文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.4

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ 2012年5月18日発行
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信
BUNGEIKENKYU Ⅲ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
熊谷元一研究No.4                               

 編集発行人 下原敏彦

                              
4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6 7/20 (ゼミ4教室)
  
観察を記録する、観察を創作する
5・18下原ゼミ
5・18ゼミは以下の要領に添って行います。(ゼミ4教室)
 
1.ゼミ連絡、「ゼミ通信No.4」配布 5・11ゼミ報告   
2. 少年時代の熊谷はどうだったか,略歴から
3. 当時の子どもの暮らし 創作を読む 問題を解く(四谷大塚、平成17年出題)
4.自分の子ども時代の話を書く  創作かエッセイ
5・11ゼミ報告
     『一年生』撮影の動機を探る
 5・11ゼミは、参加の大野君と『一年生』の撮影について話し合った。この写真集は昭和28年4月1日から昭和29年3月20日の終業式までの一年間、担任した小学一年生を撮ったもの。授業中、昼休み、校庭、廊下、下校など学校での子どもたちのあらゆる場面が記録されている。現代では、写真は珍しくないが、半世紀以上も前の当時は、貴重なものだったはず。しかも山村の小学校である。それに、教育現場での撮影。現代でなくても不可能に近い。いったい熊谷は、いかなる交渉術を用いて、子供たちを撮ったのか。
 目下、NHKで「タイムスクープ」というSFドラマをやっている。あのドラマで、一番の難関は、現代人がいきなり現れて取材できるのか、という疑問である。が、記者は、ある交渉術でその時代の人々が関心もたないようにしている。と、明かしている。ぜひ知りたいが、それは企業秘密だと上手い逃れ方をしている。もしかして熊谷の撮影も、そうかも知れない。写真の子どもたちは、まったくカメラを意識していない。被写体の一人である私だが、先生がどのようにして写真を撮っていたのかまったく記憶にない。
ゼミ誌出版局、著作権を懸念
 ゼミ誌編集委員の大野君からゼミ誌作成計画を受けたゼミ誌出版局担当者は、写真使用という点で著作権を大いに懸念した。この問題について下原は、熊谷元一写真童話記念館と熊谷元一写真保存会の承諾を得ることを約束した。
ちなみに下原は過去に写真集『五十歳になった一年生』、記念文集『還暦になった一年生』を刊行しているが、師弟関係と50年で著作権は時効ということで、考えなかった。


文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.4 ――――――― 2 ―――――――――――――――――
熊谷元一研究・その1
① 熊谷元一の生涯を知る 故郷
 「その人間は、何者か」を知るには、生涯の年譜を見ることである。が、その人物の本質を知るには、出生地と育った環境を知ることも必要といえる。
そんなわけで「熊谷元一の生涯を知る」の初回は、熊谷の故郷を検証したい。幸い熊谷は、自伝的著書を妻・貞子とふたりで残している。南信州出版局から刊行した『三足のわらじ』 
                   がそれである。熊谷は、どんな自然のなかで生を
 JR飯田駅から国道153号線を西方10㌔、自動車で30分というところに阿智駅とか関の駒んばといわれた駒場がある最近中央道の開通で脚光を浴び、近くに温泉なども出て温泉郷とならんとしているところでもある。(2012年現在、何軒もの温泉ホテルが林立する昼神温泉郷となっている)阿知川べりに沿った細長い街並み。(『いいだよいとこ』)
この宿場町、駒場で全国区は、次の出来ごと
○ 武田信玄の終焉地が定説。1572年(元亀3年)武田信玄は京都に上がろうと甲斐の兵2万を率き三方ケ原で織田・徳川の連合軍と戦い三河の野田城に迫った。が、信玄がにわかに病に倒れ、仕方なく甲斐に帰る途中、駒場の長岳寺で亡くなった。
○ この寺には昭和24年、この寺で亡くなった森田草平の墓もある。
○ また、この寺の住職・山本慈昭は中国残留孤児の帰国事業に尽くされた。
 
