文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.166

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2011年(平成23年)5月23日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.166
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20 6/27 7/4 7/25
  
2011年、読書と創作の旅
5・23下原ゼミ
5月23日(月)の下原ゼミガイダンスは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. 2011年読書と創作の旅 通信164配布 出欠 課題提出 
2. 4・25ゼミ報告&ゼミ誌ガイダンス報告
 
 3. テキスト読みと車内観察比較『網走まで』と『三四郎』。『出来事』
4. 世界・名作読みサローヤン短編作品朗読
    
3・11東日本大震災並びに福島原発事故で被災された皆さま方に心よりお見舞いい申し上げると共に被災地の一日も早い復旧と復興をお祈り申し上げます。
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2011年読書と創作の旅 5・16ゼミ報告
遅れてきた五月病
出席者4名、欠席者9名 (登録者は13名)
5・16ゼミ日の参加者は、4名だった。この季節の出欠は、毎年、微妙だが、前回の連休明けが9名、約70%の出席率だったので安堵していた。しかし、この日の出席率は、前回とは逆の30%。遅れてきた五月病か。少し心配になる。
ちなみに五月病とは、1968年(昭和43年)に生まれた言葉。この時代は、社会は昭和元禄とうかれていたが、学園紛争のはじまりの年でもあった。1月東大で無限スト開始。日大では34億円の使途不明金発覚から5月に神田三崎町で大集会が開かれ、世に言う日大闘争がはじまった。(ハレンチの言葉もこの年に)
 
司会進行は、内田悠介さんに
この日の司会進行は、内田悠介さんにお願いした。出席者提出の「一日の自分」「『菜の花と小娘』評」の合評とテキスト読みと感想。司会者を含めて4名という小会議だったが、滞ることなくすすめることができた。名作読みは時間がなかった。
テキスト『小説 網走まで』を読む
 最初の車内観察作品は、テキスト『網走まで』。百年も前の作品で、文体や漢字読みに難しい個所もあったが、この日の4人は普通に読めました。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.166―――――――― 2 ―――――――――――――
5・23ゼミプログラム
1. ゼミ開始 「通信165」配布  出欠 全員参加のときは撮影 連絡事項 
       5・16ゼミ報告 その他
2 司会進行決め。本日は「      さん」にお願いします。.
司会進行係の人は、以下をすすめてください。(読む個所と人を指名。合評では、皆さんの評を聞いてください)
3. ゼミ雑誌ガイダンス報告 武田結香子さん・藤塚玲奈さん
4.課題提出作品の発表「原発事故」・人間観察「私はこう思う」
5. テキスト読みと感想 車内観察比較
『網走まで』と夏目漱石『三四郎』。テキスト『出来事』読みと感想。
6. 世界名作の旅 前回は時間の都合で読む事ができませんでした。
予定、サローヤンの『空中ブランコに乗った大胆な青年』アメリカ文学の名作。小説家を目指す無職青年の一日。
サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』とは、違った覚醒があります。
土壌館日誌
授業の出欠について
ゼミへの出席日数、どれほどなら単位修得は、大丈夫ですか。このような質問がありました。ゼミの各人の評価は、出席率、課題提出率を基本とします。が、数字は、目安に過ぎません。むろん成績幅にはなりますが、課題提出(ゼミ誌掲載作品)がしっかりできていれば単位を心配することはありません。たんに修得が目標の人にとっては朗報です。
私としては、こう考えています。大学の授業は、あくまでも自己管理です。自分が由とすれば由、無駄と思えば無駄。(この世の99%は無駄なもの、と言った賢者もいましたが・・)
ゼミ時間は、学生の皆さん一人一人が高い授業料を払って買った時間です。(換算すると1コマ3000円ぐらいでしょうか)買った時間。つまり、自分の時間です。自分のものだから出席しようが、欠席しようが、どう使おうと自由です。このゼミでは、習慣化を図るために毎回一編の名作を読む事にしていします。が、読まなかったら困るというものでもありません。たぶん、読まなかったら一生、読むことはない。ただそれだけです。しかし、そのことは、人生にたいして関係しないでしょう。と、すれば夕方の貴重な時間、どこかでお茶を飲みながら楽しく過ごしたほうが有意義か知れません。
もっとも「書くことの習慣化・日常化」は、人生において決して無駄にはなりません。これを身につけられるかどうかは、継続するという意志だけです。
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.166
課題提出作品発表 5月23日提出分(ゼミ誌掲候補載対象作品)
時事評・自分の一日
 
