文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No201

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2012年(平成24年)10月22日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.201
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              

編集発行人 下原敏彦

                              
9/24 10/1 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 
1/21 1/28
  
2012年、読書と創作の旅
10・22下原ゼミ
10月22日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室
1. ゼミ雑誌編集作業についての報告
 2. 最後の車内観察作品の読みテキスト『灰色の月』
 
 3. 広島幼女誘拐事件について 検察、弁護の見方を書く
 4. 裁判員裁判として出廷したら、
 5. 『兒を盗む話』読み 課題2.「尾道幼女誘拐事件裁判」脚本化作成
10月ゼミ雑誌編集月間
ゼミ雑誌『正体不Show time』編集作業順調に
10月15日の出席者は、約半数の6名だったが、ゼミ雑誌編集は、順調。以下はゼミ雑誌掲載原稿のうち自由部門11作品です。(他、車内観察作品、各1本、計11本有り。)
■古谷麻依作「ハルシオン・デイズ」    ■根本留加「狭間の夢」
■鞆津正記「インターセプター」      ■後藤啓介「シンデレラマザー」
■矢代羽衣子「ぼくがかいじゅうになった日」■山野詩門「猫の話し」
■小妻泰宗「実録 ! 人食い屋敷」 ■吉岡未歩「夏の穂」
■梅津瑞樹 脚本・「神様システム」     ■志村成美「雑音ボイス」
■石川舞花「運命の果て」
編集委員からの追記   部数は100 ~ 120部に
石川編集長からの連絡は、このようでdq
。「ページ数が予定より多くなり、予算がギリギリです。 2段組にして、字を小さめにし


て、工夫をすることに話し合いましたが、100~120部位になりそうです。」
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.201 ―――――――― 2 ―――――――――――――
ゼミ誌掲載作品の合評(出席者の作品)
 15日のゼミは、出席者6名の作品の合評を行った。ゼミ誌掲載用に提出された原稿は、全体的に「世にも不思議な物語」的オカルトものが多かったように思う。が、想像力と文章力はある。
■古谷麻依「ハルシオン・デイズ」    
 幼い頃、両親を交通事故で亡くした兄弟。兄は、弟の面倒をよくみてきた。だが、その兄は、弟が中学に入ったとき自殺した。なぜか。読み進めるうちに謎は、絡んだ糸が解けるように解けていく。が、そこは・・・
作者感想「映像を思い浮かべて書いた」
合評「平凡な意外性だけれども、物語には、引き込まれる」
■鞆津正紀「インターセプター」      
 彼女らのルーツは、古くはかぐや姫にまで遡るーーー突然空から降って来る美少女の正体は。高校教師の本業は・・・冒頭からSFチックなアニメ映像を連想させる展開。ゲームセンターの世界に入り込んでしまった錯覚がある。
作者感想「書きたいものを意識した。想像したものを描けくことができた」
合評「物語や人物の設定は突飛だが、話は解り易かった」
■後藤啓介「シンデレラマザー」
心の持ち方で時間は変わる。相対性理論をモチーフにした愛
作者感想「はありません」
合評「作者は、長いものも書いているから文章は、書きなれた感じ。あとは構成か」
■梅津瑞樹 脚本・「神様システム」    
近未来社会、市民は監視のなかで生活している
作者感想「久しぶりに書いた作品。最後まで書けた」
合評「特徴のある、内容、文体、」
■志村成美「雑音ボイス」
 雨の夜、私は、一人で受験勉強していた。そこに訪ねてきたのは・・・
作者感想「以前、マンガに描いたものを、今回文字としてあらわした」
合評「途中から、どんな結末かみえてきたが、最後までひきつける文章力がある」
■石川舞花「運命の果て」
作者の感想「脚本的なものを小説作品にした」
合評「小説より、完全に脚本にした方が、わかりやすかったかも」
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課題1.発表 2012年夏の後半、若者の女児誘拐事件が続いた。
 逮捕された容疑者は、「女の子に興味があった」「刑務所に行きたかった」と供述した。取調室での容疑者(大学2年生)の胸中を想像観察して書く。
犯人は、東京に住む20歳の大学2年生。夏休みを利用して自動車の運転免許を取るため、広島にいた。この日は仮免が合格した日。ちなみに広島は少年時代住んだことがある。
女児は、乗車したタクシーの運転手のお手柄で奇跡的に救出された。
