文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.172

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2011年(平成23年)7月4日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.172
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20 6/27 7/4 7/25
  
2011年、読書と創作の旅
7・4下原ゼミ
7月4日(月)の下原ゼミガイダンスは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. 2011年読書と創作の旅 通信172配布 出欠 連絡事項 
2. 6・27ゼミ報告、司会指名
 
 3. テキスト読み・車内『灰色の月』回顧日常『ひがんさの山』
4. 世界・名作読み、(日常観察作品)
    
3・11東日本大震災並びに福島原発事故で被災された皆さま方に心よりお見舞いい申し上げると共に被災地の一日も早い復旧と復興をお祈り申し上げます。
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2011年読書と創作の旅 6・27ゼミ報告
森閑、所沢校舎 
   ゼミ出席者数、最低記録更新(出席者3名、病欠早退1名) 
これも3・11の影響だろうか、航空公園駅で乗車したバスは、私を入れて3名。これまでは最低でも数人はいた。悪い予感がした。案の定、所沢校舎は、閑散としていた。まるで、早い夏休みに入ったようである。文芸棟は、更に森閑として廊下に足音のみがこだます。
遅れる復興、見通しつかない原発事故、混迷する国会。学生たちも、安心して学校に来られないのかも知れない。ゼミは、こんな世の中を反映してか、今年最低記録を更新した。(1名、課題提出と病欠届けあり) 最も、授業には最適の人数。
司会進行は、春日菜花さんに (2巡目)
この日の司会進行は、春日菜花さんにお願いした。最小の出席者だったが、合評、課題音読、テキスト朗読の配分を適切にこなした。なお、合評については、参加者に習慣化がついてきたので次のステップにすすみます。次回からは感想のみでなく文の添削、直しを進言してください。お互い切磋琢磨して作品を完成する。これも、ゼミの目標の一つです。
テキスト読みは『濠端の家』
 日常と生き物観察の混合作品ですが、大きなテーマとして神の問題があります。あなたなら、この場合どうするのか。救うのか放置するのか。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.172―――――――― 2 ―――――――――――――
ゼミ誌編集報告(武田編集長)
ゼミ誌・題名 → 候補3「ノックオン」「すべての猫にJPS」「冷蔵庫待機中」
         全員通知で、応募は3名。27日ゼミ審査では「ノックオン」が有力
自由創作13名 → 希望7名
         残り6名は、課題作品のみか。なしのつぶて
今週中に、もう一度全員にメールを送り確認をとる。返答なければ上記の件で、ゼミ誌編集をすすめます。(ちなみに前回の返答は、5名でした)
テキスト・いのち観察『城の崎にて』感想   司会進行・春日
武田結香子 ――― 「人間は欲張りなのかも・・・」
春日 菜花 ――― 「偶然のせいで」
杉山 知紗 ――― 「日常の隣りに佇むもの」
合 評 「ゼミ通信171号」掲載の提出課題の音読(本人読み)
車内観察作品
武田結香子 作「夢見る電車」同感できる。最後の場面がオチになっていて面白い。
杉山 知紗 作「ビニール傘」江の電の車内、実際に体験。ほのぼのとした印象。
春日 菜花 作「静かな闘い」友人が見た光景。聞いた話なのに細部まで描けている。
春日 菜花 作「電車が好きだった少年」お供え物を見て想像した。プラモデルが象
徴的。ファンタジーぽい。世にも不思議な物語。
何でもない自分の一日の記録
武田結香子 作「耳を澄ませば」夜の音はいろいろ。雨の音のとろがよかった。
武田結香子 作「本当の私」自分は誰 ? 大人になればわかるのか。
春日 菜花 作「或る一日」テキスト『或る朝』を彷彿させます。家族のことがよく書
けている。
時事評 (災害・原発・憲法・君が代・人生相談)
杉山 知紗 作「3・11に想う」原発事故を、咽元過ぎれば、にしてはいけない。が、
毎日の生活のなかで、いつまで注意しつづければいいのか。
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.172
7・4ゼミプログラム
1. ゼミ開始 「ゼミ通信172」配布  出欠 全員参加のときは撮影  
       6・27ゼミ報告 その他
2 司会指名。本日は「      さん」にお願いします。.
司会者は、自分流に参加者公平の音読範囲、発言を心がけて以下をすすめてください。
3. ゼミ雑誌編集について タイトル、追(案)など 正副編集長
4. 課題提出作品の発表(出席者作品)、音読と合評
 合評留意点 ①わかりやすいか ②全体のモチーフはあるか ③伝わるものがあるか
合評は、これまで感想評のみでしたが、習慣化が進んだので文章にも気をつけてください。ゼミ授業は、あくまでも人に読んでもらう文をつくる稽古です。独りよがりになっていないか。もっといい表現方法はないか。忌憚ない意見を出し合ってください。
5. テキスト読み・車内観察作品と日常観察作品
 テキストは、車内観察『灰色の月』
テキスト外として・車内観察作品『三四郎』、日常の回顧作品『ひがんさの山』
6. 世界名作・日常観察作品
6月の歌、雨
先日、名作読みでランボーの詩編「谷間に眠る者」を読みました。このフランスを代表する天才詩人ランボーをだせば同じくフランスのポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)を挙げないわけにはいきません。前号の付録で、この詩人の「忘れた小曲 その七」を紹介しました。が、梅雨の季節には、やっぱり同じ『無言の恋歌』にある「忘れた小曲 その三」のこの詩です。堀口大学訳
雨の巷に降る如く  われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る  この悲しみは何やらん ?
