文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.212

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)4月22日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.212
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/15 4/22 5/13 5/20 5/27 6/3 6/10 6/17 6/24 7/1 7/8 7/22
  
2013年、読書と創作の旅への誘い
観察と表現
(テキスト=志賀直哉短編作品、熊谷元一写真童画作品)
4・22下原ゼミ
 今日から授業を開始します。先週のゼミ紹介でも話しましたが、皆さんは、所沢校舎で学ぶのは今年で最後となります。このゼミで実りある一年にしましょう。
1.習慣化、日常化を目指すための方法
 下原ゼミは「2013年、読書と創作の旅」と銘打った、この旅で「読むこと」と「書くこと」の習慣化、日常化を身につけましょう。その方法として基盤となる観察力と表現力を培うため観察作品を「下原ゼミ通信」に発表します。
観察と表現のテキストは、志賀直哉の観察作品(主に車内観察)と写真家・熊谷元一の写真童画作品です。他の短篇名作や新聞記事もとりあげます。 
常時の提出課題は以下の通りです。
①車内観察(エッセイ、創作) 
②自分観察(一日の記憶・子供時代の思い出) 
③新聞記事(社会問題・事件)感想など
          2.読書と見ることの必要性について
 本日は、最初なので読むことの基礎である「読書の必要性について」知ってもらいます。併せて社会観察として日本国憲法を読みます。
 読書の必要性については、明治の教育者・嘉納治五郎の「青年修養訓」を紹介しています。社会観察では、5月3日の憲法記念日も近いので、現行日本国憲法の前文と、注目されている第九条を読んでみます。
          3.表現力・観察したものをどう表すか
 ものを書いたり描いたり写したりするのは、発表するためです。他者に読んでもらったり観てもらったりするためです。表現力を培うために写真家・熊谷元一の『一年生』を見てゆきます。ここには、観察・記憶・継続といった書くことに必要な要素がすべてはいっているからです。
※表現の番外として紙芝居に挑戦します。作品は戦後すぐベストセラーになった山川惣治画・作『少年王者』です。


□ゼミの評価基準は不可・可(60~100)とします。評価方法は、次の通りです。
    課題の提出原稿数+出席日数+α=評価
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.212 ―――――――― 2 ―――――――――――――
2013年、読書と創作の旅
4月22日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ教室2
 1.2013年の旅、参加者自己紹介(司会・班長指名・編集委員決め) 
 2.読書について(嘉納治五郎「青年訓」)
 3. テキスト読み(志賀直哉、熊谷元一作品)・社会観察(第9条)
 4. 課題提出(時間内に)→ 課題1.第9条についての感想
                 課題2.『一年生』感想   
     
4・22ゼミプログラム
1.説明・参加者確認(出席)・はじめにゼミ登録者を確認します。
2.司会進行係指名・毎回、参加者のなかから司会者を指名します。司会者は、プログラ
 ムに添って発表、批評、討論などをすすめてください。(緊急時の連絡などを担当するゼ
 ミの班長さんも指名か自薦他薦で)
本日の司会進行 =
正副班長(緊急時連絡、ゼミ合宿、郊外学習) = 
 
3.自己紹介(愛読書・将来の目標)一年間一緒に旅する皆さんです。
4.ゼミ誌編集委員決め
 
 ・ゼミ誌編集委員決めについて 原稿集め、レイアウト、印刷業者との交渉
  ゼミ誌は、ゼミ一年間の成果として必ず刊行するものです。全員が協力するという意識
  をもってあたってください。編集経験は、将来、必ず役に立ちます。
 ゼミ誌編集委員 = 編集長  →  
           副編集長 → 
           編集委員 →
 ※ 担当者は多くてもかまいません。この一年楽しく旅できるようにすすんでやりましょう。
  「情は人のためならず」です。よい行いはいつか自分にかえってきます。
5. 社会観察 日本国憲法を知る (前文、第九条)
6. 読書はなぜ必要か 「精読と多読」を読む
7.テキスト読み → 『菜の花と小娘』、『二ほんのかきのき』
8.課題提出 → 「第9条感想」 「車内観察」or「子供の頃の思い出」  
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2013年、読書と創作の旅  5. 社会観察(第9条を読む)
☆ 憲法改正問題について (現行憲法、特に九条を再読してみる)
 1947年5月3日日本国憲法施行される。前年11月3日公布されたもの。世界に類をみない平和憲法だが、現代の世界情勢には翻弄されるばかりで2007年4月12日、ついに憲法改正がより現実化した。国民投票法案の与党修正案が、衆院憲法調査特別委員会で可決されたのである。この先、憲法はどうなるのか。日本最大の課題である。下記は、現行憲法の前文と、注目される第九条です。
前文【現行憲法】
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれら子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われわれはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
現憲法の第二章【戦争の放棄】
 第九条 ① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、武力によ
       る威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを
       放棄する。
     ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国
       の交戦権は、これを認めない。
●政府(自民党)草案の第二章はこのようです(2009年発表のもの)
 第二章【安全保障】
  第九条(平和主義) (現憲法の一項と同じ)
 第九条の二(自衛軍) 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣
 総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する。
2 自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
第二項に定められるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関する事項は、法律で定める。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.212 ―――――――― 4 ―――――――――――――
毎年、ゼミはじめに読んでもらいます。
6. なぜ読書のススメか
 
