文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.7

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ 2012年6月8日発行
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信
BUNGEIKENKYU Ⅲ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
熊谷元一研究No.7                               

 編集発行人 下原敏彦

                              
4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6 7/20 (ゼミ4教室)
  
観察を記録する、観察を創作する
6・8下原ゼミ
6・8ゼミは以下の要領に添って行います。(ゼミ4教室)
 
1. ゼミ連絡、「ゼミ通信No.7」配布  連絡・郊外学習について
2.  ゼミ雑誌構成案 意義について、
3. 「熊谷元一写真」感想&について
4. 自分の子ども時代の話を書く  創作、エッセイ、紹介、説明 
土壌館ニュース 『一年生』を「還暦になった一年生」と見に行く
 7月上旬に熊谷元一写真展・秋田、角館で開催
7月7日(土)~7月9日(月)
角館への旅、熊谷元一写真童画館・写真保存会と同行を計画
 熊谷元一写真展が7月上旬に秋田県角館市で開催される。長野県下伊那郡阿智村の「熊谷元一写真保存会」と「熊谷元一写真童画館」の職員数名は、作品貸出先の角館に出向いて写真展示の確認をする。一行に「熊谷元一研究」下原ゼミも同行を計画している。
日程は、以下の予定です
東京(「一年生」・写真館職員合流) → 新幹線 → 秋田(宿泊、「一年生」取材)→ 角館・小松ひとみ写真館「熊谷元一写真展」見学 角館宿泊(写真保存会合流)→ 東京
同行の目的 → ゼミ雑誌『熊谷元一研究』作成の為。12月7日納品
         構成に特集として(仮)「秋田角館に熊谷元一写真展を見に行く」を組む
取材対象 → 同行する28会(『一年生』)と(『小学一年生の時、戦争がはじまった』)か
  ら教師・熊谷元一の人物像を探る。
       写真家・小松ひとみ氏(写真家・熊谷元一感想と開催目的を聞く)
合流する写真保存会職員から保存整理の進行具合・今後の企画などを調査。
※28会は、昭和28年(1953年)に小学校に入学し担任の熊谷に写された一年生。


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マスメディアにみる熊谷元一①
 その生涯を写真家・童画家・教師として生きた熊谷元一のマスメディアにおける批評と評価は、どんなだったか。新聞・雑誌・書籍・テレビ・HPなどから探ってみた。
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 HP検索
1月熊谷元一さんの偉業
私は現在、大学でメディア社会学科というところの教員をしているが、日本でメディア社会学の第1人者は誰かと問われたら、熊谷元一さんの名前をまずあげたい。熊谷さんは、長野県阿智村の出身。岩波写真文庫の「1年生」で知られる写真家で、童画家でもある。去年暮れ、101歳で惜しくも亡くなられた。
私は熊谷さんにぜひお目にかかりたくて、ご自宅に伺った1か月後の死だった。写真文庫「1年生」は、熊谷さんが小学校の教員をしていたときの作品だ。当時始まったばかりの校内放送の時間のことだ。5分後、10分後と、だんだん子供たちの集中力が途切れ、ざわざわし始めるようすを見て、熊谷さんはシャッターを切った。当時貴重だったコッペパンをまるごと頬張る少年や、あそびけんか、黒板いっぱいの落書きもある。どれも思わず微笑むものが多い。熊谷さんは地域にも目を向けた。村がどうすれば豊かになれるか、社会学的分析を行い、その結果をもとに、村の人たちのアクションにつなげた。2つの地域でパーマをかけた女性の割合に差があることをつきとめ、現金収入と嫁の地位との関係について考察した。まるで宮本常一のようだ。
熊谷さんは退職後、東京・清瀬に移られたが、そこからまたなんと半世紀の長きにわたり、亡くなる少し前まで、写真を撮り続けた。年中行事だけでなく、空の雲が面白いかたちをしていたら、それも撮る。市会議員のポスターの変遷にも目を向けた。
