文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.202

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2012年(平成24年)10月29日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.202
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/24 10/1 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 
1/21 1/28
  
2012年、読書と創作の旅
10・29下原ゼミ
10月29日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室
1.  ゼミ雑誌編集作業進行状況についての報告 
 2.  新聞「人生案内」登場人物の心理と創作の試み
 
 3. 「尾道幼女誘拐事件」裁判の脚本化(登場人物選出)
 4. 模擬裁判の実施 脚本化の読み
 5. 判決を出してみる
10月ゼミ雑誌編集月間
ゼミ雑誌『正体不Show time』今月末に入稿か
前回、22日ゼミ報告
後期授業に入る、疑似裁判に向けて
出席者 = 石川舞花、古谷麻依、志村成美、梅津瑞樹
司会進行 = 梅津瑞樹
ニュースの事件を読み解く → 広島で起きた女児誘拐事件を裁決
テキスト読み → 『兒を盗む話』 時間まで読み切る。
主人公の私は父親との諍い、友人、女友達との不和もあって、瀬戸内の町で一人暮らしをはじめる。が、孤独と退屈から顔見知りの女児を誘拐。二日目に捕まる。
 29日ゼミでは、法廷の脚本化を試みる


編集委員から   ゼミ誌部数は100 ~ 120部に
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.202 ―――――――― 2 ―――――――――――――
広島女児誘拐事件・名古屋女児監禁事件
 今年の夏の終わりに、女児誘拐事件が相次いだ。後期は、作品の脚本化から模擬裁判を実施することにしている。テキストは、志賀直哉の事件小説だが、先取りとして実際の、この事件簿の判決をおこなった。22日は、広島で起きた小学6年生女児誘拐事件をとりあげた。
 新聞でみる事件概要は、およそ下記の記事のようであった。
【広島女児バック誘拐事件模擬法廷】
事件推移 →  9月4日夜、広島市内で塾を終えた小学6年の女児が、母親が迎えに来るのを待っていた。被告は、果物ナイフで脅し、用意してきたバッグに女児を正座の格好で入れた。タクシーの運転手は、動物かと思ったが怪しんだ。信号で停車したとき、トランクから声がすると被告は車を降りて逃げようとした。通行人の協力を得て被告を捕まえ、バックをあけると女児が出てきた。
被告 ・・・・・ 石川さんの調書「刑務所に入りたかった」
検察 ・・・・・ 有罪(梅津、石川、古谷、志村)「ワイセツ目的」
弁護 ・・・・・ 仮免許合格で、ほっとして。自動車学校で心神耗弱。
証人 ・・・・・ タクシー運転手の機転 「犬かペットかと思った。が、怪しかった」
裁判員 ・・・・ 計画性から再犯の怖れあり(梅津、志村、)
量刑  ・・・・ 3年~5年か。(20年の要請もあった)今後新聞などで注意する。
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.202
新聞「人生案内」登場人物の心理と創作の試み
 創作する上で新聞は、貴重な情報源である。このところ大新聞の不祥事が相次ぐが、それも一つの物語である。「人生案内」にも、様々な物語がある。昨日、10月28日の「人生案内」には、いくつもの謎がある、それでとりあげてみた。以下、その相談である。
要約すると、私は50代のスーパーのパート(独身か)。仕事はレジ係り。80代の男性客が私のことを気にいったのか、よく声をかけてくれる。食事に誘われつきあったことも。別れ際、へそくり程度だからと封筒をもらった。20万円が入っていた。私はどうすれば
Q.この相談の謎は何か。あげてみましょう。
Q.相談者の本当の気持ちは ? 
Q.このお年寄りの、目的は、お金持ち ?
