文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信 NO.33

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2005年(平成17年)6月 20日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.33
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
 ホームページ http://www.shimoharanet 編集発行人 下原敏彦
                              
2005前期4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20
6/27 7/4 7/11  
2005年、読書と創作の旅


6・20下原ゼミ
「読書と創作の旅」8日目の下原ゼミは、下記の要領で行います。(文ゼミ1)

 1. 登録者確認・ゼミ誌ガイダンス報告・前回ゼミ報告
   ・進行決め ・ゼミ誌編集委員報告 ・名所案内 ・前回ゼミ      
2. 提出作品の発表(通信掲載の報告未発表作品)
・車内観察 ・テキスト『正義派』感想 ・車中の人 
3. 発表作品の感想&編集
  ・聞き手は、読者から編集者かデスクに成り代わり発表作品を校正する。
  ・発表者は、作品に加筆、直しがあれば追記する。
4. 「普通の一日を記憶する」の読み
  ・読んだ人は、日記の主の人物像を想像する。(作中人物として)
5. テキスト観察作品&名作観察作品(抜粋)の読み
・テキスト観察作品『城の崎にて』(現・草)・名作観察『砂漠の情熱』(獣)      
・名作観察『夜間飛行』(気象)
  
2005年、読書と創作の旅・名所めぐり(浅草界隈にて)
 この辺りに、あの見世物小屋がありました。戸板の前に若くて美しい女の人を立たせておいて、二間も離れた所からナイフを投げる演武を見せていました。手品ではありません。ナイフは切れますし、あたれば傷つきます。が、若いナイフ投げのシナ人の腕は確かでした。ところが、あの日ナイフは女の首に当たり、頸動脈を切ってしまったのです。女はすぐに死にました。ナイフ投げの妻でした。夫婦間に問題があったので故意か過失かもめました。夫自身もわからなかったのです。裁判の判決は、「無罪」でしたが、いまも論議を呼んでおります。自分の心でも推し量れぬことがあるのです。まさに「人間は謎です」。
※ 1913年(大正2年)10月1日発行の『白樺』に、『范の犯罪』を発表。
目 次
□車中雑記「ニュース観察」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
□6・13ゼミ報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
□提出作品発表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4、5
□発表作品の校正、一日を記憶する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6、7、8
□志賀直哉と柔道、名作(冒頭)、掲示板・・・・・・・・・・・・・・・・9、10,11,12
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33 ―――――――― 2 ――――――――――――――――
 車中雑記     ニュース観察
                       ――――――――――――――――
16日朝、カンボジアのインターナショナルの学校に銃を持った男たちが侵入し子供たちを人質にとった、というニュースが流れた。数時間後、警官隊突入で解決したとの報。動機は、金目当てらしい。犯人は4人、全員逮捕。しかし、カナダ人の子供が一人死亡した。
このニュースを聞いたとき、先日、BSテレビで見た「アジアの街角」という番組が思い浮かんだ。このドキュメンタリーは、ニューヨークに住む、カンボジア人ミュージシャンの20数年ぶりの帰国を撮ったもの。あの暗黒時代のはじまり、ポルポト軍から逃れた母親が彼をジャングルで産み落とした。彼は、その体験を原点にカンボジアの悲劇をラップで歌いつづけてきた。恐怖政治での虐殺。その後の内戦。そして1993年国連の監視下での総選挙実施。日本もこのPKO活動に参加した。二人の青年が犠牲となった。民主化されて12年。彼は祖国を見てみたいと思った。復興途上にある祖国に何かできることがあるかもしれない。祖国愛に燃える青年。しかし、一緒にアメリカに逃げてきた親戚は、心配する。「あの国は、いまも変わってはいない」と。だが、彼の決意が固いとわかると、こう懇願した。「どうか、政治の批判だけはしないでくれ」と。