文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.186-1

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2012年(平成24年)1月23日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.186
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/26 10/3 10/17 10/24 10/31 11/7 11/14 11/21 11/28 12/5 
12/12 1/16 1/23
  
2011年、読書と創作の旅
1・23下原ゼミ
1月23日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。ゼミ2教室
1. 「2011年読書と創作の旅」を終えて 
☆前期・後期を振り返って   ☆旅の感想
2.  最後のテキスト読み『孤児』(家族観察)志賀直哉
3.  世界文学・名作読み『最後の授業』(戦争観察)ドーテ 
さようなら2011年、読書と創作の旅 !
 本日をもって「2011年、読書と創作の旅」を終えます。振り返れば、桜散る4月半ば、13名でスタートした旅でしたが、2011年という凶年のなかで落後者続出、13人中1人不明、多数がついて来れずといった惨憺たる状況でした。しかし、雨の日も風邪の日も、歩みを止めず読むこと、書くことの習慣化に励んだ人たちもいました。そこに希望があります。継続は力、それを信じて進んでいってください。さようなら!
1・16報告ゼミ誌合評(春日菜花・武田結香子さん作品)
 この日、合評した作品は、春日菜花さん、武田結香子さんの自由創作作品。春日さんは、創作と体験を入り混ぜた家族観察。武田さんは、日常とファンタジーを組み合わせたメルヘンタッチの作品でした。20~30枚作品。
講評:全体的に孤独を意識したものが多かったように思います。「絆」がいわれるように社会を反映しているようでもありました。理解し合えない魂のさすらい。テキスト志賀直哉作品の中編『和解』、長編『暗夜行路』は、絆をもとめての彷徨いです。授業での読みは実現できませんでしたが、長い人生です。いつか読んでみてください。
小倉百人一首大会
 16日は、参加者で百人一首を使った遊び、坊主めくり、カルタ拾いをおこないました。


坊主めくりは、武田さんにつきがありました。3回戦で2連勝でした。
カルタ拾いは、春日さん、はじめての経験ながら奮戦しました。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.186―――――――― 2 ―――――――――――――
2011年、「読書と創作の旅」を振り返って
 大震災、原発事故、政治迷走、経済低迷といった混乱のなか、まさに嵐の一年でした。旅の目的だった読むこと、書くことの習慣化は身につけることができたでしょうか。テキストにした志賀直哉が、なぜ小説の神様と呼ばれるのか。それを知るには、まだまだ読むこと、書くことの旅が必要かと思います。観察することを忘れず続けていってください。
 以下、2011年の旅日記です。
□4月18日ゼミ ガイダンス、多数参加。
□4月25日ゼミ 出席者11名 司会・椎橋 名作「日本国憲法、前文・九条」
        読み・嘉納治五郎『青年訓 精読と多読 名作・原民喜『夏の花』
□5月9日ゼミ 出席者9名 司会・三矢 テキスト『菜の花と小娘』
        時事評「原発事故について」提出課題合評 紙芝居口演「少年王者」 
□5月16日ゼミ 出席者4名 司会・内田 テキスト『網走まで』と解説
        3・11など課題提出作品の合評
□5月23日ゼミ 出席者5名 司会・杉山 テキスト『出来事』  
         時事評「原発問題討議」「人生相談」課題合評
□5月30日ゼミ 出席者5名 司会・春日 テキスト『正義派』時事評「原発問題」
        「人生相談・私のアドバイス」
□6月 6日ゼミ 出席者9名 司会・柳瀬 時事評「君が代問題」議論
        ゼミ誌編集会議。提出課題合評
□6月13日ゼミ 出席者4名 司会・武田 テキスト『夫婦』名作・詩編「谷間に眠る者」
□6月20日ゼミ 出席者4名 司会・杉山 テキスト『城の崎にて』提出課題の合評
         世界名作『あしながおじさん』前文
□6月27日ゼミ 出席者3名 司会・春日 ゼミ誌編集会議 テキスト『濠端の家』
         提出課題合評
□7月 4日ゼミ 出席者4名 司会・藤塚 ゼミ誌タイトル決め 提出課題合評
         テキスト『灰色の月』
□7月25日ゼミ 前期最終ゼミ 前期を振り返って
前半は、主にテキストから車中作品を取り上げ、自らも車内観察を書いて発表しました。
併せて社会観察として、社会問題となっている「原発問題」「君が代起立問題」を議論。
□9月26日ゼミ 参加者7名=椎橋萌美、會澤佑香、藤塚玲奈、春日菜花、杉山知紗、武田結香子、内田悠介。課題「私の夏休み」発表=春日菜花「窓辺の光景」、藤原佑貴「何でも読んでやろう」。課題「なんでもない一日の記録」発表=藤塚玲奈「サクランボとお婆さん。 課題「未来車内観察」発表=武田結香子「10年後の私」。ゼミ誌編集=武田。
