文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No195

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2012年(平成24年)6月25日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.195
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              

編集発行人 下原敏彦

                              
4/16 4/23 5/7 5/14 5/21 5/28 6/4 6/11 6/18 6/25 7/2 7/23
  
2012年、読書と創作の旅
6・25下原ゼミ
6月25日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室
1. 出欠・配布  → 前回ゼミ報告・班長報告「ゼミ合宿」
2.  ゼミ雑誌作成についての会議 作成案検討
3.  提出課題発表 → テキスト感想『網走まで』報告のまとめ
4.  読むこと → マラソン読書に向けてトレーニング(1日の連続)
ゼミ合宿報告    速 報 ゼミ合宿月日決まる !
8月1日(水)~8月2日(木)軽井沢・日大施設
ゼミ合宿月日が、第一希望の8月1日(水)~2日(木)と決まった。22日、江古田校舎にて、その情報を得た。合宿地は、軽井沢の日大施設(軽井沢駅から徒歩15分)
担当の梅津班長は、文芸事務(高岡)にて確認ください。
マラソン朗読会、実施 祈願11名全員の参加
 ゼミ合宿、月日決定したことで、授業内容をお知らせします。現地での授業は、恒例となっているマラソン朗読会を実施します。リレー朗読会なので11名、全員の参加を期待します。日大、箱根マラソンは不調のようですが、マラソン朗読会は、健在です。いつも参加選手は完走。感想は、「参加してよかった」です。先日、江古田校舎で会った卒業生は、大学生活で記憶に残った出来事の一つです、とのコメント。
参加選手:梅津瑞樹、後藤啓介、鞆津正紀、石川舞花、古谷麻依、志村成美、根本留加、矢代羽衣子、吉岡未歩、小妻泰宗、山野詩門
マラソン朗読会の意義 チャンスは1度
マラソン朗読会は、前期授業の最終目的の一つである「読むことの習慣化」総仕上げとして実施する。同時にテキスト作品の謎を朗読することで実体験する。朗読するテキストは、


