文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No190

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2012年(平成24年)5月21日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.190
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                            

  編集発行人 下原敏彦

                              
4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/23
  
2012年、読書と創作の旅
5・21下原ゼミ
5月21日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室
1. 出欠・配布  → 5・7ゼミ報告・司会進行指名
2.  提出課題発表 → 愛読書・憲法問題・テキスト感想   
3.  読むこと → 『網走まで』(車内観察)お手本・創作
4.  書くこと → テキスト感想 車内観察 車窓の出来事
5・14ゼミ報告   参加者は8名、旅開始5週目
毎週、文芸棟へ向かう道で桜の街路樹に季節の移ろいの早さに驚かされる。ついこのあいだ満開に桜が咲き誇っていた木々。いつのまにか葉桜に、若葉に、そしていまは繁れる新緑にと、慌ただしく装いを変えている。ゼミも旅立ちから既に5週目となる。全員で12名。出発時、12名だったこの旅。現在、4名ほど遅れている。が、全体的には、慣れてきたようだ。参加者の顔と名前が、ようやく合致するようになった。
司会進行は、古谷麻依さん
司会進行は、古谷麻依さんにお願いしました。課題報告、テキスト読みなど出席者全員が感想や音読できるよう采配を振ってもらいました。司会者は、はじめに参加人数を見て、一人一人の範囲がバラつかないよう目分量して、すすめてください。感想、意見なども一人ひとりからしっかり聞いてください。
梅津班長 → ゼミ合宿について採決 結果は、賛成4、反対4で持ち越し
※ゼミ編集室 → マラソン読書なので少人数だときついところがありますが、参加者5名前後で行った例はあります。自由参加ということで実施に踏み切ることもできます。利点は評価αですが、ドストエフスキーを読む機会を得ることになります。
提出課題発表 → 車内観察、自分の一日、憲法問題について、テキスト感想
テキスト音読 → 作品は『網走まで』、『夫婦』でした。全員で回読


書くこと → テキスト『網走』感想と続創作  車窓・振り込め詐欺 配布
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.190―――――――― 2 ―――――――――――――
課題発表(掲載できたものから順次) 読むことの習慣化を目指して
1.課題3.【車窓観察】憲法第9条について 「戦争の放棄」
〈T・M〉改正は、わからない
理由 → 時代がうつりかわる中である程度の調整が法にもとめられると思う。しかし、安易に軍隊の強化や設立はせず、明確な防衛意志のもと精神は、そのままで良いと思う。
◆憲法問題アンケート(5月21日現在)9件の答えがあった。
改正に賛成…1  改正に反対…4 改正、わからない…4 未…5
  
