文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.32

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日本大学芸術学部文芸学科     2005年(平成17年)6月 13日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.32
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
 ホームページ http://www.shimoharanet 編集発行人 下原敏彦
                              
2005前期4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20
6/27 7/4 7/11  
2005年、読書と創作の旅
6・13下原ゼミ
「読書と創作の旅」7日目の下原ゼミは、下記の要領で行います。(文ゼミ1)

 1. 登録者確認・前回ゼミ報告
   ・ゼミ誌ガイダンスのお知らせ ・前回ゼミ報告 ・名所案内 ・進行    
2. 提出作品の発表(通信掲載の報告未発表作品)
・車内観察 ・車中の人 ・「網走」前後編 ・コラム記事 ・論評など
3. 発表作品の感想&編集
  ・聞き手は、読者から編集者かデスクに成り代わり発表作品を手直しする。
  ・発表者は、作品に加筆、直しがあれば追記する。
4. 「普通の一日を記憶する」の読み
  ・読んだ人は、日記の主の性格分析をする。(作中人物紹介として)
5. テキスト読みはお休み
 ゼミも、中盤を過ぎ、前期のまとめ(車中文学の名作『灰色の月』)に向かってすすめていきます。が、中日ということで、一休みして、テキストとは
 関係の無い作品を読んでもらいます。
  


2005年、読書と創作の旅・名所めぐり(城の崎温泉にて)
 ここの温泉は、ものの書によれば養老(717-724)年間僧道智の発見と伝えられている。温質は、無色・無臭の塩化土類含有食塩泉。効能は、万病。大正2年、確かなことはわかりませんがそのころは、打撲、ケガに効くとあったのでしょう。この年の8月15日。志賀直哉は、電車に轢かれかかって助かった子供の話、『出来事』を書き上げた。夜、友人と散歩にでての帰り山の手線の電車にはねられて怪我をした。秋、その養生にと、やってきたのが但馬の城の崎温泉です。ここで観察したことを作品にした。
※ 1917年(大正6年)5月1日発行の『白樺』に、『城の崎にて』を発表。
目 次
□車中雑記「あの時」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
□6・6ゼミ報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
□提出作品発表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4、5
□発表作品編集作業 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6、7、8
□一日を記憶する、他、掲示板  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9、10,11,12
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.32 ―――――――― 2 ――――――――――――――――
 車中雑記     車中の目
                       ――――――――――――――――
一人で、電車に乗っていると、誰かに見られている。ふと、そんな気がすることがある。むろん、やましさも心当たりもない。が、そんなときは少し不安になったりする。これもあんなことがあったからだ。もう30数年前の学生時代のことである。          
 あの日、昼過ぎだった。池袋から山手線に乗った。行き先は決まっていたが、キップはなんとなく一区間40円買っただけだった。他意はなかった。途中で、気が変わって違う駅で降りるかも知れないと思ったのだ。なにもかも宙ぶらりんな時期だった。校舎は占拠されたままだったが、学校側は窮余の策として、学生運動の火が及ばない地方の校舎で授業を行うことにした。むろん、江古田校舎もそうだったが、私が通う三軒茶屋の校舎も閉鎖されていた。クラスの友人たちは、渋々郡山にある校舎に向かった。私もバイトの問題が片付けば後を追うことになる。が、なんとなく現実感がなかった。バリケードのなかにいる友人もいたが、農業実習で(季節労働者として)北米や南米にいっている友人もいた。で、こんなときのんびり授業を受けていてよいものか、といった気持ちが心のどこかにあった。
 車中の週刊誌の中吊り広告は、相変わらず半年前に起きた府中の三億円事件についてだった。どの広告も、もう犯人がわかっている。そんな見出し文句が踊っていた。ぼんやりながめていたら、なんとなく誰かに見られている。そんな気がした。知り合いが・・・見回したが、気のせいだった。そのうち眠くなった。電車は上野を過ぎていたが、睡魔には勝てず、眠りこんでしまった。田町で目が覚め、電車を降りて、再び山手線で引き返した。行き先は水道橋なのに、寝ぼけていたのか、(そのときは、東京からでも行けると思ってしまったのか)東京駅で降りてしまった。それで気が変わった。水道橋に行くのが、なにか面倒になり、バイト仲間で、高田馬場にいる他大学の友人の下宿に行くことにした。が、もしいなかったら・・・こんどはそんな心配がわきあがった。さて、どうしようか迷っていると、いきなり
「ちょっといいかね」と、声をかけられた。
黒っぽい背広を着た中年の男だった。人間違えかと思って、振り向くと、後ろにも背広にネクタイの男が立っていた。30前後の若い男だった。なにか嫌な予感がした。中年男は、内ポケットに手を入れて、何か黒っぽい手帳のようなものを出して「――です」といったが、よく聞き取れなかった。が、瞬間、二人は刑事だと確信した。電車の中で感じた視線は彼らだったのか。背中に鳥肌がたった。
「わるいね」中年男がなれなれしく聞いた。「どこへ行くところ」
「どこって・・・」私は、口ごもった。
「キップみせてくれる」中年男は、車掌のように、しかし、強引に言った。
 こんなときは、怪しまれることが重なってしまう。
「これ、一区間じゃないか」若い男は、キップを見て乱暴に言った。
「え、それは・・・」私は、説明に詰まった。
「悪いけど、荷物、見せてもらうよ」間髪を要れずに中年男は言った。
「あっちで聞こう」若い方が、人のいないところをあごで示し私のスポーツバッグをとろうとした。私は握って話さなかった。
「なんだ」若い男は気色ばんだ。
「にいちゃん、交番に、行くよりいいだろ」中年男が諭すように言った。
 私は、あきらめて渡した。
「これ、柔道着じゃないか」若い刑事は、バックを開けたとたん、拍子抜けしたように言った。「なんだ、なんだ稽古かよ」
「はい、だから水道橋に」
「まあ、がんばれよ」中年の刑事は苦笑して、肩をぽんとたたいた。そうして、二人の刑事は、たいして謝りもせず、すぐに人ごみのなかに姿を消した。
東京駅であわただしく乗り換えるとき、普段は、忘れているが、ときどきふと、あのときのことを思い出したりする。                     (編集室)
―――――――――――――――――― 3 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.32
6・6下原ゼミ報告
 
