文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.218

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)6月10日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.218
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
4/15 4/22 5/6 5/13 5/20 5/27 6/3 6/10 6/17 6/24 7/1  7/22
                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん
6・10下原ゼミ
 1.連絡事項 ゼミ合宿日程について 社会観察「6月」
 2.課題報告(熊谷元一研究)
 3. テキスト読み『出来事』 世界名作紹介
        
6・3ゼミ報告   梅雨入りも晴天、夏気温
 5月末、気象庁は平年より早い梅雨入り宣言をだした。が、自然は、計算された科学予報をからかうように、このところ快晴をつづけている。ゼミは、晴れときどき雲りといった参加状況。梅雨空にならないことを祈っている。この日の、ゼミ参加は、3名でした。
齋藤真由香さん   嶋津きよらさん   南海洋輔さん  
3日ゼミの司会進行は、南海洋輔さんでした。お疲れさまでした。
テキスト読み『網走まで』を読む 関連で『三四郎』のはじめも
なかなか読めなかったテキスト最初の車内観察作品『網走まで』を読んだ。この作品は、一見、作者の体験談のようにもみえる。が、まったくの創作だという。同時期、朝日新聞から連載になった夏目漱石の『三四郎』のはじめの車内風景も併せて読んだ。
二つの作品は、同じ車内観察だが『網走まで』はエッセイ的、『三四郎』は、完全なるエンタ―ティメント。行き先も、「北の果て」と、文明開化の「東京」となにからなにまで対象的。『三四郎』は完結だが、『網走まで』は、これからはじまる物語。課題として、母子の運命を創作する・・・・、
ゼミ合宿・軽井沢施設使用許可提出 南海洋輔さん
第一希望日  8月2日(金) ~ 3日(土) 
第二希望日  8月9日(金) ~ 10日(土) ※詳しい日程は、決定後お知らせします。


☆文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.218 ―――――――― 2 ――――――――――――
【6月観察】   6月は、悪魔が駆け抜ける季節
 6月、この季節、「6月の花嫁」といっためでたい呼び名もあるが、暗い恐ろしい印象もある。例えばダンテの森を歩くような。悪魔が駆け抜ける季節。そんな不気味な思いにさせられる。なぜなら、降る帰るとこの月の日々の上に犠牲者の無残な骸を見るからだ。
6月、私の頭に浮かぶのは、陰鬱な事件ニュースが多い。近い記憶からあげれば2008年6月8日、東京秋葉原で起きた無差別殺傷事件がある。派遣社員の30歳の男がネット上の争いの動機から、トラック、ナイフで次ぎ次ぎ通行人を襲って7人が死亡、10人が負傷した。12年前の2001年6月8日には、大阪府池田町にある小学校に侵入した元自衛隊員が、次ぎ次ぎ児童を刺した。児童8人が亡くなり、教師2人を含む15人が負傷した。1997年6月28日、日本中に激震が走った。神戸で、中三14歳の男の子が逮捕された。彼こそ1カ月前、殺害した児童の頭を自分が通う中学校の校門の前に置いた犯人だった。犯行声明文を新聞社に送りつけた悪魔の化身「酒鬼薔薇聖斗」だった。なお、この事件については2014年文芸研究Ⅲで「家族観察」としてとりあげて、謎に迫ってみたい。
このように6月は、異常な猟奇的事件が多発する。が、これらの事件も、歳月には敵わないようだ。時間のなかに埋もれてゆく。しかし、一つだけ色あせることなく、いまも繰り返し思い出される事件がある。昭和23年6月23日に起きた情死事件である。この事件が、他の事件と異なるのは、当時者が、いまだ称えられ、崇められもしていることだ。桜桃忌と命名され、命日には信者というか愛読者が多数集まって供養するという。
 この事件の主役は、似たような事件を度々おこしている。最も有名なのが、1930年の晩秋に起こした事件だ。事件は、このようにして発覚した。昭和5年11月29日の午前8時ごろ。場所は、神奈川県鎌倉郡腰越町にある小動(こゆるぎ)神社裏手の海岸。早朝の漁にでた漁師が、海岸で、若い男女がもつれ倒れて苦しがっているのを発見した。漁師は、すぐに警察と医者に連絡、救助にあたった。漁師が苦しがっていると見た二人のうち、女のほうは、すでに死亡していた。が、男は、まだ生きていて近くの七里ケ浜恵風園に収容された。二人が服用した薬品はカルモチンであった。嚥下時刻は、前日の28日夕刻から夜半のあいだと推定された。死んだ女は小柄で、生き残った男は大柄だったことから、カルチモンの中毒作用が体に比例したとみられた。後で男は睡眠薬常用者と判明。これにより女だけ死ぬ可能性が大いとわかった。男に自殺幇助の嫌疑がかけられた。鎌倉署の調べで、二人の身元が判明した。死んだ女は、銀座のカフェー「ホリウッド」のウエイトレス田辺あつみ、本名・田部シメ子(十七歳)広島県安佐郡字小河内出身だった。長篠康一郎著『…七里ケ浜心中』の表紙にその愛くるしい写真が載っている。新劇女優を目指して上京、大半の劇団女優がそうであるように生活のためのカフェー勤めだった。12月2日生まれというから、18歳目前の死だった。生き残った男から調書をとりはじめた刑事は、男の身元を聞いて驚いた。帝国大学の21歳の学生というのもあるが、出身地を聞いて、肝をつぶした。刑事も同じ郷里で、実家は学生の家の小作農だった。生き残った若い男が何者かわかった。担当刑事は、大あわてで横浜地方裁判所の所長に連絡した。所長は、男の縁者だった。所長は、即青森県金木町に住む男の長兄に知らせた。実家は県下で知らぬ者がいない旧家。亡父は貴族院議員。長兄は青森県会議員。大学生は起訴猶予になり無罪放免となった。
 大学生は心中オタクだった。高校時代から心中未遂を繰り返しては、それをネタに小説を書いた。男は、それで名を成し、女たちは闇の底に消えた。高まる男の名声。女たちの肉親は、どんな思いでその名を聞いただろう。これも、いつだったか忘れたが、テレビドラマで、佐藤B作演じる男(田部シメ子の兄を彷彿する役)が、またしても玉川の濁流に女を残して自分だけ助かろうとする心中作家を、こんどは、そうはさせまいと蹴り落とす場面があった。名も無き薄幸な女たちが溜飲を下げたシーンである。