2011年読書と創作の旅、書くこと読むことの習慣化を目指すために提出作品を合評します。(但し、出席者の作品)
(時事評)→ 何を言わんとしているか。客観性はあるか。独善的になっていないか。
(観 察)→ わかりやすいか。社会的や時代を感じるか。創造性・想像性は。
     
時事評 原発事故に想う
               はじめて感じた怖れ
春日 菜花
私は原発事故が起こったことで、原発自体を初めてまじまじと見た。テレビに映るそれは黒く焼け焦げ、同じ色の煙を吐き出していた。しかし原子力は目に見えるものではない。それゆえに、私はあの光景を見ても必要にあせったり、不安になることがなかった。例えば、建物から何かが垂れ流されていたり、変な色の煙が立ち上っていたりしたら、少しは違ったのかもしれない。テレビで見る映像は、ただの火事にしか思えなかった。地震といい、原発事故といい、自分自身の周りのことしか目に入っておらず、自分がいかに無知であり、無関心であると思えた。そこから出荷されていた作物や、作られていた製品が少なくなっていった時、こんなにも関わりがあったのかと分かると同時に、こうならなければわからなかった自分がいたことを恥じた。
テロリストの死角
内田悠介
前回のゼミで「原子力発電所はこれから在り続けるべきか否か」に対して僕は「せっかく作ったのになくすのは勿体ない。安全性を上げながら他のクリーンエネルギーを探すしかないじゃない」と意見したわけですが、正直あまりにその話題に興味がなかっただけで大して考えて言ってませんでした。が、最近耳にしたことによると「シェールガス」というエネルギーが「原子力エネルギーに取って替われるかもしれない」ということをアメリカが発見したらしく、何だか一安心してます。
論点が「原発事故」からズレていますから戻します。僕が「原発事故」で想ったことは一つだけです。何故、今の今までテロリストや無差別殺人鬼や宗教団体たちは原子力発電所に爆弾を仕掛けたり、脅迫に使ったり、占拠したりしなかったのかってことです。秋葉原の歩行者天国でナイフを振りかざすより地下鉄にサリンばらまくより、より広範囲で甚大な影響を与えられるのに(あと上水処理場に毒を散布して水道水を飲む何万人を殺そうとしたりしないのも疑問)思いつかなかったのか、さすがにそれはタブーだと考えたのかは知らないですけど、津波はそんなことは気にしなかったようです。原子力発電所も上水処理場も政府の施設に比べよっぽどセキュリティが甘いと聞きます。だからきっと将来、何もかも嫌になって無差別殺人をしたくなったり、テロを起こしたくなったら僕は原子力発電所を吹っ飛ばそうとするでしょう。
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インスピレーション感想
 文章を書く上で、推敲や書き直しは必要不可欠です。が、最初のひらめきも大切です。ひらめきは、完成された文全体にとって、命の灯のようなもの。火がついたからこそ物語がはじまるのです。というわけで、命の灯をつける訓練として20分のあいだに二つの文を書いてもらいました。一つは「自分の一日」、もう一つはテキスト『網走まで』感想です。
 20分という短い時間ですが、自分をどのように見、物語をどのように感じたのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分の一日 ・・・・・・・・・・・・・・・・
「自分の一日」感想  
アドリブができない
 内田 悠介
