文芸研究Ⅲ 下原ゼミ通信 熊谷元一研究No.15

公開日: 

 
日本大学芸術学部文芸学科文芸研究Ⅲ下原ゼミ 2012年11月10日発行
文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信
BUNGEIKENKYU Ⅲ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
熊谷元一研究No.15                                

編集発行人 下原敏彦

                              
9/28 10/5 10/12 10/19 10/26 11/9 11/16 11/30 12/7 12/14 1/11 1/18  (ゼミ4教室)
  
写真を観察する、子供時代を創作する
11・9下原ゼミ
(ゼミ4教室)
 
1. ゼミ雑誌編集状況の報告 編集作業
(ゼミ雑誌作成の進行状況は、出版編集局・開米さんに報告)
2. 熊谷元一研究・第15回写真コンクール応募状況報告
3. テキス・名作読み(志賀直哉『或る朝』、子供が関係した作品) 
10月、11月ゼミはゼミ雑誌作成月間
10月、11月はゼミ雑誌作成月間とします。10月ゼミは以下の通りです。
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9月28日 出席待ち ゼミ雑誌編集室(開米さん)からゼミ誌進行報告の指導有り。
10月5日 出席者=大野純弥とゼミ雑誌の方向性について。編集室に大野君報告。ゼミ誌
① 写真感想と故郷の原風景。② 子供時代の創作。③ 岩澤君に、書簡で
ゼミ雑誌協力をお願いする。そのとき「子供時代」の原稿を依頼。手紙を出す。
10月12日 出席待ち 写真集から『熊谷元一と「一年生」』の構想。
10月19日 出席待ち 大野君℡通じず。岩澤君、返答なし。原稿なし。在籍の有無を事務室に確認。開米さん、調査を約束。
10月26日 出席待ち、大野君℡通じず。岩澤君不明。
11月 9日 予定テキスト(志賀直哉、)読みと感想書き
11月16日、11月30日、12月 7日はゼミ雑誌、編集室納入日
熊谷元一研究・下半期日程、状況と行事
9月20日 第15回写熊谷元一真コンクール応募の締め切り
9月25日 第15回熊谷元一写真コンクール第一次審査。(阿智村)
10月2日 東京「ホテルグランドヒル市ヶ谷」にて、第15回熊谷元一写真コンクール選考最終審査。第16回写真コンクール・応募テーマ決定。締切日の変更。
11月 6 日 熊谷元一命日(お墓は清瀬市内)
11月10日 長野県昼神温泉郷、熊谷元一写真童画館にて、写真保存会の総会及び第15回
写真コンクール授賞式。


文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.15 ――――――― 2 ―――――――――――――――
報 告 【テーマ「こども」】第15回熊谷元一写真コンクール
10月2日に、東京都新宿区ホテルグランドヒル市ヶ谷で最終審査
9月20日に締め切られた「第15回熊谷元一写真コンクール」の最終審査会が10月2日、都内ホテルで行われた。全国からの応募総数1278作品(応募者数422名)から以下の受賞が決まった。授賞式は11月10日(土)
応募総数(全国から) 1、278点
応募者は、422人
因みに、昨年2011年の応募数と応募者数は、応募数1478点、応募者数468人で、いずれも、今年より、応募数200、応募者数46人と、上回った。減った原因は、テーマの「こども」が2年つづきで、ややあきられた。そんな分析があった。
【応募作品の傾向について】 熊谷元一写真童画館評
 今回は、お祭り、運動会、七五三など、行事、祝日に撮ったものが多かった。応募を意識したものも多かった。
【テーマ部門】
☆ 元一写真大賞 1点  ☆ 阿智村賞 1点  ☆ 信濃毎日賞 1点
☆ JAみなみ信州賞  1点 
○ 優良賞  2点 ○ 佳作 10点  ○ 飯田信金賞(少年賞)5点品  
【阿智村村内撮影部門】
阿智村輝き賞  10点
【元一写真大賞・講評】審査委員長
 大賞に決まった写真は、泥だらけになって大きな鯉(ナマズ?)を抱える子供の写真。跳ね上がる魚を抱えた瞬間を撮ったものとみられる。作為的なものはなく、魚と泥だらけになった子供の笑顔が審査員の票を集めた。
2013年のテーマは「家族」に決定 !
