文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No173

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2011年(平成23年)7月25日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.173
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20 6/27 7/4 7/25
  
2011年、読書と創作の旅
7・25下原ゼミ
7月25日(月)の下原ゼミガイダンスは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. 2011年読書と創作の旅 通信173配布 出欠 連絡事項 
2. 7・4ゼミ報告、司会指名
 
 3. 日常回顧『ひがんさの山』
4. 世界・名作読み、(日常観察作品)
    
3・11東日本大震災並びに福島原発事故で被災された皆さま方に心よりお見舞いい申し上げると共に被災地の一日も早い復旧と復興をお祈り申し上げます。
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3・11影響の上半期、本日終了 三分の一だが充実した旅
 あっと言う間に、というか、いつの間にか、と言うべきか、「2011年の旅」前半の旅は、本日終了します。思えば、大震災・原発事故といった嵐の中の旅立ちでした。半分の旅を終えて「希望カード」を見直すと13名それぞれの熱い決意が伝わってきます。
しかし、残念ながらその熱い思いも、進まぬ災害地の復旧復興、治まらぬ放射能漏れを反映してか、日々冷めて行ったようです。半数以上の人が遅れをとっています。初日の熱い気持ちは、いまいずこ。棄権、脱落、そんな心配もでてきた前期の旅の終わりです。
しかし、過ぎてみれば楽しい愉快な旅だったような気がします。一日も休まず歩みつづけた人たちもいます。旅の記録誌、ゼミ誌編集づくりを着々とすすめた人もいます。なにごとも習慣化は狭き門です。その意味では、有意義で充実した旅だったといえます。
2011年読書と創作の旅 7・4ゼミ報告
    前期ラスト前も、常連メンバーで集中授業
「どうです。今日は」A先生は、顔を合わせた途端、ボヤク。「この暑さでは、来ますかねえ」ゼミ出席者の話である。苦笑して「うちは、いつも半数以下ですよ」と言うとA先生は、少し安堵したように「どこも同じなんですねえ、今年は」とつぶやく。「そうなんですねえ、今年は」私も、オウム返しにつぶやいて、いくぶんほっとする。そして、こんな結論になる。やはり、ゼミはマージャンの人数ぐらいが最適。7・4ゼミは、常連メンバ―で最後の車内観察作品読みで授業集中。ゼミ誌作成も題名を含め全体の構成はできた。


