文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.165

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2011年(平成23年)5月16日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.165
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20 6/27 7/4 7/25
  
2011年、読書と創作の旅
5・16下原ゼミ
5月16日(月)の下原ゼミガイダンスは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. 2011年読書と創作の旅 通信164配布 出欠 課題提出 
2. 4・25ゼミ報告  司会進行指名 時事評 提出作品読みと合評
 
 3. テキスト読み・『小説網走まで』音読と感想書き
4. 世界・名作読みサローヤン短編作品朗読
    
3・11東日本大震災並びに福島原発事故で被災された皆さま方に心よりお見舞いい申し上げると共に被災地の一日も早い復旧と復興をお祈り申し上げます。
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2011年読書と創作の旅 5・9ゼミ報告
出席者9名、欠席者4名 登録者は13名(4月9日現在)
この日、旅希望者が一人加入、同行者は5月9日現在で13名となった。13番目の旅人は、
内田悠介(うちだゆうすけ)さん。旅の目標は、創作です。サークル活動も多方面で頑張っているとのことです。
夏合宿は、無しの方向で
今年の郊外授業・ゼミ合宿は、自粛ではないが、東日本大震災の影響を考慮して慎重にとの通達。これを受けて、現在のところ無しの方向を考えています。なお、実施希望者多数の場合は、會澤佑果班長から有無についての審議があります。
 
5・9ゼミの司会進行は、三矢日菜さん
 二日目の司会進行は、三矢日菜さんにお願いした。三矢さんは時事評「原発の是非」、テキスト・志賀直哉についてと『菜の花と小娘』についてをすすめた。
時事評・原発の是非について
時事評は、今後の日本の生活面での最大の課題「原発の是非」について、各人の考えを述べあった。9名の発言者からは、様々な考え方がでた。「無くすのは無理」「安全性を考えながら使う」などの意見もあったが、総じて「なるべくならやめた方がいい」が大半だった。
 このたび政府が停止を発表した浜岡電発に実家が近い切実な人もいた。30年間のあいだ


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に80%の可能性で大地震が起きるという。福島は0%だったが起きた。
テキスト・『菜の花と小娘』読み
 最初のテキスト読みは、『菜の花と小娘』とした。9名の出席者が音読した。世情は原発事故や停止宣言で不安いっぱいだが、小娘と菜の花の話は癒しとなったようです。旅立ちには、よかった作品でした。
テキスト感想書き(併せて「自分の一日」も)
 
 毎年、課題提出時期をいつにしようかと迷う。宿題とすると、提出が多い年と少ない年がある。昨年は、凶作だった。今年は、時間内に書いてもらうことにした。習慣化するためには、どちらがよいかわからないが・・・・。提出状況から今年は豊作の予感がする。
朗読稽古・山川惣治の『少年王者』生たち編・口演
読書と創作の旅は、テキストと名作の音読の旅であることから、この日はじめて朗読稽古として紙芝居(土壌館制作)口演をした。9名全員が2場面を口演した。
山川惣治 – 絵物語作家。福島県出身。 (1908年2月28日~1992年12月17日)
■代表作 『少年王者』『 少年ケニヤ』『 荒野の少年』がある。
5・16ゼミプログラム
1. ゼミ開始 「通信165」配布  出欠 全員参加のときは撮影 連絡事項 
       5・9ゼミ報告 その他
2 司会進行決め。本日は「      さん」にお願いします。.
司会進行係の人は、読む個所と人を指名してください。合評では、皆の評を聞いてください。
3. 課題提出作品の発表と合評 「3・11」「自分の一日」
「『菜の花と小娘』を読んで」
4. テキスト読みと感想書き
『小説 網走まで』100年近くも前の文体だけに読みづらい点はありますが、これもまた旅の苦楽の一つです。
5. 世界名作の旅
予定、サローヤンの『空中ブランコに乗った大胆な青年』アメリカ文学の名作。主人公は小説家を目指す無職青年の一日。
サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』とは、違った覚醒があります。
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課題提出作品発表 5月9日提出分(ゼミ誌掲候補載対象作品)
自分の一日
 
