文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.12

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ 2012年7月20日発行
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信
BUNGEIKENKYU Ⅲ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
熊谷元一研究No.12                                

編集発行人 下原敏彦

                              
4/13 4/20 4/27 5/11 5/18 5/25 6/1 6/8 6/15 6/22 6/29 7/6 7/20 (ゼミ4教室)
  
観察を記録する、観察を創作する
7・20下原ゼミ
7・20ゼミは以下の要領に添って行います。(ゼミ4教室)
 
1. ゼミ連絡、「ゼミ通信No.12」配布  秋田角館ゼミ合宿日誌検証
2.  ゼミ雑誌、版型・構成などを話し合う。 頁、原稿配分
3. 『三足のわらじ』つづき読み 年譜作成参考と熊谷元一を知る
4. サローヤン『我が名はアラム』の読み。作品から故郷の原風景を探る
東北紀行特集   東北角館、郊外授業報告
7月7日~9日 熊谷元一研究の一環、秋田に写真童画展を見に行く
 
今年の文芸研究Ⅲは、郊外授業とゼミ合宿を兼ねて、秋田県角館で開催された熊谷の写真童画展を見学した。同行者は、ゼミ学生と「28会」(昭和28年会地小学校入学生)、熊谷の故郷の村の写真保存会、熊谷元一写真童画館の人たち。迎えてくれたのは、角館の写真家・小松ひとみ氏、ぷかぷ館の館長・小松優美子氏と地元のフリーライター小西一三氏。
ぷかぷ館まで、田沢湖・記念の潟分校見学
9日朝、秘湯「鶴の湯」温泉から3台の車に分乗、写真家・小松ひとみさんの案内で「熊谷元一の写真と童画展」が開催されている角館のぷかぷ館に向かう。途中、深水度日本一を誇る田沢湖を眺めながらのドライブ。昨日、遊覧船で一周した。快晴の下、湖面はコバルトブルーに輝き、エンジンの水しぶきは七色の虹をつくりだす田沢湖は美しかった。岸辺の道からは、湖面のすばらしさを知ることはできなかったが、伝説の金箔「たつこ」像の前で撮影。潟(かた)分校を見学。この建物は、田沢湖近くにあった生保内小学校の分校。昭和49年廃校になったが、平成14年改修して記念として残った。昔の学校が体験できる。校庭はイベント会場などに使われている。
ぷかぷ館「熊谷元一写真童画展」を見学
朝日新聞・秋田支局が取材に
 ぷかぷ館での見学の様子は、7月10日付けの朝日新聞秋田版で紹介された。(4頁)


文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.12 ――――――― 2 ―――――――――――――――
秋田・角館で熊谷元一を見る
―――――――――――――― 3 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.12
「ぷかぷ館」紹介 オープン5周年記念で元一展
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.12 ――――――― 4 ―――――――――――――――――
朝日新聞・秋田支局の取材記事(岡田昇記者)2012・7・10秋田版
―――――――――――――― 5 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.12
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 東北研修・旅日誌 
岩波写真文庫『一年生』被写体(28会)59年目の旅
〈参加者〉下原ゼミ・28会・熊谷元一写真童画館・写真保存会の皆さん
7月7日(土)朝のうち曇り 昼過ぎから雨、夕方曇りから晴れの方向へ
「一年生」59年目の迷子