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.173―――――――― 2 ―――――――――――――
司会進行は、藤塚玲奈さんに (2巡目)
 この日の司会進行は、藤塚玲奈さんにお願いしました。藤塚さんは、テキスト『濠端の家』感想、提出課題の合評、テキスト『灰色の月』読みの配分を適切に司会進行しました。
テキスト読みは『灰色の月』
テキスト『灰色の月』は、超短編だが、日本文学では名作、かつては国語教科書の定番だった。この作品は、発表された当時、少年を助けなかったことで批判もあったが、普遍の作品となっている。事実を書いた場合、リスクもある。
ゼミ誌タイトル『旅路報告』に決定 !
 編集委員(武田編集長)は、ゼミ誌作成の一環としてゼミ誌タイトルを公募していたが、5名から5題の応募があった。7月4日にゼミ参加者で選考し『旅路報告】に決まった。
 ちなみに、他の応募は、『Knokin or the Door』『全ての猫にGPS』『冷蔵庫停電中』『僕が見た空の先に』があった。選考基準・「授業内容に即したもの」とした。
自由創作、締め切り9月25日
 ゼミ誌掲載作品は、自由創作と課題提出作品だが、自由創作作品掲載希望者は、4日現在で5名です。締め切りは夏休み明けのゼミです。なお、課題提出作品のみの人は、これまでの提出作品から(多い人は)いくつかを選考してください。一人当たり20~25枚
※ 枚数については、提出状況に応じて。(ゼミ誌予定頁数は300枚。)
合 評 参加者の提出作品 参加者=武田・春日・杉山・藤塚
・車内観察「熱海百景」 藤塚玲奈 作
作者「車内で書いた」「風景描写を入れたかった」 評「車内の表現が共有できた」
・何でもない一日「虹の彼方に」 武田結香子 作
 作者「本当に大きな虹を見た」「ファンタジュツクな空想が浮かぶ」評「同感」
・何でもない一日「ひとりごと」 春日菜花 作
 作者「無意識で話している。中学生のときの記憶が甦った」
・何でもない一日「地図おんち」 杉山知紗 作
 作者「実際にあったこと」 評「迷ったことがよく伝わっている」
・日常観察 創作『親父が死んだ日』 藤塚玲奈 作
 作者「全部創作」評「リアル感がある」「台詞が混乱する」
テキスト・車内観察『灰色の月』
■『出来事』1913年(大正2年)『白樺4号』にて発表。
■1917年(大正6年)5月1日発行『白樺5号』に発表。
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7・25ゼミプログラム
1. ゼミ開始 「ゼミ通信173」配布  出欠 全員参加のときは撮影  
       7・4ゼミ報告 その他
2 司会指名。本日は「      さん」にお願いします。.
司会者は、自分流に参加者公平の音読範囲、発言を心がけて以下をすすめてください。
3. ゼミ雑誌編集について 追(案)・題など 正副編集長
4. 課題提出作品の発表(出席者作品)、音読と合評
 合評留意点 ①わかりやすいか ②伝わるものがあるか ③添削・加筆・校正
5. テキスト読み・日常回顧観察作品
6. 世界名作・心境観察作品
おススメ、夏休みに是非
 いよいよ夏休みです。旅行、バイト、無計画など様々な過ごし方があると思います。が、「2011年、読書と創作の旅」の時空旅の最中にあることを忘れないでください。
悲恋に泣きたい人は、世界文学の悲恋小説最高峰に燦然と輝く長編書簡小説
バルザック著『谷間の百合』をどうぞ。
フランス、トウールの谷間に咲く一輪の百合。アンリェットの物語に挑戦してください。もしかして挫折の人は小デュマの『椿姫』をおススメです。
日本文学最高峰の小説は
古今どの作品が日本文学最高峰か。『源氏物語』をあげる人もいれば司馬遼太郎や村上春樹の作品をあげる人もいるでしょう。太宰や三島をあげる人もいると思う。しかし、真に文学を目指すものがあげるとすれば、この作品をおいて他にない。
佐藤春夫著『田園の憂鬱』日本文学不朽の名作です !!あなたの文学度が試されます。文学をやるなら必読の書。トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』も併せて。
どんな小説も敵わない作品
 恋愛・冒険・推理・空想・心理・教養等など、小説には、いろんな分野があります。名作、秀作、凡作、駄作様々です。それらどの作品も敵わない作品があります。その作品は
北條民雄著『いのちの初夜』です。現代日本文学百冊読むなら、この1冊を是非。必読の書です。
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テキスト・車内観察『灰色の月』感想
読者もまた、同じ道を歩んでいる
杉山 知紗
 はじめに読んだとき、「若さゆえのことか?」と思ったが、時代背景を聞くに、どうもそういうことだけではなさそうだった。終戦で、身も心も疲れ果てていたのだろうか。自分なりの終わりを見つけることができないから、終点のない巡る山手線に乗り続けたのだろうか。少年工の深い事情は語られぬというのになんと物悲しいことだろう。さびしい首筋と共に少年は終わりを見つけられなかったのだろうか。読者もまた、分かりやすい答えが示されなかったように少年と同じ道を歩んでいるような気がする。
【無縁社会に生きる私は、こんなときどうするか】
 以前、テレビでも「無縁社会」について特集されていた。そのとき「良い孤独死を迎えるには」といった手引きのようなセミナーがあることを知った。
 少しくらっとした後、アパートの大家が可相想だなあ、などと思ったが、数十年したら私もそうなるのだろうが・・・・。かといって、何をすべきか全く浮かばないので、このままその社会に溶け込むんじゃあないかと思う。
少年の気持ちに共感できる
藤塚 玲奈
 他人を気にかける、という傾向は、いつの間にか消滅しつつある。それは、つまり無関心である、ということなのだけれど果たしてこれが、寂しいことなのだろうか。私は、介入してきてほしくない、干渉しないでほしいと思うことの方が圧倒的に多い。それは引っくり返してみればコミュニケーションがとれない、ということなのだろう。自分の感情を相手に伝えられないのは悔しい。作中の少年の気持ちには、ちょつと共感できる。
「どうでも、かまわねえや」とボツンと呟いた少年の心情は恐らく色で表すのなら灰色といったところだろう。題名にもあるように濁った収集のつかない、やり切れない想いが手にとるようにわかってしまう自分がいた。
【無縁社会に生きる私は、こんなときどうするか】
 私も志賀直哉と同じように傍観してしまうだろう。そして、彼と同じように短編作品の材料にしてしまうかも知れない。助けたり、手を差しのべたりするのは一瞬のことだが、しかし、その後の責任は、ふわふわ地に足付かず、といった状態であろう。金を与えて終わりというのが、助けたことになるのだろうか?最後まで責任をとる、という気持ちが無い限りむやみに他人に手を差し伸べるべきではないのではと思う。
子どもの存在が低く見られている
武田 結香子
 一番最後に少年が言った「どうでもかまわねえや」というセリフは私も作者同様、心に残るものだと感じた。終戦から二カ月で、こんな風景が見られるものなのかと少し驚いた。
 どの時代にも貧富というものは消えることなく、よく対象とされるのが子どもなのは、やはり痛々しさを強調したい為、だからなのだろうか。年齢が幼ければ幼いほど印象が強くなっていくような気がする。訴えるなら良い表現方法となるのだろうが、どうも子どもの存在
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を低く見られているような気分がする。
【無縁社会に生きる私は、こんなときどうするか】
 人は一人では生きてはいけない。言葉が通じなくても、文化が違っても、肌の色が黒かったり、白かったりしても、皆が共通の事実であると思う。だからこそ、自分だけの世界にとらわれることなく、互いに手を取り合って歩いていくことが、なによりも大事だと思う。
餓死は、珍しい光景ではなかった
春日 菜花
 座席のゆずり合いではではないが、どことなく心がほっとするような場面があった。戦後まもない頃でも人々はイラ立つだけではなかったようだ。
 少年を茶化すように言った男に対し、若者が胃を叩きながら「一歩前ですよ」と言った意味がよくわからなかった。しかし、最後の食事に関する記述でもうすぐ少年工は餓死してしまうとわかる。私は主人公の思いを見なければわからなかったが、車内にいた人々は相図で全てを理解した。つまりその光景は、決して珍しいことではなかったということだろう。
【無縁社会に生きる私は、こんなときどうするか】
 どうすることもできないだろうし、声すらかけるかもわからない。助けたいとは思いながらも、きっと何もしないのだろう。電車から降ろし、駅員の所まで連れていくことはできるだろうが、そこで終わってしまうと思う。
テキスト『灰色の月』について
 