□10月3日ゼミ 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「私の夏休み」発表=武田結香子「夢を見つけた夏」。課題「車内観察」掲載=會澤佑香「寒い日」。課題『にんじん』感想・意見掲載=椎橋、春日、杉山、武田、藤塚、會澤、内田。ゼミ誌編集=武田。
□10月17日ゼミ 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「失礼ながら」「尿瓶」「うさぎ」=杉山、春日、武田。ゼミ誌編集=武田。
□10月24日 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題『にんじん』感想発表「もぐら」「つるはし」「湯のみ」「ねこ」=春日、杉山、武田。課題「車内観察」発表=春日「工事中のホームで」。課題「日常観察」発表=武田「家族」。ゼミ誌編集=武田。
□10月31日ゼミ 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。テキスト『剃刀』「剃
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.186
刀職人客殺害疑惑事件」模擬裁判=武田・春日・杉山口演。ゼミ誌編集=武田。
□11月7日ゼミ 参加者3名=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。課題「車内観察」発表=杉山「幼馴染と携帯」。テキスト脚本口演=武田・杉山・春日。ゼミ誌編集=武田。
□11月14日ゼミ 参加者=春日菜花。テキスト『兒を盗む話』「尾道幼女誘拐事件」についての=春日。伊那谷、他についての雑談=春日。ゼミ誌報告=武田「印刷交渉成立」
□11月21日ゼミ 参加者=杉山知紗、春日菜花。課題「車内観察」発表=春日「不幸な友」。
テキスト『范の犯罪』読み。「尾道幼女誘拐事件」判決考。
□11月28日 参加=杉山知紗、春日菜花、武田結香子。司会=杉山。「継子殺人未遂事件」考察。「ナイフ投げ美人妻殺害疑惑事件」裁判。合同発表会「剃刀殺人」裁判稽古。
□12月5日 参加=春日菜花、杉山知紗、武田結香子。司会=杉山。『江古田文学78』配布、杉山さんの受賞作品「へびとむらい」が掲載。名作店内観察『殺し屋』、「剃刀職人客殺害疑惑事件」裁判稽古。武田編集長報告、ゼミ誌9日に届く予定。
□12月12日 合同発表(清水・山下・下原ゼミ)「剃刀職人客殺害疑惑事件」裁判
□1月16日  参加者、春日菜花、武田結香子。ゼミ誌合評、百人一首大会。
□1月23日  最後家庭観察テキスト『孤児』、名作『最後の授業』
 後半は、家族観察として、ジュナールの『にんじん』読みを行った。あわせてテキストから事件作品を取り上げ、模擬裁判を実施した。『剃刀』『兒を盗む話』『范の犯罪』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
家庭観察  テキスト『孤児』小説の神様の機微
 この作品は1910年(明治43年)に発表された。『網走まで』と同じ綴りのなかにあった「離縁」という草稿。8歳年下の妹は、本当はいとこだが、父親が早くに亡くなり母親は再婚してしまった。父はいなく、母も嫁いで、親籍の家の子となった人間の心境。志賀直哉は愛情もちながらも冷徹な眼差しで客観視していてる。
「敏子は8つ年下で私を兄さん兄さんと、非常に頼りに思っています。だから私も真から可愛いと思っています。冷やかなところがあるということは、何となく感ぜられました」
幸福な家庭のなかにあって、ただ一人異邦人の妹の孤独と寂しさの観察作品。
世界名作   アルフォンス・ドーデー『最後の授業』
アルフォンス・ドーデー(Alphonse Daudet 1840-1897)この作家を知らなくても、シーボルトの名は、たいていの日本人は知っている。1823年、オランダ商館の医員として長崎に着任。日本の動植物・地理・歴史・言語を研究。鳴滝塾を開いて高野長英らに医術を教授。1828年帰国、59年再来航、62年に帰国。日本の医学、開国に大いに貢献したドイツ人。著書に『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』などがある。(1796-1866)
 1866年の春、ドーデーはシーボルトと知り合った。作家の言葉を借りれば「私たちはすぐに大の仲良しとなった」。場所は、パリ、テュイルリー宮。オランダ国勤務のバヴァリヤのシーボルト大佐は、ナポレオン三世に不思議国ジャポン開拓の国際的協会創立計画の嘆願に訪れていた。若い作家は、著名な冒険家の話を喜んで聞いた。気に入ってシーボルトは、16世紀の日本の悲劇「盲目の皇帝」の校閲を頼んだ。が、ドイツに戦争が起きて頓挫。若い作家は、あきらめずにミュンヘンに追った。「・・・そりゃあ君すばらしいぜ」大佐はその晩ばかに元気だった。が、翌朝、自宅に行くと彼は亡くなっていた。72歳だった。「盲目の皇帝」は題だけで終わった。
