文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.13

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ 2012年9月28日発行
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信
BUNGEIKENKYU Ⅲ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
熊谷元一研究No.13                                

編集発行人 下原敏彦

                              
9/28 10/5 10/12 10/19 10/26 11/9 11/16 11/30 12/7 12/14 1/11 1/18  (ゼミ4教室)
  
観察を記録する、観察を創作する
9・28下原ゼミ
9・28ゼミは以下の要領に添って行います。(ゼミ4教室)
 
1. ゼミ連絡、「ゼミ通信No.13」配布  ゼミ雑誌掲載資料を集める
2.  ゼミ雑誌作成作業 → レイアウト、原稿の確認、配置
3. 掲載写真の選考 → (参考『一年生』『五十歳になった一年生』他)
後期のゼミ
いよいよ後期がはじまりました。夏休みは、如何でしたか。あの猛暑も今は何処。朝晩の気温差が大きいこの頃です。体調に気をつけて頑張りましょう。
前半はゼミ雑誌作成作業を 
 後期ゼミの前半は、ゼミ雑誌作成を中心にすすめてください。10月末までの編集作業終了、11月中旬までに印刷会社入稿が目標です。
 後期後半は、熊谷元一研究をすすめながら関連の名作読みなどをすすめます。
ゼミ雑誌、編集室納入日は12月7日(金)です
下原と熊谷元一(1990)


文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.13 ――――――― 2 ―――――――――――――――
ゼミ雑誌概要
 ゼミ雑誌のだいたいの骨格(これまでに出された案です)
○タイトル (仮)『熊谷元一研究』 
○サブタイトル(仮)『一年生』    
  熊谷元一研究 ~『一年生』~
  
○熊谷元一とは何か 故郷喪失時代の旗手  
・「熊谷元一研究」の意義・・・・・・・・・・下原
・熊谷元一略歴・・・・・・・・・・・・・・・大野
・マスメディアにみる熊谷元一・・・・・・・・TV、新聞、写真集から
・写真家・童画家・教師としての熊谷元一・・・写真、童画、教育の代表作紹介
写真 → 時代の記録-  童画 → 子供の遊び伝承-  教育- → 黒板絵
○代表作『一年生』 
・岩波写真文庫『一年生』を読む ・・・・・・・・大野純弥
・『一年生』とは何か ・・・・・・・・・・・・・写真掲載 
・1953年の山村小学生と1996年の都会の小学生・・写真比較、絵日記と文集比較
・私が子供だった頃 ・・・・・・・・・・・・・・大野、岩澤
○特集「東北紀行」秋田角館に熊谷元一写真童画展を見に行く 
・秋田までの旅日誌・・・・・・・・・・・・・・旅記録と写真 平泉→花巻→田沢湖 
・方分校見学・・・・・・・・・・・・・・・・・写真
・「熊谷元一写真・童画展」・・・・・・・・見学写真、パンフレッド、「ぷかぷ館」
・新聞取材・・・・・・・・・・・・・・・・・・朝日新聞秋田局の記事紹介
○世界芸術線上としての熊谷元一 
・サローヤン 略歴
・『我が名はアラム』にみる故郷回帰と熊谷の故郷記録にみる回想
 作品感想と「ふるさと阿智村ものがたり~元一作品で実践 ! 回想法~」(DVD手引き)
ゼミ雑誌編集計画行程 (ゼミ誌編集作業は、ゼミの時間を当ててください)
 9月28日ゼミ → 骨格案を検討、写真を選ぶ、原稿を集める、雑誌サイズ決め
10月 5日ゼミ → 原稿読み、校正、写真、配置、
10月12日ゼミ → 写真得意な印刷会社を決める、最終編集作業
10月19日ゼミ → 製本してみる(仮のゼミ誌)
10月26日~11月9日ゼミ → 最終チェック → 入稿  予定です。
―――――――――――――― 3 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.13
