文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.210

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)1月28日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.210
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                              

編集発行人 下原敏彦

                              
9/24 10/1 10/15 10/22 10/29 11/12 11/19 11/26 12/3 12/10 
1/7 1/21 1/28
  
2012年、読書と創作の旅
1・28下原ゼミ
1月28日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室
1. 「2012年、読書と創作の旅」を終えて
 2.  読むことの習慣化の最後、一日観察「ひがんさの山」下原作
 3. 世界名作読みの最後「最後の授業」ドーデー
   
 最後まで参加の皆さん、欠席のみなさん、この1年、共に旅で
きたことをうれしく思います。
「2012年、読書と創作の旅」を終えて
「2012年、読書と創作の旅」本日、無事ゴールしました。不況と政変、想定外の猛暑と豪雨のなか、参加人数も定まらない厳しい旅でした。が、最後まで船内にとどまり操縦桿を放さなかった勇敢な皆さん、長らくの旅お疲れさまでした。乾杯 !
思えば昨春、4月、12名のゼミ生と旅立った旅でした。どの顔も、希望に満ちていたように思います。が、旅半ばを過ぎてみると、同行者は半減していました。サークル活動、家庭事情、健康事情。理由は、多々あるかと想像しました。一人減り二人減りとクシの歯が抜け落ちていくように空席が目立っていきました。そんななか、心強かったのは、参加者の結束が、より一層強くなっていったことです。
不安を胸に臨んだ、軽井沢でのマラソン朗読会の完走。他学科からの転科で、右も左もわからないなか孤軍奮闘でゼミ誌編集をした石川編集長の活躍。いつもクールだが頼りがいのある梅津君、いるだけで和ませてくれる明るくなった鞆津君、おちゃめだったが眼鏡をとったらおしとやかさんに見えた志村さん、何でも笑い飛ばして朗らかにしてくれるゴット姉ちゃんの古谷さん。風のように現れ、去っていく後藤君、ときどきみえた山野君、前期はよく参加した根本さん、矢代さん、吉岡さん、小妻君、振り返れば、懐かしい顔顔。
学問的・研究的においては、たいした成果を与えることができなかった。そんな悔いも残る。が、後期後半になっても、変わらない参加者。そのことに、このゼミも無駄ではなかった、と安堵した。2013年4月からは、新しい旅立ちがはじまる。からだに気をつけて、有


意義な学生生活を送ってください。
 
それでは、この1年、ほんとうにありがとう ! さようなら
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ラストプログラム この旅は、「書くこと」「読むこと」の習慣化が目的でした。今日は、旅の最後となるわけですが、目標に近づくことはできたでしょうか。
1.「2012年、読書と創作の旅」を振り返って
 なにもなかった人、なにかあった人、ゼミ選びが失敗だったと思う人、様々と思いますが、創作するのに無駄はありません。たとえ、面白くなくても、いつか、面白かったと思える日がくるかもしれません。
2. 最後のゼミですが、いつも通りのゼミを行います。
読むことの習慣化 → 最後になりましたが、下原作『ひがんさの山』を読んでみます。
下原の子どものころの、自分の一日観察です。
『ひがんさの山』平成12年に地元新聞社(南信州新聞社)主催の童話賞受賞作品。20代の頃、いまから40年前、書いてそのままになっていたが、平成12年の春、地元の新聞社が「伊那谷の子どもたちへのメッセージ」に文学賞募集していると聞き応募したもの。文と絵は下原。ちなみにこの作品は、四谷大塚の国語6年予習シリーズの試験問題として出題。また、連作の『コロスケのいた森』は、平成20年埼玉県立入試問題、平成21年には大阪府立入試問題として出題された。平成25年度まで全国問題集。
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3. 読むことの習慣化 → 最後の世界名作読みは『最後の授業』です
アルフォス・ドーデー(1840-1897)『最後の授業』について
 