2011年読書と創作の旅、書くことの習慣化を目指すの最初の課題は、「自分の一日」です。まず自分の身辺からはじめましょう。単発にならずに、コンスタントに提出できるようにしましょう。根気が勝れば、習慣化は実現できます。林芙美子の『放浪記』やウェブスターの『あしながおじさん』などは日常観察から生まれた作品です
3・11 あの日あの時
                 プロパガンダ
勧誘的震災
05A059-3 藤塚 玲奈
 『批評家の気儘な散歩』の中で江藤淳は、我々が強く想像する暴力とは「戦争」と「革命」であろうと説いている。そして政治哲学者ハンナ・アーレントの論文から次の文章を引用した。《戦争の理論や革命の理論は、暴力の正当性の問題だけを扱うことができる。(中略)暴力それ自体の正当化や賛美にまでなるならば、それはもはや政治的な理論ではない。》
 私は震災後、今日に至るまで、そしておそらく今後数年間もそうであろうが、「がんばろう」だとか「立ち上がろう」だとかいった勧誘的表現を目にすることが非常に多くなった。これは個人的に一大事だと思っている。圧倒的に恐ろしいのは自然災害だけで十分だというのに、さらに追い打ちをかけるかのようにこの現象は我々の生活の中に侵入してきたのである。現象とは具体的にどのようなものか。それはこの「~ろう」という勧誘的表現が如実に使われているということである。
 人は始めから終わりという一貫性を持ったものに美しさを感じ、各々の美学として形成していく習性があるように感じられる。自分の一生であれ、誰の一生であれ、生死が絡んだものは特にそうであろう。完成されるもの、完成されたものに心を委ねたり崇めたりする傾向がある。少々宗教的な話になってしまうかもしれないが、信ずる道があるというのは悪いことではないはずだ。しかし、それが一貫性を持って限り軌道修正ができないというのは否めない。しかも崇める者が増え、地域が拡大すればほぼ永久にその道は存在するのである。要は、我々は「何か」を芸術として、美学的要素を含めてカティゴライズする生き物であるということだ。これは「革命」と同じことではなかろうか。
 革命は終わらない現象の一つである。選挙、学生運動その他を初めとする社会的なものから日常生活における小さな決心まで革命と呼べるものは様々だが、全て連鎖反応を起こすものだということに我々は意外に気付いていない。学生運動で例えとすると、安田講堂が落ちる。すると駿河台に第二戦線ができる。さらに関西へ飛び火して京都大学や立命館大学でもアクションが起きる。すべて連鎖しているのである。何かに勧誘されたように。「革命」が勧誘的、連鎖的要素を含んでいることは一目瞭然だが、復興を志し、あくせく働き回る方が多くいる中で申し上げにくいが、この観点かから見ると日本は末期である。全て貫いた後、何が残っているのだろう。
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3・11あの日あの時
私は忘れない
武田結香子
 季節は春を少し過ぎて、身体に感じる風が心地よくなった。今日も空は青く澄み渡っている。何の変わりもない。メールを送れば返事をしてくれる友だちがいて、一緒に生活している家族も帰れば待っていてくれる。これが当たり前なんだと思っていた。この当たり前を失ってしまうなんて考えられなかった。別れはいつか訪れるのだろうけど、それはずっと先の未来であるのだから、と。でも、あの日、私の中にあった”当たり前”は崩れてしまった。信じて疑うことのなかったその存在は、あまりにも脆かった。
 2011年3月11日午後2時46分、私は家に一人でいた。なかなか止まらない揺れが、方向感覚を失っていくようで怖かった。なにより一人で居たその場所が一瞬で暗闇に落ちたかのように感じた。飼っている文鳥が異変に気付いたのか、ケージの中を飛びまわっている。上手く物事を考えられないくらい私は混乱していた。テレビで伝える情報が頭に入ってこない。どうしたらいい?連絡もとれない。声が聞こえない。会えない。そのとき感じた孤独は忘れられない。結局、数時間が経過したあと、家族全員とと連絡がとれた。安心したものの、夜はなかなか眠れなかった。東北の現状は信じられない現状ばかりで、なにもできないちっぽけな自分が悔しくなった。だから、私は、忘れない事にした。募金もボランティアも、もちろん大切な事だけれど、この”孤独”を忘れない、ということをなによりも強く思う。いつか同じ思いをしている人を支えていきたいと思うから。
3・11あの日あの時
携帯が無用と化した日
05A062-3 會澤 佑果
 「揺れてない ?」
「あ、ほんと。地震だ、地震」
「おお、結構長いねー」
そんな談笑ができたのは最初の十数秒だった。
3・11
そんな、どっかのテロみたいな数字であらわされる、東日本大震災。
あの地震があった時、私はこの所沢校舎にいた。
 地震だね。いつもより長いね。震度いくつだろう。なんて無邪気に騒いでいられたのは最初のわずかな間だけで、揺れが大きくなるにつれその場にいた誰しもがこの地震はやばいと感じているのがわかった。風もないのに木々の枝は左右に大きく揺れ、学食の窓ガラスは湖の水面のようにゆらゆらと歪んでいた。どこからともなくゴゴゴゴゴという様な今までに聞いたことのない、気味の悪い地響きの響きがわたっていた。コンビニの中にいた店員も校舎の中にいた学生も外へ出てきて、いつまでも揺れやまない地面の上でどうしょうもなく立ち尽くしていた。
 そばにいた男子が「震源地は宮城らしい」と告げた。いち早く携帯で検索した様で、それを聞いていたその場にいた全員が一斉に携帯を手にとり操作し始めた。彼以外の全員が普段あれだけ使用している携帯電話の存在をつい今しがたまで忘れていたようだった。
 地震の混乱でネットにもなかなか繋がらない。「茨城沖でも地震だよ」誰かが呟いた言葉に私はぞっとした。茨城は私の地元だ。親戚中の顔が頭をよぎり、一瞬でた悪い想像を振り
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払った。
 携帯を開きネットで情報を検索する。なにも把握できない。一番に妹に電話をかけた。繋がらない。お母さんに、お父さんに、おじいちゃんに、おばあちゃんに、おばちゃんに、いとこに・・・誰にも繋がりはしなかった。ワンセグでみた茨城湾岸線で光る津波警報に海辺に住むおじいちゃんの顔を思い出した。山の中に住んでいるおばあちゃんの顔を思い出した。地元に住む友達の顔を思い出した。
 とにかく誰かと連絡を取りたかった。誰かでなく全員と連絡をとりたかった。みんなの安全を直接確認したかった。悪い想像は振り払っても頭の隅にこびりついて消えない。
 揺れが収まってSも、私の身体の感覚はなかなか戻ってこない。いつまでたっても地面がぐらぐらと揺れている気がして落ち着かない。携帯電話は誰にも繋がらない。
 それが、私の体験した東日本大震災のほんの最初の部分だった。
3・11あの日あの時
 