すごいのは、当時の阿智村の1年生と60年にわたって交流を絶やさず、集まりをもったことだ。卒業生たちはみな熊谷先生を慕った。私も、直接いっぱいお話を伺いたかったが、それはもはやかなわない。熊谷さんが残されたとんでもない数の写真は、日本人がどのように生きてきたのかを考える上で、何より貴重な宝だと思う。ぜひ、その全貌を整理し、みなが共有できるようになることを願う。(永田浩三の私極的ブログ「隙だらけ好きだらけ日記」)
永田浩三(1954年生まれ) 日本の社会学者・ジャーナリスト・武蔵大教授、元NHKプロデューサー「クローズアップ現代」「NHKスペシャル」などを手がける。ETV特集『核をめぐる対話?大江健三郎・大石又七?』は、ギャラクシー月間賞を受けた。
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熊谷元一研究 その2 
代表作品『一年生』を読む
今号では、上載の『一年生』の表紙写真について考察する予定でした。が、その前にいま一度前号で検証した下載の「コッペパンの少年」について、もう少しその謎を追ってみます。
コッペパン2少年の奇跡
 先号では「コッペパンの少年」の写真作品を説明した。この写真作品は、昭和30年に受賞した第一回毎日写真賞『一年生』のなかでも特に評価が高かった。写真家・熊谷の原点といっても過言ではない写真作品である。
大きなパンにかじりつく二人の少年。この写真について熊谷元一研究者の矢野教授(静岡大)は、著書の序文でコッペパンは「実は給食のものではない」と明かしている。被写体の一人筆者(下原)の記憶も同じである。給食にみえるが、給食のパンではない。
当時、山村の小学校で給食は味噌汁だけだった。パンは、非農家の子供が持ってきていた。担任の熊谷も昼食は、ときどき食パンにバターを塗って食べていた。
戦後7年半とはいえ、その頃の農家の生活は自給自足だった。それ故、食パンやバターは村では珍しいものだった。たいていの子どもは弁当を持ってきていた。冬場は、弁当を温めるための木台があった。底が網になっている長方形の木箱にクラスの子供たちの弁当を並べたてダルマストーブの上に置いた。真中が、よく温まるので子供たちは、競争で真ん中に入れた。いまでは、コンビニなどでレンジで温めスタートのボッチを押せば、あっという間だが、ストーブで温めるのは時間がかかった。いろんなおかずが入っているので、温まって
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くるとそれらが混ざり合い異様な臭いとなって教室に漂いはじめる。村は「かいこの村」と呼ばれるほど養蚕農家が多い。それで、おかずに蚕のさなぎを入れてくる子も少なくない。
 筆者の家も養蚕農家だったので、ときどき入っていた。「卵1個にヒビ(さなぎのことをそう呼んでいた)3つ」と言われるほど栄養価は高かい。さなぎ料理は、?油と砂糖で煮たものを油いためしたもので、食べてみれば香ばしい味がした。が、他のものと湿気状態で温まると、ものすごい臭いを発散した。昼食前のストーブ周辺は、さなぎのニオイがいつも充満していた。しかし、クサイと騒ぐのは、最初の日ぐらいで、あとは慣れてしまった。
話が逸れたが、当時の昼食状況は、このようであった。「コッペパンの少年」の写真は、一見、普通の日常場面を写されたようにみえる。が、少なくとも、この小学校では珍しいことだったのだ。30人クラスのうち、一人でも珍しいのに、並んでいるもう一人の少年も昼食にコッペパンを持ってきた。そして、二人そろってコッペパンにかじりつく。これは昭和28年の山村の小学校において奇跡ともいえる光景だった。
熊谷は、その奇跡を見逃さなかった。故にこの写真は、時代を超えて見る者の胸に印象深く焼きつくのである。ここに写真家・熊谷の原点がある。
 
記録写真から「熊谷元一作品の普遍性を探る」
時・所を超えた一年生比較
 熊谷は、村を記憶する目的で村人を撮ったが、子どもたちの写真も多くある。被写体の多くは、1953年に担任した教え子たちである。が、写真は、一山村の一時代に留まらず、見る者を懐古させる。いつの時代でも、どの所に育っても熊谷の写真は、常に自分が体験した風景のようにみえる。
そこで作品の普遍性を知るために時も所も違う「一年生」に焦点をあててみた。その「一年生」は、ゼミの大野純弥君。彼の「一年生」は1996年、ところは東京文京区。1953年の山村の子どもと43年の時の隔たりがある都会のど真ん中。二ヶ所の子ども比較することで普遍の解明を試みたい。
 まず、大野君の「一年生」時代は、どんな日常だったのか。
大野純弥君の場合 43年の時空を超えて