 テーマは、「笑顔」がつづいたあと、2年連続の「こども」だった。が、応募者減少傾向から、審査終了後、新たな募集テーマ設定が話し合われた。「きずな」「絆」の候補が上がったが、抽象的で難解という意見もあり、全員一致で「家族」に決定した。
応募締切は、2013年(平成25年)8月31日 詳細は、HPをご参照ください。
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熊谷元一研究・応募作品状況分析
第15回熊谷元一写真コンクール・テーマ「こども」
都道府県別応募状況並びに応募状況の推移
 下原ゼミは、「熊谷元一」を発信していくことを目的としている。その意味で、全国的応募状況を知ることは、研究の深化をはかるうえに重要といえる。
 地域別、男女別応募者状況は以下の通り。(2012・9・26統計「熊谷元一写真童画館」)
□応募総数 422人  作品数1278点  1人3点平均
□一般の部383人 1201点 □高生以下12人 15点  □阿智村撮影の部27人 62点
【地域別集計】応募人数と応募作品数(点)
◇長野県186人 542点  ◇北海道5人 19点   ◇青森県1人 4点  
◇岩手県4人 16点    ◇秋田県12人 44点  ◇山形県3人 10点
◇宮城県3人 8点    ◇福島県5人 15点   ◇新潟県5人 16点
◇石川県2人 5点    ◇福井県0人 0点   ◇富山県1人 4点
◇岡山県8人 23点   ◇広島県2人 7点   ◇山口県4人 9点
◇島根県0人 0点   ◇鳥取県2人 4点   ◇愛媛県4人 9点
◇徳島県3人 9点   ◇高知県2人 8点   ◇香川県3人 8点
◇福岡県4人 11点  ◇佐賀県1人 2点   ◇長崎県1人 1点
◇大分県1人 1点   ◇宮崎県2人 3点  ◇熊本県3人 5点
◇鹿児島県0人 0点  ◇沖縄県1人 1点
長野県は熊谷元一の故郷であることから、長野県の応募者数が群を抜いている。が、北は北海道から、南は沖縄まで、0人が3県あったが、ほとんど全国から応募があった。15年間の歳月ではあるが、写真家・熊谷元一は、遅々ではあるが浸透していることがわかる。
携帯の出現で写真も大きく変わった。いつどこでも誰でも手軽に撮れるようになった。そんなところから女性の応募も多くなった。以下は応募者の男女比である。
◆80歳以上 32人中 男30人 女2人
◆70歳代 126人中 男102人 女24人  ◆60歳代 145人 男109人 女36人
◆50歳代40人中  男27人 女13人   ◆40歳代 32人 男27人 女5人
◆30歳代25人中  男10人 女15人   ◆20歳代 4人中 男1人 女3人
◆高校生以下6人中 男3人 女9人   
ここでは30歳から男女が逆転している。
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熊谷元一研究・応募分析
応募状況の推移1回~15回(平成10年~24年)
・1回 平成10年 テーマ「働く」   応募者数275人  応募点数 731
・2回 平成11年 テーマ「子ども」      562人       1458
・3回 平成12年 テーマ「くつろぐ」     588人       1234
・4回 平成13年 テーマ「家族」       539人       1192
・5回 平成14年 テーマ「一年生」      212人       449
・6回 平成15年 テーマ「生きる」      331人       788
・7回 平成16年 テーマ「よろこび」     374人       912
・8回 平成17年 テーマ「がんばる」     334人       846
・9回 平成18年 テーマ「四季のくらし」   227人       697
・10回 平成19年 テーマ「笑顔」       383人       1024
・11回 平成20年 テーマ「笑顔」      395人        967
・12回 平成21年 テーマ「笑顔」      316人        874
・13回 平成22年 テーマ「のびのびと」   317人        957
・14回 平成23年 テーマ「こども」     468人        1478
・15回 平成24年 テーマ「こども」    422人        1278
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熊谷元一写真コンクールについて