 1870年9月4日、フランスはドイツ統一プロイセンの首相ビスマルクに敗れた。ナポレオン3世はセダン城で降伏した。国境のアルザス地域は、プロイセンに併合されることに。日本もかつて同じようなことをした。で、現在、靖国問題となって尾を引いている。
 普仏戦争の結果、フランスが負けてアルザス地方の村はプロシアの兵隊であふれた。併合がはじまったのだ。が、この国家の危機も子供たちにはわからない。しかし、学校へ行って、はじめて少年は実感する。なんと国語だったフランス語が、明日からはドイツ語になるというのだ。少年は、フランス語の「最後の授業」を受ける。
 普仏戦争とは何か、HPで検索すると、下記のように記してある。
普仏戦争1870年~1871年
プロイセンとフランス間で行なわれた戦争。スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦。プロイセン側が圧倒的に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降伏、退位。パリでは共和制の国防政府が樹立され抗戦を続けたが、1871年パリを開城して敗戦。フランスはフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌ(アルザス・ロレーヌ地方)の大部分を割譲、賠償金50億フランを支払った。戦争終結直前の1871年1月8日、プロイセン王・ヴィルヘルム1世がベルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ統一が達成された。
プロイセン・フランス戦争、独仏戦争とも。
 「最後の授業」は、ドーデーが1873年に出した短編集『月曜物語』のなかの一編。パリの新聞に掲載(1871-1873)されたなかの一つ。敗戦国の悲哀と愛国心を描いた名作。
普仏戦争とモーパッサン
 戦争は、いつの時代でも悲惨で忌むべき出来事である。が、不幸な中に幸いを見つけるとすれば、この戦争を材料にした、多くの名作が生まれたことである。短篇の名手ギ・ド・モーパッサン(1850-1893)もそうした作品を書いた一人である。
 1870年7月14日プロシャとフランスは領土拡張の衝突から戦端を開いた。当時20歳だったモーパッサンは招集され、つぶさに戦争を観察した。そして、後年、数々の短篇を書いた。いずれも名作である。いまも世界文学においてモーパッサンの右に出る短篇作家はいない。モーパッサンの出世作『脂肪の塊』は、あまりにも有名だが、このときの戦争体験であ
る。「二人の友」の他、「母親」「狂女」「フィフィ嬢」なども傑作である。
ドーデーとシーボルト、そして日本
 アルフォンス・ドーデー(Alphonse Daudet 1840-1897)この作家を知らなくても、シーボルトの名は、たいていの日本人は知っている。1823年、オランダ商館の医員として長崎に着任。日本の動植物・地理・歴史・言語を研究。鳴滝塾を開いて高野長英らに医術を教授。1828年帰国、59年再来航、62年に帰国。日本の医学、開国に大いに貢献したドイツ人。著書に『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』などがある。(1796-1866)
 1866年の春、ドーデーはシーボルトと知り合った。作家の言葉を借りれば「私たちはすぐに大の仲良しとなった」。場所は、パリ、テュイルリー宮。オランダ国勤務のバヴァリヤのシーボルト大佐は、ナポレオン三世に不思議国ジャポン開拓の国際的協会創立計画の嘆願に訪れていた。若い作家は、著名な冒険家の話を喜んで聞いた。気に入ってシーボルトは、16世紀の日本の悲劇「盲目の皇帝」の校閲を頼んだ。が、ドイツに戦争が起きて頓挫。若い作家は、あきらめずにミュンヘンに追った。「・・・そりゃあ君すばらしいぜ」大佐はその晩ばかに元気だった。が、翌朝、自宅に行くと彼は亡くなっていた。72歳だった。「盲目の皇帝」は題だけで終わった。
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 ドーデーが観察したシーボルト大佐「72歳というのにかくしゃくたるこの背の高い老人の顔かたち、白く長いひげ、引きずるような長い外套、あらゆる科学会の色とりどりのリボンで飾られたぼたん穴、気の弱さとずうずうしさとを同時に示す外国人らしい様子が、彼が入ってくるたびにいつも人々を振り返らせるのだ。」
シーボルトと日本
 シーボルトが日本医学に与えた功績は大きい。が、帰国船が台風の被害を受けたことから、思わぬ大事件になった。事件を「歴史新聞」は以下のように報じている。
積み荷から禁制品
シーボルトスパイ容疑で事情聴取へ
 1828年8月10日、来月オランダに帰国予定だったドイツ人医師フォン・シーボルトの荷物から、幕府が海外への持ち出しを禁止している日本地図など数点が発見され、シーボルトは長崎奉行から取り調べを受けることになった。シーボルトは蘭学の普及などに尽力していたが、今回の調査の結果いかんではスパイ容疑で国外追放などの厳しい処分もあるとみられる。(「歴史新聞」)
名作読み
一月の歌
静と動を見事に詠む
もののふの 矢並(やなみ)つくろう小手の上に 霰たばしる 那須の篠原
鎌倉右大臣實朝郷家集 岩波文庫『金槐和歌集』斉藤茂吉校訂 1972年7月20日発行
 凛とした寒さが張りつめる雪原の那須の野。時が静止したような静寂があたりをおしつつんでいる。時折り、霰がたばしるなか武士が一人黙々と矢並をつくろっている。
 実朝は12歳のとき、兄頼家の後を継いで鎌倉三代の将軍になる。が、1219年28歳で北条の手によって暗殺される。母親に裏切られた薄幸な生涯だった。
感謝にかえて
最後の名作読みは、新たな旅立ちの餞としてタゴールのこの言葉を贈ります。
わたしは苦しみ、絶望し、そして死を知った。そしてわたしはこの偉大な世界にいることをよろこぶ。
『タゴール詩選2』宮本正清訳「迷える小鳥322」アポロン社 1967年6月発行
※ラビーンドラナート・タゴール(1861-1941)インド・ベンガル語詩人。11歳ころから詩を発表、15歳のとき兄たちと雑誌を編集。詩集『ブラバート・サンギュート』、つづいて『ブラクリティル・ブラティショード』を発表し「魂の永遠の自由は愛の中に、偉大なものは小さなものの中に、無限は形態の絆の中に見い出されるという彼の根本思想を明らかにした。1912年、詩集『ギーターンジャリ』でアジア初のノーベル賞。(『世界文学小事典』)
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「2012年、読書と創作の旅」日誌を読む
~「書くこと」「読むこと」の習慣化を目指した旅を振り返る~
□4月16日 13名の希望カード届く。が、(1名辞退)
□4月23日 12名希望、自己紹介、班長・ゼミ誌作成委員選出 テキスト読み
12名は以下の皆さんでした。
梅津、後藤、鞆津、山野、小妻、小野澤、吉岡、矢代、根本、石川、志村、古谷
班長=梅津瑞樹さん 編集委員=石川舞花さん、後藤啓介さん
読み=テキスト『菜の花と小娘』、嘉納治五郎「精読と多読」、編集室「読書のススメ」
撮影=1年間無事の旅を祈願して全員で写真撮影。
この日、この時、一丸となって、羽ばたいた12名でしたが・・・・・。
      
