文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.227

公開日: 

日本大学藝術学部文芸学科     2013年(平成25年)10月28日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.227
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
                             編集発行人 下原敏彦
                              
9/30 10/7 10/21 10/28 11/11 11/18 11/25 12/2 12/9 12/16 
1/20  1/27 
                 「2013年、読書と創作の旅」の皆さん
10・28ゼミ
 1.ゼミ誌編集経過報告、熊谷元一研究報告
 2. 「范の犯罪」寸劇稽古 台本読み・模擬裁判稽古  3.人生相談
         
【10・21ゼミ報告】  終盤全員参加  テキスト読みは3名で
 この日は、後期2回目のゼミとなる。前半、南海さんの司会進行でテキスト『范の犯罪』
読みと模擬裁判の配役決める。終盤、嶋津さん参加で、4な全員揃う。
加藤未奈さん  齋藤真由香さん  嶋津きよらさん  南海洋輔さん
【ゼミ雑誌編集作業状況】 ゼミ誌編集作業順調に 齋藤編集長報告
(仮称)『2013年読書と創作の旅&熊谷元一研究』ゼミ雑誌作成編集作業の進行について齋藤編集長から報告があった。全員の原稿が揃っことで、編集作業は計画通りに進行している。
当初64頁だったが、96頁でも可。構成は、車内・テキスト・創作・研究
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テキスト『范の犯罪』から 12月9日公演に向けて
模擬裁判「ナイフ投げ曲芸師美人妻殺害事件」
配 役
≪寸劇≫ 曲芸師は、ナイフを投げる演技 美人妻は、倒れる演技
 曲芸師…    美人妻…    助手…   黒子(ナイフ板を持つ)…
≪法廷≫
裁判官 ・・・・ 南海洋輔    検 察 ・・・・ 加藤未奈
被 告 ・・・・ 齋藤真由香   弁 護 ・・・・ 齋藤真由香
助 手 ・・・・ 嶋津きよら   裁判員 ・・・・ 観客
座 長 ・・・・ 加藤未奈    進 行 ・・・・ 嶋津きよら


文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.227 ―――――――― 2 ―――――――――――――
テキスト志賀直哉『范の犯罪』を読む
『范の犯罪』について
岩波『志賀直哉全集2巻』
 この作品は大正2年(1913年)『白樺4号』に発表された。発表するまでの経緯は以下の通り。日記より
・大正2年8月7日 晩、「徒弟の死」を書きかけて見る。
・同年9月1日 「支那人の殺人」を書いた。
・同年9月9日 12時まで「支那人の殺人」を書き直してねた。ウナサレなかった。
・同年9月13日 どうしても「范の犯罪」に手がつかぬ。
・同年9月14日 帰宅後、「范の犯罪」を書きあげた。疲労しきった。
・同年9月24日 「范の犯罪」を後半を殆ど書いた。不快から来た興奮と、前晩3時間位しかねなかった疲労が、それを助けて書きあげさした。
「徒弟の死」 → 「支那人の殺人」 → 「范の犯罪」
【創作余談】
 支那人の奇術で、この小説に書いたようなものがあるが、あれでもし一人が一人を殺した場合、過失か故意かも分からなくなるだろうと考えたのが想いつきの一つ。所がそんなことを考えて間もなく、私の近い従弟で、あの小説にあるような夫婦関係から自殺してしまった男があった。私は少し憤慨した心持で、どうしても二人が両立しない場合には自分が死ぬのより女を殺す方がましだといふような事を考えた。気持ちの上で負けて自分を殺してしまった善良な性質の従弟が歯がゆかった。そしてそれに支那人の奇術をつけて書いたのが「范の犯罪」である。
范の犯罪はストーカー殺人か
男女間のトラブルで最近、よく殺人事件がニュースになる。たいていは、男が加害者で女性が被害者だ。こうした事件報道をきくたびに、殺すほど憎くて嫌いなら、別れればよいのに、と思うのだが、男女の仲は、そうもいかないのか。