・賛成は、時代に沿った憲法を ・反対は、理想憲法を死守したい
・分からないは、理解していない
ちなみに2011年5月3日(火)朝日新聞・世論調査はこのようになっていた。
○9条改正反対は → 59% 改憲の必要は → 54%(9条改正は45% 必要なし46%)
2010年では9条改正反対は67%   賛成は24%です。
2.課題2.自分について
〈鞆津正紀〉風景を写実的、あるいは、絵画的に切り取れるようになりたい。唯、書くのではなくてもっと人物を掘り下げたり、立体的な空間か体感速度が表現出来たらと思う。今一番の目標である。
3.課題4. テキスト『菜の花と小娘』の感想
〈鞆津正紀〉        大学生活の課題
 純文学は苦手なのでよくわからなかった。むしろ大学生活の課題である。ただ、小さな娘が花を見つけて家に持ち帰るというだけの出来ごとを物語として成立させている点に驚いた小学生の頃、虫やら猫やらにかまっていたし、日々それで楽しかったが、今ここまでドラマチックにふり返ることは、難しいと感じた。
□正直な感想と思いました。ゼミで想像と創造の芽が育つといいですね。
◆『菜の花と小娘』感想5月21日現在、提出8本。
 この作品は、アンデルセンを真似てちょっとした空想をメルヘンチックにつづった小品です。作者・志賀直哉が21歳~25歳の頃、なんども書き直して完成させたものです。名作の所以ですが、なんでもない話なのに、なぜか気になる。作品に作者の心情が反映されているからだと思います。菜の花ですから明るい黄色をイメージします。が、なぜか孤独や寂しいものも感じます。書いたころの作者の暮らしをみてみましょう。(『全集』年譜)
・1883年宮城県に生まれる。江戸時代までは相馬中村藩2百石、いわゆるお金持の家。
・1895年母銀病死、亨年33歳 作者12歳のとき。以後、祖母を母として育つ。
・1901年足尾銅山事件で、現地見学を父に反対され、これが不和の発端。18歳
・1902年父親が現・総武線鉄道の支配人になり、その縁で鹿野山(マザー牧場のある山)に遊びに行くようになる。菜の花は、この地で見たものと思う。書きはじめる。初恋も…
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4課題7.「自分の一日」
〈古谷麻依〉      普通でない一日の記録
 まず、この文章を書いているのは5月7日午前零時、つまり課題の提出期限があと14時間後に迫った状況にあるということを断っておく。何故このような切羽詰まった状況に追い込まれているのか。主な理由は二つある。
 一つは、兄が風邪を引いたこと。そしてもう一つは、母が風邪を引いたことである。
 一番最初に兄の具合が悪くなったのは、5月2日のことである。朝起きてくるなり、寒気がすると言うので熱を計ってみたところ、38度を軽く超えていた。
 兄の平熱は人一倍低く、35度前半であるため、この数値がいかに高いかお分かり頂けるだろう。当然仕事にも行けるはずがなく、かと言って医者嫌いな兄は「寝れば治る」と言ってその日は昏々と眠りつづけた。
 しかし翌日になっても熱が下がる気配はなく、それどころか悪化したのを見かねて母は兄を病院へ連れていった。私は家で留守番をしていた。特にやることもなかったため、居間で漠然とテレビを見ていた。その間、課題のことが頭をよぎらなくもなかったが、そんな「自分の一日」を書いてみるなんて、ただひたすら留守番をするだけの簡単なお仕事に費やした一日のことを淡々と書くより、兄の風邪が治って何の心配もなくなった後、どこかえ外出した時のことを書く方が何倍も面白いはずだ。そう思い、私もその日は夕方バイトへ行くまでの間、特に何もしなかった。本当に何もしなかった。
 ところが翌日、今度は母が寒気がすると言うではないか。そして熱を測ってみると、38度3分、デジャヴにも程がある。兄にもまだ熱がある。つまりこれは、兄の風邪が母にうつったのではなく、まんまと二人して風邪にやられてしまったという訳だ。
 あいにくの連休で医者も休み、誰にも診てもらうこともできず、兄と母は、気合いで熱を下げる他なかった。もう一人の兄も仕事で家を出てしまうため、健康体と呼べるのは私だけになってしまった。そして、5月6日の朝に至る。二人の具合はいくらか優れてきたもののまだ本調子ではないといったところだ。当然外出などできるはずもなく、そして私もそんな二人を置いて出歩く訳にもいかなかった。
 そうしている間にも課題の期限は容赦なく迫っているので、私はこれから5月6日のことについて書こうと思う。休みの日は、11時頃にのろのろと起き出すことが常な私も、母が風邪を引いてからは9時にアラームをセットして起きることにしていた。起きてすぐ、母の様子を確認する。顔色は昨日より大分良いようだ。次に、兄の様子を窺う。兄は会社から「風邪が治るまで休んでいい」と許可をもらっていたようで、ならば寝かせておこう。ちゃんと息もしているみたいだし、と思い兄はそのまま寝かせておくことにした。
 もう一人の兄は既に出て行った後だった。私は洗濯と掃除をし、炊事はできないので、近くのスーパーへ昼食を買いに行った。自分と、食欲だけはある兄には弁当を、食欲のあまりない母にはおにぎりを買って帰った。それを食べた後、二人はまた眠ってしまったが、私は私でまたやることがなくなってしまった。次からは、こういう時、何か暇を潰せる方法を考えておかなければと思った。
 この日もバイトがあったが、二人がこの調子なら今日は休んだ方がいいかも知れないと思っていると、いつの間に起きた母が「今は体調も落ち着いて大丈夫だから行ってきなさい」と言ってくれた。
 これは余談だが、私のバイト先(本屋)は人件費削減のため、雨の日など売り上げの悪い時は従業員の数を減らしている。6日も昼間は一時ものすごい雷雨で、このまま夜までずっと降り続いてくれればいいのになあ、と思っていたが結局はすぐに止んでしまった。誠に遺憾である。4時半頃、家を出て、5時から閉店の8時半まで働いた後、夕食を買って帰った。昼食と似たような献立になってしまったが、仕方ない。
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 家に帰ると、二人は起きていて幾分熱も下がったようだった。私が風呂に入っている間に二人は夕食を済ませ、さっさと寝てしまった。
 そうこうしているうちに、気付けばこの時間である。急いで課題を仕上げ、私も早く寝なければならない。月曜日の朝は早い。
 結局この連休中、遠出こそしなかったが、いつも疲れているであろう母と兄がゆっくり休めたのは良かったと思う。明日には二人の具合が良くなっていることを祈りつつ、この辺で私もそろそろ寝ることにする。お休みなさい。
□家族思いの様子がよくわかります。簡潔な文体もいいと思います。締切期限は厳禁ではないですが、守ろうとする意思、立派です。
〈鞆津正紀〉       おせっかいが大好きなので
 一限目の遅刻は決定していた。この後、もう一年浪人するなんてだなんて夢にも思わずあるいは見て見ぬふりをしていた私は前日の晩も、勉強などせずに遊び、夜更かしをしていた。おかげで寝坊。それだけではあき足らず、予備校がある駅を過ぎて終点まで爆睡。
「まもなくーー」というお馴染のアナウンスで意識を取り戻し、頭をかかえた。予備校は2年目もサボるほど面倒だったが、多分それなりに好きな授業だったのだろう。とにかく当時の口癖でもあった「畜生!」という言葉をつぶやいた。乗り換えはない。この電車は、そのまま終点から折り返し、元来た線路を戻る。だから乗りっぱなしでいるつもりだった。だというのに人が降りて空になった車内。くたびれた朱のシートの上に白い携帯電話が置いてある。電車は、あと2分で出るというのに私は、おせっかいが大好きなので、持ち主不在の忘れものを持って、ホームへ降りた。
 駅員が見当たらないので改札まで走った。駅員に「忘れ物を拾いました」とそれを渡し、元のホームへ走った。やはりさっきの電車は出たようで、電光掲示板の表示が切り替わっていた。ややがっかりしながら車両に入り込んでがく然とした。今度は朱いシートの上にピンクの携帯電話が置いてあったのだ。私は、もう一本電車を見送ることになった。
□これから何かがはじまりそうな出来事ですね。創作「白とピンクの携帯の謎」
〈梅津瑞樹〉        父、来たる ゴールデンウィーク
4月29日
ゴールデンウィークが始まった。
昨晩、随分と夜更かししてしまったこともあり、お昼頃に目が覚めた。
遅めの昼食にパンを齧りながら、どうやら窓の直ぐ外ではしゃいでいるらしい子供達の声
をボーツと聞いていると、携帯電話が鳴った。
どうやら、明日父が東所沢に来るらしい。それもわざわざ千葉から自転車で。
4月30日
夕方、父が到着した。
本当に自転車で来たようだ。全身汗まみれで臭かったので風呂に入れた。
夜、夕食をとるため近くのインド料理店に向かった。おいしそうにパクパク食べていた割に、父は店の外に出た途端、
「甘すぎる」だの何だのと自分の注文したカレーに文句をつけていた。
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5月1日
一日中寝て過ごした。夕方、妙な焦燥感に襲われ清瀬まで自転車を走らせた。
途中、円通寺という寺の近くの三叉路で木と木の間を渡すように飾られた「ふせぎ」を見つけた。後で調べて分かったことだが、ここの「ふせぎ」のモチーフは大蛇らしい。
