文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.162

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2011年(平成23年)4月18日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.162
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20 6/27 7/4 7/25
  
2011年、読書と創作の旅
4・18下原ゼミ
4月18日(月)の下原ゼミガイダンスは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. 2011年読書と創作の旅へようこそ 文芸の使命 講座内容 について
2.  目標 書くことと読むことの習慣化・日常化
 
 3.  授業 手法 テキスト紹介 志賀直哉の短編
 4. 観察課題 3・11「その日、そのとき」
    
1.2011年読書と創作の旅へ、ようこそ
 はじめに、3・11東日本大震災並びに福島原発事故で被災された皆さま方に心よりお見舞
い申し上げると共に被災地の一日も早い復旧と復興をお祈り申し上げます。
文芸の使命
 未曾有の大地震、大津波、原発事故。3万人に近い死者・行方不明者。そして、いまもつづく不安と恐怖。想像を超えた自然災害に文明社会は、あまりにも脆かった。
この国難にあって、日芸に在籍する私たちは、何をなすべきか。写真や映像なら、真実を捉えるための技術を。絵画なら、困難の心象風景をいかに描くか。放送なら、正確さと、風評を防ぐ手立てを、演劇なら、この災難をどう表現するか、などなど。被災地と被災者支援に7アートそれぞれの創意工夫がある。
文芸の仕事は何か。この大災害体験を文字の上でよりリアルに、より想像的に書くことにある。記録するためもあるが、町々の復旧・復興と人々の心に希望と勇気の火を灯すためでもある。かつて日本は、戦争を扇動するためにペンの力を利用した。が、この度は人々を守るために放射能という悪魔と戦うために書くのです。
入試の面接のとき、志望した動機を尋ねると、ほとんどの人が「小説を書きたい」「作家になりたい」「ジャーナリストを目指している」と答え。この思いをいまこそ発揮しよう!
講座内容
下原ゼミの講座内容は、以下の通りです。(平成23年度「講座内容一覧より)
 「2011年読書と創作の旅」。目的は読むこと、書くことの習慣化を身につける。主に志賀直哉の短編(や世界名作))を読みながら自らも課題作品を書いて発表・批評しあう。
※ 2011年度の前期課題は、上記講座内容を踏まえて「あの日、あの時」3・11のときのルポ・創作・エッセイに挑戦です。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.162―――――――― 2 ―――――――――――――
「2011年読書と創作の旅」について
  
 今年も下原ゼミは、「2011年読書と創作の旅」と銘打って2011年度の未知空間を旅します。なぜ、この表記か。その表記説明は、以下の通りである。
 今から174年前、ロシアのペテルブルグで一人の少年(17)が「人間は謎です。その謎は解かねばなりません」と宣言して人生の旅にでた。少年は、「それを解き明かすのに生涯かかったとしても、時間を空費したとは言えません」と誓った。少年の名は、フョードル・ドストエフスキー。モスクワ・マリヤ慈善病院の医師の息子だった。
彼はその言葉通り、謎に挑戦しつづけた。死刑宣告、シベリア流刑、癲癇の病、借金苦といった過酷な運命のなかで、その謎を追究しつづけた。そうして、最期に謎解きのヒントともなるべく長編作品を書き終えて59歳で逝った。世界文学山頂に燦然と輝く『カラマーゾフの兄弟』がそれである。チョモランマは、多くの登山家が征したが、「カラキヨ」の山頂を征するものは、いまだ少ない。
残念ながら人類は、まだそのヒントすら解明できていないのかも。この謎解きにアインシュタインも、ニーチェも、世界の多くの賢者や文学者が挑んだ。しかし、人間とは何か、は今日に至るまで依然、謎である。
 少年が旅立ってから138年後、宇宙船ディスカバリー号は「人間とは何か」を知るために宇宙へと旅立った。謎は解明されたのか。否、人間は相変わらず謎のままだ。人間は、戦争と我欲に明け暮れ、この星を荒らしつづけている。ディスカバリー号を旅立たせたアーサー・クラークも、一昨年、無念のうちに死んだ。謎は永遠か。
 下原ゼミの目標は、「書くことと読むこと」の習慣化ですが、この謎「人間とは何か」を大きなテーマとしています。
 ということで、今年も、また「2011年、読書と創作の旅」としました。
※ A・クラークの『2001年宇宙の旅』の他『2010年』『2030年』『2060年』がある。
旅の目標    書くこと、読むことの習慣化を目指して
 このゼミでは、シラバスに説明あるように「書くこと」、「読むこと」の習慣化、日常化を目指します。将来、作家やジャーナリスト志望者は当然ですが、そうでない人にとっても、読むことと、書くことは大切なことです。昔、「読み書きそろばん」が、人生を生き抜く基本だったように、現代においても「読むことと書くことは」は重要です。この旅が終わるときには習慣化・日常化したいものです。
なお、この両輪によって執筆力と批評力を培います。
〈読むことの習慣化〉
先ごろの古典ブームも、下火になってきました。が、書店に行くと、新しいカバーの新刊が積み上げてあります。そのなかでも、長い、くどい、暗い、重いといわれながらも100万部のベストセラーとなったドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、いまだ健在のようです。(もっとも、人気は自然発生的なものではなく、出版社が仕掛けたらしいという風評もありま。それでも凄いですが。しかし、新訳で一躍時の人となった東京外語大の亀山郁夫学長は、「買っても実際に読む人は五千人にひとり、いや一万人にひとりかもしれない」とテレビで苦笑していた)
現代において日本のマンガは、世界を席巻しています。が、反対に世界古典名作を読む人は、少なくなっています。下原ゼミでは、志賀直哉の短編と世界名作の短編を朗読することで、読むことの習慣化を目指し、併せて批評力を育てていきます。
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〈書くことの習慣化〉
三日坊主に代表されるのは日記です。今年こそ、と一大決心をして元旦から書きはじめた日記も、気がつくと、真っ白しろの雪の大平原ということが、間々あります。多くの人が、その繰り返しで人生を終えているといっても過言ではありません。もっとも、最近はブログや携帯メール、ツィツターで、書くことには抵抗がなくなっているようです。
 しかし、ゼミで感じる限り書く習慣は、それほど日常化していない。そのように思われます。課題提出にムラがあるからです。書き手のプロを目指す以上、コンスタントな提出が期待されます。発表する場として本「ゼミ通信」があります。が、年によって不作、豊作があります。たとえば、書き手(ゼミ生)が10人以上いるのに、ほとんど発表がなかった年。反対に4、5人の書き手なのにいつも記事満載の歳。不作の年は、指導方法の間違いと一種三日坊主の人たちが多かった。そのように分析しました。
指導方法は、こうして説明する他ありませんが、三日坊主を退治するというか克服するには、やはり習慣しかありません。歯を磨いたり、顔を洗ったりすると同じように書かないとしないと、気になる。気持ちわるい。そんな感覚を無意識のなかに植えつけるのです。
 なお、書くことで一番重要なことは、観察するということです。