実感のない不幸
春日 菜々
 あの日、陽が出ていたとしても天気はそれほど良いとは言えなかった気がする。もう3月で、季節は春へと移り変わっているはずなのに、いつまでも冷たい風が吹いていたのを覚えている。
 私は部活の用事で学校に来ていた。その日は用事をさっさと終わらせ、友人と地元で遊ぶ予定だった。地元で遊ぶのは滅多にない機会だったので、早く終わらないものかと思っていた。
 部員数名と外にいたときだ。ぐらり、と足元が揺れた気がして思わず部員と顔を見合わせた。彼らも感じたようで互いに「地震だよね」などと確認しあった。いつもの地震であれば数秒で治まるだろうと思っていたが、それはいつもとは違った。揺れる感覚は次第に大きくなり、連なった木が同じタイミングで横に撓りだして、今度は窓ガラスが軋み始めた。ぐらぐ横に揺れるというよりかはまるで地面が円運動を起こしているかのような揺れ方で、思わず立っていられらくなり友人と一緒にその場にしゃがんだ。校庭の奥から地鳴りのような音が聞こえ津波でもくるのではないかと思った。その時は何が起こっているのかなど理解することも、むしろそのことを考える余裕もなかった。
 どれくらいの間揺れていたのかは全くわからなかった。体験したことのない揺れに身体が追いつかず、いつまでも揺れているような気がしたからだ。
 それでも周りの反応からとりあえず地震は治まったのだと確認すると、急いで携帯のワンセグを繋いで情報を得ようとした。どこのチャンネルを回してもアナウンサーが焦った表情と口調で今起きた地震の情報を伝えていた。けれどそこから流れるのは数字の羅列でしかなく、それだけで現状を理解しょうなんて到底できなかった。唯一わかったと言えば震源地はここではなく、東北のほうだったということ。正直、私はその時とても安堵していた。
 情報収集の次に思い立ったのは家族の安否確認。たとえ震源地から遠く離れていたとしても、先程起った地震がいつもと違うことだけは容易に理解できていた。初めに母親に電話をかけたのだが、繋がらなかった。周囲の人たちも挙って携帯を弄っているのだから、電波状況が悪くなっているのはなんとなくわかった。それでも私は何度もかけ直した。母親、父親、兄、祖父母、その時は誰にかけても繋がらず、都内なのだから心配することはないと自身に言い聞かせながらも心ではとても焦っていたと思う。
 十数回目で家族の殆んどとは連絡がとれた。その時の安心感といったらなかった。しかし一度きりの通話しかできず、それからはまた繋がらなくなってしまった。震災の日、結局母親とは電話連絡ができなかった。メールで何度かやりとりはしたが、電波状況が悪いせいで
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メール自体の受信にも影響が出ていたために、それでは安堵を得ることはできなかった。
 こんなことが起ってしまった以上、遊ぶこともできるはずもなく、地震の影響で電車も運行せず、家にも帰れないということで友人の家に泊めてもらえることになった。夜になってようやく友人宅に着き、半日ぶりにテレビとインターネットを見た。私はようやくそこで、今回の震災の被害を目の当たりにした。
 津波よって飲み込まれた町の写真、倒壊した建物、津波で流されていく家や車。想像もしていなかった光景に何も言葉がでなかった。言葉が選べないというものではなく、私はその写真を見て何が起こっているかわからなかったのだ。テレビはどのチャンネルを見ても日中見たようなものばかりだった。それでも少し違うのは、被害状況を映像で確認できることだった。何度も何度も同じ映像と写真が繰り返され、余震が起こるたびに鳴りだす警報音。私だけではなく、友人達も体力より気力を削られていただろう。テレビは一晩中つけっ放しで、少し眠りに落ちたと思えばテレビと携帯の警報音で目を覚ます。情報をいち早く得ようとしたためでもなるが、不安が残る状況で、音もなく、暗闇の中で眠ってしまうことが私はきっと怖かったのかもしれない。
 それでも私たちは幸せだったのだろう。屋根があり、寝床があり、食料もあった。そしてなにより、周りに人がいた。
 翌日の朝、電車が動き出した。もう少し友人達と一緒にいたくもあったが、私は家に帰ることにした。外に出ると、テレビで見たあの光景が嘘だったように何もなかった。アスファルトが割れていることもなく、千葉で起こった液状化現象もなく、誰かが騒ぎ立てているようなこともなかった。車は普通に走っていたし、歩く人たちに焦りも不安もなく、車内アナウンスは流れているものの電車に乗る人々も何も変わっていないように見えた。あの大地震の瞬間は、とても強烈で脳裏に残っているはずなのに、私にはそれほどまでに印象が残っていない。それは、実家の安否と自身の身の安全が確認され、親しい人にも被害がなかったからだろう。実感が何もないことで、私は人の亡くなる痛みも悲しみも感じることはできなかった。これはとても幸せなことであるが、私は何事もなかったようにすっかり普段の生活を取り戻してしまっているのだった。
土壌館日誌
計画停電騒動
 突然にテレビと電気が消えて真っ暗闇になった。20時予定の計画停電とわかったが、時間は、20分も過ぎていた。「なんだよ、いきなり」もしかしたら中止かも、と思ったので、ちょつとむっとなる。暗闇のなか懐中電灯をつけラジオをつけた。が、なにか落ち着かない。これまで停電は何度か経験している。が、国家命令に近い計画停電は、はじめてだ。8階から見る街は真っ暗だった。戦時中の灯火管制のようだ。とにかく時間が過ぎるのを待つしかない。あきらめ、横になっていると、何か音がする。耳を澄ませると誰かが玄関のドアをノックしているようだ。「いったい、だれなんだ、こんなときに」怪しく思いながら誰何すると。「Sです」という。Sといえば、同じ団地建物5階の老人だ。
 計画停電中に、いったいどんな用事か、と不審に思いドアをあけた。老人は、大きな懐中電灯で私を照らして「大変です」と、些か興奮気味な声でいった。エレベーター内に人が閉じ込められているというのだ。計画停電を知らずに乗り込んだらしい。予想できた出来事だし、まずはエレベーター会社かUR都市機構の管理センターだろう。なんで私のところにと不満に思いながらいって声をかけると、閉じ込められた人は、すでに奥さんにもエレベーター会社にも連絡をとっていた。会社の人間が向かっているとのことだ。「あの人はアホなんです」奥さんは、詫びて部屋に入ってしまった。老人は、自分が救出する責任があるとでもいうようにまだ「これは問題ですよ」とつぶやきながら通路をうろうろしていた。することもないので自宅に戻ると、ぱっと電気がついた。まったく人騒がせな出来事だった。
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自分観察「ある日の私」
私って何
藤塚 玲奈
 十日前 : 昨日久し振りに鼻をほじくっている人を見た。それも人差し指の第一関節まで入れ込むという乱暴たるやり方だ。どう処理するのか目で追っていたら、今度は耳の穴に持っていった。ばっちいサラリーマンである。しかし、少々心安らいだのは確かなことであった。
一か月前 : 小生、背伸びは出来ないたちであります。
二か月前 : なぜ女は養ってもらうことを前提にして行動しているのだろうと考える。少し偉そうだから。
力(腕力なり握力なり、それは様々だけれど)がないというのが分かっているのに知識がうまく「にくづき」を形成しないのは感情の発見が早過ぎたからであろうか。
三か月前 : 隣人のつくる夕飯の香りをかぎながら箪笥を動かしてゆく。
: 雪のせいで大人は弱虫になっていった。わたしはすいすいと降り積もる中、小粒の片足をのらのら動かしている。もう幾分か頑丈な靴をはいていなければ負けちまう。
□ 読者の想像力をはるかに超えてしまっています。
地下室の呟き
柳瀬 美里
よく小説で「お前以外では自分が一番お前のことをわかっている」という言葉を見る。よく、といっても最近のものではなく、一昔前の恋愛や友情系の言葉だ。ああいったものは物語の世界だからこそ感動するのであって、現実に言われたら大いにひく自信がある。
それはお前の誇大妄想だろ、と言いたくなるぐらいに。閑話休題。
実際己だって他人よりかは自身のことを分かっているだろうけど、それでも大した差ではない。それなりに理解しているつもりだが改めて他人から「どんな人間?」と聞かれると言葉につまる。言葉にするのは難しい。そういったものは極めて感覚的なものだ。それでも考えてみた。・・・つぎはぎだらけの人間。それが一番しっくりきた。一段大切なことは譲れないし、譲るつもりもないけど、他の事に関しては壊したり、壊れたりしても応急処置あるいは手当ですましていたりする。例えば趣味に直走っても計算しているとはいえ、締切り直前に課題やったりだとか。でも気になるのを放置して先に進めるほど私は物事の切り換えがうまくない。それが良いことであれ、悪いことであれ。中学の時のいやな出来事を思いだすと胸がドロドロする。未だに引きずっている証拠だ。応急手当だったからこそ引きずっているのだろう。そんなつぎはぎだらけの自分を弱い人間だと思う気持ちがある。強い人間になりたいと思う気持ちもある。それでも、そのつぎはぎだらけの人間が「私」だと思っている。
□ つぎはぎだらけの人間・・・なんとなく地下室人間(ドス地エフスキー『地下室の手記』のねずみ男に似ていませんか。)
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同行ふたり
武田 結香子
午前8時2分。僕は身体ごと持ち上がる。正確に言えば、僕がぶら下がってる四角くて青い箱を彼女が手に取ったから、僕は宙に浮いた。まだ目覚めていないのだろうか、液晶の光を眩しそうに受けながらありとあらゆるボタンを押している。決まったボタンを押さなければ、アラームは止まらないのに。そうやって彼女の一日は始まる。僕はいつも一緒に連れて行ってもらえるから、いろんな光景を見ることができる。電車の中、教室までの道のり、4つのフロアに分かれたバイト先・・・。同じ目線、とまではいかないけれど同じものを見ていられる。その風景も確かに面白いのだけれど、なによりも彼女、つまり僕の主がそれを上回るくらい面白いんだ。今日はお出かけをするようで、さっきから鏡とにらめっこ。出発の時間まで後5分なのに。ああ、ほら、やっぱり焦る。そうやって時間に余裕を持たないから、忘れ物をよくしたり、なんにもないところで転んだりするんだろう。僕が彼女と出会って数ヶ月しか過ぎてないけど、こんな光景、何十回と見てきた。どうやら電車には間に合ったみたい。さっきから僕の鼻(にあたる部分)をずっと押している。押しすぎて少し黒くなってきているの、気がついていないのかな。きっとこれは彼女のクセだ。緊張したり、会話が止まったりすると、彼女は僕を押し続ける。と、いうことは今、緊張しているのかな。きっと無意識なのだろうけど。今日はどんな出会いがあるのかな。あ、彼女が笑ってる。まだ表情は固いけれど、もう平気だろう。僕を押していた手がはなれていったから、ね。