以上は、外側から見た、熊谷生誕の地である。では、次に、熊谷が70年に渡って撮りつづけた被写体としての村について、紹介したい。昭和12年(1937年)「アサヒカメラ」2月号に写真評が掲載され、翌年13年(1938年)朝日新聞社刊となった『會地村』とは、いったいどんな村か。
ちなみに『會地村』は、熊谷27歳のとき昭和11年(1936年)8月6日から撮りはじめたもの。『三足のわらじ』で語っているが、追って検証する。ここでは当時、(あくまでも昭和28年以降を視点とするが)會地村はどんなだったか紹介していく。次号で
―――――――――――――――― 3 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.4
熊谷元一研究 その2
被写体の子どもたち
被写体となった子どもたちの記録
 熊谷の写真は、自分の村を撮ったものだが、そのなかに多くの子どもたちも含まれている。熊谷は、写真を撮りつづけることで観察を記録に変えていったが、被写体となった子どもたちも、また自分たちの子ども時代の日常を残すことで記録を永遠なものしていた。
 以下は、熊谷の教え子たちが、熊谷の指導のもと出版した文集や写真集である。
『一年生のとき戦争が始まった』われら国民学校奮戦記 農文協
文・・・・・・・・・・信州 智里東国民学校昭和21年度卒同級会
絵、写真・・・・・・・
 熊谷は、昭和20年(1945年)8月15日の終戦、9月の召集解除を機に故郷會地村に、に帰郷。10月から隣村の智里東国民学校に教員として勤務。5年生を担任する。この子供たちは昭和16年(1941年)に入学した。当時、熊谷はまだ子どもたちを被写体に、という考えはなかったようだ。この子どもたちは、後に思い出として1991年に文集を発行した。『うちじゅうみんなかぼちゃいろ』である。話題になってNHKのテレビ出演となった。その後、この文集は児童書としての価値を見いだされ2005年3月に(社)農山漁村文化協会から『一年生のとき戦争が始まった』という本書の形になって出版された。写真は、少ないが当時の子どもたちの暮らしの挿絵として、熊谷の童画が使われている。
 
