文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.3-1

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ 2012年5月11日発行
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信
BUNGEIKENKYU Ⅲ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
熊谷元一研究No.3                                

編集発行人 下原敏彦

                              
4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6 7/20 (ゼミ4教室)
  
観察を記録する、観察を創作する
5・11下原ゼミ
5・11ゼミは以下の要領に添って行います。(ゼミ4教室)
 
1.ゼミ連絡、「通信」配布 課題提出「写真の感想」、「私の記憶」、「『白い馬』感想」  
2.ゼミ報告 → 4・27ゼミ報告、DVD「知るしん」観賞について
3. 資料検証 → 『一年生』撮影まで、動機、当時の時代背景 
4.熊谷とサローヤン → 両者の比較について、『我が名』の読み
4・27ゼミ報告 DVD観賞NHK番組を見る
長野放送制作「知るしん」で熊谷元一を知る
熊谷元一とは、どんな人か。既に一昨年亡くなっているので直接に知ることは叶わない。が、101歳までの長寿の軌跡には、その人物を知り得る数々の遺品が残されている。
熊谷の場合は、5万点(CD化)に及ぶ記録写真、童画集、教育現場における実践教育と教え子たちなどの証言である。4・27ゼミでは、このうち最近、テレビ映像に記録された熊谷の番組をとりあげた。
このNHKドキュメンタリー番組は、2010年11月6日死去の後、追悼番組として平成23年1月14日(金)全国放映されたもので、NHK長野放送制作の「知るしん ~信州を知る~」の一環として放映されたDVDを観賞した。
「すごい人だ、こんな人がいたのか ! 」
写真集をはじめて見たアニメの巨匠宮崎駿監督の驚きと、絶賛
映像は、いきなり熊谷の写真集を手にするアニメ映画界の巨匠・宮崎駿監督のアップと「すごい人だ、こんな人がいたのか」の感銘の声からはじまった。監督が映画の撮影で訪れた南信州の旅館で暇つぶしに見た。そのときの感想表現だった。映像は熊谷の追悼番組で、スタジオにはテキスト『一年生』の拡大写真が多数、飾られていた。ルポライターの吉岡氏が主に『一年生』を中心に熊谷の写真家・童画家・教師としての功績を語った。終盤は、写真集がおいてあった旅館主にだした宮崎監督の礼状の紹介された。これからの映画作りに役立たせたいといった文面だった。最後は、熊谷の教え子たちの墓参。下原の姿もあった。


文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.3 ――――――― 2 ―――――――――――――――――
熊谷元一研究・資料検証
『一年生』研究に当たって
 熊谷元一の業績は、写真・童画・教育の3点にある。写真は、回想法としての心の癒しや記録による時代の証言。童画は、山村文化と、物に頼らない子供の遊びの伝承。教育は、熊谷が行った実践教育。いずも資料は、多々あるが2012年度は、テキストを岩波写真文庫『一年生』をとりあげ研究を進めて行きたいと思う。
 現在、教育現場は混乱している。君が代や歴史観の問題で教職間に対立と確執を発生させ、ついには盗聴、チクリまでもが横行するに至っている。し、子供たちは「ゆとり教育」で生まれた格差のなかで自信を失っている。こうした現状のなかで『一年生』のなかに真の教育の原点がある。この研究によってそれをひきだし、混迷する日本の否、世界の教育に役立たせたい。そう願うところである。
 
