文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.10

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ 2012年6月29日発行
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信
BUNGEIKENKYU Ⅲ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
熊谷元一研究No.10                                

編集発行人 下原敏彦

                              
4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6 7/20 (ゼミ4教室)
  
観察を記録する、観察を創作する
6・29下原ゼミ
6・22ゼミは以下の要領に添って行います。(ゼミ4教室)
 
1. ゼミ連絡、「ゼミ通信No.10」配布  連絡・郊外学習について
2.  ゼミ雑誌、版型など考案。(他ゼミのゼミ誌をみて検討)
3. 『三足のわらじ』読み 年譜作成と熊谷研究の検証
4. サローヤン『我が名はアラム』の読み。作品から故郷の原風景を探る
6月22日ゼミⅢ報告
郊外授業は7月8日(日)~9日(月)
 秋田の角館で7月1日~31日まで「熊谷元一の写真と童画展」が開催される。このうち下原ゼミは、8日~9日を郊外授業の対象日として参加する。
7・7~7・8は、番外郊外授業として平泉では、中尊寺、毛越寺など
を見学。花巻ではイーハトーブの散策、宮沢賢治記念館、童話村。
秋田では、田沢湖観光 角館武家屋敷を見学する。


下原と熊谷元一
文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.10 ――――――― 2 ―――――――――――――――
【土壌館ニュース】
熊谷元一の故郷・長野県阿智村では、毎年、「熊谷元一写真童画館」が中心になり「熊谷元一写真コンクール」を実施しています。毎回、全国各地から沢山の応募があります。以下は、その募集要項です。(「熊谷元一写真童画館HP」転載)
第15回 熊谷元一写真賞コンクール 作品募集
2011年2月24日
1.コンクールの趣旨
阿智村は当村出身の記録写真家・童画家で名誉村民の熊谷元一氏(平成22年11月6日 101歳で逝去)の功績をたたえ,その功績を現代に生かし発展させることを願い、また、熊谷元一氏の撮影された農村写真を通して、心豊かな生活文化の創造実現のため「農村記録写真の村」を宣言しており、その実現の一つとして、平成10年より信濃毎日新聞社の共催を得て「熊谷元一写真賞コンクール」を実施しています.
これまでの受賞作品(熊谷元一写真童画館ホームページ)
2.応募部門
テーマ部門 テーマ「こども」
新入生の担任だった熊谷元一先生が撮影した写真集「一年生」が1955年に岩波写真文庫から刊行され、その後も記録写真家としてこどもの姿を撮影し続けました。そのカメラアイを原点に、家族や親子、友達などそれぞれの絆、明るい未来を感じさせるこどもたちの姿を撮ってください。(審査員長テーマ選考趣旨)
阿智村内撮影部門(テーマは設定しません)
テーマにとらわれない阿智村内で撮影した作品を対象にした部門です。村の史跡、旧跡、自然、祭り、温泉など村外の方々もぜひお越しになって、美しく生き生きとした「阿智村」を活写した作品をお寄せください。(審査員長選考趣旨)
応募要領(各部門共通)
作品の大きさ
? テーマ部門・阿智村撮影部門
o 一般 四つ切(ワイド可) 厳守してください
o 高校生以下 2L版
―――――――――――――― 3 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.10
応募作品
3年以内(平成21年以降)に撮影した未発表の作品に限ります。カラー・白黒は問いません。フィルム・デジタル問いません。組写真可(ただし1組4点以下)
応募点数
1人5点以内・組写真は5組以内(入賞・入選は応募部門ごとに1人1点(組)とします)
応募方法
作品の裏に応募票を貼ってください
応募票には以下を明記してください。
? テーマ部門・阿智村撮影部門の別
? 一般・高校生以下の別
? フィルムカメラ、デジタルカメラの別
? 題名
? 撮影場所
? 撮影年月
? 組み写真は一連No.
? 郵便番号
? 住所
? 氏名
? 電話番号
? FAX番号
? 年代(高校生以下は学年)
? 性別
*応募者の個人情報は入賞等の通知、受賞者名簿の送付、次回以降のコンクールおよび写真企画展のご案内以外には一切使用しません。
応募先
〒395-0304 長野県下伊那郡阿智村智里331-1 
熊谷元一写真童画館内「写真賞コンクール事務局」
応募締め切り
2012年9月20日(木)到着分まで(2012年4月より応募受付)
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.10 ――――――― 4 ―――――――――――――――――
応募作品の返却
入賞・入選作品以外の応募作品で返却希望の場合は、
? 応募票に【返却希望】と赤字で明記
? 返却に要する額面の切手と返却用封筒(郵便番号・住所・氏名を記入)を必ず同封してください。返却用の封筒のない場合および切手の額面不足の場合は返却しません。
注意点
? 入賞・入選作品の版権は主催者に帰属し、ネガフィルムまたは作品入力のCDを提出していただきます(提出されない場合は入賞・入選は取り消されます)。
? 入賞・入選作品は返却いたしません。
? 肖像権は応募者の責任で了解を得てください。
表彰
日時 2012年11月10日(土)(予定)
場所 熊谷元一写真童画館2階(昼神温泉郷内)
*受賞者には10月上旬に通知いたします。
実施体制
主催:阿智村
共催:信濃毎日新聞社
後援:熊谷元一写真保存会、長野県写真連盟
協賛:JAみなみ信州、SBC信越放送
審査委員
阿智村選任の審査委員による。
―――――――――――――― 5 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.10