◆この作品は、たんに文字通り最後の授業ということでとりあげたもので、政治的・思想的意図はありません。日本も戦前は、似たようなことをしてきました。が、ここでは、そうしたことの批判感想ではなく、あくまでも文学的にみて世界名作作品としてです。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.186―――――――― 4 ――――――――――――――
「 透 明 な 存 在 」 の 正 体
      「ドストエーフスキイと現代の問題」1999年シンポジウム報告から 
                                下原 敏彦
 「人を殺して、なぜいけないのか」と問う少年たち。「自分の体でお金を稼いで、なぜ悪いのか」と答える少女たち。杉山さんの「へびとむらい」やゼミ誌『旅路報告』の藤原侑貴さんの「不登校くずれ」などにみるように現代の問題は、より不可解で、理解しがたい問題となってきている。彼、彼女たちは、何故にそうした行動をとるのか。謎に満ちた現代の問題。はたしてドストエフスキーで解くことが、語ることができるだろうか・・・。
ここでは、その正体を「透明な存在」と表した神戸の少年Aの事件簿を考察しながら、謎解きを探ってみた。
以下は、前号のつづきです。(2回目の掲載、加筆)
四 、 癒 し と 再 生
 アルコール、ギャンブル、摂食障害など、いわゆる依存行為に取り憑かれた人々が、正常な暮らしを取り戻すことは極めて難しいといわれている。神戸の事件をはじめ父親殺し、子供殺し、児童虐待、少女売春、不登校など噴出する現代の問題に、はたして解決への道はあるのか。それはとりもなおさず「透明な存在」に打ち勝つ方法はあるかということでもある。「透明な存在」が操るコントロールという呪縛を解くもの。それは、はたして何か。
 先ごろ新聞で知ったことだが、非営利組織(NPO)「ニュースタート事務局」という団体がある。「学校に行かなくなる、あるいは定職に就こうとしない若者の再起を手助けする」組織らしい。たとえば彼らが「引きこもり」の若者を助けるためにとった作戦は「兵糧攻め」だった。送金を止め、落城を待つのである。逆境に弱い現代の若者、すぐに出てくると予想
した。が、若者は手ごわく、「三万円で、半年もしのぐ猛者」もいたという。なぜ、そんなに持ちこたえることができたのか。現代の若者の心の深層に「富への懐疑」があるのでは、彼らはそう分析した。なぜ、若者は手ごわかったのか。私は、若者が我慢強かったからでも時代への反発意識があったからではなく、たんに「透明な存在」の意のままに過ごしただけ、と思っている。奴は狡賢だ。内にあって人間たちの行動をじっと観察している。棲みついた肉体が滅ぶ寸前まで、じっと様子を窺っているのだ。そして、支配する肉体が死まで追い詰められたとき、ようやくにして投降するのだ。
 たいていの場合、このように物質的に、あるいは精神的な力を頼んでの治療(「透明な存在」を取り除こうとすること)が試みられている。エクソシストや悪魔払いもそうだが、アメリカでは、自分たちで航海させたり幌馬車で砂漠を旅させたりする方法があるという。日本では、死亡事件を起こしたヨットスクールが有名である。つまり、肉体を極限状態にすることて゛「透明な存在」をその肉体の心から追い払う。その方法は、仮に功を奏すことがあっても、かなり危険な方法といえる。
 「透明な存在」との闘いについて、少年Aは、作文でこんなことを述べている。
「魔物と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。」と。
 ドストエフスキーは、ギャンブルという魔物との闘いに勝った。なぜ作家は、彼の心を支配しつづけた「透明な存在」を、きれいさっぱり追い払うことができたのか。その解明こそ、現代の問題に苦しむ人々を救う事になるのでは・・・と信じる。
勝利の日、その日は突然にやってきた。その記念すべき日のことを作家は一八七一年四月二十八日のアンナへの手紙にこう書いている。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.186
「信じてほしい!じつは私の身に重大なことが起きたのだ。過去十年間にわたってわたしを苦しみつづけてきた、あのいまいましい賭博熱が、いまここにいたって消え果てたのだ。」だがアンナは、すぐには信じなかった。「もちろんわたしは、夫のルーレット遊びの熱がさめるというような大きな幸福を、すぐに信じるわけにはいかなかった。どれほど彼は、もうけっして遊ばないと約束したことだろう。それでもその言葉が守れたためしはなかったのだ。(『回想のドストエフスキー』)」と冷ややかだった。
 しかし、この約束は真実だった。アンナはこう証言している。
「その後夫は、何度も外国に出かけたが、もはやけっして賭博の町に足を踏みいれようとはしなかった。」
 ドストエフスキーは、なぜアリ地獄から脱出することができたのか。なぜ「透明な存在」という悪魔に打ち勝つことができたのか。彼は、このことについて何も語っていない。ドストエフスキーは、どうして自身の重大事について、触れようとしないのか。大いなる謎である。もしかしてドストエフスキー自身にも、よくわからなかったのかも知れない。