 【続々創作余談】
  『灰色の月』はあの通りの経験をした。あの場合、その子供をどうしてやったらいいか、仮にうちへ連れて来ても、自家の者だけでも足りない食料で、又、自身を考えても程度こそ違うが、既に軽い栄養失調にかかっているときで、どうすることも出来なかった。まったくひどい時代だった。(作者回想)
『網走まで』と『灰色の月』
 志賀直哉の処女作『網走まで』は、草稿が1908年(明治41年8月14日)に書かれ、『白樺』第1号に発表されたのは、1910年(明治43年)である。『灰色の月』は1945年(昭和20年10月6日)に書かれ、1946年(昭和21年)『世界』創刊号に発表された。この間、37年の歳月の開きがある。25歳の無名の文学青年は、62歳になり「小説の神様」と呼ばれるほどの大家になっている。が、ゼミで朗読し感想を述べ合った限り両作品に文学的にはそれほど差があるとは思えなかった。そのへんがこの作家が小説の神様と呼ばれる所以の一つかもしれない。(たていての作家は処女作を越えられないものだ)
余談だが、ドストエフスキーが、いまもって人類にとって最高峯の作家といわれるのは、処女作『貧しき人々』がすでに世界文学線上にあるのに、晩年になればなるほど、後続の作品群が、より高い場所に上りつめたところにある。
 内容について、はじまりの『網走まで』と終盤の『灰色の月』は、時間差はある、類似している。どちらも観察対象が不幸な乗客である。『網走まで』は、富国強兵の時代、北の果てに向かう母子3人。作者は同情し不幸を感じるが何もできない。
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『灰色の月』は、焼け野原の東京をグルグル回る山手電車の車内。飢えてもうすぐ死ぬであろう少年に同情するが、やはり何もできない。二つの作品には一市民ではどうすることもできない問題が描かれている。例えば石川啄木の書き物のなかに東京大空襲を予言したようなものがあるが、『網走まで』の悲劇性にも、それを予見することができる。かつては良家の子女であったろう女。病気がちな幼子二人を連れ、ちいさな荷物一つを持って、まだ鉄道も敷かれていない北の果てに行くという。女と子供たちの運命は目にみえるようだ。
これも余談だが、同じころ東京に向かう列車の中で三四郎は、富士山を見て日本には「あれよりほかに自慢するものは何もない」と悲観する同席の男に「しかしこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。が、男は即座に「亡びるね」と、言った。
 漱石と志賀直哉。歳は違うがともに明治という時代を見続けてきた作家。奇しくもその作品『三四郎』と『網走まで』において焼け野原となった日本の未来を予見している。
なぜ、日本は無益な戦争をしたのか。志賀直哉の観察眼は、一部軍人に利用された天皇制をも客観視している。
 
 今度の戦争で天子様に責任があるとは思われない。しかし天皇制には責任があると思う。
 天子様の御意志を無視し、少数の馬鹿者がこんな戦争を起こすことのできる天皇制、――しかも、最大限に悪用し得る脆弱性を持った天皇制は国と国民とに禍となった。
 天子様と国民との古い関係をこの際捨て去ってしまう事は淋しい。
 しかし、世界各国の君主が老人の歯が抜け落ちるように落ちて行くのを見ると、天皇制というものが今はそういう頽齢(たいれい)に達したのだというようにもかんじられる。
 天子様と天子様の御一族が御不幸になられることは実にいやだ。
 このもんだいが穏やかに落ち着くところに落ち着いてくれるといいと思っている。
                                  (昭和21年)
『灰色の月』を読む(2011年加筆)
 