区分 賞 点数 賞金など
テーマ部門一般 元一写真大賞 1点 賞状・賞金10万円・副賞
阿智村賞 1点 賞状・賞金5万円・副賞
信毎賞 1点 賞状・賞金5万円・副賞
JAみなみ信州賞 1点 賞状・賞金5万円・副賞
優良賞 2点 賞状・賞金2万円・副賞
佳作 10点 賞状・賞金5千円・副賞
テーマ部門・高校生以下 飯田信用金庫賞 5点 賞状・記念品(高校生以下から選定)
阿智村内撮影部門 阿智村輝き賞 10点 賞状・記念品
入賞作品などの取り扱い
入賞・入選作品は阿智村のほか、長野市及び松本市などで展示いたします。
入賞・入選者発表
「信濃毎日新聞」「中日新聞」及び地元紙に10月下旬に発表。11月以降、「日本カメラ」「公募ガイド」等情報誌に掲載。応募者に入賞・入選者名簿をお送りします。阿智村ホームページでも紹介します。
元一写真大賞受賞作品
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【熊谷元一研究】毎号、加筆、校正していきます。
熊谷元一、写真代表作品「コッペパンをかじる少年」
熊谷元一研究の意義
故郷の原風景を発信しつづける作品
                               
 3・11から一年と三カ月。日にちにすれば500日ほどだが、この僅かな歳月の間に日本は、すっかり変わってしまった。否、変わってしまっていたことに気がついたと言うべきか。
 あの東日本大地震被害でで実際に故郷を追われた人たちを目にして、ようやく故郷の大切さを思い知った。「国破れて山河あり」、この名作も、核汚染の前には、いまは空しい。
経済発展で失った自然と人心。今日ほど故郷の喪失感する時代はない。
熊谷元一の写真や童画には、懐かしさがある。時も場所も違うが、記録された作品は、日本人が忘れ去ってしまったものを思い起こさせてくれる。喪失した故郷の原風景を思い描かせてくれる。
故に熊谷元一研究は、是非に必要である。熊谷の作品にみる観察と記録は、これからの日本人にとって大切、かつ貴重なものと思うところである。
それだけに熊谷元一研究の意義は大きい、といえる。
熊谷元一とは何か
熊谷は、アマチュアカメラマンたが、写真を知る人ならそうは思わない。熊谷は、1997年に岩波書店が出版した『日本の写真家40名中「17 熊谷元一」』で、写真家として紹介されている。また童画家としても多くの童画を描いた。その素朴な筆致は、童画は、山村文化を伝承者としての評価も高い。だが、その人生は「生涯一教師」だった。熊谷は、自分の人生を「三足のわらじ」をはいた人生と語っていた。真の熊谷元一とは何か。その仕事から探ってみた。
2010年11月6日、熊谷が101歳で亡くなった翌日、新聞各紙はその死を報じた。「写真家熊谷元一さん死去」(読売)「満蒙開拓民の写真 熊谷元一さん」(朝日)「写真・童画家 熊谷元一さん死去」(信毎)などなどあった。いずれも写真家・童画家と記されていた。後日、NHKテレビの特集番組でも「写真家熊谷元一」として紹介されていた。番組のなかでもアニメ映画の巨匠宮崎駿監督に「すごい写真家」と印象づけていた。
 写真家・童画家として名高い熊谷だが、教師としての熊谷も、すばらしい先生だった。
1955年昭和30年に岩波写真文庫から出版された『一年生』は、写真界の金字塔といっても過言ではない。そこには教師としての熊谷の功績が十分にみられる。
『一年生』を観察すれば、戦後まもない、民主主義教育創生期にあって、熊谷の創意工夫の教育は、現在の学校教育と遜色ない。
―――――――――――――― 7 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.10
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マスメディアにみる熊谷元一評論の記録
①「熊谷元一さんの偉業」(永田浩三ブログ「隙だらけ好きだらけ日記」)
永田浩三(社会学者・ジャーナリスト・武蔵大学教授、元NHKプロデューサー)
熊谷元一研究・「文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信第7号」掲載
②「不覚にも涙のにじんだ目で」(『熊谷元一 なつかしの一年生』河出書房新社2001)
  あとがき 藤森照信(東京大学教授)
 熊谷元一研究・「文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信第8号」掲載
③「いまみてもすごい写真だ !! 」アニメの巨匠・宮崎駿監督
 「今まで試みられなかった得がたき作品」農林大臣・有馬頼寧
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マスメディアにみる熊谷元一④
 その生涯を写真家・童画家・教師として生きた熊谷元一のマスメディアにおける批評と評価は、どんなだったか。新聞・雑誌・書籍・テレビ・HPなどから探ってみた。
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プロ、アマの壁を乗り越えた作品
飯沢耕太郎・いいざわこうたろう(写真史・写真論、日芸講師)
