文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.216

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)5月27日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.216
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/15 4/22 5/6 5/13 5/20 5/27 6/3 6/10 6/17 6/24 7/1  7/22
  
2013年、読書と創作の旅
テーマ 観察と表現(熊谷元一研究)
目標・「書くこと」「読むこと」の習慣化
5・27下原ゼミ
 1.連絡事項 ゼミ誌ガイダンス報告 (ゼミ合宿について)
 2.社会観察(最近の出来事)・課題発表と感想
 3. 「読むこと」→ テキスト読み『網走まで』、(「世界文学観察」)
 4. 「書くこと」→ 課題(5~8)提出 配布 課題9~10
        
5・20ゼミ報告  ゼミ授業、早くも1カ月に
 新緑が所沢校舎を日に日に包んでいる。2013年のゼミ授業も、早くも1カ月が過ぎようとしている。下原ゼミは同行者4名が確定。観察と表現をテーマに旅立った。20日の車窓を眺めての発表・感想・議論は、以下の3名の皆さんでした。
齋藤真由香さん    嶋津きよらさん    南海洋輔さん
なお、20日ゼミの司会進行は、南海洋輔さんでした。
【社会観察】最近マスメディアで騒動になっている「従軍慰安婦問題」について、考えてみた。発端は、大阪市長で維新の会代表の橋本徹氏が、慰安婦は必要悪だと言いだしたのがはじまり。従軍慰安婦問題とは何か。戦争中、兵隊の性的相手をする女性たちを国が管理していたか否かの水かけ論争。一部に国の命令でやったとの証言する人がいれば、記録としての証拠がないという国側の意見もある。国際法的には、国対国の賠償問題の中に組み込まれ、日本としては、もう支払っている。日本が悔いるとすれば、被害者と、直接会って解決すればよかった。橋本氏の発言に対して、ゼミでは「配慮がなかった」「外国で問題にされるのは、英会話の通訳に問題があるのでは」「70年も前の話でよくわからない」「現在の風俗営業とごっちゃになっている」などのいろいろな意見があった。不毛な今回の騒動で、ひとつだけはっきりしたことがある。侵略も慰安婦も、戦争があったから生じた出来事だということだ。で、あるならば、戦争は、やはり絶対にやってはいけない。そう決心すればいい。つまるところ戦争の放棄である。やはり、日本国憲法は、世の中の時流がどうであれ、変えてはいけないことなのだ。はからずも、今回の騒動で、それがわかった気がした。


☆文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.216 ―――――――― 2 ――――――――――――
従軍慰安婦問題で思いだしたこと
今回の、嫌な騒動で思い出した人物がいる。1987年に徳間書店から出た作家山田風太郎の『人間臨終図巻』にあった忌むべき人間だ。この本は、主に歴史的人物の死に際が紹介されている。が、作家・山田風太郎は、あえて名もなき一民間人をここに加えた。よほどの憤りがあってのことと推察する。25日にテレビ出演した橋本大阪市長は、なおも(慰安婦は)「過去には必要だった」と、ひるまなかった。しかし、過去にも必要としない男がいた。思い出したくもないが、容認派は過去に拘るようなので紹介する。
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村岡伊平次(むらおかいへいじ)1867-1945 『人間臨終図巻』(下巻)
 長崎県島原で生まれた村岡伊平次は、明治18年、18歳で香港に渡って以来、日本の女を「からゆきさん」(中国・東南アジア向けの日本の売春婦)として売り飛ばす商売をはじめた。
日本の前科者を集め、「皆さんが日本国民として、生まれながら国家にあだをし、国民性を失い身をもちくずして尊い先祖の墓に足を踏むことさえでけん身のありさまを不憫に思い、あなたがたを国民の一人として、国家百年の事業にたずさわらせ、改めて真人間になしたいゆえ、この先いかなる業をもいとわず努めて下さい」と演説し、天皇陛下万歳を三唱させて、日本各地から貧しい娘たちを誘拐させた。
