文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.182

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2011年(平成23年)11月28日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.182
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/26 10/3 10/17 10/24 10/31 11/7 11/14 11/21 11/28 12/5 
12/12 1/16 1/23
  
2011年、読書と創作の旅
11・28下原ゼミ
11月28日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. 通信182配布 「前回ゼミ」報告
2. ゼミ雑誌作成経過報告  課題発表「継子殺人未遂事件」
 
 3. ナイフ投げ美人妻殺害疑惑事件模擬裁判(テキスト『范の犯罪』)
4. 合同発表『剃刀』裁判稽古 名作読み・『生きている兵隊』ルポ
    
11・21ゼミ観察
 先週の21日ゼミは、春日さん、杉山さんの参加。武田さんは風邪の為、欠席とのこと。ゼミ誌編集の疲れも予想される。が、一日も早い快復をお祈りします。
58年前の小学一年生
参加人数から模擬裁判の代わりに、ビデオ鑑賞することにした。映像は、今から15年前1996年11月24日に放映されたNHKテレビのドキュメンタリー番組「教え子たちの歳月 50歳になった一年生」である。が、ロッカーにあったのは旧式のテープビデオ。DVDに落としてなかった。機械は江古田校舎にあるとのことで断念、後日、機会をみて観るこにした。代わりに、そのとき記念誌として私が編纂した写真集『五十歳になった一年生』を見てもらうことにした。1953年入学の小学一年生と43年後、50歳になった一年生を撮ったもの。
この写真集、ゼミ参加者のご両親には懐かしいだろうが、1997年頃に小学校に入学したゼミⅡの皆さんの感想は・・・44年間という歳月の開きがある。普遍として伝わるものがあるだろうか。それとも、ただの昔の写真として映るだろうか。ちなみに、昨年出版した私の拙書『山脈はるかに』は、この一年生がモデルである。
尾道幼女誘拐事件の模擬裁判の判決
 テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」の模擬裁判を杉山、春日で審議した。結果、春日の判決は有罪。猥褻目的かそうでないかは、本人しかわからぬところ。最悪、猥褻をとっても、実際はなにもなかったのを考慮して、懲役2年半とした。杉山も、その判断だった。判決は、原作では無罪。実際あった新潟の9年間少女誘拐は、無期から懲役14年、それから11年になったという。軽過ぎるのか、妥当なのか、重いのか。


『范の犯罪』を読む
この作品は、「ナイフ投げ曲芸師美人妻殺害疑惑事件」として審議する。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.182―――――――― 2 ―――――――――――――
最近のニュース観察  人間の謎、オウム真理教事件裁判終結
16年半前の事件とは何か
 16年半前、つまり1995年だが、5月、日本中を震撼させた事件の首謀者が逮捕された。(容疑者は、天井に造った狭い隠れ家に、逃走資金の札束を抱えヤモリのようにはりついて隠れていた)そして、その手下の幹部189人が罪に問われた。
告訴されたのは、13事件で計27人を殺し、数千人に重軽傷を負わせた罪。21日最高裁の裁判で13人の死刑が確定した。
現在、20歳の人が3、4歳の頃の事件であるから、いまの若い人は直接の記憶はないと思う。が、その後の新聞、テレビ、雑誌のメディアから知り得ている違いない。もっとも、戦後世代が、生まれる前年にあった戦争を実感できないように、この事件も歴史の一出来事としてみているかも。そこで、事件に至る概略を今一度、紹介してみよう。
 1970年半ば、一人の男が、九州から上京した。盲学校を卒業したその男の謎は、ここからはじまる。男は、目が不自由で盲学校に入ったが、当時の同級生の証言から、男は目が見えていたのではとの疑いもある。「屋上で、突き落とす」と言われた。こんな証言をテレビでみたことがある。男は、同級生たちを恐怖で支配していた。
 いかさま師の常で、彼らは非常に話術にたけている。現在のオレオレ詐欺の小悪党から、全ヨーロッパを手中にしたヒトラーまで、歴史を振り返れば枚挙にいとまがない。
 嘘や法螺は、小さいより大きな方が、信じこませ易いという事実は、いつも事件で知ることができる。盲目を装った男の嘘は、病気が治るという一般的詐欺をスタートに、荒唐無稽な嘘にと発展していく。空中を浮遊できる。水の中に何時間もいられる。壁抜けができる。そんな子どもだましの嘘だったが、なぜか、日本の最高学府の科学や物理学を学ぶ理科系の学生たちが引っかかっていった。この男を尊師と崇め、男が開いたオカルト宗教に帰依していったのだ。学生だけではない、最高医療を学んで米国から帰国した医師も化学者も弁護士さえも。現在、派生した団体の主催者は、なんと宇宙工学研究所出身者でもある。
 ゼミ通信編集室が、この男と、その一味のことをはじめて知ったのは、1989年11月5日だった。前日の4日横浜に住む弁護士一家三人が忽然と消えた。居なくなったのは弁護士夫婦と、幼いお子さん。アパートの部屋には、絨毯が少しズレていたのと、ある新興オカルト宗教のバッチが落ちていた。事件は、こんな謎めいた現場状況からはじまった。
 失踪した弁護士は、6月に「オウム真理教被害対策弁護団」を結成していた。オウム教というヨガ道場の新興宗教に息子や娘が入信し困っている。そんな親の依頼を受けての立ち上げだった。そんなことから、にわかにオウム教が注目されはじめた。最初のころは、鳥のオウムと間違えられるほどの知名度だったが、テレビをはじめマスメディアが、このカルト集団の名声を確固たるものにした。その意味でマスメディアの責任は大である。1989年8月に、なんと東京都は、この狂った宗教集団を宗教法人として認証した。あやしげな集団は、連日連夜テレビに登場し、益々人気を博すことになる。この宗教集団とは何か。新聞に報じられた概要は下記のようである。
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オウム真理教 東京都内でヨガ教室を開いていた松本智津夫死刑囚が1984年2月、前身の「オウム神仙の会」を発足させ、87年に改称した。信者数は95年3月に1万人を超え、海外にも拠点を持った。一連の事件後も存続し、現在は主流派の「アレフ」(信徒約1070人)と、分派の「ひかりの輪」(同約200人)に分裂。いずれも団体規制法に基づく観察処分の対象になっている。 (読売新聞2011・11・21)