岩波書店 日本の写真家17 『熊谷元一』1997・10・24 序文から
ればならないプロ写真家とくらべて、むしろアマチュアの方が、自由にのびのびと自分のテーマに専心できるという意味で、有利な立場にあるようにさえ感じてしまう。熊谷元一の60年以上にわたる写真家としての歩みは、そのようなアマチュアの特権的な立場を最大限に生かしたものといえるだろう。熊谷の生活の場と、制作(撮影)の場とは互いに重なりあっており、そのことが彼の写真に、プロ写真家では、とうてい不可能な独特の味わいをつけ加えているのである。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.10 ――――――― 8 ―――――――――――――――――
 ――(略)――
しかし、なんといっても熊谷の本領が発揮されたのは『一年生』だろう。巻頭の扉ページには「まだ何ものにも染まらない生き生きした一年生の姿は見ていて楽しいが、カメラで捉えることは容易ではない。それは技術だけの問題ではなく、先生の深い愛情が伴ってなし得ることである」と記されているが、たしかに「入学の日」から最後の「一年生へ」のページまで、子供たちの教室での日常をこれほど克明に記録するのは、現役の教師であった熊谷以外には不可能といえる。「校長先生の話をきく」や「あるけんか」といったパートでは、時間を置いて連続的に撮影する映画的な手法を用いて、子供の表情や態度の変化をいきいきと浮かび上がらせている。誰でも自分自身の体験や記憶と重ねあわせて、ニヤリとしたり、懐かしく思ったり、淡い哀しみに浸ったりすることができる、写真特有の現実感あふれる感情喚起力が『一年生』では十分に発揮されているのである。
歳月の重みが加わることで、いぶし銀の輝きを放つ
『一年生』は多くの読者に感銘を与え、毎日新聞社が写真文化の向上を目標に新しく制定した第1回毎日写真賞を受賞した(1955)。土門拳、木村伊兵衛、林忠彦らの名だたる候補作家を押しのけての受賞は、『一年生』がいかに大きく共感の輪を広げ読者に新鮮な驚きをもって迎えられたかを示している。――(略)―― 1966年(昭和41年)に東京都清瀬市に移り住んでからも、折に触れて『一年生』の教え子たちのその後の姿を撮影したりもしている。それらの写真は今、歳月の重みが加わることで、いぶし銀のような輝きを放ちつつあるのである。(いいざわこうたろう 写真史・写真論)
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『蒼氓』と『一年生』
□昭和30年(1955)の第一回毎日写真賞受賞経緯は、これより20年前、昭和10年(1935)の第1回芥川賞を彷彿とさせる。芥川賞は、第一回ということで、名だたる作家たちが候補にあがっていた。熊谷と同年輩の太宰治(1909-1948)もその一人だった。東大生崩れとはいえ、既に流行作家だった。太宰は受賞欲しさに、知り合いの文壇関係者に頼みまくっていた。そうして、大方の予想もデキレースとみていた。
だがしかし、決まったのは、無名の作品だった。ブラジル帰りの名もなき青年の作品『蒼氓』だった。移民船の船内観察ともいえる小説だが、受賞は日本の現実をしっかり見つめ捉えていた。時代の記録が文学作品に勝った瞬間だった。太宰は、地団駄踏んで悔しがったまま、武蔵野玉川上水の濁流に消えた。
名だたる流行作家たちをおさえての受賞。この受賞は、熊谷の第一回毎日写真賞と重なる。熊谷は無名ではなかったが、あくまでもアマチュア写真家だった。それだけに20年の歳月と文学、写真との違いはあれ、その快挙に共通するものを感じる。
だが、半世紀以上過ぎた2012年の現在、両者をみたとき、二つの受賞作品は、違っている。『蒼氓』は、受賞レースで勝った。が、今日、石川達三の名を知る人は少ない。作品も『蒼氓』も忘れられている。書店で石川達三の小説を探すのは難しい。
この『蒼氓』とは反対に、同じく白熱の受賞レースを勝った『一年生』は、先の復刻版でもみせたように歳月を経るにしたがって、まさに、飯沢耕太郎が評するように「いぶし銀のような輝きを放ちつつある」のだ。この違いは何か。
船内観察記録の『蒼氓』は、当時の日本の危機を訴えた。が、時代を超えることはできなかった。一年生観察記録の『一年生』は、「誰でも自分自身の体験や記憶と重ねあわせ」られる喚起力があった。その懐古と原風景が時代を乗り越え普遍とした。
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『一年生』研究・作文編① 
一年生のときに書いた作文
「こどもかけろよ ひのてるほうへ」
 一昨年、2010年11月6日に熊谷元一は亡くなった。その年の暮れ、教え子の一人である私(下原)は、清瀬にある熊谷の自宅を訪ねた。葬儀のとき、脊椎手術で入院していて列席できなかった。そんなことで納骨を終えたお墓をお参りしようと思った。ご家族の案内でお墓を参拝、焼香した。追悼番組を制作中のNHKのKディレクターも同行した。(2011・1・14放映)帰り、ご自宅で遺品をみせてもらった。「一年生」の遺品のなかに、当時書いた文集があった。はじめて目にするものだった。
左の文集は、担任の熊谷がガリ版で書いて作ったもの。