 この作品は、僅か6、7枚の分量なのに、千枚の告発文にも勝るものがある。その夜、乗り合わせた乗客から時代の酷さが伝わってくる。僅か数行の人物観察でも、そこに人間の愚かさ、無力さ、悲しさを汲みとることができる。
それ故にこの作品は、というよりこの作者の車中文学全般は、一時代の一電車車内を映しながらも普遍でありつづけている。そのように思えるのである。
『灰色の月』は、一見、なんの変哲もない車内エッセイである。だが、ここには現在、日本が抱える様々な問題が潜んでいる。2011年大震災や福島原発事故で見えにくくなっているが靖国神社参拝問題は、解決したわけではない。
20年後、灰色の月の下を走る山手電車の車内はどんなだろう。脱原発の世界か、放射能汚染で汚れきった世界か。乗客たちは、どんな会話をかわしているか。ちなみに20年後といえば、ゼミの皆さんは40歳。社会の支柱である。なお、本文は昭和48年発行の岩波書店『志賀直哉全集』を『下原ゼミ通信』編集室で現代読みにした。
灰色の月
表題に拘る作家と、頓着しない作家がいる。志賀直哉は、それなりに拘泥した作家のようである。例えば処女作の一つ「花ちゃん」は『菜の花と小娘』になった。『暗夜行路』も『和解』も簡潔だが、葛藤の深さを感じる。この作品も、草稿ノートには、「白いつき、白い月、しろいつき、しろいつき」という書入れがあったという。『灰色の月』に決まるまで、あれこれ模索したに違いない。が、つけてしまえばぴったりする。それが名作である。
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灰色・・・はっきりしない、うっとおしい色である。そんな月が、都会の夜を照らしている。地上はほとんど真っ暗闇に違いない。狼男かドラキュラでもでそうな不気味さがある。作品をよく表した題名といえる。それでは、作品を検証していきます。
東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套で丁度よかった。連れの二人は先に来た上野まわりに乗り、あとは一人、品川まわりを待った。
東京駅は、大正3年12月30日アムステルダム中央駅をモデルにルネッサンス様式赤レンガ駅舎として開業された。原敬首相暗殺や浜口幸雄狙撃など、大きな政治的事件は起きたが、建築的にはいたって頑丈で、大正12年のときに起きた関東大震災でも被害はなかった。それなのに「屋根のなくなった歩廊」、とはどういったことか。疑問は、冒頭のこの光景からはじまる。なぜ、屋根がないのだろうか。日付も説明もないから、読者にはわからない。が、その疑問は、すぐに明らかになる。ちなみに「上野まわり、品川まわり」とあるが、山手線が現在の環状運転になったのは大正14年のことである。と、するとこの物語はそれ以降の話ということになる。「着て来た一重外套」から、季節は初秋とわかる。屋根のなくて見通しのよいホームからは何が見えるか。
 薄曇りのした空から灰色の月が日本橋側の焼跡をぼんやり照らしていた。月は十日位か、低くそれに何故か近く見えた。八時半頃だが、人が少なく、広い歩廊が一層広く感じられた。
 「日本橋側の焼跡」で、読者は、ようやく情景を思い描くことができる。「焼跡」といえば、東京大空襲である。B29の爆撃で焼け野原と化した東京。文面の印象から静けさを感じるから、既に戦争は終わっているようだ。8月15日に終戦。山手電車も普通に走り出したのなら、10月初旬の頃だろうか。この時の乗客は、どんなだったか。
 遠く電車のヘッドライトが見え、暫くすると不意に近づいて来た。車内はそれ程込んでいず、私は反対側の入口近くに腰かける事が出来た。右に五十近いもんぺ姿の女がいた。左には少年工と思われる十七八歳の子供が私の方を背にし、座席の端の袖板がないので、入口の方へ真横を向いて腰かけていた。その子供の顔は入って来た時、一寸見たが、眼をつぶり、口はだらしなく開けたまま、上体を前後に大きくゆすっていた。それはゆすっているのではなく、身体が前に倒れる、それを起こす、又倒れる、それを繰返しているのだ。居眠りにしては連続的なのが不気味に感じられた。私は不自然でない程度に子供との間を空けて腰かけていた。
 ここには東京駅から有楽町までの車内の乗客観察が描かれている。当時の(終戦直後の)夜八時半頃の山の手電車の、乗車状況がどうだったかは知らない。しかし、「車内はそれ程、
混んでいず」とあるから7、8割の乗客があったかも。観察では、右隣の「もんぺ姿の女」
のほかに「少年工」のことが書かれている。「連続的なのが不気味に感じられた」とあるから七、八分入りの車内で少年は目立った存在だったのだろう。が、ホームに着くたびに乗客は入れ替わる。志賀直哉(この作品では、主人公を志賀直哉本人とみるべきである。続々創作余談で「あの通りの経験をした」と語っている)は「車中の人々」を、どう描いたのだろう。みてみよう。山手電車は、有楽町、新橋と停車していく。
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有楽町、新橋では大分込んで来た。買出しの帰りらしい人も何人かいた。二十五六の血色のいい丸顔の若者が背負って来た特別大きなリックサックを少年工の横に置き、腰掛に着けて、それにまたぐようにして立っていた。その後ろから、これもリックサックを背負った四十位の男が人に押されながら、前の若者を覗くようにして、
「載せてもかまいませんか」と云い、返事を待たず、背中の荷を下ろしにかかった。
「待って下さい。載せられると困るものがあるんです」若者は自分の荷を庇うようにして男の方へ振り返った。
「そうですか、済みませんでした」男は一寸網棚を見上げたが、載せられそうにないので、狭い所で身体をひねり、それを又背負ってしまった。
 若者は気の毒に思ったらしく、私と少年工の間に荷を半分かけて置こうと云ったが、
「いいんですよ。そんなに重くないんですよ。邪魔になるからね。おろそうと思ったが、いいんですよ」そう云って男は軽く頭を下げた。見ていて、私は気持よく思った。一頃とは人の気持も大分変わってきたと思った。
 乗客はリックサックを背負った人が多くなった。有楽町、新橋から混んできたというから、新橋あたりに市場があったのだろうか。しかし、時間を考えると戦後の闇市を想像する。話は逸れるが、闇市で思い出すのは、昭和40年前後に流行ったヤクザ映画の一つである。当時、高倉健、鶴田浩二の任侠ものが全盛時代ではあったが、それとは違う、戦後のドサクサを描いた、闇市ヤクザ路線も流行っていた。安藤昇という大学出のインテリヤクザが、足を洗い映画監督になってつくったもので闇市がリアリティあった。殺伐とした時代だが、主人公の観察は「一頃とは人の気持も大分変わってきた」と、戦争、終戦で埃のようにまいあがっていた世の中が、漸く治まってきたと見ている。観察は、乗客の表層面から、会話や一人ひとりの感情や思考へと移っていく。
 浜松町、それから品川に来て、降りる人もあったが、乗る人の方が多かった。少年工はその中でも依然身体を大きくゆすっていた。
「まあ、なんて面をしてやがんだ」という声がした。それを云ったのは会社員というような四、五人の一人だった。連れの皆も一緒に笑いだした。私からは少年工の顔は見えなかったが、会社員の云いかたが可笑しかったし、少年工の顔も恐らく可笑しかったのだろう。車内には一寸快活な空気が出来た。その時、丸顔の若者はうしろの男を顧み、指先で自分の胃の所を叩きながら、「一寸手前ですよ」と小声で云った。
男は一寸驚いた風で、黙って少年工を見ていたが、「そうですか」と云った。
笑った仲間も少し変に思ったらしく、
「病気かな」
「酔ってるんじゃないのか」
こんなことを云っていたが、一人が、
「そうじゃないらしいよ」と云い、それで皆にも通じたらしく、急に黙ってしまった。
 