□5月7日 早くも暗雲、この日の参加者は5名、2名の届け出
 ゼミ合宿の件 課題発表 テキスト読み
司会=吉岡未歩
出席=吉岡、根本、石川、志村、古谷 届出(病欠)=矢代、鞆津
読むことの習慣化 → テキスト読み『ある朝』
書くことの習慣化 → 『ある朝』感想 課題9~10
□5月14日 暗雲やや晴れる、8名参加 ゼミ合宿採決 課題発表 テキスト読み
司会=古谷麻依
出席=梅津、鞆津、吉岡、矢代、根本、志村、石川、古谷
読むことの習慣化 → テキスト読み『夫婦』『網走まで』
書くことの習慣化 → テキスト感想・創作 「車窓観察」、「車内・一日観察」
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□5月21日 またもや暗雲、5名 1名病欠連絡あり 人生相談「私はこう思う」、
司会=鞆津正紀
出席=鞆津、吉岡、志村、石川、古谷
読むことの習慣化 → 提出課題の読み
書くことの習慣化 → 課題15~17配布
□5月28日 6名 ゼミ雑誌ガイダンス報告、ゼミ合宿について、解釈・国語問題
ゼミ誌ガイダンス報告=石川舞花・後藤啓介
出席=梅津、鞆津、後藤、志村、石川、古谷
書くことの習慣化 → 課題配布=18・19・20
□6月4日 4名 課題の読みと感想。テキスト関連作品の読み
司会=石川舞花
出席=吉岡、根本、石川、古谷
読むことの習慣化 → テキスト関連で、夏目漱石『三四郎』の車内観察の部分。
書くことの習慣化 → 課題配布=21・22・23
梅津班長の指導で、ゼミ合宿実施の方向に
□6月11日 7名 ゼミ誌・ゼミ合宿報告、課題報告、テキスト読み
司会=志村成美
出席=梅津、鞆津、後藤、志村、石川、古谷、矢代
ゼミ合宿(梅津)=第一(8/1~8/2)、第二(8/8~8/9)希望を申請
ゼミ誌編集報告=構想中、後半にタイトル、版などを決めていく
課題報告=読みと評・感想
読むことの習慣化 → テキスト読み『出来事』百年前の車内観察。当時の日本語を知る。
書くことの習慣化 → 課題配布=24・25・26
ゼミ合宿『軽井沢』に決定・ゼミ人数、1名離脱で11名に
□6月18日 6名 ゼミ合宿報告、8月1日~2日決定、軽井沢。課題報告
 ゼミ人数11名となる、12名だったたが、この日1名離脱と判明。
司会=吉岡未歩
出席=後藤、鞆津、吉岡、志村、古谷、石川
読むことの習慣化 → 課題報告、「振り込め詐欺」「隣人トラブル」についての感想
書くことの習慣化 → 課題配布=27・28・29
□6月25日 3名 ゼミ合宿について(梅津班長)ゼミ誌会議は先送り
司会=全員(参加者が少なかった為)
出席=梅津、鞆津、石川
課題報告=なし(ゼミ合宿、ゼミ誌の話合い)
書くことの習慣化 → 課題30・31・32
読むことの習慣化 → 『空中ブランコに乗った大胆な青年』サローヤン
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□7月2日 5名 ゼミ誌会議、ゼミ合宿出欠連絡
司会=石川舞花 ゼミ雑誌作成会議・議長として進める
出席=梅津、鞆津、志村、古谷、石川
ゼミ合宿について=梅津班長各人にメール連絡。2名不参加を即答。参加4名。
□7月23日 5名、ゼミ雑誌作成について・ゼミ合宿集合場所時間について。
司会=梅津 ゼミ合宿について
出席=梅津、鞆津、志村、古谷、石川
ゼミ誌について → 石川編集委員から報告
読むことの習慣化 → 課題としてテキスト『濠端の住まい』
書くことの習慣化 → 課題=自分観察、私の夏休み
☆ 8月1日(水)~ 2日(木)時空調査隊、1845年のロシアへ
  ゼミ合宿(軽井沢)ドストエフスキー作『貧しき人々』マラソン朗読会
参加者 梅津瑞樹  志村成美  古谷麻依  鞆津正紀  全員完走
「参加してよかった。『貧しき人々』を読んでよかった」は、全員の感想。
長い人生においても、一晩で中編小説を読み切ることは、ほとんどない。そう思います。それだけにマラソン朗読会のあの夜の思い出は、永遠です。
後期ゼミは、ゼミ誌作成 & 家族観察・模擬裁判を目指しました。
□9月24日 8名 ゼミ誌原稿提出。100%近く、ゼミ合宿報告、夏休み報告
司会=石川編集長、ゼミ雑誌編集月間を宣言。
出席=石川、古谷、志村、根本、山野、後藤、梅津、鞆津
読むことの習慣化 → 創作・車内観察報告
書くことの習慣化 → 課題1.模擬裁判へ向けて「誘拐事件容疑者調書」作成
□10月1日 5名 ゼミ誌編集会議、番組表、レイアウトなど
司会=梅津
出席=石川、古谷、志村、鞆津、梅津           
サバイバルゲーム「遭難、私ならどうする」個人と集団の場合
           
