文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.163

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2011年(平成23年)4月25日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.163
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20 6/27 7/4 7/25
  
2011年、読書と創作の旅
4・25下原ゼミ
4月25日(月)の下原ゼミガイダンスは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. 2011年読書と創作の旅 課題提出、4・18ゼミ報告 司会進行
2. 出発に際して(前期計画)、自己紹介
 
 3. ゼミ担当決め(自薦・他薦)
4. 時事評3・11問題(原発について)、日本国憲法(九条について)
 5. テキスト・志賀直哉紹介 名作読み『菜の花と小娘』 
    
3・11東日本大震災並びに福島原発事故で被災された皆さま方に心よりお見舞いい申し上げると共に被災地の一日も早い復旧と復興をお祈り申し上げます。
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1.2011年読書と創作の旅 4・18報告
いつもと違う感覚
4月18日、今年度はじめての所沢校舎入り。いつもの年とは何か違う感覚があった。桜も、学生も昨年と同じ光景なのに、どこか違って見えた。
見学者は盛況、立ち見多数
毎年、ゼミ初日の見学者は多いが、今年はとくに多かった。昨年、立ち見見学者が10人近かった。見学者数の総数は、二十数名。
嘉納治五郎の青年訓「精読と多読」、原民喜の「夏の花」を読む
しかし、実際の登録者は初日の半数以下となるのが定番。激減の理由は、「読書のススメ」の朗読にあるようだ。が、今年も懲りずに嘉納治五郎(1860-1938)の青年訓から「精読と多読」を音読してもらった。加えて課題「3・11」のお手本として原民喜(1905-1951)の「夏の花」も。両者とも、見学者のなかでは、知名度ゼロだった。よって今年も敬遠が予想される。おまけに夏合宿のマラソン朗読会も公表したので・・・・・・・。
2011年の旅、同行者は、どんな人たちか ―― 楽しみである。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.163―――――――― 2 ―――――――――――――
受講者紹介(自己紹介)
 4月21日までに、ゼミ希望カードを提出した人。
椎橋 萌美(しいばしもえみ)さん
希望した理由 → なんとなく気に入りました。
自己PR   → マジック研究会 とにかく頑張ります。
□ 第一印象は、芳しくない方ですが、よかったです。期待に努力したいものです。
大野 純弥(おおのじゅんや)さん
希望した理由 → 志賀直哉をテキストにする授業とのことだから。
自己PR   → 月曜日は、このゼミオ一本でいきます。
□ 志賀直哉は、なぜ小説の神様と言われるのか。一緒に考えてみましょう。
會澤 佑果(あいざわゆか)さん
希望した理由 → 読むこと、書くことの習慣化に惹かれたから。車内・一日観察にも興味。
自己PR   → 人間観察が好きです。少しでも定期的に書いていきたい。
□ この一年で読むことと書くことを、しっかり身につけましょう。
藤塚 玲奈(ふじつかれいな)さん
希望した理由 → 名作読みと観察して書くということに親しみをもった。
自己PR   → 「考える」を信念にしている。一念一念の積み重ねが自分をつくる。
□ 日本人は、これまで考えなさ過ぎた。原発事故は、そんな思いにさせられます。
花井 三記(はないみき)さん
希望した理由 → 短編を書きたいから。音読することに意義を感じた。
自己PR   → 車内観察は、得意。速記ではないが、一つ一つの言葉を大切にしている。
□ この一年、好奇心、観察、描写でたくさん習作してましょう。
春日 菜花(かすがなな)さん
希望した理由 → 読むこと、書くことの習慣化・日常化を身につけたいから。
自己PR   → 観察したこと、体験したことを書くのが好き。日常のなかの非日常も。
□ テキストの志賀作品は事実と想像から成っています。学び取ってください。
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.163
4・25ゼミプログラム
本日を「2011年読書と創作の旅」のはじまりとします。毎年、この日を迎えるとなぜか芭蕉の名作『おくのほそ道』の冒頭の文が思い浮かびます。元禄2年(1689年)陰暦の3月27日(陽暦5月16日)から陰暦9月6日まで150日の長旅の紀行文です。
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 月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。
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1.「通信163」配布、4・18ゼミ報告 進行決め
2. 自己紹介 
  
○下原敏彦(しもはらとしひこ):2011年講座紹介参照1947年、長野県生まれ、農獣医学部(生物資源科学部・国際地域開発学科→海外技術協力隊を目指す学科)中退(インドシナ滞在と、日大紛争で)フリーター、業界紙記者、柔道の道場土壌館開設。ドストエフスキー全作品を読む会・読書会主催。著書『伊那谷少年記』、『山脈はるかに』、『ドストエフスキーを読みながら』、『ドストエフスキーを読みつづけて』、共著・写真集『五十歳になった一年生』『還暦になった一年生』など。TV制作協力「おんぼろ道場再建」日本テレビ、「教え子たちの歳月」NHKテレビ」、地域活動。趣味古典SFもの。