Q.この相談が本当だとして、今後の私の対応は
この投書「人生相談」から、どんな物語が生まれるか。
この話を創作するとしたら、純愛ものかミステリーか。 
『貧しき人々』の老人は、マカール・ジェーヴシキンか、それとも米国の作家O・ヘンリーの作品『釣りそこねた恋人』のアーヴィング・カーターか。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.202―――――――― 4 ――――――――――――――
前回読んだテキスト『兒を盗む話』を法廷脚本化にしてみる
尾の道女児誘拐事件
今日は、 前回、読んだ『兒を盗む話』を法廷劇にしてみる。が、その前に、作者が作品とは別に書いた被告の告白を紹介します。併せてこの作品によせる作者の思いも・・・。
テキスト研究
『兒を盗む話』初出 大正3年4月『白樺』
 尾の道生活の経験で、半分は事実、兒を盗むところからは空想。しかし、この空想を本気でしたことは事実。友達もない一人生活では空想ということが日々の生活で相当に幅をきかせていた。それを実行するには、未だ遠いにしろ、そういう想像を頼りにする。今ならそういう想像をする事の方を書くかも知れないが、その時代は想像をそのまま事実にして書いてしまった。もっともこれはいずれがいいとか悪いとかいうことをいっているのではない。「兒を盗む話」は今はもう愛着を持っていない。多少愛着を感じていたこの小説中の描写は「暗夜行路」の前篇に使ってしまった。
 テキストの告白は、最初、以下の形で発表された。(が、旧い漢字や言葉づかいから難読との声もあったため、勝手ながら編集室で現代表記にした)
 犯罪における作者=主人公=犯人の心内はこのようであった。
尾道幼女誘拐犯の告白(『兒を盗む話』)
  私は五つになるその女の子を盗んだ。しかし三日目にもうあらわれて、巡査が二人と探偵らしき男が一人と、その後ろに色の浅黒い肉のしまった四十ばかりのその子の母親と、これだけが前の急な坂を登ってくるのを見たときには私は、苦笑した。そして赤面した。
 が、私はちょっと迷った。やはりできるだけの抵抗はやってみろ。いまもし素直に渡してしまうくらいなら最初からこんなことはしなくてもよかった。こう思うと急いで部屋の隅の行李(こうり)からから出刃包丁をだして、それを逆手ににぎって部屋の中に立った。そのとき女の子は次の三畳間でぐっすり寝込んでいた。
 しかし私は結局、出刃包丁を振り回すことはしえなかった。その気になれない。実際それほどの感情は出刃包丁をだすときから自分にはなかったのである。そして私は尋常に縄にかかった。女の子はそのまま母親に連れられていった。
 警察署での訊問は感嘆だった。私はその女の子がどんなことを申し立てたか聞きたかったが、これは知ることができなかった。
 翌日、私はそこから汽車で3時間ばかりかかる県庁所在地の地方裁判所へ回された。それから3日目に私は法廷へ引き出された。そのときは私の経歴でも、仕事でも、また血統でももう大概向かうで調べてしまったらしかった。その結果は裁判官は、私は気違いと鑑定したらしかった。私は、初めの調べと一緒に健康診断を受けることになっていた。審問に対しては私は、なるべく簡単な答えで済まそうと務めた。
 裁判官は、繰り返し繰り返し私の盗んだ目的を聞いたが、私は同じこときり答えなかった。
「可愛く思ったからです。貰(もら)いたいといっても、もらえないと思ったからです」といった。
 若い医者も色々と聞いた。私は聞かれることだけにただ簡単な返事をした。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.202
 医者は、気違いではないといった。ただよほど烈しい神経衰弱にかかっていると報告した。
「烈しい神経衰弱というものが、こんな非常識なことをさせるものですか」と裁判官が聞いた。
「もちろん、いくらもあることです」
 こういう二人の問答からも、またいったいに裁判官や医者やその他の人々までも私に好意を持っているということが感じられた。少なくも普通の罪人に対するとはよほど変わった心持で調べているということがわかった。事件そのものに露骨な目的を持っていないこと、私にまったく悪びれた様子のないこと、それらが皆に好意を持たしたらしかった。
 私は裁判の結果を想像した。私は法律のことは知らなかった。しかしよく新聞などで見る示談とか、刑の執行猶予とか、そんなことだろうと思った。
 東京からは誰が来るか。父が来るか、叔父が来るか、それとも友達が来てくれるか。誰にしろ、この結果はきっと、そんなことにしてくれるだろうと思った。私はにぎっていた出刃
包丁をついに振り回す気になれなかったように、この出来事もそれだけの結果で終わるだろうと思うと、罪せられるのを望むのではないが呆気ない気がした。
 東京を出る二ヶ月ほど前のことだった。私は私の最も親しい友達の一人と仲たがいをした。同時に私はある若い美しい女を恋した。