 僕が心の底から本心を話したり、悩みを打ち明けたりできる友達は少ない。というか数人しかいない気がする。昨日、そのうちの一人と一対一でお酒を飲んだときに打ち明けたのは「僕が人と話すときにあらかじめ話の入り方、何を話すかを決めておかないと口下手になる」という悩み。その対策として僕のケータイには「話のネタ」というメモが入っていたりする。他には予定、重大任務、夢、小説ネタ①、小説ネタ②、遊び(一人用)、遊び(友達と)、個人研究、欲しいもの、笑いネタ、人生のコツなどもある。正直、今回の課題で何を書くべきか何も思いつかなかったので今日から『自分の一日感想』というメモを追加することにする。アドリブのできない男だとわかった。そんな一日、それが今日。
さよならだけが人生
杉山 知紗
服を捨てることにした。先日、友人たちからいらなくなった服や靴を貰い受けた。といっても、破れたり汚れたりしたわけではなく、ただ服を買い込んで着なくなったものや想像していたものと違ったから、と二・三度履いたきりのものを頂戴したまでだ。それに比べ、私が捨てる服はノーブランドだし、いつ買ったものかも分からない。そんな服を大量に、ゴミ袋へ詰めた。思い返すことはなくもない。この服でどこどこへ行ったなあ、何々をしたなあ・・・など。思うは三秒。洋服棚を占めるは5割。さようなら。私はゴミ袋を結ぶ。
この世は謎だらけ
大野 純弥
韓流ブームが続いている。レンタルビデオ屋で働く僕は日々その熱気を肌で感じる。ジジイやババアは勿論だが、最近じゃあ女子大生が顔をホクホクとさせて十枚近く韓国ドラマのDVDを借りていくのだ。アホじゃないかと思うが、今や売り上げの大半は韓国モノだというから文句も言えない。(ちなみにそれを遥かに上回って売り上げているのがAVである)それにしても、こないだ五十代のおばさんがすまし顔で「”ちょっとエッチな僕らの恋愛”ってタイトルのDVDありますか」と聞いてきたのは寒気がした。
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最悪の一日
春日 菜花
そいつは一言、「めんどうくさい」と言い放った。その時の自分と彼女は心底呆れた顔をしていただろう。せっかく遠出したのだから、どこかに寄って帰りたいと思うのは女の性か。私はそいつの一言で、彼女が落胆した顔を見せるのがひどく嫌だったし、その言葉を平気で言えるそいつも嫌だった。最後は彼女もふてくされるのだから、私はますます気が滅入った。
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テキスト感想
・・・・・・・・・・・・・ 『網走まで』を読んで ・・・・・・・・・・・・・
 『網走まで』、この作品について作者・志賀直哉は、「創作余談」においてこのように回想している。
 或時東北線を一人で帰って来る列車の中で前に乗り合していた女とその子等から、勝手に想像して書いたものである。これは当時帝国大学に籍を置いていた関係から「帝国文学」に投稿したが、没書された。原稿の字がきたない為であったかも知れない。
明治41年、1908年に書かれた作品ということで、100年以上も前の車内観察。作者は、何を伝えたかったのか。この観察から、時代や社会状況はわかるのか。
16日ゼミ、この日参加の4名の皆さんは、どう感じたのでしょう。
母子の会話に違和感
内田 悠介
 この時代では当たり前のことかもしれませんが、母親が幼い子に対しても言葉づかいが丁寧なことにすごく違和感を感じました、というかうっとおしく感じました。
母子の事情を想像したくなった
春日 菜花
車内”観察”というだけであり、主人公の心情について書かれている所は少なかった。しかし、周りの状況や音の一つについても書かれているために、鮮明に情景を浮かべることができた。その後母と子のやり取りも同様だが、主人公の考察が入っていることで母子の関係だけでなく、どういった事情で遠く離れた網走まで行くのかを想像したくなった。
 