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 この分派した団体に、年間100人もの若者が入信していて、アレフには死刑囚の写真が飾られ拝まれているという。なぜか、謎は解けないが、オレオレ詐欺に簡単にひっかかってしまう人たちが存在することを思うと、解けぬ謎でもないような気もする。編集室
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課題 6歳継子殺人未遂事件
1876年5月×日ロシアのペテルブルグでこんな事件が起きた
(実際の情報が少ないため、事件発生時と現場状況について多少の推理・憶測があります)
裁判員裁判の見本ともいえる裁判
日本には、現在1億3千万近い人間がいる。そのうち未成年者は2300万人というから選挙権の有権者は、1億人前後いることになる。自分が選ばれる確率は宝くじより低い、などと思ってはいけない。人間一生のうち67人に1人が裁判員となる割合だという。
 平成元年生まれの人たちが多いゼミの皆さんも例外ではない。というわけで、この事件を裁判員になったつもりで、評決してみましょう。(この事件は、1876年ロシアの裁判で陪審員制度で裁かれました。ある意味で裁判員の見本となる裁判です。)
「単純な、しかし、厄介な事件」(ドストエフスキー全集『作家の日記』上巻)
事件発端と推移
 1876年5月×日、午前7時頃(推定)ペテルブルグの警察分署に、一人の若い女が出頭した。若い女は、応対した警官に、「たったいま、継娘を4階の窓から放り投げて殺してきました」と、言った。つまり殺人を自首してきたのである。継娘は6歳、4階の高さは地上から十数メートルある。驚いた警察は、現場に駆けつけた。遺体を確認してこなかった、と言ったが、誰もが最悪を思い描いた。この季節にしてはめずらしく、雪が道路のそこここに残っていた。女が放り投げたという4階の窓下にも、いくらかの雪がはき積もっていた。警察は被害者を探した。6歳の女の子は、まったくの偶然に、その雪の中に落ちて気を失っていた。怪我一つなく、奇跡的に助かったのだ。警察は、女を継娘殺人未遂事件の犯人として逮捕した。はたして、この女の罪状は・・・・。現在、日本のあちこちで起こっている幼児虐待事件を思い出す。最近も三つ子の赤ちゃんの一人が虐待で死んだニュースがあった。
犯人の身元
 犯人の若い女は何者か。名前、エカチェリーナ・コルニーロヴァ。年齢20歳。職業、農婦。1年ほど前、妻が病死した子連れ男と結婚した。連れ子は6歳の女の子で、この事件の被害者となった。この夫婦は結婚当初から夫婦喧嘩が絶えなかった。妊娠中。
殺意の動機
 自己中心的な夫への憎しみ。自分を親戚のところへ行かせず、親戚が来るのも嫌がった。喧嘩のたびに、死別した細君を引き合いに出しては、「死んだ妻の方がよかった」「あのころは、世帯向きがもっとうまくいっていた(米川訳)」など言葉の暴力を受けつづけた。
 このためいつしか愛情より憎しみが強くなり、復讐したいと思うようになった。復讐は、何がてきめんか。それは「亭主がいつも引き合いに出しては自分を非難した先妻の娘を、亡きものにすること」だった。夫に対する面当てから、なんの落ち度もない6歳の継娘を殺そうと計画し、実行した。
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この事件について、春日さん・杉山さんに考えてもらいました。以下、二人の見方と判決です。
【検察の起訴と求刑】
杉山 幼児虐待と殺人未遂により懲役三年。計画性が高く非常に意図的、また再犯も考えられる。また、理由が娘自身の問題でなく、夫と先妻からのことで、娘は何の落ち度もない一方的な被害者。
求刑 → 懲役3年
春日 (夫に対する憎しみから、罪のない娘への明確な殺意)夫の言葉の暴力で容疑者は殺人の決意。結果、娘は助かったが、殺意があったのは証明されている。よって、懲役1年6カ月を求刑。
求刑 → 懲役1年6カ月
【弁護側の弁護】
杉山 夫がしばしば先妻について話すことで、娘への影響を考えなかったこと。また、容疑者に対しての態度も悪い。計画性は、あまり高くなく、衝動的。かつ自首してきていることから反省し、再犯は考えずらい。よって無罪。
求刑 → 無罪を主張
春日 もともと夫からの精神的ストレスが原因であり、被告人の精神状態を考慮すべき。
求刑 → 保護観察処分?
【裁判員の立場から】
杉山 道場するが、娘に落ち度がないのは事実。いたいけな子どもを夫の復讐の道具にするのは卑劣。
春日 夫への恨みから罪のない子への仕打ちにしては過激すぎる。結婚当初からならば離婚すればよかったのでは?精神状態は考慮すべきか・・・。
【裁判長としての判決】
杉山 → 有罪!幼児虐待により、懲役2年。
春日 → 有罪!懲役6カ月。
実際の裁判結果
第一回の判決
「犯行当時17歳以上20才未満に相当するエカチェリーナ・コルニーロヴァを2年8カ月の懲役に処し、その満期後、終身シベリヤ流刑」
第二回の判決・課題「なぜか?!」
第二審では、陪審員は「無罪」として、裁判長も「無罪」でした。彼らが一審を覆して「無罪」とした理由は何か。4点をあげてください。
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模擬裁判観察  ―テキスト志賀直哉『范の犯罪』から―        
ナイフ投げ奇術師美人妻殺害疑惑事件
 2009年五月から裁判員制度がスタートしました。裁判員として一般の有権者が参加しています。選ばれる確率は有権者全国平均で491Ⅰ人に一人といいます。この確率が低いか高いかは別として、選ばれる可能性は誰にもあります。2年が過ぎて、様々な問題点が、でてきています。なかでも死刑判決は、かなりの重責になっているようです。この制度がしっかり定着するために是非とも乗り越えていってほしいものです。
 下原ゼミでは、この裁判制度をより知るために、というか事件をより客観視できるように、後期授業は、テキストの志賀直哉作品や世界名作及び新聞記事のなかから殺人事件を取り上げ、模擬裁判仕立てにして、判決をだしてきました。
とりあげた作品は、『作家の日記』からは「継子殺害未遂事件」、テキスト志賀直哉からは『兒を盗む話』から「尾道幼女誘拐監禁事件」、『剃刀』から「剃刀職人客殺害疑惑事件」。カミュ『異邦人』から「太陽のせい殺人事件」などです。
今年度は、都合で、テキスト志賀直哉の作品二作しかできませんでした。本日は、そのなかの一つ『范の犯罪』を「ナイフ投げ奇術師美人妻殺人疑惑事件」として模擬裁判形式で発表します。この事件は、はたして過失なのか、完全犯罪か、難しい事件です。裁判員(観客)の判決は、どんなものでしょう。
裁判長 ・・・・・・・・・        語り手・・・・・
被告人の奇術師・・・・・・
見世物小屋座長・・・・・・
ナイフ投げの助手・・・・・
【模擬裁判開始】口上は、裁判所記録係り
□ 公判開始(口上)
 それでは、「ナイフ投げ奇術師妻殺害疑惑事件」の裁判を開始します。
起立 礼 !