 昨夜から東北地方の天気予報を見る。曇りから雨の予報。折りたたみ傘を入れて家を出る。JR津田沼駅8時30分前の総武線快速電車に乗る。待ち合わせ時間は9時10分。車内やや混むが順調。東京駅で下車したとき、ゼミ生の大野君から電話。「改札を出てしまったが、集合場所に向かっている」とのこと。騒音で、聞き取れなかったが、駅内らしいので心配なし。9時05分頃、待ち合わせ場所の「東北新幹線」改札中央口の階段下に到着。
大野君は、既に到着していて、写真童画館の原佐代子さんと談笑していた。初対面だが、ゼミ授業で写真集『五十歳になった一年生』やDVD「教え子たちの歳月」を観賞していたので、すぐにわかった、とのこと。買い物に行っていた幹事の戸塚美代子さんが戻り、下原康子と私を入れ6名のうち5名が集合。あと一人の小川登志子さんを待つ。予定の時間を過ぎても現れず。悪い予感。待ち合わせ場所を勘違いして、他の場所で待っているのでは。戸塚美代子さん、下原康子、他の東北新幹線改札口を探す。が、姿なし。携帯は持っていないとのこと。戸塚さんが、横浜の自宅に電話すると、早目に家を出たとのこと。
東北新幹線「やまびこ」の発車時間、刻々迫る。5分前、戸塚さんの携帯に電話あり。なんと、階下の銀の鈴ある休憩場所で待っていたとのこと。想像内だっただけに悔やむ。発車時間3分前。戸塚さん、残って小川さんを探し後の列車で来ることに。リーダー不在で心細かったが、先発隊4名、2人を残して東北新幹線「やまびこ55」に向かう。
携帯指示で平泉へ
午前9時39分、東北新幹線「やまびこ55」発車1分前、飛び乗るが、車両は山形行。途中で切り離されるという。大慌てで盛岡行きに乗り換える。
9時40分発車、7号車10-ABC 11-ABCだが2席が空席となった。とにかく出発したが、席が欠けているのでなんとなく落ち着かない。車中に戸塚さんから連絡あり。探し会った末、小川さんとはホームで合流、1時間遅れの新幹線自由席に乗車できるとのこと。ようやくほっとした。車窓は、青々した苗が広がる田園地帯。出発時の騒動で弁当買い忘れた。朝食抜きできたという若い大野君、朝から何も食べてないとのこと。佐代子さん持参のホットドック一つで平泉まで辛抱してもらうことに。雨粒が車窓に。
正午12時13分、「一の関」駅に着。ここで東北新幹線を降り、東北本線へ乗り換え。
12時23分発。平泉を目指す団体か、初老の団体が多くなった。そのほとんどが、オバサン軍団。戸塚さん小川さんは、車中でおにぎりを食べてくるとのこと。
12時32分、平泉到着。駅前、建物新しく瀟洒。世界遺産に登録されたせいかも。こざっぱりした感じの駅周辺。駅構内で佐代子さんバス時刻などを尋ねる。案内嬢は、カタコトの日本語を話す中国人だった。中国からの団体客が多いのだろう。ロッカーに荷物を預け駅前のそば店「芭蕉館」に入る。「わんこそば」が名物という。大野君と私は注文。お椀24杯にそばが盛られてきた。やっと人心地。
後組と合流、藤原三代見学へ
13時、満腹で「芭蕉館」を出る。ちょうど電車が着き、戸塚さん小川さんが降りてきた。6名全員揃う。空も安堵したのか、ぽつりぽつりと雨が。巡回バス「るんねん」に乗車。小
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.12 ――――――― 6 ―――――――――――――――――
グループが何組か。毛越寺(もうつうじ)を過ぎ10分ほどで目的の「月見坂入口」に。雨は本降りになった。が、観光客多し。月見坂を登りながら、高尾山の参道を思い出した。大樹の山道がどこか似ていた。弁慶堂で大野君、弁慶になる。
【余談】 義経伝説と「ぷかぷ館」
武蔵坊弁慶といえば、源義経である。講談によれば、京の五条の橋の上で牛若丸に敗れた弁慶は、義経の一番家来となって大活躍。壇ノ浦に平家を追い詰め滅亡させた。その後の不幸も、芝居は「勧進帳」、映画は「虎の尾を踏む男たち」でよく知られている。奥州平泉に落ちのびたが、そのルートは隠密だった故に各地に義経伝説、弁慶伝説を残した。たとえば筆者下原の故郷の隣町、長野県飯田市に「切石」という地名がある。義経一行が通ったとき、大きな石が道を塞いでいたのでお供の弁慶が刀で二つに切った、という。