 しかしこの謎は、『アンナの日記』(木下豊房訳)や『回想のドストエフスキー』(松下裕訳)を読むと、いくぶん解けるような気がする。ドストエフスキーから「透明な存在」が去ったわけ。それはアンナ夫人の、根気ある無限の愛と温かな見守りがあったからではないだろうか。イソップ物語にみる『北風と太陽』がそれをよく表している。旅人のマントを力づくでとろうとする北風は、強引に「透明な存在」を取ろうとする医学や教育関係者に似ている。取ろうとすればするほど、「透明な存在」は、取り憑いた人間の心にへばりついて離れようとしない。短絡的な結論ではあるが、私にはそう思えてしかたがない。
案外、「透明な存在」の弱点はそんな単純なところにあったのではないか。「透明な存在」という悪しきマント。その呪われたマントを脱がすには、強い突風でも灼熱の太陽でもない。春の陽だまりのようなやさしい暖かな日差し。そして、いかなる嵐にも揺るがぬ大地。アンナ夫人には、そんな陽光のような愛と、強い意志があったのだ。と。
 「透明な存在」とは恐ろしい怪物。存在宇宙の破壊者である。この存在の前には、いかなる医学も、いかなる知識も経験も無力である。唯一、打ち勝つことのできるもの、それはア
ンナのような愛に満ちた観察眼であり、ドストエフスキーが持ちえた人間観察への興味である。この両者の観察したいという意志があったことが「透明な存在」に打ち勝つことができた最大の要因。私は、そのように解釈し、謎解きたい。見守ること、つまり観察すること・・・それが大切だ、と。
たら、ねば、は歴史において禁句ではある。が、神戸の少年Aの両親が書いた「知らなかった」「気がつかなかった」とわびる『この子を生んで』の告白本を読むと、早くに気がついていたら、観察していたらと、悔やむ気持ちになる。
まとめになるが、少年Aに取りついた「透明な存在」の正体。それはドストエフスキーにとりついた賭博熱と同族のもの、強烈な依存行為ではなかったか、と推理するものである。
「透明な存在」という名の悪魔、これに対抗するには、医学や科学の力でも、祈祷や教育でもない。イソップ童話にある「北風と太陽」にみる、太陽のやさしく穏やかな陽の光である。
                                   完
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・186 ――――――― 6――――――――――――――――
ノンフィクション劇場  柔道・町道場の灯を守って 土壌館物語
連載6
 おんぼろ道場奮戦記 
概略1984年4月、小学校に入学した息子は近所にあった柔道の町道場に入門した。が、道場主が77歳という高齢だったことから、柔道経験のあった私が師範代を務めることになった。スポーツクラブに通うつもりで軽く引き受けた。ところが、ある日、突然に、老先生から道場を譲りたいと相談された。そのとき私は、友人の月刊誌を手伝うこともあって、柔道からを洗おうと思っていた。が、そのとき入門してきた二人の高校生から柔道を教えて欲しいと頼まれた。結局、そのまま師範代をつづけることになった。道場の話は立ち切れた。
1996年11月24日NHKテレビ「日本点描」番組で「教え子たちの歳月」が放映された。写真家熊谷元一が、43年前の教え子たちを訪ねて写真に撮るという企画だった。教え子たち一人一人の現在を熊谷が追い、その後をテレビの撮影隊が追った。私の現在は、柔道師範だった。それが後押しして私は、町道場を引き受ける決心をした。私は、一夜にしておんぼろだが35畳の柔道場、オンボロ道場とはいえ、一軒の家の所有者になったのだ。もしかして運が向いてきた。家族は喜んだ。が、糠よろこびだった。道場は借地で、借地契約期間もとうに過ぎていて、いまは、地主から借地返還を迫られていた。
平屋でトタン屋根の道場は、道場とは名ばかりで、廃屋同然だった。何のことはない私は、巨大な粗大ゴミを引き受けてしまったのだ。御年90になる老先生には今さら、やめます、ともいえず困った。が、解体して更地にするには金がかかる。子どもたちも数人通っている。こんなことから、とりあえず、つづける他なかった。不動産屋は一日も早く駐車場か資材置き場にしたいようだった。が、駅前の事務所に出向き、子どもたちの居場所のためにと押し問答したあと、保護者たちに捺印してもらった嘆願書を突き付けた。そのことが功を奏したのかおんぼろ道場は残った。寝技はさして得意ではなかったが、何かしら寝わざで勝ち残れた。そんな気がした。入門者は増えたが、道場は日に日にひどくなっていった。そして1998年(平成10年)1月15日、道場は、大雪で決定的な被害を受けた。
息子が成人式だったこの日、昨夜来からの大雪となった。各地で小屋倒壊のニュースが相次いだ。道場は、雪の重みに耐えてはいたが、倒壊寸前だった。傾いだ屋根、ボロボロの壁板と畳。雨漏り。もう道場は、たたむしかない、と思った。が、子どもたちは、やめなかった。設備の完備したところより、オンボロの道場で稽古するのを楽しんでいるようだった。
私としては、だれもいなくなったらやめようと思っていたが、そんなかんだで、なかなかたたむ機会を得なかった。そうする間に4年の歳月が過ぎた。
もうだれの目にも道場の限界はあきらかだった。しかし、そんななかでも入門者は、つづいた。やめるべきかつづけるべきか。私はハムレット状態のなかで、心内を書い1文を
朝日新聞の「声」欄に投稿した。採用され2002年5月8日の朝日新聞に掲載された。
投稿は、思わぬところで力を発揮する。以前、「医師への謝礼どうにかならないか」を書いたとき、大きな反響があった。が、オンボロ道場で稽古しているだけの話では、どうにもならないだろう。そんな徒労感はあったが・・・・。