5月2日
先日の「ふせぎ」の写真を父に見せたところ、見に行きたそうにしていたので久方ぶりに親子二人でサイクリングに行くことにした。2時間かけて東所沢~清瀬周辺を散策したが、改めて自分の住んでいる場所がド田舎であるということを実感させられた。
5月3日
今日は11時からバイトが入っていたので、父を残して先に家を出た。
余談だが僕は老人介護のアルバイトをしている。つい数ヶ月前まで人生訓やらその人の半
生やら面白おかしく語ってくれた利用者も、気付けばめっきり呆けてしまい、まともな会
話すら出来なくなってしまっている。そんな老人達を見て職員が「あ一あ、面倒くさいな
あ」と溜め息を漏らすのが今の職場の現状だ。呆けてしまうことに関しては、仕方の無い
ことなので悲しいだとかそんな感情は湧かないが、自分の両親は他人の手に任せないこと
にしようと心に決めた。
5月4日
兼ねてから友人と約束をしていたので、お昼過ぎに御茶ノ水に向かった。
出掛けにぽつぽつと雨が降り出したが、どうせ店内にいる時間の方が長いだろうと思い、
さして気にも留めなかった。
が、いざ御茶ノ水に着き、外に出ると雨が勢いよく音を立てていた。
仕方が無いので丸善で500円を出しビニール傘を買った。
友人二人と落ち合った後、ディスクユニオンに向かいCDを漁り、暫くして外に出てみると
雨は止んでいた。わざわざ金を出して買った傘は文字通りお荷物になったわけだ。
その後、歩いて秋葉原まで向かい思い思いに買い物を済ませて解散した。
家に着いたのは日付が変かって少ししてからだった。
5月5日
お昼前に母から電子レンジが届いた。ありかたい。
今日は夜勤だ。
正直、今の職場は息が詰まりそうだ。
老人が自ら死に近づくのか、はたまた死が老人に近づくのかは分からないが、ある日を境
に明確に変貌する老人を見ていると嫌でも死への経過を想起してしまうのだ。
もともと、飽きやすく同じ環境に長く居続けることができない性なので、今までも色々な
アルバイトを転々としてきたが、ここももう潮時かもしれない。
□父親との交流にほのぼのしたものを感じます。老人介護の現場は身つまされるものが。
5課題7.「車内観察」
〈鞆津正紀〉       見えなかった赤ちゃん
向かいの女が目に入る。なぜか電車では、奇行癖のある人とよく出くわす。駅員のマネをして叫んだり奇声まじりに笑ったりと、また、私もたいてい朝機嫌が悪いので、よけいに苛立
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つ。この女の場合は、独り大袈裟な表情で手を握ったり開いたりしている。誰に見せるわけでもなかろうに妙な顔を、と怪訝におもっていたが、彼女の降りる駅で合点がいった。子連れだった。ドでかいベビーカーが私に背を向けていて、その中に赤ん坊が入っていた。
□確かに変な人をときどき見かけます。が、携帯電話が普及してからは、見わけがつかなくなりました。一人で笑っている人、大声で怒鳴っている人。携帯を手にしていなかったら、変な人、怪しい人と思います。
〈梅津瑞樹〉     車中にてファッション考察
 待ち合わせ場所に向かうため東所沢駅から東京行きの武蔵野線に乗る。
車内を見渡すと、楽しそうに歓談する若者たちに混じって休日にもかかわらずリクルートスーツに身を包んだサラリーマン風の中年男性やOLが少なくないことに気付いた。
 服とは一種のシンボルであるように思う。少なくとも服装はそれを着る人間のキャラクターを彩り、時に具現化するものだ。
 例えば、看護士の着る白衣やナース服からは清潔感と何処か心落ち着かせるが同時に命を扱う者としての立場から来る厳格なイメージを私は抱いている。
 チアガールのコスチュームに身を包む女性にはどこか垢抜けてはつらつとしたイメージを抱く。アニメにおいても、登場人物の服装や装飾といったものはそのキャラクターを構成する大事なファクターを担つている。
 リクルートスーツや学生服といった制服は同じ服を着せることで個性を抑え、規律の中で集団行動を強いるためのものだ。そこは生真面目、勤勉といった印象を抱くものの必然的に没個性の集団が出来上がる。
 そこで我々は、休日は私服を纏い、個性を束縛から解き放つわけだが、こうして周りを見渡すと若者の着る服にも似たようなものが多いことがわかる。それが今の季節の流行なのだろうと、一人ごちたが、そこでべつの疑問が鎌首をもたげた。
 流行とはいえ、皆同じような服を着ているとすると、それは本質的には制服の持つ没個性と変わらないのではないだろうか。多分、最初に始めた人間からすればそれは個性以外の何者でもなかったのだろう。しかし、次第にそれをファッション誌やメディアがとりあげやがて流行へと結びつける。すると、そこには没個性化した集団が出来上がる。ファションというもののもつ意図とは最もかけ離れたところにいることに彼らは気付いているのだろうか。日本人の持つ「出る杭は打たれる」根性が無意識にメディアの担い手によって流行という名の没個性へと導かれているとしたら…想像して、僕は背筋に冷たいものを感じながら電車を降りた。
□かって、どの学校にも校則があった。特に高校は厳しかった。が、学園紛争の後、だいたいの学校は自由になった。しかし、いま皆同じにみえるのはなぜでしょう。真の個性とは何か。服装や流行ではなく心の奥にあるのかも知れませんね。
〈古谷麻依〉      航空公園まで 朝の通学車中レポート
 朝のJR京浜東北線は割と混んでいる。
 通学時、私はいつも女性専用車両を選んで乗る。車内はスカートが短すぎてこの車両にしか乗れないような女子高校生や、会社員と思しきスーツに身を包んだ女性、派手な格好をした若い女性なでで溢れ返っている。不思議とお年寄りの姿はあまり見られない。まあそもそも女性専用車両の目的というのは、痴漢対策が主なので客層は若い女性に限られているのが自然なのだが。
 だから、ここに間違えて男性が紛れ込んでしまうと、大変いたたまれない。閉まりかけの
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ドアの隙間から何とか身を滑り込ませたはいいが、そこが女性専用車両であることに気付き、ひどく居心地の悪そうな顔で、次の駅に着くなりさっさと降りていく男性を私は、今まで数度目撃したことがある。しかし、それは若い男性の話。中年になると周囲の目も気にせず平然と乗ってくる人が結構な割合でいる。ただ単に時間を時間を間違えているのか、それとも確信犯なのかは分からないが、人間というのは恥じらいを捨てるとこうも堂々とできるものなのかと逆に感心させられる。
 学校への道のりで私が京浜東北線に乗るのはたった一駅なので、ここからは続いて乗るJR武蔵野線の話をさせて頂く。私が乗るのは「南浦和」からだが、これがまた混んでいる。最大で「黒磯」(栃木県)~大船(神奈川県)を駆ける京浜東北線といえども、朝の武蔵野線には敵わない。それほどに利用人数が多いのだから、強風や濃霧で簡単にへたってしまうのはいかがなものかと思うが、この話をし出すと長くなるので割愛する。
 京浜東北線とは違って女性専用車両なる概念がないので、客層は老若男女様々である。あっちにサラリーマンがいるかと思えば、こっちには学生が、そして両脇には親子が、そんな列車だ。あまりにも人が多いため、ぎゅうぎゅうに詰められなければ入りきらない。全く身動きが取れないので、足が宙に浮いたまま一駅過ごすというのも決して大げさではなく、珍しい話ではない。目の前の人の携帯電話の画面が否が応でも目に飛び込んでくるほどである。以前、スーツ姿のナイスミドルの男性がアダルトサイトを閲覧しているのを目撃してしまい、トラウマになりかけたことがある。人間の欲望というのは、昼夜を問わず襲ってくるものなのだと気付かされたと同時に、その男性が欲望を実行に移さず本当によかったと思う。
 と、ここまで朝の武蔵野線の混み具合についてひたすら語ってきたが、それはすぐに一旦落ち着くことになる。何故なら、「南浦和」の次に待ち構える「武蔵浦和」で、車内を総入れ替えする勢いで客が次々と降りたり乗ったりするからだ。この流れに乗じて、私は席を確保する。その際私は、できるだけ端から詰めるように座るのだが、他の客は大体一つ飛ばして座っていく。これがまた面白い。見知らぬ他人に隣に座られるのも嫌だし、座るのも嫌なのだ。お年寄りはあまり気にせず、空いている席があるのなら座る、といった感じだが、若者は席が空いていてもそれが人と人との間なら座らない。窮屈なそこへ座るくらいならば我慢して立つ、というのが彼らの言い分であり、生き様である。
 それから「西浦和」へと続き、「北朝霞」で再び車内は混雑する。そして次の「新座」で降りるのは大半が女子大生。それも「跡見学園女子大学」に通う人達であるその大学に通う私の友人と、通学途中に偶然会ってここまで一緒だったことがある。朝の時間が合わないので、あまり会う頻度は多くないが。そしてここで降りた後、どこをどう行けば大学に辿り着くのかまでは私は知らない。
 「新座」で降りなかった他の大学生らしき乗客は、次の「東所沢」で降りることになる。つまり日芸生だ。映画学科などの学生は、学校名の入ったパーカーを着ていることがままあるので一目瞭然だが、それ以外に関してはここで初めて日芸生であることが知れる。電車を降りた後は皆一様にぞろぞろと改札を抜け、ぞろぞろとバス乗り場に向かう。一様すぎて面白いくらいだが、その並んでいる列の長さはちっとも面白くない。次のバスに乗れるか乗れないか、それで授業に間に合うか間に合わないかが確定する。無理に乗ろうとすると、それこそ朝の武蔵野線再来状態になるので余裕を持って行くのがベストである。