 6月6日(月曜日)の下原ゼミ授業内容です。
参加者は下記の皆さんでした。 (順不動・敬称略)
たなか  だいき    おがわら ゆうへい   ひらいわ さとし    せき   ひでき
田中 大喜   小河原 祐平  平岩 理史   関  英樹
なかや  えり     はやし まさと
 中谷 英里   林 正人
       
出席者数6名
 6・6の出席者は、6という数字に合わせたわけでもないでしょうが、6名でした。11-10-9-7-7-6と、目下、最小出席者数更新中です。前期は、ちょうど半分が過ぎました。このまま減少しつづけるのでしょうか。後半が気になります。
関英樹さんの司会進行で
 この日のゼミは関英樹さんの司会で、「下原ゼミ通信31」に沿ってすすめられました。手順と主な授業内容は、次の通りでした。
1. まずはじめに、ゼミ事務報告として、ゼミ誌作成ガイダンスのお知らせがありました。つづいて、名所めぐりでは、瀬戸内海の海上に行きました。四国に行く船の中で船員が船客たちに強欲な母親の話をしていました。それを作者が、瓢箪を取り上げられた少年と自分を重ねて聞く様子を見学しました。
2. 次に、提出作品が報告されました。この日は、欠席者も多く、発表は平岩さんのテーマ「車中の人々」から『車窓の神様』1本のみでした。
満員電車の中、吊り革につかまって、うなだれているサラリーマンの姿。その恰好は、まるで、窓外にいる神様に祈っているようだった。高校時代、私が、そんな格好をしていると、一緒に予備校に通っていた彼女が笑ってからかった。「お祈りしているみたいね、その格好」ふと、そんな声が聞こえた。私は、思わず周りを見回した。が、彼女はいない。あの青春の日は、もうもどらない。時は流れた。
参加者の感想は下記のようでした。
  「サラリーマンと自分とがダブった。光景が浮かぶ」
  「うまいなと感じた」
  「現在、彼女がいない状況がわかった」
  「何か、切実なもの、哀切さを感じる」
3. 普通の一日を記憶するを読む。
6名の人に読んでもらった。書いた本人になりきるということは、難しい。
テキスト『出来事』の朗読
 感想として「乗客の喜びにリアリティが」「電車事故にあいそうになった幼い頃を思い
出した」「観察力に驚いた」「乗客のキャラクターが、受ける」などがあった。
  