ある意味で世界文学の隠れた最高峰。それだけに、この機会に読まなければ、この先の長い人生でも9・9割方読むことはないと想像する。それ故に重要。チャンスはニ度ない。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.194―――――――― 2 ―――――――――――――
6・18ゼミ報告  1名他ゼミ移籍で、イレブンに
 現在のところ、3名の長期欠席者がいる。1名は芸祭会計で多忙との情報を得た。が、残り2名の足どりがなかなか掴めなかった。しかしこのほど、1名の消息が判明した。それによると他ゼミに移席したことがわかった。文芸事務で確認。移ったのは小野澤茉保さん。
 ちなみに4月23日12名全員での撮影以来、まったく姿見ずは、小野澤さんを除いて、山野詩門君、小妻泰宗君の2名となった。大学は自分で学ぶ所。どこにいても学問はできる。が、ゼミという時間の空間は、2度と訪れない。
大学生活で授業以上に貴重で有意義な時間を見つけたとすれば、それもまたやむなしといったところだが、せめて合宿にはと期待している。
出席者6名で半数越え
 6・18、この日の参加者は6名、5割上であった。参加者は、皆勤3名、精勤2名、飛びとび3名、長欠2名といった具合である。
このような現状であるがゼミ授業は、順調にきた。前期ゼミの目的だった読むこと、書くことの習慣化は、進んでいると評価している。
司会進行は吉岡未歩さん、頑張って課題報告消化
 課題の提出原稿が「通信」に未報告で残っていたが、この日、司会の吉岡さんは、しとやかながらも、簡潔に進行させた。報告された課題は次の作品です。
課題14.【車内観察】石川「車内の一コマは」、吉岡「4人はいつまで」、志村「盲導犬」
課題17.【車内観察】石川「髪飾り」、吉岡「気だるい」、
課題20.【車内観察】石川「深夜の乗客」、吉岡「爆音の女」
課題14.【自分観察】志村「その一瞬のために」
課題17.【自分の一日】志村「バイト日和」、石川「入り待ち」、
課題23.【自分の一日】吉岡「船を漕ぐ」
課題12.【振り込め詐欺】志村「騙される側にも」
課題21.【こんなときどうするか 孤独死問題】古谷、石川、志村、吉岡、
課題21.【隣人トラブル】古谷、吉岡、志村、石川
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   課題発表(掲載できたものから順次)
課題提出率は、よいと思います。社会にでるとマスメディア関係はむろんですが、どんな業種の会社でも、期限付きか、即、提出を求められます。書くことの習慣化は、必ず役に立ちます。課題をしっかりこなして身につけましょう。欠席者が気になります。
テキスト感想
課題11.『夫婦』 夜9時頃、横須賀線の車内で見かけたアメリカ人夫婦と子供。
戦後まもない時代のなかで、観察者の目は、夫婦と親子の真実を捉え、人類愛の普遍さを書
いてみせた。
〈志村成美〉何気ない行動が、夫婦を感じさせるものなのだと強く感じた。とても微笑ま
しいと思った。
〈吉岡未歩〉亭主関白にもかかわらず、奥さんが先に歩いたり、足袋を外套にしまったり、
そういう時の無意識からくる行動が夫婦というものの本質がみれたようで面白いと思った。
〈古谷麻依〉こんなこと、現代では起こらないよなあと若干、冷めた目でこの話を読んで
いたのだが、最後の「ふと夫婦というものを見たような気がしたのである」の一文には心が
ひかれるものがあった。この話には、確かに夫婦の絆があった。
〈石川舞花〉日本でも外国でも夫婦の間柄は同じようだと思った。他人にはやりにくいこ
とを気兼ねなくできるのは信頼の表れだろう。人とのつながりが希薄になっている現在、こ
のような間柄の人がいる人は、どれだけいるだろうか。愛情を表現できる人をさがすことは
人生の中での大きな目標だと思う。
〈梅津瑞樹〉外国人の夫婦と作者夫婦との比較。しかし、作者の妻は覚えていない。意識
的な行為でない。作者の胸中に去来するものは何か。外国人の妻ははたして覚えているだろ
うか。
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テキストの謎
『小説 網走まで』はを「帝國文学」編集者は没とした。なぜか ?
駄作とみたのか、字が汚くて見るのが嫌になってか、他に理由があってか
課題18. 「なぜ『帝國文学』編集者は『網走まで』を没としたか」
〈石川舞花〉 既成の概念に囚われていたのでは
没とされた原因は、『網走まで』がエッセイに近いことにあるのかもしれな
い。自分の電車の中での実際の経験をそのまま書いたように見える作品は文学にふさわし
くない、と思われたのではないだろうか。もちろん、創作であるわけだが、エッセイに見え
るような自然の作風がかえってアダになったのかもしれない。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.195―――――――― 4 ――――――――――――――
 現在では様々な作家が認められているが、当時はまだ既成の概念にとらわれる傾向があっ
たのではないかと思う。時代より先のことを成し遂げようとする者に対する風当たりは強い。
それは、いつの時代でも共通するものだ。
 そんな逆境を乗り越えて、『網走まで』という作品が世の中に出て、今なお読み継がれて
いる。そのことのすごさが、没というエピソードから見えてくるような気がする。
〈古谷麻依〉      第一印象の物足らなさからか
 批難を覚悟の上で打ち明けると、この話、私は最初何が言いたいのかさっぱりわからな
かった。しかし、何度も読み込んでいくと、最後に残された謎が、だんだんと気になってく
る。そんな二十構造になっている。「帝國文学」編集者も、この作品の第一印象の物足らな
さを感じたのかもしれない。
〈鞆津正紀〉     違うものを求めてしまったのでは
 彼の作品は、うっかりすると、「何も起こらない」作品になりはしまいか。私は、彼の作
品を読んでいて、情緒の作品だと感じる。趣と空気感が読者の心をくすぐる。ただ違うもの
を期待してしまうと、それを見逃しそうになる。もしかしたら編集者は、何かの拍子に作品
に違うものを求めてしまったのではないだろうか。
〈志村成美〉     作品に不都合があった
 当時の編集者からみて、この『網走まで』の中のどこかに不都合があったと考えるのが
妥当だと思う。例えば、当時はまだ知られていなかったが、『網走』は、刑務所がある場所。
犯罪者のいる地に向かう主人公が、編集者としてあまりよい設定ではなかった(?)など
あると思います。
課題18. 「なぜ『網走』としたか」
〈吉岡未歩〉  靄に包まれた感じを表現したかったからでは
 