□ 起訴(口上)
 
起訴状
 演芸一座の奇術師ハンは、兼ねてより妻殺害の計画を企て、ナイフ投げ演芸の最中、事故のようにみせかけ観客の面前で、妻を殺害した。未必の故意とも供述している。
□事件概要(口上)
 
 十月十五日、夜八時十三分頃、所沢中富南四の二十一にある演芸場で范(ハン)という若い中国人の奇術師の妻が演芸中に死んだ。演芸は、板の前に立った人に当らないようにナイフを投げていく芸。奇術師は夫婦で、この芸をつづけていた。この夜、奇術師の夫が投げたナイフが妻の首に刺さり頚動脈を切断。若い妻は、その場で亡くなった。
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 不意の出来事だった。当初、演芸に伴う事故とみられた。が、夫婦間に不和があったため故意と疑われ奇術師ハンは十月二十日、逮捕された。
 取調べで奇術師ハンは、「故意ではないが、(無意識に)故意があったかもしれない」と答えている。そして、妻の死を悲しむ心は、「全くない」とも話している。
□ 現場検証及び目撃証言(口上)
 事件の現場検証と目撃証言の報告
本件の被害者は、演芸一座のスタッフの女性、二十四歳、事件発生時に死亡。
本件の被告人は、死亡した被害女性の夫ハン、二十八歳、演芸一座所属の奇術師。
        
現 場 = 埼玉県所沢市中富南二の二十一、所沢文芸劇場・土壌館内の舞台 
目撃者 = ナイフ投げ演芸助手、観客三百人余り、巡査一名
       
凶 器 = ナイフ、出刃包丁ぐらいのもの刃わたり三〇センチ弱
状 況 = 戸板大の板の前に女を立たせ、二間(約三・七㍍)離れたところから奇術
       師が出刃包丁ほどのナイフを投げる芸をしていた。
       ナイフは、女の体から二寸(六センチ)と離れない距離に突き刺さる。奇
       術師は、掛け声とともに、体にナイフの輪郭をとるように次々と投げていた。
事件発生 = 3本目に投げたナイフが女の首に突き刺さった。頚動脈が切れたようだ。
       血がどっとあふれ、女は、前に倒れて動かなかった。約二十分後、一一九
       番通報で駆けつけた救急隊員が死亡を確認。即死だった。
目撃証言 =現場に一番近いところから見ていた助手の証言。
       被告は「あっ」と声を出しました。見ると女の首から血がどっとあふれてい
      た。女は、ちょつとの間、立っていたが、ガクリとひざを折った。刺さった
      ナイフでちょつと体がつられたが、そのナイフが抜けるとくずれるように女の
      体は前へのめった。その間、だれもどうする事もできなかった。ただ堅くなっ
      て見ているばかりだった。奇術師もその数秒間はおそらく私たちが、見ていた
      状態と同じだったと思う。真っ青になって目を閉じて立っていた。そのあと
      倒れた女の側に膝まづいて黙とうしていた。そのときは、ああ事故ってしまっ
      たと思った。が、あとで(とうとう殺したな)という考えが浮かんだ。
公 判 記録
語り手 ―― はじめに被告をよく知る関係者の訊問を行います。
座長、前に進み出る。
裁判官 「証人と被告との関係は ―― 」
座 長 「被告がいる一座の座長です」
裁判官 「あの演芸はぜんたいむずかしいものなのか ? 」
座 長 「いいえ、熟練のできた者には、あれはさほどむずかしい芸ではありません。ただ、
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    あれを演ずるにはいつも健全な、そして緊張した気分を持っていなければならない
    という事はあります」
裁判官 「そんなら今度のような出来事は過失としてもありえない出来事なのだな」
座 長 「もちろんそういう仮定 ―― そういうごく確かな仮定がなければ、許しておけ
    る演芸ではございません」
裁判官 「では、お前は今度の出来事は故意のわざと思っているのだな ? 」
座 長 「いや、そうじゃありません。なぜなら、なにしろ二間という距離を置いて、単に
     熟練とある直覚的な能力を利用してする芸ですもの、機械でする仕事のように必
     ず正確にいくとは断言できません。ああいう誤りが起こらないまでは私どもはそ
     んなことはあり得ないと考えていたのは事実です。しかし今実際起こった場合、
     私どもはかねてこう考えていたという、その考えを持ち出して、それを批判する
     事は許されていないと思います」
 
裁判官 「ぜんたいおまえは、どっちだと考えるのだ」
座 長 「つまり私にはわからないのであります」
裁判官 「そうか。下がってよろしい」
     座長、礼をして退席。
語り手 ――「つぎの証人、前へ」
     助手が証言台に立ち一礼する。
裁判官 「被告との関係は」
助 手 「被告の助手をしています。ナイフを運んだり、渡したりする役目です」
裁判官 「被告は、ふだんの素行はどういうふうだった」
助 手 「素行は正しい男でございます賭博も女遊びも飲酒もいたしませんでした。それに
    あの男は昨年あたりからキリスト教を信じるようになりまして、英語も達者ですし、
    暇があると、よく説教集などを読んでいるようでした」
裁判官 「妻の素行は」
助 手 「これも正しい方でございました。ご承知のとおり旅芸人というものは決して風儀
    のいい者ばかりではありません。他人の妻を連れて逃げてしまう。そういう人間も
    時々はあるくらいで、被告の妻も小柄な美しい女で、そういう誘惑も時には受けて
    いたようでしたが、それらの相手になるような事は決してありませんでした」
裁判官 「二人の性質は ? 」
助 手 「二人とも他人にはごく柔和で親切で、また二人ともに他人に対しては克己心も強
    く決して怒るような事はありませんでした。―― 」
      助手、ちょっと考えて、また続ける。
    「・・・この事を申し上げるのは被告のために不利益になりそうで心配でもありま
    すが、正直に申し上げれば、不思議なことに他人にたいしてはそれほど柔和で親切
    で克己心の強い二人が、二人だけの関係になるとなぜか驚くほどお互いに残酷にな
    ることでございます」
裁判官 「なぜだろう・・・ ? 」
助 手 「わかりません」
裁判官 「お前の知っている最初からそうだったのか ? 」
助 手 「いいえ、二年ほど前、妻が産をいたしました。赤子は早産だという事で、三日ば
    かりで死にましたが、そのころから二人はだんだん仲が悪くなって行くのが私ども
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    に知れました。二人は時々、ごくくだらない問題から激しい口論を起こします。し