表紙
昭和29年3月 1年の時に書いたさくぶん
昔を思い出してよんで下さい。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.10 ――――――― 10 ――――――――――――――――
夢 果てなく
修正2回目    ~ 小説・熊谷元一 ~ 
下原敏彦
2010年(平成22年)11月清瀬
 晩秋の澄みきった青空が、武蔵野の雑木林の上にひろがっていた。熊谷元一は、少し起こしたベットに背をもたせ、その青空を懐かしむように、ぼんやり眺めていた。ここは、清瀬の自宅からそう遠くない老人介護施設の一人部屋だった。どこが悪いというのではないが一週間前、なんとなく体の不調を感じたことから、思いきって入居した。妻の貞子は数年前、亡くなっていた。一人になっても、性分が独立独歩の性格なので不自由はなかった。が、もしかのときは、と、申し込んでおいたのだ。
先ほど、孫夫婦、長男夫婦が見舞いにきた。今年小学一年生になった曾孫も一緒だった。すっかりわんぱく坊主になった曾孫は、入ってくるなり
「おじいちゃーん」と、元気に駆けよってきた。
その姿に、一瞬、数十年の時が戻った。曾孫が、教え子の『一年生』に見えたのだ。
 熊谷は目を細めてからかうようにきいた。
「わしは、いくつだ ? 」 
「ひゃく一さいだよ」
曾孫は、そんなことぐらいはしっているぞ、といわんばかりに胸をはって答えた。
「ほう、百一歳か」熊谷は、おどけたように言った。「そんねん生きたのか」
「いやですよ。そんな言い方しては」同居しているお嫁さんは苦笑した。
「えれえ、いきたもんだなあ」
「まだまだ、大丈夫ですよ」
家族のものは、口々にそう言って笑った。
 本当に、そうみえた。それもそのはず、熊谷は、生涯を通じ病気入院したことは一度もなかった。歯も丈夫なら、耳も聞こえた。目は片目は乱視だったが、101歳のこの歳になっても眼鏡なしで新聞が読めた。そんなわけで、このたびの入居を聞いて家族は、たぶん一過性のことだと思った。すぐにカメラを手に清瀬の街に出ていく。そんなふうに思っていた。
賑やかだった見舞客が帰って部屋は、急にひっそりした。熊谷は、じっとしていることが嫌いだった。家族のものが言っていたように、足さえ動けば、自分はいますぐ写真を撮りにいくに違いないと思った。しかし、足が弱って歩行困難になったから、ここにきたのだ。気持ちは青春時代と変わらないのに、体は、すっかり老化してしまった。残酷な現実に熊谷は、一人苦笑するしかなかった。
101歳か・・・さきほどの曾孫との会話をおもいだした。とても自分のこととはおもえなかった。自分には、まだまだやることがある。ここで、死んでもらっては困る。そんなふうに思った。あの『一年生』は還暦を過ぎていたが、最後まで撮るのが自分の使命なのだ。
熊谷は、窓に目をやった。晩秋の黄昏前の空は、あくまでも高く青く澄み渡っていた。不意に熊谷の脳裏に赤石山脈の上にひろがる信州、伊那谷の青空が甦った。
数日後、11月6日、熊谷は静かに101歳の生涯を閉じた。三足のわらじをはききった、満足の人生だった。が、棺に横たわったその顔は、「おう、面白いことを思いついた」70歳になった一年生を撮りにいくぞ。そう言っていまにも起き上がってきそうにも見えた。
熊谷元一死す。訃報は、遠く熊谷の故郷にも届いた。数日後の、葬儀には、写真家・童画家・教師の功績と讃えて大勢の人が焼香に駆けつけた。教え子の一人、船橋に住む下原は、折り悪く入院中だった。下原はベットの上で書いた追悼文を地元紙に寄せた。
―――――――――――――― 11 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.10
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.10 ――――――― 12 ―――――――――――――――
文芸研究Ⅲ下原ゼミ・ゼミ雑誌制作企画
熊谷元一研究・ゼミ雑誌構成(案)
毎回、話し合って編集方針を固めていく。
【モチーフ】熊谷の写真にある故郷の原風景を探る。(故郷喪失の時代故に)
テキストは『一年生』(教育混迷の時代に伝えるもの)
  ※なぜいま熊谷元一か・・・・下原
○1953年、ある山村の小学一年生の一年間の記録 写真から原風景を探る。
代表作『一年生』を読む、感想・・・・・大野、岩澤
取り入れ  写真  文集  五十歳・還暦文集から 
※黒板絵の世界について・・・・・下原
○1996年、都会の一年生の記録 写真から原風景を探る。
 創作「私が子どもだったころ」都会の遊び・・・ 大野、岩澤
取り入れ 日記  写真  文集  などから
○特集・秋田角館紀行『角館に熊谷元一を見に行く』・・・大野
○同時代の写真家・米国作家比較・・・作品にみる故郷の原風景
創作「サローヤンの少年時代」を読む・・・大野、岩澤
熊谷元一とウイリアム・サローヤンの比較は、まったく相いれないものかも知れない。が、
なぜか両者を試みたい。原風景という共通項から類似点を考えてみたい。
米国作家と日本人写真家。異質な両者の距離がこの研究で、どれほど近づくか・・・。
○熊谷評価の一環としてDVDから宮崎駿監督のシーンを使う ?
  