「熊谷元一写真コンクール」創設の趣旨
 阿智村は、当村出身の記録写真家・童画家で第一回毎日写真賞始め日本写真協会功労賞・毎日新聞出版文化賞ほか数々の賞を受けられ、名誉村民でもある熊谷元一氏の功績をたたえ、その功績を現代に生かし発展させることを願い、また、熊谷元一氏の撮影された農村記録写真を通して、心豊かな生活文化創造のために、「農村記録写真の村」を宣言しており、その実現の一つとして、平成10年に信濃毎日新聞社の共催をいただき、「熊谷元一写真コンクール」を創設いたしました。
熊谷元一写真コンクール10周年記念
入賞・入選作品集刊行にあたり 「あとがき」から
 平成8年、長野県阿智村において「農村記録写真の村」の宣言がされ、その2年後の平成10年に、私の名前を入れた「熊谷元一写真コンクール」が発足いたしました。第1回のテーマは「働く」であり、どれくらいの作品が集まるかと心配でしたが、幸いなことに大勢の方に応募をいただき一安心いたしました。
 その後、村当局の尽力によって、昨年で10周年を迎えることができ、園間の総応募作品集は1万点近くになり、ただただ驚いているところです。作品の内容も生活に密着し、それぞれに表情が豊かな作品が多く、記録写真として全国的な幅も確立しつつある様に思います。―――― 私も今年7月にお陰様で白寿を迎えることになりました。このコンクールも、今後とも皆様のご協力をいただき発展することを願っています。
   平成20年6月吉日   熊谷元一
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11・9ゼミ テキスト研究・作品読み 志賀直哉作品、子供時代のもの
『或る朝』「志賀直哉全集岩」岩波書店
大正7年(1918)3月1日発行の『中央文学』に掲載される。が、執筆年月は、末尾に「舊作」と書きこまれている。最初の『或る朝』には「明治41年正月」と明示されている。
明治41年の日記をみると、
◆1月13日 月
 朝起きない内からお婆さんと一(ちょっ)と喧嘩して午前墓参法事。
◆1月14日 火
 朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書いて、(非小説、祖母)とした。
とある。
―― からして、この「(非小説、祖母)」が『或る朝』の原形のひとつとみられる。
「創作談議」には、このように書かれている。
【創作談議】  私の(志賀直哉)の処女作といってもいい
 27歳(数え年26歳の記憶違い)の正月13日亡祖父の三回忌の午後、その朝の出来事を書いたものでこれを私の処女作といっていいかも知れない。私はそれまで小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋はできていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと粗末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。所が、『或る朝』は内容も簡単なものではあるが、案外楽に出来上がり、初めて小説が書けたような気がした。それが27歳の時だから、今から思えば遅れていたものだ。こんなものから多少、書く要領が分かってきた。
課題・1 『或る朝』の感想
課題・2 子供のころの、家族との思い出。あったら・・・・
課題・3 新聞・「人生案内」自分のアドバイスは
11月は、児童虐待防止月間です
2012年標語 「気づくのは あなたと地域の 心の目」
児童虐待のニュースが後を絶ちません。11月は児童虐待防止月間です。虐待している親は、自分が虐待していると気が付かない場合が多い。目に見えない虐待家族とは、どんなものかテキストとしジュール・ルナールの『にんじん』を読みます。
『めんどり』『しゃこ』『犬』『失礼ながら』『尿瓶』
課題・4 まず5作の感想は
課題・1 『或る朝』の感想
課題・2 子供の頃の家族との思い出
 
課題・3 相談された、あなたのアドバイスは
課題・4 『にんじん』感想 にんじん家の家族観察
「めんどり」
「しゃこ」
「犬」
「失礼ながら」
「尿瓶」
【ここまでで感じたにんじん家の家族印象】
一昨年101才で亡くなった熊谷元一は、日本を代表する写真家の一人である。今日、故郷喪失時代だが、熊谷が撮りつづけた写真には、故郷の原風景がある。心の古里がある。