この作者にして「どうしても二人が両立しない場合には自分が死ぬのより女を殺す方がましだといふような事を考えた」という。どうにも恐ろしいことだ。三鷹の女子校生殺人事件も、どこまで本気かは知らないが、犯人は、はじめは自分が死にたいといっていたという。なら、そうしてくれたらよかったにと思うところだ。それがいつ、どこから、相手を殺そうという気持ちになったのか。何の落ち度もない未来ある少女を殺害しようと思ったのか。テレビに映った、容疑者の悪びれない表情が、范の事件後の顔と重なった。范の犯罪も、どこかストーカー殺人を思わせるところがあると感じた。
 同様の事件は、後を絶たない。台風27号、28号襲来で、日本中が不安に陥っていたころ、こんな自然災害の最中にも、男女間のトラブル殺人は起きるのだ。
 台風の避難情報がとびかう10月25日正午頃、東京大田区のアパートで絞殺体が発見された。その部屋に住む27歳の女性だった。その日の午後7時30分頃、JR新小岩駅で、人身事故があった。ホームからの飛びこみ自殺だった。20代後半の男性だった。男性は、殺された女性の元同僚だった。こちらもストーカーか。警察は捜査中。
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課 題      テキスト『兒を盗む話』前回、配布した作品です
テキスト『兒を盗む話』を法廷仕立ての脚本にしてみる
「尾の道女児誘拐事件裁判」
テキスト研究 はじめに作者のこの作品に対する弁。(岩波全集2巻から)
『兒を盗む話』初出 大正3年4月『白樺』
 尾の道生活の経験で、半分は事実、兒を盗むところからは空想。しかし、この空想を本気でしたことは事実。友達もない一人生活では空想ということが日々の生活で相当に幅をきかせていた。それを実行するには、未だ遠いにしろ、そういう想像を頼りにする。今ならそういう想像をする事の方を書くかも知れないが、その時代は想像をそのまま事実にして書いてしまった。もっともこれはいずれがいいとか悪いとかいうことをいっているのではない。「兒を盗む話」は今はもう愛着を持っていない。多少愛着を感じていたこの小説中の描写は「暗夜行路」の前篇に使ってしまった。
 テキストの告白は、最初、以下の形で発表された。(が、旧い漢字や言葉づかいから難読との声もあったため、勝手ながら編集室で現代表記にした)
 犯罪における作者=主人公=犯人の心内はこのようであった。
創作・尾道幼女誘拐犯の告白(『兒を盗む話』)
逮捕時における被告の心情 犯行に至るまで
 私は五つになるその女の子を盗んだ。しかし三日目にもうあらわれて、巡査が二人と探偵らしき男が一人と、その後ろに色の浅黒い肉のしまった四十ばかりのその子の母親と、これだけが前の急な坂を登ってくるのを見たときには私は、苦笑した。そして赤面した。
 が、私はちょっと迷った。やはりできるだけの抵抗はやってみろ。いまもし素直に渡してしまうくらいなら最初からこんなことはしなくてもよかった。こう思うと急いで部屋の隅の行李(こうり)からから出刃包丁をだして、それを逆手ににぎって部屋の中に立った。そのとき女の子は次の三畳間でぐっすり寝込んでいた。
 しかし私は結局、出刃包丁を振り回すことはしえなかった。その気になれない。実際それほどの感情は出刃包丁をだすときから自分にはなかったのである。そして私は尋常に縄にかかった。女の子はそのまま母親に連れられていった。
 警察署での訊問は感嘆だった。私はその女の子がどんなことを申し立てたか聞きたかったが、これは知ることができなかった。
 翌日、私はそこから汽車で3時間ばかりかかる県庁所在地の地方裁判所へ回された。それから3日目に私は法廷へ引き出された。そのときは私の経歴でも、仕事でも、また血統でももう大概向かうで調べてしまったらしかった。その結果は裁判官は、私は気違いと鑑定したらしかった。私は、初めの調べと一緒に健康診断を受けることになっていた。審問に対しては私は、なるべく簡単な答えで済まそうと務めた。
 裁判官は、繰り返し繰り返し私の盗んだ目的を聞いたが、私は同じこときり答えなかった。
「可愛く思ったからです。貰(もら)いたいといっても、もらえないと思ったからです」といった。
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 若い医者も色々と聞いた。私は聞かれることだけにただ簡単な返事をした。 医者は、気違いではないといった。ただよほど烈しい神経衰弱にかかっていると報告した。「烈しい神経衰弱というものが、こんな非常識なことをさせるものですか」と裁判官が聞いた。