ゼミ雑誌の中身、(これまでに提出・検討されたもの)
1.ゼミ雑誌・熊谷元一とは何か 20頁(写真・年譜含む)
『熊谷元一研究』の意義
熊谷元一研究の意義
下原敏彦
 東日本大震災、原発事故、経済の低迷、教育の荒廃。喪失感漂う今日の日本。熊谷元一の写真・童画・教育に癒しと再生を探る。
 2012年からゼミⅢを受け持つことになった。研究対象は誰にしようかと迷った。が、灯台もと暗し。私が誰よりも一番よく知っている人物がいた。2010年11月6日に101歳で亡くなった写真家・童画家の熊谷元一である。熊谷は、生涯一教員で、私の小学校時代の担任教師だが写真・童画においてアマチュアを通したことから知る人ぞ知る人であった。しかし、写真世界では、日本を代表する写真家の一人としてその存在感は大きい。代表作〈一年生〉は、写真界の金字塔といっても過言ではない。
 3・11以降、日本人は、すっかり変わってしまった。原発事故や津波被害で実際に故郷を追われた人たちがいる。が、多くの日本人は、故郷を無くした喪失感にさいなまれている。スマホ、ネット社会。文明科学の進歩とは裏腹に心は、安らぎを求めて彷徨っている。
熊谷元一の写真や童画には、心を癒す懐かしさがある。写された、描かれた場所は、山村だが、記録された村人の生活や子どもたちの遊びは、時と所を超えて見るものを感動させてくれる。貧しかった時代の証言は、文明に行き詰まって混迷する今日の人々を慰め勇気づけてくれる。加えて、教師としての熊谷からは、民主主義教育未踏の時代にあって、なにものにも束縛されない創意工夫の教育を知ることができる。熊谷の、その実戦教育は、崩壊した現代の学校教育にあって必ずや新しい指針になり得る。そう信じてやまない。
故に熊谷元一研究は、いまの日本にとって是非に必要な研究といえる。熊谷の作品にみる観察と記録。そして、教育。これからの日本人にとって心の支えと希望になる思うところである。それだけに熊谷元一研究の意義は大きい。
「2000年夏、東京の江戸東京博物館で催された〈近くて懐かしい昭和展〉は昭和を懐かしむ大勢の人たちでにぎわった。美空ひばり、力道山、長嶋茂雄など戦後の昭和を飾った著名な人たちの記録や映像が人気を博していた。そのなかにあってひときわ入場者の関心を引いた写真展があった。昭和28年、熊谷元一が教え子の小学一年生を撮った写真だった。」
(『五十歳になった一年生』から)
熊谷元一の略歴 ・・・・・・・・写真集参照、出版物、追悼 写真掲載→
写真数  →
作品感想と「ふるさと阿智村ものがたり~元一作品で実践 ! 回想法~」(DVD手引き)
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.13 ――――――― 4 ―――――――――――――――――
マスメディアにみる熊谷元一評 ・・・・テレビ、出版物、写真掲載→
マスメディアにみる主な熊谷元一評論
①「熊谷元一さんの偉業」(永田浩三ブログ「隙だらけ好きだらけ日記」)
永田浩三(社会学者・ジャーナリスト・武蔵大学教授、元NHKプロデューサー)
熊谷元一研究・「文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信第7号」掲載
②「不覚にも涙のにじんだ目で」(『熊谷元一 なつかしの一年生』河出書房新社2001)
  あとがき 藤森照信(東京大学教授)
 熊谷元一研究・「文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信第8号」掲載
③「いまみてもすごい写真だ !! 」アニメの巨匠・宮崎駿監督
 「今まで試みられなかった得がたき作品」農林大臣・有馬頼寧
④「プロ、アマの壁を乗り越えた作品」 飯沢耕太郎(写真論・日本大学芸術学部講師)
⑤昭和の記録/記憶 たゆまぬ「現在形」として矢野敬一・(国立静岡大学教授)
青弓社『写真家・熊谷元一とメディアの時代』2005・12・11 
写真家・童画家・教師紹介 ・・・・作品紹介、教師は「一年生」のなかから
2.代表作品『一年生』 岩波写真文庫  50頁(写真・パンフレッド含む)
『一年生』写真紹介 ・・・・・・・・・写真掲載 
写真選考
代表作品『一年生』