2012年に下原ゼミは、文芸研究Ⅲで「熊谷元一研究」を立ち上げた。参加した学生は、孤軍奮闘するなかで、熊谷の写真に何を見、何を感じたか。これまでの研究成果が、ここにある。
                            ゼミ誌・下原敏彦
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下原と熊谷元一(1990)
作品感想と「ふるさと阿智村ものがたり~元一作品で実践 ! 回想法~」(DVD手引き)
マスメディアにみる熊谷元一評 ・・・・テレビ、出版物、写真掲載→
マスメディアにみる主な熊谷元一評論
①「熊谷元一さんの偉業」(永田浩三ブログ「隙だらけ好きだらけ日記」)
永田浩三(社会学者・ジャーナリスト・武蔵大学教授、元NHKプロデューサー)
熊谷元一研究・「文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信第7号」掲載
②「不覚にも涙のにじんだ目で」(『熊谷元一 なつかしの一年生』河出書房新社2001)
  あとがき 藤森照信(東京大学教授)
 熊谷元一研究・「文芸研究Ⅲ下原ゼミ通信第8号」掲載
③「いまみてもすごい写真だ !! 」アニメの巨匠・宮崎駿監督
 「今まで試みられなかった得がたき作品」農林大臣・有馬頼寧
④「プロ、アマの壁を乗り越えた作品」 飯沢耕太郎(写真論・日本大学芸術学部講師)
⑤昭和の記録/記憶 たゆまぬ「現在形」として矢野敬一・(国立静岡大学教授)
青弓社『写真家・熊谷元一とメディアの時代』2005・12・11 
代表作品『一年生』
『一年生』を読む ・・・・・・・・・・大野純弥
『一年生』を読む
大野純弥
正直な話、下原先生に「一年生」を研究素材にすると聞いた時はじめは気乗りし
なかった。僕が今まで触れた昭和の古き良き風景を写したと謳うものは、得てして
昭和ノスタルジーの押売り的な色が強くもはや胸やけ気味だったからだ。
小学生の頃、親の買っていた漫画「三丁目の夕日」を貪るように愛読した僕は人一
倍レトロチックな事物に惹かれていた。
しかし僕が高校生になると、当該漫画が映画化するに際し世間の懐古主義熱は爆発し、昭和時代の盲信的な強要を感じるようになり僕の中でその類のものは一種僻易としてきたのだ。どの時代にも光射せば影ができ、影あれば光に寄るものなのだ。極端な美化は懐古主義を偏向主義に卑しめてしまう。
ところが僕の勝手な論評を尻目に、熊谷元一氏の写真には「一年生」をはじめとしてそういったいやらしさが感じられるものは全くなかった。農村に生きる人々を
「貧しくも慎ましく希望に燃ゆる人たち」
と一括りにする事なく、村民一人一人を個として嘘なく映しだしている。
 それは正に熊谷氏がその時代を生き、寄り添い、その時代を希望を胸に記録した
からなのだろう。
 その為僕は自然にこの時代の風を受け入れ、「一年生」と同化することができた。
被写体は年端もいかぬ小学一年生である。赤石山脈に囲まれた養蚕業が盛んな
信州の農村に住む普通の子供達だ。女子はおかっぱ頭、男子は大抵坊主頭(おかげ
て表情の違いが良くわかる)。
 入学前の知能テストから既に彼らは被写体となり、日々の学校生活や時には自宅
での日常生活までも写真として切り取られている。下原先生曰く最初のうちは撮
られることへの抵抗もあったが、そのうちに撮られているのに気がつかない位になっ
ていたようで余程熊谷氏のカメラは生徒の生活に溶け込んでいたのだろう。生徒達
の振る舞いや表情がとてもリアルで豊かに写し出されている。
これは熊谷氏のカメラマンとしての腕と教師としての生徒との信頼関係によるもの
だとは思うが、それに加え被写体が一年生の少年少女であることも強く起因してい
ると考えられる。
 例えば同じ様にサラリーマンを被写体にして撮ったならば恐らく彼らはカメラを
常に意識し、自分の仕事ぶりがより良く映るように行動してしまい一挙手一役足
全て不自然なものになってしまうだろう。その点小学一年生はまだ先生の内申も関
係ないので臆する事なく有りのままで居られる。熊谷氏はそういった子供の優れた
被写体としての価値をよく知っていたのだろう。熊谷氏が故郷を絵として描く際に
わらべを主に据えたのもそんな意図があったようにも考えられる。
 「一年生」には生徒が一人だけで写っている写真が少ない。普通学校の先生が写す
クラスの写真はメインの生徒一人、もしくはグループをでかでかと中央に置き、周
りの生徒はろくに写っていないものが多い。これは後々父兄が写真を購入する際に
買い手が着くようにする配慮なのかもしれないが、やはりここで写真家との違いが