 実は、今回「熊谷元一写真童画展」会場となる「ぷかぷ館」は、この源義経伝説と、密接な関係がある。「ぷかぷ館」で写真童画展を開催する写真家・小松ひとみさんは、4月長野県阿智村園原にて、義経が馬を繋いだと伝説のある「駒つなぎの桜」を撮影した。
車中で3泊しての撮影で虹のかかったシーンをとることができた。
その縁で、小松氏の故郷・秋田角館「ぷかぷ館」での熊谷元一展が決まった。まさに義経が繋いだ縁といえる。
中尊寺、金色堂、能舞台
 中尊寺、金色堂は、想像していたほど壮麗ではなかった。が、芭蕉は旅した1689年紀行文『おくのほそ道』にはこのように書いている。
 かねて耳驚かしたるニ堂開帳す。経堂は、三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆いて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。
  五月雨の降り残してや光堂
 323年前、雨のなか芭蕉も佇んで眺めていたと思うと感慨深いものがあった。参道の寺院に「め」「め」「め」の旗が。「め」にご利益があるとはじめて知った。能舞台は、今は使われていないようだった。東京都の福祉施設に勤めている戸塚さんは、仕事がらみで3度目の参詣。他の人は、はじめて。もっぱら案内役に回っていた。小川さんは、寺院の先々で一人せっせとご朱印カードのようなものを買い求めていた。時間がなくなり、毛越寺(もうつうじ)は、次回のお楽しみにして山を降りた。
 16時00分の巡回バス。運転手さんから終バス前と説明。平泉駅までの帰路、所々停車して藤原三代の栄華の跡を教えてもらう。
―――――――――――――― 7 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.12
「左手の丘が衣川の館跡です」のアナウンスに、『歴史新聞』の大見出しが脳裏に浮かんだ。
源義経、平泉に死す
寝返った藤原泰衡が衣川の館を襲撃
【平泉1189年4月30日】朝廷から追討の命令が下っていた源義経が藤原泰衡の襲撃を受け平泉の衣川の館で最期をとげた。亨年31歳。
芭蕉は、丘の館跡に佇んで『おくのほそ道』に、こう記している。
 三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり、秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落しはべりぬ。
  夏草や兵どもが夢の跡 
 
 いつか訪れようと思っていた平泉への旅だったが、なかなか機会がなかった。それが、このたび実現した。これも義経「駒つなぎの桜」が縁と思うと不思議な因縁を感じる。
宮沢賢治の故郷の第一印象 
 平泉駅16時35分発の東北本線に乗車。雨はやんで快復方向に。40分ほどのローカル線の旅。一昨年、やはり熊谷元一展を見に行った山形の酒田市の旅を思い出した。あの時は最上川だった。河は、同じ印象だが、山々は少し違った。小ぶりでとんがり帽のような山並みがつづく。はじめての土地だが、なにかしらなつかしい。いつのまにか宮沢賢治の世界に足を踏み入れていた。「次の停車駅は、花巻」のお知らせ。17時18分「花巻駅」到着。
 宮沢賢治といえば、昨今日本で知らぬ人はいない。が、駅前は、他の地方駅と変わらぬ寂しさ。商店街の通りもシャッターが下りている店が多かった。後で駅は、新幹線と東北線と二つあると知った。が、第一印象は、ちょつと寂しげな町。
千秋閣にて 大野君ゼミ雑誌の取材
 17時25分の岩手バスで、花巻温泉へ。20分ばかりで温泉入口に到着。18時に宿泊地ホテル千秋閣に入る。3つの建物が2階、3階でつながった大きな宿。部屋は10階。窓からバラ園が見下ろせた。7時30分夕食にして風呂に向かった。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.12 ――――――― 8 ―――――――――――――――――
7月8日(日)快晴、夕方、一時にわか雨、後、曇り