―――――――――――――― 5 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.13
『一年生』を読む ・・・・・・・・・・大野純弥
『一年生』を読む
大野純弥
正直な話、下原先生に「一年生」を研究素材にすると聞いた時はじめは気乗りし
なかった。僕が今まで触れた昭和の古き良き風景を写したと謳うものは、得てして
昭和ノスタルジーの押売り的な色が強くもはや胸やけ気味だったからだ。
小学生の頃、親の買っていた漫画「三丁目の夕日」を貪るように愛読した僕は人一
倍レトロチックな事物に惹かれていた。
しかし僕が高校生になると、当該漫画が映画化するに際し世間の懐古主義熱は爆発し、昭和時代の盲信的な強要を感じるようになり僕の中でその類のものは一種僻易としてきたのだ。どの時代にも光射せば影ができ、影あれば光に寄るものなのだ。極端な美化は懐古主義を偏向主義に卑しめてしまう。
ところが僕の勝手な論評を尻目に、熊谷元一氏の写真には「一年生」をはじめとしてそういったいやらしさが感じられるものは全くなかった。農村に生きる人々を
「貧しくも慎ましく希望に燃ゆる人たち」
と一括りにする事なく、村民一人一人を個として嘘なく映しだしている。
 それは正に熊谷氏がその時代を生き、寄り添い、その時代を希望を胸に記録した
からなのだろう。
 その為僕は自然にこの時代の風を受け入れ、「一年生」と同化することができた。
被写体は年端もいかぬ小学一年生である。赤石山脈に囲まれた養蚕業が盛んな
信州の農村に住む普通の子供達だ。女子はおかっぱ頭、男子は大抵坊主頭(おかげ
て表情の違いが良くわかる)。
 入学前の知能テストから既に彼らは被写体となり、日々の学校生活や時には自宅
での日常生活までも写真として切り取られている。下原先生曰く最初のうちは撮
られることへの抵抗もあったが、そのうちに撮られているのに気がつかない位になっ
ていたようで余程熊谷氏のカメラは生徒の生活に溶け込んでいたのだろう。生徒達
の振る舞いや表情がとてもリアルで豊かに写し出されている。
これは熊谷氏のカメラマンとしての腕と教師としての生徒との信頼関係によるもの
だとは思うが、それに加え被写体が一年生の少年少女であることも強く起因してい
ると考えられる。
 例えば同じ様にサラリーマンを被写体にして撮ったならば恐らく彼らはカメラを
常に意識し、自分の仕事ぶりがより良く映るように行動してしまい一挙手一役足
全て不自然なものになってしまうだろう。その点小学一年生はまだ先生の内申も関
係ないので臆する事なく有りのままで居られる。熊谷氏はそういった子供の優れた
被写体としての価値をよく知っていたのだろう。熊谷氏が故郷を絵として描く際に
わらべを主に据えたのもそんな意図があったようにも考えられる。
 「一年生」には生徒が一人だけで写っている写真が少ない。普通学校の先生が写す
クラスの写真はメインの生徒一人、もしくはグループをでかでかと中央に置き、周
りの生徒はろくに写っていないものが多い。これは後々父兄が写真を購入する際に
買い手が着くようにする配慮なのかもしれないが、やはりここで写真家との違いが
生まれる。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.13 ――――――― 6 ―――――――――――――――――
 「一年生」では・:入学時に担任の挨拶を聞く新入生の後ろには神妙な面持ちで見
守る着物姿の母親達。教科書を朗読する生徒の横には飽き飽きとして虚ろな目で
レンズを睨む男子生徒や、教室の後方でひっそり欠伸をする女子生徒。蛇を得意気
に掴むガキ大将の脇には見切れながらも男子を軽く蔑視する女子の姿が映されて
いるのである。
 写真の中央だけでなくフレームぎりぎりにまで主役が写りこみ、それらの主役全
員が互いに作用し合って写真を創り上げているのだ。熊谷氏は風景、人間関係全て
を見事に切り取っている。
 写真の中にその当時の空気が生きているのだ。だから見る側としてもその空気を
肺一杯に吸い込めば簡単に感情移入が出来る。
 入学と言えば、学校に上がる年齢まで健康に育つかも危うかっただろう当時とし
ては親にも相当の感慨があったのだろう・:手を前に揃えて見守る母親衆の中に思
