文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.214

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)5月13日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.214
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/15 4/22 5/6 5/13 5/20 5/27 6/3 6/10 6/17 6/24 7/1  7/22
  
2013年、読書と創作の旅
テーマ 観察と表現(熊谷元一研究)
目標・「書くこと」「読むこと」の習慣化
5・13下原ゼミ
 1.連絡事項(ゼミ雑誌・ゼミ合宿について) 5・6ゼミ報告 写真
 2.社会観察(日本国憲法、靖国神社)
 3. 「読むこと」→ 課題発表、テキスト読み『網走まで』、『夫婦』
 4. 「書くこと」→ テキスト感想、課題5~8
        
5・6ゼミ報告    連休最終日ゼミ開講
 2013年は、日曜日が祝日と重なる日が多い。それにより月曜日が振り替え休日となる。休みが増えることは歓迎だが、決められた時間数が足らない。痛し痒しではあるが、何はさておき学業優先である。で、5・6は休日返上での授業となった。
新、聴講の受講者、参加・嶋津きよらさん
 連休最終日とはいえ、連休中のゼミ開講、参加者が危ぶまれた。が、新しく聴講の参加者が出席したことで合評できた。
課題報告・齋藤さんの「第九条問題 私はこう思う」
 5・6ゼミでの課題報告は、参加した齋藤真由香さんが「改憲は、平和への願いを手折る」を報告した。「現在の自分の憲法にたいする感想が素直にあらわされている」「あいまいのなかにも改憲への不安が感じられる」
車内観察・齋藤さんの「読書する乗客の謎」読みと評
 車内観察も齋藤真由香さんの作品報告となった。隣の席で読書するふりをする中年男性客。短い文章のなかにもミステリアスな雰囲気が漂っている。筆者の高い文章力が伺える。


テキスト読みは『菜の花と小娘』でした
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.214 ―――――――― 2 ――――――――――――
社会観察・日本国憲法について  日本国憲法とは、何か
1947年5月3日に生まれた日本国憲法。知っているようで、案外、知られていない。読まれていない。そんなところもあると思う。
そんなわけで、ここに改めて簡単に紹介します。
交付 1946年(昭和21年)11月3日   施行 1947年(昭和22年) 5月3日
前文【現行憲法】
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれら子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に在することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われわれはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第1章 天皇 第1条 ~ 第8条  天皇の日本における立場と役割について
第2章 戦争の放棄  第9条 2 行  戦争はやりません。協力しません。
第3章 国民の権利及び義務  第10条 ~ 第40条
第4章 国 会  第41条 ~ 第64条
第5章 内 閣  第65条 ~ 第75条
第6章 司 法  第76条 ~ 第82条
第7章 財 政  第83条 ~ 第91条
第8章 地方自治 第92条 ~ 第95条
第9章 改 正   第96条  3分2以上の賛成で
第10章 最高法規 第97条 ~ 第99条 基本的人権 最高法規
第11章 補 則   第100条 ~ 第103条  交付から六カ月で施行
――――――――――――――――― 3 ――――― ☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.214
社会観察・靖国参拝   靖国神社とは何か
先頃、アメリカを表敬訪問した韓国の朴大統領は、記者会見で「過去を見ない者は、未来も見えない」といった日本批判をした。靖国参拝を指摘したのだろう。
こんなにも、外国の政治家が敏感に反応する靖国神社とは何か。HPを探ってみた。
靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
 現在、NHK大河ドラマで『八重の桜』をやっているが、このとき会津と薩長連合軍との戦い戊辰戦争で亡くなった官軍の兵士たちを祀ったのがはじまり。
靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。
■ 靖国神社(正確には靖國)=国家を安泰にする、の意味。(大辞林)
 明治2年(1869)6月29日 明治天皇の命により「東京招魂社」として建立される。
        戊辰戦争(1868)の明治政府軍の戦没者を祭るために。
 明治12年(1879)「東京招魂社」を「靖国神社」と改称。
 昭和34年(1959)最初のA級戦犯合祀。
 昭和53年(1978)東条英機ら14人のA級戦犯を合祀。
靖国神社には、平成16年10月17日現在、246万6532柱の御霊が祀られている。
日本の国のために死んだ軍人・軍属・それに準ずる文官、民間、学徒である。内訳は以下。
・戊辰戦争7751柱 ・西南の役6971柱 ・日清戦争1万3619柱 台湾出兵1130柱
・義和団事変1256柱 ・日露戦争8万8429柱 ・第一次世界大戦4850柱 済南事変185
・満州事変1万7176柱 ・日中戦争19万1250柱 ・大東亜戦争213万3915柱
中国など周辺国が問題にしているのは、この中に、14人のA急戦犯が入っていることもある。A級戦犯とは、東京裁判で判決が決まった人たちのことで、東条英機、広田弘毅はじめ7人が絞首刑になった。このA級戦犯はじめ極東アジアで裁判にかけられた軍人軍属も合祀しようという運動が1956年ごろからはじまり、1978年10月17日に国家の犠牲者「昭和殉難者」として合祀されることが決まった。
しかし、翌年79年4月19日にマスメディアの知るところとなり、以後、宗教問題としても論争されるようになった。(靖国神社HPより)
現在、分祀案もでている。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.214 ―――――――― 4 ――――――――――――
未評の分  前回(5・6ゼミ)、報告・合評できなかった分です
課題1.社会観察・九条  第9条を読んで、私はこう思う
加藤 未奈        名称より機能を上げる政策を
 現在、自民党が提案している国防軍について、私は国防軍というものが自国を守るためのものであるとしても近隣諸国に対して軍国主義に走ろうとしている印象を与えることは避けられないと考える。日本は島国で近隣諸外国との友好関係なくして国家間の競争の中で生き延びるのが難しい国だと考えているので、むやみに諸外国の感情を逆撫でする法律を作るべきではないと思う。とはいえ、近年の近隣諸国の動向を見ていると現在の自衛隊にはもう少し瞬発力が必要かも知れない。名称を変えることに拘るよりも自衛隊本来の機能を底上げするための政策が必要ではないだろうか。
「軍」という一文字をつけるだけで諸外国の印象は大きく変わると思うが、自衛隊を強化することで無闇に火だねを作ることを避けられはしないだろうか。
■外面に拘らず、自衛隊内を強化する政策が必要と説いている。論旨がはっきりしていてよいと思いました。文末の――部分は。
南海 洋輔      第九条で戦争を経験せずにきたが・・・
 憲法第九条の条文が問題になっているのは確かな事実である。国家が有事の際、国を防衛する手段として現在自衛隊を保有していることが第九条に抵触しないでこれたのは、実際にこれまで有事となるような出来事が起こらなかったからである。
 しかし、昨今の日本の国家間情勢では、これからも有事が起こらないという保証はない。中国や韓国の間には、領土問題を抱え、北朝鮮に至ってはその経済制裁にもかかわらず核実験を止めるそぶりもなく、ミサイルをちらつかせて国際紛争をあおる始末である。万が一これら三カ国のうち一カ国との間にでも避けられない決裂が起こり戦争に発展した場合、我が国には同盟国であるアメリカの駐日米軍に頼る以外、自衛の手段がない。現行の条文のままだと自衛隊が憲法との間に矛盾を生み、国家の法の根本を揺るがす事態になりかねないからである。ではさっさと条文を改正すれば良いという意見になるが、私はこれにもすぐには賛同できない。なぜなら1947年の憲法施行から今日まで、その武力放棄によって、一度も我々は戦争を経験しないで済んだからである。戦力を放棄することによって戦争の可能性事態を否定し、結果的にたなあげてきた実情を無視することはできない。仮に武力放棄を宣言していなければ、イラク戦争などで同盟国として日本も参加し、多くの戦死者をだしたことだろう。無防備で戦意のないものとの間に、戦争は起こり得ないのである。ただ一方的な虐殺という可能性が北朝鮮などの不安定な指導者によってちらつかされているから現在の改正問題がある。自民党が模索しているのは、いかに戦意がないことを強調しつつ、しかし有事の際には国を守れることが織り込まれた条文なのだろう。