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端書(はがき)にはじまりを感じた
杉山 知紗
母と子らのいたって日常的な話である。それをどうしてここまで小説的に、物語的に書けるのだろうか。私には不思議でならない。
車中、ということで大変狭い空間の中のちょっとした動作と会話で成り立っているが、なぜか物語に広みを感じる。おそらく時にちらりと見せる”僕(主人公)”、母と子らの日常があるからだろう。例えば「又おつむが痛みますよ」「いやだあ、玉のでなくちゃ、いや」など子の台詞でおつむが痛みがち、玉のがお気に入り、とわかる。しかし特に広みを感じさせるのは、やはり端書だろうと私は思った。終わりのはずが、まだ何か始まるような気をさせるのはすごい。
耳を澄ませば
大野 純弥
池袋まで西武線なんかに乗っていると、やはり他人の会話が耳に入ることがよくある。フラダンスだか、パッチワーク同好会だか知らないが、四、五人のおばさん達がその場にいない人の悪口なんかを口にしているのを聞いてしまうと、何だかいたたまれない心持になる。さらにまた、その内の一人が降りると今度はその彼女が標的になったりして・・・。偶然居合わせた自分は当事者達よりも内情に詳しくなってしまう。電車内というのは本当に突発的な、通り魔的な爆発力を持つ特別な空間だ。「いじめかっこ悪いよ」と一言言いたくなったもの。
『網走まで』をどう読むか
編集室
 この作品は、文字通り車内観察である。ある夏の夕刻、私は日光に遊びに行くため上野から青森行きの列車に乗った。同じ席に乗り合わせたのは、赤子と幼い子供を連れた若い母親だった。時代は、不況でも富国強兵策を押し進める明治の末。極楽トンボの私は、今は落ちぶれた印象を受けるが、かつては美しく、教養もありそうな、母親に同情する。聞けば「網走」という最北の地にまで行くという。都会で気楽な生活を送る私には、想像も及ばない未開の地だ。そんなところに小さな子供を二人も連れ旅するというのは・・・私は、母子を哀れに思い、何か親切をしてやろうと思う気持ちから、頼まれたハガキを読んでもいいのでは、とも思った。たったこれだけの話から、何が見えてくるのか。
 志賀直哉の作品を私小説と評する人たちがいます。社会を描かないと非難する作家や批評家もいます。が、編集室の見方は、まったく反対です。志賀直哉の観察作品群は、時間を超えた人間・社会観察と思っています。
この『網走まで』について言えば、こんなふうに読みました。私が乗った列車は、日本の時空列車で車内観察は歴史の一コマ。相席になった母子は、この時代の国民。話にでてくる大酒飲みの父親は、為政者となります。植民地時代は、終わっているのに、欧米文明に悪酔いしたまま、脱亜を目指し、国民を侵略戦争にと駆り立てている。この車内観察が、なんとなく重苦しいのは、明治43年の大逆事件(天皇暗殺計画らしいというだけで12名を翌年死刑にした事件)を感じるからかも知れません。
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テキストの謎を探る
『網走まで』について(2011・5・20)
「下原ゼミ通信」編集室