昨日の疲れからか、全員が7時過ぎまで爆睡。目覚めすっきり、空は雲ひとつない青空。
宮沢賢治記念館 イーハトーブ 童話村めぐり
9時20分 花巻温泉シャトルバス「湯~ハトーブ号」で出発。
9時50分 新花巻駅着。タクシーで「宮沢賢治記念館」に向かう。記念館は、静かな山の上にあった。賢治らしい雰囲気。いつも山下聖美准教授から話を聞いているので、はじめての感じがしなかった。日曜日だが、それほど混んでいなく見学日和だった。宮沢賢治のすべてが収められている館。本棚に清水正教授著『宮沢賢治の神秘的世界』(1990)を見つける。
記念館の下の花畑に日時計があった。その下方にイーハトーブ館があって、イギリス海岸の写真が展示されていた。童話村は、子供たちが、体験できるような施設や広場があった。
花巻は、賢治の他に、高村光太郎、新渡戸稲造が有名だが、「花巻新渡戸記念館」や「高村光太郎記念館」を見学するには、時間がなかった。またの機会にした。
―――――――――――――― 9 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.12
車窓の岩手富士に想う
12時41分発の新幹線「やまびこ」に乗車。10分ほどの新幹線の旅。盛岡駅に近づくにしたがって車窓に岩手富士が見えだした。35年前、公共施設の防水工事の手伝いで左官職人について盛岡まできた。毎日2カ月ビルの屋上で、防水液を塗った。目の前にいつも岩手富士があった。4月とはいえ、屋上は、まだ寒かった。当時、早く、仕事を終え、東京に帰りたいと思ったものだが、いまは昔、なつかしかった。12時52分盛岡着。
戸塚さん、大野君たちは駅弁を買いに駅構内にある土産店へ。ホームで待つ。
田沢湖めぐり コバルトブルーの湖面に感動
13時24分発「こまち」に乗車。車中お弁当を食べる。
13時57分田沢湖駅に着く。駅からバスで田沢湖に。湖畔の土産物店で時間を潰す。
15時00分発「田沢湖遊覧船」に乗船。晴天、乗客20名程度。水深日本一だけあって、湖面は、コバルトブルー一色。エンジンで舞い上がるしぶきに日差しが当たり、きれいに虹をつくった。1周40分、素晴らしい風景だった。1170円
【豆知識】HP
「田沢湖」という名称は、明治時代になってから定着した。それまでは「田沢の潟」「辰子の潟」などと記録されていた。古名の由来は「田沢村の潟」という意味。
アイヌ語で「「盛り上がった円頂の丘」を意味するタプコプが変化した説がある。
地理
秋田県の中東部に位置する。最大深度は423.4mで日本第一位(第二位は支笏湖、第三位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である(世界で最も深い湖はバイカル湖)。
湖面標高は249mであるため、最深部の湖底は海面下174.4mということになる。この深さゆえに、真冬でも湖面が凍り付くことはない。そして、深い湖水に差し込んだ太陽光は水深に応じて湖水を明るい翡翠色から濃い藍色にまで彩るといわれており、そのためか日本のバイカル湖と呼ばれている。
一部箇所では湖水浴場として認められており、海水浴場と同様な利用が可能となっている。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.12 ――――――― 10 ――――――――――――――――
水質
かつては火山性・ミネラル分の高い水質と流入河川の少なさのため、1931年(昭和6年)の調査では摩周湖に迫る31mの透明度を誇っていた。しかし、1940年(昭和15年)に発電所の建設と農業振興(玉川河水統制計画)のために、別の水系である玉川温泉からpH1.1に達する強酸性の水(玉川毒水・玉川悪水と呼ばれる)を導入した結果、田沢湖は急速に酸性化し固有種であったクニマスは絶滅[注釈 1]。水質も悪化し魚類はほぼ死滅してしまった。
それに対し、1972年(昭和47年)から石灰石を使った酸性水の中和対策が始まり、1991年(平成3年)には抜本的な解決を目指して玉川酸性水中和処理施設が本運転を開始。湖水表層部は徐々に中性に近づいてきており、放流されたウグイが見られるまでになった。しかし、2000年(平成12年)の調査では深度200メートルでpH5.14 – 5.58、400メートルでpH4.91と未だ湖全体の回復には至っていない。