 たとえば健全の身体には健全の精神が宿る、という言葉があります。文字通り取って一生懸命に体を鍛えて健康な身体にすれば、健全の心を持つことができるのか。漫才のコントにでもなりそうですが、そうはいかないのが人間です。現在、暴力指導、補助金の使途不明などなどスポーツ界に起きている問題をみればあきらかです。先のボストンマラソンの爆弾魔の兄弟も、ニュースでは、スポーツ好きだったようです。こうした事例を見るかぎり健全な身体は、「健全な精神」をつくるとはいえません。
 では、「健全な精神」をつくるためには、どうすればよいのか。ここでは、下原ゼミでは、「読書する」することをススメます。文芸研究ということで、少々我田引水的になるかもしれませんが、当ゼミではそう理解し、実践します。
つまり「読書する身体には健全な精神が宿る」ということです。
 では「健全な精神」とは何か。端的に云えば教養と正義です。正義は、潜在的なものですが、真の教養は育てなければ成長しません。
 日芸にくる学生は、わかりませんが、昨今、大学は入学するためだけの、よりよい就職先を見つけるためだけの場所となっている傾向があります。本来の大学の目的は、健全な精神が宿る立派な人間を育てる場所です。健全な精神を持った人間を社会に送り出し、この星に生きる誰もが幸せに暮らせるよりよい社会を築いてもらう。その人材を作るために大学は存在するのです。決して冨や名声を得るためのところでも、学歴を自慢するところでもありません。森羅万象の調和を目指すことを学ぶ場。大学の使命は、常にそこにあります。書くことも研究することも全てその一点にあるわけです。
 しかし残念なことに社会をみると、政治家、役人、経営者、教育者たちの腐敗・不正でいっぱいです。「健全な精神」を持たない我欲だけの人間。先頃、刑期を終えて出所したIT企業の旗手といわれた彼もそうした一人です。刑務所は、最高のダイエットとの週刊誌の見出しもありましたが、本当にそれだけだったら悲しいことです。
ともあれ、健全な精神を育てることができたかどうか、つまりどんな読書をしたかどうか、これからの行動を見ればわかることです。
 大学生活は人、よりたくさん読書ができる空間です。バイトやサークルが忙しくても読書は、食事と同じ欠かさないようにしましょう。なぜなら青春時代に読んだ本は、いつまでも宝石のように人生のなかに残っているものです。
 しかし、ただ本を読めばいい、というものではありません。巷には書物はあふれています。悪書は何冊読んでも浪費の体験にはなるが、プラスにはなりません。良書も、ただ読んだだけでは、健全な精神を育てる肥料にはならなりません。読書は簡単だが難しいのです。
 では、どんなふうに読んだらよいのか。迷い、悩むところです。読書について、近代日本人をつくった明治の教育者・嘉納治五郎(1860-1938)が、説いています。
 嘉納治五郎は、柔道の創始者としてよく知られていますが、他の功績は知られていません。彼は、明治維新の激動のなかで学校の義務教育制度を確立し、空手、合気道などの古来武道を擁護し、野球、ジョギングなど今ある西洋スポーツを取り入れた人でもあります。また、小泉八雲や夏目漱石はじめ魯迅など多くの文人を育てた人でもあります。
 