なぜ?。アメリカで育った彼には、わからなかった。祖国は、民主国家になったのではないのか。20時間かかって着いた祖国。プノンペンは活気にあふれていた。信号もない大通りをシクロや自転車、オートバイ、それに車が洪水のごとくに流れている。希望ある混沌。彼は、思わず歓喜した。しかし、その、感動も束の間だった。彼は、街角である市民葬に遭遇した。政治を批判して射殺された若い元政治家の一周忌だった。この国ではいまだ自由にものが言えない。路上で会った盲目の吟遊詩人は呟く。彼は、暗黒時代、ポルポトを称える歌を歌って生き延びたのだ。彼が作った即席の(浪曲にも似た)歌を聴いていると、マルローの『王道』の一節を思い出した。「…盲人は原始的なギターの伴奏に合わせてラーマーヤナ(古代インドの大抒情詩)を吟唱していた。崩壊していくカンボジアが、もはやその英雄詩によって、まわりを囲む乞食や婢の心を動かすばかりの老人の姿にしのばれた。支配された土地、頌歌も寺院とともにくずれさろうとしている下僕の土地、滅びのなかの滅びの土地。(滝田文彦訳)」事件の犯人たちは、貧しい農家の若者たちだった。17日新聞は、背景として「進まない貧困撲滅」「復興 光と影」の見出しをつけていた。(読売)1人当たり国内総生産が305㌦と聞けば頷ける。
なぜ、この国の民主化は遅々としてすすまないのか。1998年8月に発行した「読書会通信51」に私は、その原因についてこんな感想を書いた。(抜粋だが)
「先月末、国連監視団に見守られながらもカンボジアの総選挙が終わった。流動的ながらも、とにかく民主主義政治がはじまったのだ。が、行く手はまだ暗澹とした感がある。なぜか、この国には悪霊が発生する土壌があるからだ。200万人、それ以上ともいわれる自国民を殺戮した悪霊。その正体を見極め、検証しない限り、せっかくの民主主義も元の木阿弥である。ホロコーストは繰り返される。」祖国をはじめて訪れたラップミュージシャンの彼は、多くの市民が拷問され虐殺されたという元刑務所で衝撃を受ける。それは、山のように積まれた人間の頭蓋骨にもあるが、それよりもなによりも、こんな大罪を犯した人間が、誰一人裁かれていないという事実への驚きだった。「悪霊の種を蒔き、その芽を育てたポルポトは既にこの世にいない。悪霊は霧消したのか。否、悪霊は透明な存在となってジャングルの遺跡の陰に隠れただけ。」この悪霊を白日のもとにさらさない限り、カンボジアに再生の道はない。それには「ポルポトが何者であったか、その正体を知らねばならない。」デービット・P・チャンドラー著『ポル・ポト伝』は、悪魔の素顔の一端をこう伝える。サロト・サル(ポルポト)を知る人々は言う。「サルは、もの静かで、人当たりがよく、信頼できる人物だった。」やさしい微笑み「会ったとたん生涯の友人となれる」ような、そんな人間だった。与えられた民主化のなかで金に、目がくらんでいる人々。彼らに真実は伝わるだろうか。
ラップの彼は、歌うことで、立ち向かう決心をした。まずは、伝道があるのみだ。その姿にドストエフスキーの『おかしな男の夢』の主人公が重なった・・・・。
                               (編集室)
―――――――――――――――――― 3 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33
6・13下原ゼミ報告
 
 6月13日(月曜日)の下原ゼミ授業内容です。
参加者は下記の皆さんでした。 (順不動・敬称略)
たなか  だいき    おがわら ゆうへい   ひらいわ さとし    せき   ひでき
田中 大喜   小河原 祐平  平岩 理史   関  英樹
なかや  えり     なかむら けんと   おおしま なおふみ
 中谷 英里   中村 健人  大島 直文
       
出席者数7名
 6・13の出席者は、7名でした。早目にきた出席者の一人に「今日も、少なさそうですね」と挨拶され、嘆息するしかなかった。が、前回より1名持ち直し、かろうじて最小出席者の更新を免れた。11-10-9-7-7-6-7、ゼミも前期はあと、4授業。なんとかこれを機に右肩あがりになっていってくれれば、と祈るばかりである。
平岩さんの司会進行で
 この日のゼミは平岩理史さんの司会で、すすめられました。提出原稿の読みと感想。今回から校正と、「一日を記憶する」では人物像の想像が加わりました。このほか中日ということで、他作品の読みがありました。授業経過は以下の通りです。
提出原稿の発表   関 英樹さんの車中の人々『車中の携帯』への感想と校正
概略・車中で携帯電話する人への嫌悪感。仕事している人は「大変だなあ」と思いながら、「やっぱり気に食わない」。やさしさと正義派が交互する。
感想・「読みやすい」「場面が想像しやすい」
校正・句点が無い方が読みやすいのでは、「やっぱり」は「やはり」の方が