 山手電車は、浜松町、田町、品川と過ぎていく。車内は益々混んできた。乗客も入れ替わったが、あの少年工は、まだ乗っていた。「依然身体を大きくゆすっていた」ところから、
他の乗客たちも注目する。奇妙な動作。主人公からは見えなかったが「少年工の顔も恐らく可笑しかったのだろう。」会社員たちは笑い、車内の雰囲気は快活になった。しかし、新橋から乗っている25、6の若者は、少年工をずっと観察していたので、なにかがわかったようだ。いまでこそ、若者は血色のいい丸顔であるが、戦時中は、この少年工と同じだったことがわかる。「そうじゃないらしいよ」その意味は、皆にもすぐわかった。ここから主人公は、この少年をじっくり観察することになる。
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地の悪い工員服の肩は破れ、裏から手拭でつぎが当ててある。後前に被った戦闘帽のひさしの下のよごれた細い首筋が淋しかった。少年工は身体をゆすらなくなった。そして、窓と入口の間にある一尺程の板張りにしきりに頬を擦りつけていた。その様子が如何にも子供らしく、ぼんやりした頭で板張りを誰かに仮想し、甘えているのだという風に思われた。
 破れ、つぎはぎだらけの工員服。よごれた細い首。甘えるように頬ずりする子供らしい顔。一見、無邪気な光景描写である。しかし、読者は、凍りつく。少年の子供のような仕草は何を意味するのか。この世の全てを放棄した姿。恐れを知らぬ幼児の表情。それとも写真で見たホロコーストの順番を待つ人々の顔か。上野の山ではこのときもバタバタ飢え死んでいる。
「オイ」前に立っていた大きな男が少年工の肩に手をかけ、「何処まで行くんだ」と訊いた。少年工は返事をしなかったが、又同じ事を云われ、
「上野へ行くんだ」と物憂さそうに答えた。
「そりゃあ、いけねぇ、あべこべに乗っちゃったよ。こりゃあ渋谷の方へ行く電車だ」
 
 乗客は、少年の運命を知っている。なんとかしたい。男が聞いたのもその表れだろう。しかし、少年には、もはやどうでもよいことだった。こんな日本に誰がした。そんな怒りや絶望も、もはやない。乗客にできることは、電車の方向を教えることだけだった。
少年工は身体を起こし、窓外を見ようとした時、重心を失い、いきなり、私に寄りかかってきた。それは不意だったが、後でどうしてそんな事をしたか、不思議に思うのだが、その時ほとんど反射的に寄りかかってきた少年工の身体を肩で突返した。これは私の気持を全く裏切った動作で、自分でも驚いたが、その寄りかかられた時の少年工の抵抗が余りに少なかった事で一層気の毒な想いをした。私の体重は今、十三貫二三百匁に減っているが、
少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。(一貫=3・75k)
 私は、なぜ少年を突返したのか。死神がついている。無意識にそれをみたのかも知れない。このときの私は、体重が13貫余りというから50㌔に満たないわけだ。少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。とあるから、少年は栄養失調を過ぎた体だったのだろう。この少年にたいして何をしてやれるのか。作者には『小僧の神様』になれる余裕も体力も気力もなかった。このときの気持を作者志賀は【続々創作余談】でこう述べている。
「あの場合、その子供をどうしてやったらいいか、仮に自家へ連れて来ても、自家のものだけでも足らない食料で、又、自身を考へても程度こそ異ふが、既に軽い栄養失調にかかっている時で、どうする事も出来なかった。まつたくひどい時代だった。」
「東京駅でいたから、乗越して来たんだ。―― 何処から乗ったんだ」私はうしろから訊いて見た。少年工はむこうを向いたまま、
「渋谷から乗った」と云った。誰か、
「渋谷からじゃ一回りしちゃったよ」と云う者があった。
少年工は硝子に額をつけ、窓外を見ようとしたが、直ぐやめて、漸く聞きとれる低い声で、
「どうでも、かまはねえや」と云った。
少年工のこのひとり言は後まで私の心に残った。
どうやら少年工は、山手線に乗ったままぐるぐる回っているようだ。乗客たちは、おせっかいに、むろん悪気はないのだろうが騒ぎだした。少年も皆が自分の行き先に注目していることがわかった。山手線を一回りしようが何周しようが、少年にとってどうでもよいことだった。少年は、現世とは、もはや完全に縁を切った世界にいる。他者は、どうすることもできない。ヘミングウェイの短編に『殺し屋』というのがある。不況とギャングが横行するアメ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・173―――――――― 10――――――――――――――――
リカの暗黒時代の話だ。主人公のニックが働くレストランに二人の殺し屋がやってきた。時間まで待って殺す相手が来ないとわかると帰って行った。ニックは、知らせに走った。だが、狙われている「オール・アンダーソンは、きちんと服を着たままベッドに横になっていた」そうして逃げようともせず、他人事のように「どうしょうもねえんだ」と言うばかりであった。死ぬことを、殺されることを受け入れた人間の前にニックは、なす術もない。このときの作者も同じ気持であったのかも知れない。
 近くの乗客たちも、もう少年工の事には触れなかった。どうすることも出来ないと思うのだろう。私もその一人で、どうすることも出来ない気持だった。弁当でも持っていれば自身の気休めにやることも出来るが、金をやったところで、昼間でも駄目かも知れず、まして夜九時では食い物など得るあてはなかった。暗澹たる気持のまま渋谷駅で電車を降りた。昭和二十年十月十六日の事である。
                   (『志賀直哉全集』を現代読みに・編集室)
「暗澹たる気持」志賀直哉は、この「暗澹」、アンタンという言葉をこの時代、何度か使っている。が、おそらくこの言葉が最初に口にでたのは、あの日ではなかったか、と推測する。
昭和8年2月25日(土)の日記にこう書いている。
<MEMO 小林多喜二2月20日に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる。ふと彼等の意図ものになるべしという気がする>
このとき志賀直哉が抱いたアンタンは、国民を戦争へと駆り立てていった為政者たちへの怒りと憎しみ、それを阻止できなかった悔やみと後ろめたさ。今日、靖国神社は戦犯合祀の問題でゆれている。死ねば、誰しもが英霊か。否、時の為政者は、死してなおその罪を償わなければならない。それが為政者の使命であり、義務である、と編集室は思う。
車内観察
男の帰郷
春日 菜花
数年ぶりに故郷の列車に乗った。
たったの2車両しかないそれは、走るスピードも遅く、車内だってお世辞でも綺麗とは言えない。それでもゆっくりと揺れる心地は悪くはなかった。
実家を出て、都会で暮らし始めて十数年。久しぶりに長い休みが取れたので、鈍行に揺られながら帰ることにした。故郷に近づくたびに緑が増え、いつまでも変わらない風景にじんわりと懐かしさが広がっていく。
「ああ、ここはなんにもかわってないなあ」
窓から広がる風景は、子供時代の記憶を呼び覚ましてくれる。おたまじゃくしやバッタを採ろうと田んぼに忍び込んで、泥だらけになって家に帰る。帰れば泥だらけの姿を見た母に絶句され、怒鳴られながら風呂場に投げ込まれた。採った虫はいつも帰る途中で姿を消していたけれど、それに落胆したことも、悔しい思いをしたこともなかった。そこまでに至るものが、自分にとってはとても有意義だったからだ。
「あれ、あんな所に家なんて建ってたか?」
田園風景を過ぎた頃、明らかに新築であろう家を見つけた。周りの風景とは全く違い、異様な雰囲気を放っているようにも見えた。この辺りは昔ながらの長屋が多く、レンガタイルで
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作られた洋風の建物は一つもなかったはずだ。
「あそこは確か、田んぼだったと思うんだけどな・・・」
ちらほらと、記憶にない建物が増えている気がしてならなかった。
ふと、顔に影が落ちた。太陽をさえぎるように、聳え立つ山が現れたのだ。ああ、たしか父親と一緒に登った山だ。この山を越えると、向日葵が沢山咲いている民家があったなあ。と、男はその山をじっと見つめながら、心を占めていた懐かしさがゆっくりと違うものに変わっていくのに気付いていた。そして山の横を走り抜けると、再び太陽が顔を出した。
じわりじわりと広がっていたそれは、懐かしさを消し去った。
そこは向日葵などどこにもなく、ただただ更地の風景が広がり、無人のダンプカーがぽつんと佇んでいた。
微笑
武田 結香子
 あ、やっぱり今日もいた。本に夢中になっているあの子。オレンジ色で水玉模様のカバーをつけた文庫を手にとり、ずっと見つめ続けている。
 俺の通勤時間とかぶっているからなのか。いつも同じところに彼女はいる。知り合いでもないし、話したことだってないけれど、ほぼ毎日のように見かけるものだから、なんか不思議な気分になる。
 彼女は俺を認識しているのだろうか。いつも前の座席にいる、スーツ姿の、どこにでもいるようなサラリーマンだから、気付くわけがないだろうと思う。なぜ俺が彼女を気にしているのかというと、その表情に理由があった。ほほえましそうに笑っているときもあれば、眉間にしわを寄せて悩んでいるような、怒っているようなときもある。驚いたのは、泣いているのを見たときだ。静かに、そっと涙を流しながら、その瞳は止まることなく文字を追っていたのだろう。そうやって感情を出せることが、どこかうらやましいと思っていたのかもしれない。だから、目が離せなかったのかもしれない。隠すことなく、思ったことや感じたことを素直に出すことができたなら、社会はそう上手く渡れるものでもないけれど、ほんの少しは歩きやすくなるのだろう、きっと。
 ふと顔をあげて前を向けば彼女と目が合ってしまった。少しだけ口角を下げた彼女。恥ずかしくなった俺は、下を向いた。もしかして、見ていたことを知っていたのだろうか。目線を戻したとき、彼女はもう座ってはいなく、ドアの前に立っていた。電車がホームに着く。彼女は降りていってしまった。
 あの日以来、彼女は(を)見かけなくなった。なんだか申し訳ない感じもがしたが、笑ってくれたのだから、良かったんだよなと自分に言い聞かせて、今日も仕事へと向かった。
何でもない自分の一日
ステンドグラスの思い出
武田 結香子
 