しかし、世の中は不思議である。その投稿が思ってもみない事態を引き起こしたのだ。ちなみに、そのときの投稿は、以下のようなものである。
ニ00ニ年(平成十四年) 朝日新聞 五月八日朝刊
子どもが集う道場は町の灯    
 いつのまにか、道場で柔道をけいこする子どもたちが大
勢になった。畳はボロボロ、トタン屋根は穴だらけ。雨が
―――――――――――――――――― 7 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.186
降っても風が吹いても心配なオンボロ道場だ。一年半前、
道場の借地契約が切れた。「町道場の灯を消さないで」。
子どもたちの熱い声に押されて、地主さんにお願いして道
場は残った。
 息子が小一で入門し、それから十数年、高齢の道場主に
代わって指導してきた。何度もやめようと思ったが、父親
に反抗していたり、両親が不仲だったりと、家庭のいろん
な事情を抱えながら通ってくる子どもたちを見ていると、
投げ出すわけにもいかなかった。
 運動ができる立派な建物は、どこの町にもある。が、いま
子どもたちが必要としているのは地域の中の運動の場であ
る。先日も近くの商店街で働く若者が二人、入門した。店
を閉じた後、仕事着のまま駆けつけ汗を流している。
 土曜日も休みになったことで、これからは子どもたちの
入門も多くなるかも。続けられる限り道場を続けてみよう。
オンボロ道場再建日誌
■ 五月二十日 月曜日 晴れ 午前十時頃、日本テレビの高橋と名乗る女性から電話あり。用件は、五月八日の朝日新聞で「声」欄を読んだ。興味を持ったので道場を「パワーバンク」という番組で取り上げたい。「一度、話に伺ってもよろしいか」の用件。日曜日の昼に放映されている番組というが、一度も見たことはなかった。怪しい感じでもなかったので、承知した。すると、いきなり「明日、道場を見に行きたい」といった。急なのでちょっと戸惑ったが、断わる理由もないので午後一時に約束した。が、「何何テレビですがクイズに当たりました」といったようないたずら電話もよくあるので、半信半疑だった。
■ 五月二十一日 火曜日 晴れ 午後一時、折りよく娘のモモが家にいた。大学が休みだというので、一緒に道場に行くことにした。イタズラなら誰も来ないだけ。来る、来ない。そんな話をしながら道場前に出ていると、とおく成田街道のほうから、四人の男女が徒歩で坂を下りてくるのが見えた。昼間は、人通りのない住宅街だけに、そうかも知れないと思った。が、車でないのが怪しんだ。普通テレビ関係者は、ワゴン車で来る。そう思い込んでいた。4人は、どんどん、こちらに向かって歩いてくると、遠くから頭を下げた。やはりそうか。津田沼からバスで来たらしい。本当だった。何かほっとした。男二人に女二人だった。名刺受け取る。「PBK 日曜昼12:30~ (ブタマーク)日本テレビ放送網株式会社」とあり、一人一人名刺をだし名前を名乗った。男性が内田と笠原。女性が高橋と安達。内田は、チョビひげで四十前後。名刺にデレクターとあった。後の三人は三十前後の若者。彼らを道場の中に案内した。あまりの荒れように驚いた様子だった。4人は、穴の開いた天井や
■ 壁をため息をついてながめた。とてもテレビに写すには無理だろう。彼らがあきらめて帰るのを想像した。ところが、なぜか、彼らは、こそこそと話をするばかりで埒があかない。十分の後、デレクターの内田氏は、腕組みしてうなるように「なんとか、撮りたいですね」といった。あまりあっさりいうので、変に思った。「そうですか」私は気のない返事をした。いい加減な番組かも知らない。1~2分、撮るだけかも。「いいですよ」私も軽い気持ちで言った。「局に帰って協議しますが」と断り
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・186 ―――――――― 8――――――――――――――――
ながら内田氏は、番組の説明をはじめた。「善人」と呼ぶボランティアの若者が困っている人を助ける番組だという。こちらには一切、負担をかけない。迷惑もかけない。頼んだときだけ居てもらえれば充分。撮影は簡単とのこと。要は、若者たちが掃除でもして道場をきれいにするらしい。が、なぜか曖昧な気がした。話に聞けば、番組は、方向音痴の若者を治すとか、足が悪くて買い物に行けない人の代わりに買い物に行ってやるとか、そんな簡単な手助けだった。オンボロ道場は、手助けするにしても、手に負えないだろう。案の定、若い三人は、番組にするにはちょっと無理かな。そんな顔だった。が、なぜか一人デレクター氏だけが、やけに熱心だった。しきりと、局に帰ってからを連発していた。
しかし、雰囲気からボツ公算が高かった。もし撮ることになったら「穴のあいた天井には紙でも貼ってテレビ映りがよいようにするしかないですね」そう冗談言って見送った。又、連絡すると言ったがあきらめたようだ。
道場の土地契約は一年前に切れている。もし千に一つテレビ撮影がはじまったら、
テレビなんぞに映されて、既成事実をつくられては困る、すぐ返してくれ。そう迫られやしないかと不安になった。もっとも、そのときは、それを理由にやおめようか。いつやめようか、と考えていただけに、それもよかった。しかし、他方では、まだつづけい思いもあった。それで私の気持ちは複雑だった。