 初めてその女と会って1時間しないうちに私は珍しく何年ぶりで、甘ったるい恋するよ
うな心持になってきた。それは女が私に好意を持っていると思い込んだのも一つの力だった。その席には親しい友達が3人いた。なかでも一番仲のよかった一人が、私のその心持を見ぬくことから、快くない気持の上の悪戯を私に仕掛けた。私はそれでその友に腹を立った。   その女を恋する心持とその友を憎む心持とが私の胸で燃えあがった。たんちょうな日を続けていた私にはそれがいい心持だった。
 私は三四日して一人でその女に会いに出かけた。私はそのとき美しいイリュージョン(幻影)を作っていった。ところがそれはその場で1時間しないうちに見事に打ち崩されてしまった。苦しいが涼しいような快感があった。
 私は間もなくまた別の美しい女に出合った。美しい肉体をしてコケティツシな表情を持った女だった。ソーダー水に氷を入れて、それを電燈に透かしながら振ると風鈴のようないい音がする。女はそんなことをしながら度々それへ美しい唇をつける。そして仕舞いに飲み干す。で、酔えばいっそう美しくなった。襟から頬へかけていっそうに白くなった。それよりも眼が美しくなった。唇もいい色になる。だんだん調子が浮気っぽくなる。これも人を惹きつけた。
 私はこの女をとても補足しがたい奴と一人決めていた。私は三四度続けてあった。すると、案外補足しがたいという気がしなくなった。しかし結局は前の女でしたことを再びこの女で繰り返したに過ぎなかった。私はまた単調な生活に帰ってしまった。もう仲たがいした友達に対してもそれほどの怒りは感じられなくなった。何となくいらいらしながら物足らない心持で一日一日を無為に過ごしていた。(以下完成作品冒頭に続く)
(発表時の末尾)
 翌朝ぼんやりと障子の硝子越しに前の景色を見ている時だった。巡査や女の子の母親が前の坂道をこの方を見い見い登ってきた。母親は興奮からか恐ろしい顔をしていた。私には逃げようという気は少しも起こらなかった。私は赤面した。そして苦笑した。私はしまいまで進ませた出来事を途中で笑い出すようなことはことはしたくないと思った。私は出刃包丁を持ち出した。しかし、かって人の顔(あるいは犬でも馬でも)を真正面から殴った経験のない私には出刃包丁を逆手ににぎったものの、それで身がまえする気にはなれなかった。私は恐ろしく平凡な姿勢で出刃を持ったまま突立っていた。
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 母親と女の子は抱き合って泣いた。母親は泣きながら激しく私を罵った。私は黙って立っていた。母親は娘を抱いたまま私の後ろにへきて、私の背中をドンと強く突いた。巡査がしきりとそれをなだめた。
 私は警察へ曳かれた。それからの経験は総て初めての経験であるが、私は学校時代に何かでこんな経験をしたような気がした。
  
 私には気違いじみた気分は少しもない。しかし裁判官がそれに近いものと解しようとするのを反対する気はない。
 私は多分近日許されてここをでるだろうと思う。それから私はどこへ行こう?やはり東京へ帰るより仕方がなさそうだ。もうあの町に行くこしはできない。東京へ帰らないとすれば、どうするだろう。私はまた同じような生活に落ちていかなければ幸せである。もし同じ生活が繰り返ってくれば私は今度は、更に容易に同じようなことを起こし兼ねないという気がするから・・・・・・・・女の子はどうしているだろう?
法廷化した場合の登場人物をあげてみる。
以下は例として
・被告 ・・・・・・・
・検察 ・・・・・・・
・弁護人 ・・・・・・
・証人(複数) ・・・・・・・
 ・・・・・・・・・
模擬裁判の進行は
■ 被告人の罪状と量刑は (結審しなければ次回ゼミの課題)
・有罪なら、量刑は
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歴史観察 目下、日中関係は険悪な状況になっている。なぜ、こうなったか。一つには歴史教育の表れである。現在、中国で抗日の中心は若者だという。彼らは学校時代、教科書で反日教育を学んだ。その知識が、政治不満によって大きくなった。そんな見方がある。反対に、日本の若者は、選択制度もあるせいか日本史を知らない人も増えてきた。
 そんな社会状況を汲んで、戦争観察の名作ルポを紹介する。もっともルポ―タージュといっても、当時は軍に支配されていたこともあり、創作ルポとなっている。(前号重複)
戦争観察作品『生きている兵隊』
石川達三の『生きている兵隊』。この作品は、日本において創作ルポタージュ文学の最高傑作といえる。テキストの車中作品は、車両という限られた空間のなかでの静止状態の人間を観察していますが、戦争観察は、戦地という非日常での中で動く兵隊を観察しています。狙いは、戦争とは何か。戦地では普通の人間が、どう変わるのかを知ることです。