そして、集めた女たちを手当たり次第に犯し、売春婦に売り飛ばし、「あなたがたは、兵隊を作る機械をこわしておる。国家を無視しておる。婦道の違反者である。犬にも劣った人間なり、これを回復する道は、金をためて故郷に土地を買い、模範的女性となることであ」と激励した。
彼自身、こうして売り飛ばした女は数万人に上がった、といい、それらの女が日本へ送金して「国家経済」に奉仕したことは、莫大なるものがある、とそり返った。
しかし、昭和12年、のちに『村岡伊平次自伝』の著者となる河合譲に台湾で逢ったとき、フィリピンのレガスビーに住んでいて、そこから来た70歳の伊平次は、「可哀そうな女たちのことを思い出しますと、わたしは地獄へいっても死に切れません」と、眼に涙をためて懺悔した。しかし、それは老いの感傷に過ぎなかったろう。
この天真爛漫な「人買い伊平次」には天罰もくだらず、太平洋戦争前にフィリピンを引きあげ、天草の富岡町で、昭和20年3月20日、敗戦も知らず78歳の大往生をとげた。
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■こんな悪党のわりには逮捕もされず寿命をまっとうした、ということは、やはり国家管理だったと疑われても仕方がない。国家だからこそ、記録を消すことが可能だった。
■なんとも形容しがたい女衒の人生である。作家山田風太郎が、何を根拠にしたかは知る由もない。が、作りものとは思えない。「人さらい」や「人買い」は、かなり昔から存在していたようだ。先日の新聞にも
太平洋渡った「日本人奴隷」 安土桃山時代 メキシコに3人
 こんな記事があった。当時から日本人は、あちこちに売られていたようだ。「1582年インド洋経由でローマに派遣された天正遺欧使節が世界各地で目撃している」ともあった。
 外国での日本人娼婦について、はっきりしている証拠の一つにロシアの作家アントン・チェーホフの友への手紙がある。シベリア旅行のとき、カラフトで日本人娼婦を買ったと書いている。下原はこれを創作して2006年・春『江古田文学』第62号「チェーホフの現在」に「ある元娼婦の話」と題して短編を書いた。興味ある人は、どうぞ。
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5・20ゼミ報告【熊谷元一研究】60年前(1953年)の写真観察から
子ども時代、一つでも楽しい思い出があれば、その人生は幸せだったといえる。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)
課題3.発表「入学式風景」をみて 自分の子ども時代を振り返る 
嶋津きよら       いつもなにかをながめていた
 
「読書好きの子どもだったことがわかった」「現在、日芸にいることと繋がる」「小学生のころ、どんな子どもだったか伝わってくる文章」
齋藤真由香      恐いものなかったあの頃
「入学式の日のことは、あまりというかまったく覚えていない」「学校に入った小学1年生の高揚した気持ちがよく書かれている」
◇小学校に入った頃は、12~3年前ということになります。時間とは不思議なもので、人生半ばまで過去は遠いものですが、年齢を増してくると、過去、とりわけ子ども時代が記憶のなかで光だしてくるのです。ゼミの皆さんは今は、きっと現在が輝き過ぎていて、小学生のころは、その光に隠れているのかも知れません。あと20年後、40年後、この文をみたとき、この文がビックバンのように爆発してさらなる宇宙のひろがり(子供時代の思い出をよみがえらせて)をみせてくれると思います。
 短い文章ですが、嶋津さんは、事物観察、齋藤さんは、自身の気持ち観察。対象的な思い出が書かれていてよかったと思います。
課題3.発表 写真「コッペパンを食べる少年」をみて思ったこと 
齋藤真由香  →    こんなに表情豊かに頬張れたら
「短いけれど給食が苦手、それがよくわかる内容でした」「6年間、大変だつたと思います」
津島きよら  →   給食は楽しい時間だった
「給食にたいする思いがこめられた文」「子どもらしさが伝わってくる」