 現在考察中の人物と作品、志賀直哉の作品、嘉納治五郎の功績、ドストエフスキー作品
○希望登録提出者(4・25の参加者)
3. ゼミ誌編集委員(正副編集長)&班長(正副班長)
  ゼミ誌編集委員は、ゼミ誌制作業務、正副班長は、ゼミ員連絡と合宿に関する業務。
※ 登録者不明の場合は、連休明けでも可。
4・時事評(日本国憲法について・原発事故について)
2011年読書と創作の旅 時事観察
☆ 憲法改正問題について (現行憲法、特に九条を再読してみる)
 1947年5月3日日本国憲法施行される。前年11月3日公布されたもの。世界に類をみない平和憲法だが、現代の世界情勢には翻弄されるばかりで2007年4月12日、ついに憲法改正がより現実化した。国民投票法案の与党修正案が、衆院憲法調査特別委員会で可決されたのである。この先、憲法はどうなるのか。下記は、現行憲法の前文と、注目される第九条です。
前文【現行憲法】
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれら子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われわれはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
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 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
現憲法の第二章【戦争の放棄】
 第九条 ① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、武力によ
       る威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを
       放棄する。
     ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国
       の交戦権は、これを認めない。
第九条について 過去のアンケート(朝日新聞2009・5・2)
 朝日新聞社が実施した全国世論調査(電話)によると、憲法9条を
「変えない方がよい」 → 64 %
「変える方がよい」  → 26 %
憲法改正が「必要」 → 53 % このなかで「変える方がよい」 → 42 %
                  「変えない方がよい」→ 49 %
朝日新聞社の世論調査(4月18,19日実施)紹介、印してみてください。
◆憲法全体をみて、いまの憲法を改正する必要があると思うか。必要はないと思うか。
     改正する必要がある ( )
     改正する必要がない ( )
・必要があるに○した人に、それはどうしてですか。
     自分たちの手で新しい憲法をつくりたいから ( )
     第九条に問題があるから          ( )
     新しい権利や制度を盛り込むべきだから ( ) 
・必要がないに○した人に、それはどうしてですか。
     国民に定着し、改正するほどの問題ではないから( )
     第九条が変えられる恐れがあるから      ( )
     自由と権利の保障に役立っているから     ( )
◆憲法第九条「戦争を放棄し、戦力を持たない」について
     変える方がよい     ( )
     変えない方がよい    ( )
・変える方がよいに○した人に、どのように変えたらよいか。
     いまある自衛隊の存在を書き込むにとどめる  ( )
     自衛隊を他国のような軍隊と定める      ( )
◆今後の自衛隊の海外活動について あなたの考えはどれに一番近いか。
     海外での活動は一切認めない   ( )
     武力行使しなければ、認める   ( )
     必要なら武力行使も認める    ( )
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5. テキスト、志賀直哉について&処女作「菜の花と小娘」読み
 ※志賀直哉1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日没88歳
志賀直哉について
土壌館・編集室
一、文学の源泉
 
 小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。
もっとも最近は、そうでもないようだが・・・、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作三部作といわれる三作品は一見、創作作品とも思えぬ小品である。唯一『菜の花と小娘』は創作らしい内容だが、他の二作『網走まで』『或る朝』は、なんの変哲もない、とても小説とは思えない作品である。が、これら三作には、志賀文学の基盤がある。そのように思えるのである。
 かつて川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、五十を過ぎてあらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきたような気がする。
 そうして、川端康成が評した文学の「源泉」とは、処女作『網走まで』『菜の花と小娘』『或る朝』の三作にある。そのように確信したのである。
 そして、この三作品を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。三部作が評価できなければ、文学というものを畢竟、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いたのである。
