一緒にバブビボビュを歌った。うしろの、教室の奥では、オゼール老人がめがねを掛け、初等読本を両手で持って、彼らと一緒に文字を拾い読みしていた。彼も一生懸命なのが分かった。彼の声は感激に震えていた。それを聞くとあまりこっけいで痛ましくて、私たちはみんな、笑いたくなり、泣きたくもなった。ほんとうに、この最後の授業のことは忘れられない・・・
 とつぜん教会の時計が12時を打ち、続いてアンジェリスの鐘が鳴った。と同時に、調練から帰るプロシャ兵のラッパが私たちのいる窓の下で鳴り響いた・・・アメル先生は青い顔をして教壇に立ち上がった。これほど先生が大きく見えたことはなかった。
「みなさん」と彼は言った。「みなさん、私は・・・私は・・・」
 しかし何かが彼の息を詰まらせた。彼は言葉を終わることができなかった。
 そこで彼は黒板の方へ向きなおると、白墨を一つ手にとって、ありったけの力でしっかりと、できるだけ大きな字で書いた。
「フランスばんざい!」
 そうして、頭を壁に押し当てたまま、そこを動かなかった。そして、手で合図した。
「もうおしまいだ・・・お帰り。」
※この物語の舞台はフランスですが、戦争になれば世界中どこで起こりうることです。
A・ドーテについて
  アルフォンス・ドーデー(1840-1897)は、南フランスの古都ニームに生まれた。若いとき兄がいるパリにきて詩集『恋する女たち』、短編集『風車小屋だより』、自伝小説『プチ・ショーズ』によって作家となった。普仏戦争(1870)が始まると国民兵を志願した。ここで紹介する短編『最後の授業』は、そのときの体験と想像をまじえて創作したもの。フランスは負けてアルザス地方を割譲されるが、作者の憤怒と嘆き愛国心が投影され名作となった。 このときの戦争を「歴史新聞」(日本文芸社)は、下記のように大々的に報じている。
ナポレオン三世プロイセンに降伏
【パリ=1870年9月4日】フランス再び共和制に 敗北知ってパリ市民が暴動
「皇帝、プロイセンに降伏」の報が届いたパリで、四日、帝政廃止を求める暴動が起きた。
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 市民の圧力で第二帝政は崩壊、臨時政府による第三共和制がスタートした。しかしプロイセン軍はパリに向かって進軍を続けており、フランスの混乱はさらに広まっていくと予想される。ドイツ統一はプロイセンの首相オットー・フォン・ビスマルクの悲願である。1866年の対オーストリア戦の勝利で、ビスマルクの夢はほぼ達成された。残るのはフランスとの国境地帯(アルザス、ロレーヌ)の併合だ。一方フランスの皇帝ナポレオン三世にとって、ルクセンブルグ買収を妨害するプロイセンとは、いずれは雌雄を決しなければならない。
 それぞれの領土拡張の思惑がぶつかりあって、両国は1870年7月14日、戦端を開いた。しかし、勝負はあっけなかった。兵力、兵器の性能、実戦経験、いずれの面でもまさっているプロイセンの敵ではなかった。短期間のうちに敗戦をつづけたナポレオン三世は、9月2日、セダン城で降伏した。
※ この戦争の後、和平条約でフランスは、アルザス、ロレーヌ地方をプロイセンに割譲した。が、これに怒ったパリ市民は、武器をとてって蜂起した。
パリ・コミューン成立(1871・3・28)
政府軍ヴェルサイユに逃亡 民衆による「直接民主制開始へ」
作品観察 この作品は、アルフォス・ドーデー(1840-1897)が1873年に出した短編集『月曜物語』のなかの一編。パリの新聞に掲載(1871-1873)されたなかの一つです。敗戦国の悲哀と愛国心を描いた名作です。普段は退屈で嫌いな授業でも、もし最後となれば、もっと真面目にやればよかった。そんな悔いがわきあがる。
 この旅もそう思ってもらえれば幸いである。
余談        ドーデーとシーボルト、そして日本
 アルフォンス・ドーデー(Alphonse Daudet 1840-1897)この作家を知らなくても、シーボルトの名は、たいていの日本人は知っている。1823年、オランダ商館の医員として長崎に着任。日本の動植物・地理・歴史・言語を研究。鳴滝塾を開いて高野長英らに医術を教授。1828年帰国、59年再来航、62年に帰国。日本の医学、開国に大いに貢献したドイツ人。著書に『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』などがある。(1796-1866)