◇コッペパンにかじりつく少年。この写真がなぜ日本一になったのか。多くのわけがある。もし、これが給食のパンにかじりつく二人の少年だとしたら、面白い瞬間だが、珍しい写真とは言えない。給食なら、毎日ある。毎日、この瞬間をねらってシャッターを押せばよい。つまり作られた、用意された写真ということになる。この写真が特異なのは、撮ったこの日しか、撮るシャンスがなかった、ということである。時は、1953年、終戦から7年と半年、日本は、5月3日に日本国憲法が施行され独立国家になったばかりの貧しい時代だった。そんな時代の寒村の小学校。給食は、味噌汁だけ。村にパン屋があったかどうか知らないが、学校にパンを持って来れるのは、医者の子どもか裕福な商家の子ども、それに教師ぐらい。写真の子どもの家庭は、農家の私の家と同じくらい、どちらも貧しかったように記憶している。(その頃、私はパンを食べた記憶がない)そんな家庭の子どもが、どこで買ってきたのか、同じようなパンをもってきて、食べはじめた。まさに奇跡ともいえる光景。熊谷元一は、担任ではなく写真家熊谷元一になってシャッターを切った。この機を逃さなかった。
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5・20ゼミ報告 写真観察の他
【世界名作観察】
ウィリアム・サローヤン『空中ブランコに乗った大胆な若者』読み
 1930年、大不況のなかで作家を目指す青年は、職探しの果て、永遠の安らぎを得る。
アメリカというと『ライ麦』だが、サローヤンの作品をススメたい。
ちなみに米国のおススメ本は『ハックルベリーの冒険』『O・ヘンリー短編集』
【テキスト読み】『夫婦』1955年(昭和30年)7月7日、朝日新聞学芸欄掲載
5:50 時間
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5・27ゼミ
社会観察・出来事   「母さん助けて詐欺」について
「振り込め詐欺」改め「母さん助けて詐欺」、今年は、なぜかハイペースで被害が急増しているとのこと、この半年で、すでに23億円近いお金が騙し取られているという。これだけマスメディアで報じているのに、注意しているのに、なぜ、大金を知らない人に渡してしまうのか。被害者は、自分だけは、騙されない。そんな強い自信がある人が多いと聞きます。
「母さん助けて詐欺」の典型的な被害例、最近の事件の創作
5月20日月曜日、相模原市緑区の住宅街は、いつもと変わらぬ朝だった。皐月やつつじの花が咲き乱れる家々の垣根をさわやかな風が通り過ぎていった。さきほどまで通学通勤でにぎわっていた通りは、いまは、人通りがぴたりと絶え静まり返っていた。55歳のA子さんは、高校生の次男、つぎに会社勤めの長男と夫を送り出してほっとしたところだった。長男は、昨年、大学を卒業しIT企業に就職し、順調な社会人人生を歩み出していた。夫は、定年後も給料は下がったが同じ会社で働けるようになった。世の中は不況風だが、我が家は、どこ吹く風。なにも心配することがなかった。
突然、電話が鳴った。時計を見ると午前9時30分。友だちから買い物か、お昼の誘いかと思って元気に受話器をとった。
「はい、――でございます」
「あ、母さん。おれだけど」暗く沈んだ、それでいてせっば詰まった声。
困ったことが起きたんだ。早くしないと大変なことになる」
「いったい、なんなの」
[タクシーの中にカバン置き忘れちゃつたんだ。中に契約書がはいっている。いま警察にとどけているけど、これから持ってゆかないと2000万円の損失になる。会社に迷惑かけちゃう。タクシー会社から連絡があるまで待ってると間に合わないんだ。早く、なんとかしないと。昼までになんとかしないと、早く]
「こまったわねえ。みんないないし」A子さんは、困った。
「上司の、嘘つきさんがゆくから渡して」声の主は、せきたてる。「母さん、助けて」
※結局、この50代の女性は手元にあった現金と預金と合わせて1200万円を、現金をうけとりにきた新潮175センチぐらいの紺色のスーツ姿の男に渡した。
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常時課題・「車内観察」   前号の続編です。
連載2 車内で想ったこと
南海洋輔
発車ベルが鳴った。
「よう」
とん、と誰かに肩を叩かれて私の心臓は一拍だけはね上がった。空いた座席にいち早く座ろうと動かした足が止まって、しばし宙をさまよう。私は咎められたような気がして少しだけ居たたまれなくなった。
肩越しに振り返ると、若い男が立っていた。
「おう」
 私は挨拶を返した。雅人だった。
明るく染めた髪に、つばのそりあがった帽子をかぶって、肩には重そうなハードケースを担いでいる。雅人は荷物を肩から下ろすと、つり革につかまった。
電車はゆっくりと動き出した。
「久しぶり、今日は?」と私は訊ねた。
「仕事。夜から淳さんたちとセッションなんだよ」雅人は言った。
表情はいたって平静を装おうとしているが、嬉しさのあまりか口元がゆるんでいる。