田中大喜さんのテキスト『網走まで』前後編『上野まで』
概略・酒飲みの父親、逃げ出した母親。不幸な家庭に育った私は、父親と同じ酒飲みのヤクザ者と一緒になる。が、夫は事件を起こし網走へ。敵対勢力から狙われる羽目になったことで、網走に行くことにして、急ぎ上野に向かう。
感想・「自分の考え方とは違うが、これはこれで展開はある」「面白い筋と思った」「北方謙三?バリのハード作品のイメージ」「ストーリーはよくできている」「安心して読める」
校正・最初が説明調になっている。簡潔に。「血眼にして」は「血眼になって」の方がいいのでは。最後の荷物をまとめるあたりを、もっとすっきりとした方が・・・。
「普通の一日を記憶する」の人物像
誤謬・「楽しい遠足」で進を→新に。 「昔、川だった」で「春になるときれて」を→「春になるときれい」、てを→「い」の字に直す。
※林正人さんの「同級生」「風化させない」は、本人欠席の為、発表は次回に。また、未報告として29号畑さんの『制服と痴漢』、31号中村さんの『なぜ網走か』「愛読書紹介」、大島さんの『車中の二人』があります。順次、発表してください。
『ひがんさの山』朗読
 テキスト一休みということで、全く違う作品を読んでもらいました。ある国立大教育学部でテキストにしたところ、結末で感想が分かれたとのことでした。
(ゼミ担当者の子供時代を描いた作品)
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33―――――――――4―――――――――――――――――
2005年、読書と創作の旅・提出原稿
  
 前期前半は、発表作品の感想を述べるだけでしたが、後半は、読者から編集者に成り代わってもらいます。作品を書く以上、やはり、人が読みたくなる、人に読ませるものではなくてはなりません。発表作品を聞いて、ここは、こうした表現が、ここには句読点の方が、自分ならこうするなど、といったように意見(批評、校正、訂正)を述べ総意を得ましたら下記の余白に書き込んでください。作者も、直し、加筆があったら書き加えてください。
・・・・・・・・・・・・・・・・車内観察・・・・・・・・・・・・・・・・
6月13日提出
(草)車中のうたた寝
                             田中 大喜
 約1時間武蔵野線に揺られた後、隣の地元の駅まで総武線で1駅3分。やってきた電車を1本見送って喫煙所でタバコを吸う。半分くらい吸ったところで電車が到着。タバコを捨て、喫煙所から一番近いドアの前に立つ。僕から向かってドアの窓から一番端の席で思いっきり寝ているOLが見える。ドアが開く。乗り込む際にそのOLをチラリと見る。年齢は20代の中盤から後半に見える。寝ている為死んだように下を向き、ロングヘアーがカーテンの役目となり顔は見えない。体型はスラリとしたスレンダー。襟の一番外側に白いラインの入った黒いスーツを着ている。下はスカート。丈は膝小僧の上まで。黒いタイツを履いたスラリとした両足は20㌢程開いている。立ったままだと開いた両足とスカートの作り出す漆黒の先は何も見えない。漆黒の先を拝めるポジションは、この女性の真正面の席。ここに座っているのは中年期後半のおっさん。僕は、おっさんを良く見える位置に立つ。中年男性が必死に漆黒の先を知ろうとする姿を是非見てやりたい。
しかし、おっさんの視線の先は僕の期待した場所ではないところだった。おっさんの顔をまじまじ見ると恥ずかしいのか、景色を急に気にしだしたように後ろを向く。その後も、おっさんは漆黒を見ないように車内に視線を泳がせ続けた。
電車が隣駅に到着。僕は、ここで下車した。おっさんとOLは、この駅では降りずそのままの位置関係で、次の駅へと向かう電車に揺られていった。
※ 目の置き所に困る。電車が空いていると、向かいの座席の乗客と、お見合い状態になってしまうことが、よくあります。向かい合わせに、こんな女性がいたら。そんな席に座ってしまった中年男の狼狽。男の心境がよく観察されています。
校正、書き込み箇所
―――――――――――――――――― 5―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33
・・・・・・・・・・・・・・車中の人々・・・・・・・・・・・・・
6月13日提出「車中の人々」
いつの時代にも       
                    関 英樹
  最近電車に乗って、近くにうるさい人がいると腹が立って仕方がない。自分でも顔が曇るのが分かる。元来、あまりうるさいのが好きではないのもいえるが、少し年をとったのかなとも思う。高校の時ならば自分もうるさかったかもしれない。
この間など、電車の中で携帯電話で話をしてる若い男がいたので、降りる時に「うるせぇよ」と言ってしまった。その男は声が大きく、私と友人が乗っている車両中に声が聞こえていた。男が進行方向の優先席あたりで、私と友人は逆方向の席にいたにもかかわらず聞こえてきたのである。流石に私も堪えられなかった。