 1866年の春、ドーデーはシーボルトと知り合った。作家の言葉を借りれば「私たちはすぐに大の仲良しとなった」。場所は、パリ、テュイルリー宮。シーボルト大佐は、ナポレオン三世に不思議国ジャポン開拓の国際的協会創立計画の嘆願に訪れていた。若い作家は、著名な冒険家の話を喜んで聞いた。気に入ってシーボルトは、日本の悲劇「盲目の皇帝」の校閲を頼んだ。が、ドイツに戦争が起きて頓挫。若い作家は、あきらめずにミュンヘンに追った。「・・・そりゃあ君すばらしいぜ」大佐はその晩ばかに元気だった。が、翌朝、自宅に行くと彼は亡くなっていた。72歳だった。「盲目の皇帝」は題だけで終わった。
シーボルトと日本
 シーボルトが日本医学に与えた功績は大きい。が、帰国船が台風の被害を受けたことから、思わぬ大事件になった。事件を「歴史新聞」は以下のように報じている。
積み荷から禁制品
シーボルトスパイ容疑で事情聴取へ
 1828年8月10日、来月オランダに帰国予定だったドイツ人医師フォン・シーボルトの荷物から、幕府が海外への持ち出しを禁止している日本地図など数点が発見され、シーボルトは長崎奉行から取り調べを受けることになった。シーボルトは蘭学の普及などに尽力していたが、今回の調査の結果いかんではスパイ容疑で国外追放などの厳しい処分もあるとみられる。(「歴史新聞」) 
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.161 ―――――――― 8 ―――――――――――――――
2010年読書と創作の旅日誌・提出課題一覧
【観察作品】
・伊藤果南「青春老女」未発表 ・・・ 車内観察作品
・重野武尊「女装趣味の男」発表済み ・・・ 車内観察作品
・重野武尊「遠い目覚め」発表済み ・・・ 自分の一日観察作品
・重藤はるか「広いシート 狭いシート」発表済み ・・・ 車内観察作品
・竹下晃誠「府中本町~東所沢間」発表済み ・・・ 車内観察作品
・越智美和「胎児に還れる場所」発表済み ・・・ 車内観察作品
・竹下晃誠「人とは欺くある物に非ず」発表済み ・・・自分の一日観察作品
後期、授業俎上のテキスト・議題一覧
【議題】
・「誰もが信じられない死」ニュース
・「ガンプラ捨てられたに自宅放火」ニュース
・料理人になるため大学を辞めたい」人生相談
・大学の「友だち」づくり問題、社会現象
【テキスト】
・『灰色の月』、『にんじん』(授業朗読)。『殺し屋』『城の崎にて』(課題読書)
【疑似裁判】
・「耳かき店員とその祖母殺害事件」事件佐検証
・「ナイフ投げ奇術師美人妻殺害疑惑事件」『范の犯罪』から
お知らせ
■ 1月28日(金)NHKテレビ午後3時15分~(30分程度)国会中継の場合延期
  たびたび本通信でとりあげている写真家・熊谷元一氏特集          
■ 2月12日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第243回読書会『分身』
池袋西口・東京芸術劇場小会議室7 千円(学生半額、下原ゼミ生0円)
※ 詳細は「下原ゼミ通信」編集室まで
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編集室便り
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出 + α + ゼミ誌原稿 = 100~60点(S,A,B,C)
課題提出は、まだ受付けます。書くことの日常化の為にも、どんどん書いて提出ください。
☆課題提出は、執筆力もあがり点数もよくなる。まさに一挙両得です。
課題は、「車内観察」「自分の一日観察」「社会観察」など。
2010年、読書と創作の旅のみなさん、お元気で!
江古田での、さらなる成長をお祈りします。

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