   やるせなの心の為に  おお、雨の歌よ !
   やさしき雨の響きは  地上にも屋上にも !
 
消えも入りなん心の奥に  故なきに雨は涙す。
 何事ぞ!裏切りもなきにあらずや ? この喪その故の知られず。
   故しれぬかなしみぞ  げにこよなくも堪えがたし。
   恋もなく恨みもなきに  わが心かくもかなし。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.172―――――――― 4 ――――――――――――――
テキスト『濠端の家』感想 所用時間15分 
 この作品は1925年(大正14年)1月に発表された。【創作余談】においては、「生き物を書くことが好きで、この小説も大部分それである」と述べている。
 解説・前半は、自己省察、自己激励の日記ふうのメモである。「自分は今、追分に立っている、自分は自分だけになってこの追分で正しい道を歩いて行かねばならぬ」「総ての存在と自分を一つにする事である」というようなことばがみえる。「自分」ということばがさかんに使われている。「自分は意識せず理想通りのものになろうと思っている、無意識でしていることが理想通りでありがたいと考えている」という志賀文学にとって鍵になることばもすでにここに書きつけられている。
 後半が、「濠端の住まい」もっとも原初的な原稿である。子をかばって猫に殺された母鶏、その猫をおとしにかけた隣りの人、「どの者(猫も人も)悪くはない。しかし、事がらは悲しい」と思う「自分」、そういう関係がこの草稿では所感のかたちであらわに提出されている。
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 テキスト『濠端の家』は、大きく分けて二つの観察から成っています。前半が自分と住まいです。後半は動物観察です。『城の崎にて』では、偶然によって失ういのち観察ですが、この作品では意志によって失ういのち観察となっています。大きなテーマとして神の問題がありますが、あなたの神度はどうですか。猫の死を見つめるだけ。猫を助ける行動。
一番に考えるのは鶏のこと
杉山 知紗
 美しい日常の話だ。耳元でぶうんと飛ぶ虫の音や肌に感じる涼しさやぬるさがよく伝わる。鶏についても、今まさに目の前で飛びはねているかのような具合だ。だからこそ、母鶏の死についてもリアリティがあった。母鶏が血を流して殺される、夫婦が怒る、猫が捕まえられ、殺される。一連の流れは非常に分かり易く共感しやすいが、猫の鳴き声を聞いていた主人公は心ひかれてゆく。私は主人公の気持ちが分からないでもなかった。人間は目の前にあるものに心動かされるのだ。それがどんなに理不尽であれ必死であればあるほど。
 しかし私は、作中で一番に考えるのは鶏のことだ。殺され、夫婦が怒ってくれる。しかし、それは子鶏を育てるやつがいなくなったから・・・。さみしいものだと。
自然の原理に従って、生きている
武田結香子
 生物が生きていくためには、何かの命を犠牲にしなくてはならない、ということを改めて教えられているような気がした。どのいのちも奪うことなく生きるなんて不可能である、と。
 何事も私たちは当たり前のように感じているが、実際そんなことはなく、自然の原理に従って、自身の本能のままに何かの命をもらい生きている。それは日常にありふれているのだ、と教えられたような気がした。普段とあまり変わりない生活をしているように見えて、実はその端では、大きなドラマが展開されているのだ、とも思う。私自身は、そのドラマを見逃していると思った。日頃の観察からこんな壮大なテーマが見つかるとは思っていなかったので、少し、あっけにとられる小説だと感じた。私も、もっと身近な変化をこの目で見て、確かめて発見できたら、と思う。
―――――――――――――――――― 5――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.172
自然界なら人間は頂点に立てない
春日 菜花 
 今現在、この世界の生き物の頂点にいるのは人間だろう。肉食であり、百獣の王とされているライオンでさえ、武装した人間には勝てないのだ。知能を持って生まれた私たちは、生き物の頂点に君臨し、おのおののその時の意志で他の生物の運命が決まる。
 しかし、この作品は”人間界”で起こったことを描いているのであり、もし毎日が”自然界”であったならば人間は頂点から途端に崩れ落ちるだろう。例えば、何も身を守るものがない状態でジャングルや動物達のあふれた場所に逃げ込んだらどうなるか。人間などすぐに殺されるだろう。猫のような鋭い爪も、犬のような鋭い歯ももってはおらず、脚力でさえ勝ち目などないのだ。私たちの日常から考えれば、普通に生きていれば動物に殺されることなどまずない。しかし、動物である彼らが人間に対し脅威をもたなくなったら ? 私たち人間とて、彼らの意志で殺されかねないだろう。
課題・車内観察
熱海百景
藤塚 玲奈