若い人たちのモラルが低下しているといわれるが、私は実際、それほどひどいケースに遭遇したこともあまり無い。電車の床に座っている高校生や化粧をしている女性を見ることは多いが、しかし、そういう事も、実際はモラルが低下したと言っている人たちの中の自らの価値観にもとづいているものであって、今の若い子も、年をとれば「最近の若い子は…」と嘆くだろう。要は時代の変化で形が変わっただけだ。
校正、書き込み箇所
2005年、読書と創作の旅 名作の「車中の人々」冒頭紹介
 車中の場面がある物語は、志賀直哉に限らず日本にも世界文学にも多数ある。恋愛劇、推理劇と様々な分野の創作舞台となっている。その中で、ひときわ輝く作品がある。長距離列車に偶然に乗り合わせた二人の青年。一人は、この星を支配する生き物そのもの。そしてもう一人は、この生き物によって汚されたこの星を救う使命をもつもの。地殻まで人間の血と涙でぐしょ濡れているこの星。はたして彼らに、この星を、人類を救えるのか。物語は、車中のこの場面からはじまる。冒頭のみ紹介します・・・。
第一編 一
 11月も末、ある珍しく寒のゆるんだ雪どけ日和の朝9時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車が、全速力でペテルブルグへ近づいていた。とても湿っぽく霧のふかい日だったので、あたりはようやく明るくなりかけたところだった。車窓から10歩も離れたところは、線路の右も左も、まだ何ひとつ見わけることができなかった。乗客たちのなかには外国帰りの人たちもいるにはいたが、それよりもむしろあまり遠くないところから乗りこんだ、身分の低い商人たちのいる三等車のほうがずっと込んでいた。みんなは当然のことながら疲れきっていて、一晩のうちにはれた眼をどんよりさせ、腹の底まで冷えきっていた。どの顔も霧の色にまぎれて、蒼白く黄ばんで見えた。
※濃い朝霧の中を警笛を鳴らしてひた走る列車。乗り合わせた二人の若者の運命は。6頁へ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33―――――――――6―――――――――――――――――
2005年、読書と創作の旅・テキスト感想6月13日提出
・・・・・・・・・・テキスト『正義派』・・・・・・・・・・
 
正義への懐疑
大島 直文
 線路工夫達が事件の真相を、自分達の会社内での立場が無くなりかねないのにも関わらず語ったことについては正義を貫いた男らしい対応だったと言えるかもしれません。しかし、彼等がとった行動は本当に心の底からの強い正義感や信念に基づいたとは言い難いものでした。
 電車監督が運転手に事件の「確認」をしていた時、工夫の一人がその口裏合わせを否定しましたが、その顔には「寧ろ悪意のある微笑をさえ浮かべて」いたとあります。本当に純粋な正義感のみによって行動を起こした者の顔にそのような不気味な笑みが浮かぶとは思えません。又、警察署で自分達の正義感をぶちまけてきた後では時間が経つにつれて、職を失うかも知れないという後悔や善い事をしたはずなのに周囲から大した反応がない空しさに泣き出す始末でした。
 自分達の信念を通した上での行動ならば彼等が、突然やって来た哀しみとたたかうこともなかったのだろうと思います。作品のタイトル通り、完全な、純粋な正義でない、あくまで正義「派」としての行動だったからこその哀しみだったのでしょう。
2005年、読書と創作の旅 名作の「車中の人々」冒頭紹介
5頁のつづき(車中の場面をもう少し紹介します)
 その三等車の一つに、夜明けごろから、たがいに窓ぎわに向き合ってすわっている二人の乗客の姿が見られた。二人とも若い人で、どちらも荷物らしいものを持たず、さりげない身なりをしていたが、どちらもかなり目だつ顔だちで、二人ともどうやらこのへんでたがいに口をききたそうな様子だった。もしこの二人が、ほかならぬこの瞬間いかなる点で自分たちの姿が人目をひいたかをたがいに知ったとしたら、二人は自分たちをペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の三等車に向かいあわせにすわらせた運命の偶然にびっくりしたにちがいない。一人はあまり背の高くない、27歳ばかりの青年であり、髪はほとんど真っ黒といってもいいほどの縮れ毛で、灰色の瞳は小さかったが、火のように燃えていた。鼻は低くて、平べったく、顔は頬骨がとびだしており、薄い唇はたえずなんとなく不遜な、人をはがにしたような、いや、毒を含んでいるとさえ思われるような薄笑いを浮かべていた。しかし、その額は秀でて美しく整い、下品に発達した顔の下半分を補っていた。この顔のなかでとくに目だっているのは、その死人のように蒼ざめた肌の色で、それはこの青年のかなりがっちりした体格に似合わぬ憔悴しきった感じを体つき全体に与えていた。が、それと同時に、その人を食ったような、厚かましい薄笑い、いや、みずから悦に入っているような鋭い眼差しとはまるでそぐわない、悩ましいまでに情熱的なものをも感じさせた。(木村浩訳)