『一年生』の謎を探る
 写真集の金字塔『一年生』には、多くの謎がある。ゼミにおいて、その謎を探り想像・創造を交えて考察していきたい。最初の謎は、
「教育現場の写真撮影を可能にしたものは何か」である。
 学校で、授業中に、それも一年間、写真を撮る。個人情報保護法がある現代においては、絶対に不可能な行為といえる。しかし、いかに半世紀以上の昔といえ、人の心に大差はないはず。まず、このへんから考えてみたい。その前に、一年生を撮影したい、という動機。これについて熊谷本人は、どう言っているのか、熊谷を考察した矢野教授は、どのように検証したのか。そのへんを二人の著書から紹介したい。
『一年生』撮影まで
 『一年生』は、どのような経緯を辿って作品となったのか。熊谷本人の自伝『三足のわらじ』と、国立静岡大学・矢野敬一教授の著書『写真家・熊谷元一とメディアの時代』から、撮影に至る動機と経緯をみてみた。
『三足のわらじ』南信州新聞社出版局
一年生を写す
 名取さん(名取洋之助・当時報道記録写真の第一人者)は、『かいこ』(『かいこの村』昭和28年刊行)の撮影中、次は何を写しますかと言って下さったので、私は昭和28年に新しく担任する一年生の生活を一カ年撮影したいと申し上げると、それはよい、きっとおもしろいものが出来ますよ、とはげまして下さった。それに力を得て、4月1日入学の日から毎日子どもたちの日常を克明に追った。途中から新しく手にしたキャノンで写したが、手ごたえがあるような気がしてうれしかった。つづく
※ここで入学式は4月1日とある。当時は4月1日の入学式が普通だったようだ。いつのころからか入学式は10日前後になっている。
―――――――――――――――― 3 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.3
写真撮影の動機を探る
『写真家・熊谷元一とメディアの時代』青弓社
2 子どもたちへの視線 ――『一年生』へ
小学校教師としての熊谷元一
 岩波写真文庫からの作品としては、まず『かいこの村』が昭和28年(1953年)に上梓された。その辺州作業が終わった後、熊谷が岩波書店で写真文庫編集長・名取洋之助と会っていた折、今後の仕事について問われた。熊谷は今度の4月から新たに1年生を受け持つだろうから、その生活を一年間撮影して成長の記録を作り、また教師としての自分の反省の資料にもしたいと話した。名取はこれを聞くと即座に、おもしろい、撮影が済んだら写真文庫の一冊にしたい、と申し出て新たな企画の話はまとまった。その成果となった『一年生――ある小学校教師の記録』は昭和30年に刊行され、第一回毎日写真賞を受賞して熊谷にとって記念すべき作品集となった。・・・・とある。
 