タクシー運転手の証言
「客のバックをトランクにいれたとき、妙に温かく柔らかかった。犬かなにかの動物かと思った。交差点で止まったとき声が聞こえた。逃げようとする客を捕まえ、バックを開けると女の子が出てきた」(新聞・テレビから)
警察署の取り調べから(新聞)「下原ゼミ通信198」掲載の記事から
 誘拐目的 → 刑務所に行きたかった (いたずらも疑い)
【架空捜査】
刑事「あなたは9月4日夜、広島市内において塾帰りの女児をナイフで脅しバッグの中に入れてホテルに連れ込もうとした。幼児誘拐は重罪です。犯行の目的は ? 」
石川舞花捜査官「容疑者からとった調書です」
「現実の生活から逃げたかったから」が最大の動機か
 刑務所に行きたかったから誘拐しました。
 誰でも良かった。何の犯罪でも良かった。ただ日常生活に疲れてしまって、今の現実から逃げだしたかった。なるべく長く刑務所にいたいと思ったので、罪が重そうな誘拐を選びました。
 被害者の女の子には申し訳なかったと思っています。初めから殺すつもりはなかった。誘拐して通報されて逮捕されればそれでよかった。女の子に一生に残る心の傷を負わせてしまって本当に申し訳なかったです。もう、生きている意味はないと思っています。いきていても、どうにもならないのならいっそ死んでしまいたい。
○検察官なら、どう公訴しますか
○弁護するなら、どのように弁護しますか
○裁判員なら、その量刑は
○再犯を心配するかしないか
○するなら、今後の対応・処置は
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テキスト研究 志賀直哉文学・車内観察作品のなかでの最高峰は『灰色の月』ですが、この作品は日本文学のなかでも名作といわれています。後期は、創作事件もの観察作品にはいりますが、車内観察作品の〆として読んでみます。(評は199号に掲載)
灰色の月
志賀直哉
 東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套で丁度よかった。連れの二人は先に来た上野まわりに乗り、あとは一人、品川まわりを待った。
 薄曇りのした空から灰色の月が日本橋側の焼跡をぼんやり照らしていた。月は十日位か、低くそれに何故か近く見えた。八時半頃だが、人が少なく、広い歩廊が一層広く感じられた。
 遠く電車のヘッドライトが見え、暫くすると不意に近づいて来た。車内はそれ程込んでいず、私は反対側の入口近くに腰かける事が出来た。右に五十近いもんぺ姿の女がいた。左には少年工と思われる十七八歳の子供が私の方を背にし、座席の端の袖板がないので、入口の方へ真横を向いて腰かけていた。その子供の顔は入って来た時、一寸見たが、眼をつぶり、口はだらしなく開けたまま、上体を前後に大きくゆすっていた。それはゆすっているのではなく、身体が前に倒れる、それを起こす、又倒れる、それを繰返しているのだ。居眠りにしては連続的なのが不気味に感じられた。私は不自然でない程度に子供との間を空けて腰かけていた。有楽町、新橋では大分込んで来た。買出しの帰りらしい人も何人かいた。二十五六の血色のいい丸顔の若者が背負って来た特別大きなリックサックを少年工の横に置き、腰掛に着けて、それにまたぐようにして立っていた。その後ろから、これもリックサックを背負った四十位の男が人に押されながら、前の若者を覗くようにして、
「載せてもかまいませんか」と云い、返事を待たず、背中の荷を下ろしにかかった。
「待って下さい。載せられると困るものがあるんです」若者は自分の荷を庇うようにして男の方へ振り返った。
「そうですか、済みませんでした」男は一寸網棚を見上げたが、載せられそうにないので、狭い所で身体をひねり、それを又背負ってしまった。
 若者は気の毒に思ったらしく、私と少年工の間に荷を半分かけて置こうと云ったが、
「いいんですよ。そんなに重くないんですよ。邪魔になるからね。おろそうと思ったが、いいんですよ」そう云って男は軽く頭を下げた。見ていて、私は気持よく思った。一頃とは人の気持も大分変わってきたと思った。
 浜松町、それから品川に来て、降りる人もあったが、乗る人の方が多かった。少年工はその中でも依然身体を大きくゆすっていた。
「まあ、なんて面をしてやがんだ」という声がした。それを云ったのは会社員というような四、五人の一人だった。連れの皆も一緒に笑いだした。私からは少年工の顔は見えなかった
が、会社員の云いかたが可笑しかったし、少年工の顔も恐らく可笑しかったのだろう。車内
には一寸快活な空気が出来た。その時、丸顔の若者はうしろの男を顧み、指先で自分の胃の所を叩きながら、「一寸手前ですよ」と小声で云った。
男は一寸驚いた風で、黙って少年工を見ていたが、「そうですか」と云った。
笑った仲間も少し変に思ったらしく、
「病気かな」
「酔ってるんじゃないのか」
こんなことを云っていたが、一人が、
「そうじゃないらしいよ」と云い、それで皆にも通じたらしく、急に黙ってしまった。
 地の悪い工員服の肩は破れ、裏から手拭でつぎが当ててある。後前に被った戦闘帽のひさ