■日本は68年間、戦争放棄をしてきたから、戦争という悲劇はなかった。しかし、昨今の国際情勢を思うと、日本一人が平和でいいのかと疑問も感じる。現実と理想、多くの日本人が持つ矛盾の気持ちが表現されています。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.214
課題2.「車内観察」
南海 洋輔         車内で想ったこと
発車ベルが鳴った。注意を促すアナウンスが流れた。ドアが閉まった。
走り出した電車は、車窓と線路用ポールとの間に、いつもの味気ない情景――赤錆びたレールとねずみ色のプラットフォーム、その上に覆いかぶさるどんよりとした雲――を規則正しく映し出していた。
それはいくらか色褪せた白黒映画に似ていた。映像技師が古い名画座の映写室で、訪れた観客のために何度も廻しては巻き戻し、擦り切らしてしまったフィルムのなれの果て。目に入ってくるのは、毎度おなじみの、毎度おなじ風景ばかり。
 私は目を閉じることさえ億劫だった。
 なぜなら私はその映画の筋をあまりにも知りすぎていたし、肝心の映画は私に目を閉じる必要がないことを再々教えすぎていた――始まりから三十秒たらずで、スクリーンはフィルム切れを起こしたような暗闇に支配される。
しかしいくらつまらないからといっても、電車は乗客を楽しませる車窓を提供するために存在するのではないから、文句はつけられない。
〝なにやってんだ!〟〝金かえせ!〟
 当然そんな罵声が飛ぶこともない。
 ぶつん、電車は長いトンネルに入った。
トンネルに入ってあたりが暗くなると、車窓やドアは車内灯の光を鏡のように反射して私の顔を映しだした。私が窓に映る自分の顔を見てまっ先に思い起こしたのは、ジョン・ケイジの『四分三十三秒』だった。
 ジョン・ケイジは一九五二年にその「無音の」音楽を作曲した。楽曲は三楽章で構成され、各楽章ごとの時間や楽器編成は演奏者の自由裁量に任されているのだが、一切音は出さないのでそもそも任せることに意味はない。ピアニスト「デイヴィッド・チューダー」が初演をつとめた一九五二年八月に、彼が第一楽章を三十三秒、第二楽章を二分四十秒、第三楽章を一分二十秒で演奏した合計時間四分三十三秒がそのままこの曲の通称となった。
「四分三十三秒」は「無」を聞くものというよりも、演奏会場のざわめきや雑音を聴くためのもので、背景には「音を音とし、結果をあるがままに受け入れなさい」というケージの意図が込められているのだと聞いていたからか、私には思えたのだ。
そう、鏡になった車窓はまるで現実に対し逃避することではなく、あるがままに受け入れよと示唆しているように。
だから私は今自分が置かれている状況を見極めるために、もう少しだけ頭を働かせることにした。
私は今電車に乗って大学に向かう途中だ。私はなぜ大学へ行くのか。それは講義を受け単位を取り卒業するためである。自分に必要な教養を身につけて、社会人として通用する私を養成するためである。しかしいったい私はどこへ向かおうとしているのか……電車に乗っている今の状況は、ある意味大学での私の状況と似ている。
たしかに私はお金を払って切符を買い、電車に乗るという決断をした。電車は目的地に私を導くという約束をしたから、それを信じたわけだ。だが乗っている間の私というのはどうも意識的な存在ではないらしい。ただそこにいて待てばよいという状況に甘えているわけだ……しかし待つといっても私に選択の余地がないわけではない。ルールに沿っていれば何をしても構わない自由が私には与えられている。好きな音楽を聴いたり本を読んだり、退屈なら空想をたくましくしてもいい。席が空いていればもちろん座ったっていい。自分の椅子が
あればそれだけ居心地もいいというものだ。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・214―――――――― 6――――――――――――――――
だが、電車というのは万事快適快速とはいかないのもまた事実である。信号トラブルや人身事故に見舞われて大幅に足止めを食らうことなんてザラだし、満員電車で席に座れず息もつけないようなこともしょっちゅうだ。中には良からぬ連中もいてスリや痴漢を働いたりする。
もちろん私には途中下車する権利が与えられているから、嫌気がさしたら降りたっていい。きっと誰も止めはしない。降りるならどの駅でもどうぞ、というわけだ。降りて次の電車を待つのもいいだろう。なんだったら新しい切符を手に入れて外の線に乗り換えたっていい。時間と労力、それに結構なお金はかかるかもしれないけれど、それが夢の特急への片道切符になることだってありうるのだ。