 のぞみ645号は滑り出した。さすがに平日の新幹線はガラガラである。小さな音もよく響く。例えば、連休中の車内ではいとも簡単にかき消されてしまう弁当の包みを開封する音だとか、手荷物に加えられた或る土産の入った紙袋がこすりあわされる音だとか。
 私の乗り込んだ2号車では数人の会社員風の男性が各々くつろいでいた。ナンバープレートを聞いている人や、窓際にお茶(緑色のラベルは無機質なこの空間の中では本当によく生えている。)を置いてコツコツつついている人などいる。目的地までは、このずんぐり胴の長い乗り物が私たちの脚だ、身体だ。そして、その同じ脚をわたしは、彼らと共有しているのだ。ちぐはぐな動作を続ける彼らを見つめていると、なんだか奇妙に感じられた。
 曇天は朝から晴れない。ぼうっとしながら窓の外を眺めていると、ややあってトンネルに入った。ゴオッと勢いよく音をたててトンネル穴に入るこの瞬間から抜けるまでの数分間が非常に好きだ。抜けると熱海の街が出迎えてくれるからである。なんとなくというか、取り立ててほめ立てる言葉をかけるような景色ではないのだろうけれど、海の見える街である、というのと少々さびれたホテル、旅館の看板が果物のようにお行儀よく並んでいるのを見るとどうもヒイキ(贔屓)してしまう。遠くに見える大きな灰色の上には、波間はなく、しらすのような白い波すらも立っておらず、穏やかである。ごつごつしたテトラポットの脇を通り過ぎ行く赤い小さな遊覧船を横目に私は尻ポケットから切符わ取りだした。係員がぺこぺこ頭を下げながらキップの確認をしに来たのである。
「ご協力、ありがとうございました」
係員が去ると目を閉じた。次停車駅の「三島」前では、いつも眠たくなるのだ。
 夏本番、快晴の日には浮き袋が幾つ浮かぶであろうか。ホテルのベランダに干されるタオルはきっと色とりどりなのであろう。初夏、じんめりとした天気の続く近頃にしてみると、まだそれは光のことであるが、閉じたまぶたの裏にはその光景が驚くほど鮮明に描かれた。足元に置いた『風天堂』の紙袋(中身はクリームパンだ)がカサカサ鳴った。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・172 ――――――― 6――――――――――――――――
課題・何でもない一日の記録
虹の彼方に
武田結香子
 ゼミが終わって帰ろうとしたら、小雨が降っていた。やっぱり降ってきたか、と思って空を見上げたら一部だけ青空が覗いていて、そこには綺麗な虹が架かっていた。久しぶりに見た虹に鳥肌が立つ。ふと頭に流れたのは「オズの魔法使い」で有名な「Over the rainbow」。懐かしくて優しいメロディは、その日ずっと私から離れることはなかった。気になって歌詞を調べてみた。
“虹の向こうのどこか空高く、子守り歌で聞いた国がある”
“虹の向こうの空は青く、信じた夢すべて現実のものとなる”
絵本の世界観をそのまま持ってきたような言葉が並び、単純な言葉で簡単に伝えるからこそ、心に残るのだな、と思った。そのあと読みを進めていくと、少し引っかかる文章になった。
“目覚めると僕は雲を見下ろし(中略)僕はそこへ行くんだ”
“虹の向こうのどこかに 青い鳥は飛ぶ 虹を超える鳥たち 僕も飛んで行くよ”
 この「僕」は虹の向こうへと行ってしまったのだろうか。馴染みやすいメロディで流してしまいそうだが、意外と重い言葉のようにも聞こえる。優しくて単純な言葉の裏には、もしかしたら大人でもドキッとするようなメッセージが隠されているのかもしれない、と感じた。
ひとりごと
春日 菜花
「なにか言った?」と、ある日兄に言われた。
初めてそれを言われたのは中学生の時だ。その時は、自分自身がよくわかっていなかった。「なにも言ってないよ」そう答えると、こちらを振り向いていた友人は前を向いた。聞き間違いでもしたのだろうと、私自身気にすることもなかった。だが、「なに言ってるの?」と今度はあきれた顔で言われたとき、一気に顔の熱が上昇したのがわかった。
なにか言った?とは相手に内容が伝わっていないことだ。けれど、なに言ってるの?は内容を聞かれたからそう問いかけられたということだ。そして、口に出した覚えはなくても、私はそれに心当たりがあった。だから恥ずかしさのあまり、友人になんでもないよと大声で叫んだ。
どうも私は思っていることや、考えていること、台詞などを読んでいるときにぼそぼそと口に出しているようなのだ。読んでいるときは夢中になってしまい全く気付いていない。ただ、ふと我に返ったとき、今口に出していなかっただろうかと思うときが度々ある。夢中になるあまり、意識が移ってしまうのだろうか。現に、今これを書いている最中でも何度かぼそぼそと声に出していた気がする。その内容は自分の感想だったり、台詞だったりするのだから、聞かれてしまうと穴に隠れたくなるほどだ。
だからそれを兄に言われた瞬間、私は再びあのときのようになんでもないと叫んだ。
地図おんち
杉山 知紗