□10月15日 6名、ゼミ雑誌編集作業・会議
司会=石川編集長
出席= 石川、古谷、志村、鞆津、梅津、後藤
            
□10月22日 4名 ゼミ雑誌作成進行報告
司会=梅津
出席=石川、古谷、志村、梅津
模擬裁判に向けて → 広島女児誘拐事件について
読むことの習慣化 → テキスト『兒を盗む話』読み
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□10月29日 4名 病欠1 ゼミ雑誌作成報告、入稿近し。
司会=古谷
出席=石川、古谷、志村、鞆津 
読むことの習慣化 → 新聞「人生案内」自分ならこう答えるを議論
           関連でO・ヘンリーの作品「釣りそこねた恋人」を読む。
□11月12日 4名 病欠1、届け出1  ゼミ誌原稿校正作業
司会=梅津
出席=古谷、志村、鞆津、梅津 
紙芝居口演 → 「少年王者」口演・梅津瑞樹
□11月19日 2名 病欠1 ゼミ誌編集・校正作業
出席= 石川舞花、鞆津正紀  
□11月26日 1名 サークル活動で欠席多し、紙芝居の材料確認、欠席者待ちと連絡
出席=石川舞花 ゼミ誌刊行経緯報告
恒例の3ゼミ合同発表会は『灰色の月』朗読と紙芝居口演
□12月3日 山下ゼミ、清水ゼミ、下原ゼミ参加の発表会、6名
出席者 = 梅津瑞樹、石川舞花、古谷麻依、志村成美、鞆津正紀、山野詩門
            