わず腕を組んでいる人もいるな、と写真と会話することも可能にしている。
「一年生」にはユーモラスな写真が多いのも特徴的だ。パンをかじる少年。眉間に
皺が入る程力を込めてコッペパンに食らいつく。その力強さは「これは俺のもんだ」な
のか「お腹空いたぜ」なのかは分からないが、とにかく勇ましい。その一方で右手で
は使わない箸を掴んでいる。しかも奥のパンをかじろうとしている少年も同様に箸
を掴んでいるのだ。これがどことなく可笑しく、微笑ましい。
 そして何と言っても校内放送で歯の衛生の話を聞く生徒の変遷は現代でも通じ
るユーモアを感じる。
手前の女子生徒は放送開始四分後から本を読み出す。眠りだす周囲の生徒がいる。
拗ねて教室に入らずに外で遊ぶ生徒。喧嘩をして壁に肩を押さえ付けられて半
泣きの生徒。教育者であれば直様叱ったり、仲裁に入ったりと何か指導しなくては
ならない場面。熊谷氏はただその光景にシヤッターを切っている。
喧嘩の顛末、負けた生徒が地面に力無く座り込み他の生徒達に囲まれている後ろ
姿まで写真に収めるしだいだ。これではいくらなんでも放任し過ぎで写真家として
は良いかもしれないが教師としては些か問題がありそうだ。
しかし、喧嘩の写真の添え書きで熊谷氏は「できるだけ追ってみたら、こどもを理解
する上にも役立った」と述べている。
 ここに熊谷氏の教師としての教育理念が垣間見える。熊谷氏の教育資料に生徒達
が掃除の時間にどこで何をしていたかを線でなぞり記録したメモがあった。「窓の近
くに寄って雑巾を持つたまま五分惚けている」等細かな描写も合わせて書いてあった。
しかもそれはクラス全員を記録していて、日替わりで観察していたのだという。
なかなか出来る作業ではない。この記録から熊谷氏は生徒一人一人の性格からク
ラスでの立ち位置に至るまでを分析していたという。
徹底的に生徒に向き合い、問題が起きた際にもその原因を見つめしっかり観察する。
その上で解決策を考じ、問題の根源を正す。教師の制裁、説教もその場しのぎのも
のであれば効果は一過性でしかない。
長期的に見た時、生徒にとっても熊谷氏の教育方法は有効だと思える。
何より当時の生徒であった下原先生達が熊谷氏を慕っていたことがその証しである。
「一年生」について考察して一番強く感じたのは、奇しくも「懐かしさ」だった。も
ちろん平成生まれの僕に木造の校舎や囲炉裏がそれを感じさせたわけではない。
昭和の一年生達の喜怒哀楽の表情が、幼いながらも牽制し合い作る関係性が僕に
も共通体験として引っ掛かりを生んだのだ。
時代や地域は違えど、幼少期の曇りのない眼で見る空は青く澄み、友は初めての他
者であることに変わりはない。自己形成の時に学んだ知識や教えは普遍的な規範をつくる。
―――――――――――――― 7 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.13
いつでも振り返って幼少期に心を寄せれば、自分の居場所を確認できる。
それは昭和でも平成でもいつでも同じことである。
「一年生」はそんな心の故郷への沢山の入口を含む写真集である。
1953年の山村小学生と1996年の都会の小学生 写真比較、絵日記と文集比較
1953年の小学一年生 ・・・・ 「一年生」の写真から 記念文集(『五十歳になった』)
写真
文集
1996年の小学一年生 ・・・・ 写真、絵日記、文集(大野・岩澤)
写真
絵日記
文集
感想 ・・・・ 43年間の違い(コメント大野、岩澤)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.13 ――――――― 8 ―――――――――――――――――
創作・私が子どもだった頃
「たっちゃん」
 大野純弥
 6歳になった時、僕の生活はがらりと変わった。一年生に上がるのに合わせて文京区にある小さなアパートに引っ越したのだ。
アパートの名前は「アカデミーハイツ」。壁にはクリーム色のペンキがべ夕塗りされてい
て、ペンキがうねって出来た突起の先には埃が細かく付着しどす黒くなっていた。そして
それが見えない箇所にはシダの葉を申し訳程度にちよこっと生やしているといった装いだ
った。おまけに細い裏路地がそのまま傾斜したような坂の下にあったので、よほど車幅の
ない胆でない限りたどり着けないという鼠返し的な仕組みで閉鎖されていた。