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しの下のよごれた細い首筋が淋しかった。少年工は身体をゆすらなくなった。そして、窓と入口の間にある一尺程の板張りにしきりに頬を擦りつけていた。その様子が如何にも子供ら
しく、ぼんやりした頭で板張りを誰かに仮想し、甘えているのだという風に思われた。
少年工は返事をしなかったが、又同じ事を云われ、
「上野へ行くんだ」と物憂さそうに答えた。
「そりゃあ、いけねぇ、あべこべに乗っちゃったよ。こりゃあ渋谷の方へ行く電車だ」
 少年工は身体を起こし、窓外を見ようとした時、重心を失い、いきなり、私に寄りかかってきた。それは不意だったが、後でどうしてそんな事をしたか、不思議に思うのだが、その時ほとんど反射的に寄りかかってきた少年工の身体を肩で突返した。これは私の気持を全く裏切った動作で、自分でも驚いたが、その寄りかかられた時の少年工の抵抗が余りに少なかった事で一層気の毒な想いをした。私の体重は今、十三貫二三百匁に減っているが、少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。
「東京駅でいたから、乗越して来たんだ。―― 何処から乗ったんだ」私はうしろから訊いて見た。少年工はむこうを向いたまま、
「渋谷から乗った」と云った。誰か、
「渋谷からじゃ一回りしちゃったよ」と云う者があった。
少年工は硝子に額をつけ、窓外を見ようとしたが、直ぐやめて、漸く聞きとれる低い声で、
「どうでも、かまはねえや」と云った。
少年工のこのひとり言は後まで私の心に残った。
 近くの乗客たちも、もう少年工の事には触れなかった。どうすることも出来ないと思うのだろう。私もその一人で、どうすることも出来ない気持だった。弁当でも持っていれば自身の気休めにやることも出来るが、金をやったところで、昼間でも駄目かも知れず、まして夜九時では食い物など得るあてはなかった。暗澹たる気持のまま渋谷駅で電車を降りた。
 昭和二十年十月十六日の事である。
                   (『志賀直哉全集』を現代読みに・編集室)
 
 『灰色の月』は400字詰め原稿用紙にして僅か6、7枚の作品である。見方によれば、エッセイのような小説とも呼べない小話である。だがしかし、この作品は、数百枚の作品以上の重みや憤怒を潜ましている。時代の声を訴えている。そこに、この作品の普遍性と名作といわれる所以がある。
 たんに面白いだけの小説、昨今流行の感動もの。それらはどんなにベストセラーであったても時代の流れとともに消え去るだけ。『網走まで』や『灰色の月』は、何の変哲もない短編。だが、両作品とも文学の手本として、こうして読み継がれている。
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社会観察 先日、国会議員が揃って靖国神社を参拝した。なぜ、国会議員は、参拝したがるのか。選挙が近くなったせいか。
■靖国参拝問題■
 この問題は、1985年中曽根首相のとき合祀参拝を公式拝行事としたため外交問題となるようになった。それ以降、毎年8月15日が近づくと賛否の騒ぎになっていた。が、小泉政権になってからは、参拝を公約したため通年の問題となり、中国、韓国の反感をいっそう買うようになった。自分ちの墓参り、歴史事で人からとやかく言われたくない。いや、過去の侵略戦争に気遣うべきだ。目下、喧々諤々ではある。
 この問題、ゼミでもときどき話し合っている。過去には「参拝はかまわないのでは」という人が多かった。が、揃っての参拝行動については、「やめた方がよい」が多かった。ちなみに、過去の朝日新聞の電話世論調査は、「やめた方がよい」52%、「続けた方がよい」は36%だった。が、尖閣問題が深刻になってきた今年は、どうか。
 今、この問題は、日本のアジア外交のトップにあることからとりあげた。
 まず基本的なことからはじめてみたい。はじめに豆知識として「靖国神社とは何か」を靖国神社HPで調べてみた。以下の通りである。
■靖国神社(正確には靖國)=国家を安泰にする、の意味。(大辞林)
 明治2年(1869)6月29日 明治天皇の命により「東京招魂社」として建立される。
        戊辰戦争(1868)の明治政府軍の戦没者を祭るために。
 明治12年(1879)「東京招魂社」を「靖国神社」と改称。
 昭和34年(1959)最初のA級戦犯合祀。
 昭和53年(1978)東条英機ら14人のA級戦犯を合祀。
靖国神社には、平成16年10月17日現在、246万6532柱の御霊が祀られている。
日本の国のために死んだ軍人・軍属・それに準ずる文官、民間、学徒である。内訳は以下。
・戊辰戦争7751柱 ・西南の役6971柱 ・日清戦争1万3619柱 台湾出兵1130柱
・義和団事変1256柱 ・日露戦争8万8429柱 ・第一次世界大戦4850柱 済南事変185
・満州事変1万7176柱 ・日中戦争19万1250柱 ・大東亜戦争213万3915柱