生まれる。
文芸研究Ⅲ・熊谷研究No.13 ――――――― 6 ―――――――――――――――――
 「一年生」では・:入学時に担任の挨拶を聞く新入生の後ろには神妙な面持ちで見
守る着物姿の母親達。教科書を朗読する生徒の横には飽き飽きとして虚ろな目で
レンズを睨む男子生徒や、教室の後方でひっそり欠伸をする女子生徒。蛇を得意気
に掴むガキ大将の脇には見切れながらも男子を軽く蔑視する女子の姿が映されて
いるのである。
 写真の中央だけでなくフレームぎりぎりにまで主役が写りこみ、それらの主役全
員が互いに作用し合って写真を創り上げているのだ。熊谷氏は風景、人間関係全て
を見事に切り取っている。
 写真の中にその当時の空気が生きているのだ。だから見る側としてもその空気を
肺一杯に吸い込めば簡単に感情移入が出来る。
 入学と言えば、学校に上がる年齢まで健康に育つかも危うかっただろう当時とし
ては親にも相当の感慨があったのだろう・:手を前に揃えて見守る母親衆の中に思
わず腕を組んでいる人もいるな、と写真と会話することも可能にしている。
「一年生」にはユーモラスな写真が多いのも特徴的だ。パンをかじる少年。眉間に
皺が入る程力を込めてコッペパンに食らいつく。その力強さは「これは俺のもんだ」な
のか「お腹空いたぜ」なのかは分からないが、とにかく勇ましい。その一方で右手で
は使わない箸を掴んでいる。しかも奥のパンをかじろうとしている少年も同様に箸
を掴んでいるのだ。これがどことなく可笑しく、微笑ましい。
 そして何と言っても校内放送で歯の衛生の話を聞く生徒の変遷は現代でも通じ
るユーモアを感じる。
手前の女子生徒は放送開始四分後から本を読み出す。眠りだす周囲の生徒がいる。
拗ねて教室に入らずに外で遊ぶ生徒。喧嘩をして壁に肩を押さえ付けられて半
泣きの生徒。教育者であれば直様叱ったり、仲裁に入ったりと何か指導しなくては
ならない場面。熊谷氏はただその光景にシヤッターを切っている。
喧嘩の顛末、負けた生徒が地面に力無く座り込み他の生徒達に囲まれている後ろ
姿まで写真に収めるしだいだ。これではいくらなんでも放任し過ぎで写真家として
は良いかもしれないが教師としては些か問題がありそうだ。
しかし、喧嘩の写真の添え書きで熊谷氏は「できるだけ追ってみたら、こどもを理解
する上にも役立った」と述べている。
 ここに熊谷氏の教師としての教育理念が垣間見える。熊谷氏の教育資料に生徒達
が掃除の時間にどこで何をしていたかを線でなぞり記録したメモがあった。「窓の近
くに寄って雑巾を持つたまま五分惚けている」等細かな描写も合わせて書いてあった。
しかもそれはクラス全員を記録していて、日替わりで観察していたのだという。
なかなか出来る作業ではない。この記録から熊谷氏は生徒一人一人の性格からク
ラスでの立ち位置に至るまでを分析していたという。
徹底的に生徒に向き合い、問題が起きた際にもその原因を見つめしっかり観察する。
その上で解決策を考じ、問題の根源を正す。教師の制裁、説教もその場しのぎのも
のであれば効果は一過性でしかない。
長期的に見た時、生徒にとっても熊谷氏の教育方法は有効だと思える。
何より当時の生徒であった下原先生達が熊谷氏を慕っていたことがその証しである。
「一年生」について考察して一番強く感じたのは、奇しくも「懐かしさ」だった。も
ちろん平成生まれの僕に木造の校舎や囲炉裏がそれを感じさせたわけではない。
昭和の一年生達の喜怒哀楽の表情が、幼いながらも牽制し合い作る関係性が僕に
も共通体験として引っ掛かりを生んだのだ。
時代や地域は違えど、幼少期の曇りのない眼で見る空は青く澄み、友は初めての他
者であることに変わりはない。自己形成の時に学んだ知識や教えは普遍的な規範をつくる。
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いつでも振り返って幼少期に心を寄せれば、自分の居場所を確認できる。
それは昭和でも平成でもいつでも同じことである。
「一年生」はそんな心の故郷への沢山の入口を含む写真集である。
1953年の山村小学生と1996年の都会の小学生 写真比較、絵日記と文集比較
1953年の小学一年生 ・・・・ 「一年生」の写真から 記念文集(『五十歳になった』)
写真
文集
1996年の小学一年生 ・・・・ 写真、絵日記、文集(大野・岩澤)
写真
絵日記
文集
感想 ・・・・ 43年間の違い(コメント大野、岩澤)