□ ぼくと主人の関係はずっと友好ですか。
サイクリングロードの悪夢
三矢 日菜
インドアな私が嬉々として鞄に物を詰め颯爽と家を出かけたとき、それはもう浮かれていた。自転車に乗って地元の図書館に行こうと、前日から計画していたのである。というのも、鍵を紛失して乗れなくなってから、自転車に乗って図書館に行くというのが、私のささやかな夢になっていた。
図書館は家から十分ほどの、わりと近い距離にある。しかし、そこに行くには大きな坂を上って下らなければならず、それが面倒で休日にわざわざ行く気にはなれない。返却期限や予約した本の取置期限が迫っている場合、渋々家を出てぜえぜえ言いながら図書館まで行くのだが、そんなとき、きまって「自転車があれば・・・」と思っていた。坂を上るのは少しツラいけれど、そのぶん下り坂が待っているから、歩いていくよりも早いし、精神的にもなんだか楽だ。
自転車を押して坂を上がりながら、清々しい気持ちでいっぱいだった。普段の私なら今頃家でごろごろしてるんだろうなと思うと、爽やかな午後の空気に触れられることが、無性に嬉しく感じられた。坂を上りきり、いよいよ自転車に跨る。やっぱり楽ちんだなあとすいすい坂を下っていると、前から車がやってきた。ブレーキをかけて端に寄るが、うまくバランスがとれない。車とすれ違う瞬間、思わず倒れそうになって、一気に冷や汗が吹き出た。どきどきする心臓を押さえながら再び足を動かし、図書館の自転車置き場についた。
本を返却し、新たに借りた分厚い本を三冊カゴに載せ、このまま帰るのはもったいないから駅前に行ってみようと考える。鍵を開け自転車に跨ると、本の重みで思うように動かせず、また冷や汗が出た。自分の運動神経のなさに今更ながら気付き、愕然とした。後ろからやってくる車が怖くてちらちらと振り返りながら、ゆっくりと車道を走っていく。自転車に乗っ
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ている爽快感というものが、まるで感じられない。駅前の商店街に入る前の信号に着き、ふうと一息ついたところで、疑問が浮かんできた。このまま車道を走るべきか、それとも自転車を降りて歩道を歩くべきなのか・・・。
人でごった返した歩道は邪魔になりそうだが、かといってこの細い車道だと、私の運動神経じゃ車と接触しかねない。他の人はどうしているだろうと自転車の人を探してみると、やっぱり車道を走っていた。ええいと私もそれに倣って車道を走るが、ふらふらと不安定な運転なのが、自分でもよくわかる。ぐったりしながらスーパーに到着し、自転車を停めようとスペースを探す。休日の昼過ぎ、主婦やお年寄りで偉く混雑していて、私の自転車が入る余地なんか、これっぽっちもない。その場に佇んでいると、なんて面倒くさいものを抱え込んでいるんだろう!とイライラが襲ってきた。自転車さえあれば私の引きこもりは解消されると思っていたのに、なんなんだこの煩わしさは!と思わずにはいられない。
結局、家に帰ったときは膝ががくがくと震え、心身共に疲れきっていた。家を出たときの、あの浮かれた気持ちは、いったいどこにいっちゃったんだろうと笑ってしまう。自分の情けなさにため息をつきながら、もう二度と自転車なんか乗りたくない、と心底思った。
□ 自転車、便利なときは便利ですが・・・人混みはちょっと危ないですよね。
携帯生活
春日 菜花
朝、起きたばかりでまだぼうっとしている頭で携帯を触る。画面を叩くと、半開きの目には少し眩い光があたった。デジタル表記の時計で時間を確認し、携帯は片手に持ちながら枕に顔を埋めた。頭の中で「あと5分、あと5分」と何度も唱えながらも、実質30秒ほどで枕から顔を離す。とても名残惜しいが、体温で気持ちよい具合に暖まった布団を退かし、左右離れて脱ぎ散らかされたスリッパを履く。この時、左手には携帯を握ったままだった。
リビングに降り、棚の上に携帯を置く。顔を洗い、朝食を食べ、身支度を済ます。
家を出るまでの残り数分間で、特に何かをするわけでもないものの、携帯を触る。案の定、何もしなかった。すべての準備を済ませた後、携帯をズボンのポケットしまい家を出る。この時、右手はポケットの中の携帯に触れていた。
10分足らずの道のりだが、駅までは音楽を聴きながら歩くのが日常となっている。住宅街から出るまでは車の通りが少ないので、ポケットから携帯を取り出し歩きながらネットに繋ぐ。ブックマークされたサイトを適当に選択するが内容をきちんと読むことはしない。大通りに出たら見ていたサイトを全て閉じ、横断するために車の流れを見る。タイミングよく左右から車の流れが止まったら渡るチャンスだ。この時、携帯はポケットにしまわずに右手で握っていた。
駅に着くと、次の駅まで少し時間があった。いつもの乗車位置に立ち、ちらりと向かいのホームを見る。きょろきょろと左右を見遣る会社員やつまらなそうな顔をした女子高生、楽しそうに談笑する女性たちにひたすら携帯で何かを打ち込む男性。私は携帯の画面を叩きネットの履歴を見る。つい先程見たばかりだと言うのに、再び同じサイトに繋げる。違うのは、先程は流し読みしていた内容を今度はわりと真面目に読む。
そのサイトを読み終わる頃に電車が到着し、乗り込む。通勤通学時間ということもあり、若干の混雑はあるものの楽に立てるくらいの混みようだった。つり革に掴まり安定を取ったら、今度は違うサイトに繋ぐ。数分前見たときと何も変わりがないので、更新ボタンを繰り返し押すが意味もなく、また違うサイトに繋ぐ。それを下車駅まで繰り返し、降りると同時にボタンを連打してサイトを閉じ、画面を消した携帯は右のポケットにしまう。乗り換えのために数メートル移動しなければならない。この時、右手はポケットの中の携帯に触れていて、携帯からほんのり熱を感じていた。
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乗り換えた電車は駅と駅の区間で電波が届かない。つまりサイトに繋いでも更新ができないということだ。それでも私は電波の届く少しの間で違うサイトに繋ぎ、電波の届かない間は何も変わらない画面を意味もなくただただ見ていた。少しずつ携帯の熱が高まっているのがわかった。目的の駅に着き、先程と同じように降りると同時に画面を消す。携帯を握る手が熱によってじんわりと汗をかいていた。熱い、と感じながらも最早作業と化してしまったそれ。しかし電車を降りる瞬間、後ろから声をかけられて作業は中断された。振り返ると偶然乗り合わせていた友人がいたのだ。この時、私は携帯に触れていなかった。
□ 携帯がなくなったら困りますね。
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インスピレーション的表現、テキスト感想と自分の一日
 文章を書く上で、推敲や書き直しは必要不可欠です。が、最初のひらめきも大切です。ひらめきは、完成された文全体にとって、命の灯ようなもの。そこからものがたりがはじまるのです。というわけで、命の灯をつける訓練として20分のあいだに二つの文を書いてもらいました。一つはテキスト『菜の花と小娘』感想、もう一つは「自分の一日」です。
 20分という短い時間ですが、自分をどのように見、物語をどのように感じたのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分の一日 ・・・・・・・・・・・・・・・・
「自分の一日」感想  
風薫る
藤塚 玲奈
準急所沢行き、果して二限に間に合うのだろうかと一瞬戸惑ったが実際のところかなり余裕があった。停車し行く駅と腕時計を交互に確認しながら、ごとごと揺れる、1両編成に身を任せた。近頃になって、楽しみが増えた。増えたからといって他に大したものが楽しみとしてどう存在しているのか問われれば言葉に詰まるが、まあ増えたのである。「におい」だ。元来嗅覚は中々発達している方だと実感している。好き嫌い問わず様々な匂いの素が鼻の下を通り抜けてゆく。この時期は特に、街中のあらゆる場所から匂い・香りが運ばれてくる。少し湿気のある空気と、ちょうど良いバランスで吹きぬける風。「なんだか懐かしいにおいがする。」誰でも一度は口にしたことがあるであろうこの台詞も、今日は一段と澄み切った心の中に響くのだ。そんなことを思いながら、航空公園に向かう。
「自分の一日」感想  
            五月病なんて怖くない
三矢 日菜
ゴールデンウィークに入るとき、「これはやばいな」と危険信号が出たが、ゴールデンウィーク明けの今日、やっぱり授業を休むことになってしまった。
連休に入ると、元々ないやる気が一気にゼロになってしまう。家を出なければならない時間にゆっくりと起き上がりながら、襲ってきた自己嫌悪にため息をついた。
明日はちゃんと朝から学校に行こうと思う。
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「自分の一日」感想  
基本的生活
柳瀬 美里
週休二日制になってから月曜日は新しい週の始まりだという意識が抜けない。去年のように一週間のほぼ毎日一時限目からではないせいか少しゆっくりと家を出る。それでも早めに教室につき7割方終わっていたドイツ語の課題をしあげ、提出した。あれほどあった休みはどこで消えたんだろうと最中に思いつつ(無論趣味に消えた)、授業が終わった後は食事を済ませ、図書館へ直行。午前中のことを反省し、新しく出された課題を終わらせ、あとはのんびりと読書する。私の一日は基本的にやりたいことだけやっていたりする。
「自分の一日」感想  
                初夏の足音
春日 菜花