中国など周辺国が問題にしているのは、この中に、14人のA急戦犯が入っていることもある。A級戦犯とは、東京裁判で判決が決まった人たちのことで、東条英機、広田弘毅はじめ7人が絞首刑になった。このA級戦犯はじめ極東アジアで裁判にかけられた軍人軍属も合祀しようという運動が1956年ごろからはじまり、1978年10月17日に国家の犠牲者「昭和殉難者」として合祀されることが決まった。
しかし、翌年79年4月19日にマスメディアの知るところとなり、以後、宗教問題としても論争されるようになった。(靖国神社HPより)
現在、分祀案もでている。
【靖国問題について】
○ 靖国神社に行ったことがあるか →  ある   ない
○ 靖国問題に興味あるか → ある  あまりない  まったくない
○ 靖国神社ついて知っているか → ほとんど知らない  知っている
○ 参拝について → 公人は反対  自由私
○ 分祀について → A級戦犯、東京裁判をもう少し知る必要がある  かまわない
参拝賛否は現在の問題だが、問題行為は半世紀以上も前である。
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歴史観察 目下、日中関係は険悪な状況になっている。なぜ、こうなったか。一つには歴史教育の表れである。現在、中国で抗日の中心は若者だという。彼らは学校時代、教科書で反日教育を学んだ。その知識が、政治不満によって大きくなった。そんな見方がある。反対に、日本の若者は、選択制度もあるせいか日本史を知らない人も増えてきた。
 そんな社会状況を汲んで、戦争観察の名作ルポを紹介する。もっともルポ―タージュといっても、当時は軍に支配されていたこともあり、創作ルポとなっている。
戦争観察作品『生きている兵隊』
石川達三の『生きている兵隊』。この作品は、日本において創作ルポタージュ文学の最高傑作といえる。テキストの車中作品は、車両という限られた空間のなかでの静止状態の人間を観察していますが、戦争観察は、戦地という非日常での中で動く兵隊を観察しています。狙いは、戦争とは何か。戦地では普通の人間が、どう変わるのかを知ることです。
『生きている兵隊』は、ドストエフスキーの「人間はなんでもできる。なんにでも慣れる」を実証する人間観察作品としても優れている。また、靖国問題、教科書問題、アジア外交など問題山積の今日において、歴史認識においても重要な作品といえる。
しかしこの作品の作者、石川達三について、知っている人はあまりいません。40余年前までは日本ペンクラブの会長だった作家。またその作品の多くが映画化された人気作家でしたが、本屋の棚には、ほとんど見かける事はありません。
石川達三(いしかわたつぞう)1905-1985 秋田県生まれ。早大中退。1930年ブラジルに渡る。1935年『蒼氓』で太宰治など並み居る流行作家を抑えて第1回芥川賞受賞。『生きている兵隊』当時の新聞紙法で発禁処分。禁固4ヶ月、執行猶予3年の判決。日本ペンクラブ会長のときに思想表現の自由は一つだが、猥褻表現の自由は二つ発言で物議。五木寛之、野坂昭如ら若手作家につきあげられて辞任。
創作ルポの傑作・石川達三著『生きている兵隊』について
 社会の中で戦争は大きな事件・出来事である。戦争とは何かを知るには、徹底した戦争観察が必要である。今日、マスメディアの発達によって私たちは茶の間で戦争を見ることができる。レポートを聞くことができる。しかし、どんなにリアルな映像も、迫真の実況も石川達三の『生きている兵隊』ほどに戦争と人間の関係を教えてくれない。戦争という現場で、人間はどう変わるのか。本書は、そのことを見事に捉えた戦争観察の名著である。
なぜ創作ルポか
はじめに、このルポタージュは、なぜ創作なのか。それは、この作品が1938年(昭和13年)に書かれたことにある。当時の日本は軍事国家、ファシズム国家である。軍に都合の悪いものは、書けないし書いても没にされた。ゆえに本書でも(前記)で「日支事変については軍略その他未だ発表を許されないものが多くある。」と断っている。もっとも、ファシズムや独裁政権でなくても戦争のノンフィクションものはむずかしい。ベトナム戦争でアメリカはなぜ負けたのか。ペンタゴンや米情報局は敗因の一つに、マスメディアを自由にさせたことをあげた。出撃から就寝まで、米軍兵士の行動はなにもかも筒抜けだったというわけである。その反省をかつて今のイラク戦争では、メディアはすべてが軍の規制下にあるという。このことを思えば、当時の軍国日本において、創作ルポは、まったく当たり前なことだったに違いない。作者石川は(前記)でこうつづけている。「従ってこの稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由に創作を試みたものである」と。
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現在、日本が抱える外交問題の一つに南京大虐殺がある。はたしてジェノサイド、大量殺戮はあったのか、なかったのか。72年の歳月が流れても日中間では、未だ真相不明の歴史の謎となっている。毎年、教科書が出版されるたびにもめる原因の一つともなっている。
ちなみに先般出版の扶桑社『新しい歴史教科書』(2001年版)には、この事件についてこう書かれてある。(教科書文は太字)