 ともあれ6月は、悪魔が駆け抜ける季節。そんな出来ごとが多い。
         
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6・10ゼミプログラム
1.課題報告 → 「車内観察」 テキスト『夫婦』感想、『網走まで』感想 
2. 熊谷元一研究課題報告 → 「子供の頃の遊び」「教室での遊び」
3. テキスト解説『網走まで』 テキスト読み『出来事』 
4.世界名作紹介・読み
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1.課題報告 【車内観察】(6・3提出)
嶋津きよら          厄日
 今日は厄日である。普段乗るモノレールより、一本早い時間のものに乗ったら、中学の同級生がいた。まずいと顔をふせてみたが遅く、声を掛けられる。この人、話し出すと長いんだよなァと思いながら次ぎの乗り換えまでの丸々15分、それに耐えた。湘南新宿ラインに乗り換え、ほっとしていると、こちらに手を振る高校時代の恩師の姿が目に入る。この人も口がよく動く。どこまで行くのか尋ねると、浦和までと返ってきて、顔が引きつる。自分が降りる池袋よりも先だとすると、つまり、そのまま約1時間、陶芸の話に相槌を打ち続けた。池袋で下車し、西武線への乗り換えをしながら、もう誰の相手もするまいと心に決める。
 しかし、急行飯能行に乗りこんでみると、そこで学友に捕まった。ずいぶんと渋い顔をしていたのだと思う。心配そうに顔をのぞかれ、ゆるく笑みを作った。
 今日は厄日である。学バスで席が離れた友人を横に、一枚の紙を取り出す。電車の中で覚えるはずだった、単語表だった。残り30分で11、テストが始まる。
□運の悪い日ってあるものですね。
課題報告 【テキスト感想】(6・3提出)
嶋津きよら     『夫婦』感想 表面だけでなく内にあるもの       
この文章は、極めて巧みである。ことばの一つ一つに読み手に”読ませよう”とする姿勢が見え、ははあと思わされた。
作者の文章について先生から話を伺い行間に秘められたものをひしひしと感じた。二組の夫婦と二つのやりとり。これをあの短い文章に収めてしまった作者に驚きを隠せずにいる。テクストの表面だけでなく、奥にあるものこそが今は逢うことのできぬ志賀直哉の内にあるものなのだろう。
□短い感想のなかに、十分感想が込められています。
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テキスト感想  【『網走まで』を想像する】
南海洋輔       頼まれた葉書2枚の宛先
東京で暮らしていた母と二人の子ども、そして大酒のみの父。
父は仕事の憂さを晴らすため、母に当たり散らし暴力をふるう。
(お医者さまが余り大酒するから…のくだり)
最初は母だけだったが、次第に子どもたちにまで手をだすようになる。(おつむの痛い子ども瀧)
見かねた母は子どもたちを連れて、父のもとを離れ、遠い親戚のもとへ移る決意をする。(網走とか申す所ださうで、大変遠くて不便な所だそうです……の会話から網走は実家ではないと推測される。)
東京から上野、上野から青森、そして網走までの経路。(網走まで)
もちろん父には黙って家を出たので、父は心配して探し回るかもしれない。それを気遣って母は車中で手紙を書いた。今までのお礼、一緒にいられない理由、これからどうするか。行き先までは書かなかったかもしれない。
そうした後、母が唯一気がかりに思ったのは、一緒に置いてきた姑(しゅうとめ)。手紙を書くほどの相手だから、浮気した女とは考えにくい。だから姑(しゅうとめ)。手紙には、今までのお礼、申し訳ない気持、やはり一緒にいられない理由などを書いたのだろう。(一つは女、一つは男名であった…のくだり)
 主人公扮する志賀直哉が、そういう事情を抱えた母子と出会い、手紙を托され、それを投函するまでが、「網走まで」で描かれている。(と推測される)
□DV夫からの逃避。
南海洋輔        【網走まで】を読んで
人の想像力というものは不思議だと思った。
初めて「網走まで」を読んだときは、旧漢字使いに対応するのに精一杯で、内容が全く頭に入ってこなかった。しかし、二度三度と読み返して、次第に頭の中で現代漢字使いに変換できるようになってくると、たちまち情景が浮かぶようになった。おそらく当時の人が「網走まで」を読んだ時は、もっと鮮明に情景が浮かぶ、衝撃的な作品として読まれたのではないだろうか。それぐらい情景を喚起させる力が、志賀直哉の文章にはあると感じた。
 初めて読んだ時、主人公の心理描写が少ないと感じたが、一端、「想像力というものをわかっている志賀直哉」を理解すれば、必要十分の描写だったと気づく
□志賀直哉の文学は、どれもが、見たまま、観察したままです。それ故に表層的表面的です。一見、トルストイのような描き方です。しかし、簡潔な文体のなかにいろんな物語が縦横に眠っています。読者の想像力が、新たな物語をつくります。、
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熊谷元一研究 2.課題報告 60年前(1953)の遊びの写真を見て
南海洋輔         遊び 牛乳瓶のフタ
小学校一年生頃、私の学校で流行った教室遊びの一つに、「フタゴマ回し」というのがある。「フタ」は何の蓋なのかというと、給食に出てくる牛乳瓶の蓋である。当時はまだプラスチック製のものではなく紙の蓋で、企業のロゴや、成分、賞味期限などが丸い円の中に収まっている印象的な「フタ」だった。
そもそも誰がやり始めたのかは、全くわからないし覚えていないが、とにかく男子の間でどちらが牛乳瓶の蓋をより長く回せるのか、激しい戦いが始まった。
戦いとは大げさだな、と思われるかもしれないが見くびってはいけない。
子どものバカな遊びと言えど、ひとたび「あいつは強い」ということになれば、当然小学校ではステータスになる。だからみんな勝つために本気で取り組んでいたのだ。
フタの開け方、洗い方乾かし方、回し方の基本に始まり、コンパスで真ん中に穴を開ける、フタを重ねる、そこにBB弾を貼付ける、などの強化策に至る「フタゴマ回し」の技術は、そうして、日毎向上を極めた。
あまりにレベルが向上しすぎたため、授業中にもコマの整備や回し方の見直しが求められるようになり、先生に「コマ」を没取される者まで出た。
「ただの牛乳瓶の蓋が、あれほどあの頃の私たちを熱くさせた」
その事実に今の私はただただ驚嘆するばかりである。その理由をバカだった、と一言で済ませてしまうのは、あまりに身も蓋もない様な気がする。
□ときどき、孫を子守る。が、不思議なのは、いっぱいにある玩具とは遊ばないで、なんでもない日曜道具をオモチャがわりにしたがる。なぜか ?