    かし、被告は、どんな場合でも結局は自分の方で黙ってしまって、決して妻に対し
    て手荒な行いなどする事はございません。もっとも被告の信仰心がそれを許さなか
    ったでしょうが、顔を見るとどうしても、押さえ切れない怒りがすごいほどあらわ
    れていることもございます。で、私はあるとき、それほど不和なものならいつまで
    もいっしょにいなくてもいいだろう、と言ったことがございます」
     助手、深呼吸して
しかし、彼は妻には離婚を要求する理由があっても、こっちにはそれを要求する理由はないと答えました。
     … 自分に愛されない妻が、だんだん自分を愛さなくなる。それは当然のことだ、
    こんなことも言っていました。彼がバイブルや説教集を読むようになった動機も
    それで、どうかして自分の心を和らげて、憎むべき理由もない妻を憎むという、
    むしろ乱暴な自分の心のため直してしまおうと考えていたようでした。妻もまた可
    哀そうな女なのです、と… 故郷の兄というのが放蕩息子で家はつぶれて無いので
    す。… 身寄りもなく不和でもいっしょにいるほかなかったのだとおもいます」
裁判官 「で、ぜんたいお前は、あの出来事についてどう思う ? 」
助 手 「誤りでした事か、故意でした事かとおっしゃるのですか ? 」
裁判官 「そうだ」
助 手 「実は、私もあの時以来、いろいろ考えてみました。ところが考えれば考えるほど
     だんだんわからなくなってしまいました」
裁判官 「なぜ」
助 手 「なぜか知りません。おそらくだれでもそうなるだろうと思われます」
裁判官 「では、あの瞬間にはどう思ったのか。どっちかと」
助 手 「思いました。殺したな、と」
裁判官 「そうか、そのときの奇術師の様子はどうだった。あわてた様子はなかったか」
助 手 「少しあわてた様子でした」
裁判官 「よろしい、尋ねることがあったらまた呼び出す」
    
     助手、一礼して退席
語り手―― 休廷します。    
公 判 開始
語り手 ―― 公判を開始します。後半は、被告人への質問を行います。被告人、前へ。
裁判官 「今、座長と助手とを調べたからそれから先をきくぞ」
被 告 「はい――」
裁判官 「お前は妻をこれまで少しも愛した事はないのか ? 」
被 告 「結婚した日から赤子を産む時までは心から私は妻を愛しておりました」
裁判官 「どうして、それが不和になったのだ」
被 告 「妻の生んだ赤子が私の子でない事を知ったからです」
裁判官 「お前はその相手の男を知っているのか ? 」
被 告 「想像しています。それは妻の従兄です」
裁判官 「お前の知っている男か ? 」
被 告 「親しかった友だちです。その男が二人の結婚を言い出したのです。その男から
     私は勧められたのです」
―――――――――――――――――― 9 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.182
裁判官 「お前の所へ来る前の関係だろうな ? 」
被 告 「もちろんそうです。赤子は私の所へ来て八月日に生まれたのです」
裁判官 「早産だと助手の男は言っていたが・・・ ? 」
被 告 「そう私が言ってきかせたからです」
裁判官 「赤子はすぐ死んだといういうが・・・」
被 告 「死にました」
裁判官 「何で死んだのだ」
被 告 「乳房で息を止められたからです」
裁判官 「妻はそれを故意でしたのではなかったのか」
被 告 「あやまちからだと自身は申しておりました」
裁判官 「妻はその関係(従兄)についてお前に打ち明けたか」
被 告 「打ち明けません。私も聞こうとしませんでした。その赤子の死がすべての償いの
    ようにも思われたので、私自身できるだけ寛大にならなければと思っていました」
裁判官 「寛大になれたか」
被 告 「なれませんでした。赤子の死だけでは償いきれない感情が残りまなした。離れて
    いると時にはわりと寛大でいられるのです。ところが、妻が目の前に出て、そのか
     らだを見ていると、急に押さえきれない不快を感じるのです」
裁判官 「離婚しようと思わなかったのか」
被 告 「したいとはよく思いました。しかし、それを口にしたことはありませんでした」
裁判官 「なぜだ」
被 告 「私が弱かったからです。妻は、前からもし離婚されれば、生きてはいないと申し
    ていたからです」
裁判官 「妻はお前を愛していたのか」
被 告 「愛してはいません」
裁判官 「それならなぜ、そんなことを言ったのだ」
被 告 「ひとつには生きていく必要からだと考えます。両親はもうなく、別れても行くと
    ころがないと思っていたからです」
裁判官 「お前は妻に対し同情はしていなかったのか」
被 告 「同情していたとは考えられません。妻にとっても同棲は苦痛だと思ったからです」
裁判官 「それならなぜ、お前は思い切った態度がとれなかったのか」
被 告 「いろいろなことを考えたからです」
裁判官 「いろいろなこととは、どんなことだ」
被 告 「自分が誤りのない行為をしょうということを考えるのです――しかし、結局その
     考えは何の解決もつけてはくれませんでした」
裁判官 「お前は妻を殺そうと考えたことはなかったか」
被 告 「・・・・・」
裁判官 「どうです、殺意は・・・・」
被 告 「その前に死ねばいいとよく思いました」
裁判官 「そして、そのあとに殺そうと考えたのか」
被 告 「決心はしませんでした。しかし考えました」
裁判官 「それはいつごろからか」
被 告 「あの前の晩です。あるいは明け方です」
裁判官 「その前に争いでもしたのか」
被 告 「しました」
裁判官 「何のことで」
被 告 「くだらないことです」
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・182 ―――――――― 10――――――――――――――――
裁判官 「まあ、言ってみなさい」
被 告 「食事のことで、けんかになりました。したくがおそいので」
裁判官 「いつもより激しかったのか」
被 告 「いいえ、しかしいつになくあとまで興奮していました」
裁判官 「原因はあるのか」
被 告 「近ごろ自分に本当の生活がないということを苛々していたからだと思います。そ
     のせいか、あまり眠れませんでした。妻もそうだったと思います」
裁判官 「起きてからは、二人はいつもと変わらなかったか」
被 告 「はい、まったく口をきかずにいました」
裁判官 「お前は、なぜ妻から逃げてしまおうとは思わなかったのか」
被 告 「死んでしまったほうがよいと思うくらいなら、ですか」