手本作品の紹介と読み
 車内観察とオチのある作品として、O・ヘンリーの『心と手』を紹介。この作品は20枚足らずだが、起承転結のある、すっきりした作品になっている。話の狙いどころは、右手と左手にかけられた手錠。最初の観察が重要。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.32―――――――――4―――――――――――――――――
2005年、読書と創作の旅・提出原稿
  
 人の書いた作品を聞くのに慣れてきたと思います。これからは、読者から編集者に成り代わってもらいます。作品を書く以上、やはり、人が読みたくなる、人に読ませるものではなくてはなりません。発表作品を聞いて、ここは、こうした表現が、ここはひらがなの方が、この題の方がなど、といったように意見(批評、校正、訂正)を述べ総意を得ましたら下記の余白に書き込んでください。作者も、加筆があったら書き加えてください。
※ 例として、二ヶ所書き込んでおきました。(草)は草稿の意
・・・・・・・・・・・・・・・・車中の人々・・・・・・・・・・・・・・・・
6月6日提出
(草)車中の携帯
                             関 英樹
 私は、電車の中では電話に出ない。メールなら返信するが、電話は出ない。うるさいのが嫌いだから、自分が嫌いなことは自分がやったりしない。たまに携帯電話というものが、とてもうっとおしくなる。どこにいても電波が入って、電波があればかかってくる。
 今日は、久々に電車に乗って出かけた。やすみの日もあまり遠くに行かないから電車に乗る機会は自然と減る。
「もしもし」隣の席に座った男が喋りだした。
 私の顔が不機嫌そうな顔になるのが自分で分かる。ちらっと男の顔を見て、また向かいの窓に目をやった。男は少し小声になった。
 男は紺の背広を着た若い男だった。髪の毛は少し、ほんの少し茶色がかって、フレームの細い黒ぶち眼鏡をかけていた。
「はい、すいません、また折り返しお電話します」そういって男は電話を切った。「得意先からでも来たのかなぁ」と思いながら私の眉間にはまだ力が入っていた。今日は学校のない私。この人は会社があるのだろう。大変だなぁと思いつつも、やっぱり気に食わない車中の電話。 (了)

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6月6日提出「車中の人々」
(草)同級生
林 正人
 渋谷と横浜をつなぐ東急東横線。朝のラッシュはかなりのものだった。その電車を使う僕にとって、ラッシュ時の電車はかなり苦痛で、地獄と言っても過言ではない。今日も、イヤイヤながらホームに入ってきた渋谷行きの電車に飛び乗った。混雑している中で、ようやく人が入るスペースを見つけ、そこに落ち着くと、懐かしいあだ名で呼ぶ声がした。
「ねえ、ヒロでしょ?」その名で呼ばれるのは中学生の時以来であり、最近めっきり聞いていなかった。かろうじて動く首をひねると、そこにはどこか見覚えのある顔が。最初はわからなかったが、話していくと段々、当時の記憶がよみがえってきた。彼女のニッコリ笑った顔は変わってはいなかった。部活でやっていたテニスを高校で辞め今は美容師になるために専門学校に通っているらしい。その当時僕はプロ野球の選手になりたい、などと言っていた。今は、と言われると何を目指しているのか自分でもわからないのだが、学校が忙しくて全然友達と遊べないの、と笑う彼女が、何だかとても輝いて見えた。僕はというと、窓から見える風景のように、ちっぽけな小さい存在に感じた。 (了)