南海洋輔       子供のころのマンガやテレビ
主人公のかけ声と共に、オープニングは始まる。
「♪たとえ火の中 水の中 草の中 森の中 土の中 雲の中 あのコのスカートの中~(キャ~!)中略――ああ 憧れのポケモンマスターに なりたいな ならなくちゃ 絶対なってやるーッ!」
先日私は偶然にも、小学生になる一年前、まだ保育園生だった頃にもらった誕生日カードを見つけた。そこには「大きくなったらポケモンになりたい」という夢が、保育園の先生の綺麗な字で書かれていた。
将来の夢にするほど好きだったのだから、当然一年生の時もポケモンにはまっていた。(と推測される)
しかし今思えば「ポケモンになりたい」とは意味深な夢である。
それは「鳥になりたい」とか「猫になりたい」という感覚に近いのかもしれないが、ポケモンは普通の動物と違って、絶えず人間たちによって戦いへと繰り出されるから、「人のために戦いたい」という意味で言いたかったのかもしれない。あるいは「戦ってレベルを上げ、ポケモンのように進化していきたい」という意気込みだったのかもしれない。とにかく真意はなんにせよ、保育園生の発言にしてはレベルが高い、と自画自賛した。
まあ実際のところは、「ポケモンマスターになりたい」と言いたかったけれど、先生に上手く伝えられなかった、というのが本当だろうが
□60年前の子どものヒーローは忍者だった。ポケモンに似ていなくもない。
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・218―――――――― 6―――――――――――――――
熊谷元一研究 岩波写真文庫『一年生』の教室での遊びを見て
嶋津きよら       フルーツバスケット
 学級には、やんちゃな子が多かった。教室で休み時間に走り回っている姿も度々見られ、担任もよくあきれた顔をしていた。あまり静かに遊んでいる様子はなかったように思う。それを見かねてか、ある時、生活の授業で担任がフルーツバスケットを紹介した。初めての遊びに目を輝かせた子供たちそれからしばらくフルーツバスケットが流行することになる。後ろにさげられた机と輪になってそれを興じる姿。なぜだか、それが今でも鮮明に思い出せる。
□聞いたことはあります。が、どんな遊びだったかは、思いだしません。
以下は、下原が一年生のときの文集ですが、下原はまったくおぼえていません。担任だった熊谷元一先生がとっておいてくれたので幸いでした。
『一年生』の声 1953年の小学一年生は、毎日どんなふうにして過ごしてい
たのでしょう。当時の文集を紹介します。担任の熊谷元一先生が作ってくれた文集です。
 60年前の子どもたちの遊び、家での様子、自分の気持ちが書かれています。言葉づかいも、どうでしょう。いまのこどもと比べてみてください。
文集 こどもかけろよ ひのてるほうへ②
作成 熊谷元一(くまがいもといち)昭和29年(1954年)3月
みんながはじめて がっこうへ来たときは   まだ じはあまりかけなかった
それが 一がつき 二がっきと たつうちに  じもかけるようになり ぶんもつづれるようになった   ここにあつめたのは    みんなが一ねんのときにかいた
さくぶんです しずかに  おうちの人といっしょによんでみてください
             1594年(昭和29)熊谷元一
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あそんだこと
女の子
くまがいせんせい わたくしは きのう りえちゃんと なかちゃんと はなあわせをしました。 またまりつきをしました。わたくしは ほんとうに おもしろくありました。
 こんどは じむしょへ そりにのりにいきました。わたくしは ほんとうに 面白くありました。ほんとうにすべるので あがれませんでした  こんどは うちで えほんをよんであそびました。 
おつかい
男の子
 おつかいに いきました。おかあさんの おてつだいをしました。
だいこんをはこびました。それから かあららへ あそびにいきました。それから うちへかえってきて ほんを よみました。それから ばんになったので ごはんをたべて ねました。
     ※毎号、紹介します。家族の様子や言葉づかいなどに注目して読んで下さい
つづく
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3.テキスト解説  『網走まで』について(「下原ゼミ通信」編集室)
読んだ感想「描写に徹している」「シンプル」「子供の父親はどんな人か」「井伏鱒二の作品を思いだした」「面白く読んだ」
小説『網走まで』とは何か
『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。最初の疑問は、なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(1910年)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。母子の旅の目的地にしたのか。大いに疑問に思うところである。そんなところから、作品検証は、はじめに題名「網走」から考えてみたい。
 インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。「網走」という地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。
 例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)
 また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。
? 1872年(明治5年)3月 北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
? 1875年(明治8年) 漢字をあてて、網走村となる。
? 1890年(明治23年) 釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
? 1891年(明治24年) 集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
? 1902年(明治35年) 網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