創作・私が子どもだった頃「たっちゃん」
 大野純弥
 6歳になった時、僕の生活はがらりと変わった。一年生に上がるのに合わせて文京区にある小さなアパートに引っ越したのだ。
アパートの名前は「アカデミーハイツ」。壁にはクリーム色のペンキがべ夕塗りされてい
て、ペンキがうねって出来た突起の先には埃が細かく付着しどす黒くなっていた。そして
それが見えない箇所にはシダの葉を申し訳程度にちよこっと生やしているといった装いだ
った。おまけに細い裏路地がそのまま傾斜したような坂の下にあったので、よほど車幅の
ない胆でない限りたどり着けないという鼠返し的な仕組みで閉鎖されていた。
しかし立地に関しては申し分なく、その極せま坂を上って大通り沿いにしばらく行ったら右手に曲がって今度は坂を下れば学校に到着という具合であった。もし学校までの道順を地図に描いたなら「コの字」をなぞるだけで済んだだろうがそれを描く機会は一度もやって来なかった。
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僕はそんな新しい住まいをシダの葉ごと気に入っていたが、実のところこのアパートは
元はと言えば建設中の新居へ越生までの仮住まいでしかなかった。一年経ったらアカデミ
ーハイツより学校から二倍はどの距離の「ガーデンヴィレッデマンション」に移ることに
なっていたのだ。
アカデミーハイツに住む僕はその時クラスで二番目に学校に近かった。そしてガーデン
ヅイレスヂマンションに越したってクラスの中でまだ五番くらいにはいられた。
 しかし父親の言うように僕はクラスでの立ち位置を気にしていたわけではない。すっか
り愛着を持っていたのだ。ボロアパートとその周りのちゃんと水の出る井戸や必ず猫が魚
の入っていた発泡スチロールの箱の上で寝ている魚屋のある景色に。前に住んでいたマン
ションの景色よりもずっと。
 第一、前のマンションの名前は覚えていなかった。他の記憶も曖昧だった。
「引っ越してもユウタ君とマアチャンはずっと友達よ」
そう彼の母親が言っている間もマアチャンは右のマンホールの蓋にチョークを思い切りなすり付けていた。僕もぼんやり蓋の隙間にねじりこんでいくチョークの粉を眺めていた。それが前の家でのわずかな中の最後の思い出だ。
アカデミーハイツの目の前には公園があった。鉄棒、ブランコ、砂場そして切り株風
に造られているトイレ。それだけしかないちんけな公園だ。切り株には横枝が生えていて
そこに二匹リスのオブジェが乗っているのが公園の質の低さをより際立てていた。もちろ
んそれも僕は気に入っていた。二匹のリスの間に足を掛けると切り株トイレの上に登れた。
大体一メートル半くらいの高さがあってなかなかの見晴しを誇っていた。これはたっちゃ
んに教えてもらったことだった。
たっちゃんは二〇四号室に住んでいる同い年の少年で、二〇四号室の前には丁度階段が
あったので僕の住んでいる三〇四号室との優れたアクセスを理由に仲良くなった。
 たっちゃんは生まれてからアカデミーハイツ暮らしでそこでの楽しみ方を熟知していた。
あのお粗末な公園であんなにはしゃげたのは全くもって彼のおかげであった。切り株の展
望台から勢いをつけて飛ぶと塀を超えて公園の横にある寺の墓場に行くことができた。初
めて一人で公園で遊んだ時、たっちゃんはいとも簡単に切り株から「谷村家之墓」に飛び
乗って見せた。
「やってみたら簡単だよ。俺の妹だって楽勝だった」
 僕はたっちゃんの言葉を信用できなかった。僕には運動神経も勇気もなかったし、こ
の時ばかりは人を信じる心も失っていた。たっちゃんの手招きは罠でしかなくて、励まし
の言葉は詐欺の手口に思えた。トイレに登るだけでもかなり神経をびくつかせたというの
に、そこから飛べとは無茶だ。もうリス経由で地上に降りたい。
「お墓にいくとなにかあるの?」
 僕は大した利益のないことなら難癖をつけて帰ろうと思った。ほぼ初対面の少年に絆
されて足でも挫けば馬鹿な話だ。
「いや何もないよ。ぐるっと墓場を回って飽きたら寺の門から出る」
 利益はゼロだった。僕が面喰って唇を震わせていたら、たっちゃんはしゃがみ込んで
墓石の裏側を指でなぞりながら眺めた。
「谷村純一が怒り出すから早くしろ」
「悪いけどこわい」
僕は情けない気持ちを抑えて白状した。
「ユウタのユウは勇気の勇じゃないのか?」
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「悪いけど優しいの方」
 たっちゃんは僕を軽く一瞥して墓石をぺしゃりと叩いてから飛び降りて寺のある方向