□12月10日 6名 模擬裁判
司会=鞆津
出席=鞆津、志村、古谷、山野 石川、小妻
読むことの習慣化 → テキスト『范の犯罪』
模擬裁判 → 全員で
□1月7日 4名 正月報告、小倉百人一首(詠み=志村・下原)
出席者 = 鞆津正紀、志村成美、古谷麻依、石川舞花 4名
     鞆津 VS 石川 49対51で、石川の勝利
□1月21日 4名 社会観察で議論、家族観察の読み
出席者 = 鞆津正紀、志村成美、古谷麻依、梅津瑞樹
読むことの習慣化 → ジュナール『にんじん』数編の読み。
社会観察 → 暴力指導(教育)の是非。「にんじん」の家庭について
□1月28日 2012年の旅を振り返って。この旅で変わることができたか。
予定
読むことの習慣化 → 下原作『ひがんさの山』、ドーデー『最後の授業』
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付録
最後の授業 ~アルザスの一少年の物語~
      A・ドーデー(桜田佐訳)
 その朝は学校へ行くのがたいへんおそくなったし、それにアメル先生が分詞法の質問をすると言われたのに、私は丸っきり覚えていなかったので、しかられるのが恐ろしかった。一時は、学校を休んで、どこでもいいから駆けまわろうかしら、とも考えた。
 空はよく晴れて暖かかった!
 森の端でつぐみが鳴いている。りベールの原っぱでは、木挽き工場の後でプロシア兵が調練しているのが聞こえる。どれも分詞法の規則よりは心を引きつける。けれどやっと誘惑に打ち勝って、大急ぎで学校へ走って行った。
 役場の前を通った時、金網を張った小さな掲示板の傍に、大勢の人が立ちどまっていた。二年前から、敗戦とか徴発とか司令部の命令というようないやな知らせはみんなここからやってきたのだ。私は歩きながら考えた。
「今度は何が起こったんだろう?」
 そして、小走りに広場を横ぎろうとすると、そこで、内弟子と一緒に掲示を読んでいたかじ屋のワシュテルが、大声で私に言った。
「おい、坊主、そんなに急ぐなよ、どうせ学校には遅れっこないんだから!」
 かじ屋のやつ、私をからかっているんだと思ったので、私は息をはずませてアメル先生の小さな庭の中へ入っていった。
 ふだんは、授業の始まりは大騒ぎで、机を開けたり閉めたり、日課をよく覚えようと耳をふさいでみんな一緒に大声で繰り返したり、先生が大きな定規で机をたたいて、
「も少し静かに!」と叫ぶのが、往来まで聞こえていたものだった。
 私は気づかれずに席につくために、この騒ぎを当てにしていた。しかし、あいにくその日は、何もかもひっそりとして、まるで日曜の朝のようだった。友だちはめいめいの席に並んでいて、アメル先生が、恐ろしい鉄の定規を抱えて行ったり来たりしているのが開いた窓越しに見える。戸を開けて、この静まり返ったまっただなかへ入らなければならない。どんなに恥ずかしく、どんなに恐ろしく思ったことか!
 ところが、大違い。アメル先生は怒らずに私を見て、ごく優しく、こう言った。
「早く席へ着いて、フランツ。君がいないでも始めるところだった。」
 私は腰掛をまたいで、すぐに私の席に着いた。ようやくその時になって、少し恐ろしさがおさまると、私は先生が、督学官の来る日か賞品授与式の日でなければ着ない、立派な、緑色のフロックコートを着て、細かくひだの付いた幅広のネクタイをつけ、刺しゅうをした黒い絹の縁なし帽をかぶっているのに気がついた。それに、教室全体に、何か異様なおごそかさがあった。いちばん驚かされたのは、教室の奥のふだんは空いている席に、村の人たちが、私たちのように黙って腰をおろしていることだった。三角帽を持ったオゼールじいさん、村の村長、元の郵便配達夫、なお、その他、大勢の人たち。そして、この人たちはみんな悲しそうだった。オゼールじいさんは、縁のいたんだ古い初等読本を持って来ていて、ひざの上
にひろげ、大きなめがねを、開いたページの上に置いていた。
※分詞法=動詞が変形し、形容詞の機能を持つもの。インド・ヨーロッパ語族の諸国語に見られ、英語では現在分詞、過去分詞の二つがある。(『広辞苑』)
 私がこんなことにびっくりしている間に、アメル先生は教壇に上がり、私を迎えたと同じ
優しい重味のある声で、私たちに話した。
「みなさん、私が授業するのはこれが最後(おしまい)です。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました・・・・新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです。どうかよく注意してください。」