 明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治12年伊藤博文は、こんな宣言をしている。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」
なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。
 そして、明治12年に最初の囚人が送られた。以後14、17年とつづき、網走には明治23年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ1300人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。しかし作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。
では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。どう読んでも、物語の流れは網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」について
もう少し検証してみることにする。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.218―――――――― 8 ―――――――――――――
完全な創作
 
『網走まで』は、僅か20枚程度の作品である。(草稿は二十字二十五行で十七枚)この作品には大きな謎が二つある。一つは、前述したが題名の「網走」である。志賀直哉は、何故に網走としたか。志賀がこの作品を書いたのは、1908年(明治41年)である。草稿末尾に8月14日と明記されている。志賀直哉25歳のときである。一見、エッセイふうで、体験した話をそのまま書いた。そんなふうに読めるが、そうではないという。この作品は完全なる創作である。志賀は、創作余談においてこの作品は、「或時東北線を一人で帰ってくる列車の中で前に乗り合わせていた女とその子らから勝手に想像して書いたものである」と明かしている。そうだとすれば、なにも「網走」でなくてもよかったのでは、との思いも生ずる。当時、あまり知られていない網走より、「青森」とした方がより現実的ではなかったか、と思うわけである。網走同様、青森という地名の由来も諸説ある。が、一応、370年前、寛永二年頃(1625年)開港されたときにつけられた、というから一般的にも知られていたと思う。題名を『青森まで』としても、演歌の
「上野発 夜行列車降りたときから 青森駅は雪だった」の印象でも十分だ。
青森の方が当時としては、網走よりはるかに知られており、現実的だったに違いない。それなのになぜ「青森まで」ではなく、「網走まで」なのか。
作者が北海道にこだわるのなら函館でもよかったのではないか。そんな疑問も浮かぶ。函館なら、こちらもよく知られてもいる。演歌歌手北島三郎が歌う「はるばる来たぜ函館!」には、歴史の郷愁がある。当時、既に40年の歳月が過ぎているとはいえ、函館(箱館)といえば、あの新撰組副長土方歳三(35)が戦死した土地。明治新政府と榎本武揚(34)北海道共和国が戦った城下である。現代では百万ドルの夜景と、観光名所にもなっている。それ故に当時も一般的知名度は、かなりに高かったのではと想像する。
 しかし、時は明治全盛期である。過去に明治政府に反抗した都市ということで、よろしくないとしたら、札幌はどうだろう。「札幌まで」としても、べつに遜色はないように思える。1876年(明治9年)あの「青年よ大志を抱け」のクラーク博士ほか数名の外国人教師を迎えた札幌農学校のある「札幌」は、それから30余年北海道開発の拠点として、大いに発展しつつあったはず。「札幌」の名は、全国区であったに違いない。にもかかわらず「札幌」ともしなかった。なぜか・・・・。ではやはり当時、「網走」は人気があったのか。それとも作者志賀直哉に何か、よほど深い思い入れが、題名として使いたい理由があったのか。どうしても行き先が「網走」としなければならない何かが・・・そんな疑念が浮かぶ。
 しかし、41年後、1951年(昭和26年)68歳のとき、志賀直哉は、リックサック一つ背負い一人ではじめて北海道を旅した。が、網走には行かなかったという。と、すると、深い思い込んみでもなさそうだ。だとすると、「網走」という土地名は、たんなる思いつきか。それともサイコロを転がせて決めただけの偶然の産物であったのか。
網走と映画
 「網走」という地名。現代ではどんな印象があるのか。最近の若い人は、網走と聞けば、オホーツクの自然を目玉にした観光地のイメージだろう。観光用に刑務所そっくりな宿泊施設もある、と、テレビかなにかの旅宣伝でみたことがある。刑務所も観光地化されているようだ。こうした現象は、たぶん山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」という映画が発生源となっているに違いない。網走刑務所を出所した高倉健演じる中年男と武田鉄也・桃井かおり演じる若い男女が車で一緒に出所男の家まで旅する話である。舞台は、網走ではないが、網走という地名を観客に強く焼き付けた映画だった。
 同じ高倉健主演でも私たち団塊と呼ばれる世代では、網走と聞けば、やはり東映映画『網走番外地』である。一作目はポールニューマン主演の『暴力脱獄』を彷彿させる一種文芸的
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作品だった。手錠で結ばれた二人の囚人の脱獄物語だった。が、第二作目からガラッと変わ
った。完全なやくざ映画というわけである。一作目は白黒だったが、二作目からは総天然色と高倉健の唄で、激動の昭和四十年代を熱狂させた。話のパターンは水戸黄門と同じで、網走刑務所を出所してきた流れ者やくざ高倉健が、悪いやくざにいじめられつくされている弱いやくざを救う。それも出入りに助っ人として加担するのではない、万策尽きた弱くて良いやくざ(というのも変だが)その正しいやくざのために最後の最後、たった一人でドスを片手に、多勢の強面が待つ敵陣に乗り込むのだ。その背中に、発売禁止となった「網走番外地」の唄が流れる。
 とたん、立ち見で立錐の余地もないほど入った超満席の映画館の場内から一斉に拍手がわく。今、思い出せば異様な光景である。が、強いものに立ち向かう一匹狼。それは、しだいに強力になっていく機動隊や政府、そして企業に対峙する自分を重ねたのかも知れない。当時の若者、全共闘世代にとって「網走」は畏怖しながらも一種憧れの土地でもあったのだ。