志賀直哉の観察力
 書くことの基礎として、ゼミではしっかり観察することからはじめます。観察する対象は、自分自身と自分の毎日の生活、それに毎日利用している電車の車内です。これらをしっかり観察し書いて発表します。創作でも実際のことでもかまいません。もの書く以上、恣意的なものだけではなく、目にしたものを的確に書くことも重要です。想像と真実のブレンド。そこに志賀直哉が小説の神様と言われる秘密があるような気がします。
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2013年、読書と創作の旅・読書のススメ
読書はなぜ必要か  当時の若者に宛てた嘉納治五郎の「青年修養訓」紹介 
第15 精読と多読
 
    『嘉納治五郎著作集 教育篇』(五月書房)
 精神の健全な発達を遂げようとするには、これに相当の栄養を与えなければならぬのであるが、その栄養を精神に与えるのは読書である。人は誰でも精神の健全な発達を望まないものはないにもかかわらず、実際その栄養法たる読書を好まない者も少なくないのは甚だ怪訝(けげん)に堪えぬ。かくの如きは、その人にとっても国家にとっても実に歎(タン)ずべき事である。読書の習慣は学生にあっては成功の段階となり、実務に従事しいるものにあっては競争場裡の劣敗者たるを免(まぬが)れしむる保障となるものである。看よ、古来名を青史に留めたるところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試みにその二、三の例をあげてみれば、徳川家康は常に東鑑(あずまかがみ)等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。またカーライル(イギリスの歴史家・評論家)は一年に一回ホーマー(ホメロス)を読み、シルレルはシェクスピーアーを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントン(イギリスの将軍・政治家)はバットラーの著書(『万人の道』「生活と習慣」など)やアダムスミスの国富論に目を曝(さら)しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠(おこた)らないようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにするということの必要なるは多言を俟(ま)たないのである。
※東鑑(吾妻鏡・鎌倉時代の史書。日本最初の武士記録)
※頼山陽(1780-1832 江戸時代後期の儒者・史家 著『日本外史』『日本政記』など)
※ホメロス(前9世紀頃ギリシャの詩人著書『イリアス』『オデュッセイア』など)
※カーライル(1795-1881 著『衣裳哲学』『英雄及び英雄崇拝』など)
※ウエリントン1769-1852 (ナポレオンをワーテルローで破った)
 健全な精神をつくるには、相当な栄養が必要だという。その栄養は読書である、として、歴史上の偉人たちの読書をあげて、その必要性を説いている。そして、どんな本を読むかは、その選び方について以下のように述べている。
 読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。吾人(われわれ)の読む書物のどんなものであるべきかに関しては、ここにはただ一言を述べて余は他の章に譲っておこう。すべて新刊書ならば先輩識者が認めて価値があるというものを選ぶか、または古人のいったように世に出てから一年も立たないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい。また、昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙(ひもと)き見るようにするがよいのである。
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 どんな本を読んだらよいか。本によっては栄養になるどころか害になるという。嘉納治五郎が言うのは、先輩識者が認めた価値のあるもの。つまり世に名作といわれている本である。他は、現在、たとえどんなに評判がよくても、百万冊のベストセラーであっても後回しにせよということである。そうして古典になっているものは、常に手にしていなさいと教えている。本のよしあし、作家のよしあしは時間という評者が選んでくれる。
 さて、このようにして読む本を選んだら、次にどのようにして読むか。いらぬ節介ではあるが、全身教育者である嘉納治五郎は、その方法をも懇切丁寧に述べている。
 次に方法の点に移れば、読書の方法は、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むのをいうのである。真正に完全の読書をするには、この二つが備わらなければならぬ。
 つまり書物は偏らず、多くの書を読め、ということである。そうして読むからには、飛ばし飛ばし読むものには耳が痛いが、決していい加減にではなく、丁寧に読むべし、ということである。いずれももっともなことではあるが、人間、こうして指導されないと、なかなか読むに至らない。次に、折角の読書に陥りがたい短所があることを指摘し、注意している。
 世に鵜呑みの知識というものがある。これは教師なり書物なりから得た知識をば、別に思考もせず会得もしないで、そのまま精神中に取込んだものをいうのである。かようなものがどうしてその人の真の知識となって役に立つであろうか。総じて知識が真の知識となるについては、まず第一にそれが十分に理解されておらねばならぬ。次にはそれが固く記憶されておらねばならぬ。
 鵜呑みの知識。よく読書のスピードを自慢する人がいるが、いくら早く読んでも、理解していなければ、ただ知っている、ということだけになる。試験勉強で暗記したものは、真に教養とはいえない。
 理解のされていない知識は他に自在に応用される事が出来ないし、固く記憶されていない知識は何時でも役に立つというわけにはいかない。したがってこれらの知識は、あるもないも同じ事である。かような理由であるから、何人たりとも真の知識を有しようと思うならば、それを十分咀嚼(そしゃく)消化して理解会得し、また十分確固明白に記憶しおくようにせねばならぬ。
 そのためには・・・・・