※ 黒澤明監督の映画では、この青年を三船敏郎が演じた。向かいの席の主人公の青年は森雅之(?)だったか。長編です。興味を持った人は挑戦してみてください。
ドストエフスキー『白痴』1868年1月「ロシア報知」に連載開始 47歳
―――――――――――――――――― 7―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33
課題原稿の提出状況
テキスト『網走まで』の感想(原稿提出者)は以下の皆さんです。5月23日現在 順不動
関 英樹   小河原佑平  平岩 理史  林 正人  大島 直文  
中谷 英里  畑 茉林   田中 大喜
 
『車中観察』の原稿提出者は以下の皆さんです。6月6日現在 順不動(本数)
関 英樹(3)小河原佑平(3)平岩 理史(3)林 正人  大島 直文(2)  
中谷 英里(2)  畑 茉林   田中 大喜(2)
愛読書アンケート提出者(6月6日までに提出した人)順不同
小河原佑平  平岩理史  関 英樹  田中大喜  大島直文  林 正人
中谷英里   中村健人
「車中の人々」提出者(6月6日までに提出した人)
 畑 茉林  田中大喜(2)  平岩理史  関 英樹(2)  林 正人 
『網走まで』前後編提出者(6月6日までの提出者)
 田中大喜(前編) 
コラム「JP西日本電車脱線事故について」提出者(6月6日までの提出者)
 林 正人 
なぜ『網走まで』としたか(6月6日までの提出者)
 中村健人 
『正義派』感想 (6月13日までの提出者)
 大島直文 
「普通の一日を記憶する」(6月13日現在)
 S・H(5) O・N(2) H・MS(3) H・S(5) O・U(3) N・R(2)
     
 N・K  H・M 
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33―――――――――8―――――――――――――――――
旅日誌
「普通の一日を記憶する」
 書くことを習慣化するために、時間のあるとき、暇なとき、なにもかけなくなったときなどに自分の行動や考えを記してください。(創作日記可)この日、わたしは・・・・読んだ人は、日記の人物像を、つくりあげてみる。この人の性格を想像する。
過ぎ行く青春             S・H
×月○日 今日は、夜になっても蒸していて、私は友人Kの家に向かう途中、半袖の上着をぬいで、タンクトップになった。友人宅に着くと、「暑い、暑い」とうわ言のように繰り返す繰り返す私の為に、友人が「外、雨降ってた」と聞きながらもクーラーをいれてくれた。その後、ビデオを見てから散歩にでかけた。目指していたのは多摩川だった。スケボーに乗って行った。道路には車は少なく、車道を走っていった。夜の風が気持ちよくて、口元はかすかな笑みを含んでいる。多摩川に着く頃には、空は白んできていた。川辺で遊ぶ高校生を見て、二人で「若いな」
と笑った。
                                         
テキスト作品読み(草稿も)
志賀直哉の観察眼は、車中外でも鋭い。『城の崎にて』は、人間以外を観察した名作です。昆虫や小動物の死に向けられた目。森羅万象の運命を感じさせる心境作品になっている。
『城の崎にて』etc…
 この作品は、温泉場で見たことをありのまま書いたといわれる。と、いうと小説ではないのか、ということになるが、れっきとした小説である。しかも名作の仲間入りしている。なぜか。そのへんのところは、草稿と合わせて読むとわかってくるのでは・・・。事実だけれど創作。創作だけれども事実。そして、読者には事実と思わせる。志賀作品の真骨頂である。
 この作品は、1917年(大正6年)5月1日発行の『白樺』第8巻第5号に発表された。
「山の手線の電車にはね飛ばされてけがをした。そのあと養生に、一人で但馬の城の崎温泉へ出かけた。・・・」冒頭の書き出しだが、実際、日記にこう書いている。
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8月15日 1913年
 病院。かえって、『出来事』のしまいを書き直して出来上がってひるね、伊吾来る。起きてそれを読む。
※ この夜、伊吾、すなわち里見と散歩に出て、その帰りに山の手線の電車に後からはねとばされ、怪我をする。
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「創作余談」で作者はこう述べている
 これも事実ありのままの小説である。鼠の死、蜂の死、いもりの死。皆その時数日間に実際目撃した事だった。そしてそれから受けた感じは素直に且つ正直に書けたつもりである。いわゆる心境小説というもので余裕から生まれた心境ではなかったか。(志賀)