 下原ゼミでは、観察して書くことの繰り返しで、「書くこと」の習慣化を身につけることを目指します。習慣化は、常に執筆力と比例します。書くことをつづければつづけるほど、ものを書く力、すなわち執筆力は高まるというわけです。
観察
 書くことの基礎というか基本は、しっかり観察することです。下原ゼミでは、観察作品のお手本として、志賀直哉の車内作品をとりあげます。志賀直哉の車内作品は、主に電車内の光景・様子・出来事などを書いた小説ですが、このなかに自分自身や自分の毎日の生活、乗客たち、時代背景がしっかり描かれています。
これらの作品をテキストとして、ゼミの皆さんにも毎日利用している車内作品を書いてもらいます。創作でも実際のことでもかまいません。もの書く以上、恣意的な、空想的なものだけではなく、目にしたものを的確に書くことも重要です。志賀直哉の作品は、常に想像と真実のブレンドです。そこに志賀直哉が小説の神様と言われる所以があります。
テキスト車中作品について
  
 なぜ車中作品か。志賀直哉の車中作品には、創作の基本があるからである。創作の基本とは、観察力である。事実を的確に精緻する目と、想像する目。この二つの目がしっかりしているから志賀文学は、普遍である。よく志賀直哉の作品は、私事や家庭の葛藤のみで社会を描いていないと言われる。が、それは誤りである。この作家の視点は、常に「私」から「家族」「社会」、そして「全人類」を見つめている。世界の大文豪ドストエフスキーは、神や人類の問題を描いたが、その視線は常に人間個人の心の中を照射し、突き抜け魂の裏側に届いている。逆もまた真なり。そこに志賀直哉の真髄がある、小説作品の真理があると思うからである。。
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読書について
なぜ読書のススメか
 
 たとえば健全の身体には健全の精神が宿る、という言葉があります。文字通り取って一生懸命に体を鍛えて健康な身体にすれば、健全の心を持つことができるのか。漫才のコントにでもなりそうですが、そうはいかないのが人間です。
 では、「健全な精神」をつくるためには、どうすればよいのか。ここでは「読書する」することをススメます。文芸研究ということで、少々我田引水的になるかもしれませんが、当ゼミではそう理解しています。「読書する身体には健全な精神が宿る」ということです。
 では「健全な精神」とは何か。端的に云えば教養と正義です。正義は、潜在的なものですが、真の教養は育てなければ成長しません。
 日芸にくる学生は、わかりませんが、昨今、大学は入学するためだけの、よりよい就職先を見つけるためだけの場所となっている傾向があります。本来の大学の目的は、健全な精神が宿る立派な人間を育てる場所です。健全な精神を持った人間を社会に送り出し、この星に生きる誰もが幸せに暮らせるよりよい社会を築いてもらう。その人材を作るために大学は存在するのです。決して冨や名声を得るためのところでも、学歴を自慢するところでもありません。森羅万象の調和を目指すことを学ぶ場。大学の使命は、常にそこにあります。書くことも研究することも全てその一点にあるわけです。
 しかし残念なことに社会をみると、政治家、役人、経営者、教育者たちの腐敗・不正でいっぱいです。彼らは「健全な精神」を持たない我欲だけの人間です。昨年、詐欺罪で逮捕された有名音楽家のK氏もその一人でした。せっかくの才能を、贅の限りを尽くすことだけに使っていたようです。悲しいことです。おそらくK氏は学生時代、健全な精神を育てるということをしなかったのでしょう。つまり読書はしなかったのでしょう。
 大学生活は、よりたくさん読書ができる空間です。バイトやサークルが忙しくても読書は、食事と同じ欠かさないようにしましょう。なぜなら青春時代に読んだ本は、いつまでも宝石のように人生のなかに残っているものです。
 しかし、ただ本を読めばいい、というものではありません。巷には書物はあふれています。悪書は何冊読んでも浪費の体験にはなるが、プラスにはなりません。良書も、ただ読んだだけでは、健全な精神を育てる肥料にはならなりません。読書は簡単だが難しいのです。
 では、どんなふうに読んだらよいのか。迷い、悩むところです。読書ついて、近代日本人をつくった明治の教育者・嘉納治五郎(1860-1938)が、説いています。
 嘉納治五郎は、柔道の創始者としてよく知られていますが、他の功績は知られていません。彼は、明治維新の激動のなかで学校の教育制度を確立し、空手、合気道などの古来武道を擁護し、今ある西洋スポーツを取り入れた人でもあります。また、小泉八雲や夏目漱石はじめ魯迅など多くの文人を育てた人でもあります。
 
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読書は、なぜ必要か、どんな本を読んだらよいのか
 それを知るために、嘉納治五郎(1860-1938)の「青年修養訓」のなかの「精読と多読」を読んだ。嘉納治五郎の教育は、明治15年23歳のときからはじまり、大正9年(1920)年61歳まで日本の学校教育に尽くした。師範は、日本人の教育だけでなく、中国人留学生のために宏文学院を開校し、中国の近代的教育にも貢献した。学んだ7192人のなかには後に世界的作家になった魯迅(1881-1936)もいた。※魯迅『阿Q正伝』『狂人日記』
 「青年修養訓」は、明治43年(1910)12月 同文館から出版したものである。いまからじつに99年前の文章である。今はない漢字や言い回しがあって読むのに困難はあったが、朗読した5名のゼミ生は、ほとんど間違えることなく読み終えた。頼もしい限りである。
 さて、人間形成のため、社会で役に立つために心をこめて多くの書を読めとすすめる師範は、この「精読と多読」のなかで、どんな本をどのように読めといっているのか。
① はじめに読む本の選び方である。現在、ベストセラーの本。売れている有名な本。そういう本は1、2年待ってから読んだ方がよい、としている。
② まずは、古典を読む。時代のなかで残っているということは良い本の証拠。読むに価する本だからという。よい本は時間が選別してくれる。
③ 識者・作家・読書家といわれる人がすすめる本。例えば、川端康成が好きだとする。『雪国』『伊豆の踊り子』といったこの作家の作品を読むのもよいが、その前にこの作家は、自分を慕ってくる若い人たちにどんな本を読めとすすめていたのか。自分は、どんな本を読んでいたのか。それを調べてみる。ノーベル文学賞作家川端康成が、誰より気にかけ可愛がった若い人といえば、『いのちの初夜』を書いた北篠民雄(1914-1937)である。川端は病床の北篠に、なにを読めとすすめていたのか。どの作家を。まずは、それを知ることである。
④ 読む本が決まれば、その本をどんなふうに読むか。早く、ざっと読んだのでは、本当に読んだとはいえない。しっかりと理解しながら読むことが大切と教える。
⑤ つぎにどんな本を、ということだが、師範の教えは、範囲を決めない。一つのものを決めると、理解度は、その範疇だけになってしまう。違った分野の本を多く読むことをすすめる。心をこめて多くの本を読みなさい。つまり「精読と多読」のススメである。
読書はなぜ必要か  嘉納治五郎の「青年修養訓」紹介 
第15 精読と多読
 
    『嘉納治五郎著作集 教育篇』(五月書房)