 私は本を読むのが好きだが、見るのも好きだ。写真集やイラスト集を見ているとその世界に引きこまれる感覚がして、面白いと思う。最近ステンドグラスの写真集を見た。色鮮やかで、光が入ると神秘的な空間を作る。透明なガラスには心が落ち着く効果があるんじゃあないかと思う。ぜひほんものを見てみたいと思っているが、実現はまだ出来ていない。私の見
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・173―――――――― 12――――――――――――――――
た写真集は外国のものだったので、当分は先の話になってしまうだろう。が、いつか必ず実行したいと思っている。
 昔、家の窓にセロファンをはってステンドグラスもどきのようなのを作った。その日は晴れていたから光が反射してくると、自分の体がいろんな色に染まった。すごく綺麗だという印象が強く残っている。風で葉が揺れたり、虫が横切って飛んで行ったりするのもセロファンをくっつけたセロハンテープで、ベッベトになり、親にものすごく怒られた。
 ”懐かしい「何か」を思い出せる作品”は、私の目標でもある。誰かの楽しかった、嬉しかった思い出をリプレイさせられるような作品が、これから作り出すことができたら、と思う。
ゼミ雑誌『旅路報告』作成について
ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。テーマは、日常です。掲載作品は、課題から「車内観察」「何でもない一日」、自由創作です。
ゼミ雑誌編集長 → 武田 結香子さん  
ゼミ誌副編集長 → 藤塚 玲奈さん  
      ゼミ誌編集委員 → 他ゼミ員全員
Ⅰ ゼミ雑誌作成進行状況
   5月25日 ゼミ誌ガイダンス 武田編集長
5月29日 武田編集長より提案。自由創作も視野に
6月 6日 モチーフ『日常』、内容=課題・自由創作 頁300(一人20枚)
      業者=藤原印刷 写真・図案は無し
6月13日 ゼミ誌内容欠席者にメール、5名返信、武田報告
6月20日 題、レイアウトについて 
6月27日 題公募
7月4日 題「旅路報告」に決定
Ⅱ. ゼミ誌原稿、最終締切日9月26日(月)自由創作提出
自由創作&課題作品(課題作品は自薦)
Ⅲ. ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月15日です。厳守のこと。
  
【① ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】
1.【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢/出版編集室に期限までに提出 完了
2. 6月6日ゼミ雑誌題・型・頁・業者・内容(案)決まる。  完了
3. 9月末、ゼミ誌原稿締め切り。(原自由創作を提出してください)
4. 印刷会社を決める。藤原印刷に決まる。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。
5.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。
6. 11月半ばまでに印刷会社に入稿。(芸祭があるので遅れないこと)
7. 雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。
8. 印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。
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人間観察 教育現場での写真撮影は、今も昔も不可能である。が、58年前、担任した一年生を一年間、学校で写真に撮り続けた教師がいた。
熊谷元一と『一年生』
写真家・熊谷元一は、なぜ写真集の金字塔『一年生』を撮ったか。これまでのまとめ
画家を夢みて郷里の小学校で代用教員をしていた熊谷に、童画家の道がひらけた。投稿した童画「ねぎぼうず」が入選し、雑誌『コドモノクニ』から依頼されたのだ。しかし、喜びも束の間、誘われて参加していた集会が、教員赤化事件(2・4事件)で挙げられた。今の不条理な世の中について議論し合っていたが、絵の道を目指す熊谷には、関心なかった。いつも黙って皆の討論を聞いていただけだった。それなのに、危険思想家のレッテルを貼られ小学校退職を余議なくされた。熊谷にとって悔い多い不本意な出来事だった。ときに昭和8年、熊谷24歳の青春だった。投稿童画が評価されたといっても、生活はできない。無職となった熊谷は、養蚕の家事を手伝いながら絵の勉強をつづけた。
幸運の女神は、突然にやってきた。かかしを写真に撮ってくれと頼まれたことで、熊谷の写真の才能が花開く。昭和12年「アサヒカメラ」に熊谷の写真評が掲載される。翌13年には朝日新聞社刊で写真集『会地村』が出版され、絶賛される。29歳にして熊谷は、写真家としてデビューしたのだ。その縁で拓務省(大東亜省)の嘱託となり満州の写真班に従事する。が、国策である、満州国宣伝に熊谷は忸怩たるものがあった。現地で見た理想国家「満州」は、熊谷が想い描いていた国ではなかった。赤化事件のときは、国に対しさしたる不審は抱いていなかったが、レンズの向こうに見た現実に、はっきり侵略国家日本を意識した。熊谷の郷里からは、大勢の若者が満蒙開拓義勇兵として彼の地に渡っている。熊谷の撮った写真を見て大望を抱いた若者も多勢いたに違いない。
東京大空襲で、満州で撮った写真のネガすべてが焼失したとき、熊谷は、決心した。もう国策に協力することはやめよう。このとき、熊谷は、自分がなすべきことを知った。赤化事件で中断された教育をもう一度やってみよう。教育こそが、自分が進む真の道だ、と。
昭和20年6月、熊谷元一36歳。既に妻帯者となって二人の子どもがいた。写真家、童画家、どちらの道も開けていた。が、熊谷は、どちらの道も進むことはなかった。熊谷は役所を退職すると、終戦近い東京を後に故郷に向かった。そして、再び教職についた。
終戦から7年と半年、熊谷は模索していた。日本の学校教育は、民主主義教育になったが、どんなふうに、どうやって、どんな教育をすればよいのか、わからなかった。日本人は、8月15日を境に、変わった。が、教師も子どもたちも、道なき道を彷徨っていた。
そもそも「子どもとは何か」。戦前、戦中はむろん明治維新からの学校教育は、大人が決めた規則と教訓の押しつけだった。だが、敗戦によって、子どもを管理するすべての壁はなくなった。学校での子どもの様子を写真に撮ってみよう。一年間、はじめて小学校に入学した子どもを撮る。昭和28年、熊谷は担任になったことで、実行することにした。
 昭和28年4月1日 午前7時20分、入学する小学一年生を待った。
 教育現場において一年間写真を撮る。そのことを知るのは、校長はじめ、二三の教師だけである。子どもはむろん保護者にも伝えていなかった。知れば、子どもの耳にも入る。そうなると子どもの自然な振る舞いを撮るのは難しくなる。反対者もでてこよう。さまざまな思いが交差した。
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岩波写真文庫143『 一年生 ―― ある小学教師の記録 ―― 』
「まだ何ものにも染まらない生き生きとした一年生の姿は見ていて楽しいが、カメラで捉えることは容易ではない。それは技術だけの問題ではなく、――― 本文から」
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車窓観察 後期ゼミに先駆けて、ある事件記事とある社会現象 
「透明な存在」との戦いの末の事件簿
7月20日の夕刊一面に大見出しで「東電OL殺害別人DNA」のニュースが報道された。当時を知る人は[ああ、あの事件か]と思い出すに違いない。
この事件は、1997年3月19日、東京渋谷の空アパートで、(株)東京電力のエリート女性社員(39)が殺害された事件だが、外国人の容疑者(44)は2003年に無期懲役の判決が確定している。当時、この事件がセンセーショナルにとりあげられたのは、殺人事件という悲惨な事件故ではなかった。世間の注目を集める原因となったのは、一流企業に勤めるエリート女性社員が、昼間の務めの後、夜の渋谷で売春をしていたことにある。亡くなった父親も一流企業の役員だったという良家の子女。今流でいえば「上流の宴」(林真理子の小説ではなにいが)そんな家庭の娘さん。彼女自身も慶応大学を卒業後、社会のエリートコースを歩んできた。そんな彼女がなぜに、売春がらみで死ななければならなかったのか。新聞、週刊誌、テレビ、出版物などマスメディアは、競って書き立てた。喧騒の果てプライバシー侵害問題や裁判沙汰にまで発展した。とにかく日本人が好む事件だった。
「下原ゼミ通信」編集室の車窓観察は、そうした社会現象とは違う観方をした。誰かに殺されたのは確かであるが、被害者は、「透明な存在」との戦いの末に亡くなった。そのように読み説いている。可哀そうな被害者は、たった一人、その悪魔と戦っていたのだ。
「透明な存在」とは何か。地球という惑星は、生物多様性で成り立っている。どんな動物にも必ず天敵がいる。それで、この星に棲む生き物の調和はできている。が、ただ一匹、例外者がいる。人間には天敵がいない。人間は科学と文明で、襲いくるものも、何もしないものも打ち負かし排除してきた。かっては人間同士が天敵だったが、平和になれば、それもなくなった。しかし、生命は、生き残るためには、あらゆる手段を使う。地球生命体が放った最後の戦士、人間にとっては悪魔だが、それが「透明な存在」とみた。
 