 淳さん、というのは今彼が見習いとして働いているジャズ喫茶兼コンサートハウスのゲストプレイヤーである。なんでもお店のオーナーと古い付き合いがあって、たびたび演奏を頼まれてはやって来る凄い人なのだという。『あの演奏を生で聴けるだけ俺は運がいいよ』という雅人の言に違わず、日本のジャズ界では有名なピアニストらしい。
「うわ、すげえじゃん。やったな」
私は気づけば素直な喜びを口にしていた。未だかつてこれほど友人の成功が喜ばしいと感じられたことはなかった。おそらく私が彼と同じ音楽学科でも、彼が私と同じ文芸学科でもこうは行かなかっただろう。仮にもし、私が音楽学科だったなら、(いや、仕事じゃなくてバイトでしょ)と心の中でツッコんだだろうし、もし彼が文芸学科で、髪をいじくりながら「いやあ、おれ、○○賞取っちゃったんだよね」などと宣う男だったなら、私は日本の文芸批評界を激震させる長大な論文を書き上げ、やはりツッコみに徹したことだろう。
しかし、実のところ私は音楽学科ではなかったし、彼は文芸学科ではなかった。そのうえ彼は自分の目標に対する謙虚な姿勢と努力を忘れなかったし、おまけに私はそのことをよく知っていた。
 大学に行く傍ら、雅人は夢を叶えるためと、高円寺行きの定期まで買ってお店に通い詰め、オーナーをくどき、昼はウェイター夜はお酒をつぐ仕事をさせてもらいながらじっとチャンスを窺っていた。そして機会が巡って来ればここぞと自分の演奏を披露した。それも見知らぬ大人たちの中、たった一人で飛び込んで。
私ごときが文句をつけられる筈もなかった。
「ああ」雅人は言った。
上の空で気のない返事だ。雅人の視線はここではない、どこか遠くを見据えていた。雅人はつり革に捕まる右手の手首に、左手の人差し指と小指とを押し当て、ぼーっとつっ立っている。まさに心ここにあらずといった様子だ。雅人はサクソフォニストだからか、何かあるとこうやって無意識に指のストレッチをして、気を紛らわせる癖があった。
「というか何で北府中?」私はかねてからの疑問を口にした。彼の最寄り駅は北府中ではなかったはずである。
「ああ、昨日友達と飲んでそのまま泊めてもらったんだよ」
 雅人はまだ指を押し当てている。だが今度は親指と薬指だった。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・216―――――――― 6―――――――――――――――
「だからか、なるほどね」
 わたしは「へえ、友達ってだれ?」とまでは聞かなかった。
 会話はそこで途切れて、代わりにガタンゴトンという走行音が沈黙を埋めてゆく。電車に揺られながら、私の想いはいつしか、雅人と初めて出会った日の出来事へと飛んでいた。
 芸術学部入学歓迎式の当日、私は大学生になる自分にも、周りの景色にも全く実感を持てずにいた。まず髪の毛の色が普通ではありえないほど多彩すぎた。赤や紫、ピンクに虹色、金髪がかすんで見えた。緑までいるのかと思ったら、何のことはない。ムーミンの世界から旅してきた三角帽が私の目に入った、それだけのことだった。私は早くも自分が場違いな存在のように思えてならなかった。
もちろん芸術学部といえど、よく見回せば黒や茶の人が大半なわけで、むしろ彼らは少数派に属する部類なのだが、そのときの私は「すごいところに来てしまった」という漠然とした感に囚われていたせいか、変わった風貌にばかり目が移っていた。そんなわけで私はよそ見ばかりして歩いていたから、前にいた男に気づかなかった。私はその男の革靴を思い切り踏んづけた。
「すいません」私は思わず反射的に謝った「いやあ、緊張していて……」と強張った笑みを浮かべながら相手の様子を窺う。
「ぜんぜん大丈夫ですよ。やっぱ緊張しますよね」と男はクールに笑いながら言った。それが雅人だった。
 それから私たちは一気に打ち解けた空気になって、ということはなく、スーツ姿だったこともあってか、
「どうです?」
「いやあ、初めてだからわからないことばかりで」
 などと企業の面接に来た就活生が偶然隣り合わせた人とするような会話を交わして、入学式が行われる講堂へと向かった。
 やがて話題はお互いの専攻する学科にまで及び、私は雅人が音楽学科であること、ジャズ専門のサクソフォニストを目指していることを知った。
 そのときの私はジャズに関しては全くの門外漢で、音楽と言えばクラシックをたまに聴く程度のものだったから、正直何を話せばよいかわからず、戸惑っていた。
「サックスってどんな楽器でしたっけ?」
とはとても聞けなかった。