 精神の健全な発達を遂げようとするには、これに相当の栄養を与えなければならぬのであるが、その栄養を精神に与えるのは読書である。人は誰でも精神の健全な発達を望まないものはないにもかかわらず、実際その栄養法たる読書を好まない者も少なくないのは甚だ怪訝(けげん)に堪えぬ。かくの如きは、その人にとっても国家にとっても実に歎(タン)ずべき事である。読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり、実務に従事しいるものにあっては競争場裡の劣敗者たるを免(まぬが)れしむる保障となるものである。看よ、古来名を青史に留めたるところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試みにその二、三の例をあげてみれば、徳川家康は常に東鑑(あずまかがみ)等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。またカーライル(イギリスの歴史家・評論家)は一年に一回ホーマー(ホメロス)を読み、シルレルはシェクスピーアーを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントン(イギリスの将軍・政治家)はバットラーの著書(『万人の道』「生活と習慣」など)やアダムスミスの国富論に目を曝(さら)しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠(おこた)らない
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ようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにするということの必要なるは多言を俟(ま)たないのである。
※東鑑(吾妻鏡・鎌倉時代の史書。日本最初の武士記録)
※頼山陽(1780-1832 江戸時代後期の儒者・史家 著『日本外史』『日本政記』など)
※ホメロス(前9世紀頃ギリシャの詩人著書『イリアス』『オデュッセイア』など)
※カーライル(1795-1881 著『衣裳哲学』『英雄及び英雄崇拝』など)
※ウエリントン1769-1852 (ナポレオンをワーテルローで破った)
 健全な精神をつくるには、相当な栄養が必要だという。その栄養は読書である、として、歴史上の偉人たちの読書をあげて、その必要性を説いている。そして、どんな本を読むかは、その選び方について以下のように述べている。
 読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。吾人(われわれ)の読む書物のどんなものであるべきかに関しては、ここにはただ一言を述べて余は他の章に譲っておこう。すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値があるというものを選ぶか、または古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい。また、昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙(ひもと)き見るようにするがよいのである。
 どんな本を読んだらよいか。本によっては栄養になるどころか害になるという。嘉納治五郎が言うのは、先輩識者が認めた価値のあるもの。つまり世に名作といわれている本である。他は、現在、たとえどんなに評判がよくても、百万冊のベストセラーであっても後回しにせよということである。そうして古典になっているものは、常に手にしていなさいと教えている。本のよしあし、作家のよしあしは時間という評者が選んでくれる。
 さて、このようにして読む本を選んだら、次にどのようにして読むか。いらぬ節介ではあるが、全身教育者である嘉納治五郎は、その方法をも懇切丁寧に述べている。
 次に方法の点に移れば、読書の方法は、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むのをいうのである。真正に完全の読書をするには、この二つが備わらなければならぬ。
 つまり書物は偏らず、多くの書を読め、ということである。そうして読むからには、飛ばし飛ばし読むものには耳が痛いが、決していい加減にではなく、丁寧に読むべし、ということである。いずれももっともなことではあるが、人間、こうして指導されないと、なかなか読むに至らない。次に、折角の読書に陥りがたい短所があることを指摘し、注意している。
 世に鵜呑みの知識というものがある。これは教師なり書物なりから得た知識をば、別に思考もせず会得もしないで、そのまま精神中に取込んだものをいうのである。かようなものがどうしてその人の真の知識となって役に立つであろうか。総じて知識が真の知識となるについては、まず第一にそれが十分に理解されておらねばならぬ。次にはそれが固く記憶されておらねばならぬ。
 鵜呑みの知識。よく読書のスピードを自慢する人がいるが、いくら早く読んでも、理解していなければ、ただ知っている、ということだけになる。試験勉強で暗記したものは、真に教養とはいえない。
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 理解のされていない知識は他に自在に応用される事が出来ないし、固く記憶されていない知識は何時でも役に立つというわけにはいかない。したがってこれらの知識は、あるもないも同じ事である。かような理由であるから、何人たりとも真の知識を有しようと思うならば、それを十分咀嚼(そしゃく)消化して理解会得し、また十分確固明白に記憶しおくようにせねばならぬ。
 そのためには・・・・・
 さてこの理解記憶を全くしようとするにはどうしたらよいかというには、他に道は無い。その知識を受け入れる時に用意を密にする。すなわち書物をば精しく読まねばならぬのである。幾度か幾度か繰返し読んで主要点をたしかに捉えると同時に、詳細の事項をも落とさず隅々まで精確に理解をし、かつ記憶を固くするのである。こうして得た知識こそは真の栄養を精神に与え、また始めて吾人に満足を与える事が出来るのである。試みに想像してみれば分かる。何らかの書物をば百遍も精読し、その極その中に書いてある事は十分会得していて、どんな場合にも応用が出来、その知識は真のわが知識になって、わが血液に変じ筋肉と化しておったならば、その心持はどのようであろうか。真に程子(テイシ兄弟)のいったように、手の舞い足の踏むところを知らないであろう。書物の与える満足には種々あろうが、これらはその中の主なるものであって、また最も高尚なものである。
※テイシ兄弟(北宋の大儒 著『定性書』1032-1085)
 書物を理解するには、繰り返し読むことが重要と説く。一に精読、二に精読である。さすれば応用ができ真の知識となる、と説いている。また、この精読するということについても、こう語っている。
 かつまた一冊の書物の上に全力を傾注するという事は、吾人の精神修養の上から観ても大切である。何となれば人間が社会に立っているからには、大かり小なりの一事をば必ず成し遂げるという習慣がきわめて必要であるが、書物を精読し了するというのは、ちょうどこの一事を成し遂げるという事に当たるからである。今日でこそやや薄らいだようであるが、維新前におけるわが国士人の中には、四書(儒教の経典)の中の一部もしくは数部をば精読し熟読し、その極はほとんどこれを暗誦して常住座臥その行動を律する規矩(きく・コンパス)としておったものが多いのである。伊藤仁斎(江戸初期の朱子学儒者)は18,9歳の頃『延平問答』という書物を手に入れて反復熟読した結果、紙が破れるまでになったが、その精読から得た知識が大いに修養の助けとなり、他日大成の基をなしたという事である。また荻生徂徠は、13年のわびしい田舎住居の間、単に一部の大学諺解(ゲンカイ口語による漢文解釈)のみを友としておったという事である。程子は「余は17,8より論語を読み当時すでに文義(文章の意味)を暁りしが、これを読むこといよいよ久しうしてただ意味の深長なるを覚ゆ」と言っている。古昔の人がいかに精読に重きをおいたかは、これら2,3の事例に徴するも分明である。学問教育が多岐に渉る結果として、遺憾な事にはこのような美風も今日ではさほど行われないようである。