『生きている兵隊』は、ドストエフスキーの「人間はなんでもできる。なんにでも慣れる」を実証する人間観察作品としても優れている。また、靖国問題、教科書問題、アジア外交など問題山積の今日において、歴史認識においても重要な作品といえる。
しかしこの作品の作者、石川達三について、知っている人はあまりいません。40余年前までは日本ペンクラブの会長だった作家。またその作品の多くが映画化された人気作家でしたが、いまは本屋の棚には、ほとんど見かける事はありません。
石川達三(いしかわたつぞう)1905-1985 秋田県生まれ。早大中退。1930年ブラジルに渡る。1935年『蒼氓』で太宰治など並み居る流行作家を抑えて第1回芥川賞受賞。『生きている兵隊』当時の新聞紙法で発禁処分。禁固4ヶ月、執行猶予3年の判決。日本ペンクラブ会長のときに思想表現の自由は一つだが、猥褻表現の自由は二つ発言で物議。五木寛之、野坂昭如ら若手作家につきあげられて辞任。
創作ルポの傑作・石川達三著『生きている兵隊』について
 社会の中で戦争は大きな事件・出来事である。戦争とは何かを知るには、徹底した戦争観察が必要である。今日、マスメディアの発達によって私たちは茶の間で戦争を見ることができる。レポートを聞くことができる。しかし、どんなにリアルな映像も、迫真の実況も石川達三の『生きている兵隊』ほどに戦争と人間の関係を教えてくれない。戦争という現場で、人間はどう変わるのか。本書は、そのことを見事に捉えた戦争観察の名著である。
なぜ創作ルポか
はじめに、このルポタージュは、なぜ創作なのか。それは、この作品が1938年(昭和13年)に書かれたことにある。当時の日本は軍事国家、ファシズム国家である。軍に都合の悪いものは、書けないし書いても没にされた。ゆえに本書でも(前記)で「日支事変については軍略その他未だ発表を許されないものが多くある。」と断っている。もっとも、ファシズムや独裁政権でなくても戦争のノンフィクションものはむずかしい。ベトナム戦争でアメリカはなぜ負けたのか。ペンタゴンや米情報局は敗因の一つに、マスメディアを自由にさせたことをあげた。出撃から就寝まで、米軍兵士の行動はなにもかも筒抜けだったというわけである。その反省をかつて今のイラク戦争では、メディアはすべてが軍の規制下にあるという。このことを思えば、当時の軍国日本において、創作ルポは、まったく当たり前なことだったに違いない。作者石川は(前記)でこうつづけている。「従ってこの稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由に創作を試みたものである」と。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.201 ――――――― 8 ――――――――――――――
現在、日本が抱える外交問題の一つに南京大虐殺がある。はたしてジェノサイド、大量殺戮はあったのか、なかったのか。72年の歳月が流れても日中間では、未だ真相不明の歴史の謎となっている。毎年、教科書が出版されるたびにもめる原因の一つともなっている。
ちなみに先般出版の扶桑社『新しい歴史教科書』(2001年版)には、この事件についてこう書かれてある。(教科書文は太字)
日中戦争
 関東軍など現地の日本軍は、満州国を維持し、ブロック経済圏を建設するために、隣接する華北地域に蒋介石政権の支配のおよばない親日政権をつくるなどして、中国側との緊張が高まっていた。また、日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937年(昭和12年)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。(最近になって、この発砲事件は日本軍の自作自演と解明された。1965年ベトナム戦争の発端となったトンキン湾事件も同様とみられている。)翌朝には、中国の国民党軍との間で戦争状態となった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
 同年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり(これも、やらせか)これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者がでた。南京事件) 12月12日日本軍南京を攻略した。
 1937年12月25日に新進作家石川達三(32)は東京を発つ。1938年1月5日上海経由で南京着。南京で8日間、上海で4日間取材する。
社会観察・戦争ルポ解析       『生きている兵隊』を読む 2回目
 石川達三は、この作品を1938年(昭和13年)2月1日から書きはじめ、紀元節の未明に脱稿した。「あるがままの戦争の姿」を知らせたくて書いた。330枚必見の戦場ルポ。