に走っていなくなってしまった。置いて行かれた。益々情けなくなってやっぱり嘘をつい
て家に帰ればよかったと思った。嘘をついて雄大の雄とでも言えばよかったとも思った。
その反面弟のシュウタを連れて二かくてよかったと安心していた。シュウタに見損なわれ
るのも嫌だったし、シュウタなら墓石に乗り移れた可能性があったからだ。僕よりも彼の
方が三つも下だったがよっぽど運動神経が良かったのだ。
たっちやんに今度会う時までに飛石練習をしておこう。学校の体育館のマットで練習す
れば怪我することはないだろう。あまりに惨めな思考を巡らしていると墓場の石塀が、がつ
がつ鳴った。
「今目のところはこれ使えよ」
 たっちやんが梯子を石塀打ち付けて僕に怒鴫っていた。僕がまた面喰って唇をぶるぶる
といわせていたら、たっちやんは首を左右に曲げて肩をぱきぱきいわせた。それが寺かど
こかから梯子を運んできたからこっちは肩が凝ったぞというサインだと気付いたのは次の
日の登校中たった。
「ごめん。置いてかれたと思った」
「いや、まあいいんだよ。本当は妹は二回落ちて足挫いてるし」
 僕は少し安心して大きく深呼吸してから石塀の上に渡った。塀に来るのは簡単だった。
これなら塀に一旦乗ってから墓石に乗れば大丈夫たったかも知れない。一気に墓石に飛び
移ろ正攻法しか考えていなかった自分に少し誠実さを感じた。
 梯子は全部降り切らないで二段分残してジャンプした。やっとたっちやんの友達になれ
た気がした。たっちやんは塀に立掛けた梯子を取り外し肩に担いだ。
「ほんとに何も面白いもんとかないの?」
 せっかく訪れた新境地に欲張りにも僕は収穫を求めた。
「墓と梯子くらいしかないよ」
 たっちやんは表情も変えないでそう言い放った。僕は洒落たこと言うよなと思ったが、
言えた義理ではないという分別はあったのでたっちやんの後ろに回って梯子を担いだ。
1953年当時、村には公園はなかった。学校の校庭が公園の変わりだった。、
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編集室便り
① 課題原稿、メールでも可 下記アドレス
住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
熊谷元一研究・最新ニュース
 熊谷元一の故郷・信州伊那谷「昼神温泉郷」にある熊谷元一写真童画館では、目下、秋田の写真家・小松ひとみ写真展を開催している。
 (以下案内は、熊谷元一写真童画館HPより転載。写真は、写真童画館の代表作品)
2012年05月25日
熊谷元一写真童画館 「桜逢瀬」小松ひとみ写真展
 南信州阿智村にある熊谷元一写真童画館では、併設アートギャラリーにて、特別企画展『 「桜逢瀬」 小松ひとみ写真展』が開催されています。本州各地の桜の姿を観ることができ、中でも2010年5月に、作者は阿智村にある「駒つなぎの桜」に虹のかかったシーンの撮影に成功。このときは3泊4日、車中で過ごし、撮影に挑んだそうです。現在この写真は阿智村役場の庁舎内にも展示されているとのことです。是非ご覧ください。
■■特別企画展■■
「桜逢瀬」 小松ひとみ写真展
~桜の町 秋田の角館で生まれた作者の十数年にわたる桜行脚の記録~
文芸研究Ⅲ下原ゼミ・ゼミ雑誌制作企画
熊谷元一研究・ゼミ雑誌構成(案)
毎回、話し合って編集方針を固めていく。
【意義】
いま、なぜ熊谷元一研究か・・・・・・・・
略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・
「熊谷元一と私」ゼミ担当者と熊谷  新聞・冊子など記事から
【骨格 → 5本柱】
○1953年、ある山村の小学一年生の記録
代表作『一年生』を読む、感想・・・・・
写真  文集  五十歳  還暦  
黒板絵の世界について・・・・・下原
○1996年、都会の一年生の記録
日記  写真  文集  思い出創作
○同時代の作家比較、サローヤンの少年時代
熊谷元一とウイリアム・サローヤンの距離
○特集・秋田角館紀行『一年生を見に行く』
還暦過ぎた一年生『一年生』を見に行く
エッセイ  
DVDから宮崎駿監督のシーン → 字幕付き
掲示板
①【ゼミ雑誌発行申請書】
上記申請書を期限までに江古田/学科事務室に提出してください。
夏休み明けみまでに編集作業をすすめ、印刷会社を決め、そうていレイアウトを相談する。
②【見積書】
 印刷会社から見積もり料金を算出してもらい、期日までに学科事務室か出版編集室に提出する。編集作業をすすめ、11月半ばまでには印刷会社に入稿する。
ゼミ雑誌納品は12月7日(金)厳守 !