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記念文集
『五十歳になった一年生』会地小学校28会 編集・下原敏彦
 この記念文集は、1996年11月24日、NHKテレビの「日本点描」番組で放映された「教え子たちの歳月」を記念して出版した。写真はないがカットとして熊谷の童画作品をふんだんに散りばめた。東組、西組60名の声。
 刊行によせて、熊谷は、このようにコメントしている。
「――― 文集発行については、40余年間、写真集の中だけにいたみなさんが、はじめて語りだすのですから感無量のものがあります。」
写真集『五十歳になった一年生』熊谷元一と一年生の会
 この写真集は、44歳の熊谷が撮った一年生のときの写真と、40余年後、88歳になった熊谷が全国を歩いて撮った50歳になった一年生が載っている。
熊谷先生100歳記念文集『還暦になった一年生』28会
 百歳になった熊谷を祝って教え子たちが自費出版した。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.4 ――――――― 4 ―――――――――――――――――
熊谷元一研究 その3
思い出を創作・エッセイにする
 熊谷が観察し、記録した映像は、普遍に変化した。福島原発事故により、現代文明は行き詰まっている。この夏、節電に日本人は耐え切れるのか。八方ふさがりの日本、及び世界の現状だが、熊谷の写真は、希望への指針をみせてくれる。
 50年前、そう遠くない昔、原発もゲームもなかった。だが、人々は、子供たちは貧しいながらも心豊かに暮らしていたのだ。さきに見たDVDで、アニメの巨匠・宮崎駿監督は、写真でみた農家の食卓の豊さに感嘆していた。
 ゼミ授業は、熊谷元一研究をすすめるとともに思い出を、創作する。紹介するのは、その一話である。『一年生』の子どもたち、学校だけでは、わからないが、家に帰れば、それぞれの遊びや暮らしがある。『ひがんさの山』の子どの家は、農家、養蚕が主な仕事。
 この作品は平成17年、四谷大塚で、有名中学、国語問題として出題した。
☆問題を配布します。解答してください。
熊谷元一とサローヤン
 熊谷元一と、ウイリアム・サローヤン。両者の比較も順次つづけていきます。
熊谷元一研究の目標
1.写真家・熊谷からは、原発のない時代の暮らしの証言を探る。
2.童画家・熊谷からは、子供の遊びを伝承する。3・11の災害で多くの人たちが避難所生活を余儀なくされた。半年後の救援物資が一段落したあと、いま一番欲しいものはと聞いたら「ゲームの玩具」と答えた人が多かったという。写真の子どもたちは、ゲームでは遊んでいない。自分たちが創意工夫した遊びで遊んでいる。ゲームがなくても遊べる。
3.教師・熊谷からは、創意工夫の実践教育を学ぶ。ゆとり教育は、多くの格差を生んだ。混迷する日本の学校教育。民主主義草創期の熊谷の教育を検証する。
掲示板
○ゼミ誌作成ガイダンス 5月24日(木)12:20~ 江古田校舎W301教室です
※2名の参加です。必ず、出席してください。
○ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」のお知らせ
月 日 : 6月16日(土)
時 間 :  開場1時30分 はじまりは2時~5時
会 場 :  豊島区立勤労福祉会館第7会議室(6階)
作 品 :  「人妻とベットの下の夫」
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編集室便り
① 課題原稿、メールでも可 下記アドレス
住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」            2012・5・18   
課題 子ども時代の思い出を創作する         
                    名前
文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」            2012・5・18   
課題 『ひがんさの山』感想         
                    名前
1908年  ウイリアム・サローヤン、米国カリフォルニア州の農業地帯フレスノで生まれ
る。アルメニアからの移民二世。
1909年 (熊谷元一、長野県伊那谷の山村で生まれる)
1934年 『空中ブランコに乗った大胆な若者』好評26歳 この年から6年間に何百という短編を書いた。まるでカメラのシャッターを押すように。
1938年 熊谷の朝日新聞社刊『會地村』好評、29歳
1953年 熊谷『一年生』の撮影開始
ウイリアム・サローヤンの邦訳出版されたもの
『君が人生の時』加藤道夫訳、中央公論社、1950年
『人間喜劇』小野稔訳、中部日本新聞社、1950年
『わが心高原に』倉橋健訳、中央公論社、1950年
『男』小暮義雄訳、ダヴィト社 1951年
『わが名はアラム』清水俊二訳、月曜書房、1951年(のちに晶文社)
『君が人生の楽しき時』金子哲郎訳、創芸社、1953年
『どこかで笑っている』清野陽一郎訳、ダヴィツト社、1954年
『サロイアン傑作集』末永国明訳、新鋭社、1954年
『笑うサム・心高原にあるもの』斉藤数衛・吉田三雄共訳、英宝社、1957年
『我が名はアラム』三浦朱門訳、角川文庫、1957年(のちに福武文庫所収)
『人間喜劇』小島信夫訳、研究社、1957年(のちに晶文社)
『わたし、ママが好き』古沢安二郎訳、新潮社、1957年
『サローヤン短編集』古沢安二郎訳、新潮文庫、1958年
『人生の午後のある日』大橋吉之輔訳、荒地出版社、1966年
『ウイリアム・サローヤン戯曲集』加藤道夫・倉橋健訳、早川書房、1969年
『ママ・アイラブユー』岸田京子・内藤誠訳、ガルダ、1978年(のちにブロンズ新社刊 新潮文庫所収)
『パパ・ユーアークレイジー』伊丹十三訳、ガルダ、1979年(のちにブロンズ新社刊、新潮文庫所収)
『ワン デイ イン ニューヨーク』今江祥智訳、ブロンズ新社、1983年(のちに新潮文庫所収)
『ディアベイビー』関汀子訳、ブロンズ新社、1984年(のちにちくま文庫所収)
『リトル チルドレン』吉田ルイ子訳、ブロンズ新社、1984年(のちにちくま文庫所収)
『ロック・ワグラム』内藤誠訳、新潮文庫、1990年
『ヒューマン・コメディ』関汀子訳、ちくま文庫、1993年

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