 また「出来事」を書きあげたその日の夜、電車にはね飛ばされ、ひどい怪我をしたのだが、幸いにも危ないところを助かり、「この偶然を面白く感じ」、「この怪我の後の気持ちを書いた」のが『城の崎』である、と語っている。
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  名作にみる人物外観察 生と死の間に立たされた者をえがいた作品紹介(抜粋)
                
 志賀直哉は『城の崎にて』において、昆虫や小動物の死と自分の事故を重ねて、偶然というものの現象に感慨を深めた。蜂や鼠は死に自分は生きている。この差は何か。静かな観察のなかに緊迫した想念が張り詰めている。研ぎ澄まされた生と死の感覚がある。
 こうした人物外観察を描いた作品のなかで、限りない緊張のなかに身をおき自己と闘いながら必死に動物観察や気象観察をつづけた主人公たちの物語を2作紹介します。(抜粋箇所を朗読)興味ある人は読んでください。短編と中編です。以下は、凡そのあらすじ紹介。
動物観察『砂漠の情熱』(水野亮訳)バルザック(1799-1850)
 フランスの若い兵士がモロッコの戦いでアラブ人の捕虜となった。オアシスで野営したとき、彼は隙を見て脱走に成功した。だが、仲間の軍の宿営地に早く帰りたいと思うあまり、疲れきっている駿馬をいやがうえにもいそがせたので、馬は倒れ絶息してしまった。そこは砂漠のど真ん中だった。「はてしもない大洋が目にうつっていた。どの方角にも砂漠の黒っぽい砂が目のとどくかぎりひろがって、はげしい光に照らされた鋼の刃のようにキラキラしていた。ガラスの海といつたらいいのか、鏡のような平らな湖といったらいいのか、わからなかった。」「空も海も燃えていた。沈黙は、荒々しく恐ろしい威厳をもって、あたりを圧していた。悠久、無限――こうしたものが四方八方から魂にせまるのである。」プロヴァンス生まれの22歳の兵士にとって、絶望のほかはなにもなかった。彼は何度も騎兵銃の引き金に手をかけた。
「死のうとおもえば、いつでも死ねる」
その考えが、死を思いとどまらせていた。
 やがて、彼は小さなオアシスにたどり着く。以前に人が住んでいた形跡。岩場の洞窟で彼は疲れと安堵から不覚にも眠ってしまった。そこは獣の棲家だった。牝豹に愛されてしまった若い兵士。焼けつく砂漠のなかで恐怖とエロチシズムに満ちた一人と一匹の愛の生活がはじまった。
気象観察『夜間飛行』(堀口大学訳)サンテグジュペリ(1900-1944年7月31日不明)
 機体の下に見える小山の群れが、早くも暮れ方の金いろの光の中に、陰影の航跡を深めつつあった。平野が輝かしくなってきた。しかもいつまでも衰えない輝きだ。この国にあって冬が過ぎてから、雪がいつまでも平野に消え残ると同じく、平野に夕暮れの金いろがいつまでも消え残るならわしだ。
遠い極南の地から、ブエノス・アイレスに向けて、パタゴニア線の郵便機を操縦してきた操縦士ファビアンは、港の水面同様、あたりの静けさと、平穏な雲が描き出す、かすかなひだのあらわれに、夕暮れが近づいたと知るのであった。彼は今しも幸福な入り江に向かって進みつつあった。この静けさの中にあって、彼は自分が、牧人のような、しずかな散歩をしているのだと思うこともできたはずだ。」彼にとって、飛行は至福の時だった。「彼は操縦席の椅子に頭を埋めた。指針のラジウムが光りだした。その一つ一つに、彼は数字を読んだ。彼はそのいずれにも満足だった。彼は、空中にどっかり腰をおろした自分の姿を見いだした。彼は指で鉄鋼製の梁材に触れてみた。そしてこの金属の中を流れる生命を感じた。扇動はしなかったが、金属は生きていた。」
 だが、天空は気まぐれだ。無線技師は思った。「果実の中に虫がひそむように、雷雨がどこかにひそんでいるのだと、だから今夜は、見かけはこんなに立派でも、実はいたんでいるはずだと、いまにも腐ろうとしている夜という名のこの暗い影の中へ飛び込んでいくのが、彼には気味悪かった。」
 暴風雨にまきこまれた、ファビアン。引き返すか飛び続けるか。迷いと恐怖の中で彼は必死に操縦桿をにぎりながら気象条件を冷静に観察する。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33―――――――――10―――――――――――――――――
土壌館創作道場・志賀直哉―嘉納治五郎―ドストエフスキーをつなぐもの
志賀直哉と柔道②
 志賀直哉が柔道をはじめたのは、1895年(明治12年)直哉12歳のときである。学習院中等科1年の時に学習院柔道部に入門した。このときから10年近く、柔道の稽古に明け暮れていたわけだが、当時のことを思い出して編集者に話された「柔道の思い出」を読むと、この時分の柔道着が現在とは大分違っていたことがわかる。
現在の柔道着は、志賀直哉が考案か?!