 『網走まで』という作品タイトルを見たとき、なんとなく緊迫感を覚えた。網走といえば
思いつくのは網走刑務所だ。だからかもしれない。母と子が、なぜ網走に向かうのかは記さ
れていないし、最後に託された手紙も、誰に宛、どんな内容のものであったかは書かれてい
ない。どことなく何か秘められた雰囲気がある。同じ北海道でも、もっと知られている地名
をえらばなかったのは、先を想像できない靄に包まれた感じを表現したかったからではない
だろうか。
〈古谷麻依〉    単に語呂の良さかも
 なぜ「網走」でなければならなかったのか。今となっては知る術はない。ただ、私は、単
なる語呂の良さではないかと思う。実際、口に出してみると「網走」は、「青森」や「札
幌」とは違う、どこかずっしりとした響きを持っているように思えてならない。
〈鞆津正紀〉   物語が始まる前から走っている
 ”走” 走っているではないか。見た瞬間にスピードを感じる網走。いや、もしかしたら
“綱” も。線路のように思えないだろうか。綱を走る。目が回りそうな路線図。そこを走る
電車。物語がはじまる前から我々は電車に乗って走っているのではないだろうか。
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〈志村成美〉  列車と主人公の心の変化を掛けたかも
 単純に「音」ではないだろうか。「あばしり」の「ばしり」の部分が「走る」という字を
使っているのもあるが、疾走感があるように思えた。列車が進んでいく感覚と、主人公の心
の変化を掛けていたりする、かもしれない。
課題19.『網走まで』で投函した2枚のハガキは誰に
          
〈石川舞花〉 1通は母親に、もう1通は親しい信頼できる男性に
 投函されたハガキ2通は、女宛と男宛が1通ずつだったという。
 女宛の1通は、女が彼女の母親に宛てたものだと思う。逃げるようにして網走まで行く
なかで母親だけには無事を伝えようとしたのではないだろうかと推測する。
 男宛の方の1通は、夫ではない親しい男性に宛てたものだと思う。女と手紙の男に男女
関係はなかったと思う。苦労が絶えない日々の相談相手になっていた人があり、その人に無
事を報告したのではないだろうか。
課題19.『網走まで』列車に乗るまでの母子の生活は…
〈石川舞花〉     逃避行
 「お母さん、お父さんは」
私は、この言葉に終始悩まされる。もっとも長男は、もう分別のつく年頃で、あまり言うこ
とはない。次男はまだ赤ん坊だ。だが、時たま言うおの子の言葉を聞く度に胸が苦しくなる。
 やはり父親は必要なのだ、と。
「どこか遠い所に 行かない ? 」
私は言うもう限界だ。誰でもなく私が。
「お父さん、帰って来ないの ? 」
 行かなければならない。あの人の面影をさがさなくてもいい場所へ。
どこか寒いところがいい。暑いところは、あの人の浅黒い肌を思い出す。もう忘れるのだ、
あの人のことは。
□保護施設がなかった時代。母子は、遠くに逃げるしかない。辛い物語ですね。
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 主人公は、友だちを誘って日光に遊びに行く気楽な極楽トンボだ。宇都宮までの相席は、
赤ん坊を抱き、病気の子どもを連れた、かっては良家の子女だったらしい母親。目的地は、
蝦夷地の「網走」というきいたこともないような辺鄙なところだという。主人公は、ここで
はじめて日本の現実を知る。文明開化と浮かれてきたが、福祉的には、恵まれない人たちが
大勢いるのだ。現実には、足尾銅山問題もある。母子に同情はしても、主人公にできること
は、ハガキを頼まれて出すことだけだった。
 昭和5年、石川達三は、海外雄飛の大志を抱いて、移民船出航の神戸に向かった。小雨
降る神戸移民収容所で石川が見たものは、貧しい日本の現実だった。石川は泣きながら誓っ
た、いつかはこれを書くのだ、と。そして、船内観察は書かれた。昭和10年、なみいる流
行作家を押しのけて第一回芥川賞を受賞した。『蒼氓』は今も他の受賞作の追随を許さず。
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テキスト研究 
     『網走まで』考察 (これまでのまとめ)
「下原ゼミ通信」編集室
没書顛末について
 