成因
田沢湖は円形をした深い湖である。成因は分かっていないが、例えば円形または四角形の深い窪地を形成する要因として一般的に下記の3種類がある[2]。
1. カルデラ:近くの十和田湖のように巨大な噴火が起こって大量のマグマが抜けた跡の窪地。古い資料では、カルデラ湖と記載されていた。
2. クレーター:バリンジャー・クレーターのように巨大な隕石が地上に衝突した名残。
3. 構造湖:四方を断層で囲まれた諏訪湖が代表例。断層運動によって形成された窪地。
周囲の地質調査の結果、180万年前から140万年前の爆発的噴火によるカルデラとの説が挙げられている[3]。
15時40分、下船。桟橋から見下ろすと餌を求めて集まったウグイの群れが見えた。
秘湯・乳頭温泉「鶴の湯」へ
6時17分のバスに乗車いよいよ目的の乳頭温泉に向かう。が、戸塚さんは1人、阿智村組を迎えるために、一旦、田沢湖駅に。駅前でレンタカーを借りて岸田さん運転で「鶴の湯」にくる計画。またしても、しばしの別れ。5人は秘湯へ。
 さっきまで快晴だった空、にわかに曇り、ぽつぽつと雨が降り出す。バスは、「アルパこまくさ」で下車。乗ってきたバスの後輪タイヤ破裂を目撃。安堵する。「鶴の湯温泉バス」が迎えに来ていた。ここから一般道を離れて、林道に入る。下り上りをくりかえして山奥にひた進む。まさに秘湯に向かう感あり。20分ほどで到着。山間の砦の印象。
※乳頭温泉は、「ひなびた風情を残す 秋田を代表する秘湯」。「鶴の湯」は、乳頭温泉郷で一番人気の宿。周囲はブナやミズナラなどの原生林で鬱そうとしている。その昔、鶴が傷を治して飛び立っていったとの伝説から鶴の湯に。
―――――――――――――― 11 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.12
秘湯・鶴の湯温泉
阿智村組合流、角館「ぷかぷ館」、横浜組も
17時30分部屋割り、秘湯案内などで。
18時00分阿智村組到着。写真保存会・写真童画館・村役場関係者4名。
別館に宿泊の、かっての美女軍団4名は、すでに到着している模様。
角館「ぷかぷ館」関係者、3名も宿入り。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.12 ――――――― 12 ――――――――――――――――
懇親会は17名で盛会
 乳頭温泉に浸かり旅の疲れを落とす。鬱蒼と繁る周囲の山々。はるばる遠くにきたものだと実感。雨は、いつのまにか上がっていた。
7時30分から宴会。参加者下原ゼミ2名、28会4名、写真保存会・写真童画館関係者4名、「ぷかぷ館」関係者3名、時空(仮)美女軍団4名。総勢17名。
写真童画館の岸田氏が挨拶。このたびの研修旅行と経緯について話された。
【経緯紹介】秋田の写真家・小松ひとみ氏は、「桜逢瀬」をモチーフに全国の桜を撮っている。2010年5月、阿智村の園原にある「駒つなぎの桜」を撮りにきて、虹のかかった撮影に成功。その縁で今年5月25日から熊谷元一写真童画館で、
~桜の町 秋田の角館で生まれた作者の十数年にわたる桜行脚の記録~
と銘打って『「桜逢瀬」小松ひとみ写真展』を開催。話題を呼んだ。
 今回の、角館「熊谷元一展」は、その縁の縁ということになる。「鶴の湯」は小松氏の紹介。宴会には、ひとみ氏の姉で「ぷかぷ館」館長の小松優美子氏とフリーライターの小西一三氏(ペンの他に狩猟、漁業、料理と多彩なライター)が参加された。
【ぷかぷ館の由来】小松ひとみ氏(1956年生まれ)は、なんとユニチカの元バスケットボール選手。体格を生かして写真修業時代を耐え99年に独立。四季・花をテーマに幅ひろく写真を撮っている。08年仙北市角館町桧木内河堤に常設ギャラリー「ぷかぷ館」をオープン。「ぷかぷ」の由来は、撮影行脚していて、ふと雲をみたとき、「あの雲のように、のんびり、ぷかぷかやっていこう」そんな思いつきからつけた名前とのこと。
写真集『カッパンプラン』がある。写真展は、07,08年に東京・大阪にて「ドリームジャンボ宝くじ記念「桜写真展」開催がある。