 1947年(昭和22年)に細川書店版で出された『網走まで』あとがきで、作者志賀直哉は、『網走まで』についてこのように話している。(全集文を編集室が現代表記に)
【細川書店版「網走まで」あとがき】「帝國文学」没書顛末記 抜粋
 発表した順からいうと、この小説が私の処女作ということになるが、私にはそれ以前に、「菜の花と小娘」というお伽話と、「或る朝」という小品があって、初めて一つの話が書けたという意味では「菜の花と小娘」を、また、書く要領をいくらかでも会得したという点では「或る朝」を私は自分の処女作と思っている。しかしまた、多少小説らしい形をしたものとして、かつ最初に発表したものとして、やはり、この「網走まで」を処女作といっていいようにも思い、つまり、私には色々な意味での三つの処女作があるわけだと考えている。
 明治三十九年に、二十四で学習院を卒業し、東京帝国大学に入り、そのよく翌年くらいにこの短編を書いた。その頃、大学内に「帝國文学」という雑誌があって、それに載せてもらうつもりで、その会員になったが、幾月経っても載らず、ついに何の音沙汰もなく、没書になった。
 「帝國文学」の原稿用紙というのが、今思えばまことに変なもので、紙を縦に使って、一枚がそのまま、雑誌の一頁になるように出来ていた。編輯には便利なので「白樺」をはじめた時、真似して作ってみたが、使いにくく、すぐやめてしまった。十七八行、五十字詰くらいで、今の四百字詰の原稿用紙に比べると倍ほどの字数になる。従って一コマが小さく、とくに上下がつまっていて、大変書きにくかった。その上、ロール半紙で、表面がつるつるし
ているし、それに毛筆で書くのだから、私のような悪筆の者には非常に厄介なことだった。清書だけでも人にしてもらえばよかったものを自分で書いて送ったから、編集者はそのきたない原稿を恐らく読まずに、そのまま屑籠に投げこんでしまったのだろうと思う。今はそれを当然のことだと思うが、当時は一寸不快に感じ、会費を一度払っただけで脱会してしまった。明治四十三年に「白樺」を創刊したとき、私はその第一号にこの短編を載せた。二年ほど前から回覧雑誌を出していたから、作品は他にも三つ四つできていたが、創刊号にこれを選んだのは、没書になった故に、わざと出したように思う。
 小宮豊隆君が新聞か雑誌かでほめてくれた。月評を書くのでいろいろなものを読んだが、この小説へきてようやくほっとしたというようなことが書いてあった。ほめたといってもその程度の賛辞であったが、私はそれをうれしく思った。個人的には未だ小宮君を知らぬ頃のことだ。・・・・・・・・・。(岩波『志賀直哉全集』)

 『網走まで』には大きな謎がいくつかある。作品を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(一九一○)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。旅の目的地にしたのか。大いに疑問に思うところである。そんなところから、作品検証としては、まず題名の「網走」から考えてみたい。
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 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。(屯田兵として利用する)。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策、富国強兵の一環として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って
「網走」という駅は、存在していなかったのである。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
 この作品はどう読んでも網走駅までの印象は強い。「網走まで」は駅までではない。そう言われても、では「なぜ」と問いたくなる。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」についてもう少し検証してみることにする。

 『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。直哉がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、
「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」
と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも
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生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。
もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
 しかし、四十一年後、一九五一年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、それほど深い思い込みでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。

 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わって完全なやくざ映画である。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人で日本刀を片手に、多勢の悪いヤクザが待つ敵陣に乗り込んでいく。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
どうせ おいらの行き先は ~ 網走番外地
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 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく警視庁の機動隊や国家権力、そして大企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十年末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたの
か。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても遠いところだった。
 余談だが、1965年、昭和40年、今から43年前だが、私は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためだった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕
事、途中で逃げ出す学生が多いから、と覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)に組み込まれた。住み込み三食つきにバイト代500円、それに単位修得。一石三鳥になる。(当時、バイト日給600~800円が相場)で、躊躇なく決めた。
 信州の山奥で育った私は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れがあった。7月の前期終了日、主任教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。釧路が一番多く数名、あとは稚内や網走、他、知らぬ土地だった。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名。地図でみると根釧原野の中ほどにある。釧路から近い、とわかった。が、どんなところかは、想像もつかなかった。
 とにかく行けばわかるさ、で、友人たちと上野から「青森行き」夜行列車に乗った。大学一年18歳の夏だった、「計根別まで」の旅。記憶では、翌朝早く、青森駅に到着、青函連絡船で函館。そこから札幌までが、長かった。札幌で時計台を見に行きラーメンを食べた。再び列車で釧路に向う。深夜、倶知安という駅に着いた。寒いので、うどんを食べた。計根別に着いたのは昼過ぎ。上野を出てから二日かかった。農協の職員と、酪農家の家の人が待っていて、学生は、各農家一軒に一人ひとり振り分けられた。私が働くことになったのは、開拓13年目の酪農農家だった。小学生の子供が三人いる五人家族だった。トラックから下りたところは根釧原野の真っ只中。西武劇の丸太小屋を思わせる、家と20頭ほどのホルスタイン牛がいる牛舎がぽつねんとあるだけだった。夕焼けに染まっていく空が以上に広く、なにか心細さを感じたことを覚えている。まだ、北海道は遠かった。
 昭和40年でも、こうだから、明治の時代には、どれだけ大変だったか、見当もつかない。その意味から、母子三人の網走行は矛盾が大き過ぎる。
【北海道の思い出】北海道には、学生時代、牧場の夏季アルバイトに行った。根釧原野の真ん中にあった開拓農家。朝5時起床して十数頭いる乳牛の餌やりと糞掃除、そのあと搾乳。7時過ぎ朝食。ごはんに牛乳をかけたりバターを乗せて食べた。8時からホップかにんじんの魔引きとジャガイモ掘り。午後は牧草集めとサイロ積み。夕方は馬で近くの川から風呂の水運び。とにかく大変だった。が、いまは懐かしい思い出だ。
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土壌館・実践的投稿術 
 