 この2011年の旅のなかで、それ何かがわかれば文学開眼の成果あり。もし不明であっても人生の宿題としてもらえれば幸いです。
二、処女作三部作をテキストに
 ノーベル文学賞作家の川端康成に「文学の源泉」と評された志賀直哉だが、その志賀作品の源泉は処女作三部作にあると前述した。つまるところ三部作は、源泉中の源泉というわけである。土壌館では、そう読み解いた。が、はたしてほんとうにそうなのか。2011年ゼミはじまりの課題としては、いきなり大きな問題だが、この謎解きを目標としたい。
 処女作三部作は、上記の『菜の花と小娘』、『或る朝』、『網走まで』である。これらの作品は明治37年(1904)から明治41年(1908)ころに書かれた。志賀直哉21歳から25歳のときである。本ゼミ「2011年、読書と創作の旅」は、これらの作品を観察作品と定義し、そのように解釈して、これらの作品を手本にすることにした。
これらの作品は、一見、何の変哲もない一風景、一エッセイに過ぎないが、よくみると、時代や作者の心情が織り込まれている。それとなく描かれている。これを手本にして、ゼミでは、各人も観察作品を書いて発表しあっていきます。『網走まで』を車内・人間観察。『菜の花と小娘』を生き物観。『或る朝』を普通の一日の観察として。
 『網走まで』   → 車内観察の手本に
 『菜の花と小娘』 → 車内観察と生き物観察の見本 観察を物語ふうにする
 『或る朝』    → 普通の一日を記録の手本に
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名作読み
たった数枚の物語のなかに風景と心情と創作を織り交ぜた生き物観察作品「菜の花と小娘」を読んでみましょう。
菜の花と小娘
志賀直哉
 或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。
 やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。
 ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。
「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。
「私を呼ぶのは誰?」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。
 小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。
 小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、
「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。
「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。
「そんならならなぜ来たのさ」小娘は叱りでもするような調子で言いました。菜の花は、
「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」と悲しげに答えました。そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。
 小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。
 路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、
「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。小娘は、ちょっと当惑しました。
 しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。
「まあ!」菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、
「このまま流れて行くのよ」と言いました。
菜の花は不安そうに首を振りました。そして、
「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。
「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、
「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。
 菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。
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 どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、
移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。
 菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。
「今度はあなたが苦しいわ」と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想に、
「心配しなくてもいいのよ」と答えました。
 菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。
 間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。
「まあ、少しそうしてお休み」小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。