原写真保存会会長の乾杯で、宴会に。山菜料理の中にイワナの塩焼き。若手の大野君が、皆の分のイワナ食べに奮戦。地ビールむと地酒。楽しい宴会に秋田の夜は更けた。部屋は、レトロの60Wの裸電球、テレビなし。皆、夜はぐっすりのようでした。
7月9日(月) 朝のうち曇り、後、晴れ
田沢湖 潟分校 角館「ぷかぷ館」
5時00分、露天。鶴の湯周辺を散策。「鶴の湯」社長の佐藤和志氏と会い名刺を頂く。後で氏が旧田沢湖町の潟分校保存に尽力されたと知る。
7時30分 朝食の後、小松ひとみさんから郷土料理の「ごまもち」を頂く。食感、風味もよく美味しかった。料理は山菜と健康食。タケノコの天ぷら、煮物など。
9時00分 予定より30分遅れ。「鶴の湯」入口で、記念撮影。車3台に分乗して角館に出発。阿智村組、まだ田沢湖を見ていなかったので、湖畔ドライブ。湖面のコバルトブルーは、遊覧船の中からの方が、より色鮮やかに見えた。月曜日とあってか、観光客はまばら。辰子姫像の前で記念撮影する。
【田沢湖の観光名所】
御座石神社=青い湖面に赤い鳥居が映える。「美」にご利益のある古社。
たつこ像=伝説の辰子姫がモチーフ。永遠の美を願うたつこは大蔵観音に願をかけ、満願成就の日に竜に姿を変えて湖の主となったとの伝説も。
―――――――――――――― 13 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.12
記念館・潟分校見学 会地小学校を思い出して感動
10時30分、田沢湖の近くに、廃校になった小学校の分校が記念館として、残されているというので、見学させてもらうことにした。
【HP紹介】
思い出の潟(かた)分校は、1974年(昭和49年)に廃校になった旧田沢町町立生保内小学校を修復した木造校舎です。
2004年(平成16年)から、一般公開され仙北市の観光名所の一つとなっています。校庭や校舎がほぼ当時のまま、残されており、校舎内には教科書や文房具などが展示され、当時の学校風景を思わします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 28会の面々は、入った途端、「あっ、会地小学校とそっくり ! 」と歓喜の声をあげた。机、椅子、床、どれを見てもなつかしさがこみあげてくるものばかり。それもそのはず、展示してある、ものはほとんどが昭和28年~29年年のものだった。28会は、秋田に来てタイムスリップ、そんな不思議体験をすることになった。が、阿智村組は、現実的だった。
「横川分校も、こんなふうにしたら」「管理は大変だが、そんな篤志家がいれば」と話されていた。熊谷元一先生が最初に勤めることになった智里村には、横川という山奥に分校があった。 統合されてからは、一泊千円の宿泊施設として利用しているとのこと。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.12 ――――――― 14 ――――――――――――――――
またふたたびの角館、堤防の桜並木に想う
 車は、いよいよ旅の目的地、角館に入った。桧木内川の桜堤が見えてきた。どこか見覚えのある風景。7年前の記憶がよみがえった。
2005年4月末、秋田県出身身の友人夫婦に突然「角館の桜を見に行こう」と、誘われた。満開はすぎたが、まだ間に合うというのだ。私たち夫婦の他にもう一人の友人総勢5人で、急遽飛行機で秋田にきた。秋田県出身の友人は、国連職員だったが、辞して「グローバルウォーター・ジャパン」という水に関係する会社を立ち上げた。秋田への旅は、会社設立の記念に、ということもあった。が、この時期、桜を見に行くというのは、元PTA仲間にとって、意味あることだった。
8年前、熊谷元一研究の韓国留学生らと阿智村に
 8年前、私は友人夫妻らと、故郷の長野県阿智村に旅した。顔ぶれは高校PTAで知り合った仲間8名、日本大学芸術学部写真学科の韓国留学生・朴麗玉さん、姉の総勢10名であった。旅の目的は、元PTA仲間の皆さんは、私が出版した『伊那谷少年記』のなかに収められている「ひがんさの山」の体験ツアー。熊谷元一研究をすすめられ写真学科から紹介されてきた韓国の女性留学生朴さんは、「熊谷元一写真童画館」を見に行くためだった。