文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。
 もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。
 土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞の投稿欄に寄せつづけています。なぜ投稿欄かというと、投稿欄は字数制限があるからです。500字は人が飽きなく読む字数です。文体を簡潔にする工夫が必要です。
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◆ 2006年(平成18年)7月 28日   朝日新聞「声」欄    
カエル飼って子供ら変わる        
 
 3月19日の「声」欄で、柔道の朝稽古のランニング中に道路を横断していた大きなヒキガエルを捕まえた話をした。あれから4カ月、彼はまだ道場にいる。近くに安全な場所がなく柔道を習いにくる子供たちがなついたので、何となくそのまま飼っているのだ。カエルを飼って色々分かったことがある。まず、餌とりがことのほか困難だ。郊外の住宅地なら餌となる虫の捕獲が容易だろうと思っていた。だが、意外と虫がいない。
我が家のある団地周辺は、以前は自然が多かったのに、建て替え後は綺麗に整備され毛虫一匹這っていない。「夜ならば」と街灯を見てまわっても無視をめったに見かけない。近くにクロバーと雑草が生い茂る野原がある。ここならと足を踏み入れた途端、警備員が現れ、「この敷地には入れません」と止められた。
こんな食糧難状況でも、ヒキガエル君は何とか生きている。子供たちが毛虫やハチ、ガを持ってくるのだ。昨年までは道場に迷い込んだだけでも大騒ぎするほど毛嫌いしていた彼らが今では虫と聞けばゴキブリでも我先にと争って捕まえに行く。
稽古が終わると、子供たちは虫取り網を持って寄るの住宅街に飛び出して行く。見送りながら私は、この先、どうしようか考えている。
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投稿術バックナンバー
No.1 「医師への金品 規制できぬか」   1994・2・2   朝日新聞「声」欄
No.2 「カラー柔道着 いいじゃないか」  1994・5・17  朝日新聞「声」欄
No.3  「立会人が見た 活気ある投票所」 2009・9・2    朝日新聞「声」欄
No.4 「勧誘の仕方 改められぬか」   1994・10・15 朝日新聞「声」欄
No.5 「団地建替え 住めぬ人びと」    1995・9・24 朝日新聞「声」欄
No.6 「地域に必要な 子供たちの場」   1996・11・5   朝日新聞「声」欄
No.7 「燃える家々に 戦争を実感」MoMo 1999・4・3   朝日新聞「声」欄
No.8 「嘉納」の理念 世界に発信を   2009・3・10   朝日新聞「声」欄
No.9 「50歳の1年生 師の撮影行脚」   1996・9・16  朝日新聞『声」欄
No.10 「教師の創意で 生徒に楽しさ」  1995・3・15   朝日新聞「声」欄
No.11 「児童の作文大切にした恩師」  2011・1・8    朝日新聞「声」欄
No.12 「カエル飼って子供ら変わる」  2006・7・28   朝日新聞「声」欄
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・166―――――――― 12――――――――――――――――
2011年読書と創作の旅の記録
5月 9日ゼミ  出席者9名  欠席者4名   希望カード13
5月16日ゼミ  出席者4名  欠席者9名
課題提出状況 5月9日の提出分
時事評「3・11」4本 → 藤塚、武田、會澤、春日
「ある日の自分」5本 → 5本 三矢、藤塚、武田、春日、柳瀬
『菜の花』感想9本 → 柳瀬、藤塚、内田、大野、杉山、武田、會澤、三矢、春日
「自分の一日」8本 → 柳瀬、藤塚、内田、大野、杉山、武田、三矢、春日
  