2005年、読書と創作の旅 コラム(テーマもの) 6・6提出
テーマ「JR西日本の脱線事故」
風化させない
林 正人
 
世間は新入生、新入社員で活気にあふれ、街は春の陽気につつまれ、ワクワクしている。ポカポカした太陽の下で、人々は新たな出会いやこれからの新しい生活に心をおどらせる。春はすばらしい季節だ。その春を、彼らはどのような気持ちですごしたのだろうか。
あの悲惨な事故から一ヶ月、早いと言えば早く、遅いと言えば遅い時間が過ぎた。遺族を始め、幸いにもケガですんだ人や、マンションに住んでいた人。そして、鉄道会社の社員達にとって、この事故が与えた影響は計り知れない。遺族や、住人、ケガ人達には悲しみと脅負が襲い、そして怒りが常につきまとう。社員は事故の対応におわれ、社会の批判もあびた。末端の社員にはおそらく責任はない。責任はトップ役員達にある。何人かが辞めたが、じこの対応をしっかりして、しっかり責任をとってから辞めるべきではないかなぁ、と思う。それぞれの時間を、彼らトップ役員はどのようにすごしたのか。
時間は悲しいことも辛いことも忘れさせてくれる。それに伴い、いろんなことを風化させる。忘れていいのは「おごり」や「安全性より利益追求」といった気持ちであり、この事故を風化させてはならない。 (了)

文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.32―――――――――6―――――――――――――――――
2005年、読書と創作の旅・土壌館創作道場
・・・・・・・・・・創作『網走まで』前後編・・・・・・・・・・
 
宇都宮に着くまで相席したあの母子3人は、上野駅にくるまでどんな生活をしていたのか。列車を降りてからどんな生活が待っているのか。作者志賀直哉とて興味ある話だと思います。
6月6日提出・前編
(草)上野駅まで
田中大喜
 
父親は滅多に帰って来ない。今日も母とは違うどこかの女の所にいるのだろう。そんな家庭だった。たまに帰ってきても母が稼いだぎりぎりの生活費を奪いにやってくるだけ。そういう日だけ家で焼酎を呑む。酔いが回ってくると母親に暴力を振るう。母はただ泣いているだけ。物心ついた時から我が家はこの調子。自分はこうはならないと心に誓う。早くこの家を飛び出したい。15歳の時、母にこの家を逃げ出そうと相談を持ちかけた。判りきっていた事だが母は拒否した。母はこんな生き方しか出来ない人だ。
やがて父に無理矢理、夜の仕事をさせられる。売春。最初のうちは嫌で自殺まで考えたけど、しばらくすると心は凍りつき何も感じなくなる。人間どんな状況にも慣れてしまうものだ。凍りついた心は明るい未来も凍結させる。私に残っているのはただこの家を飛び出したいという衝動だけ。この家さえ飛び出せれば何でも良い。その先の事は考えられない。当然仕事で稼いだお金は父に持っていかれる。それで、いつか家を飛び出す時の為、父にばれないようにお金を少しづつ貯めるようにした。

家を出てもしばらく暮らしていけるだけのお金が貯まった頃、常連の客から一緒に暮らさないかと勧められる。この地神戸から東京へ。お客の職業について訊ねないのがこの道のルールだが、背中の彫り物、着ているものからヤクザ。それも下っ端の構成員だということは間違いないだろう。普通の人間、例えば私の同僚だとしてもこの誘いに乗る馬鹿はいないだろう。それを承知の上で私はこの男の誘いを受け入れた。
東京へ出てから五年が過ぎた。この間に子供を二人授かった。男は一緒に暮らして半年もしないうちに私を気味悪がった。家に寄り付かなくなり、たまに帰ったと思えば金の催促をするだけ。金を受け取りにくる日だけ家で酒を呑む。そして私に暴力を振るう。東京に出てきて子供が生まれても仕事は変わらず。この子供達も誰との間に授かったのかさえもわからない。それでも私は生まれ育った場所よりもここの環境の方がよいと断言できる。人生に希望を持って生きていたあの頃よりも諦めてしまった今の方が楽なのだ。
―――――――――――――――――― 7―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.32
 やがて夫が鉄砲玉として敵対勢力の親分を殺し、刑務所に入ることになる。夫が刑務所に入ったとしても敵対勢力の腹の内は治まらず男の家族、そう私たちの事を目を血眼にして探しているという情報を夫の同僚だという人から聞いた。もう東京にはいられない。夫が服役している網走まてはさすがに追ってこまいと思い、話を聞いたその日のうちに荷物をまとめ子供を連れて上野駅に向かった。夫の服役期間はいつごろまでかわからないが、網走で住居を見つけ、夫の帰りを待とうと思う。またここから飛び出せばなんとか生きていけるような気がする。  (了) 
提出原稿覚書
テキスト『網走まで』の感想(原稿提出者)は以下の皆さんです。5月23日現在 順不動
関 英樹   小河原佑平  平岩 理史  林 正人  大島 直文  
中谷 英里  畑 茉林   田中 大喜
 