 ゼミ雑誌ができあがったら、12月7日(金)までに提出してください。
③【請求書】
 印刷会社から請求書をもらい学科事務室に提出してください。以上で終了です。
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☆熊谷元一研究の意義
原発問題、東日本大震災などで混迷の時代を踏まえて
熊谷の写真・童画・教育から新しい生き方を探るのが目的。
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☆1953年、被写体の子どもたち
一年生の写真と解説 
文集「こどもかけろよ ひのてるほうへ」
絵画 → 一年生のときに描いた絵
熊谷元一とサローヤン
1908年  ウイリアム・サローヤン、米国カリフォルニア州の農業地帯フレスノで生まれ
る。アルメニアからの移民二世。
1909年 (熊谷元一、長野県伊那谷の山村で生まれる)
1934年 『空中ブランコに乗った大胆な若者』好評26歳 この年から6年間に何百という短編を書いた。まるでカメラのシャッターを押すように。
1938年 熊谷の朝日新聞社刊『會地村』好評、29歳 このときから山村を観察と記録
1953年 熊谷『一年生』の撮影開始
ウイリアム・サローヤンの邦訳出版されたもの
『君が人生の時』加藤道夫訳、中央公論社、1950年
『人間喜劇』小野稔訳、中部日本新聞社、1950年
『わが心高原に』倉橋健訳、中央公論社、1950年
『男』小暮義雄訳、ダヴィト社 1951年
『わが名はアラム』清水俊二訳、月曜書房、1951年(のちに晶文社)
『君が人生の楽しき時』金子哲郎訳、創芸社、1953年
『どこかで笑っている』清野陽一郎訳、ダヴィツト社、1954年
『サロイアン傑作集』末永国明訳、新鋭社、1954年
『笑うサム・心高原にあるもの』斉藤数衛・吉田三雄共訳、英宝社、1957年
『我が名はアラム』三浦朱門訳、角川文庫、1957年(のちに福武文庫所収)
『人間喜劇』小島信夫訳、研究社、1957年(のちに晶文社)
『わたし、ママが好き』古沢安二郎訳、新潮社、1957年
『サローヤン短編集』古沢安二郎訳、新潮文庫、1958年
『人生の午後のある日』大橋吉之輔訳、荒地出版社、1966年
『ウイリアム・サローヤン戯曲集』加藤道夫・倉橋健訳、早川書房、1969年
『ママ・アイラブユー』岸田京子・内藤誠訳、ガルダ、1978年(のちにブロンズ新社刊 新潮文庫所収)
『パパ・ユーアークレイジー』伊丹十三訳、ガルダ、1979年(のちにブロンズ新社刊、新潮文庫所収)
『ワン デイ イン ニューヨーク』今江祥智訳、ブロンズ新社、1983年(のちに新潮文庫所収)
『ディアベイビー』関汀子訳、ブロンズ新社、1984年(のちにちくま文庫所収)
『リトル チルドレン』吉田ルイ子訳、ブロンズ新社、1984年(のちにちくま文庫所収)
『ロック・ワグラム』内藤誠訳、新潮文庫、1990年
『ヒューマン・コメディ』関汀子訳、ちくま文庫、1993年
なぜ、二人か 『一年生』の写真と作品『我が名はアラム』
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同時代の写真家と作家 
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1953年という時代背景・・・・・・・・・
撮影された村について・・・・・・・・・
代表作『一年生』を読む、感想・・・・・
熊谷元一の代表作、岩波写真文庫『一年生』
 
熊谷元一研究・その1 熊谷元一の生涯を知る
②  故郷・長野県
③ 下伊那郡会地村(現阿智村)
 「その人間は、何者か」を知るには、生涯の年譜を見ることである。が、その人物の本質を理解するには、出生地と生活した土地を知ることも必要といえる。
熊谷は、その生涯のなかで、およそ三ヶ所の土地に移り住み生活した。
 自伝『三足のわらじ』を参照すると右下の所でがそれである。