裁判官 「そうだ」
被 告 「そのことは、どちらも、考えの外でした。実際殺してやろうという考えも、まだ
     遠くでした」
裁判官 「では、あの日は、殺意も計画もなかったのか」
被 告 「どうかしなければという気持はありました。が、演芸が近くなるとその気持も失
    せました。私は何の心配もしていませんでした」
裁判官 「そうか」
被 告 「あの演芸は、少しでも他の考えが入るとできません。妻のことを考えたら、
     あの芸は選ばなかったと思います。危険でない芸もしていましたから」 
裁判官 「では、どのへんから考えるようになったのか」
被 告 「あの晩のことは、よく覚えています。私は舞台にでると、いつものように紙を切
     ってナイフの切り味を観客にみせました。まもなく厚化粧した妻が派手な中国服
     を着て出てきました。私は、ナイフを手に妻と向き合いました。そのとき、はじ
     めて自分の腕が信じられない気持がしたのです」
裁判官 「どんなことでか」
被 告 「前の晩のけんか以来、はじめて目を合わせたからです。その時、突然、妻のこと
     が頭に浮かび、私は、この演芸を選んだ危険を感じたのです」
裁判官 「しかし、それでも実演した」
被 告 「はい、やめることはできませんでした。何かに操られているようでした」
裁判官 「そのときの様子を詳しく」
被 告 「私は無理に心を静め、最初に頭の上へ一本打ちこみました。ナイフはいつもより
     ちょつと上へささりました。次に、肩の高さにあげた腕のわきの下に打ちこみま
     した。投げるたびに指さきに何かこだわりを感じました。ナイフがどこに刺さる
     かわからない気がして一本ごとにほっとしました。
      私は落ち着こう落ち着こうとしました。しかし、それがかえって心の動揺をさ
     そいました。そんな気持を察したのか、妻が急に不思議な表情をしました。発作
     的に激しい恐怖を感じたようです。予感したのでしょうか。わかりません。
      私は、目まいのようなものを感じました。が、そのまま力まかせに、ほとんど
     暗やみめがけるようにあてもなく、ナイフを投げこんでしまったのです」
      一瞬、沈黙
裁判官 「その瞬間、意識はあったのか」
被 告 「とうとう殺したと思いました」
裁判官 「それはどういうのだ。故意でしたという意味か」
被 告 「そうです。故意でしたような気が不意にしたのです。しかしすぐに、これは事故
     と見せかけることができるとも思いました」
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.182
裁判官 「お前は巧みに人々を欺きおおせると思った」
被 告 「はい、しかし、前の晩、ちらっと殺すということを考えた。これは故殺の理由に
     なるだろうか。こんな考えも浮かび、だんだんにわからなくなってきました。私
     は、急に興奮した気持になり、愉快でならなくなりました」
裁判官 「いま、お前はどちらだと思う。故殺か、過失か」
被 告 「自分には、わかりません。いまはただ、過失と我を張るより、どっちかわからな
     いと言ったほうが、自分に正直だと思ったのです」
裁判官 「だいたいにおいて本当の気持のようだ」
被 告 「はい、ウソ偽りはありません」
裁判官 「ところで、おまえには妻の死を悲しむ気持は少しもないのか」
被 告 「まったくありません。私はこれまで妻に対し、どんな激しい憎しみを感じた場合
    にもこれほど快活な心持で妻の死を語りうる自分を想像したことはありません」
裁判官 「もうよろしい、ひきさがつてよろしい」
話し手 ―― それでは判決にはいります。
【この事件を、故意とみるか、事故とみるか】
争点  = 神経衰弱からくる被害妄想の結果か → 精神鑑定は必要か  
       それとも完全犯罪を狙った犯行か  → 状況証拠固め
謎   = 不仲のなか、なぜ危険演芸をつづけのか
検察側からみて →   
弁護側からみて →
裁判員の見方  →  
無罪(事故とみて)   →
有罪(完全犯罪とみて) →
裁判長の判決 =
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・182―――――――― 12――――――――――――――――
ノンフィクション劇場  柔道・町道場の灯を守って 土壌館物語
連載3
 おんぼろ道場奮戦記 
道場を引き受けるか否か
息子が柔道の道場に入門したことで、私は、ふたたび柔道をはじめることになった。一週間に一、ニ度、スポーツジムに通うつもりで道場に行って子どもたちと稽古した。健康管理にもなるので、私としは好都合だった。
しかし、それは一時のことで、まさかここで柔道をつづけていくことになろうとは、夢にも思わなかった。私は、文学で身をたてることしか頭になかった。
その私が、このオンボロ道場を譲り受ける事になったいきさつはこんなだった。それは、近づくアトランタオリンピックに沸く平成八年(1996)の五月はじめだった。
このころ私は、妻の病気や、近くに住む義兄の入院もあって、決まった時間に道場に行くのが難しくなっていた。そんなとき道場主の望月先生が庭の植木を剪定中、脚立から落ちて入院した。道場は閉鎖となった。が、半年ほどして再開された。息子は、ふたたび通うようになった。私は、しばらく休んでいたが、ある日、久しぶりに道場に行った。子どもたちはまだ、だれも来ていなかった。薄暗い中に望月先生が柔道着姿でぽつ念と立っていた。私の顔を見ると「やあ」といっただけで、押し黙った。何か、考え事があるようだったので、
「どうかしましたか」と、尋ねた。
「うん、ちょつと」いつもは大声でかつ言語明瞭な先生だったが、このときはな
ぜか小声で口ごもりながら頷いた。
私は、からだの具合でも悪いかと
「大丈夫ですか」と聞いた。
「いやあ」先生は、首を振ったあと、落ちこんだ声でつぶやくように言っ
た。「この道場、たたもうと思っている」
「えっ、たたむって、道場やめるんですか」
私は、驚いたふうをしてきいた。実際は、もしかしたら、とひそかに思っていた。
息子から通う子どもが減ってしまって、いまは、息子を含めニ、三人きりだと聞い
ていた。そんなことで、道場をたたむのも仕方がないことだと思っていたところだ。     
「たたむって、どういうことでしょうか」私は、再度たずねた。
「じつは、引っ越すことになってね」先生は、他所事のように言われた。まだ、ご自身でも、事実をしっかり受け止めていないようにも見えた。
「はあ、そうですか」私は、実感のないまま頷くよりほかなかった。