しかし立地に関しては申し分なく、その極せま坂を上って大通り沿いにしばらく行ったら右手に曲がって今度は坂を下れば学校に到着という具合であった。もし学校までの道順を地図に描いたなら「コの字」をなぞるだけで済んだだろうがそれを描く機会は一度もやって来なかった。
僕はそんな新しい住まいをシダの葉ごと気に入っていたが、実のところこのアパートは
元はと言えば建設中の新居へ越生までの仮住まいでしかなかった。一年経ったらアカデミ
ーハイツより学校から二倍はどの距離の「ガーデンヴィレッデマンション」に移ることに
なっていたのだ。
アカデミーハイツに住む僕はその時クラスで二番目に学校に近かった。そしてガーデン
ヅイレスヂマンションに越したってクラスの中でまだ五番くらいにはいられた。
 しかし父親の言うように僕はクラスでの立ち位置を気にしていたわけではない。すっか
り愛着を持っていたのだ。ボロアパートとその周りのちゃんと水の出る井戸や必ず猫が魚
の入っていた発泡スチロールの箱の上で寝ている魚屋のある景色に。前に住んでいたマン
ションの景色よりもずっと。
 第一、前のマンションの名前は覚えていなかった。他の記憶も曖昧だった。
「引っ越してもユウタ君とマアチャンはずっと友達よ」
そう彼の母親が言っている間もマアチャンは右のマンホールの蓋にチョークを思い切りなすり付けていた。僕もぼんやり蓋の隙間にねじりこんでいくチョークの粉を眺めていた。それが前の家でのわずかな中の最後の思い出だ。
アカデミーハイツの目の前には公園があった。鉄棒、ブランコ、砂場そして切り株風
に造られているトイレ。それだけしかないちんけな公園だ。切り株には横枝が生えていて
そこに二匹リスのオブジェが乗っているのが公園の質の低さをより際立てていた。もちろ
んそれも僕は気に入っていた。二匹のリスの間に足を掛けると切り株トイレの上に登れた。
大体一メートル半くらいの高さがあってなかなかの見晴しを誇っていた。これはたっちゃ
んに教えてもらったことだった。
たっちゃんは二〇四号室に住んでいる同い年の少年で、二〇四号室の前には丁度階段が
あったので僕の住んでいる三〇四号室との優れたアクセスを理由に仲良くなった。
 たっちゃんは生まれてからアカデミーハイツ暮らしでそこでの楽しみ方を熟知していた。
あのお粗末な公園であんなにはしゃげたのは全くもって彼のおかげであった。切り株の展
望台から勢いをつけて飛ぶと塀を超えて公園の横にある寺の墓場に行くことができた。初
めて一人で公園で遊んだ時、たっちゃんはいとも簡単に切り株から「谷村家之墓」に飛び
乗って見せた。
「やってみたら簡単だよ。俺の妹だって楽勝だった」
 僕はたっちゃんの言葉を信用できなかった。僕には運動神経も勇気もなかったし、こ
―――――――――――――― 9 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.13
の時ばかりは人を信じる心も失っていた。たっちゃんの手招きは罠でしかなくて、励まし
の言葉は詐欺の手口に思えた。トイレに登るだけでもかなり神経をびくつかせたというの
に、そこから飛べとは無茶だ。もうリス経由で地上に降りたい。
「お墓にいくとなにかあるの?」
 僕は大した利益のないことなら難癖をつけて帰ろうと思った。ほぼ初対面の少年に絆
されて足でも挫けば馬鹿な話だ。
「いや何もないよ。ぐるっと墓場を回って飽きたら寺の門から出る」
 利益はゼロだった。僕が面喰って唇を震わせていたら、たっちゃんはしゃがみ込んで
墓石の裏側を指でなぞりながら眺めた。
「谷村純一が怒り出すから早くしろ」
「悪いけどこわい」
僕は情けない気持ちを抑えて白状した。
「ユウタのユウは勇気の勇じゃないのか?」
「悪いけど優しいの方」
 たっちゃんは僕を軽く一瞥して墓石をぺしゃりと叩いてから飛び降りて寺のある方向
に走っていなくなってしまった。置いて行かれた。益々情けなくなってやっぱり嘘をつい
て家に帰ればよかったと思った。嘘をついて雄大の雄とでも言えばよかったとも思った。
その反面弟のシュウタを連れて二かくてよかったと安心していた。シュウタに見損なわれ
るのも嫌だったし、シュウタなら墓石に乗り移れた可能性があったからだ。僕よりも彼の