 さてこの理解記憶を全くしようとするにはどうしたらよいかというには、他に道は無い。その知識を受け入れる時に用意を密にする。すなわち書物をば精しく読まねばならぬのである。幾度か幾度か繰返し読んで主要点をたしかに捉えると同時に、詳細の事項をも落とさず隅々まで精確に理解をし、かつ記憶を固くするのである。こうして得た知識こそは真の栄養を精神に与え、また始めて吾人に満足を与える事が出来るのである。試みに想像してみれば分かる。何らかの書物をば百遍も精読し、その極その中に書いてある事は十分会得していて、どんな場合にも応用が出来、その知識は真のわが知識になって、わが血液に変じ筋肉と化しておったならば、その心持はどのようであろうか。真に程子(テイシ兄弟)のいったように、手の舞い足の踏むところを知らないであろう。書物の与える満足には種々あろうが、これらはその中の主なるものであって、また最も高尚なものである。
※テイシ兄弟(北宋の大儒 著『定性書』1032-1085)
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 書物を理解するには、繰り返し読むことが重要と説く。一に精読、二に精読である。さすれば応用ができ真の知識となる、と説いている。また、この精読するということについても、こう語っている。
 かつまた一冊の書物の上に全力を傾注するという事は、吾人の精神修養の上から観ても大切である。何となれば人間が社会に立っているからには、大かり小なりの一事をば必ず成し遂げるという習慣がきわめて必要であるが、書物を精読し了するというのは、ちょうどこの一事を成し遂げるという事に当たるからである。今日でこそやや薄らいだようであるが、維新前におけるわが国士人の中には、四書(儒教の経典)の中の一部もしくは数部をば精読し熟読し、その極はほとんどこれを暗誦して常住座臥その行動を律する規矩(きく・コンパス)としておったものが多いのである。伊藤仁斎(江戸初期の朱子学儒者)は18,9歳の頃『延平問答』という書物を手に入れて反復熟読した結果、紙が破れるまでになったが、その精読から得た知識が大いに修養の助けとなり、他日大成の基をなしたという事である。また荻生徂徠は、13年のわびしい田舎住居の間、単に一部の大学諺解(ゲンカイ口語による漢文解釈)のみを友としておったという事である。程子は「余は17,8より論語を読み当時すでに文義(文章の意味)を暁りしが、これを読むこといよいよ久しうしてただ意味の深長なるを覚ゆ」と言っている。古昔の人がいかに精読に重きをおいたかは、これら2,3の事例に徴するも分明である。学問教育が多岐に渉る結果として、遺憾な事にはこのような美風も今日ではさほど行われないようである。
 ひとつのものを徹底して読む。この美風、すなわち習慣は、現代においては、ますます為
されていない。が、学生は、すすんで挑戦しようという気まがえがなくてはならぬ。と、いっている。その一方で、多読の大切さも説く。
 しかし現に学生生活を送り近い未来において独立すべき青年らには、各率先してこの美風を伝播しようと今より覚悟し実行するように切望せねばならぬ。
 読書ということは、このような効能の点からいっても満足の点からいっても、また精神修養の点からいってもまことによいものであるが、しかしまた不利益な点を有せぬでもない。すなわち精読は常に多くの時間を要するということと、したがって多くの書物が読めないようになるから自然その人の限界が狭隘(キョウヤク)になるを免れないということである。例えていえば、文字において一作家の文章のみを精読しておったならば、その作家については精通しようが思想の豊富修辞の巧妙がそれで十分に学べるということは出来ない。どんなに優秀な作家とても、その長所を有すると同時に多少の欠点を有するものであるから、一作家の文章が万有を網羅し天地を籠蓋(ロウガイ)するというわけにはいかぬ。そこで精読によって益を受けるにしても、またその不備な点が判明したならば、これを他の作家の作物によって学び習うという必要が起きる。すなわち他の作物にたよるということは、多読をするという事に帰するのである。
 一作家のものが万有を網羅することはない。
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 またこの外の人文学科、たとえば歴史修身等においても、もしくは物理化学等の自然学科においても、一の著者の記述説明に熟すると同時に、他の著者はそれをどんなに記述し説明しているかを参照してみる必要がある。このように参照してみることは知識を確実にする上にきわめて多大の効能があるから、決して煩雑無用のことではない。精読はもとより希うべきであるが、また一面には事情の許す限り多読をして、その限界を狭隘にせぬようにするがよい。精読でもって基礎を作り、多読でもってこれを豊富にするは学問の要訣(ヨウケツ)であってこのようにして得られた知識こそ真に有用なものとなるのである。
 さらに精読と多読との仕方の関係を具体的に述べてみれば、、まず精読する書物の中にある一つの事項に対して付箋または朱黄を施し、かくてその個所が他の参照用として多く渉猟(しょうりょう)(読みあさる)する書中にはどんなに記述説明されているかを付記するのである。換言すれば精読書を中心として綱領として、多読所をことごとくこれに関連付随させるのである。また学問の進歩の程度についていうならば、初歩の間は精読を主とし相当に進んだ後に多読を心掛くべきである。けれどもどんな場合においても精読が主であって多読が副である。そうしてこの両者のうちいずれにも偏してはならないことは無論であるが、もしいずれに偏するがよいかといえば、精読に変する方がむしろ弊害が少ないのである。精読に伴わない多読は、これは支離散漫なる知識の収得法であって、濫読妄読となるに至ってその幣が極まるのである。
 また鼠噛の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれをも読みとおさずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛(ソコウ)の学問といって、あれやこれやの本を少しずつ読むのでいずれも読み通さずに放擲するなどは、学に志すものの固く避くべきことである。世に聡明の資質を抱きながらなすこと無くして終わるものの中には、この鼠噛の陋(ロウ)に陥ったものも多いのである。実に慎み謹んで遠ざくべき悪癖である。
以上、嘉納治五郎の説く読書の必要性を紹介した。どんな本を読めばいいのか。どんなふうに読めばよいのか。人それぞれの性癖もある。それに、世に古典といわれる良書は山ほどある。となると読書も簡単ではない。このゼミでは、この青年訓の嘉納治五郎とも関係が深い志賀直哉の作品をテキストとする。
 嘉納治五郎の柔道の一番弟子は、富田常次郎(小説『姿三四郎』を書いた冨田常雄の父親)
志賀直哉は、学習院時代、柔道にあけくれたが、そのときの先生は、富田常次郎だった。従って孫弟子ということになる。
(編集室)
テキスト観察作品、主に車内観察かについて
小説の神様の所以を探る
  