 で、当然といえば当然だが、そんなわけで1960末~70年代、網走は、刑務所のある町。といった印象だった。そして、その印象も、小菅や岐阜のようなコソ泥や詐欺師の収監される場所ではなく仙台一歩前の重犯罪人の行くところ。極悪人=網走であった。。
 『網走まで』が書かれた時代、作者志賀直哉は、この町にどんなイメージをもっていたのか。知るよしもないが、草稿のなかで「北見の網走などと場所でしている仕事なら、どうせジミチな事業ではない。恐らく熊などのいるところであろう。雪なだれなどもあるところであろう。」と書いているところから、刑務所、監獄という印象より、金鉱の町。得体の知れない人間が集まる未開の地。そんなイメージでなかったかと思う。
 子供のころ観たアメリカ映画で『縛り首の木』というのがあった。砂金掘りが集ってできた、いわゆる無法の町の話だ。そこにはろくな人間はいない。皆、欲に目がくらんだ、すねに傷持つものばかりの住人である。当時の「網走」も、映画の砂金掘りの町。そんな町だったのかも。文明開化がすすむ東京にいて、文学をつづける志賀直哉からみれば「網走」は、未開のなかの未開の町。そんなところに見えたのかも知れない。
「網走」のこと
 「網走」とは何か。当時、東北以北は、文明開化が進む東京人にとっては、未開の地であったに違いない。その未開の地の果て、海を渡った蝦夷地の端にある網走は、おそらく想像もつかない遠い土地だったと想像する。実際、当時、網走は、まだ鉄道も敷かれていない僻地だった。草稿に書かれているのは、「なだれのある」熊と無宿人の土地である。おそらく、東京に住む人たちの印象もそうだったに相違ない。むろん作者も。
 では、何故にそんな土地を題名にしたのか。行き先にする必要があったのか。作者に網走という土地に対する強い思い入れがあったという記録も記述もない。当時の作者の詳しい年譜をみても、これといって思い当たるものもない。25歳の作者にとって網走は、まったく関係のない土地、所であった。
 と、すると作者が、地図の上でサイコロを振って決めたのか。それなら、お手上げである。が、そうは考えたくない。なかには、そんな作家もいるだろうが。(書いている最中に、郵便配達が二度ベルを鳴らした。それで『郵便配達人は二度ベルを鳴らす』そんなタイトルをつけたという米国作家の逸話話を聞いたことがある。が)志賀直哉は、他の作品をみても、そんな題名のつけ方はしていない。大概は、ストレートである。『城の崎にて』しかり、『和解』しかりである。いずれも、その題名に作者が関係しているか、想起できるものがある。
 ところが、この網走だけは、なんの関連も思い浮かばない。そこで、まったくの空想だが、この地名の謎を解くには、もう一つの謎が関係するのではないだろうかと考えた。つまり毒には毒をもってと同様、謎には謎をもって、というわけである。
 それでは、もう一つの謎とは何かを考えてみた。それは、作品『小説網走まで』が、応募
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先の編集部で没にされたという事実である。前号でも紹介したが、志賀直哉は一九○八年八月十四日、この作品を書き終えた。二十五歳のときである。このころ志賀は、同人四人と回覧雑誌(のちの『白樺』)をはじめたが、この作品『小説網走まで』は、同人達の好評を得た。同人達は、投稿をすすめた。で、志賀直哉は「当時帝国大学に籍を置いていた関係から『帝國文学』に投稿した」。が、没書された。志賀は、これについて創作余談で「原稿の字がきたない為であったかも知れない」と回想している。しかし、これは作者のやさしさか自虐的謙遜であろう。原稿の字が下手だから、きたないから採用しない。それ故に、不採用になった。作家は、もともと字が汚いといわれるだけにあまり聞かぬ話である。それよりプロの編集者というものは、たとえミミズがのたくっていようが読み解く業を心得ているものだ。それが真の編集者というものである。と、すると、当時の『帝國文学』には、真の編集者がいなかったのか。現に、そう評している作家もいる。しかし、文学を少しでもかじったものなら、(筆者のような浅薄な文学感覚さえ持ち合わせていない人間でさえ、そうだが)この作品を、駄作と見逃すはずはない、そう思いたい。
なんでもないエッセイのような車中作品。面白みも、物語性もない。だが、読んでいると何か非凡を感じる。人気流行小説にはないものがある。そんなふうに思うのである。
 それ故に、私としては、『帝國文学』の編集者に、見る目がなかったと思いたくない。きっと理由あってのこと。そう信じるわけである。
 では、なぜ、彼らは小説『網走まで』を、没にしたのか。させたのか。没になったのは、顕然たる事実である。回覧雑誌の同人達、彼らは、この頃、若いとはいえ、のちの『白樺』の面々である。(武者小路実篤、里見弴ら)彼らが絶賛し、また現代においても、充分に評価の対象と成りえる作品。そんな作品をなにゆえ、いったいどんな理由から没としたのか。俄かには信じがたい。もし字のきれいきたないで採否を決められたら、採用されるのは書家か清書屋の額縁作品ばかりで、とても文学作品は生まれない。作家は、悪筆家が多いと言われている。
では、この作品はなぜ、採用されなかったのか。その理由として、想像できたものを四点ほど挙げてみた。
1. 編集者・採用者に目がなかった、文学的素養がなかった。
2. 志賀直哉が思ったように字がきたなかったから。
3. 網走という地名に不自然さを感じるから。
4. 真実ではないから。(この時代、網走まで鉄道は開通していなかったようだ)
 没になった作品はその後どうなったか。1910年(明治43年4月)『白樺』の創刊号に発表される。同雑誌への掲載者は、武者小路実篤、里見弴 有島武郎ら。ちなみに創刊号の小説は、志賀直哉の『網走まで』と、正親町公和の『萬屋』の二作だった。
 『帝國文学』の編集者は、一旦は採用した。そう取る方が自然だろう。そうして、掲載をめぐる編集会議において没にした。証言物があるかどうかは知らないが、想像するに『小説網走まで』は、そんな経緯をたどったような気がする。では、何ゆえに没としたのか。
 それは、この作品に大きな矛盾があるからではないのか。絶対に、あってはならないもの
があった。こう推理するのは、荒唐無稽だろうか。