方が三つも下だったがよっぽど運動神経が良かったのだ。
たっちやんに今度会う時までに飛石練習をしておこう。学校の体育館のマットで練習す
れば怪我することはないだろう。あまりに惨めな思考を巡らしていると墓場の石塀が、がつ
がつ鳴った。
「今目のところはこれ使えよ」
 たっちやんが梯子を石塀打ち付けて僕に怒鴫っていた。僕がまた面喰って唇をぶるぶる
といわせていたら、たっちやんは首を左右に曲げて肩をぱきぱきいわせた。それが寺かど
こかから梯子を運んできたからこっちは肩が凝ったぞというサインだと気付いたのは次の
日の登校中たった。
「ごめん。置いてかれたと思った」
「いや、まあいいんだよ。本当は妹は二回落ちて足挫いてるし」
 僕は少し安心して大きく深呼吸してから石塀の上に渡った。塀に来るのは簡単だった。
これなら塀に一旦乗ってから墓石に乗れば大丈夫たったかも知れない。一気に墓石に飛び
移ろ正攻法しか考えていなかった自分に少し誠実さを感じた。
 梯子は全部降り切らないで二段分残してジャンプした。やっとたっちやんの友達になれ
た気がした。たっちやんは塀に立掛けた梯子を取り外し肩に担いだ。
「ほんとに何も面白いもんとかないの?」
 せっかく訪れた新境地に欲張りにも僕は収穫を求めた。
「墓と梯子くらいしかないよ」
 たっちやんは表情も変えないでそう言い放った。僕は洒落たこと言うよなと思ったが、
言えた義理ではないという分別はあったのでたっちやんの後ろに回って梯子を担いだ。
1953年当時、村には公園はなかった。学校の校庭が公園の代わりだった。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.13 ――――――― 10 ――――――――――――――――
3.特集「東北紀行」20頁(写真含む)
秋田角館に熊谷元一写真童画展を見に行く
旅日誌 ・・・東京駅 → 平泉 → 花巻 → 田沢湖 → 秘湯乳頭温泉
        → 方分校 → ぷかぷ館
平泉 = 写真 コメント  
花巻 = 取材写真、コメント
宮沢賢治記念館 コメント  
田沢湖=遊覧船写真 コメント
秘湯乳頭温泉 = 写真、宴会風景、合流組との全員写真 コメント
・方分校見学・・・・・・・・・・・・・・会地小学校との写真比較 コメント
・「熊谷元一写真・童画展」・・・・・・・・見学写真、パンフレッド コメント
・新聞・・・・・・・・・・・・・・・・・朝日新聞秋田局の記事紹介 コメント
4.世界線上としての熊谷元一 20頁(年譜含む)
米国作家サローヤンとの比較で
サローヤンの略歴 熊谷元一の略歴と比較
『我が名はアラム』感想  故郷回帰と熊谷の故郷記録にみる回想
 
―――――――――――――― 11 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.13
熊谷元一研究
写真編 岩波写真文庫『一年生』検証と謎解き
『一年生』には、大きな謎がいくつもある。1つ1つをあげて解明をこ試みたい。
謎1. 表紙写真の謎 表紙・裏表紙の写真。入学式の写真。撮影年月日は昭和29年と記されている。中身は28年入学の子どもたちである。なぜ、入学式の写真だけが一学年下の29年の親子か。
1955年に刊行された岩波写真文庫『一年生』に写されている子どもたちは、ほとんどが熊谷が受け持った東組一年生と隣西組クラスの一年生である。
よって入学した1953年(昭和28年)4月1日~1954年(昭和29年)3月30日の間に撮ったものである。
が、上の写真文庫『一年生』の表紙作品の子どもたちは、一学年下の1954年入学こどもたちである。(被写体・下原証言)なぜ、熊谷は、1年のはじまりである入学式の日、受け持つ子どもたちの晴れ姿をカメラに収めることができなかったのか。左下の写真も同じである。在校生に迎えられて講堂に入ってきた一年生。この子どもたちも次年度の子どもたちである。肝心かなめの「一年生」撮影開始のこの日、熊谷は何故にシャッターを押さなかったのか。そのことについて、生前、聞き忘れてしまったことが悔やまれる。1953年4月1日、私(下原)は、この日、入学した。が、担任の男先生(熊谷)のことは記憶にない。
                          肝心のこの日、熊谷はなぜ ?