ゼミ雑誌作成手順
 ①【ゼミ雑誌発行申請書】
上記申請書を期限までに江古田/学科事務室に提出してください。
夏休み明けみまでに編集作業をすすめ、印刷会社を決め、そうていレイアウトを相談する。
②【見積書】
 印刷会社から見積もり料金を算出してもらい、期日までに学科事務室か出版編集室に提出する。編集作業をすすめ、11月半ばまでには印刷会社に入稿する。
ゼミ雑誌納品は12月7日(金)厳守 !
 ゼミ雑誌ができあがったら、12月7日(金)までに提出してください。
③【請求書】
 印刷会社から請求書をもらい学科事務室に提出してください。以上で終了です。
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編集室便り
① 課題原稿、メールでも可 下記アドレス
住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
文芸研究Ⅲ下原ゼミ・郊外授業(ゼミ合宿)計画
目的 ゼミ雑誌『熊谷元一研究』作成のため 回顧展観賞と取材
参加者 2名  下原敏彦(教員) 大野純弥(学生、05A145-7)
目的地 秋田県仙北市角館「ぷかぷ館」(館主 写真家・小松ひとみ)℡0187-53-2473
展示作品 熊谷元一の写真と童画
その他 平泉・中尊寺 宮沢賢治館、角館武家屋敷 たざわこ芸術村など
日程 7月7日(土)~7月9日(月)(7日宿泊・花巻「ホテル千秋閣」)℡0198-37-2150
○1日目 7日(土)、9時40分東京発(6名) → 一の関12時13分着 → 平泉見物 → 花巻温泉「ホテル千秋閣」宿泊 →
○2日目 8日(日)、宮沢賢治イーハトーブ散策(記念館・童話村等) → 田沢湖一周 → 長野県組と合流(村職員ら数名) → 乳頭温泉「鶴の湯」へ 夜・親睦会十数名(保存会、地元写真家他) →
○3日目 9日(月)、田沢湖駅 → 角館駅 → 「ぷかぷ館」にて熊谷元一展を観賞 → 武家屋敷等見学 → 角館駅15時49分 → 東京駅19時08分着 解散。
※主な参加者、熊谷元一写真童画館職員・写真保存会会員、写真関係者他
郊外授業申請 7月8日(日)~ 7月9日(月)1泊2日
宿泊地 秋田県仙北市田沢湖田沢乳頭温泉「鶴の湯」℡0187-46-2139
個展作品 熊谷元一の代表作品 上下共
 