 先生のお宅が引っ越す。まったくの寝耳に水の話だった。先生の家は、この町で自動車修理工場を三代にわたって営んでいた。住まいは道場から歩いて二分とかからない高台にあった。それも三年前に改築したばかりである。
先生は二代目で、いまは三代目の息子さんが事業主となっている。最近になって二十歳過ぎたお孫さんもどこからか帰ってきて手伝いはじめた。そんな家業安泰の話を聞いたばかりでもある。それに先生は、家業を息子さんに譲ってから道場にくることだけを老後の楽しみにしているようにみえた。
―――――――――――――――――― 13 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.182
年齢も考えると、いきなりの引っ越し話は容易に信じかねた。
「本当なんですか」
私は、念を押すようにたずねた。
「いやあ、ほんとうだ」
先生は、大きく頷いた。それから、ちらっと周囲を見回すと、小声で急に転居することになった理由を話された。
 それによると、先生が脚立転落事故で入院しているとき、息子さん夫婦が家業の自動車修理工場を、土地の広い郊外に移すことに決めてしまったというのだ。それで住まいも工場近くに移すことにしたらしい。
「不意に言い出しやがってね。名義を変えたらこれだ。が、文句もいえんしね。引っ越すしかなくなっちゃったよ」
明治生まれの、頑固一徹な先生も老いては子に従うしかないようだ。
「それで、どうしょうかと考えているんだ」
先生は、再びつぶやいてため息をついた。
気の毒に思えたが、私が心配してもはじまらない。
「そうですか、残念ですねえ」
私は、そう答えるしかなかった。
小さな町道場というのも、昔風でなんとなく気に入っていた。柔道ができる立派な武道館や広い体育館はあちこちにある。が、地元の子どもが通うとなると、やっぱり町道場に限る。その町道場がなくなると思うちょっと寂しい気がした。
「まだ使えるからねえ」先生は、道場を見まわしながらひとりごちるようにつぶやいた。自分の手で建てた道場だけに、よほど未練があるのだろう。
「もったいないですよねえ」私は相槌を打った。
「だから、考えちゃうんだ」先生は、ため息混じりに何度も頷いた。なにか奥歯にもののはさまったような言い方だった。それで、追い打ちをかけるようにきいた。
「解体業者に頼むんですか」
「うーん、そうするしかしょうがないかもしらんが」先生は曖昧に言葉をにごした。そのあと、不意に私を見て、きっぱりした口調で言った。「どうだい、相談だが、きみがこの道場を引き受けてくれないか」
「え!?ここをですか・・・」
「なんとか、やってくれないかね」
口に出したことで言いやすくなったのか先生は、頼み口調になった。自分で建てられた道場だけによほど愛着があるらしい。
私は、心中を察して同情した。しかし、二つ返事で引き受けるわけにはいかなかった。この春手術した妻の病気も、気がかりだったし、友人が創刊した月刊誌の編集手伝いを引き受けたばかりだった。それに私がPTA会長を務める高校で、二十周年創立記念事業の実行委員長も兼務することになっていた。加えて、今年から、私が主催する読書会のお知らせ版として毎号十六頁のミニコミ紙の発行をはじめたのだ。そして、なによりも肝心の小説を書かねばならなかった。そんなかんだで、その話は到底無理のようにも思われた。しかし、その場で断りづらかったので
「考えてみます」と、保留にした。
町道場を引き受けるということは、その経営も引き受けるということになる。生徒が
10人も20人といれば別だが、閑古鳥が鳴くいまの状態では、ほとんど赤字とみた。自動車修理会社の社長だったからできる道楽だが、ほとんど無収入の文筆家業の私には無茶な話だった。我家はほとんどが大学病院図書室に勤める妻の稼ぎで成っていた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・182―――――――― 14――――――――――――――――
二人の高校生
まったく引き受ける気はなかったが、考えてみますといった手前、一応、食卓で話題
にした。徒手空拳の私が廃屋に近い赤字道場を引き受けることなど、とうてい有り得ぬ話だった。たとえ木の葉が沈み石が流れようと、である。
ところが、家人の反応は意外なものだった。何を勘違いしたのか
「引きうけなさいよ。いい話じゃない」と、あっさり言って熱心にすすめた。「こんな
話はニ度とないわよ」
彼女は柔道のことは、まったく門外漢だった。知っているのは、私が学生時代からや
っているスポーツということと、自分の父親が若い頃やっていたということで好意的ではあった。が、黒帯の意味も知らなかった。もしかして、老先生が、相当な資産家で、親切から土地つきで譲ってくれるのではないか、そんなおとぎ話のようなことを想像したのかもしれない。とにかく、ずいぶん乗り気になった。
しかし、家人が賛成してくれても私は、なかなか決心がつかなかった。断れば、家人
から何故にと詰問があるだろうし、引き受ければ経済的問題に追い込まれるのは必至とみた。引き受けるべきか、断るべきか。ハムレットの心境がつづいた。
道場主となれば、稽古だけしていれば済むというわけにはいかなくなる。実際その通りだった。そのときはわからなかったが、引き受けたとたん、ご近所問題や柔道組織のことで、いろいろ面倒なことが持ち上がった。
しかし、そのときはまだ、知る由もなかった。私は、決めかねていたが、心のどこかで望んでいる自分もあった。本好きの少年が、書店主になることを夢みるように、柔道好きな者なら一度は道場主になってみたいと思う。坂本龍馬や千葉周作といった剣客が集った道場を持つことが私の少年の頃の夢でもあった。
日本の柔道人口は二十万人、フランスは七十万人。この数字が示すように、いまや日本の柔道競技者は世界において減少国となりつつある。道場に通う生徒が少なくなっているのも当然といえる。現に、望月道場は、小学生二人だけと、まさに風前の灯であった。
私が休んでいるとき高校生が二人入門していた。友人同士ということだが、高齢の先生と小学生だけの道場に失望してか、ずっと休んでいた。
何日かして、道場に行ってみると、ちょうど二人が来ていた。一人は背が高い、私は164㌢だが、彼は180㌢はある。からだもがっしりした長髪の高校二年生。どこか不良ぽかった。もう一人は、中肉中背の高校生で、通っていた空手道場が面白くないので、と言った。ノッポ君は、野球部だったが、先輩とのいざこざがあって退部した。帰宅が早くなってブラブラしていたら母親に愚痴られた。それで、小学校時代の友人を誘って、入門したという。
が、道場には小学生しかいない。老先生も、さすが相手は無理。そんなことで、道場にきても、プロレスごっこのようなことをしていたらしい。柔道が、どんなものかまったく知らなかった。「わざは、だいたい知ってますよ」と言った。柔道を簡単にみている口ぶりだった。柔道技は、知っていても稽古がなければ通用しない。