清瀬市野塩1-168に引っ越す。57歳のときである。以後、2010年11月6日101歳で亡くなるまで、この地で写真家・童画家として過ごす。
以上、熊谷が生涯にわたり移り住んだところを簡単に記した。だいたい二ヶ所で所は、長野県の山村と、東京の郊外である。生活した年月は、1909~1966(4年ほど東京在住)が山村。1966~2010が東京郊外。半々といえる。が、東京に住むようになっても故郷・会地村には定期的に帰省し、村の変貌を写真で記録しつづけた。2003年(平成15年)に出版した『写しつづけて69年 會地村―阿智村 昭和・平成』がそれである。
この写真集には、昭和11年~平成15年までに撮影された村の四季、村人の生活・行事などの写真、挿絵として熊谷の童画が集録されている。戦前に朝日新聞社から刊行された『會地村』を併せたものだが、ここで熊谷は、当時(1930年代の)會地村について、このように紹介している。
會地村(あふちむら)は長野県下伊那郡の西部にある。面積0・75方里、戸630余戸、人口3250余人に過ぎない小さな村だ。
四囲を山に囲まれたこの村は、約半数が養蚕と稲作とを営む農家で、他は農村を空いてとする小売商、手工業者、雇用労働者及び俸給生活者だ。
郡下の農村としては比較的文化程度の高い方であるが、別に模範村でも更生村でもない。
といって窮乏村と呼ばれる程逼迫もしていない。至極平凡な村だ。
 また、この写真集について当時の農林大臣・有馬頼寧がこのような序文を寄せている。
なお、原文は編集室にて、一部現代読み、現代漢字に訂正して掲載した。
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                  序
                       農林大臣 伯爵 有馬頼寧
 時局下(じきょくか)に於ける農村の感激措く能(あた)はざる努力と、益々重要性を増すその地位とに対し、世人の認識の一層深からむことを望むの時、東京朝日新聞社に於いて農村記録写真「會地村」を刊行せらるることは真に喜ばしき企てとして感謝にたえない。
 写真は信州伊那谷の一農村の青年が、その村の環境を有りの儘に写した努力の結晶である。
 農村の機構、農業経営、農村生活等を、難しい統計に表した研究調査に比べて、ただちに何人にも分かり易いこの記録写真は、今まで試みられなかった得がたき作品として、撮影者及び之が犠牲的紹介に努力せられた東京朝日新聞社に対し、深く敬意を表する次第である。
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 若干29歳の青年が二年間撮った故郷の村。その作品が認められ一冊写真集として出版され、遠くドイツでも高い評価を得た。絵描きを目指した青年に、新世界が開けた瞬間だった。
熊谷と會地村(阿智村)写真の軌跡
 故郷の村を撮りつづけた熊谷だが、その作品はこのようである。(村撮影の作品に限る)
□1934年(昭和 9年) 25歳 頼まれて村の「かかし」を撮る
□1937年(昭和12年) 28歳 「アサヒカメラ」2号に村の写真が載る。
□1938年(昭和13年) 29歳 朝日新聞社刊『會地村』
□1953年(昭和28年) 44歳 「かいこの村」岩波写真文庫
□1954年(昭和29年) 45歳 「農村の婦人」岩波写真文庫
□1955年(昭和30年) 46歳 「一年生」岩波写真文庫
□1975年(昭和50年) 66歳 「ある山村の昭和史――阿智村39年」信濃路
□1989年(平成元年)  80歳 『ふるさとの昭和史』岩波書店
□1994年(平成6年) 85歳『熊谷元一写真全集』全四巻 郷土出版「毎日出版文化賞」
□2003年(平成15年) 94歳 『写しつづけて69年』熊谷元一写真童画館
以上が、主だった村を撮った写真集である。
會地村 → 阿智村