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創作・私が子どもだった頃
「たっちゃん」
 大野純弥
 6歳になった時、僕の生活はがらりと変わった。一年生に上がるのに合わせて文京区にある小さなアパートに引っ越したのだ。
アパートの名前は「アカデミーハイツ」。壁にはクリーム色のペンキがべ夕塗りされてい
て、ペンキがうねって出来た突起の先には埃が細かく付着しどす黒くなっていた。そして
それが見えない箇所にはシダの葉を申し訳程度にちよこっと生やしているといった装いだ
った。おまけに細い裏路地がそのまま傾斜したような坂の下にあったので、よほど車幅の
ない胆でない限りたどり着けないという鼠返し的な仕組みで閉鎖されていた。
しかし立地に関しては申し分なく、その極せま坂を上って大通り沿いにしばらく行ったら右手に曲がって今度は坂を下れば学校に到着という具合であった。もし学校までの道順を地図に描いたなら「コの字」をなぞるだけで済んだだろうがそれを描く機会は一度もやって来なかった。
僕はそんな新しい住まいをシダの葉ごと気に入っていたが、実のところこのアパートは
元はと言えば建設中の新居へ越生までの仮住まいでしかなかった。一年経ったらアカデミ
ーハイツより学校から二倍はどの距離の「ガーデンヴィレッデマンション」に移ることに
なっていたのだ。
アカデミーハイツに住む僕はその時クラスで二番目に学校に近かった。そしてガーデン
ヅイレスヂマンションに越したってクラスの中でまだ五番くらいにはいられた。
 しかし父親の言うように僕はクラスでの立ち位置を気にしていたわけではない。すっか
り愛着を持っていたのだ。ボロアパートとその周りのちゃんと水の出る井戸や必ず猫が魚
の入っていた発泡スチロールの箱の上で寝ている魚屋のある景色に。前に住んでいたマン
ションの景色よりもずっと。
 第一、前のマンションの名前は覚えていなかった。他の記憶も曖昧だった。
「引っ越してもユウタ君とマアチャンはずっと友達よ」
そう彼の母親が言っている間もマアチャンは右のマンホールの蓋にチョークを思い切りなすり付けていた。僕もぼんやり蓋の隙間にねじりこんでいくチョークの粉を眺めていた。それが前の家でのわずかな中の最後の思い出だ。
アカデミーハイツの目の前には公園があった。鉄棒、ブランコ、砂場そして切り株風
に造られているトイレ。それだけしかないちんけな公園だ。切り株には横枝が生えていて
そこに二匹リスのオブジェが乗っているのが公園の質の低さをより際立てていた。もちろ
んそれも僕は気に入っていた。二匹のリスの間に足を掛けると切り株トイレの上に登れた。
大体一メートル半くらいの高さがあってなかなかの見晴しを誇っていた。これはたっちゃ
んに教えてもらったことだった。
たっちゃんは二〇四号室に住んでいる同い年の少年で、二〇四号室の前には丁度階段が
あったので僕の住んでいる三〇四号室との優れたアクセスを理由に仲良くなった。
 たっちゃんは生まれてからアカデミーハイツ暮らしでそこでの楽しみ方を熟知していた。
あのお粗末な公園であんなにはしゃげたのは全くもって彼のおかげであった。切り株の展
望台から勢いをつけて飛ぶと塀を超えて公園の横にある寺の墓場に行くことができた。初
めて一人で公園で遊んだ時、たっちゃんはいとも簡単に切り株から「谷村家之墓」に飛び
乗って見せた。
「やってみたら簡単だよ。俺の妹だって楽勝だった」
 僕はたっちゃんの言葉を信用できなかった。僕には運動神経も勇気もなかったし、こ
―――――――――――――― 9 ―――――――― 文芸研究Ⅲ・熊谷元一研究No.13
の時ばかりは人を信じる心も失っていた。たっちゃんの手招きは罠でしかなくて、励まし
の言葉は詐欺の手口に思えた。トイレに登るだけでもかなり神経をびくつかせたというの
に、そこから飛べとは無茶だ。もうリス経由で地上に降りたい。
「お墓にいくとなにかあるの?」
 僕は大した利益のないことなら難癖をつけて帰ろうと思った。ほぼ初対面の少年に絆
されて足でも挫けば馬鹿な話だ。
「いや何もないよ。ぐるっと墓場を回って飽きたら寺の門から出る」
 利益はゼロだった。僕が面喰って唇を震わせていたら、たっちゃんはしゃがみ込んで
墓石の裏側を指でなぞりながら眺めた。
「谷村純一が怒り出すから早くしろ」
「悪いけどこわい」
僕は情けない気持ちを抑えて白状した。
「ユウタのユウは勇気の勇じゃないのか?」
「悪いけど優しいの方」
 たっちゃんは僕を軽く一瞥して墓石をぺしゃりと叩いてから飛び降りて寺のある方向