 1937年7月7日から日中戦争がはじまったことから大日本帝国は、9月25日言論統制のための内閣報道部設置。11月大本営が宮中に設置した。ゆえに、この作品は創作ルポの形をとり「部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい」とした。
                  
 前号からのつづき
 笠原はふり向いた。青年はうな垂れて流れるともしないクリークの流れを見ていた。一匹の支那馬が水の中から丸々肥えた尻を突き出して死んでいた。萍草が鞍のまわりをとり巻いて頭の方は見えなかった。
「あっち向け……と言っても解らねえか。不便な奴じゃ」
彼は已むなく自分で青年の後ろにまわり、ずるずると日本刀を鞘から引き抜いた。それを見るとこの痩せた鳥のような青年はがっくり泥の中に膝を突き何か早口に大きな声で叫び出し、彼に向かって手を合わせて拝みはじめた。然し拝まれる事には笠原は馴れていた。馴れてはいてもやはり良い気持ではなかった。
「馴れていてもやはり良い気持ではない」だが、ここは戦場である。たったいま激戦が終わったばかりなのだ。支那馬の死骸に作者は、軍や読者を納得させようとしたのか・・・。
「えい!」
―――――――――――――――――― 9 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.202
 一瞬にして青年の叫びは止み、野づらはしんとした静かな夕景色に返った。首は落ちなかったが傷は充分に深かった。彼の体が倒れる前にがぶかぶと血が肩にあふれて来た。体は右に傾き、土手の野菊の中に倒れて今一度ころがった。だぶんと鈍い水音がして、馬の尻に並んで半身はクリークに落ちた。泥だらけの跣足の足裏が二つ並んで空に向いていた。
 三人は黙って引き返した。部落のあちこちに日章旗が暮れかけてまだ見えていた。火事の煙に炎の赤さが映りはじめていた。夕飯のはじまる時分であった。
 戦地で日本兵の残虐行為の一つとして、この打ち首があげられる。使われた刀は戦前、大量生産された。いわゆる昭和新刀である。もちろん使う人間が一番悪いのだが、この刀が戦地でよく使われ、恐れられたという。日常の一瞬のように描かれた斬首の光景。作者の観察眼がいかに優れているかがわかる場面だ。作者は、冷静に冷徹にただ事実のみをひたすら丁寧に描写した。なんの感情にも捉われていない。作者は人間を超えて一つのカメラになった。
余談だが、この作家の優れた観察眼がよくわかる作品を今思い出したので紹介する。『深海魚』という短編である。若いとき読んだので、本はもうない。従って記憶も曖昧である。たしか作者が第一回芥川賞、受賞後の第一作だったように覚えている。当時、石川達三はまったく無名の新人だった。当時は文壇村もあって落選者からは、妬まれてていた。それだけに、二作目はかなり注目されていたらしい。たいていの作家は処女作と二番手の差が大きい。なかなか処女作を越えられないのである。この作者が二作目に題材をとったのは、娼婦と、そうした女性を診る医者だった。やり手婆に連れてこられた梅毒の娼婦。作者は医者の目を通して患部を見る。そこに咲く毒花。その毒花梅毒を冷静に観察し、作品に描ききった。そうして、そんな毒花をもったまま、再び街にでていく娼婦たちの後姿を作者の目は、冷静な怒りをもって見送っている。
火事が自然に消えてしまうと夜がきた。部[聯]隊本部の裏庭では4、5人の兵が焚火をかこんでいつものように薩摩芋を焼いていた。焚火の中で壊れた椅子が火を吹きながら曲がって行った。従軍僧の片山玄澄は濃い煙にむせびながら靴の先でころころと火の中の芋をころがし、皺枯れた声で呟いた。
 秋深いの異国の村の夜。兵たちは、焚火を囲んで焼き芋しながら暖をとる。故郷や家族の話をしたのだろうか。なんとのどかな光景か。はじめて従軍僧が登場する。戦場に死はつきものだ。どの部隊にもいたのだろうか
「どうやら君、戦線が変わるだろうぜ」
「変わるって、どっちだね」
笠原伍長は配給品のバットを汚れた太い指でつまみ出して火をつけた。
「一度天津の方へ戻るらしいなあ。部隊[師団]長閣下の口ぶりがなあ」
「部隊[師団]長閣下に会ったのかね」
「うむ、遺骨の話でなあ、部隊が暫くこの辺に居るんならばその間に遺骨のお供をして天津か大連かまで行って来るつもりだったが、部隊長殿[閣下]は行かんでもええと仰言る。どうせみんな天津の方へ動くだろうってなあ」
「天津か!」と笠原伍長は急に大きな声を出して膝を叩いた「ようし、天津へ行ったら一つ、思う存分遊んでくれるぞ。なあおい!」
 一人の兵が真面目な表情でそれに答えた。
「芸者をあげて、女郎を買って、酒くらって・・・・」
 あははは・・・と笠原はしまりのない笑い方をした。肩を叩かれてふり向くと中橋通訳が焚火にあたりに来たようであった。
「さっきの?(ニイ)、殺ったのかい」