昨日からとても暖かくなり、今までまだ冬なのではないかという疑いが晴れた。今日は外にいることが多く、ぽかぽかした陽気が気持ちよかった。時折突風が吹くことがあったが、その風自体が暖かかったということもあり、よけい春を実感した。
陽が暮れると少し肌寒くなるのだろうが、それも後少しで終わるだろう。
「自分の一日」感想  
              休み明けの決意
武田 結香子
ゴールデンウィーク明けの今日(5月9日)、正直起きるのが大変だった。学校が嫌いというわけじゃないのに、行動することが面倒で仕方なかった。これを五月病、というのだろうか。このままでは前に進めない、と思い普段より何倍も時間をかけてはしまったが出かける準備をして、学校へ来た。長期休みはすごく嬉しいし楽しい。けれど休み明けが毎回このようだと・・・先が思いやられる。自分のだらしないこの性格をなんとかしなければいけないな、と思う今日の自分の一日だった。
「自分の一日」感想  
              無意識の覚醒
杉山 知紗
焼酎を幾度かあおるたび、意識、世界、果ては脳みそまで柔かくあいまいになってゆくのが、まだ奥のほうで逃げている自分自身で感じていた。今読み進めている本を、ふと思い出す。ロボトミー手術を12歳でされ、唯一生き残った人の生涯について、だ。ロボトミーは脳みその一部を取り出したり、頭がい骨に数ヶ所穴を開け、うつや統合失調症を直す、というものだ。今この溶けているような、普段意識していないこの脳を、私は強い眠気の中、ひどく実感していた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・165―――――――― 12――――――――――――――――
「自分の一日」感想  
                 憂鬱な謎
大野 純弥
今日の昼は彼女とご飯を食べるつもりでしたが、最近彼女の精神状態が著しくよろしくないのでおじゃんとなりました。五月は毎年そうだそうで、こちらとしては初めてのことにとまどいを隠せません。いわゆる五月病なのかとも思います。自分は今まで生きていて一度もそんな悩みを抱えたことがありません。僕は愚鈍なのでしょうか。彼女にしてあげられることは何なのでしょうか。悩みます。五月病もうつるんでしょうか。
「自分の一日」感想  
                単純明快な恋人求む
内田 悠介
先日、春祭委員会の部屋で女の先輩とこんな話をした。性同一障害とかの特殊なケースで「A郎(仮)=体は男なのに心は女、しかしレズで女が好き、B子(仮)=体は女なのに心は男、しかしホモで男が好き」この二人がカップルになったとする。はたから見たら普通のカップルだけど、中身は異常で複雑。こんなカップルって果たして現実には存在したりするのだろうか?!っていうことを。女の先輩は、不思議なほどサラッと「あるでしょ」・・・って一蹴したものだから「どうしてそう思うんですか?」と聞いたら「他の人にはあんまり話さないでよ」と念を押した後で「実はあたしもレズだしね」とカミングアウトしてきた。でも、先輩によるとゲイはよく見かけるけど、レズは高校にも日芸にも全然見当たらないらしい。「半年くらい前に同じ委員会の女子に告ってフラれたんだ」と、俺が今まで見たことのない超楽しそうな顔でそう言う先輩が何だかとても印象的だった。多分、本人にしかわからない苦悩があるだろうに。A郎B子カップルは果たして世の中に存在するだろうか。確率超低そうだけど、知り合いのカップルが実はそうかもしれない。そしてこんだけの秘密・論理・見えてる世界があるかもしれない・・・って想像したら何だか楽しいと思った。A郎はB子を探す、先輩はお仲間を探す、そして僕は・・・僕は一番難易度が低いはずのノーマル異性の好きな女の子と一体どうやったら仲良くなれるのか今それだけが僕の諸問題だ。先輩の更に詳細な恋愛談は僕の耳を通り過ぎてゆく。作り笑いと適当なあいづちを打ちながら心の中でごめんなさい、と先輩に謝った。
土壌館日誌        親切心に祟りあり
5月10日、火曜日、五月晴れ気温上昇。昼前、用事で団地自治会館を覗く。敬老会で集まっているお年寄りが何かひそひそ話をしている。深刻なようでもあり、どこか楽しそうでもある。顔見知りのお婆さんが寄ってきて「孤独死らしいですよ」と教えてくれた。五号棟の1人暮らしの84になるお年寄りとのこと。自治会事務局のKさんが110番通報し向かっている。Kさんお一人では心もとなかろうと行ってみる。歩道でKさんが警察官に事情説明していた。遠巻きに隣り近所の人か数人が集まっていた。知り合いの民生委員の顔もあった。受け持ちではないが、素通りもできず寄ったのだという。Kさんは、話し終わるとほっとしたように戻ってきて「危なかった。開けてしまうところだった」と苦笑した。隣りの人から新聞が溜まっていると電話を受けた。家族に連絡すると、長いこと付き合いがないからと鍵を渡された。親切心から、確かめようとした。が、念のため警察に電話すると絶対に開けないでください、と注意された。もし死んでいれば第一発見者となって拘束されるとのこと。まだ生死はわからない時点である。私なら、うっかり確認に入ってしまったかも。新米民生委員として、ひとつ勉強になった。(編集室)
―――――――――――――――――― 13 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.165
テキスト感想
・・・・・・・・・・・ 『菜の花と小娘』を読んで ・・・・・・・・・・・・・
菜の花が少女に見えてきた
武田 結香子
特別な事が起きるわけでもない、平凡な1日を表しているようだった。けれど、菜の花と小娘の会話は他の人には聞こえていないのだろうから、これもやっぱり特別な1場面であるのだろう、と思った。「さびしいわ」と答えた菜の花の言葉は寂しそうというよりも小娘が話しかけてくれた、という喜びがあるような気がする。水に流され「恐いは、恐いわ」と言いつつも、やっぱり小娘に話しかける姿は可愛らしいと思う。途中から菜の花も、とある少女に見えてきた。人と植物ではなく、人と人が話しているような光景が後半見えた気がする。
最後まで読ませるものがある
杉山 知紗
志賀作品は教科書で高校時代「城の崎にて」を読んだきりでした。しかし、今回の「菜の花と小娘」は、「城の崎にて」とはまた一味違う雰囲気をしていました。
言葉の選び方に気を使っているようで、最後まで柔かく、わかりやすくありました。
菜の花と小娘の関係性は女学生たちのようになんでもない会話でドラマチックなことなどは何も起こっていないのに(菜の花が喋るさておき)最後までゆるやかに読ませるのは見習いたいと思いました。
他者との気持ちのズレを感じた
大野 純弥
人と人との感情や愛情とはいとも簡単にすれ違いズレていくものである。「菜の花」と「小娘」の二者の間には確かに相手を想い、慕う気持ちがあるにも関わらずことごとく調和せずにある。この作品の結末としては結局のところ無事に肥えた土へとたどり着くわけであるが、それまでの流れを行く道中は非常に危うく、脆い均衡の上にしか二者の関係性は成立していない。他者との気持ちのシェアの難しさを強く感じた。
テンポ、リズムがよい作品
内田 悠介
短い八話の中でいくつも展開が入れ替わり、テンポ、リズムがよく退屈しませんでした。おそらく菜の花と小娘が交わす会話の交互と場面展開が半々でスピードがあったからよかったのだと思います。あと語尾が全て「~でした」で統一されているのも童話のムードを保つのに有効だと感じます。
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なんだかなつかしくなった
春日 菜花
端から見ていたら小娘が一人で遊んでいるように見える場面、だけれど、菜の花が話すことによって「創作」になる。本来ならば決してありえない。けれどもしかしたら小娘には本当に聞こえていたかもしれない。読んでいる内に童心に戻れるかのように思え、小娘と菜の花の一連が容易に想像でき、なんだかなつかしくなった。
のどかな田舎の風景を彷彿
三矢 日菜
志賀直哉の短編集を一冊読んだことはあるのですが、こういう童話作品は入っていなかったので、こんな作品も書くんだと驚きました。
のどかな田舎の風景が浮かんできて、なんとなくのんびりした気持ちになりましたが、正直これといった感想が出ませんでした。
菜の花の繊細さと優しさが感じられる作品だと思います。公園で遊んでいた小学生の頃の記憶を思い出しました。
春の緩やかな陽気をかんじた
會澤 佑果
全体を通して、春の緩やかな陽気が思いおこされる作品です。ぼう頭からある風景びょうしゃだけでなく、川の冷たさ、途中で出てくる水草やいぼ蛙の存在も大きく作品の雰囲気に関わっている。「あなたが苦しいわ」「心配しなくていいのよ」「あなたが苦しいわ」「なんでもないのよ」の同じようなかけあいが2ヶ所ある。
この時期にはぴったりの作品
藤塚 玲奈
志賀直哉作品云々の前に、わたしは文章を書く際(物語系のもの)、煮詰まってしまったり作業が難航してしまったりすると決まって童話や絵本を読むようにしています。心理描写、背景描写共に非常にバランスがとれていて、一人称、三人称であったとしてもやはり文章の妙に注目せずにはいられないからです。『菜の花と小娘』は初見でしたが、本当にすらすらと、しかし全て想像すること出来る描写ばかりでした。青々とした若葉や草木の匂いがこちらまで伝わってくるようでした。別段難しい言い回しや単語を使用している訳ではないので尚更「うまいなあ」とただただ感じるだけでした。この時期にはぴったりの小説です。
よく観察されたお話
柳瀬 美里
シンプルなストーリーで一見すると童話にしてもおかしくないように見えます。けれど菜の花と小娘のやりとりや描写は読んでいる人にもわかりやすく書かれていて、観察した結果のモノなのだろうなと納得しました。観察とはいっても見る目は自身のものなためどうしても主観が強くなってしまいがちなのに客観的なものと上手におり混ぜて物語にしているのがすごいなと思います。私が書くとどうしても主観的な独白になりがちなのでそういったところを見習いたいです。
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『菜の花と小娘』について(5・15加筆)
下原ゼミ通信・編集室