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 この言葉は私の気を転倒させた。ああ、ひどい人たちだ。役場に掲示してあったのはこれだったのだ。
 フランス語の最後の授業!・・・・・
 それだのに私はやっと書けるぐらい!ではもう習うことはできないのだろうか!このままでいなければならないのか!むだに過ごした時間、鳥の巣を探しまわったり、ザール川で氷滑りをするために学校をずるけたことを、今となってはどんなにうらめしく思っただろう!さっきまであんなに邪魔で荷厄介に思われた本、文法書や聖書などが、今では別れることのつらい、昔なじみのように思われた。アメル先生にしても同様であった。じきに行ってしまう、もう会うこともあるまい、と考えると、罰を受けたことも、定規で打たれたことも、忘れてしまった。
 きのどくな人!
 彼はこの最後の授業のために晴着を着たのだ。そして、私はなぜこのむらの老人たちが教室のすみに来てすわっていたかが今分かった。どうやらこの学校にあまりたびたび来なかったことを悔やんでいるらしい。また、それは先生に対して、四十年間よく尽くしてくれたことを感謝し、去り行く祖国に対して敬意を表するためでもあった・・・・
 こうして私が感慨にふけっている時、私の名前が呼ばれた。私の暗しょうの番だった。このむずかしい分詞法の規則を大きな声ではっきりと、一つも間違えずに、すっかり言うことができるなら、どんなことでもしただろう。しかし最初からまごついてしまって、立ったまま、悲しい気持で、頭もあげられず、腰掛の間で身体をゆすぶっていた。アメル先生の言葉が聞こえた。
「フランツ、私は君をしかりません。充分罰せられたはずです・・・そんなふうにね。私たちは毎日考えます。なーに、暇は充分ある。明日勉強しょうつて。そしてそのあげくどうなったかお分かりでしょう・・・・ああ!いつも勉強を翌日に延ばすのがアルザスの大きな不幸でした。今あのドイツ人たちにこう言われても仕方がありません。どうしたんだ、君たちはフランス人だと言いはっていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか!・・・この点で、フランツ、君がいちばん悪いというわけではない。私たちはみんな大いに非難されなければならないのです。」
「君たちの両親は、君たちが教育を受けることをあまり望まなかった。わずかなお金でもよけい得るように、畑や紡績工場に働きに出すほうを望んだ。私自身にしたところで、何か非難されることはないだろうか?勉強するかわりに、君たちに、たびたび花園に水をやらせはしなかったか?私があゆを釣りに行きたかった時、君たちに休みを与えることをちゅうちょしたろうか?・・・・」
 それから、アメル先生は、フランス語について、つぎからつぎへと話を始めた。フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強い言葉であることや、ある民族がどれいとなっても、その国語を保っているかぎりは、そのろう獄のかぎを握っているようなものだから、私たちのあいだでフランス語をよく守って、決して忘れてはならないことを話した。それから先生は文法の本を取り上げて、今日のけいこのところを読んだ。あまりよく分かるのでびっくりした。先生が言ったことは私には非常にやさしく思われた。私がこれほどよく聞いたことは一度だってなかったし、先生がこれほど辛抱強く説明したこともなかったと思う。行ってしまう前に、きのどくな先生は、知っているだけのことを
すっかり教えて、一どきに私たちの頭の中に入れようとしている、とも思われた。
 日課が終わると、習字に移った。この日のために、アメル先生は新しいお手本を用意して
おかれた。それには、みごとな丸い書体で、「フランス、アルザス、フランス、アルザス。」と書いてあった。小さな旗が、机のくぎにかかって、教室じゅうにひるがえっているようだった。みんなどんなに一生懸命だったろう!それになんというし静けさ!ただ紙の上をペンのきしるのが聞こえるばかりだ。途中で一度こがね虫が入ってきたが、だれも気をとられな
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.210
い。小さな子どもまでが、一心に棒を引いていた。まるでそれもフランス語であるかのように、まじめに、心をこめて・・・学校の屋根の上では、はとが静かに鳴いていた。私はその声を聞いて、