「もちろん、いくらもあることです」
 こういう二人の問答からも、またいったいに裁判官や医者やその他の人々までも私に好意を持っているということが感じられた。少なくも普通の罪人に対するとはよほど変わった心持で調べているということがわかった。事件そのものに露骨な目的を持っていないこと、私にまったく悪びれた様子のないこと、それらが皆に好意を持たしたらしかった。
 私は裁判の結果を想像した。私は法律のことは知らなかった。しかしよく新聞などで見る示談とか、刑の執行猶予とか、そんなことだろうと思った。
 東京からは誰が来るか。父が来るか、叔父が来るか、それとも友達が来てくれるか。誰にしろ、この結果はきっと、そんなことにしてくれるだろうと思った。私はにぎっていた出刃
包丁をついに振り回す気になれなかったように、この出来事もそれだけの結果で終わるだろうと思うと、罪せられるのを望むのではないが呆気ない気がした。
 東京を出る二ヶ月ほど前のことだった。私は私の最も親しい友達の一人と仲たがいをした。同時に私はある若い美しい女を恋した。
 初めてその女と会って1時間しないうちに私は珍しく何年ぶりで、甘ったるい恋するような心持になってきた。それは女が私に好意を持っていると思い込んだのも一つの力だった。その席には親しい友達が3人いた。なかでも一番仲のよかった一人が、私のその心持を見ぬくことから、快くない気持の上の悪戯を私に仕掛けた。私はそれでその友に腹を立った。   その女を恋する心持とその友を憎む心持とが私の胸で燃えあがった。たんちょうな日を続けていた私にはそれがいい心持だった。
 私は三四日して一人でその女に会いに出かけた。私はそのとき美しいイリュージョン(幻影)を作っていった。ところがそれはその場で1時間しないうちに見事に打ち崩されてしまった。苦しいが涼しいような快感があった。
 私は間もなくまた別の美しい女に出合った。美しい肉体をしてコケティツシな表情を持った女だった。ソーダー水に氷を入れて、それを電燈に透かしながら振ると風鈴のようないい音がする。女はそんなことをしながら度々それへ美しい唇をつける。そして仕舞いに飲み干す。で、酔えばいっそう美しくなった。襟から頬へかけていっそうに白くなった。それよりも眼が美しくなった。唇もいい色になる。だんだん調子が浮気っぽくなる。これも人を惹きつけた。
 私はこの女をとても補足しがたい奴と一人決めていた。私は三四度続けてあった。すると、案外補足しがたいという気がしなくなった。しかし結局は前の女でしたことを再びこの女で繰り返したに過ぎなかった。私はまた単調な生活に帰ってしまった。もう仲たがいした友達に対してもそれほどの怒りは感じられなくなった。何となくいらいらしながら物足らない心持で一日一日を無為に過ごしていた。(以下完成作品冒頭に続く)
(発表時の末尾)
 翌朝ぼんやりと障子の硝子越しに前の景色を見ている時だった。巡査や女の子の母親が前の坂道をこの方を見い見い登ってきた。母親は興奮からか恐ろしい顔をしていた。私には逃げようという気は少しも起こらなかった。私は赤面した。そして苦笑した。私はしまいまで進ませた出来事を途中で笑い出すようなことはことはしたくないと思った。私は出刃包丁を持ち出した。しかし、かって人の顔(あるいは犬でも馬でも)を真正面から殴った経験のない私には出刃包丁を逆手ににぎったものの、それで身がまえする気にはなれなかった。私は恐ろしく平凡な姿勢で出刃を持ったまま突立っていた。
 母親と女の子は抱き合って泣いた。母親は泣きながら激しく私を罵った。私は黙って立っていた。母親は娘を抱いたまま私の後ろにへきて、私の背中をドンと強く突いた。巡査がし
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きりとそれをなだめた。
 私は警察へ曳かれた。それからの経験は総て初めての経験であるが、私は学校時代に何かでこんな経験をしたような気がした。
 私には気違いじみた気分は少しもない。しかし裁判官がそれに近いものと解しようとするのを反対する気はない。
 私は多分近日許されてここをでるだろうと思う。それから私はどこへ行こう?やはり東京へ帰るより仕方がなさそうだ。もうあの町に行くこしはできない。東京へ帰らないとすれば、どうするだろう。私はまた同じような生活に落ちていかなければ幸せである。もし同じ生活が繰り返ってくれば私は今度は、更に容易に同じようなことを起こし兼ねないという気がするから・・・・・・・・女の子はどうしているだろう?