日中戦争
 関東軍など現地の日本軍は、満州国を維持し、ブロック経済圏を建設するために、隣接する華北地域に蒋介石政権の支配のおよばない親日政権をつくるなどして、中国側との緊張が高まっていた。また、日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937年(昭和12年)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。(最近になって、この発砲事件は日本軍の自作自演と解明された。1965年ベトナム戦争の発端となったトンキン湾事件も同様とみられている。)翌朝には、中国の国民党軍との間で戦争状態となった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
 同年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり(これも、やらせか)これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者がでた。南京事件) 12月12日日本軍南京を攻略した。
 1937年12月25日に新進作家石川達三(32)は東京を発つ。1938年1月5日上海経由で南京着。南京で8日間、上海で4日間取材する。
社会観察・戦争ルポ解析       『生きている兵隊』を読む
 石川達三は、この作品を1938年(昭和13年)2月1日から書きはじめ、紀元節の未明に脱稿した。「あるがままの戦争の姿」を知らせたくて書いた。330枚必見の戦場ルポ。
 1937年7月7日から日中戦争がはじまったことから大日本帝国は、9月25日言論統制のための内閣報道部設置。11月大本営が宮中に設置した。ゆえに、この作品は創作ルポの形をとり「部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい」とした。
                  一
 高島本部隊が太沽(タークー)に上陸したのは北京落城の直後、大陸は恰度残暑の頃であった。汗と埃にまみれた兵の行軍に従っておびただしい蝿の群れが輪を描きながら進んで行った。
 
 まず作者は最初の1行において、これは創作であると表明した。おそらく言論統制を意識においていたものと見られる。最初のこの文からわかることは、これを書いた従軍記者は北京陥落直後、タークーの上陸部隊にいた。季節は夏の終わりか。
しかし、実際の作者は真冬に中国に行った。当然、内閣報道部は知っているはずで、そんなところから、この作品が即、創作とわかるはず。が、たった二、三行ではあるが、行軍する兵の様子が臨場感よく描けている。除州、除州と人馬は進む。こんな光景が浮かぶ。
それから子牙河の両岸に沿うて敵を追いながら南下すること二ヶ月、石家荘が友軍の手に落ちたと聞いたのはもう秋ふかい霜が哨兵の肩に白くなる時分であった。
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先に残暑の頃とあったから8月中旬以降だろうか。従軍記者のいる部隊は、ひたすら時の首都南京を目指して南下していく。が、ルポは、一気に二ヵ月後である。この間、何があったのか。「敵を追いながら」とあるから、ときどき戦闘をしてということだろうか。しかし、二ヶ月の空白は長い。読者は、すでにこの作品が従軍記ではなく創作ルポであることを理解
する。作者も大本営の報道部がそうとってくれるよう暗に願っていたかも・・・。
いずれにせよ、この作品はノンフィクションではなく創作作品である。作者は、冒頭の数行でそのことを知らせ、以降、自分の目で見、耳で聞いたことを検閲を想定しながら書いていったに違いない。そのように編集室は読む。ちなみに、作者は回想で「作中の事件や場所は、みな正確である」としている。
高島本部隊は寧晋(ネンシン)の部落に部隊「師団」集結して次の命令を待ちながら十日間の休養をとった。その間に中隊ごとに慰霊祭が行われた。二人の中隊長は戦死し歩兵は兵力の十分ノ一を失っていたが、補充部隊が来るという話しは聞かなかった。
ここから、はじめて部隊の実況がはじまる。この部落に着くまでの二ヶ月、前文ではあっさり飛ばしてしまったが、「二人の中隊長の戦死」「兵力の十分ノ一を失って」と知れば、この二ヶ月間は、いかに激戦に継ぐ激戦があったとわかる。しかし、補充部隊は来ず、かつ慰霊祭を行ったとあるから、日本軍には、かなり余裕があった、と推測される。その余裕で、赤紙で召集されていった日本兵、すなわち平凡な一市民たちは、戦場でどう変わっていったのか。作家の目は、その地での出来事へと移っていく。
部「聯」隊本部に宛てられた民家のすぐ裏から急に火の手が上がった。夕陽の射していた本部の窓を濃い煙の影がすさまじく走った。