先日、江古田で迷子になった。
 先輩方と食事の約束をしていたのだ。それじゃあ午後六時にカフェ・トレボンに集合で、
―――――――――――――――――― 7 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.172
と。事前にカフェ・トレボンを地図検索しておいて、ふむふむここね、としっかり確認し、当日を迎えた。まあ、家を出た時点で既に三十分の遅刻は決定していたのだけど……。
 そして、迷子になった。なんというか、自分の頭の悪さを甘く見すぎていたのだと思う。何度も来たことのある街だというところに余裕ぶっていた節もあっただろうか。それ”らしい”道をずーっと歩いても歩いても辿り着かない。あれ、徒歩五分……駅から徒歩五分って書いてあったよね、と自問自答するも、地図すら覚えてないのだからそれすらはっきりしない。途中地図が描かれた立て看板を見つけるも、よくわからない。他のそれ”らしい”道にも言ってみるが、どこまでいっても辿り着かない。もう空は暗いし、ヤンキーのような人々がそのへんにたむろしているし……。
 もうそろそろ二十歳、という言葉を脳裏によぎらせて泣きそうになりながら、携帯の地図検索を使った。充電が切れた。終わった。
 うろうろうろうろしつつ、もう家に帰って充電して先輩に「すいません、迷子になって充電も切れて無理でした!」と謝罪して諦めるべきか……。とも思ったのだけど、一応交番に行くことにした。警官は少し面倒くさそうに「喫茶店の住所分かる?」と聞いてきた。「分かりません」と答えたら少し驚いた顔をした後、地図を開いてくれた。短いやりとりではあったが、胸が締め付けられた一連だ。その後ようやく場所が分かり、意気揚々と向かったところで友人と会って驚いて、また場所を忘れるなどということをさておく程度には。
 結果的には、辿り着いた。五往復ほどした気がする、駅から一本道を曲がってすぐ横にあるビルの二階だった。一時間遅刻した私に、先輩は朗らかに「心配したよ」と声をかけてくれた。本当に申し訳なかった。
 ゆとりだのなんだの世間は言うが、これは本当に私だけ頭が悪くふがいないだけなんだろうなあ、と思った。
創作・親父が死んだ日
藤塚 玲奈
 線香立て続けていればいいんだから、こっちはしまっておくわね。妻の今日子がそう言って渦状の線香を片付けた。俺は同じ線香ならそちらの方が風流でいいのに――蚊取り線香なんて夏にしか味わえないものじゃないか――と思ったが神経質になっている彼女の言動を遮ればしばらくぎくしゃくしてしまいそうな気がしたのでやめておいた。
 俺の親父は今朝方死んだ。妹の泰子はいつまでもぐずぐず泣いており、おふくろはというと介護からの解放感と安堵感を帯び、しかし未だに現実を受け入れられないというのもあって現段階で動き回れるのは今日子だけになってしまった。俺は必然的に「喪主」になる。
「兄貴のこの本、どうするんだ」
正信叔父(親父が一番可愛がっていた弟だ。)が親父の書斎を舐め回すかのように眺めながら言った。親父は文学少年だった。いや、正確に言うならば「文豪マニア少年」かもしれない。作品よりもその作家の暮らしぶりや経歴なんかを網羅していて、俺や泰子に語らうことがままあった。有名なものから、重箱の隅をつついた様な知識まで、文豪に憧れ、しかも喫煙可だった親父は、一体どんなルートで手に入れたのか今はなき「敷島」の香りに酔いしれたこともあった。
「棺桶に気に入っていたものを何冊か入れておきましょうか。後はうちの娘が貰っていきたいと言い出すかもしれない」
「形見ってとこになんのかね、娘何歳になるんだっけ ?」
「十八ですよ」
「ほー、年頃だね。うちはそんくらいの年の子いねえからなあ。孫がいねえもんな」
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・172―――――――― 8――――――――――――――――
 叔父は苦労人だ。息子(つまり俺の従兄)は建設会社を営んだが倒産してしまった。連帯保証人であった叔父は今でも借金を返しながら暮らしている。挙句の果てに息子は蒸発してしまった。
 瑞貴は制服を吊るしながら
「いただける本は貰っておきたい」と、言った。縁側のすぐ横で親父は眠っている。
「太宰って自分の死体があがったの、誕生日だったんだよね」
「こういう時にやめなさい」
「こういう時 ? 寧ろおじいちゃんの目の前なんだからいいじゃない」
「それもそうだけどさ、あんまりそういう話はするもんじゃない」
 瑞貴は、縁側に足を投げ出してぶらぶらさせながらまだぶつくさ言っている。
 昔親父が語った文豪のエピソードの中に、確かその太宰治のものもあった。親父は太宰があまり好きじゃなかったけれど、その時は少し興味深そうに、なんというか神秘的なものを扱うかのように話していた。
―― 例えばだ。父さんの命日がお前等の息子だったり娘だったりが生まれる、つまり誕生日とか誕生予定日とかと重なったらどう思う ?