 それでも私は何とか会話を続けようと必至だったから
(ジャズ……ジャズ……ジャズ)
 と心の中で呟いて、頭の中に散らばっているジャズ情報を掻き集めようとした。
(「村上春樹」…「ノルウェイの森」……「スイングガールズ」…「A列車で行こう」……「坂道のアポロン」「へえ、クラシックか。つまらん」「スイングしとらん。のっぺりしとってぜんぜんジャズになっとらん」……じゃなくて「ビルエヴァンス」)
「び、ビルエヴァンスとか」私は絞り出すような声で言った。
 その一言を聞いたとたん、雅人は目を輝かせて、下唇をなめたかと思うと、まくし立てるように喋り始めた。
「ビルエヴァンスもいいけど、やっぱりモダンジャズから先進性を見いだしたオーネット・コールマンの――」
 それから雅人は入学式が始まる直前まで、オーネット・コールマンからジョン・コルトレーンへと連なるフリー・ジャズの歴史とその見解について、私に一生懸命講義してくれた。漫画の知識もあながち捨てたものではないな、とその時の私は思った。
 
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これは後でわかったことだが、私がその時口にしたジャズピアニスト「ビルエヴァンス」と、雅人が口にした「ビルエヴァンス」とは全くの別人だった。雅人が思い描いていたのは
同姓同名のジャズサクソフォニストである「ビルエヴァンス」のほうだったのだ。
 まあきっかけはともあれ、他学科だった私たちはこうして知り合い、顔を合わせれば喋るようにもなった。
あれから二年、振り返ればあっというまの時間だったが、その間にも雅人は努力を重ね、チャンスをつかみ、ついに今夜、夢の入り口にまで辿り着こうとしている。
電車はゆっくりと減速しはじめた。
すると雅人は思い出したように言った。
「そういえばバイト探してるって言ってたよね。ちょうど今日店の方でスタッフ足りなくて、それでオーナーから友達呼んでこいって言われたんだけど、どう?」
 今日、淳さんが来ているということは、客席は予約だけで目一杯なはずだ。当然スタッフにも空きなどあるはずがない。これはオーナーの雅人に対する気遣いなのか、それとも雅人から私に対する気遣いなのか、どちらにしても私にとっては、とても嬉しい誘いだった。
 だが私は丁重に断った。
 電車が止まりアナウンスが流れる。
「西国分寺――西国分寺です」
 雅人はこれから中央線に乗り換えて高円寺へと向かう。しかし私のレールは、そこにはない。無理に行って邪魔になることだけは我慢ならなかった。
「そっか」雅人は荷物を肩に担いで言った「それじゃ、また」
 私は遠ざかっていく雅人の背中を見送った。
しばらくするとまた、駅の構内に注意を促すアナウンスが流れた。ドアが閉まった。
 
□車内は、いろんな乗客がいます。彼らを主役にして、できるいろんな話。こんどは、どんな、つづけられるとたのしみです。
うたた寝について
齋藤真由香
 
 電車でのうたた寝というものは、どうしてあんなにも気持ちがよいのか。時間でいえばほんの数分のことなのに、なかなか手放し難い魅力がある。私は通学のためにねちょうど1時間電車に乗っているが、うつらうつらと出来る時間のたまらなさといったらない。ハッとして、時間を確かめて、まだ10分寝れるという時は、ラッキーだとにやけてしまう。荷物をグッと抱えなおして、体制も整えて、顔をうつむけて、再び寝に入る。不思議と回りが気にならない。他人の寝姿というものはとても面白いから、私はよく眺めている。
 だから私の寝姿だって、もしかすると誰かに笑われているのかも知れないのだが・・・睡眠欲というものは途方もない。そうして私は、今日も電車を乗り過ごした。
□ほんとうに電車のなかのうたた寝。気持ちいいですね。所沢にくるあいだ。京成津田沼から、日暮里までと池袋から所沢まで、知っている人には見られたくない寝姿です。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.216―――――――― 8 ―――――――――――――
熊谷元一研究    岩波写真文庫『一年生』を読む  1953年撮影
60年前の「一年生」の写真一つ一つから、いろんなことが連想されます。エッセイ、創作、写真評、なんでもかまいません。書いてください。
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南海 洋輔         はじめての一人登校