 火事の描写は簡潔である。無駄がない。作者・石川達三は2年前に第1回芥川賞を受けた。落選した有名作家たちは、どこの馬の骨かも知れぬ奴に、と口惜しがったというが、この作家がこれまでの私小説作家と違うのは、その観察力にある。貧しいがゆえに、日本を見限り、また日本から捨てられて、はるか遠く地球の裏側に希望を託す人々。彼らの旅を冷静に観察した作品『蒼氓』。作者は、日本国民の哀しみと絶望を訴えた。貧しきものは日本では生活できないのか。なんとかしろ、と。しかし、その何とかは、他国に侵略することだった。作者は、大いなる皮肉を感じながらもこの仕事を引き受けたに違いない。従軍した有名作家たちが送ってくる現地報告。「俺が全然こんなのとは違った従軍記を書いてみせる」。ほんとうの「戦争とはこんなものではない」ということをみせてやる。
 最初にかけつけた笠原伍長と部下の二人の兵とが現場をうろついていた一人の支那人を捕えた。二十二三の青年で貧しい服装をしており、首筋も手足も垢でまだらになっていた。
 作者の目は、出来事から兵士観察へと移る。捕えられた中国人の青年にも。戦争さえなければ、日本が侵略さえしなければ、友人になれたかも知れぬ二人。だが、侵略された者と守る者、両者に妥協はない。
「?(ニイ)!』と笠原伍長は怒鳴った。しかし訊問するだけの支那語は知らなかった。彼は鼻水をすすり上げながら部下に言った。
「お前な、本部の通訳さんを呼んで来い」
 兵が走り去ると笠原は道に投げ出してあった甕に腰をかけて火事を眺めはじめた。炎は壁づたいに二階の天井を這い棟に達していた。瓦と瓦との間が白熱の色に光りはじめ、窓の中は炎が渦を巻いて流れていた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.201 ――――――― 10 ――――――――――――――
「よく燃えるなあ。熱いなあ」
 今一人の兵は両手をかざして火鉢にあたる恰好をしながら支那人の顔を眺めて言った。
「こいつ、やりそうなつらをしてやがる」
 通訳を必要とする戦争。話し合いのない人間関係。火事とはいえ、火の熱さで暖をとる。なにか懐かしい光景でもある。話でもしたくなる。しかし、そこにはもう敵という人間しかいない。「本部の通訳さんを呼んで来い」なんと悲しい会話であるか。
突然、村にやってきた日本兵たち、この中国人青年の口惜しさ無念さは想像できるが、攻め入った地での日本兵の気持はなかなか想像できない。捕えた青年をどうするのか。
 青年は二人の兵の傍にぽつねんと枯木の様に立っていた。表情のない顔、痩せた、どこか呆けた顔つきであった。ぞろぞろと七八人の兵が集って来てこの青年をとり巻いた。
 中橋通訳は拳銃を肩にかけ両手をポケットに入れ皮のゲートルをつけて肩をゆすりながら歩いてきた。
 晩秋のある村の部落。夕陽がきれいだった。しかし、立ちのぼる火事の炎と煙り。火付けの犯人の青年を取り囲む日本兵たち。緊迫感が漂う光景である。短い文章だが、通訳の横柄さもよく描けている。
「こいつがやったんかね」
「そうらしいんだ。一つ訊問して呉れ。ふてえやつだよ。本部を焼こうなんて…」
 通訳は咥(くわ)えていたマッチの軸を吐き出すと二こと三こと厳しく何か言ったが青年はじろりとかれを睨んだまま黙っていた。彼は軽く肩を突き飛ばしながら猶も訊問を繰返した。すると青年が静かな声で短い返事をした。不意に通訳はぴしりと激しい平手打ちを頬にくれた。青年はよろめいた。燃えさかる炎の中から棟の瓦がひと塊りどどッと崩れ落ちた。見ていた兵が言った。
「何て言うんだね通訳さん」
「こいつ奴、自分の家に自分で火をつけたんだから俺の勝手だって言やがる!」
「自分の家に自分で火をつけんだから俺の勝手だ」。通訳はこう訳した。が、青年はもしかしてこう言ったのかも知れない。「他人の国に勝手に入り込んで何を言うんだ」と。
 甕(カメ)に腰かけて火事に暖まっていた笠原伍長はすっと立ち上がると青年の腕をとらえて歩きだした。
「来い。快々的(カイカイデー)!」
 青年は素直に歩き出し、二人の兵がその後に従った。十歩ばかり行くとか笠原は振り向いて中橋通訳の方を見かえりにやりと意味ふかく笑った。
青年の反抗的な態度は当然である。突然現れた異国の軍隊。彼等が勝手に我が家に居座ったのだ。正義は我にある。青年の信念は揺るがない。しかし戦争は法も善もない。戦略と非情があるのみ。笠原伍長と中橋通訳の隠微な笑みのやりとりに読者は青年の運命を知る。
一町も歩くと部落をはずれて四人は楊柳の並んだクリークとその両岸にひろがった田圃との静かな夕景色の中に出た。陽は落ちて空は赤かった。クリークの水に赤い雲の影が静かに映っていて、風もない和やかな秋であった。点々と農家はあるがどこにも人影はなかった。彼等は幾つかの支那兵の死骸を飛び越えてクリークの岸に立った。
 野菊の残りの花が水面に近く群れ咲いており、田圃にある砲弾の穴には新しい水が丸くたまっていた。
 夕暮れ時の、のどかな田園風景。しかし、あたりは静まりかえって人影はない。そこかしこにこの国の兵隊の死体が転がっている。侵入者が勝利したのだ。
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―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.201
世界名作読み・詩編 晩秋といえば、落ち葉。落ち葉といえば失恋か ?