 電車通学というのは非常に疲れるしかし毎朝同じ電車に乗っていれば、その列車の乗客の傾向というのが見えてくる。その中でも毎日新しい発見があるし、何よりそれを観察する余裕があるというのは自分が通学に慣れた証のような気がして、人知れず嬉しくなるのである。
□私は車中2時間余りの旅。私鉄、山の手線、私鉄、ときには地下鉄と乗り継ぎます。ラッシュ時でないのが、救いです。朝の通学、大変さがわかりました。
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6.課題10.連休中の記録 自分観察Or車内観察
〈石川舞花〉     ゴールデンウィークの過ごし方
 幕張メッセで開催されているフリーマーケットへ行った。このフリーマーケットは5月3日~5月5日までの3日間、開催されており、私たち家族は初日である日に訪れた。私たち家族の毎年恒例の行事だ。
 今年も人が多かった。前売り券を買ってあっても入場するのに時間がかかる。会場前に人があふれたせいか開場時間より前に入場が開始された。私たち家族は例年通り、各々好きなように見ていく。見たい物が違うので3人一緒には回らない。これも我が家流。
 私は雑貨を中心に一軒ずつ見て回る。毎年出店しているレターセットやシールの店もあった。封印シールや一筆箋などを買う。1つ50円や100円だが、少し買い込み550円。400円におまけしてもらい、ご満悦な私。オルファのカッターなども買い、なかなかの収穫。母も大収穫だったらしく親子でニンマリ。
 我が家のゴールデンウィーク最大のイベントはこうして終了。来年も家族3人そろって訪れられるよう1年無事に過ごしたい。
□一家の行事にしていると、「どうしようか」と悩まなくても済みそうですね。
〈吉岡未歩〉       行楽帰りの眠る親子観察
 今年のゴールデンウィークはあいにく天候に恵まれない日が数日続いたが、連休最後の日は、やっと晴れたので、バイト帰りの21時過ぎの電車も親子連れを含めほどほどに混雑していた。つり革につかまっていると目の前には、3、4歳くらいの男の子を連れた親子が座っていて3人とも眠っている。母親は荷物を抱えて父親の肩にもたれていて、父親はカメラ片手に、ものすごい格好で眠る息子を膝に乗せ何度か目を開きながら眠っている。
 男の子の身体は、父親の膝におさまってしまうくらい小さくて同じ生き物なのに、こんなに大きさが違うものかと感心していた。こんなに小さな手で、腕で、頭の重ささえ完璧には耐えかねる小さな身体に、きっと知らない間に大きくなって、たくましくなるのだ。いつか父親でも抱えられないくらい大きくなって、やがて父親をも抱かれる様になるのだ。
 父親は投げ出された息子の足を手で引き寄せ、さっきよりもしっかり抱くようにして目を再び閉じる。
 親子の前を後にして、電車を降りる。気だるいバイト後の疲れは、心地よい疲れに変わっていた。
□よく見かける光景。でもちょっとなつかしいですね。みんな昔はああだった。そして、近い将来は、我が子を抱く側に。
〈根本留加〉        日芸を感じるとき
 蒸し暑い学バスにて、5月後半にさしかかり気温も夏に近づいてきた。もう半袖、半ズボンの人も増えたが、まだ長袖をはおっている人の方が多い。こうやって服装を見ていると日芸には様々なタイプの人がいる。ことが分かる。服装をまったく気にしていなさそうな人もいれば、雑誌に出てきそうな程ばっちり決めてくる人もいる。系統もガーリーからエレガントだったり、ボーイッシュだったり、様々だ。その中でも、たまにいる奇抜な服は日芸らしいと思う。日芸だったら少し変な服を着ててもいいんじゃないか、という変な安心感は、ここからくるだろう。そんなことを考えているうちに大学に着いた。バス券を取り出そうとし
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ているとロリータ―ファションの女の子がバスを降りて行った。
ああ、日芸だ、と私は思った。
□まずは服装から。でも中身も目立つといいですね。
〈古谷麻依〉       化粧する乗客
先日テレビで「電車内のマナー特集」という企画をやっていた。電車内での乗客の様々な行為を取り上げ、これは許せるか、許せないかをゲストが判定するというものだ。私も観ながら彼らと一緒になってあれこれ判定していたが、その中でどうしても許せないことが一つあった。それは「電車内での化粧」である。そう思っていた、次の日、早速そのような乗客に遭遇してしまった。
その客は朝、登校途中の私の真正面に座った。そして鞄の中を漁りはじめたと思ったら、取り出したのは大きな手鏡だった。この時点で若干嫌な予感はしていた。私のその予感通り、その客はその場で化粧を始めた。つけまつ毛をつけたり、頬に粉をはたいたり、手を大きく動かすので、左右に座っている客も迷惑そうな表情をしていた。
美しくなるために化粧をしているはずなのに、その乗客は私の目には大変見苦しく映った。そして特筆すべきは、その乗客が男性であったことである。色々と、私にとって忘れられない人物となった。
□最後の「その乗客が男性であった」はかなりインパクトがありますね。
〈梅津瑞樹〉   自分観察・脚本「分身」
けたたましい蝉の声。窓の外から、うだるような暑い夏の目差しが四畳半に差し込む。
舞台中央のじめじめした万年床に一人の男が横たわっている。
唐突に跳ね起き、慌てたように辺りを見回す。神経質そうな顔に汗でべったり張り付いた髪は、男にどこか病的な印象を与える。
荒い呼吸を整えるように、一度、二度、深呼吸し顔を上げる。
男 … 夢を見た。
男b  夢じゃないよ。
男  蝶になった夢だ。
男b  あれは夢なんてもんじゃない。
男 … 誰だ、お前は ?
男b 、 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべたまま、黙って男を眺める。
男  消えろ !
耐えられなくなった男は、側にあった空き缶を投げる。
空き缶は、綺麗な放物線を描いて飛び、壁に当たって虚しい音を響かせる。
男 遂に気が触れてしまったか、それとも、この馬鹿みたいに暑い日ざしが俺に幻でも見
  せているのか。どちらにせよ、その違いは些細なものだろう。俺の目の前に鏡像のよ
  うに向かい立つこの男は、紛れも無く俺自身であった。と同時にそれは純然たる真実
  であるということを、俺はいち早く理解していた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・190 ――――――― 10――――――――――――――――
男b そうだ。お前は胆屈とした日々を過ごす中で、いつかこの現状から脱却できるだろ
   うと思っている。
男  うるさい。
男b お前の現実はここだよ。ここにあるんだ。そして理想は斯くも近く、斯くも遠い。
男  違う……お前とは違う……俺はお前とは違う。俺は……
男b いつまでたっても蛹のままだ。
   暗転
□カフカが愛読書だということを思い出しました。
7.課題9.相談ごとのアドバイス【車窓観察】 新聞の「人生案内」です。
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 19歳、アルバイトの女性。中学1年のとき不登校になってから、毎日学校や仕事に行くということがわたしにはできません。
 通信制の高校を卒業し、専門学校に進みましたが、数か月で通えなくなり退学しました。今は、バイトをしつつ、通信講座で資格習得の勉強をしています。でも、この資格が取れたとしても、きちんと働けるのか不安です。バイトは続いていますが、それは週に数回の勤務だからだと思います。
 以前から、何事も人と比べては、自分が劣っている部分ばかり見つかり、落ちこんでしまうことがあります。「人は人、自分は自分」と考えられるのは、充実した毎日を送れている人だけだと思えます。
 家族は今の私を身守り、応援してくれています。迷惑や心配ばかりかけて、本当に申し訳ないと思っています。もっと強くたくましくなるには、どうしたらいいでしょうか。
(N子)
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漠然とした悩みです。私なら、以下のようにこう助言します。が、本人が納得し希望を抱けるアドバイスはあるでしょうか。客観性で評してください。
自分が相談者と思って聞いてください。(創作は登場人物全員の役をやることになります)
〈根本留加〉     欠点を直せば・・・
自分の欠点に気付き、家族にも申し訳ないと思っているなら、欠点を直せばいいんじゃあないでしょうか。簡単には、直せないでしょうが改善くらいはできると思います。
相談者・N子 → 納得  落ち込む  反発  無視  希望を持つ
〈志村成美〉   もう答えは決まっているはずです
 今の自分に少しでも満足してしまっているのであれば、もうこれ以上、変われることはないでしょう。本当に現状打破をしたいと望むなら、もう答えは決まっているはずです。すぐに性格を変えることは無理ですが、改善点を見出してあるN子さんなら強くたくましくなると思います。前に進む意志を裏切らないでください。