熊谷元一とサローヤン
1908年  ウイリアム・サローヤン、米国カリフォルニア州の農業地帯フレスノで生まれ
る。アルメニアからの移民二世。
1909年 (熊谷元一、長野県伊那谷の山村で生まれる)
1934年 『空中ブランコに乗った大胆な若者』好評26歳 この年から6年間に何百という短編を書いた。まるでカメラのシャッターを押すように。
1938年 熊谷の朝日新聞社刊『會地村』好評、29歳 このときから山村を観察と記録
1953年 熊谷『一年生』の撮影開始
ウイリアム・サローヤンの邦訳出版されたもの
『君が人生の時』加藤道夫訳、中央公論社、1950年
『人間喜劇』小野稔訳、中部日本新聞社、1950年
『わが心高原に』倉橋健訳、中央公論社、1950年
『男』小暮義雄訳、ダヴィト社 1951年
『わが名はアラム』清水俊二訳、月曜書房、1951年(のちに晶文社)
『君が人生の楽しき時』金子哲郎訳、創芸社、1953年
『どこかで笑っている』清野陽一郎訳、ダヴィツト社、1954年
『サロイアン傑作集』末永国明訳、新鋭社、1954年
『笑うサム・心高原にあるもの』斉藤数衛・吉田三雄共訳、英宝社、1957年
『我が名はアラム』三浦朱門訳、角川文庫、1957年(のちに福武文庫所収)
『人間喜劇』小島信夫訳、研究社、1957年(のちに晶文社)
『わたし、ママが好き』古沢安二郎訳、新潮社、1957年
『サローヤン短編集』古沢安二郎訳、新潮文庫、1958年
『人生の午後のある日』大橋吉之輔訳、荒地出版社、1966年
『ウイリアム・サローヤン戯曲集』加藤道夫・倉橋健訳、早川書房、1969年
『ママ・アイラブユー』岸田京子・内藤誠訳、ガルダ、1978年(のちにブロンズ新社刊 新潮文庫所収)
『パパ・ユーアークレイジー』伊丹十三訳、ガルダ、1979年(のちにブロンズ新社刊、新潮文庫所収)
『ワン デイ イン ニューヨーク』今江祥智訳、ブロンズ新社、1983年(のちに新潮文庫所収)
『ディアベイビー』関汀子訳、ブロンズ新社、1984年(のちにちくま文庫所収)
『リトル チルドレン』吉田ルイ子訳、ブロンズ新社、1984年(のちにちくま文庫所収)
『ロック・ワグラム』内藤誠訳、新潮文庫、1990年
『ヒューマン・コメディ』関汀子訳、ちくま文庫、1993年
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文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」               
課題 「念仏平の午後 」感想       
                    
     
ゼミ雑誌(仮)『熊谷元一研究』作成の為。7月1日~31日まで秋田県の角館「ぷかぷか館」(仙北市)で【特別企画 熊谷元一の写真と童画展】が開催される。(主催者・写真家小松ひとみ)。作品貸出元の長野県から「熊谷元一写真童画館」「写真保存会」が視察と研修行事の一環で、同展を観賞する。この一行に同行して、写真童画展を見学するとともに関係者への取材を実施する。
7月7日(土)花巻温泉「千秋閣」
7月8日(日)秋田乳頭温泉「鶴の湯」0187-46-2134

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