■ 五月二十四日 金曜日 日本テレビの高橋さんから電話。「会議の結果、やる方向に動いているんですが」本気かよ。「ちょっと待ってください」私はあわてて言ってきった。よい話か、どうかわからなかった。面倒にも思えた。
■ 五月二十五日 土曜日 日本テレビから電話。もしやるとしたらOKしてくれるかどうかの打診だった。本気らしい。生徒や保護者、地主さんに聞いてからと返事。
■ 五月二十六日 日曜日 道場の生徒に電話。明日、集ってもらうことにした。
■ 五月二十七日 月曜日 夜、全員に集ってもらう。子供たちの保護者もきた。内田
デレクターが説明。本格的に改築したいとのこと。費用、いくらかかっても全額日本テレビがもつことを約束した。形として生徒たちが三千円ずつ出し合って道場を直すという美談にするという。なぜ、どうして、そこまでしてテレビ局が、そんな疑問はあったが、オンボロ道場がよくなるなら、それに越した事はない。うまい話である。個人的には承諾したかった。が、なにしろ土地契約切れの道場だけに不安だった。地主の篤志と温情で借りているだけに、判断は地主に任せるほかなかった。
練習生は全員賛成した。どれだけよくなるかはわからないが、少なくても今よりもよくなるだろう、見通し。工事を若い人に請け負ってもらえないかとの話。発注は(株)日本テレビ。支払いは心配ないと思った。しかし、一般の若い人たちはちょうど、忙しい時期で、工事手伝いは無理とのこと。内田デレクターも当てにしていたので落胆する。テレビ局の大道具に相談するという。結局、この夜、九時半まで番組などの説明。
■ 五月二十七日 月曜日 朝、日本テレビの高橋女史から電話。本日午前十時三十分に道場を見に行きたいとのこと。時間に道場に行く。内田デレクターが、リホーム会社の社員数名を連れてきていた。(株西友リホーム) 社員はマイクロバスで。背広の上から作業服を着た社員たち。が、巻尺などを手に道場の回りを調べていた。内田デレクターいわく、社に帰って大道具に相談したら、リホーム会社を紹介されたとのこと。どうしても、このオンボロ道場を、よくしたいとのこと。うれしかった。リホーム会社の社員は、一時間近く、あっちこっち見て回った。その結果、答
―――――――――――――――――― 9 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.186
えは「無理です」。壊して、新たらしくプレハブで作った方がいいという。土台、床、壁、天井、屋根、全部、腐っていていつ倒壊してもおかしくないとの調査結果。
「全部、なおしてください。どのくらいかかります」
「どのくらい、といっても」リホーム会社の社員は困惑顔だ。
「言ってください、だいたいでいいですから」
内田デレクターは、食い下がる。「言ってくださいよ」
「プレハブなら新築で百万あれば」
「いえ、この状態で、やるとしたら」
「それは、無理です」
上役らしい中年社員は、きっぱり言った。
「金額を言ってくださいよ」
内田デレクターは、あきらめない。
「金額ではないんです」中年社員は、理由を言った。「職人が嫌がるんですよ。こういう仕事は。五百万、一千万でもだめです。文化財をなおすようなもんですから」局の大道具も嫌がったようで、この企画、どうやら暗礁にのりあげたようだ。日本テレビ一行、もう一度編集会議すると帰る。やっぱり、そんなうまい話はないものだと思う。地主さんのこともあるので、ほっとするが残念な気持ちにもなる。
■ 五月二十八日 火曜日 日本テレビから吉報。地元の解体屋に頼めそうだとのこと。どうやら本決まりしそうな雰囲気。それなら地主さんの承諾を得なければと伝える。
■ 五月二十九日 水曜日 日本テレビの女性社員二人きて金子商事に話す。反対はされなかった。ほっとする。が、まだ半信半疑。夜、解体会社、白井市の(株)橋本土
木の若専務が道場を見にくる。がっしりした短躯で四角い童顔。漫画のガッチャンに似ている。以後ガッチャンと呼ぶことにする。床下などをはがして点検。老朽化とシロアリ被害のひどいのに驚きながらも「これテレビ局にみんななおしてもらいましょうよ」ささやく。なかなかの好漢。内田デレクターの「お願いできます」の頼みにガッチャン、「大変みたいですが、道場のために引き受けましょう」と頼もしい返事。再建工事決定する!不安と期待が入り混じる。  
■ 六月 一日 土曜日 晴れ 真夏日 七時半過ぎモモと道場に行く。番組スタッフ、ロケ隊、大勢の関係者が既に到着して、道場や周辺の撮影をはじめていた。番組の司会役の町田アナウンサーを紹介される。テレビでは、よくニュースも読むそうである。柔道着に着替える。音声係りの人がマイクを懐に取り付ける。午前十時から子どもたち稽古。七名。「善人」と呼ばれる若者たちは背と胸にゼッケン。以後、番号で呼ぶことにする。昼食後、分担決め。各班を決める。畳み係り班、壁板など見積り係り班、手伝ってくれる専門の業者を探す係り班(こちらはすでにガッチャンが決まっているが、そこはバラェティ番組だからとのこと)、各班ごとに出かけて行く。
午後の大半は待ち時間。夜八時半過ぎまで撮影。一日中、稽古着。大半の時間が待ち時間で潰れた。
撮影終了九時。十時、康子と「夢庵」で夕食。善人の若者二人、外から手をふる。どこまで帰るのか。彼らも明日から大変そうだ・・・・。