 ひとつのものを徹底して読む。この美風、すなわち習慣は、現代においては、ますます為
されていない。が、学生は、すすんで挑戦しようという気まがえがなくてはならぬ。と、いっている。その一方で、多読の大切さも説く。
 しかし現に学生生活を送り近い未来において独立すべき青年らには、各率先してこの美風を伝播しようと今より覚悟し実行するように切望せねばならぬ。
 読書ということは、このような効能の点からいっても満足の点からいっても、また精神修養の点からいってもまことによいものであるが、しかしまた不利益な点を有せぬでもな
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い。すなわち精読は常に多くの時間を要するということと、したがって多くの書物が読めないようになるから自然その人の限界が狭隘(キョウヤク)になるを免れないということである。例えていえば、文字において一作家の文章のみを精読しておったならば、その作家については精通しようが思想の豊富修辞の巧妙がそれで十分に学べるということは出来ない。どんなに優秀な作家とても、その長所を有すると同時に多少の欠点を有するものであるから、一作家の文章が万有を網羅し天地を籠蓋(ロウガイ)するというわけにはいかぬ。そこで精読によって益を受けるにしても、またその不備な点が判明したならば、これを他の作家の作物によって学び習うという必要が起きる。すなわち他の作物にたよるということは、多読をするという事に帰するのである。
 一作家のものが万有を網羅することはない。
 またこの外の人文学科、たとえば歴史修身等においても、もしくは物理化学等の自然学科においても、一の著者の記述説明に熟すると同時に、他の著者はそれをどんなに記述し説明しているかを参照してみる必要がある。このように参照してみることは知識を確実にする上にきわめて多大の効能があるから、決して煩雑無用のことではない。精読はもとより希うべきであるが、また一面には事情の許す限り多読をして、その限界を狭隘にせぬようにするがよい。精読でもって基礎を作り、多読でもってこれを豊富にするは学問の要訣(ヨウケツ)であってこのようにして得られた知識こそ真に有用なものとなるのである。
 さらに精読と多読との仕方の関係を具体的に述べてみれば、、まず精読する書物の中にある一つの事項に対して付箋または朱黄を施し、かくてその個所が他の参照用として多く渉猟(しょうりょう)(読みあさる)する書中にはどんなに記述説明されているかを付記するのである。換言すれば精読書を中心として綱領として、多読所をことごとくこれに関連付随させるのである。また学問の進歩の程度についていうならば、初歩の間は精読を主とし相当に進んだ後に多読を心掛くべきである。けれどもどんな場合においても精読が主であって多読が副である。そうしてこの両者のうちいずれにも偏してはならないことは無論であるが、もしいずれに偏するがよいかといえば、精読に変する方がむしろ弊害が少ないのである。精読に伴わない多読は、これは支離散漫なる知識の収得法であって、濫読妄読となるに至ってその幣が極まるのである。
 また鼠噛の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれをも読みとおさずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛(ソコウ)の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれも読み通さずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛の陋(ロウ)に陥ったものも多いのである。実に慎み謹んで遠ざくべき悪癖である。
以上、嘉納治五郎の説く読書の必要性を紹介した。どんな本を読めばいいのか。どんなふうに読めばよいのか。人それぞれに好き嫌いもある。それに、世に古典といわれる良書は山ほどある。となると読書も簡単ではない。このゼミでは、この青年訓の嘉納治五郎とも関係が深く、かつ小説の神様といわれる志賀直哉の作品をテキストとするしだいである。
(編集室)
 
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課題提出作品テキスト
 表題でお知らせしたように、前期課題のモチーフは「あの日、あの時」とします。3・11のあの日、あの時間、あなたは、どこで何をしていたか。エッセイでも創作でもかまいません。書いた人は順次提出して下さい。本通信で発表し合評します。
 以下の作品は、作者の原 民喜が原爆投下時の自身の体験を書いた名作『夏の花』です。昭和20年8月6日午前8時15分のことを描きました。テキストとして紹介します。
          
夏の花
原 民喜
わが愛する者よ請(こ)う急ぎはしれ
香(かぐ)わしき山々の上にありての
ごとく小鹿のごとくあれ
 私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって初盆(にいぼん)にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。ちょうど、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐(かれん)な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。
 炎天に曝(さら)されている墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく清々(すがすが)しくなったようで、私はしばらく花と石に視入(みい)った。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納っているのだった。持って来た線香にマッチをつけ、黙礼を済ますと私はかたわらの井戸で水を呑(の)んだ。それから、にぎつ公園の方を廻って家に戻ったのであるが、その日も、その翌日も、私のポケットは線香の匂いがしみこんでいた。原子爆弾に襲われたのは、その翌々日のことであった。 
私は厠にいたため一命を拾った。八月六日の朝、私は八時頃床を離れた。前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかったので、夜明前には服を全部脱いで、久し振りに寝間着に着替えて眠った。それで、起き出した時もパンツ一つであった。妹はこの姿をみると、朝寝したことをぶつぶつ難じていたが、私は黙って便所へ入った。
 それから何秒後のことかはっきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加えられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思わずうわあと喚き、頭に手をやって立上った。嵐のようなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があった。
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その時まで、私はうわあという自分の声を、ざあーというもの音の中にはっきり耳にきき、眼が見えないので悶えていた。しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりの中に破壊された家屋が浮び出し、気持もはっきりして来た。