 1947年(昭和22年)に細川書店版で出された『網走まで』のあとがきで、志賀直哉は、『網走まで』について投稿した時の様子や没になった理由をいろいろ詮索している。
 作品の謎について本通信は、朗読以後、課題報告してきた。様々な感想や見方があった。一見、エッセイ風で、小説とは思えない作品である。が、それだけに謎も多い。これまでの課題報告を参考に、想像を駆使して今一度、考察し直してみた。
なお、朗読で知るように原文そのままだと時代の開きから読みにくいので、掲載分は、編集室が現代表記にした。悪しからず。
まず、没になったときのことを志賀直哉は、どう書いているのか。再度掲載してみた。
【細川書店版「網走まで」あとがき】「帝國文学」没書顛末記 抜粋
 発表した順からいうと、この小説が私の処女作ということになるが、私にはそれ以前に、「菜の花と小娘」というお伽話と、「或る朝」という小品があって、初めて一つの話が書けたという意味では「菜の花と小娘」を、また、書く要領をいくらかでも会得したという点では「或る朝」を私は自分の処女作と思っている。しかしまた、多少小説らしい形をしたものとして、かつ最初に発表したものとして、やはり、この「網走まで」を処女作といっていいようにも思い、つまり、私には色々な意味での三つの処女作があるわけだと考えている。
 明治三十九年に、二十四で学習院を卒業し、東京帝国大学に入り、そのよく翌年くらいにこの短編を書いた。その頃、大学内に「帝國文学」という雑誌があって、それに載せてもらうつもりで、その会員になったが、幾月経っても載らず、ついに何の音沙汰もなく、没書になった。
 「帝國文学」の原稿用紙というのが、今思えばまことに変なもので、紙を縦に使って、一枚がそのまま、雑誌の一頁になるように出来ていた。編集には便利なので「白樺」をはじめた時、真似して作ってみたが、使いにくく、すぐやめてしまった。十七八行、五十字詰くらいで、今の四百字詰の原稿用紙に比べると倍ほどの字数になる。従って一コマが小さく、とくに上下がつまっていて、大変書きにくかった。その上、ロール半紙で、表面がつるつるしているし、それに毛筆で書くのだから、私のような悪筆の者には非常に厄介なことだった。清書だけでも人にしてもらえばよかったものを自分で書いて送ったから、編
集者はそのきたない原稿を恐らく読まずに、そのまま屑籠に投げこんでしまったのだろうと思う。今はそれを当然のことだと思うが、当時は一寸不快に感じ、会費を一度払っただけで脱会してしまった。明治四十三年に「白樺」を創刊したとき、私はその第一号にこの短編を載せた。二年ほど前から回覧雑誌を出していたから、作品は他にも三つ四つできていたが、創刊号にこれを選んだのは、没書になった故に、わざと出したように思う。
 小宮豊隆君が新聞か雑誌かでほめてくれた。月評を書くのでいろいろなものを読んだが、この小説へきてようやくほっとしたというようなことが書いてあった。ほめたといってもその程度の賛辞であったが、私はそれをうれしく思った。個人的には未だ小宮君を知らぬ頃のことだ。・・・・・・・・・。(岩波『志賀直哉全集』)
 没にされた腹いせか、「帝國文学」の原稿用紙の悪口を言っている。字が汚かったから読
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まずにゴミ箱に捨てたのだろうも、当てつけのように感じる。これでは、あまりにも「帝國文学」の編集者が無能のようで、文学を見る目がないようで、気の毒におもえる。
「下原ゼミ通信」編集室としては、字はきたなくても編集者はしっかり読んだ。作品も評価した。その上で、覚悟をもって没にした。そのように思いたい。
 そんなわけで、もう一度はじめから検証してみることにした。
 『網走まで』には大きな謎がいくつかある。作品を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(1910)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。母子の目的地にしたのか。大いに疑問に思うところである。そんなところから、まず題名の「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。(屯田兵として利用する)。明治十二年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策、富国強兵の一環として、この計画はすすめられた。
 そして、明治十二年に最初の囚人が送られた。以後十四、十七年とつづき、網走には明治二十三年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ千三百人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。が、作品が書かれた当時(1908)、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。
第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかった。では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。
 この作品はどう読んでも網走駅までの印象は強い。「網走まで」は駅までではない。そう言われても、では「なぜ」と問いたくなる。題名からして大きな謎である。
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 『網走まで』とは何か。今一度、書いた動機から探ってみることにする。