なんとなく、今回と似てもいるが、このときの私は、8年後に熊谷元一研究をはじめるなど夢にも思わなかった。途中、桜の名所高遠で桜を見た。故郷の山では、28会の原佐代子さんも加わって、ひがさの山を体験をした。新緑の山に山桜が咲き乱れていた。
昼神温泉郷の宴会も賑やかで楽しかった。4カ月後、友人の一人が病気で亡くなった。それ故、この季節、旅先で桜をみることは、友人への供養となる。そんなふうに思った。
朴さんは、大学で熊谷元一研究を発表した。夕方だった。28会からは原徹君が、仕事帰りオートバイで江古田校舎まで駆けつけてくれた。朴さんの発表は、それ一回だった。熊谷のように韓国の農村を撮る夢を持っていた。が、熊谷の観察し記録しつづける根気に圧倒されて悩んでいた。清瀬の自宅を訪ねたりもしていたが、研究はすすまなかったようだ。その後、大学院を去って帰国した。秋田の旅から帰った13日夕、朴さんが大学に来ていると知らされた。いま熊谷元一研究は、すすめているのか、知りたかったが、用事あって出向けなかった。10月に来日というので、それまでに熊谷元一研究すすめねばと思った。
8年前、「熊谷元一写真童画館」&「ひがんさの山」への旅。左「阿智川荘」、右「高遠」
ギャラリー&カフェ「ぷかぷ館」
11時10分 「ぷかぷ館」着。桧木内川の桜堤に近いところ。住所は角館町北野78 2F
(1Fは麺所「花うさぎ」)角館駅から車で5分、徒歩26分。熊谷元一写真童画展を見学中に朝日新聞秋田支局の岡田記者から取材を受けた。翌日10日の秋田版に記事が掲載。
 ハーブ茶が美味しかった。館長小松優美子さま・写真家小松ひとみさま、ライター兼猟師
―――――――――――――― 15 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.12
の小西一三さま、お世話になりありがとうございました。楽しい旅ができました。
「料亭 稲穂」で阿智村組とお別れ昼食
13時20分、「料亭稲穂」で懐石料理。阿智村組とお別れ宴会を開く。料亭のご主人は、小松ひとみさんと同窓とのことで歓待していただきました。会場は偶然の予約だったとのこと。
2時30分 阿智村組と10月の再会を楽しみにお別れ。山形酒田のときもそうだったが、賑やかだった分一抹の寂しさがある。皆さん、それまでお元気で。武家屋敷の見学は時間なくて近くの「西宮家」のみ。またいつかを楽しみに駅に向かう。
15時49分 新幹線「角館駅」発「こまち32」に乗車。車中全員爆睡。
19時08分、東京駅で解散。「熊谷元一の写真・童画展」を見学する旅終了。
☆12日、朝日新聞秋田支局の岡田記者から掲載新聞が7部頂きました。感謝します。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
お詫び、今号は、紙面の都合で以下の連載をお休みします。
【熊谷元一研究】毎号、加筆、校正して完成作品を目指します。
マスメディアにみる熊谷元一⑥はお休み
 その生涯を写真家・童画家・教師として生きた熊谷元一のマスメディアにおける批評と評価は、どんなだったか。新聞・雑誌・書籍・テレビ・HPなどから探ってみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
マスメディアにみる熊谷元一評論の記録
①「熊谷元一さんの偉業」(永田浩三ブログ「隙だらけ好きだらけ日記」)
永田浩三(社会学者・ジャーナリスト・武蔵大学教授、元NHKプロデューサー)
熊谷元一研究・「文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信第7号」掲載
②「不覚にも涙のにじんだ目で」(『熊谷元一 なつかしの一年生』河出書房新社2001)
  あとがき 藤森照信(東京大学教授)
 熊谷元一研究・「文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信第8号」掲載
③「いまみてもすごい写真だ !! 」アニメの巨匠・宮崎駿監督