『車中観察』の原稿提出者は以下の皆さんです。6月6日現在 順不動(本数)
関 英樹(3)小河原佑平(3)平岩 理史(3)林 正人  大島 直文(2)  
中谷 英里(2)  畑 茉林   田中 大喜(2)
愛読書アンケート提出者(6月6日までに提出した人)順不同
小河原佑平  平岩理史  関 英樹  田中大喜  大島直文  林 正人
中谷英里  中村健人
「車中の人々」提出者(6月6日までに提出した人)
 畑 茉林  田中大喜  平岩理史  関 英樹  林 正人 
『網走まで』前後編提出者(6月6日までの提出者)
 田中大喜(前編) 
コラム「JP西日本電車脱線事故について」提出者(6月6日までの提出者)
 林 正人 
なぜ『網走まで』としたか(6月6日提出)
 中村健人 
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.32―――――――――8―――――――――――――――――
旅日誌
「普通の一日を記憶する」
 書くことを習慣化するために、時間のあるとき、暇なとき、なにもかけなくなったときなどに自分の行動や考えを記してください。(創作日記可)この日、わたしは・・・・読んだ人は、日記の主を作中人物として、つくりあげてみる。性格や生活分析など。
雨に唄えば             H・S
6月4日 今日も女が隣で寝ている。ロフトの男はまだ寝ている。隣の女を起こす。8時半。私は土曜に授業がないのだが、女のために起きた。駅まで彼女を送ってゆく。送った帰り、西友で知らない人にパンを買ってもらう。その後、私は大学へ、彼はスケボーに行く。大学へはバイクを取りに行くためだった。バイクに乗ると雨が滝のように降りだした。もう走れない。そう思ってトンネルの中で休む。そろそろ雨の季節だ。トンネルの中で彼を呼び、二人で雨宿りする。島唄を二人で狂ったように唄った。
敗戦に乾杯           H・S
 6月5日 朝6時半に起床。今日は部活の美大リーグ1日目。集合時間8時。20分遅刻する。9時半試合開始。第一試合、1セット目。足をケガする。相手側のコートから足がでてきて、足を踏まれる。結果、敗退。結局、この日は2試合中、1セットも取れずに2敗。試合後、ミーティグ。美大1日目終了。その後、国分寺へ行く。同じ2年の女子部員二人と居酒屋へ行く。
S氏へメッセージを送り、からかう。ビールジョッキ4杯、ビンビール2本、あんまり酔っていないが、とてもいい気持ちで狭山市へ帰り、寝る。
                楽しい遠足              O・U
6月5日 本日は6月5日。大学生になって遠足という名の企画に参加。マジック研究会と長唄研究会の合同企画。目的は進入部員歓迎という訳だが、マジック研究会1年生の参加は1人だけ。何ともかんとも。計15人程度の参加。
 私たち一行は池袋の水族館へ。入り口には体長4mもある深海魚の標本が展示されている。私たちの泳ぐ足下でこんな巨大な魚がいると身震いがした。その後、シュークリームと餃子、アイス展へ移動。歩き回って足は棒と化した。今日の衝撃は、龍宮の遣いといわれる深海魚と牛タンアイス、味噌ラーメンアイスであった。
                私の本棚              O・U
 ×月×日 近所の――とは言え、自転車で10分と少し走るのだが、――古本屋へ行くのが好き。そこへ行くまでは非常に億劫なのだが、一度足を向けると気分は否応なしに活気立つのが分かる。その古本屋は行く度に、読みたかった本や興味深い本が手に入る魔法のような所であった。なにせ、どれも安価の為、毎回数冊は購入してしまう。
 こうして私の本棚には、1冊1冊はチープだが、私にとっては底知れぬ魅力をたたえた高価な本が並んでいるのだ。問題は読むスピードが増える本に追いつかない事である。
 
