文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.215

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)5月20日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.215
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/15 4/22 5/6 5/13 5/20 5/27 6/3 6/10 6/17 6/24 7/1  7/22
  
2013年、読書と創作の旅
テーマ 観察と表現(熊谷元一研究)
目標・「書くこと」「読むこと」の習慣化
5・20下原ゼミ
 1.連絡事項(ゼミ雑誌・ゼミ合宿について) 5・13ゼミ報告 
 2.社会観察(政治家の従軍慰安婦発言)・課題発表と感想
 3. 「読むこと」→ テキスト読み『網走まで』、『夫婦』(他)
 4. 「書くこと」→ 課題(5~8)提出 配布 課題9~10
        
5・13ゼミ報告     全員揃う、自他共栄
 先週13日ゼミは、4人全員が出席しました。せっかくなので資料室の田中さんにお願いして写真を撮りました。以下の皆さんです。2013年、この一年、助けあい協力し合って目標を達成しましょう。 加藤 齋藤 下原 嶋津 南海


☆文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.215 ―――――――― 2 ――――――――――――
5・13ゼミ報告  司会進行・嶋津 
 5・13ゼミは、嶋津きよらさんの司会進行でした。議論された内容は以下の通り。
【社会観察】
◇靖国神社とは何かについて → HP紹介 1869年6月29日、建立
 靖国神社の歴史
◇課題1.発表 第九条について
加藤末奈さん 〈名称より機能をあげる政策を〉 
「わかりやすかった」「あいまいな個所があった」「国力をつけた方がよい、予算をつけては現実的」「名称に拘らない」「意見としては、ちょっと弱い、あいまい」  
南海洋輔さん 〈第九条で戦争をせずにきた〉
「ジャーナリスティックに書かれている」「日本の情況がわかりやすい」「現政権の考えていることが理解できる」
【車内観察】
南海洋輔     車内で想ったこと①(連載)
「「情景がよく描かれている」「ぶつ切りだが、つながりを感じる」「連作と知って、納得した」「4分33秒、無について考えた」
【テキストについて】
『菜の花と小娘』志賀直哉、処女作
21歳~23歳頃、この作品を書いたころの志賀直哉の生活と心境(想像して)を紹介
嶋津きよら    小娘と菜の花の印象の違い
 「素直な感想だった」「小娘と菜の花の書かれた配分までに目がいったのはすごい」
齋藤真由香   作者の理想がこめられているのかも
作者弁「作品紹介を考え過ぎてしまった」「菜の花と少女の印象が強かったのかも」
南海洋輔    幽霊少女と菜の花の精
「霊的な発想はすごい」「童話は恐い話が多いことを思いだした」
―――――――――――――――――― 3 ――――― ☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.215
5・20ゼミ
課題3.発表「子ども時代観察」熊谷元一研究  岩波写真文庫を読む
【入学式】写真は1953年4月1日、ある山村の小学校入学式朝の風景です。あなたの(入学式か)子ども時代の思い出は。
嶋津きよら       いつも、なにかをながめていた
 木々の多い学び舎で育った六年間だった。アルバムを開いてみれば入学式の記念写真が出てくる。背景にはあざやかな桜色が広がっていた。緊張した面持ちが並ぶなか、ぼんやりと木々を眺める顔がある。それが私だった。人と関わることよりも、植物観賞や読書を好む子どもだったように思う。暇さえあれば授業中も外を観賞していた。空色に鮮やかな緑が映える光景をよく覚えている。秋になり紅葉の頃の校庭の隅にポプラとイチョウが並んでいた。その下でぼんやりとしているのが好きで、休み時間や放課後が待ち遠しかった。あの頃の穏やかな気持ちを忘れることはないだろう。
齋藤真由香      恐いものなかった、あの頃
小学校の入学式の記憶がない。赤いランドセルをはじめて背負ったときの喜びも、父と母に連れられて歩いただろう桜並木の景色も、私の頭には残っていない。忘れてしまった。私が思いだせるのは、教室に入ってからのことばかりだ。新しく友だちが出来ることが嬉しくて、楽しくて、わくわくして仕方なかった。新しい環境に飛び込んでゆくことへの恐怖感なんてなかったのだろう。羨ましいことだ。いまじゃどうだろう。たぶんその逆じゃあないだろうか。情けないことである。
岩波写真文庫『一年生』を読む
赤瀬川源平「戦後腹ぺこ時代のシャッター音―岩波写真文庫再発見―」
ある小学校の先生が自分の担任の一年生の学校生活を中心に、カメラで記録したものである。・・・・いまから振り返ると、懐かしさも含めて、小学生の環境としては一番いい時代じやあないかと思われてくる。・・・反対にいまの世の中は完全な効率主義になってしまって、身の周りにあるのはケイタイとかパソコンとか、神経質になるものばかりだ。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.215 ―――――――― 4 ――――――――――――
課題3.発表 写真「コッペパンを食べる少年」熊谷元一研究 
「一年生」は第一回写真展で栄えある日本一になった。写真界の金字塔。
齋藤真由香       こんなに表情豊かに頬張れたら
 給食の時間は憂鬱だった。私は、とても好き嫌いの多い子どもだったから、献立表を見ては、嫌いなメニューに顔をしかめていたものだ。どうやって嫌いなものを残すか、そればかり考えていた。給食を美味しいもの、楽しいもの、なんて思っていなかった。ただの憂鬱の種だ。だから私は、この写真の少年のように、こんなに表情豊かにコッペパンを頬張った経験はもちろんない。可愛気のない子どもだったと思う。なつかしく思うと同時に残念だ。