 それはひどく厭な夢のなかの出来事に似ていた。最初、私の頭に一撃が加えられ眼が見えなくなった時、私は自分が斃(たお)れてはいないことを知った。それから、ひどく面倒なことになったと思い腹立たしかった。そして、うわあと叫んでいる自分の声が何だか別人の声のように耳にきこえた。しかし、あたりの様子が朧(おぼろ)ながら目に見えだして来ると、今度は惨劇の舞台の中に立っているような気持であった。たしか、こういう光景は映画などで見たことがある。もうもうと煙る砂塵のむこうに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた。壁の脱落した処や、思いがけない方向から明りが射して来る。畳の飛散った坐板の上をそろそろ歩いて行くと、向うから凄(す)さまじい勢で妹が駆けつけて来た。
「やられなかった、やられなかったの、大丈夫」と妹は叫び、「眼から血が出ている、早く洗いなさい」と台所の流しに水道が出ていることを教えてくれた。
 私は自分が全裸体でいることを気付いたので、「とにかく着るものはないか」と妹を顧ると、妹は壊れ残った押入からうまくパンツを取出してくれた。そこへ誰か奇妙な身振りで闖入(ちんにゅう)して来たものがあった。顔を血だらけにし、シャツ一枚の男は工場の人であったが、私の姿を見ると、「あなたは無事でよかったですな」と云い捨て、「電話、電話、電話をかけなきゃ」と呟きながら忙しそうに何処かへ立去った。
 到るところ隙間が出来、建具も畳も散乱した家は、柱と閾(しきい)ばかりがはっきりと現れ、しばし奇異な沈黙をつづけていた。これがこの家の最後の姿らしかった。後で知ったところに依るると、この地域では大概の家がぺしゃんこに倒壊したらしいのに、この家は二階も墜ちず床もしっかりしていた。余程しっかりした普請だったのだろう。四十年前、神経質な父が建てさせたものであった。
 私は錯乱した畳や襖の上を踏越えて、身につけるものを探した。上着はすぐに見附かったがずぼんを求めてあちこちしていると、滅茶苦茶に散らかった品物の位置と姿が、ふと忙しい眼に留るのであった。昨夜まで読みかかりの本が頁をまくれて落ちている。長押(なげし)から墜落した額が殺気を帯びて小床を塞いでいる。ふと、何処からともなく、水筒が見つかり、つづいて帽子が出て来た。ずぼんは見あたらないので、今度は足に穿くものを探していた。その時、座敷の縁側に事務室のKが現れた。Kは私の姿を認めると、
「ああ、やられた、助けてえ」と悲痛な声で呼びかけ、そこへ、ぺったり坐り込んでしまっ
――――――――――――――――――  11――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.162
た。額に少し血が吹き出ており、眼は涙ぐんでいた。
「何処をやられたのです」と訊ねると、「膝じゃ」とそこを押えながら皺の多い蒼顔(そうがん)を歪める。
 私は側にあった布切れを彼に与えておき、靴下を二枚重ねて足に穿いた。
「あ、煙が出だした、逃げよう、連れて逃げてくれ」とKは頻りに私を急かし出す。この私よりかなり年上の、しかし平素ははるかに元気なKも、どういうものか少してんどう気味であった。
 縁側から見渡せば、一めんに崩れ落ちた家屋の塊があり、やや彼方の鉄筋コンクリートの建物が残っているほか、目標になるものも無い。庭の土塀のくつがえった脇に、大きな楓の幹が中途からポックリ折られて、梢を手洗鉢の上に投出している。ふと、Kは防空壕のところへ屈み
「ここで、頑張ろうか、水槽もあるし」と変なことを云う。
「いや、川へ行きましょう」と私が云うと、Kは不審そうに、
「川? 川はどちらへ行ったら出られるのだったかしら」とうそぶく。
 とにかく、逃げるにしてもまだ準備が整わなかった。私は押入から寝間着をとり出し彼に手渡し、更に縁側の暗幕を引裂いた。座布団も拾った。縁側の畳をはねくり返してみると、持逃げ用の雑のうが出て来た。私はほっとしてそのカバンを肩にかけた。隣の製薬会社の倉庫から赤い小さな焔の姿が見えだした。いよいよ逃げだす時機であった。私は最後に、ポックリ折れ曲った楓の側を踏越えて出て行った。
 その大きな楓は昔から庭の隅にあって、私の少年時代、夢想の対象となっていた樹木である。それが、この春久し振りに郷里の家に帰って暮すようになってからは、どうも、もう昔のような潤いいのある姿が、この樹木からさえ汲みとれないのを、つくづく私は奇異に思っていた。不思議なのは、この郷里全体が、やわらかい自然の調子を喪って、何か残酷な無機物の集合のように感じられることであった。私は庭に面した座敷に這入って行くたびに、「アッシャ家の崩壊」という言葉がひとりでに浮んでいた。
 Kと私とは崩壊した家屋の上を乗越え、障害物を除けながら、はじめはそろそろと進んで行く。そのうちに、足許が平坦な地面に達し、道路に出ていることがわかる。すると今度は急ぎ足でとっとと道の中ほどを歩く。ぺしゃんこになった建物の陰からふと、「おじさん」と喚く声がする。振返ると、顔を血だらけにした女が泣きながらこちらへ歩いて来る。「助けてえ」と彼女は脅えきった相で一生懸命ついて来る。暫く行くと、路上に立はだかって、
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・162――――――――12 ――――――――――――――――
「家が焼ける、家が焼ける」と子供のように泣喚いている老女と出逢った。煙は崩れた家屋のあちこちから立昇っていたが、急に焔の息が烈しく吹きまくっているところへ来る。走って、そこを過ぎると、道はまた平坦となり、そして栄橋の袂に私達は来ていた。ここには避難者がぞくぞく蝟集(いしゅう)していた。
「元気な人はバケツで火を消せ」と誰かが橋の上に頑張っている。私は泉邸(せんてい)の藪の方へ道をとり、そして、ここでKとははぐれてしまった。
 その竹藪は薙ぎ倒され、逃げて行く人の勢で、径が自然とひらかれていた。見上げる樹木もおおかた中空でそぎとられており、川に添った、この由緒ある名園も、今は傷だらけの姿であった。ふと灌木の側にだらりと豊かな肢体を投出してうずくまっている中年の婦人の顔があった。魂の抜けはてたその顔は、見ているうちに何か感染しそうになるのであった。こんな顔に出喰わしたのは、これがはじめてであった。が、それよりもっと奇怪な顔に、その後私はかぎりなく出喰わさねばならなかった。
 川岸に出る藪のところで、私は学徒の一塊と出逢った。工場から逃げ出した彼女達は一ように軽い負傷をしていたが、いま眼の前に出現した出来事の新鮮さにおののきながら、かえって元気そうに喋り合っていた。そこへ長兄の姿が現れた。シャツ一枚で、片手にビール瓶を持ち、まず異状なさそうであった。向岸も見渡すかぎり建物は崩れ、電柱の残っているほか、もう火の手が廻っていた。私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だという気持がした。長い間脅かされていたものが、ついに来たるべきものが、来たのだった。さばさばした気持で、私は自分が生きながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふとおのれが生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかったのである。
 対岸の火事が勢を増して来た。こちら側まで火照りが反射して来るので、満潮の川水に座蒲団を浸しては頭にかむる。そのうち、誰かが「空襲」と叫ぶ。「白いものを着たものは木蔭へ隠れよ」という声に、皆はぞろぞろ藪の奥へはって行く。陽は燦々と降りそそぎ藪の向うも、どうやら火が燃えている様子だ。暫く息を殺していたが、何事もなさそうなので、また川の方へ出て来ると、向岸の火事は更に衰えていない。熱風が頭上を走り、黒煙が川の中ほどまで煽られて来る。その時、急に頭上の空が暗黒と化したかと思うと、はいぜんとして大粒の雨が落ちて来た。雨はあたりの火照りをやや鎮めてくれたが、暫くすると、またからりと晴れた天気にもどった。対岸の火事はまだつづいていた。今、こちらの岸には長兄と妹