「じゃあ、ちょつとみてあげよう」
私は言って柔道着に着替えた。
未経験者に柔道技をかけるほど楽なことはない。二人を順番に相手すると、膝車、隅返し、背負い投げ、払い腰で、ぽんぽん投げた。
二人は、体が大きい自分たちが小柄なおっさんに、苦もなく投げられるのが納得いかなかったようだ。すぐに必死になって向かってきたが、手もなく畳の上に投げ転がされ、しまいには疲れきって息も絶え絶えに座り込んだ。
「練習すれば、柔道わざは、だれでも、つかえるようになるよ」
―――――――――――――――――― 15 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.182
私は、笑って言った。
 二人は、何もいわず大汗をふきながら飲み物を買いに外に出て行った。入れ替わりに老先生が様子をみにきた。結局、この日、子どもたちは、息子以外、誰もこなかった。私は、老先生に、道場の件は、引き受けるのは難しいと告げた。
「そうか・・・」老先生は、つぶやいて帰っていった。小柄な背中が妙に寂しそうだった。
 着替えて、玄関をでると、夕闇のなかで二人の高校生が待っていた。
「なんだ、帰ったんじゃないのか」
それには答えず、二人は神妙な顔でいった。
「柔道、教えてください」
「お願いします」
二人は、かわるがわる頭を下げた。
「困ったな」私は、苦笑して言った。「この道場、なくなるそうだ」
「知ってますが、道場つづけて、柔道教えてください」
二人は、なおも頭を下げた。
 しかたなく私は、「わかった、わかった。なくなるまで教えるから」
と、くつろぐほかなかった。作家を志してからいまだ、万年文学青年をつづけている私である。いくら家族が賛成してくれたからといって、小説を書くことならまだしも、一銭にもならない柔道にこれ以上深入りするには一家の大黒柱として後ろめたいものがあった。「柔「柔道などやっている暇があったら」こんな声を家族や親族からきけば、すぐにあきらめただろうが、家族も親族も妙に乗り気なのだ。「ぜひやってみたら」義父からも電話ですすめられた。引き受けるべきか、受けないべきか日々揺れる心境だったが、こんな折り、その迷いを決めさせる出来事があった。
この時期、私は、NHKのあるドキュメンタリー番組作りに協力していた。米寿を迎えた元小学校教師が、五十歳になった、かっての教え子を訪ね歩く、という話で、私は郷里で開かれる三十余年ぶりの同級会の幹事を任せられていた。
「道場で柔道をやっているところを撮らせてもらいたい」
八十八歳の恩師について、全国にいる同級生一人一人を回っているテレビのスタッフが、そういって頼みにきた。たいていは職場であったり、自宅撮影であったりしたが、私は、自宅も団地建替えの引っ越し騒ぎで、郷里の方言でいう「ささらほうさら」(散らかって手のつけられない)状態で、とてもテレビに映せるものではなかった。それで、現在の私を紹介するには、柔道の稽古をしている絵しかなかった。
そんなわけで私の現在は、道場で柔道を教えている、という、何かはっきりしないあやふやな設定で撮影されることになった。が、私には、道場引き受けを決心をつけさせる出来事となった。
1996年11月24日NHKテレビ「日本点描」番組で「教え子たちの歳月」が放映された。私は、町道場で子どもたちと柔道をしている場面が流れた。道場の件は、必然的に、道場を引き受ける方向に動いていった。私は、ひょんなことから町道場の道場主を肩代わりすることになった。皆は、よい話だ、運が向いてきた。そういって喜んだ。
しかし、世の中、そんなうまい話はない。すぐに私は、不動産の話は、簡単なことではないことを思い知ることになる。まったくの柔道バカとは、このことだった。
巨大な粗大ゴミ
十年通っていてまったく知らなかったというのも変だが、わたしはてっきりこの場所は老先生の土地だと思いこんでいた。ところがそうではなかった。 つづく
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・182―――――――― 14――――――――――――――――
2011年後期ゼミ旅日誌
□9月26日ゼミ 参加者7名=椎橋萌美、會澤佑香、藤塚玲奈、春日菜花、杉山知紗、武田結香子、内田悠介。課題「私の夏休み」発表=春日菜花「窓辺の光景」、藤原佑貴「何でも読んでやろう」。課題「なんでもない一日の記録」発表=藤塚玲奈「サクランボとお婆さん。 課題「未来車内観察」発表=武田結香子「10年後の私」。ゼミ誌編集=武田。
□10月3日ゼミ 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「私の夏休み」発表=武田結香子「夢を見つけた夏」。課題「車内観察」掲載=會澤佑香「寒い日」。課題『にんじん』感想・意見掲載=椎橋、春日、杉山、武田、藤塚、會澤、内田。ゼミ誌編集=武田。
□10月17日ゼミ 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「失礼ながら」「尿瓶」「うさぎ」=杉山、春日、武田。ゼミ誌編集=武田。
□10月24日 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「もぐら」「つるはし」「湯のみ」「ねこ」=春日、杉山、武田。課題「車内観察」発表=春日「工事中のホームで」。課題「日常観察」発表=武田「家族」。ゼミ誌編集=武田。
□10月31日ゼミ 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。テキスト『剃刀』「剃刀職人客殺害疑惑事件」模擬裁判=武田・春日・杉山口演。ゼミ誌編集=武田。
□11月7日ゼミ 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「車内観察」発表=杉山「幼馴染と携帯」。テキスト脚本口演=武田・杉山・春日。ゼミ誌編集=武田。
□11月14日ゼミ 参加者=春日菜花。テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」についての=春日。伊那谷、他についての雑談=春日。ゼミ誌報告=武田「印刷交渉成立」
□11月21日ゼミ 参加者=杉山知紗、春日菜花。課題「車内観察」発表=春日「不幸な友」。
テキスト『范の犯罪』読み。「尾道幼女誘拐事件」判決考。
□11月28日
Ⅰ ゼミ誌作成に関する今後の重要書類、以下2点の書類提出に注意
1. 【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。
2. 11月末までに印刷会社に入稿。