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.202 ――――――― 10 ――――――――――――――
「やったさ。あン野郎・・・」と彼はまだ放火されたのが口惜しそうであった。しかし実際は問われるまでは忘れていた。彼としては珍しくない事件であった。
「クリークの中に馬が死んでてなあ、今ごろはあの馬に抱っこして貰ってらあ」
 「天津の方に戻るらしい」当然、行き先は創作である。が、作者が一番気をつかって書いたところだろう。しかし兵隊たちの会話をよく拾っている。たった今、人の首をはねたばかりだというのに笠原伍長の会話に屈託がない。これが戦争だ。
一人の兵がさッと立ち上がって敬礼したので、他の者も気がついて見ると西沢部隊長「聯隊長西沢大佐」が煙草を咥えてぶらりと焚火に近づいて来たのであった。部隊長[大佐]はみなの敬礼を受けてから焚火に手をかざし、何かよい匂いがして居るのうと言った。兵が椅子を押しやりながら、芋を焼いておりますと素直に答えた。
「一つご馳走せんかい」
 兵隊たちは喜んで笑った。西沢部[聯]隊長は彼等にとってこの上もなく崇拝している上官であった。肉付きもさして良くはなく丈が高いのでむしろ不健康そうに見えたが、豪胆な性格が皮膚から溢れ出ているかと思えるほど堂々としていた。服も手も土と垢に穢れて汚いことは兵と同じであった。彼は椅子に坐って無精で伸びた顎鬚を撫ではじめた。
 上官に対する兵たちの態度。相当に緊張したものを感じる。現在の日本では想像できない。むろん今の自衛隊内にも、こんな空気はないと思う。作者は、この箇所を書くのに、相当苦労したのではないかと思う。「むしろ不健康そうに見えたが」としながら「豪胆な性格が皮膚から溢れでている」などと、わからない表現をしている。軍服が、兵と同じ土と垢で汚れているというのも、作者は兵隊は皆平等と言いたかったのだろうが、妙な気がする。兵と上官との会話はどんなものか。
「部隊長殿、大分髯が立派になりました」と通訳が言った。
「うん、従軍僧の方が立派だ」
 兵隊たちはまた喜んで笑った。こうして一緒に焚火にあたって居てくれることが有難くてたまらない気がしていた。笠原伍長は火の中を覘ってちょうど焼けたころの芋を一つ木片でとり出すと、ポケットから紙片を出して熱いのを摘み上げた。しかしそれを隊長に差し出すのに逡巡した。
「君、それを差し上げて見んか」
従軍僧が皺枯れ声で言った。隊長は黙って手をのばした。笠原は中腰に立ち上がって恭しく差し出した。みんなは芋を食ってくれる隊長の様子をじっと眺めていた。
芋はどっから調達したものだろうか。火をつけた青年の家にあったものか。しかし、隊長を迎えて焚火を囲む兵たちの顔は、あくまで善良だ。
「部隊が動くような話だが、お前たちはどっちへ動くと思うか」
「天津の方へ行くらしいですなあ」と片山玄澄(ちょう)が答えた。
「うむ、どうして?」
「部隊長殿[師団長閣下]の御話の様子がどうもそうらしいですな」
西沢部隊長[大佐]は芋の皮を剥いて湯気の立つ一片を口の中に抛り込んだ。兵はみなごくりと唾を飲んだ。
「本当はどっちですか」中橋通訳が訊いた。
「わしにも解らん。兎に角戦線が変わることは確かだな」
「はあ・・・」
「携帯口糧は渡ったか?」
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.202
「は、貰っております」
 
 この十行ほどの兵隊たちのやりとりのなかで、軍隊というものがどんなものかが見える。星一つ違えば天国と地獄。焼き芋を食べる隊長を囲む兵たち。一見のどかな光景だが、緊張が伝わってくる。明日の戦線は何処。兵たちが知りたいのはその一点。
次号につづく
現在の日中問題 若者たちは、なぜ反日デモに参加するのか
最近の新聞記事から謎解く
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.202 ――――――― 12 ――――――――――――――
後期ゼミ ゼミ誌作成 & 家族観察・模擬裁判を目指します
 9月24日 出席者 = 石川舞花、古谷麻依、志村成美、根本留加、山野詩門、
後藤啓介、梅津瑞樹 4月以来の8名でした。
            ゼミ誌原稿提出。100%近く、創作・車内観察
            課題1.「誘拐事件容疑者調書」
10月 1日 出席者 = 石川舞花、古谷麻依、志村成美、鞆津正紀、梅津瑞樹 5名
            ゼミ誌作成会議、番組表、レイアウトなど
            サバイバルゲーム「遭難、私ならどうする」個人と集団の場合
            発表と説明。内容は次号。
            課題1.提出→石川さん
10月15日 出席者 = 石川舞花、古谷麻依、志村成美、鞆津正紀、梅津瑞樹
            後藤啓介 6名