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とそれから近所の見知った顔が二つ三つ見受けられたが、みんなは寄り集って、てんでに今朝の出来事を語り合うのであった。
 あの時、兄は事務室のテーブルにいたが、庭さきに閃光が走ると間もなく、一間あまり跳ね飛ばされ、家屋の下敷になって暫くもがいた。やがて隙間があるのに気づき、そこから這い出すと、工場の方では、学徒が救いを求めて喚叫している――兄はそれを救い出すのに大奮闘した。妹は玄関のところで光線を見、大急ぎで階段の下に身を潜めたため、あまり負傷を受けなかった。みんな、はじめ自分の家だけ爆撃されたものと思い込んで、外に出てみると、何処も一様にやられているのに唖然とした。それに、地上の家屋は崩壊していながら、爆弾らしい穴があいていないのも不思議であった。あれは、警戒警報が解除になって間もなくのことであった。ピカッと光ったものがあり、マグネシュームを燃すようなシューッという軽い音とともに一瞬さっと足もとが回転し、……それはまるで魔術のようであった、と妹は戦きながら語るのであった。
 向岸の火が鎮まりかけると、こちらの庭園の木立が燃えだしたという声がする。かすかな煙が後の藪の高い空に見えそめていた。川の水は満潮のまままだ退こうとしない。私は石崖を伝って、水際のところへ降りて行ってみた。すると、すぐ足許のところを、白木の大きなはこが流れており、函(はこ)からはみ出た玉葱があたりにただよっていた。私は函を引寄せ、中から玉葱をつかみ出しては、岸の方へ手渡した。これは上流の鉄橋で貨車が転覆し、そこからこの函は放り出されて漾って来たものであった。私が玉葱を拾っていると、「助けてえ」という声がきこえた。木片にとりすがりながら少女が一人、川の中ほどを浮き沈みして流されて来る。私は大きな材木を選ぶとそれを押すようにして泳いで行った。久しく泳いだこともない私ではあったが、思ったより簡単に相手を救い出すことが出来た。
 暫く鎮まっていた向岸の火が、いつの間にかまた狂い出した。今度は赤い火の中にどす黒い煙が見え、その黒い塊が猛然とひろがって行き、見る見るうちに焔の熱度が増すようであった。が、その無気味な火もやがて燃え尽すだけ燃えると、空虚な残骸の姿となっていた。その時である、私は川下の方の空に、ちょうど川の中ほどにあたって、ものすごい透明な空気の層が揺れながら移動して来るのに気づいた。竜巻だ、と思ううちにも、烈しい風は既に頭上をよぎろうとしていた。まわりの草木がことごとくふるえ、と見ると、その儘引抜かれて空にさらわれて行くあまたの樹木があった。空を舞い狂う樹木は矢のような勢で、混濁の中に墜ちて行く。私はこの時、あたりの空気がどんな色彩であったか、はっきり覚えてはいない。が、恐らく、ひどく陰惨な、地獄絵巻の緑の微光につつまれていたのではないかとおもえるのである。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・162――――――――14 ――――――――――――――――
 この竜巻が過ぎると、もう夕方に近い空の気配が感じられていたが、今迄姿を見せなかった二番目の兄が、ふとこちらにやって来たのであった。顔にさっと薄墨色の跡があり、脊のシャツも引裂かれている。その海水浴で日焼けした位の皮膚の跡が、後には化膿を伴う火傷となり、数カ月も治療を要したのだが、この時はまだこの兄もなかなか元気であった。彼は自宅へ用事で帰ったとたん、上空に小さな飛行機を認め、つづいて三つの妖しい光を見た。それから地上に一間あまり跳ね飛ばされた彼は、家の下敷になって藻掻いている家内と女中を救い出し、子供二人は女中にたくして先に逃げのびさせ、隣家の老人を助けるのに手間どっていたという。兄嫁がしきりに別れた子供のことを案じていると、向岸の河原から女中の呼ぶ声がした。手が痛くて、もう子供を抱えきれないから早く来てくれというのであった。
 泉邸の杜も少しずつ燃えていた。夜になってこの辺まで燃え移って来るといけないし、明るいうちに向岸の方へ渡りたかった。が、そこいらには渡舟も見あたらなかった。長兄たちは橋を廻って向岸へ行くことにし、私と二番目の兄とはまた渡舟を求めて上流の方へさかのぼって行った。水に添う狭い石の通路を進んで行くにしたがって、私はここではじめて、言語に絶する人々の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落していた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇は思いきりただれれ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼等はよこたわっているのであった。私達がその前を通って行くに随ってその奇怪な人々は細い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか、「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴えごとを持っているのだった。
「おじさん」と鋭い哀切な声で私は呼びとめられていた。見ればすぐそこの川の中には、裸体の少年がすっぽり頭まで水に漬って死んでいたが、そのし死体と半間も隔たらない石段のところに、二人の女が蹲っていた。その顔は約一倍半も膨脹し、醜く歪み、焦げた乱髪が女であるしるしを残している。これは一目見て、憐憫よりもまず、身の毛のよだつ姿であった。が、その女達は、私の立留ったのを見ると、
「あの樹のところにある蒲団は私のですからここへ持って来て下さいませんか」と哀願するのであった。
 見ると、樹のところには、なるほど蒲団らしいものはあった。だが、その上にはやはり瀕死の重傷者が臥していて、既にどうにもならないのであった。
 私達は小さないかだを見つけたので、綱を解いて、向岸の方へ漕いで行った。筏が向うの砂原に着いた時、あたりはもう薄暗かったが、ここにも沢山の負傷者が控えているらしかっ
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た。水際に蹲っていた一人の兵士が、「お湯をのましてくれ」と頼むので、私は彼を自分の肩に依り掛からしてやりながら、歩いて行った。苦しげに、彼はよろよろと砂の上を進んでいたが、ふと、「死んだ方がましさ」と吐き棄てるように呟いた。私も暗然としてうなずき、言葉は出なかった。愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、この時我々を無言で結びつけているようであった。私は彼を中途に待たしておき、土手の上にある給湯所を石崖の下から見上げた。すると、今湯気の立昇っている台の処で、茶碗を抱えて、黒こげの大頭がゆっくりと、お湯を呑んでいるのであった。その厖大な、奇妙な顔は全体が黒豆の粒々で出来上っているようであった。それに頭髪は耳のあたりで一直線に刈上げられていた。(その後、一直線に頭髪の刈上げられている火傷者を見るにつけ、これは帽子を境に髪が焼きとられているのだということを気付くようになった。)暫くして、茶碗をもらうと、私はさっきの兵隊のところへ持運んで行った。ふと見ると、川の中に、これは一人の重傷兵が膝を屈めて、そこで思いきり川の水を呑み耽っているのであった。
 夕闇の中に泉邸の空やすぐ近くの焔があざやかに浮出て来ると、砂原では木片を燃やして夕食の炊き出しをするものもあった。さっきから私のすぐ側に顔をふわふわに膨らした女が横わっていたが、水をくれという声で、私ははじめて、それが次兄の家の女中であることに気づいた。彼女は赤ん坊を抱えて台所から出かかった時、光線に遭い、顔と胸と手を焼かれた。それから、赤ん坊と長女を連れて兄達より一足さきに逃げたが、橋のところで長女とはぐれ、赤ん坊だけを抱えてこの河原に来ていたのである。最初顔に受けた光線を遮ろうとして覆うた手が、その手が、今ももぎとられるほど痛いと訴えている。