それでも耐えて自分なりの居場所や楽しみを見いだし、日々の出来事を乗り越えて行くならば私は初めに乗った電車を降りることなく目的地に辿り着けるだろう。人生において最も重要な命題は「前進し目的地に辿り着く」ということかもしれない。たとえその目的地が、今目の前で携帯をいじったり、眠りこけたりしている大人たち、その同僚や上司から「ようこそ新卒社会人一年生諸君」と言われる世界だとしても。
しかし私には果たして、ドアが開いたとき見えてくる風景を、そのまま受け入ることができるのだろうか。    
私にはちっとも自信がなかった。
電車はトンネルを抜け、やがてゆっくりと減速し初めた。あたりは光を取り戻し、私は停車時の大きな揺れに備えようと身を強張らせた。車輪がか細い、押し殺したような音を上げて止まった。
「北府中――北府中です」
ドアが開いた。一人二人と降りて、また乗ってきた。私は降りなかった。
□世の中、考えると不思議なことばかりです。なぜ自分はここにいるのか。なぜ、地球はあるのか、なぜ月は、なぜ太陽は、と謎は尽きません。何かで読んだのですが地球のある銀河宇宙は、かなりの高速(新幹線並みの)で回っているとのこと。中心には、何があるのでしょう。現代科学の粋をもってしても、わからないそうです。想像あるのみです。
車内観察       見知らぬ乗客            しもはら
 夜10過ぎ、秋葉原で千葉行き総武線に乗車した。8割ぐらいの混雑だった。ほとんどが酔客だった。ベルが鳴り、駆けこみ乗客がとびこんできた。背中を押され前の男性にぶつかつた。私のせいではなかったが、思わず
「すみません」と、反射的に謝った。
 男性客は、振り返った。中背の、初老の乗客だった。ぶっかったことで怒っているのかと思い、ひたすら顔を見ないようにして、もう一度
「すみません」と、頭を下げた。車内でトラブルを避けるには、自分が良くても悪くても、これしかない。36計逃ぐるにしかずである。が、乗客は、何かいいたいふうだ。
 気をつけろ!と、怒鳴りつけられる。そう覚悟した。ところが、思わぬ声が返ってきた。
「やあ、ひさしぶり」ぶっかった相手は、確かそう言って笑みをみせた。
 えっ! 知りあい ?! 私は、吃驚して乗客の顔を見た。60歳前後だろうか、髪に白いものが目立つ四角顔。まったく記憶にない。が、思わず
「ご無沙汰してます」と、言ってしまった。
「お元気ですか」「相変わらずです」「二年前、腰痛で入院しました」「私もですよ」
二駅のあいだに、そんな会話をかわした。が、だれだかわからなかった。
「それじゃあ、また」乗客は、錦糸町で、ちょこっと手を振って降りて行った。
 お互い人間違いであったのか。私一人が忘れてしまったのか。いまもわからない。
―――――――――――――――――― 7 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.214
テキストについて 書くこと、読むことの習慣化の手段に志賀直哉作品
志賀直哉とは何か
 「2013年読書と創作の旅」では、テキストとして志賀直哉の作品をとりあげます。なぜ、志賀直哉か、はじめに少しばかり触れておきます。
処女作三部作
 小説の神様といわれる志賀直哉とは何か。それを考えるには、まず処女作三部作を読み解く必要があります。処女作三部作とは、『菜の花と小娘』、『或る朝』、『網走まで』です。
 ちなみに、これらの作品は明治37年(1904)から明治41年(1908)ころに書かれた。志賀直哉21歳から25歳のときです。
 志賀直哉はなぜ小説の神様といわれるのか。この謎を解く鍵は『網走まで』にあるとみています。が、その前に、人間・志賀直哉とは何か、それを知るために最初の作品『菜の花と小娘』にあります。それで、この作品について少しばかり紹介します。
 この作品は、明治37年5月5日の日記に「作文は菜の花をあんでるぜん張りにかく」と記し同年、作文「菜の花」として書かれ、明治39年(1906)23歳のとき「花ちゃん」に改題、改稿し大正9年(1920)に児童雑誌『金の船』に『菜の花と小娘』と題されて掲載
された。擬人法で書かれたこの作品は、このころ、愛読していたアンデルセン童話がヒントになったと考えられている。一見、なんでもない、誰でもすぐに書けそうな童話作品に見えますが、日本文学では名作に入ります。それだけに、現在、若い人たちにあまり読まれていないことが残念です。この作品には、若き日の志賀直哉の全てがある、といっても過言ではありません。この作品には、作者自身の思いが深くこめられていると想像できます。
作者の深い思いとは何か
 作品に込められた作者の深い思いとは何か。作者は、菜の花を見て、この話を思いついたようです。菜の花は現在、千葉県が県の花にしている花です。