 なぜ車内作品か。志賀直哉の車内作品には、創作の基本があるからである。創作の基本とは、観察力である。事実を的確に精緻する目と、想像する目。この二つの目がしっかりしているから志賀文学は、普遍である。よく志賀直哉の作品は、私事や家庭の葛藤のみで社会を描いていないと言われる。が、それは誤りである。この作家の視点は、常に「私」から「家族」「社会」、そして「全人類」を見つめている。世界の大文豪ドストエフスキーは、神や人類の問題を描いたが、その視線は常に人間個人の心の中を照射し、突き抜け魂の裏側に届いている。逆もまた真なり。そこに志賀直哉の真髄がある。
 志賀直哉は、「小説の神様」と呼ばれている。それは何故か。それを知るには、まず車中作品を読み解くこと。それが糸口と思っている。同時に、志賀文学を理解することだと信じている。
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2013年、読書と創作の旅 テキスト
7. 第一回テキスト読み『菜の花と小娘』
 本日からテキストの車中作品読みに入ります。とりあげる作品は、実際的には正真正銘の車中作品『網走まで』ですが、川の流れを電車に菜の花を同乗者とみて『菜の花と小娘』を読むことにしました。この作品は、文字通り志賀直哉の第一作です。ちなみに、そのあとの『網走まで』『ある朝』で処女作三部作といわれている。
 なお、本作品は『志賀直哉全集』岩波書店を編集室にて全文現代よみに変換しました。
菜の花と小娘
 志賀直哉
 或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。
 やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。
 ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。
「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。
「私を呼ぶのは誰?」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。
 小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。
 小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、
「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」と言いました。
「さびしいわ」と菜の花は親しげに答えました。
「そんならならなぜ来たのさ」小娘は叱りでもするような調子で言いました。菜の花は、
「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」と悲しげに答えました。そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。
 小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。
 路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、
「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。小娘は、ちょっと当惑しました。
 しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。
「まあ!」菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、
「このまま流れて行くのよ」と言いました。
菜の花は不安そうに首を振りました。そして、
「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。
「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、
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「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。
 菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。
 どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、
移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。
 菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。
「今度はあなたが苦しいわ」と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想に、
「心配しなくてもいいのよ」と答えました。
 菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。
 間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。
「まあ、少しそうしてお休み」小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。
「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。
「それで、いいのよ」小娘は言いました。
「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、
「いいのよ」と笑って取り合いません。
が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。
 少しきたところで、
「やはりあなたが苦しいわ」と菜の花はこわごわ言いました。
「何でもないのよ」と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。
 麓の村が見えてきました。小娘は、
「もうすぐよ」と声をかけました。
「そう」と、後ろで菜の花が答えました。
 しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。
 チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、
「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。
「どうしたのよ」小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。
「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。
「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.212
 小娘は大きな声をして笑いました。
「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。
 小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。
 そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。
 この作品は、明治39年(1906)4月2日、作者が千葉県鹿野山にて執筆した草稿「花ちゃん」を我孫子時代に改題、改稿し、大正9年(1920)1月1日発行の『金の船』に掲載。
感想・評 この作品を読んでどんなことを思いましたか。
・楽しい  ・面白い  ・寂しい  ・荒唐無稽だ  ・イメージがわく  ・癒される
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志賀直哉(1883-1973)の主な観察作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『菜の花と小娘』23歳
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4
 号にて発表。31歳。
○電車関連作品として『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻第5号。
 34歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。
 以上の作品は、車中・車外からの乗客観察である。乗客の様子が鋭く描き出されている。『城の崎にて』は、心境小説ではあるが、電車にはねられての療養から車中作品の範ちゅうとした。『児を盗む話』は、犯罪者・誘拐犯の誘拐心理状態を克明に追っていることから、新聞の事件ものとして加えた。
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熊谷元一 絵・文 100万部のロングセラー
 