 潮が満ちて来だしたので、私達はこの河原を立退いて、土手の方へ移って行った。日はとっぷり暮れたが、「水をくれ、水をくれ」と狂いまわる声があちこちできこえ、河原にとり残されている人々の騒ぎはだんだん烈しくなって来るようであった。この土手の上は風があって、眠るには少し冷々していた。すぐ向うは饒津公園であるが、そこも今は闇にとざされ、樹の折れた姿がかすかに見えるだけであった。兄達は土の窪みに横わり、私も別に窪地をみつけて、そこへ這入って行った。すぐ側には傷ついた女学生が三四人横臥していた。
「向うの木立が燃えだしたが逃げた方がいいのではないかしら」と誰かが心配する。窪地を出て向うを見ると、二三町さきの樹に焔がキラキラしていたが、こちらへ燃え移って来そうな気配もなかった。
「火は燃えて来そうですか」と傷ついた少女は脅えながら私にきく。
「大丈夫だ」と教えてやると、「今、何時頃でしょう、まだ十二時にはなりませんか」とまた訊く。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・162――――――――16 ――――――――――――――――
 その時、警戒警報が出た。どこかにまだ壊れなかったサイレンがあるとみえて、かすかにその響がする。街の方はまださかんに燃えているらしく、ぼうとした明りが川下の方に見える。
「ああ、早く朝にならないのかなあ」と女学生は嘆く。
「お母さん、お父さん」とかすかに静かな声で合唱している。
「火はこちらへ燃えて来そうですか」と傷ついた少女がまた私にたずねる。
 河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊し、走り廻っている。「水を、水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちゃん」と声は全身全霊を引裂くようにほとばしり、「ウウ、ウウ」と苦痛に追いまくられる喘ぎが弱々しくそれにからんでいる。――幼い日、私はこの堤を通って、その河原に魚を獲りに来たことがある。その暑い日の一日の記憶は不思議にはっきりと残っている。砂原にはライオン歯磨きの大きな立看板があり、鉄橋の方を時々、汽車がゴウと通って行った。夢のように平和な景色があったものだ。
 夜が明けると昨夜の声はやんでいた。あのはらわたを絞る断末魔の声はまだ耳底に残っているようでもあったが、あたりは白々と朝の風が流れていた。長兄と妹とは家の焼跡の方へ廻り、東練兵場に施療所があるというので、次兄達はそちらへ出掛けた。私もそろそろ、東練兵場の方へ行こうとすると、側にいた兵隊が同行を頼んだ。その大きな兵隊は、余程ひどく傷ついているのだろう、私の肩によりかかりながら、まるで壊れものを運んでいるように、おずおずと自分の足を進めて行く。それに足許は、破片といわず屍といわずまだ余熱を燻らしていて、恐しく険悪であった。常盤橋まで来ると、兵隊は疲れはて、もう一歩も歩けないから置去りにしてくれという。そこで私は彼と別れ、一人で饒津公園の方へ進んだ。ところどころ崩れたままで焼け残っている家屋もあったが、到る処、光の爪あとが印されているようであった。とある空地に人が集っていた。水道がちょろちょろ出ているのであった。ふとその時、姪が東照宮の避難所で保護されているということを、私は小耳にはさんだ。
 急いで、東照宮の境内へ行ってみた。すると、いま、小さな姪は母親と対面しているところであった。昨日、橋のところで女中とはぐれ、それから後は他所の人について逃げて行ったのであるが、彼女は母親の姿を見ると、急にたえられなくなったように泣きだした。その首が火傷で黒く痛そうであった。
 施療所は東照宮の鳥居の下の方に設けられていた。はじめ巡査が一通り原籍年齢などを取調べ、それを記入した紙片をもろうてからも、負傷者達は長い行列を組んだまま炎天の下に
――――――――――――――――――  17――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.162
まだ一時間位は待たされているのであった。だが、この行列に加われる負傷者ならまだ結構な方かもしれないのだった。今も、「兵隊さん、兵隊さん、助けてよう、兵隊さん」と火のついたように泣きわめく声がする。路傍に斃れて反転する火傷の娘であった。かと思うと、警防団の服装をした男が、火傷で膨脹した頭を石の上に横たえたまま、まっ黒の口をあけて、「誰か私を助けて下さい、ああ看護婦さん、先生」と弱い声できれぎれに訴えているのである。が、誰も顧みてはくれないのであった。巡査も医者も看護婦も、みな他の都市から応援に来たものばかりで、その数も限られていた。
 私は次兄の家の女中に附添って行列に加わっていたが、この女中も、今はだんだんひどく膨れ上って、どうかすると地面にうずくまりたがった。ようやくく順番が来て加療が済むと、私達はこれから憩う場所を作らねばならなかった。境内到る処に重傷者はごろごろしているが、テントも木陰も見あたらない。そこで、石崖に薄い材木を並べ、それで屋根のかわりとし、その下へ私達は這入り込んだ。この狭苦しい場所で、二十四時間あまり、私達六名は暮したのであった。
 すぐ隣にも同じような恰好の場所が設けてあったが、そのむしろの上にひょこひょこ動いている男が、私の方へ声をかけた。シャツも上着もなかったし、長ずぼんが片脚分だけ腰のあたりに残されていて、両手、両足、顔をやられていた。この男は、中国ビルの七階で爆弾にあったのだそうだが、そんな姿になりはてても、すこぶる気丈夫なのだろう、口で人に頼み、口で人を使い到頭ここまで落ちのびて来たのである。そこへ今、満身血まみれの、幹部候補生のバンドをした青年が迷い込んで来た。すると、隣の男はきっとなって、
「おい、おい、どいてくれ、俺の体はめちゃくちゃになっているのだから、触りでもしたら承知しないぞ、いくらでも場所はあるのに、わざわざこんな狭いところへやって来なくてもいいじゃないか、え、とっとと去ってくれ」と唸るように押っかぶせて云った。血まみれの青年はきょとんとして腰をあげた。
 私達の寝転んでいる場所から二㍍あまりの地点に、葉のあまりない桜の木があったが、その下に女学生が二人ごろりと横わっていた。どちらも、顔を黒焦げにしていて、痩せた脊を炎天にさらし、水を求めては呻いている。この近辺へ芋掘作業に来て遭難した女子商業の学徒であった。そこへまた、燻製の顔をした、モンペ姿の婦人がやって来ると、ハンドバッグを下に置きぐったりと膝を伸した。……日は既に暮れかかっていた。ここでまた夜を迎えるのかと思うと私は妙にわびしかった。
 夜明前から念仏の声がしきりにしていた。ここでは誰かが、絶えず死んで行くらしかった。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・162――――――――18 ――――――――――――――――
朝の日が高くなった頃、女子商業の生徒も、二人とも息をひきとった。溝にうつ伏せになっている屍骸を調べおえた巡査が、モンペ姿の婦人の方へ近づいて来た。これも姿勢を崩して今はこときれているらしかった。巡査がハンドバッグをひらいてみると、通帳や公債が出て来た。旅装のまま、遭難した婦人であることがわかった。