脚本化の場合
・検察官・・・・・・ワイセツ目的の疑い。計画性、再犯の疑い
・弁護人・・・・・・初犯、凶悪性はみられない。精神の疲労から犯した犯罪。
・証人(複数)・・・・・周旋屋、按摩、診察した医師(テキストでは神経衰弱と診断)
・裁判員(複数)・・・・
尾道に、志賀直哉の足跡を訪ねて
 今年の5月1日、尾道を散策した。志賀直哉が住んだ家からは瀬戸内海がよく見えた。
志賀直哉旧居と下原
写真、上の貸家で住んでいたときのことをモデルに『兒を盗む話』を創作した。家は、当時のままだという。
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提出課題    尾道幼女誘拐監禁事件について
南海洋輔  私が(検察、弁護人、裁判員)だったら、このように考えます。
▼検察の目
 
本件は非常に悪質な事件で、犯人の用意周到さがうかがえる。被告の父親によれば、被告は家出した放蕩息子でありヤクザでどうしようもない奴、である。(被告は仕事をしておらず、たびたび芝居小屋で目撃されている)そんな彼の証人に立とうという者は、この京都で、ついぞ誰も現れなった。
 ある日金剛寺近くの店へ按摩に訪れた被告は、そこに住む(まだ五歳ほどの)女の子へ劣情を抱き誘拐を計画する。人でごった返す誓文拂いの晩を狙って、母親が目を離したすきに人混みへ紛れ、嘘と菓子で女の子を巧みに裏道へ誘導してから、被告の家まで連れ帰った。被告の部屋からは以前から計画していたことをうかがわせる原稿用紙の束――「やろうとしてもできなかったことをやって退けた……」細かく破かれ証拠隠滅を図ったものか?――が見つかっており、以前から女の子に対して深い執着心を持っていたことがわかる。他にも誘拐したことに対する快感や達成感をうかがわせる文章が散見され被告の異常性を裏付けている。さらに女の子本人からは、被告から接吻されたり抱きしめられたりしたという供述があり、さらには帰りたがる女の子をだまし、力ずくで被告の家へ連れ帰ろうとしたという。
そして女の子が誘拐されてから二日後、被告の自宅へ警官が駆けつけた際には、被告はすでに出刃包丁を逆手に握っており、あと一歩遅ければ女の子の命が危ないところであった、ということが現場の警官と探偵、そして女の子の母親からの証言でわかっている。
以上から社会的責任感に乏しい被告の異常性、悪質性は顕著であり、しかるべき実刑判決を下すのが望ましいと思われる。
▼弁護の目
被告は事件当時、精神的な錯乱状態にあり正常な判断を下せる状態になかった。父親と折り合いが悪く、毎日罵倒されながらも耐えていた兄の姿を被告の妹は証言している。それから勘当同然で家出した被告は長い間、慣れない土地で一人ぼっちの孤独な生活を強いられることになった。相談できる相手もおらず、作家業という孤独で精神的消耗を強いる仕事をしていた被告は原稿が行き詰まり連日、激しい肩こり・頭痛・睡眠不足などに見舞われる神経的摩耗状態にあった。それを癒そうと思った按摩で少女に出逢ったのである。当時被告は自殺まで考えるほど精神的に追い詰められ現実と夢との区別も曖昧になっていた、と証言している。
被告は創作的孤独のさびしさから、原稿のアイデアと話し相手を少女に求めただけであり、それ以上のものではなかった。少女を誘拐するというアイデアをもっと具体的でより面白く作品に生かそうとして実際あのような行動に出てしまったのである。原稿用紙に描かれていたのは作中人物の心情描写であり、法的論拠は皆無である。被告は少女に接吻はしたが額と頬であり、唇ではなかった。よって性的なものではなく親類や友人にするような純粋な親愛表現であることがうかがえる。食事を与え、遊んでやり、少女を丁重に客としてもてなそうとしたことが、少女の証言からもわかる。
 ただこの事件で悲劇であったのは、あまりに長く被告の精神的摩耗状態が続いたため、どうすればいいか、被告自身判断できなくなってしまったことであり、現実と虚構の区別がつかなくなった被告に少女が巻き込まれたということである。被告は決して少女に危害を加えようと思って近づいたのではなく、孤独からくる純粋な人恋しさやさびしさから少女にすがったのである。出刃包丁を握ったのは精神的極限状態における防衛本能から来るもので、実
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際被告は警官が駆けつけた際にまったく抵抗しなかった。以上を踏まえれば被告には充分に情状酌量の余地があると思われる。
第三者の目