課題提出状況 5月16日の提出分
時事評(原発事故) → 春日、内田,
「自分の一日」   → 杉山、春日、大野、内田
『網走まで』感想  → 杉山、春日、大野、内田
              
名作読み 5月16日現在3本
1.嘉納治五郎「青年訓 精読と多読」、2.原民喜「夏の花」3.「日本国憲法前文と第九条」、
テキスト読み 『菜の花と小娘』『網走まで』
時事評・議題
1.「日本国憲法の改正について」 2.原発事故問題について
お知らせ
■ 5月23日 テレビ東京PM10:00放映「鈴木先生」を応援。視聴率上昇中。
原作・武富健治(読書会会員)
         
■ 6月25日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第245回読書会
作品『分プロハルチン氏』池袋西口・勤労福祉会館 第7会議室 (下原ゼミ生0円)
※ 詳細並びに興味ある人は「下原ゼミ通信」編集室まで
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編集室便り
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
☆ゼミ評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出(ゼミ誌原稿)+α = 100~60点(S,A,B,C)
☆課題提出は、執筆力もあがり点数もよくなる。まさに一挙両得です。
課題は、「車内観察」「自分の一日観察」「社会観察」など。
ゼミ雑誌作成について
ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。テーマは、志賀直哉の観察作品をテキストにします。た車内観察作品とします。前期課題作品です。提出しながら完成度を高めてください。
ゼミ雑誌編集長 → 武田 結香子さん  
ゼミ誌副編集長 → 藤塚 玲奈さん  
      ゼミ誌編集委員 → 他ゼミ員全員
ゼミ雑誌作成計画
Ⅰ.申請方法  6月25日 ゼミ雑誌作成ガイダンス 必ず出席してください。
  
  ゼミ雑誌作成の説明を受け、申請書類を受け取って期限までに必ず提出する。
Ⅱ.発行手順 ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月15日です。厳守のこと。
  以下① ~ ③の書類を作業に添って提出すること。
【① ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】
1.【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢/出版編集室に期限までに提出
2. ゼミで話し合いながら、雑誌の装丁を決めていく。
3. 9月末、ゼミ誌原稿締め切り。
4. 印刷会社を決める。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。
5.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。
6. 11月半ばまでに印刷会社に入稿。(芸祭があるので遅れないこと)
7. 雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。
8. 印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。
注意 : なるべくゼミ誌印刷経験のある会社に依頼。(文芸スタッフに問い合わせ)
     はじめての会社は、必ず学科スタッフに相談すること。
ゼミ誌原稿は課題から
ゼミ誌掲載の原稿は、授業課題(テキスト感想・車内観察・自分観察・時事評)とします。
自由作品は、提出の遅れ、夏休みでのやっつけ原稿など、加えて合評ができないためです。
課題提出のススメ
2011年読書と創作の旅は、大変な旅立ちとなりました。大震災、終わらない福島原発事故、浜岡原発停止、風評被害。国外に目を向ければ、アフリカ諸国の自由を求める内紛、テロ首謀者の最期。世界もまた風雲急を告げている。私たちにできるのは、森羅万象をしっかり観察し記録することです。この旅を有意義なものにするためにも、課題はきちんと提出しましょう。車窓風景、車内風景
テキスト=時空列車の車窓『鳥取』『出来事』『正義派』『網走まで』『『灰色の月』『夫婦』
    =風景観察『菜の花』、犯罪観察『兒を盗む話』、裁判観察『范の犯罪』

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