 『網走まで』は、僅か二十枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。直哉がこの作品を書いたのは、一九○八年(明治四一年)である。草稿末尾に八月十四日と明記されている。志賀直哉二十五歳のときである。一見、経験した話をそのまま書いた。そんなふうに読める。が、そうではない。この作品は完全なる創作であるという。志賀直哉は、創作余談において、書くことになった動機をこう明かしている。
「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」
そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか。
網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、三七○年前、寛永二年頃(一六二五年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られてはいたはず。当時としては、網走よりはるかに現実的だったに違いない。
 なぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。もし作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。それ故に当時も一般的知名度は、高かったのではと想像する。
 もっとも、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。一八七六年(明治九年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから三十余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。
にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。「網走」は志賀直哉にとって何か、よほど深い思い入れがあったのか。題名にしたかった理由があったのか。
 しかし、四十一年後、1951年(昭和二六年)六八歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、それほど深い思い入れはなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の題名であったのか。
 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているよ
うだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿とさせる一種文芸作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わって完全なやくざ映画である。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健が唄う歌「網走番外地」で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱く
―――――――――――――――――― 9 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.195
て良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人で日本刀を片手に、多勢の悪いヤクザが待つ敵陣に乗り込んでいく。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景だった。が、当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで一九六十年末~七十年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたの
か。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などという場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな印象の町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。もっとも「網走」、というより北海道は、その後55年たっても未開を感じる土地だった。
 余談になるが、1965年、昭和40年、今から43年前だが、筆者は、はじめて北海道に行った。2ヶ月間牧場でアルバイトをするためだった。説明会で斡旋の学生援護会から、きつい仕事、途中で逃げ出す学生が多いから、と覚悟のほどを注意された。が、大学の実習授業(4単位)に組み込まれた。住み込み三食つきにバイト代500円、それに単位修得。一石三鳥になる。(当時、バイト日給600~800円が相場)で、躊躇なく決めた。
 信州の山奥で育った筆者は北海道がどんなところかまったく知らなかった。広いところだというので、憧れがあった。7月の前期終了日、主任教授から激励された。希望者は二十人はいたろうか。釧路が一番多く数名、あとは稚内や網走、他、知らぬ土地だった。行き先の切符をもらった。「計根別」とあった。はじめて聞く地名。地図でみると根釧原野の中ほどにある。釧路から近い、とわかった。が、どんなところかは、想像もつかなかった。
 とにかく行けばわかるさ、で、友人たちと上野から「青森行き」夜行列車に乗った。大学一年18歳の夏だった、「計根別まで」の旅。記憶では、翌朝早く、青森駅に到着、青函連絡船で函館。そこから札幌までが、長かった。札幌で時計台を見に行きラーメンを食べた。再び列車で釧路に向う。深夜、倶知安という駅に着いた。寒いので、うどんを食べた。計根別に着いたのは昼過ぎ。上野を出てから二日かかった。農協の職員と、酪農家の家の人が待