 余談だが、以前、何十万部ものベストセラーになった作品が、直木賞から漏れた。そのことで選者、出版界、作者を交えて喧々諤々となったことがあった。読者、出版界が認める作品。その作品がなぜ受賞できなかったのか。詳しくは知らないが、物語のなかに、絶対ありえない出来事があったからだという。小説だから、なんだっていいじゃないか。創作とはそんなものだ。といえばそれまでだが、よりリアリズムを目指す作品においては、その作品が優れていればいるほど、そうはいかないというのか。嘘でも空想でもいい。だが、そのなかに些少の矛盾があってはならない。それもまた文学の大道。と、すれば当時も今も、その手
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.218
の編集者がいたとしても可笑しくない。『帝國文学』の編集者は小説『網走まで』を評価した。それ故に、矛盾は許しがたく没とした。独断と偏見だが、小説『網走まで』のごみ箱行きの謎解きは、そのへんにあるような気がしてならない。
 では、この作品における矛盾とは何か。早速に言えば、それは、元の謎に戻ってしまうが、やはり題名の「網走」にあったのではないだろうか。まったくの想像だが、没の謎を解く鍵としては、これより他に、思いつかない。当時、網走といえば、どんなところか。東京の人間は、どんな印象をもっていたのか。おそらくは、それほど知られてはいなかったのでは、と推測する。現に作品のなかでも、こんな会話がされている。
「どちら迄おいでですか」と訊いた。
「北海道でございます。網走とか申す所だそうで、大変遠くて不便な所だそうです」
「何の国になってますかしら?」
「北見だとか申しました」
「そりゃあ大変だ。五日はどうしても、かかりませう」
「通して参りましても、一週間かかるさうで御座います」
 ここからわかるように、当時は、網走といっても知られていなかったようだ。鉄道は北見
までしか通じていなかったらしいが、そのことを作者は知っていたかどうか。一週間かかるというのは、誰かからきいたのだろう。北の果て、よほどの遠く。作者にしてはその程度の
知識しかなかったのでは。草稿で作者は、主人公に網走について「北見の網走などという場所でしている仕事なら、どうせヂミチな事業ではない。恐らく熊などのいる所であろう。雪なだれなどもあるところであろう」と語らせている。ここから判明するのは、網走という所は、まっとうな仕事をしていない山師のような人間が集まっている所。熊がでる所。雪も深い自然も厳しい所。つまり獣や悪人がいる秘境ということになる。当時、網走が、どの程度の思われ方をしていたのか、知るよしも無いが明治23年前身の「網走囚徒外役所」ができ1300人の囚人がおくられてから、既に18年が過ぎている。重罪犯人が集められた所として、それなりに名前は知れ渡っていたのではないかと思う。
 網走まで・・・当時、明治後年頃、その地はとても一般人が旅するようなところではなかった。そんなふうに思われていたのではないだろうか。そんなところに、赤子を背負った、病気がちの子供を連れた母子三人が旅するという。しかも、持ち物ときたら「荷といっても、女持ちの信玄袋と風呂敷包みが一つだけ」北見からは、囚人がつくった荒れ道を徒歩で行かなければならない。不可能とは思わないが、それにしても、無理があり過ぎる。実際に(網走まで行く母子を)見たのなら、それもやむなしと認めるところではあるが、全体、創作である。この作品が書かれた時代、明治43年頃、網走に行くには鉄路を札幌→帯広→池田→北見まで乗り継ぎ、後は囚人道路を徒歩で行くことになる。作品に登場する二人の子供連れの女が向かうには酷な目的地である。荷物からいっても、無理がある。矛盾が多すぎる。だというのに作者は、なぜ強引に「網走」としたのか。
 恐らくこの母子の旅を、読者により困難で悲劇的な旅に印象づけんがため。矛盾を押しやって網走とした。そうとるのは無謀だろうか。若き小説の神様は、作品をより深刻にせんがために、リアルを逸っして当時、日本一過酷で恐ろしい地の印象があった網走を母子の終着地にした。その作為を編集者は見逃さなかった。若き志賀直哉の勇み足である。
 だがしかし、現在において網走と聞いても、なんら矛盾は感じない。むしろぴったりの題名のように思える。と、いうことは「網走」には普遍性があったとみる。志賀直哉が小説の神様と呼ばれる所以の一端は、そこにもあるのかも知れない。
この作品の真の狙い
作者は、題名をなぜ「網走」としたのか。これまでの考察で、作者は、母子の旅を、より困難なものに印象づけようとした。それで目的地を無理を承知で、鉄道もまだ敷けていない網走にした。当時としては、若き小説の神様の勇み足と読み解いた。が、普遍的に捉えれば「網
☆文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・218――――――――12――――――――――――――――
走」でよかったことになる。『網走まで』という題名に、何の違和感はない。
むしろぴったりする題名と思っている。しかし、母子の旅を読者に同情させなければならないのか。矛盾をだしてまで過酷な旅にしたのは、戦争へ戦争へと暴走する明治政府への警鐘。そのように思えてならない。母子を乗せた、列車は、開拓地・網走を過ぎると、速度をあげ、満州の大平原をひた走っている。ヒロシマ、ナガサキを目指して。
そして、『灰色の月』、『夫婦』へと車内は変化していく。その意味で、志賀直哉の車内観察作品は、まだ来ぬ時代の車窓を映す壮大な叙事詩ともいえる。現在、課題の車内観察から、そうした未来が読みとれる作品が生まれれば幸いである。
『網走まで』と『三四郎』
時代背景
 『網走まで』は、明治四十三年(1910)に『白樺』第一号に発表された。が、実際に書かれたのは二年前の明治四十一年といわれている。作者が二十五歳のときである。明治三十九年七月に学習院高等科を卒業。九月に東京帝国大学文科大学英文学科に入学している。
 この時代、明治四十年代は、どんな時代だったのか。日清日露戦争に勝利した日本は、韓国併合(1910)を目指して大陸侵攻の準備を着々と進めていた。ポーツマス条約、明治三十九年(1906)には南満州鉄道会社を設立するなど富国強兵政策をますます強めていた。
 しかし、華々しい国策の裏で暗い出来事が次々起きていた。明治四十二年には伊藤博文がハルビン駅で暗殺された。また四十三年には、大逆事件が起き、幸徳秋水ら二十四名に、死刑、の判決がくだった。そのうち十二名が減刑され無期懲役となったが、幸徳秋水はじめ12名が絞首台の露と消えた。