熊谷が住んだ宿場町・會地村は、昭和28年町村合併促進法の施行により、会地・伍和・智里の三村が合併して昭和31年9月30日に阿智村となった。以後、熊谷の写真集題名は阿智村となる。ここで、特筆すべきは、熊谷の代表作『一年生』、日本の写真界の金字塔といっても過言ではないこの作品の子どもたちは、誕生したときが日本国憲法公布・実施の年でもある。名もなき山村だが、被写体の子どもたちは、新しい時代の人間でもあったのだ。
 この一年生にはナニカアル。そのことを知ってか、知らずか被写体にした熊谷に時代の記録者としての運と天賦の才を感じる。
1950年、1990年代の一年生 参考資料集め
今回の『熊谷元一研究』は、代表作『一年生』をテーマとした。1953年、名もなき山村の子どもたちだが、40余年後の東京の一年生と比較考察することで、未来の学校教育の道標を模索したい。その研究推進のために資料集めをはじめる。
現在までの資料。1953年入学の子ども関連と1990年代の都会の子ども関連。
『一年生』岩波写真文庫  「こどもかけろよ ひのてるほうへ」一年生文集 一年生が描いた全員の絵  DVD「教え子たちの歳月」NHK DVD「知るしん 熊谷元一追悼」NHK長野 記念文集『五十歳になった一年生』(一年生のときの夢) 写真集『五十歳になった一年生』 記念文集『還暦になった一年生』 『山脈はるかに』 『伊那谷少年記』 『一年生の時戦争が始まった』、1990年代のこども文集、日記、写真
熊谷元一研究 その2 写真の感想と検証 その業績と功績
           
熊谷元一研究 その3 子どものときの思い出を創作・エッセイにする
「ひがんさの山」「コロスケのいた森」『山脈はるかに』など
※「ひがんさ」は平成17年、有名私立中学出題・四谷大塚
※「コロスケ」は平成21年埼玉県立公立高校入試出題 22年大阪府立高校入試出題
熊谷元一研究 その4 サローヤンと比較することで世界線上に発信
 熊谷元一と、ウイリアム・サローヤン。写真家と作家。この両者をなぜ考察するのか。
熊谷元一研究の目標・今、なぜ熊谷か
1.写真の記録から、原発のない時代を知る。当時と、今の生活を知る。
2.童画からは、子供の遊びを伝承する。3・11の災害で多くの人たちが避難所生活を余儀なくされた。半年後の救援物資が一段落したあと、いま一番欲しいものはと聞いたら「ゲームの玩具」と答えた人が多かったという。当時は、どんな遊びがあったのか。伝承で知る。
3.教育からは、実践教育を知る。一番は黒板絵の解放と記録。
☆子どもたちの暮らしを描いたもの
『二ほんのかきの木』福音館  熊谷絵と文
創作「ひがんさの山」紹介・感想 出題・現代との差
創作「コロスケのいた森」50年前の子ども 埼玉・大阪
写真評、写真感想 大野  岩澤
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☆教師としての熊谷
黒板の解放 黒板絵を紹介
読売版画コンクール一位 1953年読売新聞社 合作
個人 → 第一回全日本学生美術展覧会入選
熊谷元一とは何か 熊谷と私 → ゼミ担当と熊谷の関係
追悼 清瀬市「おじいちゃん忘れない」 郷土誌『伊那』
朝日新聞「声」欄から4点
☆40年後、1990年代の一年生
東京 → 偏差値教育の中心地  写真
日記 文集 「私が子どもだつたとき」エッセイ・創作
☆1953年の一年生と1990年の一年生、比較考
山村と都会
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文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」            2012・6・1   
課題 自分の一年生の時の思い出         
                    名前
文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」               
課題 『ひがんさの山』感想         
                    名前

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