 「2011年読書と創作の旅」の旅立ちに際して、『菜の花と小娘』の感想を当日課題としました。9名の出席者全員が書いてくれました。(欠席者は、後日提出してください)400字詰め原稿用紙なら10枚にも満たない童話作品ですが、感想は各人様々で、よかったと思います。優れた作品ほど、感想は多くなるものです。
『菜の花と小娘』になるまで
この作品は、明治37年5月5日の日記に「作文は菜の花をあんでるせん張りにかく」と記し同年、作文「菜の花」として書かれ、明治39年(1906)23歳のとき「花ちゃん」に改題、改稿し大正9年(1920)に児童雑誌『金の船』に『菜の花と小娘』と題されて掲載された。擬人法で書かれたこの作品は、このころ、愛読していたアンデルセン童話がヒントになったと考えられている。一見、なんでもない、誰でもすぐに書けそうな童話作品に見える。が、日本文学では名作に入ります。それだけに、テキストとしても最適で、現在、若い人たちにあまり読まれていないことが残念です。
なぜ名作なのか
 この作品は、ファンタジックな童話作品ですが、想像的に読んでみると作者、志賀直哉の心情をより多く汲みとることができます。こう話すと、この作品のどこに作者の思いが秘められているのか。そんな疑問をもたれる読者も多いと思います。のっけから多くの謎です。
 はじめに、なぜこの作品が名作なのか。一つには、普遍だということです。書いてから100年も過ぎるのに、少しも古臭さを感じない。そのことがその証明です。骨董品の価値は、百年が目安といいます。『精読と多読』のなかで読むに価する本として古典があげられていますが、その例からするとこの作品は、その資格を充分有しているといえます。
作者の心象風景
『菜の花と小娘』が、安易にみえながら時代の波に洗い流されて消えないのは、たんなる童話ではなく、そこに作者自身の投影を感じるからです。
 では、この作品に込められた作者の投影、または深い思いとは何か。この作品で作者は、何を表現しようとしたのか。ここで観察と想像・創意が必要となる。
 余談になるが、志賀直哉を批判する人たちは、よく、彼が金持ちだったから経済的に窮したことがないからをあげる。金と時間があると小説は書けると思っているようだ。文学というものは、金があろうとなかろうと関係ない。志賀直哉は、たまたま金持ちの家に生まれたに過ぎない。想像と創造は、いかなる環境にあっても生まれるものであると思う。
菜の花と作者
 さて、「菜の花と小娘」だが ―――
 作者は、菜の花を見て、この話を思いついたという。現在、千葉県が県の花にしているのは菜の花です。房総半島は、春になると一斉に菜の花が咲く。鮮やかな黄色い絨毯。明治の当時も、同じ風景が見られたのかもしれません。
明治35年(1902)、父親が総武鉄道(現在の総武線)の支配人兼会計課長となったことから、19歳の直哉は、鹿野山に遊びに行くようになる。
鹿野山と志賀直哉
 鹿野山は、千葉県の君津市にあり標高353㍍。房総三山の一つ。他は、鋸山、清澄山。広い山頂からの展望は最高で、現在、マザー牧場や登山道の桜のトンネルなどで人気の観光地となっている。当時も、桜や菜の花の名所だったようだ。毎年春になると直哉は、この鹿野山に登った。友人の里見弴(1888-1983)らと一緒のときもあったが、たいていは一人で登った。春の陽光の下、山頂から谷一面に咲き乱れる菜の花を眺めるのが好きだった。ときには何時間も、何日も滞在してながめていたという。日記をみると3月31日に来て、4月
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・165―――――――― 16――――――――――――――――
11日までいたこともある。いくら花が好きといっても二十歳前後の若者が、たった一人で何時間も何日も坐り込んで、ぼんやり菜の花をながめている。たとえ本を読んでいたとしても、ちょつと普通ではない。なにか寂しいものを感じます。もし、背後からそのときの志賀直哉を見れば、おそらくそんな感慨を抱いくでしょう。咲き乱れる菜の花畑。色が賑やかな明るい黄色であるだけに、余計にそんな寂しい孤独な印象を受けます。
 作者は、春の鹿野山で、ひとり何を思っていたのでしょう。
菜の花と母
 明治45年(1912)に志賀直哉は、『母の死と新しい母』を発表している。創作余談では、「少年時代の追憶をありのままに書いた。一晩で書けた。小説中の自分がセンチメンタルでありながら、書き方はセンチメンタルにならなかった。この点を好んでいる」と述懐している。直哉の母、銀が三十三で亡くなったのは、明治28年、直哉が12歳のときである。ということは、母の死について書くのに17年間もかかっているということである。この歳月の長さは、直哉にとって母の死がいかに大きな悲しみだったかを教えている。
菜の花は、暖か家庭を思わせるところがある。もしかして直哉は、菜の花に母の面影を見ていたのかもしれない。明治34年足尾銅山鉱毒問題で現地視察計画を父に反対されたことで、余計に亡き母、銀への思いが強くなっていたに違いない。加えて、この時期、直哉はあることで悩んでいた。人間の謎に突き当たっていた。
人間の謎
 「人間は謎です!謎は解かねばなりません」といったのは17歳のドストエフスキーである。やさしかった母の死と、心の中での渇望が実現した暴君だった父の死。若き文豪が人間を謎としたのは、病気による母の死と殺人による父親の死を、どうしても受け容れたくなかったのかも知れません。
 では、若き日の志賀直哉が、人間を謎としたのは、なぜか。このころ、直哉は恋をした。相手は志賀家に何人もいる女中の一人だった。直哉は結婚を夢みた。千葉県小見川にある彼女の実家にも泊まりに行った。若い二人の恋。だれもが祝福してくれると思った。
しかし、だれもが反対だった。教訓をぶつ父親も、新しい美しい義母も、可愛がってくれる祖母も、だれもかれもが反対だった。理由は、あきらかだった。身分の違い。お金もあり、教養もあり、いつも立派なことを言っている人たちが、なぜそんなことを気にするのか。人間は、皆平等ではないのか。直哉には謎だった。折りしも、この頃、島崎藤村が『破戒』を出版した。自分と同年配の主人公瀬川丑松は、江戸時代、部落民といわれた階層だったために、明治になり教師になっても差別され、教壇を去らねばならない。士農工商もちょんまげもなくなったのに、なぜ人間は差別しあうのか。この本を携え、十日余り鹿野山に滞在し菜の花を眺めていた直哉の心うちはどんなだっただろう。人間って何んなんだ。理不尽なことが世の中には多すぎる。なんどもそう問いかけたにちがいない。
名作童話
 『菜の花と小娘』を読んでみると、たいていの人は自分でもすぐに書けるような、気になるようです。が、実際に書くとなると童話は難しいものです。人間とは何か。この存在宇宙とは何か。志賀直哉の作品は、すべてこの疑問を持って、対象物を観察しています。観察して、想像して書く。それがこの作家の小説を書くうえでの出発点になったのです。三部作のなかでも『網走まで』『菜の花と小娘』は、それがよく表われた作品といえます。
 志賀直哉年譜(『菜の花と小娘』まで)
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1893年(明治26)10歳 父直温、総武鉄道入社。
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
―――――――――――――――――― 17 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.165
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 日露戦争、「菜の花」を書く。
テキスト読み・『小説 網走まで』を読むにあたり
 千葉の鹿野山で菜の花をながめながら人間の謎に涙した、主人公「私」は、東京に戻ると、いよいよ時空の旅にでる。『網走まで』は、最初の旅の車内でのこと。
名作読み
アメリカ青春文学といえば、代表として昨年1月27日91歳で亡くなったサリンジャー(1919-2010)の『ライ麦畑でつかまえて』(1951)をあげる人が多いと思う。が、サローヤンのこの短編も捨てがたい。『ライ麦』より知名度はないが、文学を目指す青年にとっては、『空中』の方がより私的衝撃が強いに違いない。ここにはトーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』にも通じるものがある。 
ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年
原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房
 1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。
 この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。
■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。
 作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃でる。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。
「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など
作品は、次のようなものがある。
【ハヤカワNV文庫】に収録
『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。
【新潮文庫】サローヤン短編集
『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。
【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』
『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。
★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・165―――――――― 18 ――――――――――――――――
土壌館・実践的投稿術 
 