相談者・N子 → 納得  落ち込む  反発  無視  希望を持つ
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〈梅津瑞樹〉       それは驕りです
 理想を追い求めないことです。今、以上の自分なんてものに引きずられてしまっては、本末転倒です。正直なところ私も大学に通うのが嫌で嫌で仕様がありません。あなたはまだ若い。あなたは他人と自分を見比べて自分の方が劣っているというがあなたよりどん底に落ちている人間はたくさんいます。劣っている人間はまだたくさんいます。それは驕りというものです。
相談者・N子 → 納得  落ち込む  反発  無視  希望を持つ
〈石川舞花〉    自分をほめてあげて
 「自分が劣っている。自分のことを好きになれない」という気持ちは誰もが多かれ少なかれ持っているものではないでしょうか。「隣の芝生は青い」という言葉もあります。その気持ちと上手く付き合っていければ、他人と比べる気持ちを全て否定する必要はないと思います。
 まずは週に数回のアルバイトが続いている自分をほめてあげ、なるべく続けましょう。徐々に外にでる時間を増やし、毎日できることをつくってみてはどうですか。散歩をつづけるのでも意味があると思います。何事も焦らず一歩づつです。
相談者・N子 → 納得  落ち込む  反発  無視  希望を持つ
〈鞆津正紀〉      毎日を楽しく過ごせるように
 まずは趣味を増やすことからはじめたらどうでしょうか。自分のやりたい事を楽しく一生懸命出来ることになることや、目標をもって、それに向かうとあまりストレスがないかも知れません。とにかく大事なのは、自分が本当は何をしたいかです。資格を習得するなど前向きな姿勢も見えますから、今後の変化は十分期待できます。
 劣等感は自信のなさのあらわれだと思います。どんな人でも、探せば人より劣る部分がたくさん見つかると思います。勉強は続けながら、自分の好きな事に対する知識や技術を深めたり、没頭出来る趣味をみつけたりしてはいかがでしょう。毎日を楽しく過ごせるようにしてみて下さい。
相談者・N子 → 納得  落ち込む  反発  無視  希望を持つ
〈吉岡未歩〉     本当に自分がやりたいことを
 初めまして、こんにちは。私は、大学生ですが、アルバイトをしています。私が考えるには、「学校に行く」ということや「仕事をする」ということに重点を置き過ぎないことだと思います。例えばアルバイトや仕事なら職場の人との関係も大事ですが、働けばお給料がせもらえます。その稼いだお給料で何かを買うとか、したいことをするとか ! 
 「仕事をする」ということの先に、何かを見出したら良いと思うのです。
 まずは、本当に自分がやりたいことは何か、
というのを考えてみるのはどうでしょうか。
相談者・N子 → 納得  落ち込む  反発  無視  希望を持つ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・190 ――――――― 12――――――――――――――――
〈古谷麻依〉
 自分と他人を比べた時、自分の劣っている部分ばかり見っかってしまうのは当然のことです。誰かを羨んだり、嫉妬してしまうのは人が人である以上、避けられないものです。
 ですから、それで落ちこむことはあっても、ずっと引きずってはいけません。
 あなたに心を許せる友人はいますか。高校時代の友人、バイト先の友人。とにかく家族以外に悩みを打ち明けられる相手はいませんか。そのような人が一人いるだけで状況は随分変わってくると思います。同時代の女性として、あなたのことを応援しています。
相談者・N子 → 納得  落ち込む  反発  無視  希望を持つ
□相談事で、注意しなければ点は二つある。本当に相談したいのか。それとも、ただ話したいだけか。見わけるには、知識や経験も必要だが、一番に必要なのは、洞察力である。しかし、この洞察力は、だれにでもあるというものでもない。も相談者しだいである。なぜなら、たいていの相談者は、相談にくる前、既に答えは出しているという真実である。
テキスト研究 ―――――――――――――――――――――――
テキスト初期作品『網走まで』について
 5・14ゼミでテキスト『網走まで』を皆で読んだ。『菜の花と小娘』『或る朝』と並ぶ初期三部作品の一つ。三作とも短い作品だが、『網走』は長編を感じせる話でもある。
しかし、読み過ごせば、ただのエッセイ、そんなふうにも読みとれなくもない。どんなベストセラーも話題本も、ああ面白かった。感動した。そんな絶賛はあっても、たいていは忘却の彼方に去っていく。が、この作品は、文学を志すものにとって時代を超えてテキスト(文学の土壌)となり得ている。なぜか、想像と創造があるからではないかと思っている。
車中で同席した母子は、どこから来て、着いた先でどんな生活を送るのか。主人公にも読者にも、それを考えさせる。そこに、この作家が小説の神様と呼ばれる所以がある。
横道だが、『2001年宇宙の旅』の人気もそこにある。宇宙船デスカバリー号のボーマン船長の命はどこから来たのか。そしてどこに向かっているのか。想像と空想の挑戦。こちらは、人類の謎、人間の謎と大きいが、『網走』にも、それがいえる。
 この作品を検証・考察する前に、作者のそれまでの環境、生活はどんなだったか。作品に至るまでの年譜をみておくのも重要である。
志賀直哉年譜(『網走まで』の)履歴
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1886年(明治19)3歳 芝麻布の幼稚園に入園。父直温文部省七等属会計局勤務。
1889年(明治22)6歳 9月学習院初等科入学。
1893年(明治26)10歳 父直温、総武鉄道入社。
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 日露戦争、「菜の花」を書く。
―――――――――――――――――― 13 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.190
1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
1907年(明治40)24歳 家の女中に恋する。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1908年(明治41)25歳 8月14日『小説網走まで』を書く。
志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳
なぜ「網走」か、『網走まで』とは何か
この作品は一見、エッセイふうで、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではない。この作品は完全な創作だという。作者志賀直哉は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。
そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたというわけである。題名にしても歌手石川さゆりが熱唱する「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった・・・」の青森に違和感はない。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。歌手北島三郎が歌う「はーるばる来たぜ函館!」は演歌の真髄だ。他にも函館には、歴史の郷愁がある。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、それなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
 しかし、四十一年後、1951年(昭和26年)68歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。
 この作品、最初の謎である
『網走まで』と『三四郎』
 『網走まで』は、明治四十三年(1910)に『白樺』第一号に発表された。が、実際に書かれたのは二年前の明治四十一年といわれている。作者が25歳のときである。明治三十九年七月に学習院高等科を卒業。九月に東京帝国大学文科大学英文学科に入学している。
 この時代、明治四十年代は、どんな時代だったのか。日清日露戦争に勝利した日本は、韓国併合(1910)を目指して大陸侵攻の準備を着々と進めていた。ポーツマス条約、明治三
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・190 ――――――― 14――――――――――――――――
十九年(1906)には南満州鉄道会社を設立するなど富国強兵政策をますます強めていた。
 しかし、華々しい国策の裏で暗い出来事が次々起きていた。明治四十二年には伊藤博文がハルビン駅で暗殺された。また四十三年には、大逆事件が起き、幸徳秋水ら二十四名に、死刑、の判決がくだった。そのうち十二名が減刑され無期懲役となったが、幸徳秋水はじめ12名が絞首台の露と消えた。
 大逆事件は知識人に大きな衝撃をあたえた。森鴎外、永井荷風、石川啄木、与謝野鉄幹らのおどろきと打撃はかれらの作品に書きのこされている。(『高校日本史』実教出版)
 