 泰子はそういうオカルト話が苦手だ。耳をふさいであーアーと言いながらおふくろの胸元に飛びつきに行く。俺は親父と二人きりになった。
―― そんなの偶然だって思うよ、俺は。
―― そうか、つまらんな。
―― だってそうじゃないのか ? 父さんだってそういうのは偶然だって片付けるタチじゃないか。
 あの時親父が何か言いたげにしていたのを、何故か鮮明に覚えている。気が抜けたような雰囲気を醸し出していた。そんな感じだ。どこか遠いところを眺めていたような、そんな。だからと言ってその時自らの死期についてあれやこれやと深く思案していたのか確かめたい訳じゃない。詰問したい訳でも、だ。
「瑞貴、数珠は持っているか」
「ううん、持ってない。お母さんが後で用意しとくって」
「そうか」
「うん」
今日がその命日というやつだ。
 白い布の下で親父は、何を見ているのだろう。置いてきぼりにされた蚊取り線香の香りが一瞬、鼻の下をかすめた。
土壌館日誌      何でもなくはない一日の記録
 6月26日、日曜日 曇り時々小雨 普段は朝稽古があるが、今日はなし。県の接骨医師会主催の少年柔道大会があった。4年生から6年生が対象。土壌館からは3選手が出場。4年生2名、5年生はゴルフ大会で欠場、6年生1名というわけである。監督は、大学生のH君が教育実習で来られないので、災害応援から帰ってきた自衛官のT教官にお願いした。会場は市の総合体育館。会場設置は業者に委託ということで設備は整っていた。
 子供の柔道人口減少は、土壌館だけではないようだ。対戦相手の強豪チームも、団体戦の出場人数は3名、3選手しかいない土壌館と、人数的にはあいことなった。二人勝てば、勝てる。にわかに皮算用した。が、淡い夢に終わった。なぜか相手選手は、とても大きく、土壌館の選手は、かなり小柄。しかし、それでも1勝2敗の成績で満足。
 個人戦は、4年生選手が2回戦進出、6年生選手も旗判定負けと、奮戦。朝9時から3時過ぎと長丁場だったが、子供は、面白かったようだ。自宅に着くと4時。何でもなくはない日は、非常に疲れた一日だった。
―――――――――――――――――― 9 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.172
テキスト再考 車内を継ぐもの
 2011年、読書と創作の旅の前期は、終着駅目前となった。それぞれに旅の感想はあると思う。ここでは課題として、テキストの車内観察作品について考えてみたい。とりあげた一連の車内観察作品を、時空電車の旅として読んだとき、車内を継ぐものは何か。
1908年『網走まで』 → 1913年『出来事』 → 1945年『灰色の月』 → 2011年
 以下、時空列車乗車体験状況。
1908年(明治41年)9月×日午後、上野発の東北線に乗る。
 
 私は25歳、宇都宮の友達を誘って日光に遊びにゆくために、上野から青森行の東北線列車に乗った。相席は、赤子と子供を連れた母親。生活で疲れきっているが、元士族の娘らしい感じ。年齢は私とも、そう違いそうにない。この母子3人、これから数日かけて蝦夷地の網走というところまで行くという。気の毒、哀れ、そんな感情が私の中で交錯する。車内の雰囲気から持つものと持たざる者。貧富の差がひろがっていく予感が読み取れる。
 ちょうど同じころ、東海道線を東京に向かって上京してくる学生がいた。相席は、学者のような中年の男。学生は、これからの東京での生活に張り切っている。が、その中年男の話は、ことごとく皮肉っぽい。
 日本は、1905年にロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で破って世界をあっと言わせた。それなのに、男はこんなことを言う。「いくら日露戦争に勝って一等国になってもだめですね。」これに対し学生は、「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。が、男は、こともなげに「滅びるね」と、言い捨てた。
若者は、いつの時代も楽天家である。東北線の若者も、東海道線の学生も、少しも世の中を嘆いてはいない。富国強兵を国策として、戦争へ、戦争へと歩みを進める政府を疑っていない。翌年の1909年には、伊藤博文が春ピンで暗殺される。
5年後の車内光景
1913年(大正2年)7月26日昼過ぎに乗車、東京都内の電車の車内
国策の富国強兵政策は、着々とすすんでいる。日本は、侵略戦争まつしぐらのただ中だが、勝ち戦争が続いていたせいか、乗客たちに余裕がみられる。暑い夏のはじまりを満喫している。世界は、第一次世界大戦の前で緊張状態にある。そんな最中だが極東の車内はどこかのんびりとした雰囲気。エア―ポケットのような車内の雰囲気。
12年後の車内光景
1945年(昭和20年)10月16日夜8時過ぎ 山手電車の車内
 焼け野原を走る山手電車の車内。明治維新以来、国策に富国強兵を掲げて、侵略戦争をすすめてきた日本だが、それらはみな失敗だった。ハワイ奇襲作戦成功もつかの間、後は敗戦に次ぐ敗戦。空襲、沖縄、そして原爆。ようやくにして終戦。2か月後の山手電車の車内。飢え死にする少年一人救うことのできない現実。
66年後 国策、原子力エネルギー政策に恐怖する日本。
2011年3月11日以降の車内観察は・・・・・・・・。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・172―――――――― 10――――――――――――――――
土壌館・実践的投稿術のススメ No.1~21
 文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。
 もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。
 土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞の投稿欄に寄せつづけています。なぜ投稿欄かというと、投稿欄は字数制限があるからです。「声」欄が多いのは、規定が500字だからです。この字数は人が飽きなく読む文章です。500字のなかに主張、出来事などを簡潔に入れる工夫が必要です。