 房総半島は、春になると一斉に菜の花が咲きます。明治の当時も、同じ風景が見られたのかもしれません。明治35年(1902)、父親が総武鉄道(現在の総武線)の支配人兼会計課長となったことから、19歳の直哉は、鹿野山に遊びに行くようになります。
鹿野山
 鹿野山は、君津市にあり標高353㍍。房総三山の一つ。他は、鋸山、清澄山。広い山頂からの展望は最高で、現在、マザー牧場や登山道の桜のトンネルなどで人気の観光地となっている。当時も、桜や菜の花の名所だったようだ。毎年春になると直哉は、この鹿野山に登った。友人の里見弴(1888-1983)らと一緒のときもあったが、たいていは一人で登った。春の陽光の下、山頂から谷一面に咲き乱れる菜の花を眺めるのが好きだった。ときには何時間も、ときには何日も滞在してながめていたという。3月31日に来て、4月11日までいたこともある。いくら花が好きといっても二十歳前後の若者が、たった一人で何時間も何日も坐り込んで、ぼんやり菜の花をながめている。たとえ本を読んでいたとしても、ちょつと普通ではない気がする。咲き乱れる菜の花畑。賑やかな明るい黄色の海。しかし、後姿を想像するとなぜ寂しい孤独の影を感じる。
「31日から一人で来ています。礼の如く、静かなもので、山の上から谷底をみれば、瓜や茄子でなく今のところ菜の花の盛りでございます・・・」山内英夫(里見弴)への手紙
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.214 ―――――――― 8 ―――――――――――――
菜の花に母の面影を
 明治45年(1912)に志賀直哉は、『母の死と新しい母』を発表している。創作余談では、「少年時代の追憶をありのままに書いた。一晩で書けた。小説中の自分がセンチメンタルでありながら、書き方はセンチメンタルにならなかった。この点を好んでいる」と述懐している。直哉の母、銀が三十三で亡くなったのは、明治28年、直哉が12歳のときである。ということは、母の死について書くのに17年間もかかっているということである。この歳月の長さは、直哉にとって母の死がいかに大きな悲しみだったかを教えている。菜の花は、暖かい家庭を思わせるところがある。もしかして直哉は、菜の花に母の面影を見ていたのかもしれない。明治34年足尾銅山鉱毒問題で現地視察計画を父に反対されたことで、余計に亡き母、銀への思いが強くなっていたに違いない。加えて、この時期、直哉はあることで悩んでいた。人間の謎に突き当たっていた。
人間の謎
 「人間は謎です!謎は解かねばなりません」といったのは17歳のドストエフスキーである。やさしかった母の死と、心の中での渇望が実現した父の死。若き文豪が人間を謎としたのは、病気と殺人による両親の死を、どうしても受け容れたくなかったのだ。
 では、若き日の志賀直哉が、人間を謎としたのは、なぜか。このころ、直哉は恋をした。相手は志賀家に何人もいる女中の一人だった。直哉は結婚を夢みた。千葉県小見川にある彼女の実家にも泊まりに行った。若い二人の恋。だれもが祝福してくれると思った。しかし、だれもが反対だった。教訓をぶつ父親も、新しい美しい義母も、可愛がってくれる祖母も、だれもかれもが反対だった。理由は、あきらかだった。身分の違い。お金もあり、教養もあり、いつも立派なことを言っている人たちが、なぜそんなことを気にするのか。人間は、皆平等ではないのか。直哉には謎だった。折りしも、この頃、島崎藤村が『破戒』を出版した。自分と同年配の主人公瀬川丑松は、江戸時代、部落民といわれた階層だったために、明治になり教師になっても差別され、教壇を去らねばならない。士農工商もちょんまげもなくなったのに、なぜ人間は差別しあうのか。この本を携え、十日余り鹿野山に滞在し菜の花を眺め
ていた直哉の心うちはどんなだっただろう。人間って何んなんだ。理不尽なことが世の中には多すぎる。なんどもそう問いかけたにちがいない。
 『菜の花と小娘』は、一見、無邪気な童話作品だが、作者の心の風景ともいえる。
 
志賀直哉年譜(『菜の花と小娘』発表まで)
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 2月日露戦争、5月アンデルセン張りの作文「菜の花」を書く。
1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
            「花ちゃん」を書く。(『菜の花と小娘』に近いもの)
1907年(明治40)24歳 家の女中との恋。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1920年(大正9年)37歳 『菜の花と小娘』、雑誌『金の船』にて発表。
―――――――――――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.214