 前回につづいてヴェルレーヌの作品『無言の恋歌』にある「忘れた小曲 その七」を紹介します。前回同様二人の訳者のものです。訳者によって名作の印象・情景は、違うのか、違わないのか。そのへんを気にとめて吟唱してみてください。
※ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896 1月8日夜デカルト街の陋屋にて死去。51歳)
訳者・堀口大学『無言の恋歌』から       訳者・橋本一明『言葉なき恋歌』から
新潮文庫『ヴェルレーヌ詩集』1958       角川書店『ヴェルレーヌ詩集』1967
     
   忘れた小曲              たったひとりの…
    その七
たったひとりの女のために       たったひとりの  たったひとりの女のために
わたしの心は悲しかった        おお、ぼくの魂は悲しかった
胸ではどうやら忘れはしたが       ぼくはなぐさめられなかった
心も胸も彼女から            たとえ心がはなれてしまっていても
どうやら今では離れてきたが        たとえ心が  たとえ魂が  この女から 
然もわたしはなぐさみかねる        とおく逃げさってしまっていても
 
傷つき易いわたしの胸が           ぼくはなぐさめられなかった  
わたしの心に呼びかけて言う         たとえ心がはなれてしまっていても
「― 夢ではないのか、これは果たして     そしてぼくの心は
在り得ることなのか、             あまりにも感じやすいぼくの心は
こんな別離(わかれ)が ? 」          魂にむかって言うのだ、     
                       ありうることだろうか
心が答えて胸に告げる              ありうることだろうか
「――姿は見えぬ遠よそに別れていながら     ―― たとえ、そうだとしても ――
あきらめきれぬ                 こんなたけだけしい追放が
                         こんな悲しい追放が ?
 
こんな地獄があろうなぞ              ぼくの魂は心に言うのだ
自分もきょうまで知らなんだ ! 」         わたしが知ろうか ?
                         
                         ふたりは追放されている
                         遠くさってしまっているのに
                     それでいて 現にいま ふたりいっしょに
                     いるという このわながいったいふたりを
                     どうしょうとか そんなこと 
                     わたしが知ろうか ?
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.201 ――――――― 12 ――――――――――――――
後期ゼミ ゼミ誌作成 & 家族観察・模擬裁判を目指します
 9月24日 出席者 = 石川舞花、古谷麻依、志村成美、根本留加、山野詩門、
後藤啓介、梅津瑞樹 4月以来の8名でした。
            ゼミ誌原稿提出。100%近く、創作・車内観察
            課題1.「誘拐事件容疑者調書」
10月 1日 出席者 = 石川舞花、古谷麻依、志村成美、鞆津正紀、梅津瑞樹 5名
            ゼミ誌作成会議、番組表、レイアウトなど
            サバイバルゲーム「遭難、私ならどうする」個人と集団の場合
            発表と説明。内容は次号。
            課題1.提出→石川さん
10月15日 出席者 = 石川舞花、古谷麻依、志村成美、鞆津正紀、梅津瑞樹
            後藤啓介 6名
            ゼミ誌提出原稿合評6名分 部数について
           
掲示板
映 画 漫画『鈴木先生』映画化に 武富健治さん原作 絵と文
       2013年1月12日(土)公開決定 ! テレビドラマ人気で
主演・長谷川博巳 監督・河合勇人 脚本・古沢良太 制作・ロボット
映 画 岩井俊二監督、「ニューヨーク、アイラブュー」を手がける
     11人の監督で作るアンサンブル映画に参加。ドストエフスキー作品のエピソードを入れる。監督は「花は咲く」作詞、映画の代表作は「ラブレター」「花とアリス」など
お知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」ゼミ生無料
10月27日(土)開催 午後2時東京芸術劇場小会7 作品『白夜』
お誘い  2013江古田・文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」4時限
創作 → 志賀直哉の子どもの頃を描いた作品をテキストに、併せて米国作家サローヤンの『我が名はアラム』などを読み、自分の子ども時代の話を書いて発表する。
熊谷元一研究 → 写真家・熊谷の写真作品「一年生」を見ながら自分の一年生の頃を思い出しルポタージュする。郊外授業として熊谷の写真展を見に行き紀行文を書く。ちなみに2010年は山形県酒田市、2012年は秋田県角館に一泊二日。最終目標は、長野県昼神温泉にある熊谷元一写真童画館の見学。
・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・
○課題原稿、メールでも可 下記アドレス
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
課題2.