 初めてひとりで投稿した日の話だ。私の学校では、小学校3年生までは、、団地の子どもたちと集団登校するのが慣わしで、毎日同じ時間に集まって美奈が揃うと列を作って学校まで歩くというのが、お決まりのパターンだったが、その日の私は寝坊したのか、いつもの時間に間に合わなかった。学校までの道筋というのが結構多彩なもので、住宅を縫って横断歩道を渡り、坂道を降りて、講演を抜け、また住宅や、さいごに裏山の麓にある林と警察病院の集合住宅とに挟まれた小道を行くと、ようやく学校の門が見える、という具合だった。
 そのときの私はピカピカの一年生で、学校まで30分はかかる距離にあったあったことから一人で行けるのか不安でいっぱいだった。それでも一人で歩けることの解放感と一年生的冒険心とで小道まではどうにか辿りつけただけど小道の前で足が止まってしまった。車の進入を阻む銀色のポールが不安をかきたてたのだ。鬱蒼と茂る林と灰色で無機質な住宅群とが小道に沿って続いていて、道は長く延々に感じられた。本当にこの道でいいのか、道を間違えたんじゃあないか、そう思うとそれ以上前には進めなかった。困り果てた私がポールの前でうろうろして、しばらくすると一人の中年女性が話しかけてきた。
「学校に行きたいの ? 」
私はうなずいた。その人の手に引かれながら小道を渡った。私は無事に学校へ着くことができたのだ。その日以来、私は登校中一人でも道に迷うことがなくなった。
□よかったですね。はじめての一人登校。不安の気持ちが伝わってきます。こんな経験があったから、通学路の風景が、しっかり記憶されているのかも知れません。
   コッペパンを食べる少年
南海 洋輔      エネルギッシュな表情に時代を感じる
 まず真っ先に私の目に飛び込んできたのは、やはりコッペパンにかじりつく男の子の顔であった。眉間にしわを寄せながら頬張るその顔からコッペパンの何とも言えない硬さが伝わってくる。ピンと跳ね上がった右の真由、野性味あふれる表情と手におさまりきらないほど大きなコッペパン。それはどこか私に粗雑な味を連想させた。60年前の写真ということだから、日本が太平洋戦争で負けて少し経った頃だろう。子どもたちのエネルギッシュな表情
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は、ちょうど日本が主権を取り戻して、朝鮮特需にわいていた時代背景からくるものなのだろうか。奥から手前にかけて異なる三人の表情がつながっていくのも面白い。
 コッペパンをじっと見つめる女の子、大きく口を開いて食べようとする男の子、かじりつく若き日の下原先生(残念ながら同級生です)。まるでアニメーションの一コマ一コマを三枚同時に見ているようだ。この一瞬をこの構図で捉える写真家熊谷元一の鋭い写真眼が一枚の写真から伺える。
□なんでもない一枚の写真でも、観察すると、いろいろな想像がうまれるものです。とくに写真が貴重だった時代は、そうした想いがいっそう感じられます。
岩波写真文庫『一年生』1953年4月撮影
はじめての勉強  小学1年生のときの先生を思いだしてください。
齋藤 真由香      元気で明るい先生らしいせんせいだった
 レイコ先生という、女の先生だった。男勝りで、さっぱりとした快活な笑顔の好ましい、素敵なひとだ。「ワッハハ」と大きな声でレイコ先生が笑うと、ネガティブな気持ちの類すべてが飛んでいってしまったような気がするくらい、元気いっぱいの明るい先生が、みんな大好きだった。私もきっと、そうだった。どうしてあいまいな言い方をするのかというと、覚えていないからだ。大きな笑い声と。眼が細くなる笑顔と、背を叩く大きな手と、白い歯。私のレイコ先生の記憶といえば、こんな断片的なものだけだ。
□元気で明るい先生らしい先生、テレビドラマの熱血教師。そんな印象が伝わってきます。が、断片的にしかとなると、ちょつと淋しい気になります。
南海 洋輔      先生の名はクラティ―
 私の小学一年生のときの先生はクラゲだった。クラゲというのは半透明で触手を持ち、海に棲息するあのクラゲである。別に私はふざけているわけではない。本人が
「私はクラゲティーチャーです」と黒板にでかでかとクラゲの絵まで描いて自己紹介してくれた思い出をそのまま書いているだけである。先生の一言は、入学式を終えたばかりの教室に爆笑の渦を巻き起こし、以来その女性は「クラティ―」の愛称で慕われる先生となった。 まさに私たちは、一瞬で先生にからみとられたというわけだ。本名は、正直覚えていない。たぶん他の同級生も本名を言える人はいないだろうと思う。なぜなら私にとっても彼らにとっても「クラティ―」は「クラティ―」だからである。