以上のような動機というか経緯があって、熊谷は学校において子どもたちを撮影することになった。このことについて、校長や村の教育委員会にはどのように説明したのだろうか。
疑問は残る。当時の時代背景、村の実態を知る必要がある。
1953年(昭和28年)という時代
 敗戦から7年と半年、このときの日本はどんな状態にあったのか。現代用語の基礎知識1992年版・別冊付録『日本1948~1992』をみると、国政を揺るがすさまざまな出来事が起きていた。自衛隊はまだ警察予備隊から保安隊と呼ばれていた。保安隊が、陸海空の三軍からなる自衛隊になったのは1954年7月である。ということは、1953年においては、日本はまだ名ばかりの独立国であったのだ。世界は、53年に朝鮮戦争が、54年にインドシナの戦争が終息し、反映は、まだ遠かったが平和の時代に入りかけていた。
 当時の世相を反映させる流行語をみると、それがよくわかる。
前年の1952年には、こんな言葉がはやった。「君の名は」「さかさくらげ」「パンマ」「ヤンキー・ゴーホーム」「エッチ」「テネシーワルツ」「火炎ビン」「ジェット旅客機」「キャノン機関」などである。
世の中は、破防法(暴力主義的破壊活動を治める法)成立をめぐって混乱していた。
「破防法が成立すると、広範な反対闘争がくり広げられた。都学連は、東大安田講堂前で、「破防法粉砕全都労働者・市民・学生総決起大会を開催。’526月17日」
 『一年生』が撮影された年1953年に流行った言葉は、
「むちゃくちゃでござりますがな」「雪の降る町を」「真知子巻き」「ひめゆりの塔」「プラス・アルファ」「コネ」「ターミナル」「ショートスカート」「スーパーマーケット」など戦争の名残りと、経済発展のにおいが混濁する時代だった。
 もっとも政治においては衆議員予算委員会で、吉田茂首相が「バカヤロー」発言をしたため内閣不信任案が成立。2月14日、即日、解散となった。「バカヤロー解散」である。
被写体の1年生は、日本国憲法の申し子
 以上、世の中の状況と様子を簡単に述べた。次に被写体となった子どもたちについて検証したい。この子どもたちは、どんな育ち方をしたのか。当時の学校教育とは、どんなものだったのか。被写体の子どもたちは1952年4月1日~1947年3月31日誕生である。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.3 ――――――― 4 ―――――――――――――――――
 現在、改正問題で日本国の最大の課題となっている日本国憲法は、1946年公布、翌年1947年5月3日施行された。よって『一年生』は、日本国憲法の申し子といえる。が、――
 憲法と教育については、次号で説明したい。『一年生』間連は、ひとまずここまでとして、次は、熊谷と同時代を生きた米国の作家、ウイリアム・サローヤンについて少し触れたい。
熊谷元一とサローヤン
 熊谷元一と、ウイリアム・サローヤン。両者は、果たして実際的には比較の対象になり得るのか…それは不明だが、下原ゼミでは、それを目標に考察・検証していくことにしている。
 手段・方法として熊谷は、その作品である写真を観賞すること。サローヤンは、書かれた子ども時代の創作作品をひたすら読むことにある。
 観察をひたすら記録した熊谷。観察をひたすら創作したサローヤン。作家と写真家、異質な二人だが熊谷元一研究の副産物として、両者の比較検証ができれば幸いです。
熊谷元一研究の目標
1.写真家・熊谷からは、懐古と癒し。原発のない時代の暮らしの証言を探る。
2.童画家・熊谷からは、子供の遊びを伝承する。3・11の災害で多くの人たちが避難所生活を余儀なくされた。半年後の救援物資が一段落したあと、いま一番欲しいものはと聞いたら「ゲームの玩具」と答えた人が多かったという。写真の子どもたちは、ゲームでは遊んでいない。自分たちが創意工夫した遊びで遊んでいる。ゲームがなくても遊べる。
3.教師・熊谷からは、黒板絵、動線、郊外学習など創意工夫の実践教育を学ぶ。ゆとり教育は、多くの格差を生んだ。混迷する日本の学校教育。民主主義草創期の熊谷の教育を検証する。
掲示板
ゼミ誌について
○ゼミ誌作成ガイダンス 5月24日(木)12:20~ 江古田校舎W301教室です
※2名の参加です。必ず、出席してください。
○ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」のお知らせ
月 日 : 6月16日(土)
時 間 :  開場1時30分 はじまりは2時~5時
会 場 :  豊島区立勤労福祉会館第7会議室(6階)
作 品 :  「人妻とベットの下の夫」
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編集室便り
① 課題原稿、メールでも可 下記アドレス
住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」            2012・5・11   
課題3.『一年生』を読む       名前
下記の写真について、コメントしてください。(テキストには解説がありますが、自分の感じたことを書いてください)どんなことでも構いません。
写真1
写真2
写真3
課題4. 名作読み         名前
「ハンフォードへの旅」の朗読感想
1908年  ウイリアム・サローヤン、米国カリフォルニア州の農業地帯フレスノで生まれ
る。アルメニアからの移民二世。
1909年 (熊谷元一、長野県伊那谷の山村で生まれる)
1934年 『空中ブランコに乗った大胆な若者』好評26歳 この年から6年間に何百という短編を書いた。まるでカメラのシャッターを押すように。
1938年 熊谷の朝日新聞社刊『會地村』好評、29歳
1953年 熊谷『一年生』の撮影開始
ウイリアム・サローヤンの邦訳出版されたもの
『君が人生の時』加藤道夫訳、中央公論社、1950年
『人間喜劇』小野稔訳、中部日本新聞社、1950年
『わが心高原に』倉橋健訳、中央公論社、1950年
『男』小暮義雄訳、ダヴィト社 1951年
『わが名はアラム』清水俊二訳、月曜書房、1951年(のちに晶文社)
『君が人生の楽しき時』金子哲郎訳、創芸社、1953年
『どこかで笑っている』清野陽一郎訳、ダヴィツト社、1954年
『サロイアン傑作集』末永国明訳、新鋭社、1954年
『笑うサム・心高原にあるもの』斉藤数衛・吉田三雄共訳、英宝社、1957年
『我が名はアラム』三浦朱門訳、角川文庫、1957年(のちに福武文庫所収)
『人間喜劇』小島信夫訳、研究社、1957年(のちに晶文社)
『わたし、ママが好き』古沢安二郎訳、新潮社、1957年
『サローヤン短編集』古沢安二郎訳、新潮文庫、1958年
『人生の午後のある日』大橋吉之輔訳、荒地出版社、1966年
『ウイリアム・サローヤン戯曲集』加藤道夫・倉橋健訳、早川書房、1969年
『ママ・アイラブユー』岸田京子・内藤誠訳、ガルダ、1978年(のちにブロンズ新社刊 新潮文庫所収)
『パパ・ユーアークレイジー』伊丹十三訳、ガルダ、1979年(のちにブロンズ新社刊、新潮文庫所収)
『ワン デイ イン ニューヨーク』今江祥智訳、ブロンズ新社、1983年(のちに新潮文庫所収)
『ディアベイビー』関汀子訳、ブロンズ新社、1984年(のちにちくま文庫所収)
『リトル チルドレン』吉田ルイ子訳、ブロンズ新社、1984年(のちにちくま文庫所収)
『ロック・ワグラム』内藤誠訳、新潮文庫、1990年
『ヒューマン・コメディ』関汀子訳、ちくま文庫、1993年

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