嶋津きよら
 給食と聞いて思い出すのは、混ぜご飯や、ラーメン等、炭水化物のものばかりだ。コッペパンも、そのうちのひとつである。牛乳と一緒に食べたことを思い出す。なにかをつけてたべることはあまりなかった。この写真の子どももコッペパンを頬張っている。大きな口でパンをかじる姿に当時の子どもにとっての給食というものが、どれほど楽しい時間であったかが伺える。年代は違えど、給食の存在は親しまれ、懐かしがられるものだと感じた。
解説 この写真をよく見ると、奇妙な点に気がつく。コッペパンにかじりつく二人の少年の前に新聞紙がひろげられている。この新聞は、なんのためにひろがっているのか。小学一年生である。食べながら読むためではなさそうだ。と、すると、理由は一つ。この新聞紙は、コッペパンを包んできたものである。つまり、これは給食のコッペパンではなく、自前でもってきたパンである。1945年の敗戦から7年と半年。日本は、まだ給食どころではなかった。かろうじて味噌汁だけは、給食だった。新聞紙の上に置かれたお椀が証明している。
 他にも、この写真には、隠された場面がある。二人の少年が、コッペパンを頬張る写真。これだけみれば、極めて日常的スナップ。そのように思うところだ。しかし、この写真は、再び撮ることができない奇跡の場面である。それ故に、この写真に感動がある。
―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.215
世界名作観察 世界文学線上の作品、古典を紹介します。読む時も
名作紹介 サローヤン短編(大恐慌時代の青春)
 
 名作読みの最初として、サローヤンの作品を紹介している。が、ゼミ初日は、時間がなかったのと、本格的授業は連休明けから。そんな理由もあって読めなかった。で、改めて今日、5・10ゼミで読みます。
 アメリカの青春文学といえば、代表として2010年1月27日91歳で亡くなったサリンジャー(1919-2010)の『ライ麦畑でつかまえて』(1951)をあげる人が多いと思う。僕という一人称ストーリーが受けて真似た作家もいた。旧くは『赤ずきんちゃん…』で芥川賞を受賞した作品や、いま『色彩の』で話題の村上春樹の『風の歌を聞け』もそうだ。
しかし、サローヤンのこの短編も捨てがたい。『ライ麦』より知名度はないが、文学を目指す青年にとっては、『空中』の方がより私的衝撃が強いに違いない。ここにはトーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』に匹敵するものがある。現在の日本の作家は、いわゆる食うや食わずの文学修業時代がない。漫画家や漫才師は、それなりの修業時代があるようだが・・・。この作品は、大恐慌時代の文学青年のある一日を描いたもの。 
ウィリアム・サローヤン『空中ぶらんこに乗った大胆な若者』1934年
原題 The Daring Young Man on the Flying Trapeze 古沢安二郎訳 早川書房
 1930年代、アメリカの大不況時代。職のない文学青年が仕事を探してサンフランシスコの街をさまよう自伝的短編小説。サローヤン27歳のときの作品。
 この短編小説は、評判になって「飛行する・・・に乗った大胆な若者」という言い方がアメリカで流行った。いまでも使われているという。
■サローヤン(1908-1981)について、あとがきのなかで訳者は、このように紹介している。
 作家はアルメニア人の二世である。1908年カリフォルニャのフレズノ市で、アルメニア長老教会の牧師の息子として生まれたが、二歳で父の死に会い、しばらく孤児院にはいっていた。7歳の頃である。アメリカの多くの作家のように、彼もまた正規の学校教育を受けずに、様々な職業を転々とした。「20歳になったとき」「私は自分を退屈させるような仕事をして、暮らしを立てようとすることをやめ、作家になるか、放浪者になるつもりだ、とはっきり名乗りをあげた」1939年頃から劇作を手がけ「君が人生の時」がピューリッツァー賞に撰されるが辞退した。
「商業主義は芸術を披護する資格がない」が理由。『わがこころ高原に』など
作品は、次のようなものがある。
【ハヤカワNV文庫】に収録
『わがこころ高原に』題字、『7万人のアッシリア人』、『きみはぼくの心を悲嘆に暮れさせている』、『蛙とびの犬コンテスト』、『トレーシィの虎』、『オレンジ』など。
【新潮文庫】サローヤン短編集
『1作家の宣言』、『人間の故郷』、『ロンドンへの憧れ』、『気位の高い詩人』、『友人たちの没落』、『冬の葡萄園労働者たち』、『柘榴林に帰る』、『むなしい旅の世界とほんものの天国』他。
【角川文庫】三浦朱門訳『我が名はアラム』
『美しい白鳥の夏』、『いわば未来の詩人でしょうか』、『サーカス』、『川で泳ぐ三人の子供と、エール大学出の食料品屋』、『あざける者への言葉』など。
★ サローヤンを読むと、自分も書いてみようと創作意欲がでます。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・215―――――――― 6――――――――――――――――
テキスト読み 先週、時間がなかったので。『夫婦』は車中での観察がよくできた小品です。夫婦の機微も観察されている。
         夫 婦         志賀直哉
 函南(かんなみ)の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川(もんがわ)の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ(婆)-ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。
 家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。
 私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。