東電OL殺害事件と神戸事件
 1997年5月18日の早朝、新聞配達員は、通りがかった神戸市内のある小学校校門前で、立ち止った。校門前に何か置いてある。なんだろうと近づいた。こうして、日本列島を恐怖のどん底にたたき落とした、あの事件がはじまった。いわゆる神戸事件である。
 2か月前に起きた、この事件と東電OL殺害事件。まったく関係ない事件簿にみえるが、その実、この事件は、共通の、もしくは同一の存在によって引き起こされたものと推測するのである。後期は、こうした車窓観察から、創作します。
児童虐待5万件超 10年度1万件増 関心高まる(朝日7月20日夕刊)
 児童虐待が激増している。
これも『透明の存在』の犯行
とみている。
 後期は、ジュナールの
『にんじん』を読みながら、
児童虐待も考えてみたい。
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2011年読書と創作の旅(前期)の記録
□4月18日ゼミ ガイダンス
□4月25日ゼミ 出席者11名 司会・椎橋 名作「日本国憲法、前文・九条」
        読み・嘉納治五郎『青年訓 精読と多読 名作・原民喜『夏の花』
□5月9日ゼミ 出席者9名 司会・三矢 テキスト『菜の花と小娘』
        時事評「原発事故について」提出課題合評 紙芝居口演「少年王者」 
□5月16日ゼミ 出席者4名 司会・内田 テキスト『網走まで』と解説
        3・11など課題提出作品の合評
□5月23日ゼミ 出席者5名 司会・杉山 テキスト『出来事』  
         時事評「原発問題討議」「人生相談」課題合評
□5月30日ゼミ 出席者5名 司会・春日 テキスト『正義派』時事評「原発問題」
        「人生相談・私のアドバイス」
□6月 6日ゼミ 出席者9名 司会・柳瀬 時事評「君が代問題」議論
        ゼミ誌編集会議。提出課題合評
□6月13日ゼミ 出席者4名 司会・武田 テキスト『夫婦』名作・詩編「谷間に眠る者」
□6月20日ゼミ 出席者4名 司会・杉山 テキスト『城の崎にて』提出課題の合評
         世界名作『あしながおじさん』前文
□6月27日ゼミ 出席者3名 司会・春日 ゼミ誌編集会議 テキスト『濠端の家』
         提出課題合評
□7月 4日ゼミ 出席者4名 司会・藤塚 ゼミ誌タイトル決め 提出課題合評
         テキスト『灰色の月』
□7月25日ゼミ 前期最終ゼミ 出席者
課題提出状況 2011・7・4現在 テキ=テキスト、一日=自分観察 
大野 純弥 →  4本 (テキスト2、一日2) □□□□
         
椎橋 萌美 →  3本(車内1、一日1、時事1) □□□
         
會澤 佑果 →  3本(時事2、テキスト1)   □□□
         
藤塚 玲奈 →  12本(一日5、時事3、テキ3、車内1) □□□□□□□□□□□
    
 春日 菜花 →  23本(車内3、一日8、時事4テキ6、創作2、) □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
藤原 侑貴 →  1本(テキ1) □
中村 俊介 →  2本(テキ1、時事1) □□
柳瀬 美里 →  9本(一日3、時事3、テキ3) □□□□□□□□□
杉山 知紗 →  19本(車内1、一日6、時事4、テキ7、創作1) □□□□□□□□□
□□□□□□□□□
三矢 日菜 →  5本(一日2、時事1、テキ2) □□□□□
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・173―――――――― 16――――――――――――――――
武田結香子 →  22本(車内2、一日9、時事4、テキ6、創作1) □□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□
内田 悠介 →  5本(一日2、時事1、テキ2) □□□□□
花井 三記 →  
※ 出席日数、課題提出の少ない人は、後期ゼミ頑張ってください。遅れ取り戻せます。
時事評・議題
1.「日本国憲法の改正について」 2.原発事故問題について 3.君が代起立問題
掲示板
夏休み課題 「わたしの夏休み」を提出ください。ルポ・エッセイなど自由
バイト・旅行・読書など2011年の夏休み体験談。
メールで送信9月20日までに。(9月26日配布の「ゼミ通信174」に掲載、ゼミで報告)
原稿提出は9月26日ゼミ(「ゼミ通信175」に掲載)
後期ゼミ授業 車窓観察(家族・新聞記事の事件、裁判など)
お知らせ 
■ 8月13日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会第245回読書会
作品『九通の手紙』池袋西口・勤労福祉会館 第7会議室 (下原ゼミ生0円)
※ 詳細並びに興味ある人は「下原ゼミ通信」編集室まで
■10月8日(土)~23日(日)「写真・童画家熊谷元一回顧展」清瀬市郷土博物館
10月15日(土)午後1時~ 講演「熊谷元一を語る」国立静岡大学・矢野敬一教授
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編集室便り
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
提出原稿は、メール、FAXでも受け付けます。(送信でもらえると二度手間と間違い打ちがなくなるので助かります)
ゼミ評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出(ゼミ誌原稿)+α = 100~60点(S,A,B,C)
楽しい夏休みを !
後期ゼミ、元気で会いましょう。

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