                                            
―――――――――――――――――― 9 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.32
               火曜日の一日
                                     H・M
 ×月×日 2限から学校に行って、3時ぐらいからグランドを走り、夜バイトに出かける。毎週火曜日は、かなりのハードな1日だ。眠い目をこすりながら家を出て、眠い目をこすりながら家に帰ってくる。自分の部屋のベッドがとてもやさしく僕を迎えてくれる。そのまま眠りにつきたい気持ちを抑え、風呂に入り、歯をみがいてまたベッドに帰る。ああ、課題やらなきゃ、と思いつつ眠る。僕の火曜日はいつもこんな感じだ。すげーつかれた。つかれた、つかれた。おやすみなさい。
昔、ここに川があった
H・M
 ×月×日 今日は天気が良いので、外を散歩した。川を埋めた緑道をゆっくりプラプラとコンクリートの道を歩く。元々、このコンクリートの下は川で、昔はきれいな川だったらしい。しかし、雨が降るとすぐに氾濫したり、汚れがひどくなってきて、臭いがしたりして埋めてしまったのだ。周りに植えてある桜の木は春になるときれてな花を咲かせ、その1週間あまりは華やかになる。今はその時期を過ぎ、緑だらけだ。その昔、まだ川がきれいだったころ、きれいな水面に満開の桜がゆれ映る景色を想像しながら、僕は歩くのだ。
                