テキスト『灰色の月』感想
名前
隣の席か車内に、そんな人がいたら
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課題3.    架空資料・広島幼女誘拐事件について
この事件は、まだ裁判になっていません。自分の判断で書いてください。
検察官の公訴文
弁護の内容
裁判員の判断
裁判官の架空裁定は
課題4.   尾道幼女誘拐事件について
                          名前
テキスト『兒を盗む話』
検察官の公訴文
弁護の内容
裁判員の判断
裁判官の裁定は
連載2    学生と読む志賀直哉の車中作品       
一 志賀直哉の車中作品
 いわゆる乗り物作品は、推理ものから恋愛ものにいたるまで古今東西、いろいろな作品がある。アガサクリスティーの推理ものも面白いし、昨年か一昨年、『電車男』というのも評判になった。こうした物語作品に比べると志賀直哉の車中作品は、筋らしいスジもなく、たんに車中をスケッチしただけの退屈な作品、ということになる。「こんなものが、はたして小説といえるのか」テキスト読みしたあと、しばしばきかれる感想である。たしかに、読者を喜ばせる読物としての作品なら、その評も致し方ないだろう。
 ゼミでテキストに志賀直哉を選んだとき、周囲の反応はおよそ二つあった。「固いですね」の苦笑と「どうして昔の作家を」の疑問であった。前者の方は肯定ではなく、「いまの若い人は志賀直哉など読みません」という意味深の苦笑だった。後者は、疑問だがほとんど否定に近かった。以前、文芸雑誌かなんかで「ドストエフスキーといったら、誰もいなくなった」そんな雑記を読んだことがある。小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。国語の時間、教科書を朗読させられた記憶がよみがえるはず。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』などの珠玉の短編をあげればきりがない。いずれも日本文学を代表する作品群といっても過言ではない。志賀直哉が小説の神様と呼ばれる所以もそこにある。
もっとも、正直に打ち明ければ、「なぜ志賀直哉は小説の神様といわれるのか」と、面きってたずねられても、はっきり応えられるか自信はない。私は、これまで根拠あって信じていたわけではない。早い話、皆がそう言っているから、識者がそう認めているから、であった。ただ既成事実がそうだからである。私は、そんな単純で稚拙な理解度から志賀直哉を小説の神様と思っていたわけである。
 志賀直哉を私小説作家と評する人もいる。が、長編『暗夜行路』は創作だし、電車事故の治療のため滞在した温泉地での作品『城の崎にて』も、作者は心境小説と呼んでいる。これにまねて、私は、志賀直哉が書いた多くの短編のなかで乗り物を舞台にした作品を、車中作品、あるいは車中小説と呼んで、ゼミ学生と読んでいる。そうして読みながら学生たちにも車中観察として、「車中作品」を書かせ発表させている。
二、志賀直哉の車中作品
 その読みは一昨年、昨年、そして今年と、すでに三年目に入っている。たとえば「石の上にも三年」という故事がある。それが真実かどうかはしらないが、歳月は強しということで自分なりに見えてきたものもある。そこで本書では、志賀直哉の車中作品のうち主に『網走まで』と『灰色の月』に注目し、この二作に通低する普遍と、無意識か意識してか秘められたいくつかをとりあげ、作品の奥にある書かれざる光景を披瀝し、論じて行きたいと思います。同時に学生たちの「車中観察」を掲載します。
 ところで昨年と今年、テキストにした『網走まで』を読んでみているうち、不意に目からうろこが落ちる、そんな気持ちを味わったのである。学生と読むことによって、漸くにして実証を得たのである。同時に、これまでぼんやりとしていた志賀直哉という作家が、まるで白雨に洗われたように鮮明に見え始めた。そうして、この作家の作品の源泉は、もしかしてこの『網走まで』にあるのではないか。そんな思いにとらわれたのである。そうして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを知ることができない。もしかして、とんでもない思い違いをしている
かも知れない。が、とにもかくにも、そう思い感じたのである。その意味では、僅か20枚足らずの作品だが、原石の金剛石というわけである。輝くか輝かぬかは、このテキストの読解力、分析力にかかっている。

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