 その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。
 玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく
忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)
 日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。
(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)
この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。
※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であった。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように人間の本質をとらえ描いている。
―――――――――――――――――― 7 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.215
読むことの習慣化 テキスト読み 
テキスト『網走まで』を読む前に
作品『網走まで』は一見、なんでもないエッセイのような話です。が、この車中作品からも多くのことが読みとれます。よく観察ししながら読んでみましょう。
 作品コピーを配布します。いまから、105年前に書かれた作品です。全集からのコピーなので、旧かな読み、使われていない漢字などがあります。国語の時間ではないので、わからないときは想像をめぐらせて解釈を試みてください。その前に
志賀直哉と『網走まで』
  昨今、志賀直哉は読まれなくなったようだ。毎年、ゼミはじめに聞いてみるが、知る人は僅か、読んだ人となるとさらに少ないが実態。神様も時代には勝てなくなっている。
 小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。
もっとも最近は、そうでもないようだ。が、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『兒を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作『網走まで』は、一見、なんの変哲もない小説とも思えぬ作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいるといえる。
 川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、あらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきた。そうして、川端康成が評した「源泉」の源とは、処女作『菜の』や『網走まで』にある。そのように思えてきたのである。
 そして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを畢竟、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いた。
 小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっているのではないか・・・。
 1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。9年前、ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。
 しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石ころである。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない面白みのない作品。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」そんな感想も無理からぬことである。だがしかし、読者としてではなくあくまでも書く側の人間としてしっかり観察すれば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちるに違いない。文学の本質がわかると確信する。
 では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。
※川端康成(1899-1972)『伊豆の踊子』『雪国』『山の音』
 1968年にノーベル文学賞
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.215 ―――――――― 8 ―――――――――――――
志賀直哉『網走まで』年譜
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 2月日露戦争、5月アンデルセン張りの作文「菜の花」を書く。
1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
            「花ちゃん」を書く。(『菜の花と小娘』に近いもの)
1907年(明治40)24歳 家の女中との恋。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1908年(明治41)25歳 8月14日「小説網走まで」を書く。帝國大学の【帝國文学】に投稿するも、没。
新聞情報 朝日or 読売
志賀直哉 1931年11月はじめ 我孫子時代より度々手紙を寄越していた小林多喜二、は
じめて来宅(奈良の家)。一泊して帰る。
「主人持ちの文学はやめた方が」と諭すが、2年後、特高に逮捕。惨殺される。
―――――――――――――――――――― 9 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.215