■ 六月 二日 日曜日 晴れ 市民柔道大会。寄藤君の車で有村を道場まで迎えに。小学生は七名全員が出場。一般は高梨君が仕事の都合で欠場。高村君分からず。成毛君から仕事があるので間に合えばとの連絡。が、欠場で不戦敗。良太決勝に残る。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・186 ―――――――― 10――――――――――――――――
が、強豪市川選手に内股で一本とられる。四時過ぎ道場に行く。畳と床板がきれいさっぱりはがされている。善人二人と橋本土木の職人が作業。八時作業終了。
■ 六月 三日 月曜日 晴れ 八時半開ける。善人二人、スタッフ三人。善人二人天井をはがしはじめる。着替え場と机の周辺を片づける。塙、足立の母親がきて手伝う。前の家の佐々木さんにペンチを借りる。モモ、飲み物を買いに地主さんの店に。工事の進み具合を聞かれる。内田宗佑君、小関幸治君手伝いにくる。夕方、姉と、生徒の母親たち全員見に来る。母親たちデレクターからおにぎりづくりの場面撮影を依頼される。小学生と道場周辺をランニング。スタッフ、追いかけて撮影。業者待ちで作業終了、八時半。
■ 六月 四日 火曜日 晴れ モモは大学。善人の若者は誰も来ず。大工さん一人と橋本土木の若い衆二人。スタッフの女性と弁当を買いに。地主の主人がみにくる。あまりの大工事にびっくりして帰る。ふたたび心配になる。が、もうなるようにしかならない。腹をくくり土台作り手伝う。高校生の内田宗佑君手伝う。サッカーW杯、日本対ベルギー戦。スタッフの一人テレビ観戦したいようだったが、作業八時半過ぎまでつづく。心体ともくたくた。
■ 六月 五日 水曜日 晴れ 朝、地主さんの店に飲み物を買いに。主人から「近所に迷惑かけないでください」と注意されるが、「大変ですね」とも言われたのでほっとする。善人の若者は誰も来ず。大工さん一人だけ。土台に角材を打つ。内田宗佑と一緒に手伝う。夕方、子どもたちとランニング。七時半に作業終了。
■ 六月 六日 木曜日 晴れ モモは学校。善人、誰も来ず。大工(うちださん)一人。土台作り完了。姉の車でスーパー「たかよし」に飲み物と弁当を買いに。クーラボックスの大きいのを姉から借りる。それまでは足立さんから中ぐらいなのを借りていた。花柄のスカートをはいたタレント風女性が来訪。日本テレビの須藤女史。
この番組では一番偉い人との紹介。
スタッフの高橋女史から相談。職人にビール券かなにかを謝礼してくれとのこと。いつのまにか主客転倒。やらせて欲しいと頼みこんできたのに、こちらが頼みこんでやってもらっている形に。図々しいので、「こちらは好意で撮影に協力している」と釘を刺す。五時半に作業終了。姉の家で按摩器にかかる。
■ 六月 七日 金曜日 晴れ モモ大学。大工さん三人。事情がわからず、不満そうだったので、この修理工事の経緯を詳しく説明する。納得する。天井梁の補強。太い角材を五本あげる。午後から善人一名(中村君)、隣り(鹿)のおばさんと話す。文句いってないので安堵。夕方六時、モモくる。八時過ぎまでかかる。デレクター
生徒の母親たちに明日の準備を依頼。大物タレントがくるらしい。トイレとおにぎりづくり。トイレは足立さん宅を借りることにする。
■ 六月 八日 土曜日 晴れ 七時半、道場。テレビのロケバス既に到着。町田アナウンサーと善人四人。十時過ぎ、モモ一緒にロケバスで白井市にある橋本土木の廃材置き場に向かう。広大な廃材置き場で、廃材を探す場面を撮影。使えそうなベニヤを軽トラックに積む。ロケバスの中で時間待ち。留守中、道場には番組出演の大物タレントがきているとのこと。トイレを貸して欲しいといったのはこのこと。ガッチャン待ちで二時半、一時間半遅れで戻る。このため大物タレントとの対面ならず。子どもたちと母親がおにぎりを持ってくる。お団子屋さんの豊下君が、巻き寿司とお団子を運んでくる。子どもたちと昼食。二時半、作業開始、床に運んできたベニヤを張る。善人二人は玄関のひさしを修理。夕方、作業終ってから善人たち話し合い。八時半、撮影終了、撮影隊ロケバスで帰る。この日、池袋芸術劇場で読書会があったが、開催を康子と堤さんに依頼する。
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.186
■ 六月 九日 日曜日 晴れ 八時、道場を開ける。モモ先に行く。十時、姉の車で康子と行く。姉の差し入れのスイカをだす。寄り藤隆弘君、内田宗佑君、小関幸治君が手伝う。壁のトタンをはぐ。善人四名、午後一人帰る。昼、戻る。一時に静岡大学の矢野敬一先生来訪。インタビュー。学生の「ひがんさの山」の感想が違うことについて。他、熊谷先生の授業の話。四時、姉の車で道場にアイスを持っていく。モモたちは買出し。戻ってモモ、用事。六時作業終了も善人会議。七時半散会。寄藤宅で夕食。
■ 六月 十日 月曜日 晴れ 作業休み。台風近づいているとのこと。橋本さんがビニールシートをかけにくるとのことで何度か道場に。夕方、来て張る。子どもたちとランニング。モモ、スタッフ一緒に走る。
■ 六月十一日 火曜日 晴れ時々曇り、台風四号近づいて強風。大工さん四名。新顔三人。いきなりよその現場から連れてこられ不満。説明して納得する。善人、七番の中村君と四番の真貝君の二人。屋根と天井の補強。モモ、学校へ。作業終了六時。