 エディプス・コンプレックスの裏返しからのロリータ・コンプレックス。身体的なコンプレックスがあるため、まず頭で考え準備計画してから行動するタイプ。そのため予測に長けるが実現することは稀。感受性が強くきれい好きで美醜にこだわりがある。作家タイプ。繊細で傷つきやすく神経質。空想癖があり、創造的思考に優れるが、非現実的な発想なため長続きせず、すぐに挫折する傾向がある。変化に富むもの、刺激的スリルを好む。人なつっこく気前が良い性格だが、完全な個人主義。
【社会観察】最近の新聞に、以下の記事がありました。あなたの意見は。
   
 
10・11提出課題・「高裁の一人殺害の死刑破棄についてどう思うか」
 この事件は、2009年10月千葉県松戸市のマンションで千葉大学4年の女子学生(当時21歳)が強盗に殺害された事件。犯人は、強盗傷害罪で出所後1カ月、強盗致傷や強盗強姦をくりかえしてきた無職の竪山容疑者(52)、裁判員裁判では、死刑判決がでた。
 さきごろ検察と被害者家族は控訴した。
2013年10月9日 朝日新聞朝刊
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人生相談観察   私は、こう思う
読売新聞に下記のような相談がありました。相談者があなたの友人だったらどんなアドバイスをしますか。他人ならこんなアドバイスがあります。
○大学はやめて好きな道にすすみなさい。その方がいいです。人生むだにならない。
○がんばって大学を卒業して、それから好きな道に。遅くはないです。
○大学に籍をおいて、料理の勉強もやったらどうですか。
ポイント
相談者(母親)には、どんなことを助言するか。
友人だったら、本人にどのように話すか。
雑談   親と子供の責任問題  最近のテレビ報道から
テレビの人気司会者みのもんたさんの息子が、窃盗事件で逮捕された。このことでますこみは喧々諤々している。子供の犯罪に親はどの程度責任を負うのか。
 自分の考えを述べてください。
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熊谷元一研究  11月6日の命日を前に想う
教育者としての熊谷元一
 
3年前、2010年11月6日、熊谷元一は、40年間住み親しんだ東京都下の清瀬から天国に旅立った。101歳だった。写真家として、童画家として現役だった。翌日、新聞各紙は、次のように報じた。
写真家熊谷元一さん死去 2010・11・8 読売新聞
写真家・童画家 熊谷元一さん死去 2010・11・8 信濃毎日新聞
 満蒙開拓民の写真記録 熊谷元一さん死去 2010・11・8 朝日新聞
 熊谷元一さん死去 写真家・童画家 2010・11・8 中日新聞
 熊谷元一さんが死去 阿智村出身の写真童画家 2010・11・9 南信州新聞
 いずれも、写真家として童画家としての功績を称えるものだった。熊谷の残した写真や童画作品には、懐かしさや癒しがある。亡き後の3年間、各地で展示会が多くなった。介護の場や老人施設では回想法として、おおいに役立っている。
 これれが目に見える功績ならば、熊谷には目に見えない功績もある。それは、報じられることもなく、忘れ去られていくようだ。目に見えない功績とは、何か。正確に言えば熊谷は、完全なる写真家、童画家とは言えない。あくまでも冠にアマチュアがつく。しかし、その作品がプロをも凌ぐとなれば写真家童画家熊谷元一でも、立派にやって行けるのだ。そんなところから本職は、すっかり隠れてしまった。
 生涯一小学校教師。それが熊谷の本当の姿である。教師として、熊谷は何を残したのか。60年前になるが、教師としての実像を思い出してみた。
震災後の学校教育の手本として
 戦後が終わり震災後がはじまった。新しい国づくりのための課題は、多々ある。なかでも学校教育は、最重要課題といえる。体罰、いじめ、モンスターペアレント、学級崩壊など今日、教育現場の危機を招いたのは、戦後教育の結果にあったと思うからである。66年前、軍国教育に代わって民主主義教育がはじまった。だれもが輝かしい未来を信じた。が、戦後の復旧・復興の喧騒のなかで、民主主義教育は、成果主義教育へと変貌した。成果主義教育がたどりついた最終点は原子力発電だった。経済と利便だけを求めた千年王国の支柱。だが、
3月11日、福島第一原発事故で神話は脆くも崩れ去った。
原子爆弾を二個も落とされた国が、なぜ原子力に頼る国になってしまったのか。警鐘する教育もなかったし、教師もいなかった。民主主義教育は、有名無実だった。それは今日においても、変わることがない。渇望されたゆとり教育の惨敗。理想の学校教育は、ただ塾教育の草刈り場となっただけだった。