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 投稿は、予期せぬ副産物もある。バックナンバーNo.6では、見知らぬ夫婦が道場を見せてほしいと訪ねてきた。No.12では、カエルの歌を作ったと言う人からCDをプレゼントされた。No.8では、知人の中学教諭、高校校長らから電話をもらうなどなどいろんな反応があった。No.1の「医師への金品」は、社会問題として新聞紙上で大きな論争となった。No.21の「子どもが集う道場は街の灯」は、実質的実のある投稿となった。この投稿が新聞に載ったのは5月8日。この記事を見たと5月20日、日本テレビから電話があった。オンボロ道場をリフォームさせて欲しいとの依頼。廃屋過ぎて無理と思ったが、なぜかテレビ局はやる気。ボランティアの若者を募ってオンボロ道場を直したい、という。善意を受けることにした。6月1日から工事開始、16日に終了。この間、朝8時から夜8時まで撮影継続。6月23日、30日、7月7日の3連続日曜日、昼12時30分から30分間、日本テレビ番組「パワーバンク」で放映。話題を呼んだ。
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投稿術バックナンバー
No.1 「医師への金品 規制できぬか」   1994・2・2   朝日新聞「声」欄
No.2 「カラー柔道着 いいじゃないか」  1994・5・17  朝日新聞「声」欄
No.3  「立会人が見た 活気ある投票所」 2009・9・2    朝日新聞「声」欄
No.4 「勧誘の仕方 改められぬか」   1994・10・15 朝日新聞「声」欄
No.5 「団地建替え 住めぬ人びと」    1995・9・24 朝日新聞「声」欄
No.6 「地域に必要な 子供たちの場」   1996・11・5   朝日新聞「声」欄
No.7 「燃える家々に 戦争を実感」MoMo 1999・4・3   朝日新聞「声」欄
No.8 「嘉納」の理念 世界に発信を    2009・3・10  朝日新聞「声」欄
No.9 「50歳の1年生 師の撮影行脚」   1996・9・16  朝日新聞『声」欄
No.10 「教師の創意で 生徒に楽しさ」   1995・3・15  朝日新聞「声」欄
No.11 「児童の作文大切にした恩師」    2011・1・8   朝日新聞「声」欄
No.12 「カエル飼って子供ら変わる」    2006・7・28  朝日新聞「声」欄
No.13 「『罪と罰』で正当性立証か」    2003・12・27 朝日新聞「私の視点」
No.14 「時は流れてもやっぱり先生」   1999・6・4   朝日新聞「声」欄
No.15 「今でも励まし黒板の落書き」   2008・7・8   朝日新聞「声」欄
No.16 「故郷で童話賞 恩師の手から」  2000・11・17  朝日新聞「声」欄
No.17 「振動は困る 町道場に難題」   2003・12・8   朝日新聞「声」欄
No.18 「町道場の灯を支える教え子」   2000・4・2   朝日新聞「声」欄
No.19 「柔道の変化は 自他共栄実現」  1996・8・7   朝日新聞「声」欄
No.20 「朝稽古の住宅街でカエル見つける」2006・3・19  朝日新聞「声」欄
No.21 「子どもが集う道場は街の灯」   2002・5・8   朝日新聞「声」欄
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.172
ゼミ雑誌作成について
ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。テーマは、志賀直哉の観察作品をテキストにします。た車内観察作品とします。前期課題作品です。提出しながら完成度を高めてください。
ゼミ雑誌編集長 → 武田 結香子さん  
ゼミ誌副編集長 → 藤塚 玲奈さん  
      ゼミ誌編集委員 → 他ゼミ員全員
Ⅰ ゼミ雑誌作成進行状況
  
   5月25日 ゼミ誌ガイダンス 武田編集長
5月29日 武田編集長より提案。自由創作も視野に
6月 6日 仮題『日常』、内容=課題・自由創作 頁300(一人20枚)
      業者=藤原印刷 写真・図案は無し
6月13日 ゼミ誌内容欠席者にメール、5名返信、武田報告
6月27日 題3候補、「ノックイン」有力 創作掲載3名
Ⅱ. ゼミ誌原稿、最終締切日9月26日(月)自由創作提出
Ⅲ. ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月15日です。厳守のこと。
  
【① ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】
1.【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢/出版編集室に期限までに提出 完了
2. 6月6日ゼミ雑誌題・型・頁・業者・内容(案)決まる。  完了
3. 9月末、ゼミ誌原稿締め切り。(原自由創作を提出してください)
4. 印刷会社を決める。藤原印刷に決まる。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。
5.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。
6. 11月半ばまでに印刷会社に入稿。(芸祭があるので遅れないこと)
7. 雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。
8. 印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。
ゼミ雑誌制作決定事項(案)
ゼミ雑誌・テーマ  → 『日 常』なんでもない一日をイメージ
版型(サイズ)   → 文庫サイズ
頁 数       → 300ページ 凡そ
業 者       → (株)藤原印刷 知っている印刷会社だから
内 容       → 課題&自由創作(テーマ=朝・昼・夜)
割り当て(一人)  → 20枚程度
締め切り      → 課題は前期までに提出されたものの中から(時事評は無し)
            自由創作は、夏休み明け厳守
以上です。皆で協力して、2011年の記念になる雑誌を作りましょう。まだ、日にちに余裕あります。今後はレイアウトなどを話し合ってください。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・172―――――――― 12――――――――――――――――
人間観察・連載5 教育の原点がここにある。震災後の日本の教育を考える