 大逆事件は知識人に大きな衝撃をあたえた。森鴎外、永井荷風、石川啄木、与謝野鉄幹らのおどろきと打撃はかれらの作品に書きのこされている。(『高校日本史』実教出版)
 
 大逆事件(明治天皇の暗殺を計画したとされる嫌疑)は、明治四十四年(1911)二月十八日に上記の判決が下った。この死刑宣告の判決について、志賀直哉は、その感想を二十日金曜日の日記にこう書きしるしている。
二月二十日 金曜日
 ・・・一昨日無政府主義者二十四人は死刑の宣告を受けた。日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事である。自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思わぬが)その自分が今度のような事件に対して、その記事をすっかり読む気力さえない。その好奇心もない。「其時」というものは歴史では想像出来ない。
 漱石の『三四郎』は明治四十一年(1908)九月一日から十二月二十九日まで、百十七回にわたって東西の朝日新聞に掲載された。『網走まで』は明治四十一年(1908)八月十四日と執筆年月日が明記されていることから、両作品は、ほぼ同時期に書かれたとみてよい。
 同時期に書かれた『三四郎』と『網走まで』。この二つの作品の違いは、まず作者だが、『三四郎』を発表したときの漱石は四十一歳の男盛りである。前年、明治四十年(1907)一切の教職を辞して朝日新聞社に入社。すでに『草枕』を発表し、『我輩は猫である』『坊ちゃん』などを相次いで出版。押すも押されぬ大流行作家となっていた。が、文学一本に人生を絞ったのである。ちなみに『三四郎』を発表した年、明治四十一年の年譜をみると、このような文学活動をしている。
1月1日より4月6日まで『坑夫』を朝日新聞に連載。
『虞美人草』(春陽堂)出版。友人、森田草平に小説『煤煙』の執筆を勧める。
6月13日より21日まで『文鳥』を大阪朝日新聞に連載。
7月から8月にかけて『夢十夜』を東京・大阪朝日新聞に連載。
9月1日より12月29日まで『三四郎』を朝日新聞に連載。
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世界名作紹介
詩編2作紹介
アルチュール・ランボオは1854年10月20日北フランス生まれ、1891年11月9日マルセイユ病院にて死去37歳。大作「酔っぱらいの舟」17歳のとき。
金子光晴訳『ランボオ詩集』1870-1872から
Sensation(サンサシオン)
 
 夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、
ちくちくと麦穂の先で手をつつかれ、小路をゆこう。
夢みがちに踏む足の 一足ごとの新鮮さ。
帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。
              話もしない。ものも考えない。だが、
             僕のこのこころの底から、汲めどつきないものが湧きあがる。
             さあ。ゆこう。どこまでも。ボヘミヤンのように。
             自然とつれ立って、――恋人づれのように胸をはずませ・・・
谷間に眠るもの
 立ちはだかる山の肩から陽がさし込めば、
ここ、青葉のしげりにしげる窪地の、一すじの唄う小流れは、
狂おしく、銀のかげろうを、あたりの草にからませて、
狭い谷間は、光で沸き立ちかえる。
           年若い一人の兵隊が、ぽかんと口をひらき、なにもかぶらず、
          青々と、涼しそうな水菜のなかに、ぼんのくぼをひたして眠っている。
          ゆく雲のした、草のうえ。
          光ふりそそぐ緑の褥(しとね)に蒼ざめ、横たわり、
 二つの足は水仙菖蒲なかにつっこみ、
病気の子供のような笑顔さえうかべて、一眠りしているんだよ。
やさしい自然よ。やつは寒いんだから、あっためてやっておくれ。
          いろんないい匂いが風にはこばれてきても鼻の穴はそよぎもしない。
         静止した胸のうえに手をのせて、安らかに眠っている彼の右横腹に、
         真っ赤にひらいた銃弾の穴が、二つ。
○ 興味あったら他の詩編や『地獄の季節』に挑戦してみてください。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.218――――――――14―――――――――――――――――
ゼミ雑誌について
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。が、毎年、刊行日の遅れが指摘されています。また、編集段階でいろいろな問題が生じることもあります。1年間の大切な授業成果なので、しっかり守って、よい雑誌を作りましょう。
 刊行までの要領は、下記の通りです。厳守しましょう。
1. ゼミ雑誌編集委員は、齋藤真由香編集長
  編集委員=南海洋輔さん 加藤末奈さん 嶋津きよらさん(『熊谷元一』カタログ)
2. 6月末までの段階は 
  【①ゼミ誌発行申請書】を提出。提出場所=所沢/出版編集室
3. ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めていく。
  仮題&「熊谷元一研究 創刊」、内容は課題作品+創作作品
4. 7月下旬、夏休み前、原稿依頼と課題のまとめ
5. 9月末 夏休み明け、創作原稿提出、課題作品選別
6. 10月上旬 印刷会社から【②見積書】をもらい料金を算出してもらう。
7. 10月~末日 編集委員は、印刷会社と、希望の装丁やレイアウトを相談しながら
   皆と協力して編集作業をすすめる。
8. 10月末までに、出版編集室に見積書を提出する。編集作業をすすめる。
9. 11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿してください。
10. 12月6日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
11. 12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
12. 12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
注意事項!!