に走っていなくなってしまった。置いて行かれた。益々情けなくなってやっぱり嘘をつい
て家に帰ればよかったと思った。嘘をついて雄大の雄とでも言えばよかったとも思った。
その反面弟のシュウタを連れて二かくてよかったと安心していた。シュウタに見損なわれ
るのも嫌だったし、シュウタなら墓石に乗り移れた可能性があったからだ。僕よりも彼の
方が三つも下だったがよっぽど運動神経が良かったのだ。
たっちやんに今度会う時までに飛石練習をしておこう。学校の体育館のマットで練習す
れば怪我することはないだろう。あまりに惨めな思考を巡らしていると墓場の石塀が、がつ
がつ鳴った。
「今目のところはこれ使えよ」
 たっちやんが梯子を石塀打ち付けて僕に怒鴫っていた。僕がまた面喰って唇をぶるぶる
といわせていたら、たっちやんは首を左右に曲げて肩をぱきぱきいわせた。それが寺かど
こかから梯子を運んできたからこっちは肩が凝ったぞというサインだと気付いたのは次の
日の登校中たった。
「ごめん。置いてかれたと思った」
「いや、まあいいんだよ。本当は妹は二回落ちて足挫いてるし」
 僕は少し安心して大きく深呼吸してから石塀の上に渡った。塀に来るのは簡単だった。
これなら塀に一旦乗ってから墓石に乗れば大丈夫たったかも知れない。一気に墓石に飛び
移ろ正攻法しか考えていなかった自分に少し誠実さを感じた。
 梯子は全部降り切らないで二段分残してジャンプした。やっとたっちやんの友達になれ
た気がした。たっちやんは塀に立掛けた梯子を取り外し肩に担いだ。
「ほんとに何も面白いもんとかないの?」
 せっかく訪れた新境地に欲張りにも僕は収穫を求めた。
「墓と梯子くらいしかないよ」
 たっちやんは表情も変えないでそう言い放った。僕は洒落たこと言うよなと思ったが、
言えた義理ではないという分別はあったのでたっちやんの後ろに回って梯子を担いだ。
1953年当時、村には公園はなかった。学校の校庭が公園の代わりだった。
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3.特集「東北紀行」20頁(写真含む)
秋田角館に熊谷元一写真童画展を見に行く
旅日誌 ・・・東京駅 → 平泉 → 花巻 → 田沢湖 → 秘湯乳頭温泉
        → 方分校 → ぷかぷ館
平泉 = 写真 コメント  
花巻 = 取材写真、コメント
宮沢賢治記念館 コメント  
田沢湖=遊覧船写真 コメント
秘湯乳頭温泉 = 写真、宴会風景、合流組との全員写真 コメント
・方分校見学・・・・・・・・・・・・・・会地小学校との写真比較 コメント
・「熊谷元一写真・童画展」・・・・・・・・見学写真、パンフレッド コメント
・新聞・・・・・・・・・・・・・・・・・朝日新聞秋田局の記事紹介 コメント
4.世界線上としての熊谷元一 20頁(年譜含む)
米国作家サローヤンとの比較で
サローヤンの略歴 熊谷元一の略歴と比較
『我が名はアラム』感想  故郷回帰と熊谷の故郷記録にみる回想
 
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熊谷元一研究
写真編 岩波写真文庫『一年生』検証と謎解き
『一年生』には、大きな謎がいくつもある。1つ1つをあげて解明をこ試みたい。
謎1. 表紙写真の謎 表紙・裏表紙の写真。入学式の写真。撮影年月日は昭和29年と記されている。中身は28年入学の子どもたちである。なぜ、入学式の写真だけが一学年下の29年の親子か。
1955年に刊行された岩波写真文庫『一年生』に写されている子どもたちは、ほとんどが熊谷が受け持った東組一年生と隣西組クラスの一年生である。
よって入学した1953年(昭和28年)4月1日~1954年(昭和29年)3月30日の間に撮ったものである。
が、上の写真文庫『一年生』の表紙作品の子どもたちは、一学年下の1954年入学こどもたちである。(被写体・下原証言)なぜ、熊谷は、1年のはじまりである入学式の日、受け持つ子どもたちの晴れ姿をカメラに収めることができなかったのか。左下の写真も同じである。在校生に迎えられて講堂に入ってきた一年生。この子どもたちも次年度の子どもたちである。肝心かなめの「一年生」撮影開始のこの日、熊谷は何故にシャッターを押さなかったのか。そのことについて、生前、聞き忘れてしまったことが悔やまれる。1953年4月1日、私(下原)は、この日、入学した。が、担任の男先生(熊谷)のことは記憶にない。
                          肝心のこの日、熊谷はなぜ ?