っていて、学生は、各農家一軒に一人ひとり振り分けられた。私が働くことになったのは、開拓13年目の酪農農家だった。小学生の子供が三人いる五人家族だった。トラックから下りたところは根釧原野の真っ只中。アメリカの人気ドラマだった「大草原の小さな家」の丸太小屋を思わせる家と20頭ほどのホルスタイン牛がいる牛舎があるだけだった。夕焼けに染まっていく空が以上に広く、なにか心細さを感じたことを覚えている。東京は、はるか遠くに思えた。
 昭和40年でも、こうだから、明治の時代には、どれだけ辺境の地と思われていたか見当もつかない。その意味から、母子三人の網走行は矛盾が大き過ぎる。鉄道も通っていず、道路さえ建設中の、熊と雪崩とジミチな人間の行くところではない。そんな魔境のようなところへ信玄袋一つ持って、乳飲み子と病気の子どもを連れて行くという。およそ世間というものを知っている人が書いたなら、こんな無理なというより不可能な設定はしない。
先ほど、映画「幸福の黄色いハンカチ」をあげたが、この山田洋次監督の映画で、こちら
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も北海道を舞台にしたものだが『家族』がある。監督は、いつだったかテレビで、この映画を作ることになった経緯を話していた。それによると、八高線(?)の車内で、鉱山労働者のような家族を見かけた。高度成長期の日本は、大阪万博を前に賑わっていた。監督の作品「男はつらいよ」もヒットしていた。こんな浮かれた時代、その親子は、まるで時代に取り残されたようにみえた。この家族は、どこから来て、これからどこに行くのだろう。気になった。そんな思いからシナリオ「家族」ができたらしい。
 ちなみに、あらすじは、九州長崎の炭鉱が閉山になったことから、幼子二人いる夫婦は、
北海度で酪農農家になること決意する。同居の祖父と5人の北海道までの列車の旅。昭和
元禄で湧く日本列島を縦断するなかで、赤子を亡くし、3月末目的の開拓地に着いたとき祖
父も死ぬ。悲壮な終盤だが、緑の草原がひろがる6月の爽やかな光景が、希望となる。
 山田監督は、人生の辛酸を知っている。そんな年齢でもある。車内観察した家族を北海道
の開拓地に向かわせるに、それほと想像力はいらなかったのではと思う。
そこにいくと夫婦間の愛憎も子育ての大変さもお金の苦労もしたことのない、若干27歳
の青年にとって、母子の大変さは、頭でわかっても実際的には、理解できていない。主人公が、母子にどれだけ同情しているか。それを読者に知ってもらうには、目的地が知れた大きな町ではだめだ。より辺鄙な未開地ということで、母子の旅の大変さ、ご苦労を醸しだそうとした。しかし、それはあまりにも矛盾があり過ぎた。
編集者は、その矛盾を見逃さなかった。若き小説の神様の勇み足といえる。
同時期に書かれた夏目漱石『三四郎』との比較
 志賀直哉が『網走まで』を書き終わった時期、夏目漱石は新聞小説『三四郎』をスタート
させた。時代を読む上で両作品は、普遍性を感じる作品となっている。
課題16.『三四郎』車内観察の感想」
〈古谷麻依〉    ドキドキした
私、個人の感想としては、『網走まで』より、こちらの『三四郎』の方が読みやすく思え
た。特に見知らぬ女性と宿屋で宿泊するくだりは意味もなくドキドキした。
〈石川舞花〉 
『網走まで』は、あたかも経験をそのまま書いたような印象で素朴さを感じた。それに対し
て『三四郎』は、新聞小説ということもあるが、良い意味の俗っぽさがあった。読者が興味
をそそるような話を意識して書いているような感じである。
 また、男と女の話に終始していない点も注目したい。「囚われてはいけない」など人間の
考え方、生き方にも話が及んでいる。車内観察作品の幅の広さに驚いた。同時に様々な人が
乗り合わせる車内という場所は、世の中の縮図のようにも見えると思った。
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.195
テキスト関連情報
課題9.人生案内「仕事や学校 毎日通えない」 新聞の相談者 読売新聞
芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.195―――――――― 12 ――――――――――――――
現在までにあがってきている作成案
□決定事項・・・・・・9月24日(月)ゼミで原稿回収。前日までにメール添付でも可。
□タイトル・・・・・(仮題)『車内観察』 □テーマ・・・・・ ?
□頁数・・・・・・・150         □版型・・・・・・・A6 ?
□構成・・・・・・・未定 レイアウト □表紙デザイン・・・・・未定
掲示板
課題 → 課題30、課題31、課題32を配布
□課題30「車内観察」 □課題31「自分の一日の記録」□課題32「新聞人生案内」
編集室便り
○課題原稿、メールでも可 下記アドレス
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
書くことの習慣化・日常化を目指して6・25
                     
名前
課題30.「車内観察」エッセイ・創作・ルポ可
              
                                
                              
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書くことの習慣化・日常化を目指して6・25
                     
名前
課題31.『自分の一日の記録』
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文芸研究Ⅱ下原ゼミ 提出随時 6・25配布
名前
課題32.「あなたのアドバイスは」新聞・人生案内から
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