現在、柔道着は試合においては規定がある。袖が短かったり、裾が短かったりしたら失格になる場合もある。柔道草創期のころは決まっていなかったようだ。そのへんを志賀直哉は、こう話している。
「昔は柔道着も今とは少し変わっていたね。袖は肱のところまで、ズボンも膝の上までしかなかった。ある時、僕は自転車から落ちて膝にひどい怪我をして、それが直りきらないうちに柔道をしてはまたすりむく、さうかといって稽古を休んでしまうのもくやしくて、僕は膝を痛めないため、ズボンのような長いのをはいて稽古をやったものだ。もちろんその頃、そんなのをはいているのは一人もありはしない。今ではズボンもみんな長くなっているが、それは僕の真似をしたというわけではなかろうけれど、とにかく実際にそんな長いのをはいて稽古をやったのは恐らく僕が一番最初だったらと思う。」
このことの真相はわからないが、もし実際だとすれば、現在の柔道着の形態は志賀直哉がつくったといえる。仮に違っても志賀直哉がいかに柔道と一体かを知ることができる。志賀直哉の得意技は、なんであったか。巻き込みとか大内刈と応えている。青春時代は、「あるときには、かなりムキになったこともある」柔道だったが、そのうち「内村鑑三の思想なんかに共鳴するようになって、いつか柔道、その他のスポーツとも離れてしまった。」と話している。当然のことだが、柔道と文学を同時にやるのは不可能である。文学とて修行が必要である。
志賀直哉にとって、柔道とは何だったのか。作家はこう応えている。
「それはやはりやってよかったと思うね。取り立ててこれこれというほどのことはないにしても。…僕が熱海にいた頃、あそこはああいう土地だからどこの屋敷でもかなり急傾斜なところがある。その急傾斜なところで草刈などやってると、とかくすべり落ちて腰を打ったりなどするのだが、そんなときでもはっと思った瞬間に反射的に自分の体をうまく扱うことができる。つまり重心を安定させることを自然にうまくやっているのだね。だから、あまりあわてないし、怪我なんかもしない。これなどやはり若い時に柔道をやっていたおかげだろうという気がするね。もっともこれは柔道に限らず、他のスポーツでも或は同じことなのかも知れないが。」
武道とスポーツの限界を
志賀直哉はインタビューで、応えながら、最後に、これからの柔道について、このような抱負を述べている。「第1回の世界選手権大会も賑やかに行われたし、柔道もこれからますます世界的に発展してくるだろう。結構なことだが、しかしまた日本の柔道家の責任も一層重くなって来るわけだし、それだけに考えねばならない点も多くなって来るのではないかと思う。私はあまりよく知らないが、嘉納師範の時からいくらかあいまいではなかったかという気のするのは、柔道が武道かスポーツかという点で、最近は合気道などというものも盛んになりつつあるやうだし、柔道もここらで『武道』と『スポーツ』との限界だけははっきりとさせておくべきではないかという気がするね。」今日の柔道は、志賀直哉の予見通り、不安なものを感じさせる。確かにアテネオリンピックでは、日本柔道は世界を制した。だが、底辺はお寒い限りだ。それは、もしかしていまだ志賀直哉が指摘した「武道」と「スポーツ」限界がはっきりしていないせいにあるかも知れない。プロ化がすすめば、スポーツとしての柔道は廃れるばかりだ。(編集室)
―――――――――――――――――――― 11 ――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33
2005年、読書と創作の旅・文芸情報紹介 
増える文芸創作学科Ⅱ
 「かって創作を学びたい学生は、早稲田大学文学部の文芸専修か日本大学芸術学部文芸学科に通うしかなかった。」しかし、昨今は雨中のタケノコのように、あちこちの大学で開設されている。この現象について「小説は人に教わるものではない」「創作を通じて文学好きを増やせる」と、賛否両論はあるが、創作コースは続々誕生している。この実態を読売新聞(夕刊)がリポートしているので紹介します。2005年6月13日、15日付の新聞。 
問題点 → 創作に対する日米の違い  自分の作品を相対的に評価できない
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.33―――――――― 12 ――――――――――――――――
掲示板
提出原稿について
 書けたら常時提出して下さい。(提出本数は何回でも可)
① 車内観察 (常時観察・提出することで観察力、表現力を高める)
② 普通の一日を記憶する(書けなくなったら一日の生活を書いてみてください。習慣化)
③ 『車中の人々』フリー(創作・エッセイ)提出日は自由(創作力をつける)
④ 報告した車内観察をヒントに創作を試みてください。(ゼミ誌掲載候補作品)
下記の手順で作品を仕上げます。(一つの作品を、きちんと仕上げてみる)
車内観察・報告 → 創作 → 草稿発表 → 訂正・改稿 → 清書発表・合評
⑤ 「なぜ網走か」を論じてください。
⑥ 『網走まで』の前後の話を創作してみる。(想像・空想力をみがく)