            ゼミ誌提出原稿合評6名分 部数について
10月22日 出席者= 石川舞花、古谷麻依、志村成美、梅津瑞樹(司会進行)
           ゼミ誌作成報告、広島女児誘拐事件について
           テキスト『兒を盗む話』読み
           
掲示板
作品評 後藤啓介君の『葬送行進曲』(仮に)を読む
 後藤君の出席率は、決していいとは言えない。が、創作に大切な観察と思考を、どこかでしっかりとやっているようです。その証拠の一つがこの作品です。原稿用紙換算なら200~300枚の中編の警察小説。ストーリーテーラーでもある。チェーホフの『狩り場の悲劇』やアガサ・クリスティーの作品を思わせる意外な結末。すでに立派な書き手です。が、現在は、勝手にのばした盆栽ともいえる。これからは枝や葉を剪定し、解り易さと見栄えを目指してほしいと願っている。小説を書くものにとって学校の授業など無駄にみえる。が、無駄もまた勉強の一つ、肥しの一つでもある。「人皆我が師」は剣聖宮本武蔵の座右の銘。
お誘い  2013江古田・文芸研究Ⅲ下原ゼミ「熊谷元一研究」4時限
創作 → 志賀直哉の子どもの頃を描いた作品をテキストに、併せて米国作家サローヤンの『我が名はアラム』などを読み、自分の子ども時代の話を書いて発表する。
      児童虐待について考える
熊谷元一研究 → 写真家・熊谷の写真作品「一年生」を見ながら自分の一年生の頃を思い出しルポタージュする。郊外授業として熊谷の写真展を見に行き紀行文を書く。ちなみに2010年は山形県酒田市、2012年は秋田県角館に一泊二日。最終目標は、長野県昼神温泉にある熊谷元一写真童画館の見学。
・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・
○課題原稿、メールでも可 下記アドレス
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
課題4.
テキスト『剃刀』感想
名前
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参考資料
 2009年5月21日(平成20年)から裁判員制度が施行された。これにより同年7月以降から実際に一般市民が裁判に参加することになった。3年が過ぎた現在の状況は、いろいろと問題はでてきたが、裁判意識は浸透している。厳罰化が進んでいるという見方もある。
「裁判院制度とは何か」を知りたい人はHPにあったWiKiPediaを以下に転載したので読んでください。
 裁判員制度は、市民(衆議院議員選挙の有権者)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的とされている。裁判員制度が適用される事件は地方裁判所で行われる刑事裁判のうち、殺人罪、傷害致死罪、強盗致死傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪など、一定の重大な犯罪についての裁判である。例外として、「裁判員や親族に危害が加えられるおそれがあり、裁判員の関与が困難な事件」は裁判官のみで審理・裁判する(法3条)。被告人に拒否権はない。裁判は、原則として裁判員6名、裁判官3名の合議体で行われ、被告人が事実関係を争わない事件については、裁判員4名、裁判官1名で審理することが可能な制度となっている(法2条2項、3項)。裁判員は審理に参加して、裁判官とともに、証拠調べを行い、有罪か無罪かの判断と、有罪の場合の量刑の判断を行うが、法律の解釈についての判断や訴訟手続についての判断など、法律に関する専門知識が必要な事項については裁判官が担当する(法6条)。裁判員は、証人や被告人に質問することができる。有罪判決をするために必要な要件が満たされていると判断するには、合議体の過半数の賛成が必要で、裁判員と裁判官のそれぞれ1名は賛成しなければならない(一部立証責任が被告人に転換されている要件が満たされていると判断するためには、無罪判決をするために合議体の過半数の賛成が必要で、裁判員と裁判官のそれぞれ1名は賛成しなければならない)。以上の条件が満たされない場合は、評決が成立しない(有罪か無罪かの評決が成立しない場合には、被告人の利益に無罪判決をせざるを得ないと法務省は主張しているが、法令解釈権を持つ裁判所の裁判例、判例はまだ出ていない)。なお、連続殺人事件のように多数の事件があって、審理に長期間を要すると考えられる事件においては、複数の合議体を設けて、特定の事件について犯罪が成立するかどうか審理する合議体(複数の場合もあり)と、これらの合議体における結果および自らが担当した事件に対する犯罪の成否の結果に基づいて有罪と認められる場合には量刑を決定する合議体を設けて審理する方式も導入される予定である(部分判決制度)。裁判員制度導入によって、国民の量刑感覚が反映されるなどの効果が期待されるといわれている一方、国民に参加が強制される、国民の量刑感覚に従えば量刑がいわゆる量刑相場を超えて拡散する、公判前整理手続によって争点や証拠が予め絞られるため、現行の裁判官のみによる裁判と同様に徹底審理による真相解明や犯行の動機や経緯にまで立ち至った解明が難しくなるといった問題点が指摘されている。裁判員の負担を軽減するため、事実認定と量刑判断を分離すべきという意見もある。