「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。
「それで、いいのよ」小娘は言いました。
「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、
「いいのよ」と笑って取り合いません。
が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。
 少しきたところで、
「やはりあなたが苦しいわ」と菜の花はこわごわ言いました。
「何でもないのよ」と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。
 麓の村が見えてきました。小娘は、
「もうすぐよ」と声をかけました。
「そう」と、後ろで菜の花が答えました。
 しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。
 チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、
「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。
「どうしたのよ」小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。
「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。
「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。
 小娘は大きな声をして笑いました。
「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。
 小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。
 そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。
                                 おわり
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・163―――――――― 8――――――――――――――――
『菜の花と小娘』について
下原ゼミ通信・編集室
 この作品は、明治37年5月5日の日記に「作文は菜の花をあんでるせん張りにかく」と記し同年、作文「菜の花」として書かれ、明治39年(1906)23歳のとき「花ちゃん」に改題、改稿し大正9年(1920)に児童雑誌『金の船』に『菜の花と小娘』と題されて掲載された。擬人法で書かれたこの作品は、このころ、愛読していたアンデルセン童話がヒントになったと考えられている。一見、なんでもない、誰でもすぐに書けそうな童話作品に見えるが、日本文学では名作に入ります。それだけに、テキストとしても最適で、現在、若い人たちにあまり読まれていないことが残念です。
 この作品は、ファンタジックな童話作品ですが、想像的に読んでみると作者、志賀直哉の心情をより多く汲みとることができます。こう話すと、この作品のどこに作者の思いが秘められているのか。そんな疑問をもたれる読者も多いと思います。のっけから多くの謎です。
 はじめに、なぜこの作品が名作なのか。一つには、不変だということです。書いてから100年も過ぎるのに、こうしてテキストとしてあげていることがその証明です。骨董品の価値は、百年が目安といいます。『精読と多読』のなかで読むに価する本として古典があげられていますが、この作品は、その資格を充分有しているといえます。もう十年か二十年、もっと前だったか忘れてしまったが、『一杯のかけそば」という童話作品が、爆発的話題を呼んだことがある。三人の母子が、そば屋に入って一杯のかけそばを食べるという話が感動的だと、マスコミは連日、この作品をとりあげていた。作者も連日のようにテレビ出演していた。しかし、いまは跡形もない。この二つの作品の違いは何か。それは、作者と作品の関係の深さにある。『一杯のかけそば』は、作者とはまったく関係ない作品。感動サギ師的(実際に詐欺師だった。後日、無銭飲食で逮捕されたニュースがあった)で、たんに世に受けることを狙って作り上げた作品。それもまったくのオリジナルではないとの風評。今日、こうした小説が蔓延している。『菜の花と小娘』が、安易にみえながら時代の波に洗い流されて消えないのは、たんなる童話ではなく、そこに作者自身の投影を感じるからである。
 では、この作品に込められた作者の投影、または深い思いとは何か。この作品で作者は、何を表現しようとしたのか。ここで観察と想像・創意が必要となる。
 余談になるが、志賀直哉を批判する人たちは、よく、彼が金持ちだったから経済的に窮したことがないからをあげる。金と時間があると小説は書けると思っているようだ。文学というものは、金があろうとなかろうと関係ない。志賀直哉は、たまたま金持ちの家に生まれたに過ぎない。想像と創造は、いかなる環境でも生まれるものである。
 さて、「菜の花と小娘」だが ―――
 作者は、菜の花を見て、この話を思いついたという。現在、千葉県が県の花にしているのは菜の花です。房総半島は、春になると一斉に菜の花が咲く。鮮やかな黄色い絨毯。明治の当時も、同じ風景が見られたのかもしれません。
明治35年(1902)、父親が総武鉄道(現在の総武線)の支配人兼会計課長となったことから、19歳の直哉は、鹿野山に遊びに行くようになる。
鹿野山と志賀直哉
 鹿野山は、君津市にあり標高353㍍。房総三山の一つ。他は、鋸山、清澄山。広い山頂からの展望は最高で、現在、マザー牧場や登山道の桜のトンネルなどで人気の観光地となっている。当時も、桜や菜の花の名所だったようだ。毎年春になると直哉は、この鹿野山に登った。友人の里見弴(1888-1983)らと一緒のときもあったが、たいていは一人で登った。春の陽光の下、山頂から谷一面に咲き乱れる菜の花を眺めるのが好きだった。ときには何時間も、何日も滞在してながめていたという。3月31日に来て、4月11日までいたこともある。いくら花が好きといっても二十歳前後の若者が、たった一人で何時間も何日も坐り込ん