3. 雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。
4. 印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。
ゼミ雑誌の納付日は、2011年12月12日です。厳守のこと。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
編集室便り
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
提出原稿は、メール、FAXでも受け付けます。(送信でもらえると二度手間と間違い打ちがなくなるので助かります)
ゼミ評価は、以下を基本とします。
出席日数 + 課題提出(ゼミ誌原稿)+α = 100~60点(S,A,B,C)
11月は「児童虐待防止推進月間」
厚生労働省は、11月を「児童虐待防止推進月間」として防止のための啓発活動を実施しています。その一環として、標語を募集していましたが、以下に決まりました。
守るのは 気づいたあなたの その勇気
望月由太郎先生は東京の深川の方で町道場をひらいていた。家業の自動車修理工場が繁盛し、より広い敷地を求めて郊外のこの町に移ってきた。そして、この町でも道場をはじめたのだ。が、土地は借地だったのだ。
「柔道好きな地主に話したら、田んぼを貸してくれたのだ」
と、いった。
なんでも二十年契約で借りているらしい。が、当の地主さんは、だいぶ前になくなり、代が代っていた。契約も、あと三、四年で切れるという。
「なに、貸してくれるさ」
望月先生は、あっさりいった。
が、わたしは不安だった。いまどき、住宅街にある三十坪の土地を、ただ同然で貸してくれる殊勝な篤志家などいない。案の定、先生と訪れた地主さんのお店では、剣もほろろだった。私は、完全に怪しい人物とみられていた。
「おじいちゃんがね、望月先生との関係で貸してたんですが、望月先生もいなくなるんじゃ、契約の継続の意思はありません」
当然といえば当然の答えである。どこの馬の骨とも知れない中年男が、米寿の店子と突然やってきて、まだ道場をつづけたいから土地の契約を継続してくれといわれても、できぬ相談である。契約した途端に道場をやめて何かの商売をはじめるのかも知れないのだ。そんな事件もちょくちょくニュースある。それだけに、普通の地主なら、はなからうけつけなかったろう。そして、わたしが道場をつづけるという話もなかった。が、この町で代々続いた地主でもあり、酒屋や米屋を営んでいるというところから、せっかく長年つづけている道場を、契約者が引っ越すということでたたんでしまうというのも気の毒に思えたのか
「契約の切れるまで、あなたを信用してお貸ししましよう」
と、いってくれた。
 望月先生に契約書をみせてもらうと、あと五年あった。この五年、長いのか、たった五年か。このあいだにわたしは作家としてデビューできるのか。先のことは、わからない。しかし、とにもかくにもわたしは、これからの五年間は道場主なのだ。一人でも多くの子供たちに柔道を教えたい。私は希望に燃えてオンボロ道場を引き継ぐことになつたのである。
三 最初の生徒たち
たとえオンボロでも晴れて道場主となった私である。これまで通りぼんやりと稽古をしているだけではすまない。まずはじめに私がしなければならないことは生徒を増やす算段だった。私が休んでいるあいだ生徒はぐつと減っていた。このとき通ってくる生徒は小学生二人と、ノッポの清水君とヤセの宮澤君、この高校生二人きりだった。
望月先生は、新聞の折りこみ広告をすすめてくれた。が、一回こっきりで二万も三万するうえ印刷代も馬鹿にならないので、やめにした。かわりに、手製の絵入りの看板を何枚か作って、公園や学校周辺に掛けてまわった。しかし、入門者はなかなかあらわれなかった。が、ある日を境に、入門者がふえた。
まずはじめに三年生の保坂が友人を連れてきた。近くの自衛隊から二十六歳の山田青年が入門してきた。つづいて大学生の冨澤君が入門した。そして、つづいて小学二年生の佐野が入門した。佐野の家はお母さんがお琴の先生で、
「きびしくやってください」
が注文だった。
 この家はお父さんも厳しそうで、大会で会ったときなどさかんに
「びしびしやってくださいよ」
と、はっぱをかけられた。
 一気に四人もの生徒が増えたのである。全員で八人となると、オンボロ道場もさすがにぎやかになった。
 私は、とくにこれといった指導方法は考えていなかった。楽しく柔道が練習できればいい。それが私のモットーであった。大学生の冨澤建作君も入門してきた。冨澤君は、いまどきめずらしいほとの礼儀正しい若者だった。
 幸先のよいスタートとなった。以下が、そのときのメンバーである。
小学三年生 佐野貴則
小学四年生 小林 保
小学四年生 保坂知稔
小学五年生 遠藤康弘
高校二年生 宮澤圭輔    白帯
高校二年生 清水貴之    白帯
大学一年生 下原良太    初段
大学ニ年生 冨澤建作    白帯
自衛隊員  山田慎一郎   白帯
ときに平成六年、梅雨も明けた七月のことであった。世界は近づくアトランタオリンピックに沸いていた。
そうして、この夏、日本柔道は、とかく批判的な結果に終った。が、私は、このような感想をもった。
          
一九九六年(平成八年)八月七日 水曜日 朝日新聞 朝刊「声」欄
柔道の変化は自他共栄実現
             船橋市 下原敏彦(四九歳)
 金三個、銀四個、銅一個。過剰なまでの
期待のなかで日本代表の柔道選手たちはよ
く戦ったと思う。帰国した選手たちに改め
て拍手を送りたい。だが、すばらしい成果
とは反対に柔道の試合に対する日本国内の
評価には残念なものがある。
「世界柔道と日本柔道とは違う」、このよ
うな言葉を、よく耳にする。日本柔道の敗
因は国際ルールにある、未熟な審判にある。
メダルを八個もとったのに・・・こんな分
析である。おまけに三十日本欄では柔道は
「もはや『道』ではない」とまでさげすま
れている。いずれも時代錯誤としか思えな
い意見である。
 ルールが日本にだけ不公平だったと思え
ないし、勝利を素直に喜ぶ各国選手の態度
も醜くはなかった。特に田村選手を破った
無名のケー・スンヒ選手の礼の正しさには
感動すら覚えた。
 試合は勝つべき者が勝ち、負けるべき者
が負けた。ただそれだけであった。そこに
作為や理不尽など少しも感じなかった。
 選手たちは皆、一生懸命、技を競いあっ
た。それを二つの柔道やルールのせいにす
るなど、選手を愚弄するものだ。それより
柔道の変化は創始者嘉納治五郎の理念、自
他共栄の精紳により近づいたとみるべきで
ある。

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