 大逆事件(明治天皇の暗殺を計画したとされる嫌疑)は、明治四十四年(1911)二月十八日に上記の判決が下った。この死刑宣告の判決について、志賀直哉は、その感想を二十日金曜日の日記にこう書きしるしている。
二月二十日 金曜日
 ・・・一昨日無政府主義者二十四人は死刑の宣告を受けた。日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事である。自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思わぬが)その自分が今度のような事件に対して、その記事をすっかり読む気力さえない。その好奇心もない。「其時」というものは歴史では想像出来ない。
 ここで唐突だが、明治の文豪夏目漱石の『三四郎』は明治四十一年(1908)九月一日から十二月二十九日まで、百十七回にわたって東西の朝日新聞に掲載された。『網走まで』は明治四十一年(1908)八月十四日と執筆年月日が明記されていることから、両作品は、ほぼ同時期に書かれたとみてよい。
 同時期に書かれた『三四郎』と『網走まで』。この二つの作品の違いは、まず作者だが、『三四郎』を発表したときの漱石は四十一歳。前年、明治四十年(1907)一切の教職を辞して朝日新聞社に入社。すでに『草枕』を発表し、『我輩は猫である』『坊ちゃん』などを相次いで出版。押すも押されぬ大流行作家となっていた。文学一本に人生を絞ったのである。
 ちなみに『三四郎』を発表した年、明治四十一年の年譜をみると、このような文学活動をしている。
1月1日より4月6日まで『坑夫』を朝日新聞に連載。
『虞美人草』(春陽堂)出版。友人、森田草平に小説『煤煙』の執筆を勧める。
6月13日より21日まで『文鳥』を大阪朝日新聞に連載。
7月から8月にかけて『夢十夜』を東京・大阪朝日新聞に連載。
9月1日より12月29日まで『三四郎』を朝日新聞に発表
 なぜ、『三四郎』を持ち出したのか。この作品も出だしは車内観察からはじまる。子ども連れではないが、子持ちの女と同席する。『網走』は、同情と純情だが、『三四郎』は新聞小説だけに色っぽいところもある。直接的な時代批評もある。そして、主人公の目的地、東京での生活が長編で描かれている。
 この作品が、単なる新聞小説で終わることなく、いまも読みつづけられているところはなぜか、『網走まで』を知るうえで、この作品の車内観察部分を読んでみることにする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※擬人化創作、『或る朝』感想など、本号に掲載できなかった課題は次号に掲載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―――――――――――――――――― 15 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.190
読むこと書くことの習慣化を目指して 
ゼミ日誌
月曜日5時限目の記録 (文ゼミ2教室)
□4月16日 参加8名、ゼミ説明 はじめての試みとして紙芝居風の紹介にした。が、DVDの取扱に戸惑ったりして反応はイマイチだった。伝わっただろうかの懸念。
 しかし、後日、13名の希望カード届く。(1名辞退)
□4月23日 12名、自己紹介、班長・ゼミ誌作成委員選出 テキスト読み
司会=梅津
出席=梅津、後藤、鞆津、山野、小妻、小野澤、吉岡、矢代、根本、石川、志村、古谷
読み=テキスト『菜の花と小娘』、嘉納治五郎「精読と多読」、編集室「読書のススメ」
撮影=1年間無事の旅を祈願して全員で写真撮影。
読むことの習慣化 → 『菜の花と小娘』
書くこと=「課題1.愛読書」 → 根本、志村、石川、梅津、山野、古谷
課題2.自分について」 → 根本、志村、石川、梅津、山野、古谷
「課題3.憲法問題」 → 梅津、石川、山野、
     「課題4.『菜の花と小娘』感想」→ 梅津、石川、山野
      