「今にはとまでドイツ語で鳴かなければならないのじゃないかしら?」と思った。
 ときどきページから目をあげると、アメル先生が教壇にじっとすわって、周囲のものを見つめている。まるで小さな校舎を全部目の中に納めようとしているようだ・・・無理もない!四十年来この同じ場所に、庭を前にして、少しも変わらない彼の教室にいたのだった。ただ、腰掛と机が、使われているあいだに、こすられ、みがかれただけだ。庭のくるみの木が大きくなり彼の手植えのウブロンが、今は窓の葉飾りになって、屋根まで伸びている。かわいそうに、こういうすべての物と別れるということは、彼にとってはどんなに悲しいことであったろう。そして、荷造りしている妹が二階を行来する足音を聞くのは、どんなに苦しかったろう!明日はでかけなくてはならないのだ、永遠にこの土地を去らなければならないのだ。
 それでも彼は勇を鼓して、最後まで授業を続けた。習字の次は歴史の勉強だった。それから、小さな生徒たちがみんな一緒にバブビボビュを歌った。うしろの、教室の奥では、オゼール老人がめがねを掛け、初等読本を両手で持って、彼らと一緒に文字を拾い読みしていた。彼も一生懸命なのが分かった。彼の声は感激に震えていた。それを聞くとあまりこっけいで痛ましくて、私たちはみんな、笑いたくなり、泣きたくもなった。ほんとうに、この最後の授業のことは忘れられない・・・
 とつぜん教会の時計が12時を打ち、続いてアンジェリスの鐘が鳴った。と同時に、調練から帰るプロシャ兵のラッパが私たちのいる窓の下で鳴り響いた・・・アメル先生は青い顔をして教壇に立ち上がった。これほど先生が大きく見えたことはなかった。
「みなさん」と彼は言った。「みなさん、私は・・・私は・・・」
 しかし何かが彼の息を詰まらせた。彼は言葉を終わることができなかった。
 そこで彼は黒板の方へ向きなおると、白墨を一つ手にとって、ありったけの力でしっかりと、できるだけ大きな字で書いた。
「フランスばんざい!」
 そうして、頭を壁に押し当てたまま、そこを動かなかった。そして、手で合図した。
「もうおしまいだ・・・お帰り。」
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 『最後の授業』について、領土問題だけに、様々な見方がある。ドーデーは、フランス人だから当然、フランスが正しい、そんな見方で書く。占領したプロシャが悪いように見えてしまう。その観点から、この作品を名作ととりあげるのは不公平との批判もある。
 プロパガンダ的文学は、文学とはいえない。この作品が名作なのは、どちらの国でもいい。占領しあい、その度に母国語を押しつける。その政治の悲しさを訴えているからだ。
 尖閣問題、北方領土、青島、領土問題で緊張する現在だが、この作品は、領土紛争の虚しさを文学を通して訴えている。けっしてフランスが正しいと言っているのではない。
 読むことの習慣化で身につけただろうか。しっかり観察すれば、その奥にあるものが見えてくる。この作品から、そのことを少しでも汲み取ってもらえれば幸いである。
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文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.210―――――――― 12 ――――――――――――――――
掲示板
 お知らせ ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会
月 日  2013年2月23日(土)
時 間  午後1時30分 ~ 4時45分  二次会有り
会 場  池袋・東京芸術劇場コミュニケーション7(小会議室7)
作 品  『スチェパンコヴ村とその住人』報告者・江原あき子
会 費  (日芸生無料)
2013年の計画 土壌館では、2013年度は以下のことを計画している。
『熊谷元一研究』創刊号の刊行
創刊号は、「熊谷元一と『一年生』」
岩波写真文庫『一年生』と担任・熊谷元一との触れあいを写真・文集から綴る。
・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
江古田で成長したみなさんとお会いできることを楽しみにしています。

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