創作・熊谷元一と『一年生』
昭和28年4月1日
この日、快晴、風はまだ寒かったが、蒼穹が、はるかな赤石山脈までひろがっていた。まさに入学式日和の天気。朝7時、校庭には、まだ誰の姿もなかった。西端に並ぶ三本の桜の大樹は、登校する一年生を迎え祝うかのようにつぼみをほころばせていた。その桜の下に熊谷は、一人佇んでいた。「さて、今日からだ。今日からやるぞ」決意を確かめるように胸につぶやきながら朝日差す東空を見あげた。
様々な思いが去来した。開きかけた童画家への道、手の届くところにあった写真家への野心。しかし、それらすべてを封じ戦火の首都を脱して、故郷の村に帰ってきた。理不尽に追放された教員赤化事件への恨み、侵略戦争の国策に加担した悔い。それらを思うと内心じくじたるものは、あったが、熊谷は教壇に立つことで、教師をつづけることで贖罪を果たそうと決意したのだ。故郷の若者たちを戦地に送った罪。幸いに占領軍は、民主主義教育を強要している。この機を逃す手はない。そう勇んでの教師の道だったが教育の難しさを熊谷は、ひしと感じた。簡単に自由に、自分が思った通りにやればいい、そう思っても、実際的に何をどうやるのか。それを考えると動けない。他の教師たちのことなど気にせず、といってもやることがわからないから、気にすることもできない。赤化事件に巻き込まれたのは、他の教師からの誘いを断り切れなかった自分の優柔不断さもあった。それ故、こんどこそ自分の思った教育をやる。昭和20年8月16日のあの日から。そう、決意した。が、これが難しい。自由な教育とは何か。自分は、どんな教育をやりたいのか。思えば軍国教育は、楽であった。すべて「兵隊さんのおかげです」「大日本帝国バンザイ」だけを教えていればよかったのだ。しかし、もうそうはいかない。しかし、民主主義教育など、この日本で経験した教師はいないのだ。焦りと新しい教育への迷いで悶々とするうちに7年の歳月が流れた。
活路は、突然に開けた。熊谷は、大東亜省の嘱託・写真班を退職したが、写真は撮りつづけていた。故郷の人たち、とくに農家の人たちの何でもない一日を、撮り続けていたのだ。熊谷の故郷の村は、カイコの村だった。山間の、畑という畑は桑畑で埋まっていた。昭和13年、28歳の若さにして朝日新聞社から写真集『会地村』を刊行した熊谷は写真界では、既に知られていた。一小学校教師ながら「何でもない山村の一日」を撮りつづける写真家としてその名は知られていた。被写体への着目の良さ。それがいつもタイミングよく写真の仕事に結びついた。昭和24年岩波書店は画期的な出版物として岩波写真文庫(46判64頁)を刊行した。熊谷は「かいこの村」の案を出すと、当時編集部主任だった報道記録写真では第一人者の名取洋之助氏が即断で、刊行を約束した。出版界は、いつの時代も鵜の目鷹の目である。秀でる創意工夫があれば、声がある。名取氏は、熊谷の着眼点を見込んで
「次は、何を写しまか」と、尋ねた。
 このとき、熊谷の頭の隅に以前からあった一つの考えが、ぱっとはじけた。新しい教育とは何か。模索の日々だった。それが何かわからぬまま、歳月だけがたった。名取氏の質問が、閃光となって頭の片隅を照らしたのだ。
「学校での子どもを撮りたいと思います」
熊谷は、オウム返しに答えた。
「学校で・・・」名取は訝しげにみた。
「そうです、学校で、です。私は来年度、昭和28年は新一年生の組を担任することになっています。その一年生の学校での、なんでもない一日の生活を一年間、撮ろうと思います」
「それは、おもしろい」名取氏は、思わず声をあげた。が、付きの瞬間、頭のどこかで思った。「学校で写真を撮る。毎日、一年間も」そんなことは可能だろうか。絶対権力の軍国教育時代なら、あるいは可能だったかもしれないが、民主主義教育がはじまった学校では、む
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しろ不可能となったのではないか。写真と出版界に生きる名取には、写真を撮るという行為が、都会では、いかに困難になりつつあるか、身にしみて知っていた。ただ、一縷の望みがあるとすれば、熊谷の故郷での評価だ。写真集「かいこの村」や、今現在、撮りつづけている「農村の婦人」のネガを見た限り、熊谷は被写体となる村人たち理解されているようだ。教育現場のことはわからないが、写真を撮っても何の問題も起きていないような、そんな気がした。写真は、カメラがあれば事足りるというものではない。カメラ以前に被写体との関係性がなければ、盗み撮り、激写という類のものになってしまう。
熊谷は、1909年(明治42年)この村、会地村駒場に生まれた。生家は呉服商と養蚕を生業としていた。この時代には珍しく兄弟はなく一人っ子だった。それだけに、両親は、熊谷が好きなことに注意した。この村は、飯田城下から南に13㌔(6里)山間部に入ったところにある。熊谷が誕生した駒場は、宿場町として栄えていた。熊谷は、この村を昭和13年に刊行した写真集『会地村』で、このように紹介している。
―― 会地村は、東に赤石山脈、北西に木曽山脈、南に下條山脈と四方を囲まれた西部山地にある。村の約7割が山林である。天竜川の支流、阿知川が村の中央に流れていて、川に添った山間の僅かな平地に桑畑がある。農業は稲作と養蚕だが、養蚕が主流。五反以上1町未満の自作兼小作農が多い。熊谷が生まれ育った駒場は、周辺山村の中核的な位置を占める宿場町で、飯田城下に次ぐ賑わいがあった。郵便局、派出所、裁判所の出張所、銀行、劇場、料亭まであった。636戸、3117人の人口。
この村の昭和28年の小学校入学者は60余名。二クラスの子どもたちである。このうち熊谷が担任する東組は、男子22名、女子13名、計35名。個の中には、熊谷が尋常小学校時代の同級生の子どもも大勢いた。この子たちを被写体にする。そのことは、まだ親にも子供たちにも話していなかったし、話そうとも思わなかった。承知しているのは熊谷の記録写真に協力的な校長のみである。皆に話せば喧々諤々となることはわかっていた。学校で、担任する子供たちを写真に撮り続ける。前代未聞の行為である。新しい民主教育を進める先生は、とても容認してはくれないだろう。子供たちも意識し、緊張するだろう。ありのまま撮るには、何も知らせず撮りつづけるしかないのだ。はじめて学校に入った子供たちの生活を記録するのだ。ただ、気になることがあった。一年生は二クラスで、自分は東組を担任するが、西組は、細野先生と決まっていたが、その細野先生は、3月から病気で入院している。長い闘病になるときく。そうなるとかわりの先生がくることになる。どんな先生だろうか。代用教員とはいえ、写真を撮ることを快く思わなかったら、それを思うと、心が晴れ晴れとしなかった。「だれがこようと、私は実行するだけだ」熊谷は、自答してとおくの銀嶺に目をやった。赤化事件で追放された時のこと、満州青年義勇兵の開拓村、空襲で焼け出された日。あの屈辱と後悔の日々。今日からの教育で、贖罪を果たすのだ。たとえどんなに非難されようと、やりとげるのだ。