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で、ぼんやり菜の花をながめている。たとえ本を読んでいたとしても、ちょつと普通ではない。なにか寂しい感じもします。もし、背後からそのときの志賀直哉を見れば、おそらくそんな印象を抱いくでしょう。咲き乱れる菜の花畑。色が賑やかな明るい黄色であるだけに、余計にそんな寂しい孤独な印象を受けます。
 明治45年(1912)に志賀直哉は、『母の死と新しい母』を発表している。創作余談では、「少年時代の追憶をありのままに書いた。一晩で書けた。小説中の自分がセンチメンタルでありながら、書き方はセンチメンタルにならなかった。この点を好んでいる」と述懐している。直哉の母、銀が三十三で亡くなったのは、明治28年、直哉が12歳のときである。ということは、母の死について書くのに17年間もかかっているということである。この歳月の長さは、直哉にとって母の死がいかに大きな悲しみだったかを教えている。
菜の花は、暖か家庭を思わせるところがある。もしかして直哉は、菜の花に母の面影を見ていたのかもしれない。明治34年足尾銅山鉱毒問題で現地視察計画を父に反対されたことで、余計に亡き母、銀への思いが強くなっていたに違いない。加えて、この時期、直哉はあることで悩んでいた。人間の謎に突き当たっていた。
 「人間は謎です!謎は解かねばなりません」といったのは17歳のドストエフスキーである。やさしかった母の死と、心の中での渇望が実現した父の死。若き文豪が人間を謎としたのは、病気と殺人による両親の死を、どうしても受け容れたくなかったのかも知れません。
 では、若き日の志賀直哉が、人間を謎としたのは、なぜか。このころ、直哉は恋をした。相手は志賀家に何人もいる女中の一人だった。直哉は結婚を夢みた。千葉県小見川にある彼女の実家にも泊まりに行った。若い二人の恋。だれもが祝福してくれると思った。
しかし、だれもが反対だった。教訓をぶつ父親も、新しい美しい義母も、可愛がってくれる祖母も、だれもかれもが反対だった。理由は、あきらかだった。身分の違い。お金もあり、教養もあり、いつも立派なことを言っている人たちが、なぜそんなことを気にするのか。人間は、皆平等ではないのか。直哉には謎だった。折りしも、この頃、島崎藤村が『破戒』を出版した。自分と同年配の主人公瀬川丑松は、江戸時代、部落民といわれた階層だったために、明治になり教師になっても差別され、教壇を去らねばならない。士農工商もちょんまげもなくなったのに、なぜ人間は差別しあうのか。この本を携え、十日余り鹿野山に滞在し菜の花を眺めていた直哉の心うちはどんなだっただろう。人間って何んなんだ。理不尽なことが世の中には多すぎる。なんどもそう問いかけたにちがいない。
 『菜の花と小娘』を読んでみると、たいていの人は自分でもすぐに書けるような、気になるようです。しかし、実際にはなかなかなのが童話ものです。
 人間とは何か。この存在宇宙とは何か。志賀直哉の作品は、すべてこの疑問を持って、対象物を観察しています。観察して、想像して書く。それがこの作家の小説を書くうえでの出発点になったのです。三部作のなかでも『網走まで』『菜の花と小娘』は、それがよく表われた作品といえます。
 志賀直哉年譜(『菜の花と小娘』まで)
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1893年(明治26)10歳 父直温、総武鉄道入社。
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 日露戦争、「菜の花」を書く。
次回、5・9ゼミは『網走まで』を読みます。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・143―――――――― 10――――――――――――――――
付録・「大阪府 最新入試過去問徹底解説」から 挑戦してみてください。
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文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・143―――――――― 12――――――――――――――――
お知らせ
■ 4月25日 テレビ東京PM10:00放映「鈴木先生」
原作・武富健治(読書会会員)
         
■ 6月25日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第245回読書会
作品『分プロハルチン氏』池袋西口・勤労福祉会館 第7会議室 (下原ゼミ生0円)
※ 詳細並びに興味ある人は「下原ゼミ通信」編集室まで
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編集室便り
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆ゼミ評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出 +  ゼミ誌原稿 = 100~60点(S,A,B,C)
課題提出は、まだ受付けます。書くことの日常化の為にも、どんどん書いて提出ください。
☆課題提出は、執筆力もあがり点数もよくなる。まさに一挙両得です。
課題は、「車内観察」「自分の一日観察」「社会観察」など。

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