 「今まで試みられなかった得がたき作品」農林大臣・有馬頼寧
④「プロ、アマの壁を乗り越えた作品」 飯沢耕太郎(写真論・日本大学芸術学部講師)
⑤昭和の記録/記憶 たゆまぬ「現在形」として矢野敬一・(国立静岡大学教授)
青弓社『写真家・熊谷元一とメディアの時代』2005・12・11 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『一年生』研究・作文編  文集「こどもかけろよ ひのてるほうへ」②
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
創作 夢、果てなく 小説熊谷元一 東京清瀬の老人施設で熊谷は101歳の生涯を閉じた。が、その夢は窓外にひろがる澄んだ秋空のようにに果てなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
検証「一年生」を読む
①パンをかじる2少年の奇跡  ②表紙写真29年撮影の謎。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.10 ――――――― 16 ―――――――――――――――
文芸研究Ⅲ下原ゼミ・ゼミ雑誌制作企画
熊谷元一研究・ゼミ雑誌構成(案)
【モチーフ】熊谷の写真にある故郷の原風景を探る。
テキストは『一年生』(教育混迷の時代に伝えるもの)
  ※なぜいま熊谷元一か・・・・下原
○1953年、ある山村の小学一年生の一年間の記録 写真から原風景を探る。
代表作『一年生』を読む、感想・・・・・大野、岩澤
取り入れ  写真  文集  五十歳・還暦文集から 
※黒板絵の世界について・・・・・下原
○1996年、都会の一年生の記録 写真から原風景を探る。
 創作「私が子どもだったころ」都会の遊び・・・ 大野、岩澤
取り入れ 日記  写真  文集  などから
○特集・秋田角館紀行『角館に熊谷元一を見に行く』・・・大野
○同時代の写真家・米国作家比較・・・作品にみる故郷の原風景
創作「サローヤンの少年時代」を読む・・・大野、岩澤
熊谷元一とウイリアム・サローヤンの比較は、まったく相いれないものかも知れない。が、
両者比較を試みたい。原風景という共通項から類似点を考えてみる。
 ゼミ雑誌作成手順  ①【ゼミ雑誌発行申請書】申請書を期限までに江古田/学科事務室に提出してください。夏休み明けみまでに編集作業をすすめ、印刷会社を決めレイアウトを相談する。②【見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらい、期日までに学科事務室か出版編集室に提出する。編集作業をすすめ、11月半ばまでには印刷会社に入稿する。ゼミ雑誌納品は12月7日(金)厳守 !
③【請求書】印刷会社から請求書をもらい学科事務室に提出してください。
【土壌館ニュース】
柔道場土壌館が平成23年度船橋市体育功労賞に推薦される
 柔道の土壌館道場は、地域青少年の育成を目指して28年間、町道場の灯を守ってきた。その功績が認められ、このたび船橋市の体育功労賞に推薦された。授賞式は7月27日、船橋駅近くのグランドホテル。「これもひとえに稽古する子供たちのたまものです」(下原)観察し継続することの根気は、熊谷元一先生から得た教えである。
10年前の弟子たちが、弟子開店のレストランで前祝い 20名
 倒壊寸前のおんぼろ道場土壌館は10年前、テレビ番組で再建。現在に至っている。15日、今回の推薦に併せて再建10周年記念を行った。会場は、折よく当時見習いコックだった弟子が、錦糸町駅前に開いたレストラン「プチヴィール」。なつかしい顔が集まった。当時子供だった彼らも、いまはりっぱな若者に。当時の試合ビデオを見ながら宴会。楽しくなつかしい一時。柔道をつづけていてよかった。帰りはスカイツリー見物をして帰った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
編集室便り

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