謎2 .熊谷の名を世に知らしめたのは、「コッペパンをかじる少年」の写真である。なんでもない給食時の光景だが、この写真は奇跡の場面といえるのである。
 ちなみに、この写真に対するメディアの感想・評価はこのようであった。
2頁の写真「コッペパンの少年」は、熊谷の代表作である。1953年(昭和28年)、長野県下伊那郡會地村(現阿智村)・会地小学校一年東組教室内にて撮影されたもの。
 1955年第1回毎日写真賞受賞作品・岩波写真文庫『一年生』に所収。写真界の金字塔とも言われる『一年生』にあって、このコッペパンにかじりつく少年の写真は、あまりにも有名だ。江戸東京博物館はじめ山形県酒田市写真美術館や東京都清瀬市郷土資料館など、これまで多くの公共、私設の施設で熊谷元一写真展が開催されてきた。その都度、宣伝されたポスターには、いつも拡大されたこの写真があって見る人の目を引いた。
 この「コッペパンの少年」について、熊谷元一研究家である国立静岡大学教授・矢野敬一氏は、著書『写真家・熊谷元一とメディアの時代』の「プロローグ 記録する視線記憶された昭和」の冒頭において、次のように書いている。
 一枚の写真、大きなコッペパンにかじりつく少年のまなざしはどこに向けられているのか、それはわからない。しかしその表情の真剣さに、写真を目にする者は誰しもがほほえましい気分になるだろう。食べるということに、はたして飽食の時代の子どもたちはこれほどに真剣な面差しを浮かべるだろうか。写真に写し出されているのは「昔」だが、大正
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や明治といった遠い過去のことではない。学校でパンを食べることができるようになったのは、いうまでもなく戦後のことだからだ。ちょつと年配の者ならば、ふっと自分の幼かったころのことを思い起こすかもしれない。モノクロームの世界に写し込まれた、貧しかったが心豊だった時代。そんなノスタルジックな気分を写真は喚起してくれることだろう。
・・・略・・・「昭和」という時代の共有された記憶がこの写真には象徴されている。
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 著者は、この写真に「過ぎ去った昭和」と言う時代への懐古。あの狂騒的な高度経済成長前の甘酸っぱい懐かしさを感じながらも、冷静に客観視している。
 
しかしそうした普遍性の一方で、この写真を規定する具体的な時代性、地域による固有性についても見落とすべきではない。
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 として、被写体や時代をしっかり見据えその分析、考察を行っている。その結果、「同じ写真であっても時代によって異なった受け止め方がされている。」ここでは、この「コッペパンの少年」に終始するが、このような真実も明らかにしている。
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 少年が口にするパンは、実は給食のものではない。当時の会地小学校の給食は味噌汁だけだった。四方を山に囲まれた山国の村で農業を営む家に生まれ育った児童が多くを占めていたなか、昼食にパンを持参できるのは非農家の子どもに限られていて羨望の対象だった。(この指摘通り当時、農家の子にとってパンは手の届かない食べ物だった)
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【43年後の被写体の証言】
 私の一番の思い出は、何かトレードマークのようなコッペパンの写真です。この写真のお陰で、私の顔を知らない方でも思い出してくれる有り難い写真です。今、あの時どのように写されたのか思い出すことはできません。
 私は家庭の事情により、小学校三年の二学期かと思いますが、名古屋へ転校しました。そして、現在、岐阜の地で、会地のことはすっかり忘れていましたが、(この写真で)昔の事を思い出す事が出来、こんなに素晴らしい過去(一年生)があったのかと改めて感謝した次第です。
    (記念文集『五十歳になった一年生』から)
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編集室便り
  

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