□5月7日 5名、届2名 ゼミ合宿の件 課題発表 テキスト読み
司会=吉岡
出席=吉岡、根本、石川、志村、古谷 届出=矢代、鞆津
討議=ゼミ合宿の有無決め。次ゼミ5・14に持ち越し
発表=ゼミ通信188号掲載分
読むことの習慣化 → 『ある朝』
書くことの日常化 → 『ある朝』感想 課題9~10
□5月14日 8名 ゼミ合宿採決 課題発表 テキスト読み
司会=古谷
出席=梅津、鞆津、吉岡、矢代、根本、志村、石川、古谷
発表=「ゼミ通信189」掲載分
読むことの習慣化=テキスト『夫婦』『網走まで』
書くことの習慣化=配布→テキスト感想・創作 「車窓観察」、「車内・一日観察」
ゼミ雑誌構成(案) 構成は、以下の課題からも
テキスト感想・手本創作・・『網走まで』前後創作・「車内観察」「自分の一日」
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・190 ――――――― 16――――――――――――――――
掲示板
本日提出課題
課題11.  『網走まで』『夫婦』感想 
課題12.  「振り込め詐欺」はどうしてなくならないか 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
書けたときに提出
課題13.  『網走まで』前後の創作(前後どちらでも)
       
課題00   「車内観察」「自分の一日」   常時受付
お知らせ
ゼミ雑誌ガイダンス → 5月23日(水)12:20~文芸棟教室
出席者(担当者)  → 後藤啓介さん   石川舞花さん
☆ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
2012年6月16日(土)池袋勤労福祉会館第7会議室 作品『人妻と寝台の下の夫』
時間 → 午後2時~5時   詳細は以下、編集室に
編集室便り
○課題原稿、メールでも可 下記アドレス
○課題配布15~17
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
ゼミ授業評価採点は、以下を基本とします。(4単位)
60点 = ゼミ誌掲載  20点 = ゼミ出席日数(20日以上は20) 
15点 = 提出課題(提出課題10で1点) 1~5点 = α
60+20+15+5 = 100(100点~以上は100とします)
文芸研究Ⅱ   2012年読書と創作の旅・下原ゼミ 5・21配布
書くことの習慣化・日常化を目指して
                     