今、震災後の教育を考えるとき、私は、ある小学校教師のことを思い出す。道標なき民主主義教育の創草期、その教師は、創意工夫の手作り教育で孤軍奮闘した。独善的で偏見を恐れぬ挑戦は、ときには批判され嘲笑された。
だがいま、戦後教育の失敗を教訓とするなら、その教師の手作り教育を顧みたい。そこに、本当のほんとうの教育があったような、そんな気がするからである。
昨秋、101歳で亡くなった写真家・童画家の熊谷元一氏は、生涯一教師だった。画家になることを夢見て生まれ故郷の教壇に立った。投稿の童画が入選したことで童画家としての道がひらけようとした。が、昭和8年、誘われて参加した会合が「教員赤化事件」として挙
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げられ、教職を追われた。しかし熊谷には、運があった。偶然手にしたカメラから写真の才能をのばした。昭和13年朝日新聞出版の『会地村』は高い評価を得た。熊谷は国の写真班嘱託となり満州にわたり満蒙開拓青少年義勇軍撮影の仕事についた。終戦時、36歳の熊谷の前には、二つの道があった。童画家と写真家の人生である。
しかし、熊谷が戦後の人生に選んだのは教職だった。復興する東京に背を向け故郷の山村に帰って小学校の教壇に立った。なぜ熊谷は、幼いころからの夢、絵の道に進まなかったのか。新しい時代の職業カメラマンにならなかったのか。語ることはなかった。
写真家としての熊谷の活躍はめざましかった。得意の童画とカメラを駆使し、学校教育や村の記録に貢献した。反射幻燈や人形芝居作り、『農村の婦人』『一年生』などがそれである。
私は、昭和28年山村の小学校に入学した。担任は熊谷だった。故にその手作り教育を体験することができた。熊谷は、学校教育の常識を次々と打ち破り、自分流教育を実践した。授業中の写真撮影をはじめ、教師の聖域だった黒板の解放。空き教室のプラネタリウムづくりなどなどである。いずれも現在においても考えられない自由教育だった。
熊谷は、退職したとき、ようやく自分の夢だった絵を描くために上京した。亡くなるまでの44年間の東京生活は、写真と童画を描くためだけに専念した。故に訃報記事の紹介は童画家・写真家だった。熊谷は生前、自分の人生を三足のわらじを履いた人生に例えていた。が、教育者としての熊谷は希薄だった。村人も絵描きとしての印象が強い。
昨年暮れ、私は、熊谷の教師時代の遺品を目にした。一年生のときに子供たちが描いた絵や『こどもかけろよ ひのてるほうに』と題した文集。教室での子供たち一人一人の動きを一年間追った動線表や黒板絵の写真など自由教育の数々。そこに真の教育者魂をみた。
私は、はじめて熊谷がなぜ教師を選んだのか、わかった気がした。私の村は、満蒙開拓青少年義勇軍に多くの若者を送りだした村である。満蒙孤児来日に奔走した山本慈昭さん(1902-1990)もこの村の住職である。熊谷は、満州で開拓団の写真を撮った。が、被写体の現実に愕然とした。そして思ったに違いない。国民を救うのは、国策でも開拓精神でもない。教育にこそ未来があると。その信念が与えられた民主主義教育を活用したのだ。
震災後、進むべく教育の手本として、かって民主主義教育を自分流に実践した熊谷元一先生の手作り教育を発信できれば幸いである。
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「一年生」特別企画展
会場 長野県昼神温泉郷 熊谷元一写真童画館・常設展示場
第1回展 :  9月18日(水) ~ 12月16日(月) 12月18日に作品の入れ替え
第2回展 : 12月19日(水) ~ 2014年2月中旬迄
入館料、一般350円 火曜日休館
常設作品の他、普段は展示されない作品、計95点が
 2010年11月に101歳で亡くなった写真家熊谷元一(1909-2010)の代表作といえば、1955年に出版された写真集『一年生―ある小学教師の記録』(岩波写真文庫)である。この作品展が、熊谷の郷里にある熊谷元一写真童画館で開かれる。今年は、没後3年に当たることから特別企画展として2014年2月中旬まで開催される。
【『一年生』出版まで】
1949年4月 (40歳)母校会地小学校に転勤になる。
1951年 (43歳)岩波写真文庫の仕事として蚕の写真を撮る。『かいこの村』
1953年4月1日 (44歳)小学1年生を担任。写真撮影を開始する。
1954年3月30日、小学1年生写真撮影終了