全国学校図書館協議会選定図書
読んであげるなら 自分で読むなら 4才 ~ 小学校初級むき
『 二ほんのかきのき 』
次回ゼミで読みます
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・212―――――――― 12――――――――――――――――
日本法律学校(日本大学)開校式模様
 明治23年(1890)9月21日東京飯田町にある皇典講究所で、ある法律学校の開校式が行われた。時の内閣総理大臣山県有朋をはじめとする政界有力者150人、学生200人設置した日本法律学校の開校式で初代司法大臣で本校の学祖・山田顕義は、恩師吉田松陰の意を継ぐ決心で
「営利的の学校とならずして、真に国家の為に尽くす学校たらんことを希望する」
と、挨拶した。
まさに山田顕義を学祖とする「松陰の大学」後の日本大学が生まれた瞬間だった。
1844年 山田市之允(やまだいちのじょう)長州藩(山口県萩市)に生まれる。
1853年 6月ペリー来航
1854年 1月ペリー再来日 ミシシッピー号、レキシントン号など7隻 日米和親条約
     吉田松陰、黒船密航に失敗。 
1857年 安政4年 吉田寅次郎(松蔭)の松下村塾に入塾。14歳。11月看板。
    ※松下村塾の塾生は、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、山県有朋らがいた。
    最近のニュースで、坂本竜馬が久坂の手紙を土佐(武市半平太)に持って帰ったと
    の記事。最近、発見された。
1858年 安政5年、12月26日、松陰に野山獄入りが命じられる。安政の大獄。
    別れに際して松陰は、15歳の市之允に漢詩を書いた扇を渡す。松下村塾消滅。
1885年 第一次伊藤博文内閣で初代司法大臣に。
1890年 日本大学の前身・日本法律学校を創設。
1891年 大津事件(ニコライ皇太子傷害事件)の責任をとって司法大臣を辞任。
1892年 11月、兵庫県にある生駒銀山視察中に不審死。49歳。
1988年 12月20日、日本大学による墓地発掘。調査によると
    「頭蓋骨の形状などから、突き落とされたのではないか」との見解。
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