新聞観察 熊谷元一情報 2年前アニメの宮崎駿監督は、長野県の旅館ではじめて熊谷元一の写真をみて驚く。こんな写真家がいたのか ! 「いまみてもすごい写真だ」と絶賛した。この宮崎監督原案の人形芝居が現在、長野県阿智村・昼神温泉の旅館で上演されている。この旅館は、昼神温泉にある「熊谷元一写真童画館」から徒歩2分の所にある。
  朝日新聞 2013年5月15日 夕刊
アニメの巨匠も絶賛
今、見てもすごい写真だ !! 宮崎駿監督、感銘
               
2011年(平成23年)、旅先の旅館で熊谷の写真をはじめて目にしたアニメの巨匠宮崎駿監督は、「こんな写真家がいたのか」とおもわず声をあげた。「今後の映画作品制作に役立てたい」との感想。熊谷は前年101歳で亡くなっている。NHK「知るしん」放映
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.215――――――――10―――――――――――――――――
新聞観察 2013・5・7読売新聞 スケールの大きなSFを期待する
 最近、スケールの大きなSF小説がでてこない。ベルヌ、やウェルズほどでなくてもいいが、アーサー・クラーク、エドモンド・ハミルトン級の作家はでないものか。この、新聞記事が、大きな空想の源になってくれることを期待する。
5000万年にあった大陸。そこには、いったい誰が、どんな文明が存在したのか。
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.215
日常観察 土壌館日誌から
土壌館日誌『おんぼろ道場奮戦記』困った子
私は、地元の船橋で柔道の道場を開いている。もう30年近くなる。元は息子が小学校に入学したとき入門した道場だった。が、高齢の道場主が突然、引っ越したことで、師範代をしていた私が、そのまま引き受けた。もっとも道場とは、名ばかりのオンボロ小屋。先代の老先生が、田んぼだった土地に廃材で小屋を建て、道場としていたのだ。つまり巨大な粗大ゴミに等しかった。たたんでもよかったが、通ってくる子どもたちの熱意に押されて、地主、不動産屋を説得。つづけることにした。しかし、平成8年1月の大雪被害で、倒壊寸前となった。もはやこれまでと諦めた。が、救う神あり。あるテレビ局が、放映を条件に再建を申し出てくれた。2週間かけて改善してくれたのだ。(その様子は2002年6月末から3週連続日曜日12時30分から日本テレビ「パワーバンク」番組で放映された)
 そんなわけで、ここ10年は雨漏りや床抜けの心配なくオンボロながら地域の青少年育成のために道場を開いている。が、少子化と他のスポーツ普及で柔道をやる子は減るばかり。そんななかにあって、なぜか入門する子どもに発達障害(アスペルガー)の子どもが多い。本人がそうだったり兄弟がそうだったりもする。ちいさいときは、礼儀正しく、大人びた口調できちんと話すが、そのうち、からかいの対象の子になっていく。
先日、入門した子の、小学校3年の弟もその傾向。本人は、兄と一緒に入門したいようだが、ちょっと無理。先週、兄についてきた。多動症なので、走り回り稽古の邪魔になるので、兄や他の子が、「帰れ」と注意した。玄関のところで坐り込んで大声で泣きはじめた。学校でも、よく叱られて泣いているという。
 仕方なく道場に入るのを許可して、紙とマジックを与えたら、稽古中、ずっと下の絵を描いた。見学の他の子の母親にほめられた。うれしそうだった。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・213――――――――12――――――――――――――――
2013年読書と創作の旅・旅日誌
4月22日 参加=加藤、齋藤、南海 読み=嘉納治五郎「読書のススメ」「憲法九条」と「前文」、書くこと=第九条の感想。
5月 6日 参加=齋藤、嶋津 報告=尾道と志賀直哉 議論=憲法改正問題・アンケ
ート 観察発表&合評=「車内観察」齋藤 司会進行=齋藤
読み=テキスト『菜の花と小娘』 書く=『菜の花』感想 課題
 5月13日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=嶋津 課題発表「社会観察」「車内観察」「テキスト感想」
 5月20日
課題提出&配布記録
課題1.(憲法第九条)=加藤、齋藤、南海 (発表済み)
課題2.(車内観察)=齋藤「乗客の謎」、南海「車内で想ったこと」発表済み
課題3.(写真『一年生』観察「入学式」「コッペパン」)=提出(齋藤、嶋津)未発表
課題4.(テキスト『菜の花』感想)提出=齋藤、嶋津 南海 発表済み
5月13日に配布した課題です
課題5.テキスト車内観察『網走まで』感想  
課題6.テキスト『網走まで』前後を創作「上野まで」を 
課題7.車内観察・(自分の日常観察)  
課題8.写真文庫『一年生』観察(自分の子ども時代の観察)  
5月20日の配布課題
課題9.『一年生』「一時間の勉強」
課題10.「車内観察」
お知らせ
6月29日(土)8月17日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会
        作品『死の家の記録』
         時間、午後1時半開場 午後2時~5時前
         会場 東京芸術劇場第7会議室
         ※詳細は、「下原ゼミ通信」編集室まで
・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
課題9.『一年生』「教室では」 2013・5・20
名前
写真から思い出してください。一年生に1時間は長い。「そろそろあきてきた」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
課題10.『車内観察』2013・5・20
名前
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