1955年3月 (46歳)、岩波写真文庫『一年生』出版。
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清瀬市のお寺の墓地にある熊谷元一のお墓
2012年10月8日~23日
清瀬市郷土博物館「熊谷元一回顧展」を開催
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朝日新聞 2011年6月7日
「じいちゃ」忘れないよ
「写真家・熊谷元一さん清瀬で10月に回顧展
 清瀬に「じいちゃ」がいた。写真家で童画家。ふるさとの長野で活躍した後、清瀬にやってきた。じいちゃは元気いっぱい。自転車をこいであちこち訪ね、まちの風景をたくさんの写真や絵に残した。市民に愛され、昨年、101歳で他界した熊谷元一さんの回顧展を前に、清瀬市郷土博物館が「じいちゃへのメッセージ」を募っている。
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読売新聞 2011年5月30日
101歳で逝った写真・童画家熊谷元一さん
2011年10月に回顧展 メッセージを 清瀬市で募集
清瀬を愛し、創作をつづけてきた熊谷さんの功績を一緒に振り返ろう。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo・227――――――― 12―――――――――――――――
これまでの郊外授業 (熊谷元一研究)
下原ゼミでは、熊谷元一研究の一環として郊外授業を実施していきます。写真展、童画展写真童画館見学や熊谷元一研究発表(28会主催)などが主な授業内容です。研究の目的は、熊谷元一という一人の写真家・童画家の生涯と作品検証です。研究は、継続的になります。熊谷の写真、童画、学校教育に関心ある人は、ご参加ください。
これまで実施した郊外授業は、以下の通りです。見学は28会含む()はゼミ生
□2011年9月23日~24日 山形県酒田市美術館「近くて懐かしい昭和展」見学4名
□2012年7月8日(日)~9日(月)秋田角館ぷかぷ館「熊谷元一写真展」見学5名(1)
□2013年7月5日(日)銀座・教文館「岩波書店創業百年展」見学9名(2)
□2013年9月30日(月)市ヶ谷「熊谷元一写真コンクール選考会」見学5名(1)
□2013年11月9日(土)長野県昼神温泉郷 熊谷元一写真童画館「一年生展」 
ゼミⅡの記録
□ 9月30日(月)郊外授業 写真賞審査会見学 ホテル市ヶ谷 参加1(ゼミⅣ)
□10月 7日(月)ゼミ誌編集作業報告、作成会議 表紙の紙質選定 参加3名
□10月21日(月)司会・南海洋輔 ゼミ誌編集報告 テキスト読み『范の犯罪』疑似法廷
         劇の配役を決める。4名全員参加
□10月28日(月)
ゼミ雑誌について
 ゼミ授業の実質的成果は、ゼミ雑誌発行にあります。齋藤編集長を中心に皆で協力してよい雑誌を作りましょう。刊行までの要領は、下記の通りです。
1.  10月上旬 印刷会社から【②見積書】をもらい料金を算出してもらう。
2.  10月~末日 編集委員は、印刷会社と、希望の装丁やレイアウトを相談しながら
   皆と協力して編集作業をすすめる。
3.  10月末までに、出版編集室に見積書を提出する。編集作業をすすめる。
4.  11月中旬までに印刷会社に原稿を入稿してください。
5.  12月6日(金)はゼミ誌納品期限です。厳守!!
6.  12月12日までに見本誌を出版編集室に提出してください。
7.  12月下旬までに印刷会社からの【③請求書】を出版編集室に提出してください。
掲示板
お知らせ
◇12月7日(土)、ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」
会 場 東京芸術劇場小5会議室   時 間 午後2時 ~ 4時45分迄 
作 品 『夏象冬記』     報告者 大野智之さん
・・・・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・・・
□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
 メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net
       携帯 090-2764-6052

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