⑦ テキスト『夫婦』『正義派』『出来事』の感想。
⑧ テキスト外の作品『ひがんさの山』の感想
⑨ テキスト『城の崎にて』の感想
お知らせ
ドストエーフスキイ全作品を読む会・第210回読書会暑気払い大会
・8月13日 土曜日 午前10:00~12:00発表「ドストエフスキーと小山田二郎(画家)」
・東京芸術劇場小会議室7 発表者=福井勝也氏
ドストエーフスキイの会第170回例会『広場』合評会
・8月13日 土曜日 午後1:30~5:00 小会議室7     以上詳細は下原まで
異形の幻視力 
小山田二郎展
2005.5/28→7/3(日)
東京ステーションギャラリー
小山田二郎(1914-1991)
油彩画38点 水彩画77点 
スケッチを展示 一般700円
昴劇団昴公演 
アルジャーノンに花束を 
一般4900円 ペア9200円
原作――ダニエル・キース(早川書房)
脚色――菊池准
演出――三輪えり花   
6月9日(木)~7月1日(金)三百人劇場(千石)
編集室便り
☆提出原稿は直接か下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール:toshihiko@shimohara.net TEL・FAX:047-475-1582 
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」提出原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」テキスト『城の崎にて』感想
創作日誌・一日を記録する
テーマ「ホモ・サピエンスの日記」
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」資料
『出来事』
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」 テーマ・『網走まで』の前後の話を創作する。
前(上野までの母子の生活は、娘時代はどうだったか創作する) 
  名前
                      ―――――――――――――
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」 テーマ・『網走まで』の前後の話を創作する。
後(列車を降りてから、網走に着いてからの生活を創作する)
  名前
                      ―――――――――――――
☆ゼミ雑誌の作成手順
ゼミ雑誌作成は、以下の計画手順で進めてください。
1. ゼミ雑誌編集委員2名。中村健人さん、中谷英里さん
2. 6月14日(火)12時30分より文芸棟教室1でゼミ雑誌作成ガイダンスがあります。 編集委員は必ず出席してください。
※ この席で申請書類が配布されます。かならず受け取って期限までに提出してください。(出版編集室へ提出)
3. 編集委員を中心に、ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めてください。
※6月 ~  7月のあいだに
4. 9月26日(月)ゼミ誌原稿締め切り。編集委員は原稿を集めてください。
  ※提出が遅れると、掲載できない場合もあります。
5. 印刷会社をきめ、希望の装丁やレイアウトなどを(印刷会社と)相談しながら編集作業をすすめてください。
6. 印刷会社から見積もり料金を算出してもらってください。
※10月中旬までに
7. 10月末日までに「見積書」をかならず出版編集室に提出してください。
  ※予算内に収まらないとゼミ員の自己負担となるので、注意してください。
8. 11月中旬までに印刷会社に入稿してください。
9. ゼミ雑誌が刊行されたら出版編集室に見本誌を提出する。
10. 印刷会社からの「請求書」を出版編集室に提出する。
ゼミ誌予算  →  250000円 オーバーしないように注意!
発行部数   →  最大250部以下
印刷会社について → 過去に依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッフまで問い合わせてください。
           それ以外の印刷会社を利用したい場合は、かならず事前に学科スタッフに相談すること。
■ 実施の1ヶ月前までに提出。出版編集室へ。
下原ゼミの理念「人類全体の幸福に繋がりのある仕事」(『暗夜行路』から)
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙   
「2005年、読書と創作の旅」
車内観察したものをヒントに創作する   名前
                    ―――――――――――――――
土壌館創作道場・下原ゼミ原稿用紙
テーマ「なぜ網走か」を論じてください     名前
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」 テーマ・「なぜ網走か」を論じてください。

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