文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。
 もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。
 土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞の投稿欄に寄せつづけています。なぜ投稿欄かというと、投稿欄は字数制限があるからです。500字は人が飽きなく読む字数です。文体を簡潔にする工夫が必要です。
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◆ 2011年(平成23年)1月 8日 土曜日  朝日新聞「声」欄    
児童の作文大切にした恩師        
 
 長野の山村の生活や満蒙開拓青少年義勇軍などを記録した写真家で童画家の熊谷元一氏が昨秋101歳で亡くなった。私の小1のときの担任で、先日墓参りに行った。
 ご家族に見せて頂いた遺品の中に、著作資料とは別の、昔の教員時代の物が大切に保管されていた。入学して間もなく描いた絵や黒板の落書きの写真などなど。まったく忘れていたが「こどもかけけろよ ひのてるほうへ」と題された文集は、一年生の終わりに恩師がガリ版刷りで作ったものだ。驚いてひろげると、前書きに「よむこともかくこともできなかったみなさんがこうしてかけるようになりました。おうちのひとといっしょにしずかによんでください」とあった。
 文集には57年前の子どもたちの日常が生き生きと書かれていた。私の文は、郵便局見学で初めて電話を手にして、話すことができなかったことだった。児童が見て感じた1953年(昭和28年)当時がよみがえり感動した。まさに恩師の形見、恩師は、写真家・童画家として名を成したが、教育者としても素晴らしい先生だったのだ。
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投稿術バックナンバー
No.1 「医師への金品 規制できぬか」   1994・2・2   朝日新聞「声」欄
No.2 「カラー柔道着 いいじゃないか」  1994・5・17  朝日新聞「声」欄
No.3  「立会人が見た 活気ある投票所」 2009・9・2    朝日新聞「声」欄
No.4 「勧誘の仕方 改められぬか」   1994・10・15 朝日新聞「声」欄
No.5 「団地建替え 住めぬ人びと」    1995・9・24 朝日新聞「声」欄
No.6 「地域に必要な 子供たちの場」   1996・11・5   朝日新聞「声」欄
No.7 「燃える家々に 戦争を実感」MoMo 1999・4・3   朝日新聞「声」欄
No.8 「嘉納」の理念 世界に発信を   2009・3・10   朝日新聞「声」欄
No.9 「50歳の1年生 師の撮影行脚」   1996・9・16  朝日新聞『声」欄
No.10 「教師の創意で 生徒に楽しさ」  1995・3・15   朝日新聞「声」欄
No.11 「児童の作文大切にした恩師」  2011・1・8    朝日新聞「声」欄
次回掲載
No.12 「フセイン拘束 正当性立証か」 2006・12・16   朝日新聞「視点」欄
―――――――――――――――――― 19 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.165
ゼミ雑誌作成について
ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。テーマは、志賀直哉の観察作品をテキストにします。た車内観察作品とします。前期課題作品です。提出しながら完成度を高めてください。
ゼミ雑誌編集長 → 武田 結香子さん  
ゼミ誌副編集長 → 藤塚 玲奈さん  
      ゼミ誌編集委員 → 他ゼミ員全員
ゼミ雑誌作成計画
Ⅰ.申請方法  6月25日 ゼミ雑誌作成ガイダンス 必ず出席してください。
  