□担任の先生のこと、ユーモラスに紹介できていて、面白かったです。なぜ、自分のことをクラゲというのか。その様子、これからに期待します。
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テキスト読み    「書くこと」「読むこと」の日常化 
テキスト『網走まで』を読む前に
作品『網走まで』は一見、なんでもないエッセイのような話です。が、この車中作品からも多くのことが読みとれます。よく観察ししながら読んでみましょう。
 作品コピーを配布します。いまから、105年前に書かれた作品です。全集からのコピーなので、旧かな読み、使われていない漢字などがあります。国語の時間ではないので、わからないときは想像をめぐらせて解釈を試みてください。その前に
志賀直哉と『網走まで』
  昨今、志賀直哉は読まれなくなったようだ。毎年、ゼミはじめに聞いてみるが、知る人は僅か、読んだ人となるとさらに少ないが実態。神様も時代には勝てなくなっている。
 小説の神様といわれる志賀直哉の作品といえば唯一の長編『暗夜行路』をはじめ『和解』『灰色の月』『城の崎にて』といった名作が思い浮ぶ。浮かばない人でも『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『菜の花と小娘』と聞けば、学生時代をなつかしく思い出すに違いない。
もっとも最近は、そうでもないようだ。が、これらの作品はかつて教科書の定番であった。また、物語好きな人なら『范の犯罪』や『赤西蠣太』は忘れられぬ一品である。他にも『正義派』『兒を盗む話』など珠玉の短編がある。いずれも日本文学を代表する作品群である。こうしたなかで、処女作『網走まで』は、一見、なんの変哲もない小説とも思えぬ作品である。が、その実、志賀直哉の文学にとって重要な要素を含んでいるといえる。
 川端康成は、志賀直哉を「文学の源泉」と評した。その意味について正直、若いとき私はよくわからなかった。ただ漠然と、文学を極めた川端康成がそう言うから、そうなのだろう・・・ぐらいの安易な理解度だった。しかし、あらためて志賀文学を読みすすめるなかで、その意味することがなんとなくわかってきた。そうして、川端康成が評した「源泉」の源とは、処女作『菜の』や『網走まで』にある。そのように思えてきたのである。
 そして『網走まで』を読解できなければ、志賀直哉の文学を理解できない。『網走まで』が評価できなければ、文学というものを畢竟、わかることができない。とんでもない思い違いをしているかも知れない。が、そのように読み解いた。
 小説『網走まで』は、当時の原稿用紙(20×25)十七枚余りの、ちょっと見にはエッセイふうの小作品である。が、ある意味でこの作品は、金剛石の要素を持っている。光り輝くか否かは、読者の読解力の有無にかかっているのではないか・・・。
 1910年『白樺』第一号に発表された志賀直哉の初期作品『網走まで』は、400字詰原稿用紙で21枚足らずの創作である。たまたま乗り合わせた母子をヒントに書いた、筋らしい筋もない物語。たいていの読者は、見逃してしまう初期作品である。むろん私も全く記憶になかった。9年前、ゼミでテキストに選んだ折り、何度か読み返してみて、はじめてこの作品の非凡さに気がついた体たらくである。
 しかし、どんな高価な金剛石でも、磨かなければただの石ころである。『網走まで』も、ただざっと読んだだけでは、なんの変哲もない面白みのない作品。「こんなものが、はたして作品と呼べるのか」そんな感想も無理からぬことである。だがしかし、読者としてではなくあくまでも書く側の人間としてしっかり観察すれば、いつかははたと気がつき目からうろこが落ちるに違いない。文学の本質がわかると確信する。
 では、『網走まで』とはいったいどんな作品なのか。
※川端康成(1899-1972)『伊豆の踊子』『雪国』『山の音』 1968年にノーベル文学賞
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志賀直哉『網走まで』年譜
1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県
         に生まれる。(ナオハル)
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1904年(明治37)21歳 2月日露戦争、5月アンデルセン張りの作文「菜の花」を書く。