 最高裁によると、全国の裁判員裁判対象事件は2004年の3791件から減少傾向にある。都道府県別で昨年、対象事件が最も多かったのは①大阪306件、②東京255件、③千葉214件の順。最も少なかったのは福井県の7件。罪名別では、①強盗致死傷695件、②殺人556件、現在建造物など放火286件、強姦致死傷218現在と続いた。(新聞8・5)
選ばれる確率は4911人に1人(全国平均)
 いわゆる乗り物作品は、推理ものから恋愛ものにいたるまで古今東西、いろいろな作品がある。アガサクリスティーの推理ものも面白いし、昨年か一昨年、『電車男』というのも評判になった。こうした物語作品に比べると志賀直哉の車中作品は、筋らしいスジもなく、たんに車中をスケッチしただけの退屈な作品、ということになる。「こんなものが、はたして小説といえるのか」テキスト読みしたあと、しばしばきかれる感想である。たしかに、読者を喜ばせる読物としての作品なら、その評も致し方ないだろう。
 ゼミでテキストに志賀直哉を選んだとき、周囲の反応はおよそ二つあった。「固いですね」の苦笑と「どうして昔の作家を」の疑問であった。前者の方は肯定ではなく、「いまの若い人は志賀直哉など読みません」という意味深の苦笑だった。後者は、疑問だがほとんど否定に近かった。以前、文芸雑誌かなんかで「ドストエフスキーといったら、誰もいなくなった」そんな雑記を読んだことがある。小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。国語の時間、教科書を朗読させられた記憶がよみがえるはず。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『子を盗む話』などの珠玉の短編をあげればきりがない。いずれも日本文学を代表する作品群といっても過言ではない。志賀直哉が小説の神様と呼ばれる所以もそこにある。
もっとも、正直に打ち明ければ、「なぜ志賀直哉は小説の神様といわれるのか」と、面きってたずねられても、はっきり応えられるか自信はない。私は、これまで根拠あって信じていたわけではない。早い話、皆がそう言っているから、識者がそう認めているから、であった。ただ既成事実がそうだからである。私は、そんな単純で稚拙な理解度から志賀直哉を小説の神様と思っていたわけである。
 志賀直哉を私小説作家と評する人もいる。が、長編『暗夜行路』は創作だし、電車事故の治療のため滞在した温泉地での作品『城の崎にて』も、作者は心境小説と呼んでいる。これにまねて、私は、志賀直哉が書いた多くの短編のなかで乗り物を舞台にした作品を、車中作品、あるいは車中小説と呼んで、ゼミ学生と読んでいる。そうして読みながら学生たちにも車中観察として、「車中作品」を書かせ発表させている。
二、志賀直哉の車中作品
 その読みは一昨年、昨年、そして今年と、すでに三年目に入っている。たとえば「石の上にも三年」という故事がある。それが真実かどうかはしらないが、歳月は強しということで自分なりに見えてきたものもある。そこで本書では、志賀直哉の車中作品のうち主に『網走まで』と『灰色の月』に注目し、この二作に通低する普遍と、無意識か意識してか秘められたいくつかをとりあげ、作品の奥にある書かれざる光景を披瀝し、論じて行きたいと思います。同時に学生たちの「車中観察」を掲載します。
 ところで昨年と今年、テキストにした『網走まで』を読んでみているうち、不意に目からうろこが落ちる、そんな気持ちを味わったのである。学生と読むことによって、漸くにして実証を得たのである。同時に、これまでぼんやりとしていた志賀直哉という作家が、まるで白雨に洗われたように鮮明に見え始めた。そうして、この作家の作品の源泉は、もしかしてこの『網走まで』にあるのではないか。そんな思いにとらわれたのである。そうして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを知ることができない。もしかして、とんでもない思い違いをしている
かも知れない。が、とにもかくにも、そう思い感じたのである。その意味では、僅か20枚足らずの作品だが、原石の金剛石というわけである。輝くか輝かぬかは、このテキストの読解力、分析力にかかっている。

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