名前
課題15.原発について 廃止・開始・わからない
                             
廃止なら、電力問題はどのように解決したらいいか                                 
                              
――――――――――――――――――――――――――――――
開始なら、安全はどう保つか
――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
文芸研究Ⅱ   2012年読書と創作の旅・下原ゼミ 5・21配布
書くことの習慣化・日常化を目指して
                     
名前
課題16.同時代の『三四郎』車内観察の感想
――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
文芸研究Ⅱ下原ゼミ 提出随時 5・21配布
名前
課題17.「車内観察」「自分の一日」
現在を観察すれば。未来がみえる。時代がわかる。
――――――――――――――――――――――――――――――
車内観察
――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――
「自分の一日の記録」
〈矢代羽衣子〉
ある晴れた初夏の昼下がり。一人の赤毛の少女が、大きなリンゴの木を見上げて途方に暮れていました。あまりに長い間少女がそうしているので、それまで黙って見守っていたリンゴの木が、いよいよそうっと少女に話しかけました。
「そこの赤毛のおじょうさん、そんなに高くを見つめてどうなさったの? 首が痛くなってしまうわ」
「お気に入りの麦わらぼうしが 風にさらわれて枝に引っかかってしまったの」
 急にリンゴの木に話しかけられて目をまあるくした少女は、やがて困ったような笑顔ではにかんでそう言いました。
 リンゴの木が自分の髪を見てみると、なるほど、てっぺんのほうの枝に、青いリボンの麦わらぼうしが引っかかっています。そういえば、今日は若い風がいたずらに外を駆け回っては、子供の風船を飛ばしたり、ご婦人の髪をぐちゃぐちゃにかき乱したりしていました。
「まあ、まあ。風の子にも困ったものね。いま取ってさしあげるわ」
 リンゴの木はいっしょうけんめい体を揺らそうとしますが、地面にしっかり根が張っていて枝はびくとも動きません。それを笑うように風の子が葉っぱをそよそよと優しく揺らします。
リンゴの木と少女はすっかり困り果てていると、てんとう虫の紳士がぶーんと飛んできました。
「お二人とも、そんなに困ってどうなされました?」
 てんとう虫は立派なシルクハットをちょこんと上げてあいさつをすると、二人にそう尋ねました。二人が事情を話すと、てんとう虫は恭しくうなずきました。
「それは困りましたね。どれ、私が取ってさしあげましょう」
 そう言っててんとう虫は高く高く飛んでいき、あっという間にぼうのところまで到着しました。しかし、てんとう虫には少女のぼうしは重すぎて、持ちあげられません。
「ううむ、まいったなあ」
 てんとう虫は困ってしまいました。彼が自慢のひげを伸ばして思案していると、ちょっとそこの旦那、と声をかけられました。どうやら葉っぱにくるまって昼寝をしていたリスが目を覚まてしまったようです。
 リスは眠そうな目をこすって、不機嫌そうな声で言いました。
「なんだいさっきから騒がしいな。ゆっくりお昼寝もできないじゃないか」
「これはこれは、申し訳ない。実はあそこの木の下で困っているお嬢さんのぼうしを取ってあげたいのだが、私では重くて持ちあげられないのさ」
 てんとう虫の言葉に、リスはほう、と頷きました。
「なるほど、それは大変だ。仕方ねえ、おれが取ってやるよ」
 リスはふわふわのしっぽをピン! と伸ばして気合を入れると、ぼうしを枝から取ってそのままするすると木をすべり降りてぼうしを少女に手渡してやりました。まあ、と嬉しそうな声をあげた少女の笑顔に、リスも得意そうです。
「ありがとう、リスさん」
「おれは木登りが得意なんだ。どうってことないさ」
 ふふんと鼻をならしたリスに、少女とリンゴの木とてんとう虫は顔を見合わせてくすりと笑いました。
 少女が嬉しそうにぼうしをかぶります。青いリボンは、少女の赤毛にとてもよく映えました。
「みなさん、本当にありがとう。よかったら、お礼においしい紅茶とお菓子はいかが?」
 少女の提案に、みんなは口々にそれはいいね、と言って喜びました。少女がにっこり笑います。
 
ある晴れた初夏の昼下がり。ティータイムはまだ、始まったばかりです。
ゼミ雑誌作成について
ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果の証です。全員で協力して完成させましょう。
ゼミ雑誌作成担当委員 → 後藤啓介さん  
ゼミ雑誌作成担当委員 → 石川舞花さん  
      ゼミ雑誌作成協力委員 → ゼミ員全員です
     ゼミ全体の班長 → 梅津瑞樹さん
ゼミ雑誌作成計画
Ⅰ.申請方法  5月23日(水)12:20~文芸棟教室1
 ゼミ雑誌作成ガイダンスがあります。担当委員は必ず出席してください。
後藤啓介さん   石川舞花さん です
  
  ゼミ雑誌作成の説明を受け、申請書類を受け取って期限までに必ず提出してください。
  ゼミガイダンス報告は、5月24日のゼミで。
Ⅱ.発行手順 ゼミ雑誌の納付日は、2012年12月7日(金)です。厳守。
  以下① ~ ③の書類を作業に添って提出すること。
【① ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】
1.【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢/出版編集室に期限までに提出
2. ゼミで話し合いながら、雑誌の装丁を決めていく。
3. 9月末、ゼミ誌原稿締め切り。
4. 印刷会社を決める。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。
5.【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。
6. 11月半ばまでに印刷会社に入稿。(芸祭があるので遅れないこと)
7. 雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。
8. 印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。
注意 : なるべくゼミ誌印刷経験のある会社に依頼。(文芸スタッフに問い合わせ)
     はじめての会社は、必ず学科スタッフに相談すること。
ゼミ誌原稿は課題から
ゼミ誌掲載の原稿は、授業課題(テキスト感想・車内観察・自分観察・創作)とします。
課題提出のススメ
2012年読書と創作の旅は、どんな旅となるでしょう。原発問題、経済問題など様々な難関があります。私たちにできるのは、森羅万象をしっかり観察し記録することです。この旅を有意義なものにするために、書くことの習慣化を成就させるために、またよいゼミ雑誌を作るためにも課題はきちんと提出しましょう。
課題7.車内観察
 
志賀直哉について&処女作「菜の花と小娘」読みと書き(加筆4/22)
 ※志賀直哉1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日没88歳
志賀直哉について
土壌館・編集室
 
 
――――――――――――――――――――――――――――――
備考
車内観察の手本 短い車内観察作品だが、時代、夫婦の機微、人間愛など様々なことが含まれている。車内観察のお手本のような佳品である。
        夫 婦         志賀直哉
 函南(かんなみ)の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川(もんがわ)の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ(婆)-ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。
 家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。
 私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。
 その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。
 玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)
 日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。
(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)
この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。
※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であったと想像する。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように人間の本質をとらえ描いている。編集室

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