1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
            「花ちゃん」を書く。(『菜の花と小娘』に近いもの)
1907年(明治40)24歳 家の女中との恋。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1908年(明治41)25歳 8月14日「小説網走まで」を書く。帝國大学の【帝國文学】に投稿するが没。9月、夏目漱石「三四郎」新聞小説はじまる。
日常観察 土壌館日誌から
土壌館日誌 様変わる団地の自治会役員決め
 私は、団地に住んでいる。団地、いわゆる公団住宅は50余年前、政府の住宅政策の一環事業で大都市周辺に建てられた夢の公営住宅群である。当時、入居は、給料査定と抽選で、住める人は羨ましがられた。が、その後、マンションなどの普及や都市計画の整備で、団地は衰退、放漫経営も拍車をかけて、破たん、民営化の一途を辿っている。私の住む団地は、20年前に建て替えが決まり、10年前建設が完了、UR都市整備住宅としてスタートした。その際、土地を民間に売却したためいくつもの高級マンションが林立した。こうした状況下で、町は新旧入り混じって新しい町に生まれかわろうとしている。が、こんなとき、騒動の種になるのが、自治会である。
 さて、話は変わるが、私は、この団地、マンション居住区の自治委員をやっている。むろん、好きでやっているわけではない。団地の住人は、ほとんどが団塊世代以上のお年寄り、マンションの住人は、あちこちから集まってきた若い家族。だれも引き受け手がいない。どうしようこうしようのなかで、気がついたら引き受けていた、ということだ。つづく
2013年読書と創作の旅・旅日誌
4月22日 参加=加藤、齋藤、南海 読み=嘉納治五郎「読書のススメ」「憲法九条」と「前文」、書くこと=第九条の感想。
5月 6日 参加=齋藤、嶋津 報告=尾道と志賀直哉 議論=憲法改正問題・アンケ
ート 観察発表&合評=「車内観察」齋藤 司会進行=齋藤
読み=テキスト『菜の花と小娘』 書く=『菜の花』感想 課題
 5月13日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=嶋津 課題発表「社会観察」「車内観察」「テキスト感想」
 5月20日 参加=齋藤、嶋津、南海 司会進行=南海 社会観察「従軍慰安婦問題」
       課題発表「熊谷元一研究 思い出」読み『空中』、テキスト『夫婦』
 5月27日
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・216――――――――12――――――――――――――――
課題提出&配布記録
課題1.(憲法第九条)=加藤、齋藤、南海 (発表済み)
課題2.(車内観察)=齋藤「乗客の謎」、南海「車内で想ったこと」発表済み
課題3.(写真『一年生』観察「入学式」「コッペパン」)=提出(齋藤、嶋津)発表済み
課題4.(テキスト『菜の花』感想)提出=齋藤、嶋津 南海 発表済み 南海「車内2」
5月20日 提出分 
南海 → 「一人で登校」「先生の名はクラゲ」「コッペパン」
齋藤 → 「車内観察」「レイコ先生」
5月27日に配布する課題 → 課題11「教室での遊び」課題12「車内観察」
お知らせ
6月29日(土)8月17日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会
        作品『死の家の記録』
         時間、午後1時半開場 午後2時~5時前
         会場 東京芸術劇場第7会議室
         ※詳細は、「下原ゼミ通信」編集室まで
2013年、読書と創作の旅同行者 自他共栄精神で
※自他共栄(自分は努力して成長する。が、自分だけでなく、他者もよくなるようにする)
・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
課題11.『一年生』「教室での遊び」 2013・5・27
名前
写真から思い出してください。教室ではどんな遊びをしましたか
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課題12.『車内観察』2013・5・27
名前
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