テキスト作者の一日を紹介
志賀直哉21歳。前年(1903年)7月学習院中等科6年卒業、9月高等科に進む。
1904年(明治37年)
6月12日 日曜日
 朝井上に行きそれより内村先生の家に行く・・・甚だ有益なる話なり、帰って。午後ひるねをすると間もなく平一が来たので話してると有島も来る。晩・・・有島を送りながら市ヶ谷まで行き8時頃木下の家に行ったが不在だったので嘉吉と万年亭の前を通ったが誘惑を忍んで帰り、二時間程おばあさんと話し11時頃より1時少し過ぎまで本(洋書を)40頁程読みねる。
6月13日 月曜日
 学校を休み、朝はほとんどなす事もなく
 午後より平一と歌舞伎座へ行く、序幕のだんまりは時間を早めたので見損なう、(嘉平次内)は吉右ェ門の市作、高島屋張りにて中々よし片市の嘉平次は義太腹あれば一寸大きくやっていた。(道風)・・・・・・帰りしは11時過ぎなり。
6月14日 火曜日
 朝、腹くだりかけたりはあわてて、便所へ行こうとするうち目が見えなくなり便所へ入りかけたがぐらぐらとして歩けず、・・・多分脳貧血ならん、しばらくねて中井さんに診察してもらい中西へ行き・・・・夜大いにうなされる。
 武者小路より手紙あり
 佐久間と川村と武者へ手紙をやる。・・・・
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.32―――――――――10―――――――――――――――――
土壌館創作道場・志賀直哉―嘉納治五郎―ドストエフスキーをつなぐもの
志賀直哉と柔道
 「志賀直哉と柔道」こんなタイトルを見ると、奇異に思う人がいるかも知れない。いや、実際大半の人は、そう思うだろう。方や小説の神様、方や世界的武道。よく文武両道という言葉を聞くが、両者に限って、比較自体ナンセンス、そう思われがちである。
しかし、少しでも小説家・志賀直哉の青春時代を知っているなら、その後の柔道世界柔道選手権観戦のコメントを読むなら、このタイトルに何ら疑念を抱くことはないだろう。ここから志賀直哉と柔道がいかに一体であるか、どれほど柔道に対し見識を持っているか、知ることができる。
1902年(明治35年)5月17日、この日、学習院で行われた紅白柔道大会で、3人抜きの活躍をした選手がいた。柔道経験者ならわかるが、一つの試合で、3人の選手と対戦するのは容易ではない。現在、講道館の試合時間規定は6分(国際5分)だが当時は何分だったか。たいていは1試合で体力を使い果たす。勝ち抜けば、相手も実力者となってくるので、余計に疲労困憊することになる。故に、その3人抜きした選手が、いかに実力者かわかるというもの。
その選手は19歳の志賀直哉だった。志賀直哉は学習院中等科1年の時に学習院柔道部に入門した。1895年(明治12年)直哉12歳のときである。8月に母親を亡くしているから、悲しさから逃れるためになにかに打ち込みたかったのかも知れない。その頃、学習院の柔道の先生は、富田常次郎である。富田常次郎(当時は山田姓)といえば、柔道の創始者・嘉納治五郎の一番弟子である。現今、世界に幾万といる講道館入門者の中で筆頭門下生となる。ちなみに講道館が創設されたのは1882年(明治15年)5月。8月には、あの西郷四郎(小説『姿三四郎』のモデル)が入門している。講道館発展の礎を築いたのは、この富田常次郎、西郷四郎をはじめ山下義昭、横山作次郎の講道館四天王とよばれる男たちである。黒澤明監督作品第一作にもなった小説『姿三四郎』は、この富田常次郎の息子富田常雄が書いた。「その頃、学習院の柔道の先生は今の富田常雄君のお父さん」と書いている。話は逸れたが、この柔道関係者をみれば志賀直哉の柔道は折り紙つきといえる。もっとも、実際の指導は、富田常次郎師範の下にいる先生だったらしいが。
 対抗試合をよくやった。相手は高師の付属で、志賀直哉は、3度出場した。最初のときは3人抜き。2度目は、「きれいに返されて」敗戦。3度目は、「足がつって」敗戦。この試合結果について、志賀直哉は、後日、このように述懐している。
「その頃の、試合の結果を入来重彦さんが持っていてね。それには一々勝負が記入してあったのをいつか貰って持っていたが、なくしてしまった。僕が3人抜いたのなども出ていて、いい記念だったのに、ほんとうに惜しいことをした。」と、失くしたことをとても残念がっている。志賀直哉の学習院での柔道はどうだったか。それを連想させるエピソードがある。4年生か5年生の頃、学習院の道場に前田栄世(光世)がきた。この前田という人は、おそらくブラジルで、昨今人気のあるグレイシー柔術の祖、初代グレイシーに柔道を教えた人物ではないかと推察する。前田に最初に相手をさせられたのは志賀直哉だった。有名な柔道家がくれば、最初に腕自慢のものを当てるのは昔も今も変わりはない。志賀は、そのときの稽古の印象をこう述べている。
「前田は、おとなしそうな顔だが、いざ稽古となると実に強かった。僕がまっさきに呼び出されて相手になったが、いかにも軽くふあふあと動いていてぱっと足技にくる。全然よけることができず、かけられる度に投げられた。」しかし、こんな強い前田でも、紅白勝負では、入来という先生に食い止められたのだ。この入来という人は、めっぽう強く初段2段3段の人たちを「実に軽くぽんぽん投げてしまった」という。若き志賀直哉が、ここで知ったことは上には上がいる、ということだったろう。そうして、志賀は、より上を目指して柔道の修行に励むことになる。が、モーパッサン、トルストイ、アンデルセンなどを英訳で読む。
 この頃、志賀直哉は、小説創作を生涯の仕事にせんと志していた、というから、まさに文武両道の極致にあった人と言っても過言ではないだろう。  次号に   (編集室)
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2005年、読書と創作の旅・文芸情報紹介 
増える文芸創作学科
 「かって創作を学びたい学生は、早稲田大学文学部の文芸専修か日本大学芸術学部文芸学科に通うしかなかった。」しかし、昨今は雨中のタケノコのように、あちこちの大学で開設されている。この現象について「小説は人に教わるものではない」「創作を通じて文学好きを増やせる」と、賛否両論はあるが、創作コースは続々誕生している。この実態をリポートした記事を新聞で見つけたので紹介します。2005年6月8日、9日 読売新聞夕刊