熊谷は、新しく買ったカメラ、キャノン
をにぎりしめたる。校門に、何人かの人影
が見えた。ランドセルを背負った子供たち
がかけてくる。そのあとから遅れて着物姿
の母親たちが、二人、三人とつれだって入
ってきた。「きた!」
熊谷は、大きく深呼吸して、校門の方に向
かって歩みはじめた。まだ、カメラは構え
ていなかった。数人の母親が入ってきた。
親しい顔はなかった。子供たちが前をか
けている。「よし、いまだ!}熊谷は、
カメラをだすとシャッターを押した。
   つづく
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2011年読書と創作の旅(前期)の記録
□4月25日ゼミ 出席者11名 司会・椎橋 名作「日本国憲法、前文・九条」
        読み・嘉納治五郎『青年訓 精読と多読 名作・原民喜『夏の花』
□5月9日ゼミ 出席者9名 司会・三矢 テキスト『菜の花と小娘』
        時事評「原発事故について」提出課題合評 紙芝居口演「少年王者」 
□5月16日ゼミ 出席者4名 司会・内田 テキスト『網走まで』と解説
        3・11など課題提出作品の合評
□5月23日ゼミ 出席者5名 司会・杉山 テキスト『出来事』  
         時事評「原発問題討議」「人生相談」課題合評
□5月30日ゼミ 出席者5名 司会・春日 テキスト『正義派』時事評「原発問題」
        「人生相談・私のアドバイス」
□6月 6日ゼミ 出席者9名 司会・柳瀬 時事評「君が代問題」議論
        ゼミ誌編集会議。提出課題合評
□6月13日ゼミ 出席者4名 司会・武田 テキスト『夫婦』名作・詩編「谷間に眠る者」
□6月20日ゼミ 出席者4名 司会・杉山 テキスト『城の崎にて』提出課題の合評
         世界名作『あしながおじさん』前文
□6月27日ゼミ 出席者3名 司会・春日 ゼミ誌編集会議 テキスト『濠端の家』
         提出課題合評
□7月 4日ゼミ 出席者
課題提出状況 2011・6・27現在 テキ=テキスト、
大野 純弥 →  4本 (テキスト2、一日2) □□□□
         
椎橋 萌美 →  3本(車内1、一日1、時事1) □□□
         
會澤 佑果 →  3本(時事2、テキスト1)   □□□
         
藤塚 玲奈 →  11本(一日4、時事3、テキ3、車内1) □□□□□□□□□□□
    
 春日 菜花 →  22本(車内3、一日7、時事4テキ6、創作2、) □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
藤原 侑貴 →  1本(テキ1) □
中村 俊介 →  2本(テキ1、時事1) □□
柳瀬 美里 →  9本(一日3、時事3、テキ3) □□□□□□□□□
杉山 知紗 →  18本(車内1、一日5、時事4、テキ7、創作1) □□□□□□□□□
□□□□□□□□□
三矢 日菜 →  5本(一日2、時事1、テキ2) □□□□□
武田結香子 →  21本(車内2、一日8、時事4、テキ6、創作1) □□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□
内田 悠介 →  5本(一日2、時事1、テキ2) □□□□□
花井 三記 →  
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掲示板
低出席率でも、皆勤者2名 精勤者1名の快挙 
前期は、残すところ本日を入れて、あと二回となりました。残念ながらとうとう全員出席はなりませんでした。今年は、大震災があったことで、学校側からは、学生それぞれの事情や都合があると思います。それらを配慮しての授業を、との要望がありました。これまでになく欠席者が多かったのは、災害影響からと推察します。
しかし、こんな状況のなかでも今日現在まで皆勤者2名、精勤者1名がありました。日々の暮らしのなかでそのときそのときの優先順位は、人それぞれと思います。が、そのなかでの継続への意志と実践は、容易ではありません。それを思うと、折り返し点にきた2011年の旅ですが、よい旅ではなかったかと思います。
提出課題は、104本
書くことの習慣化を目指すために、毎回、課題においても104本の提出がありました。こちらも低出席率においては快挙といえます。なお、課題内容は、テキスト感想、車内観察、自分観察、時事評と多岐にわたりました。が、それぞれに切り替えよく対応できたように思います。
後期は、車内から車窓(社会)観察へ 自分観察は引き続き
 後期は、車内観察から車窓観察に移ります。自分観察はひきつづきつづけますが、家族観察も行います。車窓観察では、新聞三面記事に注目します。
 なお、12月12日は、後期前半最終ゼミとなりますが、毎年、清水ゼミ、山下ゼミと合同ゼミ発表を行っています。後期ゼミでは、その練習もしていきます。ちなみに、下原ゼミは、疑似裁判ものを小演技しています。
■ 8月13日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第245回読書会
作品『九通の手紙の小説』池袋西口・勤労福祉会館 第7会議室 (下原ゼミ生0円)
※ 詳細並びに興味ある人は「下原ゼミ通信」編集室まで
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編集室便り
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
ゼミ評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出(ゼミ誌原稿)+α = 100~60点(S,A,B,C)

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