テキスト感想    『菜の花と小娘』を読んで(5・6提出)
嶋津きよら       小娘と菜の花の印象の違い
 自然との会話を、童話のような形で大胆に表現していると感じた。綺れいと言えば、お高いというイメージはつきものだが、この作品に登場する菜の花にもそれが当てはまる。
 小娘と会話する菜の花の言葉の節々に高飛車な雰囲気が感じられるが、その口調から花の可憐な姿を想像することができる。菜の花が小娘に連れられて麓を目指す場面でも、水や黄蝶と戯れる姿が短く簡潔な文章の中で巧みに表現されていた。
 それと対象的に、小娘の描写は少ない。これは主観を読み手に与える為の効果なのか。それとも単に不必要とされる部分を省いたのかは定かではないが、菜の花と小娘の印象の違いを強く感じた。
□書いてから、発表するまで、何度も書き直している。十数年もある。このことから、簡単に書いた作品ではない、計算された作品のようにも思える。
齋藤真由香     作者の理想がこめられているのかも
 この菜の花と小娘という作品が、志賀直哉が母の病や父との不仲、恋人との結婚に対しての周囲の反対といった様々な悩みを抱えながらで書かれたものだと聞いて驚いた。明るく、可愛らしい作品だ。読んでいて後ろ暗いものを感じることもなく、主人公の少女は素直で意地の悪い様子もないから、言われなければ、こころに重荷を抱えた人の書いたものだとは思わなかっただろう。純真な少女と、愛らしい菜の花の交流のなかに、志賀直哉は自分のさびしさをまぎらわす理想のようなものを描いたのだろうか。
 孤独に咲いた菜の花に、自分の姿を重ねたのかも知れない。作者の背景を知ることで、違った視点で作品をみることが出来るのは面白い。
□たいていの作家は、作品に自身の体験や思いを投影させている、といわれる。この作品もそうしたところを感じるかどうあかは、黄色という色合いをどう感じるか。
南海洋輔         幽霊少女と菜の花の精
『菜の花と小娘』は志賀直哉の処女作、その第一作目であるということだったので、「何か普通じゃないことが起こるぞ」と期待して読み始めたのだが、まさにという感をもった。
「一人の小娘が山で枯れ枝を拾っている」という一文から、これは姥捨て山ならぬ子捨て山の話かなという線で読み始めたら、山に捨てられて成仏できなかった幽霊少女と菜の花の精との交流のお話に思えてきて、結局最後までその視点で読み切ってしまった。
だって菜の花の精に話しかけられて全く驚かない少女なんて可笑しすぎる。
第一、少女は少女で山を「こんなさびしい場所で」なんて言って菜の花を一端救おうとしては気まぐれで川に流して「生死」を弄んでる有様だし、村にあるという自分の家へ着くまで誰とも人と会わないし(会ったのはきいろ蝶といぼ蛙だけ)、これはもう確信犯でしょ、と半ば断定。最後の「そうして、(菜の花は)今は大勢の仲間と仕合わせに暮らす身となりました」とさ、めでたしめでたしというお伽噺の構造を見て、私はついに確信へ至ったわけである。
「いや、めでたしめでたしじゃないんだよ。少女はどうなったんだよ、少女は!」という突っこみが残る作品であった。
まあおそらくその少女の視点へ立たせることが志賀直哉の狙いなのだろうけど。
この話は、表向きだけ見れば「孤独で寂しかった菜の花がやさしい少女のおかげで仲間と一
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.214――――――――10―――――――――――――――――
緒に暮らせるようになる」ファンタジックなハッピーエンド物語。おしゃべりな菜の花についつい視線が行って、菜の花かわいい、あーよかったで終ってしまう。しかし、よくよく読んでみると影にいる小娘がなんとも不気味なのに気づくだろう。妙に落ち着いていて達観しているし、対応が大人みたいな子だなと思って見ていると急に子どもっぽくなる。これは過去にツラい経験をした子どもに見られる特徴だが、じゃあそのツライ過去って何だろうって考えると、文脈上それはもう親に捨てられて死んじゃったってこと以外ないでしょというのが私の結論。
ここまで言い切って間違ってたら恥ずかしいんだけど、志賀直哉本人は死んじゃってるから直接聞くことはできないし、読み方の一つとしては成立しているからアリなのではというのが私の主張。
もし志賀直哉本人の解説や、違う見方があるよというのを知っている方がいたら、ぜひ教えて下さい。よろしくお願いします!
□違った視点で読むと、まったく違った風景が見えるものですね。ドストエフスキーは100人が読めば100通りの感想がでるといわれています。
テキスト・車内観察の見本 『夫婦』は車中での観察眼がよくあらわれた小作品です。夫婦でしかありえない行為と機微を見事にとらえている。乗客観察のお手本。