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.32―――――――― 12 ――――――――――――――――
掲示板
提出原稿について
 書けたら常時提出して下さい。(提出本数は何回でも可)
① 車内観察 (常時観察・提出することで観察力、表現力を高める)
② 普通の一日を記憶する(書けなくなったら一日の生活を書いてみてください。習慣化)
③ 『車中の人々』フリー(創作・エッセイ)提出日は自由(創作力をつける)
④ 報告した車内観察をヒントに創作を試みてください。(ゼミ誌掲載候補作品)
下記の手順で作品を仕上げます。(一つの作品を、きちんと仕上げてみる)
車内観察・報告 → 創作 → 草稿発表 → 訂正・改稿 → 清書発表・合評
⑤ 「なぜ網走か」を論じてください。
⑥ 『網走まで』の前後の話を創作してみる。(想像・空想力をみがく)
⑦ テキスト『夫婦』『正義派』『出来事』の感想。
⑧ テキスト外の作品『ひがんさの山』の感想
ゼミ雑誌作成ガイダンス
「ゼミ雑誌作成委員」の方は、必ず出席してください。日時、会場は下記の通り。
月 日 : 6月14日(火) 時 間 : 12時30分より 会 場 : 文芸棟教室1
お知らせ
ドストエーフスキイ全作品を読む会・第210回読書会暑気払い大会
・8月13日 土曜日 午前10:00~12:00発表「ドストエフスキーと小山田二郎(画家)」
・東京芸術劇場小会議室7 発表者=福井勝也氏
ドストエーフスキイの会第170回例会『広場』合評会
・8月13日 土曜日 午後1:30~5:00 小会議室7     以上詳細は下原まで
異形の幻視力 
小山田二郎展
2005.5/28→7/3(日)
東京ステーションギャラリー
小山田二郎(1914-1991)
油彩画38点 水彩画77点 
スケッチを展示 一般700円
昴劇団昴公演 アルジャーノンに花束を 一般4900円 ペア9200円
原作――ダニエル・キース(早川書房)
脚色――菊池准
演出――三輪えり花   6月9日(木)~7月1日(金)三百人劇場(千石)
編集室便り
☆提出原稿は直接か下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール:toshihiko@shimohara.net TEL・FAX:047-475-1582 
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」提出原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」テキスト外『ひがんさの山』感想
創作日誌・一日を記録する
テーマ「ホモ・サピエンスの日記」
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」資料
『出来事』
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」 テーマ・『網走まで』の前後の話を創作する。
前(上野までの母子の生活は、娘時代はどうだったか創作する) 
  名前
                      ―――――――――――――
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」 テーマ・『網走まで』の前後の話を創作する。
後(列車を降りてから、網走に着いてからの生活を創作する)
  名前
                      ―――――――――――――
☆ゼミ雑誌の作成手順
ゼミ雑誌作成は、以下の計画手順で進めてください。
1. ゼミ雑誌編集委員2名。中村健人さん、中谷英里さん
2. 6月14日(火)12時30分より文芸棟教室1でゼミ雑誌作成ガイダンスがあります。 編集委員は必ず出席してください。
※ この席で申請書類が配布されます。かならず受け取って期限までに提出してください。(出版編集室へ提出)
3. 編集委員を中心に、ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めてください。
※6月 ~  7月のあいだに
4. 9月26日(月)ゼミ誌原稿締め切り。編集委員は原稿を集めてください。
  ※提出が遅れると、掲載できない場合もあります。
5. 印刷会社をきめ、希望の装丁やレイアウトなどを(印刷会社と)相談しながら編集作業をすすめてください。
6. 印刷会社から見積もり料金を算出してもらってください。
※10月中旬までに
7. 10月末日までに「見積書」をかならず出版編集室に提出してください。
  ※予算内に収まらないとゼミ員の自己負担となるので、注意してください。
8. 11月中旬までに印刷会社に入稿してください。
9. ゼミ雑誌が刊行されたら出版編集室に見本誌を提出する。
10. 印刷会社からの「請求書」を出版編集室に提出する。
ゼミ誌予算  →  250000円 オーバーしないように注意!
発行部数   →  最大250部以下
印刷会社について → 過去に依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッフまで問い合わせてください。
           それ以外の印刷会社を利用したい場合は、かならず事前に学科スタッフに相談すること。
■ 実施の1ヶ月前までに提出。出版編集室へ。
下原ゼミの理念「人類全体の幸福に繋がりのある仕事」(『暗夜行路』から)
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙   
「2005年、読書と創作の旅」
車内観察したものをヒントに創作する   名前
                    ―――――――――――――――
土壌館創作道場・下原ゼミ原稿用紙
テーマ「なぜ網走か」を論じてください     名前
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」 テーマ・「なぜ網走か」を論じてください。

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