 昼頃になると、空襲警報が出て、爆音もきこえる。あたりの悲惨醜怪さにも大分ならされているものの、疲労と空腹はだんだん激しくなって行った。次兄の家の長男と末の息子は、二人とも市内の学校へ行っていたので、まだ、どうなっているかわからないのであった。人はつぎつぎに死んで行き、死骸はそのまま放ってある。救いのない気持で人はそわそわ歩いている。それなのに、練兵場の方では、いま自棄にりゅうりょうとして喇叭が吹奏されていた。 火傷した姪たちはひどく泣喚くし、女中はしきりに水をくれと訴える。いい加減、みんなほとほと弱っているところへ、長兄が戻って来た。彼は昨日は嫂の疎開先である廿日市町の方へ寄り、今日は八幡村の方へ交渉して荷馬車を雇って来たのである。そこでその馬車に乗って私達はここを引上げることになった。 馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下からにぎ津へ出た。馬車が白島から泉邸入口の方へ来掛った時のことである。西練兵場寄りの空地に、見覚えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行った。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集った。見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めている。死体は甥の文彦であった。上着は無く、胸のあたりにこぶし大の腫れものがあり、そこから液体が流れている。真黒くなった顔に、白い歯がかすかに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでいた。その側に中学生の屍体が一つ、それから又離れたところに、若い女の死体が一つ、いずれも、ある姿勢のまま硬直していた。次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去った。涙も乾きはてた遭遇であった。
 馬車はそれから国泰寺の方へ出、住吉橋を越してこいの方へ出たので、私はほとんど目抜の焼跡を一覧することが出来た。ギラギラと炎天の下に横わっている銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。これは精密こうちな方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。苦悶の一瞬あがいて硬直したらしい肢体は一種の妖しいリズムを含んでいる。電線の乱れ落ちた線や、おびただしい破片で、虚無の中にけいれん的の図案が感じられる。だが、さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである。
――――――――――――――――――  19――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.162
国泰寺の大きな楠も根こそぎ転覆していたし、墓石も散っていた。外郭だけ残っている浅野図書館は屍体収容所となっていた。路はまだ処々で煙り、死臭に満ちている。川を越すたびに、橋が墜ちていないのを意外に思った。この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が相応しわしいようだ。それで次に、そんな一節を挿入しておく。
ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ
 倒壊の跡のはてしなくつづく路を馬車は進んで行った。郊外に出ても崩れている家屋が並んでいたが、草津をすぎると漸くあたりも青々として災禍の色から解放されていた。そして青田の上をすいすいと蜻蛉の群が飛んでゆくのが目にしみた。それから八幡村までの長い単調な道があった。八幡村へ着いたのは、日もとっぷり暮れた頃であった。そして翌日から、その土地での、悲惨な生活が始った。負傷者の恢復もはかどらなかったが、元気だったものも、食糧不足からだんだん衰弱して行った。火傷した女中の腕はひどく化膿し、蠅が群れて、とうとう蛆がわくようになった。蛆はいくら消毒しても、後から後から湧いた。そして、彼女は一カ月あまりの後、死んで行った。
 この村へ移って四五日目に、行方不明であった中学生の甥が帰って来た。彼はあの朝、建もの疎開のため学校へ行ったがちょうど、教室にいた時光を見た。瞬間、机の下に身を伏せ、次いで天井がおちて埋れたが、隙間を見つけて這い出した。這い出して逃げのびた生徒は四五名にすぎず、他は全部、最初の一撃で駄目になっていた。彼は四五名と一緒に比治山(ひじやま)に逃げ、途中で白い液体を吐いた。それから一緒に逃げた友人の処へ汽車で行き、そこで世話になっていたのだそうだ。しかし、この甥もこちらへ帰って来て、一週間あまりすると、頭髪が抜け出し、二日位ですっかり禿になってしまった。今度の遭難者で、頭髪が抜け鼻血が出だすと大概助からない、という説がその頃大分ひろまっていた。頭髪が抜けて
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・162――――――――20 ――――――――――――――――
から十二三日目に、甥はとうとう鼻血を出しだした。医者はその夜が既にあぶなかろうと宣告していた。しかし、彼は重態のままだんだん持ちこたえて行くのであった。
 Nは疎開工場の方へはじめて汽車で出掛けて行く途中、恰度汽車がトンネルに入った時、あの衝撃を受けた。トンネルを出て、広島の方を見ると、落下傘が三つ、ゆるく流れてゆくのであった。それから次の駅に汽車が着くと、駅のガラス窓がひどく壊れているのに驚いた。やがて、目的地まで達した時には、既に詳しい情報が伝わっていた。彼はその足ですぐ引返すようにして汽車に乗った。擦れ違う列車はみな奇怪な重傷者を満載していた。彼は街の火災が鎮まるのを待ちかねて、まだ熱いアスファルトの上をずんずん進んで行った。そして一番に妻の勤めている女学校へ行った。教室の焼跡には、生徒の骨があり、校長室の跡には校長らしい白骨があった。が、Nの妻らしいものはついに見出せなかった。彼は大急ぎで自宅の方へ引返してみた。そこは宇品の近くで家が崩れただけで火災は免れていた。が、そこにも妻の姿は見つからなかった。それから今度は自宅から女学校へ通じる道に斃れている死体を一つ一つ調べてみた。大概の死体がうつぶせになっているので、それを抱き起しては首実検するのであったが、どの女もどの女も変りはてた相をしていたが、しかし彼の妻ではなかった。しまいには方角違いの処まで、ふらふらと見て廻った。水槽の中に折重なってつかっている十あまりの死体もあった。河岸に懸っている梯子に手をかけながら、そのまま硬直している三つの死骸があった。バスを待つ行列の死骸は立ったまま、前の人の肩に爪を立てて死んでいた。郡部から家屋疎開の勤労奉仕に動員されて、全滅している群も見た。西練兵場の物凄さといったらなかった。そこは兵隊の死の山であった。しかし、どこにも妻の死骸はなかった。
 Nはいたるところの収容所を訪ね廻って、重傷者の顔を覗き込んだ。どの顔も悲惨のきわみではあったが、彼の妻の顔ではなかった。そうして、三日三晩、死体と火傷患者をうんざりするほど見てすごしたあげく、Nは最後にまた妻の勤め先である女学校の焼跡を訪れた。
(昭和二十二年六月号『三田文学』)
________________________________________
底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年7月30日発行 2000(平成12)年4月25日39刷改版
初出:「三田文学」1947(昭和22)年6月号
※本作品は、「夏の花」三部作(「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」)のうちの一つである。このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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