         夫 婦         志賀直哉
 函南(かんなみ)の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川(もんがわ)の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ(婆)-ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。
 家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。
 私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。
 その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。
 玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.214
忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)
 日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。
(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)
この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。
※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であった。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように人間の本質をとらえ描いている。
新聞情報 2013・3・4 読売新聞 勇敢
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・213―――――――― 12――――――――――――――――
2013年読書と創作の旅・旅日誌
4月22日 参加=加藤、齋藤、南海 読み=嘉納治五郎「読書のススメ」「憲法九条」と「前文」、書くこと=第九条の感想。
5月 6日 参加=齋藤、嶋津 報告=尾道と志賀直哉 議論=憲法改正問題・アンケ
ート 観察発表&合評=「車内観察」齋藤 
読み=テキスト『菜の花と小娘』 書く=『菜の花』感想 課題
 5月13日
課題提出&配布記録
課題1.(憲法第九条)=加藤(末)、齋藤、南海(末)
課題2.(車内観察)=齋藤「乗客の謎」、南海「車内で想ったこと」末発表
課題3.(写真『一年生』観察「入学式」「コッペパン」)=配布(齋藤、嶋津)
課題4.(テキスト『菜の花』感想)提出=齋藤、嶋津
予定の課題
5月13日ゼミ課題です。
課題5.テキスト車内観察『網走まで』感想  提出
課題6.テキスト『網走まで』前後を創作「上野まで」を 配布
課題7.車内観察・(自分の日常観察)  配布
課題8.写真文庫『一年生』観察(自分の子ども時代の観察も)  配布
お知らせ
6月29日(土)8月17日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会
        作品『死の家の記録』
         時間、午後1時半開場 午後2時~5時前
         会場 東京芸術劇場第7会議室
         ※詳細は、「下原ゼミ通信」編集室まで
・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
熊谷元一と下原
課題5.テキスト『網走まで』感想 2013・5・13
名前
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
課題6.『網走まで』の前後を創作する。2013・5・13
はじめに『上野まで』 母子3人が上野駅にくるまでの話。母親の話
名前
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
課題7.車内観察(自分観察可)2013・5・13
車内観察、自分の一日でも可
名前
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
課題8.思い出観察「先生の思い出」(熊谷元一研究)
小学一年生のときの先生を覚えていますか。思い出観察してください。
岩波写真文庫『一年生』1953年4月撮影
下原の隣組西組の担任・原房子先生(18歳でした)
名前
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