  ゼミ雑誌作成の説明を受け、申請書類を受け取って期限までに必ず提出する。
Ⅱ.発行手順 ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月15日です。厳守のこと。
  以下① ~ ③の書類を作業に添って提出すること。
【① ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】
1.【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢/出版編集室に期限までに提出
2. ゼミで話し合いながら、雑誌の装丁を決めていく。
3. 9月末、ゼミ誌原稿締め切り。
4. 印刷会社を決める。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。
5.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。
6. 11月半ばまでに印刷会社に入稿。(芸祭があるので遅れないこと)
7. 雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。
8. 印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。
注意 : なるべくゼミ誌印刷経験のある会社に依頼。(文芸スタッフに問い合わせ)
     はじめての会社は、必ず学科スタッフに相談すること。
ゼミ誌原稿は課題から
ゼミ誌掲載の原稿は、授業課題(テキスト感想・車内観察・自分観察・時事評)とします。
自由作品は、提出の遅れ、夏休みでのやっつけ原稿など、加えて合評ができないためです。
課題提出のススメ
2011年読書と創作の旅は、大変な旅立ちとなりました。大震災、終わらない福島原発事故、浜岡原発停止、風評被害。国外に目を向ければ、アフリカ諸国の自由を求める内紛、テロ首謀者の最期。世界もまた風雲急を告げている。私たちにできるのは、森羅万象をしっかり観察し記録することです。この旅を有意義なものにするためにも、課題はきちんと提出しましょう。車窓風景、車内風景
テキスト=時空列車の車窓『鳥取』『出来事』『正義派』『網走まで』『『灰色の月』『夫婦』
    =風景観察『菜の花』、犯罪観察『兒を盗む話』、裁判観察『范の犯罪』
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・165―――――――― 20 ――――――――――――――――
2011年読書と創作の旅の記録
5月9日現在ゼミ  希望カード13  出席者9名  欠席者4名
課題提出状況 5月9日の提出分
自分の一日「3・11」 → 4本 藤塚、武田、會澤、春日
「ある日の自分」   → 5本 三矢、藤塚、武田、春日、柳瀬
『菜の花』感想    → 9本 柳瀬、藤塚、内田、大野、杉山、武田、會澤
               三矢、春日
「自分の一日」   →  8本 柳瀬、藤塚、内田、大野、杉山、武田、三矢
                春日
名作読み 5月9日現在4本
1.嘉納治五郎「青年訓 精読と多読」、2.原民喜「夏の花」3.日本国憲法前文と第九条
テキスト読み 「菜の花と小娘」
時事評・議題
1.「日本国憲法の改正について」 2.原発問題について
お知らせ
■ 5月16日 テレビ東京PM10:00放映「鈴木先生」
原作・武富健治(読書会会員)
         
■ 6月25日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第245回読書会
作品『分プロハルチン氏』池袋西口・勤労福祉会館 第7会議室 (下原ゼミ生0円)
※ 詳細並びに興味ある人は「下原ゼミ通信」編集室まで
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編集室便り
  
住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆ゼミ評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出 +  ゼミ誌原稿 = 100~60点(S,A,B,C)
☆課題提出は、執筆力もあがり点数もよくなる。まさに一挙両得です。
課題は、「車内観察」「自分の一日観察」「社会観察」など。

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