謎2 .熊谷の名を世に知らしめたのは、「コッペパンをかじる少年」の写真である。なんでもない給食時の光景だが、この写真は奇跡の場面といえるのである。
 ちなみに、この写真に対するメディアの感想・評価はこのようであった。
2頁の写真「コッペパンの少年」は、熊谷の代表作である。1953年(昭和28年)、長野県下伊那郡會地村(現阿智村)・会地小学校一年東組教室内にて撮影されたもの。
 1955年第1回毎日写真賞受賞作品・岩波写真文庫『一年生』に所収。写真界の金字塔とも言われる『一年生』にあって、このコッペパンにかじりつく少年の写真は、あまりにも有名だ。江戸東京博物館はじめ山形県酒田市写真美術館や東京都清瀬市郷土資料館など、これまで多くの公共、私設の施設で熊谷元一写真展が開催されてきた。その都度、宣伝されたポスターには、いつも拡大されたこの写真があって見る人の目を引いた。
 この「コッペパンの少年」について、熊谷元一研究家である国立静岡大学教授・矢野敬一氏は、著書『写真家・熊谷元一とメディアの時代』の「プロローグ 記録する視線記憶された昭和」の冒頭において、次のように書いている。
 一枚の写真、大きなコッペパンにかじりつく少年のまなざしはどこに向けられているのか、それはわからない。しかしその表情の真剣さに、写真を目にする者は誰しもがほほえましい気分になるだろう。食べるということに、はたして飽食の時代の子どもたちはこれほどに真剣な面差しを浮かべるだろうか。写真に写し出されているのは「昔」だが、大正
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.13 ――――――― 12 ――――――――――――――――
や明治といった遠い過去のことではない。学校でパンを食べることができるようになったのは、いうまでもなく戦後のことだからだ。ちょつと年配の者ならば、ふっと自分の幼かったころのことを思い起こすかもしれない。モノクロームの世界に写し込まれた、貧しかったが心豊だった時代。そんなノスタルジックな気分を写真は喚起してくれることだろう。
・・・略・・・「昭和」という時代の共有された記憶がこの写真には象徴されている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 著者は、この写真に「過ぎ去った昭和」と言う時代への懐古。あの狂騒的な高度経済成長前の甘酸っぱい懐かしさを感じながらも、冷静に客観視している。
 
しかしそうした普遍性の一方で、この写真を規定する具体的な時代性、地域による固有性についても見落とすべきではない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 として、被写体や時代をしっかり見据えその分析、考察を行っている。その結果、「同じ写真であっても時代によって異なった受け止め方がされている。」ここでは、この「コッペパンの少年」に終始するが、このような真実も明らかにしている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 少年が口にするパンは、実は給食のものではない。当時の会地小学校の給食は味噌汁だけだった。四方を山に囲まれた山国の村で農業を営む家に生まれ育った児童が多くを占めていたなか、昼食にパンを持参できるのは非農家の子どもに限られていて羨望の対象だった。(この指摘通り当時、農家の子にとってパンは手の届かない食べ物だった)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【43年後の被写体の証言】
 私の一番の思い出は、何かトレードマークのようなコッペパンの写真です。この写真のお陰で、私の顔を知らない方でも思い出してくれる有り難い写真です。今、あの時どのように写されたのか思い出すことはできません。
 私は家庭の事情により、小学校三年の二学期かと思いますが、名古屋へ転校しました。そして、現在、岐阜の地で、会地のことはすっかり忘れていましたが、(この写真で)昔の事を思い出す事が出来、こんなに素晴らしい過去(一年生)があったのかと改めて感謝した次第です。
    (記念文集『五十歳になった一年生』から)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
編集室便り
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