■ 六月十二日 水曜日 曇り、時々小雨 大工二人、善人七番、四番の二人。屋根、角材と防水シート。壁にサッシの窓を取り付ける。午後から天井補強。小関君くる。子どもとスタッフ、ランニング。六時作業終了。
■ 六月十三日 木曜日 曇り 善人四番の真貝君一人。姉、お茶を持ってくる。天井補強作業。五番善人佐藤君くる。土浦から、今日は会社を休んで参加したとのこと。モモと姉、弁当をとりに。七番善人、中村君くる。道場の写真を探す。越智君の両親から電話。北京から帰国したとの連絡。宏君と正君をまた通わせたいとのこと。作業順調。デレクター、今度の日曜日までに終了させたい意向。
■ 六月十四日 金曜日 曇り 小雨 肌寒い日になる。善人四番、七番さんの二名。
大工さん一人。午前中で帰る。午後から善人二人で天井角材張り。五月二日に怪我をした左足の親指、まだ腫れている。スタッフは一名。畳班の撮影に行ったとのこと。六時半終了。作業進む。W杯、日本2-0でロシアに勝ち、16強。
■ 六月十五日 土曜日 曇り 康子は高円寺に、医療シンポジウム参加。モモとスタッフの車でスーパーにペンキを買いに行く。撮影。天井、屋根、壁のトタン打ち。善人二人、大工さん三人。九時までかかる。ほぼ完了。
■ 六月十六日 日曜日 曇り いよいよ最後の日。六時に道場に行く。ロケバス到着。善人の若者、五人。内壁のベニヤ打ちを撮影。子どもたち十時三十分集合。ペンキ塗りを手伝う。昼にお弁当をもらって帰る。予算余ったので看板を買いにロケバスで店に。内田夫妻、寄藤隆弘君が同行。内田宗佑君、小関幸治君は残って畳待ち。畳は、見つけられなかったといったが。道場に戻ると畳が入っていた。埼玉の方で見つけたらしい。が、バラエティ番組の造られた感動場面。女性スタッフがトイレで携帯を落とす。拾い出そうとしたが赤ランプがついていて、あきらめる。できあがった道場で子供、スタッフ全員で受け身の練習。撮影。モモ、看板に下原道場と書いて終わり。道で、弁当食べながら缶ビールで乾杯。
六月二十三日(日)、昼十二時三十分から日本テレビで「おんぼろ道場再建」前編が放映された。どんな作品ができたのか心配していたが、よくまとめてあった。あちこちから「よかった」「感動した」との電話やメールをもらった。ひとまずほっとした。
かくてオンボロ道場での私の奮闘は終りを告げた。この先、どれほどつづくか、確証はないがつづけられる限り、この新しく生まれかわった道場と歩んでいこうと思う。
 投稿はつづく=2003年12月8日「振動は困る 町道場に難題」
 2006年3月16日「カエル」2006年7月28日「カエル飼って子供ら変わる」
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・186―――――――― 12――――――――――――――――
掲示板
2012年の文芸研究Ⅱはテキスト志賀直哉&世界名作
2012年の文芸研究Ⅱは、2011年同様、書くこと、読むことの習慣化を目指します。テキストは志賀直哉の車中作品、生き物作品をとりあげ、自らも「車内作品」「生き物作品」を書いて発表していきます。志賀直哉関連で「嘉納治五郎について」も触れます。
 併せて、世界名作作品(短編)の読みもすすめます。読むことの習慣化として。
2012年文芸研究Ⅲは、
熊谷元一研究のススメ
 文芸研究Ⅲでは、熊谷元一研究をススメます。
 昨年の早春、南信州にあるある山村の宿に泊った、ジブリの宮崎駿映画監督は、長い夜を退屈しのぎに女将が貸してくれた写真集ひらいた。昔の山村や村人の風景。ありふれた写真集。が、頁をめくる監督の手が遅くなった。監督の眼は、完全に写真に囚われていた。長い沈黙のあと「すごい写真だ」監督は思わず嘆息した。そして「撮影者は」と聞いた。「去年の秋、亡くなりました」と女将は言った。「101歳で、お元気だったんですよ」「そうですか、まったく知らなかった。日本にこんな写真家がいたなんて」監督は残念そうにつぶやいた。
 写真家・童画家・教育者だった熊谷元一は、最期までアマチュア写真家を貫いたが、堂々『日本の写真家40人』の一人である。氏の写真に魅せられる人は国外問わずいまもじりじりと増え続けている。観察と継続、好奇心。氏の作品に普遍を知る!
テキスト岩波写真文庫『一年生』ある小学教師の記録・他写真童画集
お知らせ
☆ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
2012年2月18日(土)池袋勤労福祉会館第7会議室 作品『弱い心』
時間 → 午後2時~   詳細は以下、編集室に
☆『ユリイカ 1』(2012 青土社)マンガ家・武富健治特集(ド読書会会員)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
編集室便り
  住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
ゼミ授業評価採点は、以下を基本とします。(4単位)
60点 = ゼミ誌掲載  20点 = ゼミ出席日数 
15点 = 提出課題数  1~5点 = α
60+20+15+5 = 100(100点~以上は100とします)
江古田では身体に気をつけて頑張ってください

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