◎ ①【ゼミ誌発行申請書】、②【見積書】、③【請求書】以上3種類の書類が提出されない
  場合はゼミ誌の発行はできません。補助金の支払いも認められません。
◎ 予算金額は、ゼミ雑誌作成ガイダンスで発表される。
◎ 過去にゼミ雑誌の印刷を依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッ
  フまで問い合わせる。それ以外の印刷会社を利用したい場合は、必ず事前に学科ス
  タッフに相談すること。厳守。
◎ 外部(一般の人)と関係しない。(インタビュー、依頼原稿など)
ゼミ合宿について
ゼミ合宿担当:南海洋輔班長(ですが、皆さんで協力して、楽しく有意義な合宿にしま
しょう!)合宿ゼミ授業の計画予定は
○東京駅正午「銀の鈴」集合 長野新幹線(昼食)3時半開始、自彊術体操 → 授業
○合宿授業は、マラソン朗読会(中編書簡小説読破)に挑戦。
 「読みはじめたら止まらない」それは真実か?!
 世界文学最高峰の作品は『カラマーゾフ』なら世界一面白い作品は ? この本がそうだ! が、真相は読んでみなければわからない。その謎に夏の夜を徹して挑戦します。
 タイムスリップで1845年のロシア白夜のペテルブルグに降りてみます。はたして君は何ページまでもつか?
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2013年読書と創作の旅・旅日誌
4月22日 参加=加藤、齋藤、南海 読み=嘉納治五郎「読書のススメ」「憲法九条」と「前文」、書くこと=第九条の感想。
5月 6日 参加=齋藤、嶋津 報告=尾道と志賀直哉 議論=憲法改正問題・アンケ
ート 観察発表&合評=「車内観察」齋藤 司会進行=齋藤
読み=テキスト『菜の花と小娘』 書く=『菜の花』感想 課題
 5月13日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=嶋津 課題発表「社会観察」「車内観察」「テキスト感想」
 5月20日 参加=齋藤、嶋津、南海 司会進行=南海 社会観察「従軍慰安婦問題」
       課題発表「熊谷元一研究 思い出」読み『空中』、テキスト『夫婦』
 5月27日 参加=加藤、齋藤、嶋津、南海 司会進行=加藤 社会観察「母さん助けて詐欺」 課題提出評・南海「車内観察」齋藤「うたたね」
      【熊谷元一研究】子供時代=南海「はじめての一人登校」南海「コッペパン」
       齋藤「レイコ先生」南海「クラティ―」
      ※ゼミ誌ガイダンス報告=齋藤
 6月3日 参加=齋藤、嶋津、南海 司会進行=南海 「社会観察」柔道について、振り込め詐欺の記事 
課題=「車内観察」嶋津、南海。テキスト読み『網走まで』
課題提出記録(「書くこと」の習慣化)
       社会観察    車内観察    テキスト   熊谷元一研究
齋藤真由香   1       2        1       4
加藤 未奈   1                       1
南海洋輔    2       1        3       5
嶋津きよら           2        2       4
読むことの習慣化
「嘉納治五郎『青年訓』」「日本国憲法」『菜の花と小娘』『空中ブランコに乗った大胆な青年』『夫婦』『網走まで』
志賀直哉『網走まで』年譜
1883年(明治16)2月20日、宮城県に生まれる。
1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。 
1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。
1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。
1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。
1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。
            「花ちゃん」を書く。(『菜の花と小娘』に近いもの)
1907年(明治40)24歳 家の女中との恋。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。
1908年(明治41)25歳 8月14日「小説網走まで」を書く。帝國大学の【帝國文学】に投稿するが没。9月、夏目漱石「三四郎」新聞小説はじまる。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.218――――――――16――――――――――――――――
土壌館日誌・観劇
 先日、久しぶりに演劇を観に行った。決して演劇好きではない。半分は知り合いが出演するから、半分は、いまどきサルトルの劇だからが、正直な動機だった。サルトルは40年前、世界中に流行った。回りくどいサルトルの思想と演劇。当時は、たいして関心なかったが、時が経ってみると懐かしく思われる。歳のせいか。劇場は、六本木の俳優座。昨年チェーホフの『かもめ』を公演した折り、俳優座の女優斉藤深雪さんと、制作部の下さんにドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会で俳優座の歴史と稽古内輪話をしていただいた。が、今回公演するのは、「劇団昴」の演劇。昴は、今はない巣鴨の三百人劇場で『罪と罰』を公演して以来の繋がり。午後2時~5時30分までの長丁場だったが、観通せた。舞台が階段になっていたのがよかった。奥の方が見えにくいということがなかった。この舞台アイディア、はじめて観た。演劇内容については、以下のような案内をいただいた。
6・10課題 → 16「けんか・イジメ」、17「出来事」感想、18「車内観察」
お知らせ
6月29日(土)8月17日(土)ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会
        作品『死の家の記録』
         時間、午後1時半開場 午後2時~5時前
         会場 東京芸術劇場第7会議室
         ※詳細は、「下原ゼミ通信」編集室まで
・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
  メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
課題16.【熊谷元一研究】 2013・6・10
岩波写真文庫『一年生』
自分の小学校時代けんかやイジメはありましたか
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課題17.テキスト『出来事』感想 2013・6・10
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課題18.車内観察 2013・6・10
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