文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.36

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2005年(平成17年)7月 25日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.36
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
 ホームページ http://www.shimoharanet 編集発行人 下原敏彦
                              
2005前期4/18 4/25 5/9 5/16 5/23 5/30 6/6 6/13 6/20
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2005年、読書と創作の旅
7・25下原ゼミ
「読書と創作の旅」前期最終日の下原ゼミは、下記の要領で行います。(文ゼミ1)
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。―――」
日々の生活は同じでも、今日は、昨日の今日ならず。気がつけば前期も最終日です。車窓は、桜吹雪から若葉に。そして青葉しげれる季節にと移り変わりました。「2005年、読書と創作の旅」も早半ば参加の皆さんには、出発時とは違う自分を感じとることができたでしょうか。読書と書くことの習慣化は、身についたでしょうか。
夏休みを迎え旅も一休みです。後期開始までは、自由行動となりますが、どこにいても、何をしていても、観察することを忘れずに有意義に過してください。


・・・・・・・・・・・・・・・ 記 ・・・・・・・・・・・・・・
 1. ゼミ誌編集委員からゼミ誌についての確認。締切、枚数など。
      
2. 前期ゼミについての感想・意見・反省点など。
 
3. 試読orビデオ(NHKアーカイブス『教え子たちの歳月』)   
2005年、読書と創作の旅・前期最終日名所めぐり(大山にて)
 「りんどう、なでしこ、おみなえし、そのほか名も知らぬ菊科の美しい花などが咲き乱れている高原の細い道を二人(謙作と車夫)は急がず登って行った」大山神社への道を右に降り、河原ぞいに行って森を抜けると右に金剛院、左に上に蓮浄院があります。この寺の離れに小さな書院作りの家があり四畳半の部屋が三間あります。謙作が、借りた家です。そこで謙作は一人で生活しました。近くの森にある阿弥陀堂で一日、蜥蜴や鶺鴒を観察したり、潅木をながめたりしていたそうです。そうして「人と人とのくだらぬ交渉で日々を浪費してきたような自身の過去を顧み、彼はさらに広い世界がひらけたように感じた。」のです。
※ 1937年(昭和12年)3月1日『暗夜行路』最終部分脱稿。『改造』4月号に発表。
目 次
□車中雑記「玉虫観察」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
□7・4ゼミ報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3、4
□提出作品発表、他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7、8、9
□テキスト『灰色の月』、他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10、11、12、13
□情報、掲示板、編集室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14、15、16
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36 ―――――――― 2 ――――――――――――――――
 車中雑記      玉虫観察
                       ――――――――――――――――
梅雨明け時期の今は、虫の季節でもある。車中の中吊り広告に、黒っぽい小さな虫が一匹、とまっていた。何の虫だろう、と見ているうちに、我が家のトイレの中に置いてきた玉虫のことを思いだした。先日、近所の道路で拾ってきた。鉢植えの葉にとまってじっとしているので、放し飼いにしてあるが、外出するときだけ、トイレの中に鉢植えごと置いてくる。戸に隙間がある。動きだして抜け出やしないかと、心配なのだ。
この前の土曜日、正午を過ぎた頃。私は、自転車で市の武道センターに向かっていた。中学生の柔道団体戦があって、土壌館の子供が何人か代表で出場する。それで応援に行くところだった。武道センターは、我が家から5㌔ほどの場所にあった。途中に郊外のこの町にしては大きな森がある。中に神社と公園があるが、土地の大半は竹や雑木が伸び放題になっている。この森の脇の道路を走っているときだった。路上に緑の光るものを見た。動いていた。「あっ、玉虫だ」とわかった。すぐ後ろからバイクが走ってきて、追い抜いて行った。踏み潰された。一瞬、そんな気がした。が、振り向いてみると、まだ這っていた。私は、引き返して拾い上げた。4、5㌢くらいの玉虫だった。「運がいいぞ」私は、玉虫に言った。抜け道で交通量の多い道路である。道路の真ん中を這っていて轢かれなかったのは奇跡に近かった。が、玉虫は知るはずもない。逃げようと六本の足を必死でばたつかせている。
さて、どうしたものか。森の中に投げ込もうと思ったが、エメラルド色に輝く、宝石のような体を見ていたら、なんとなく手離しがたくなった。持っていた方が勝負運がある。そんな気がした。で、自転車の前かごに入れて草をかぶせた。途中、玉虫は何度も逃げようと這い上がってきた。その都度、中に戻した。会場では、仕方がないので、横がけのバックの中に草の葉にくるんで入れた。それっきり忘れてしまった。試合は、応援した中学の団体がなんとか優勝した。帰り道、森にさしかかったとき思いだし、あわててバックを開けてみた。死んでしまったのでは、と思ったが、生きていた。団体戦は3人勝たなければ勝てない。薄氷の勝負もあったので、もしかして玉虫がご利益になったのかも、と思った。で、家に持って帰ることにした。道々、こんな考えが頭に浮かんだ。
玉虫をあのまま道路を這わせておいたら。森に放したら。また、こうして家に持ち帰ってしまうことで、未来にどんな影響があるだろうか。そうすることで百年後、千年後の世界に何か変化をもたらすだろうか。SF詩人といわれるレイ・ブラツドベリの短編にこんな話があった。タイムマシーンで恐竜時代に狩に行くツアーに参加した客の悲劇。狩場は、未来に影響しない場所だった。ところが、狩猟最中にハプニングが起きて、指定外の区域に足を踏み入れてしまった。客は、そのとき一羽の蝶を踏み潰してしまった。ちっぽけな蝶である。未来に影響も及ぼすはずはない、と思った。しかし、再びタイムマシーンで、現代に帰ってきた客は、旅行会社や社会が、出発する前とどこか違っているのに気がつく。
この玉虫も、そんな運命をもっているのだろうか。もし拾わなかったら・・・自転車に踏み潰される。自転車はタイヤが滑って倒れる。そこに車が来て・・・。森の中に戻したら、この一匹から一ダース、千匹、百万匹、十億匹と増えていくかも。いずれも未来に影響を及ぼす可能性はある。では、家に持って帰ると、どんな影響が・・・。そんなことをあれこれ想像しながら、帰宅した。虫カゴがなかったので、民芸の竹カゴに入れたが、逃げ出そうと這い回っている。動物園に、初めて入れられた動物は、ぐるぐると歩き回るというが玉虫も同じようだ。エサは何だろうとインターネットで検索してみたが、よくわからない。室内の観葉植物の鉢植に置いても、落ち着きなく這い回るばかりだ。ベランダに枇杷の木の鉢植があったので、室内に入れて葉にとまらせてみた。すると、動かなくなった。気に入ったようだ。葉をかじっている。もしかして好物なのかも知れない。と、いうわけで、玉虫を枇杷の木で飼うことにした。玉虫は枇杷の木をわが棲家としたようだ。
玉虫がいる生活。虫などに興味はなかったのに、家にいれば四六時中、眺めずにはいられない。外出すれば、気になった。それで生活が変わるというわけではないが、やはり未来が変わるような気がするのだ。が、1週間目、突然、死んでしまった。   (編集室)
―――――――――――――――――― 3 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36
7・4下原ゼミ報告
 
 7月4日(月曜日)の下原ゼミ授業内容です。
参加者は下記の皆さんでした。 (順不動・敬称略)
たなか  だいき    ひらいわ さとし    せき   ひでき    なかや  えり
田中 大喜   平岩 理史   関  英樹   中谷 英里
            
出席者数最小新記録4名
 えっ!?どうして・・・。7・4のゼミで思わず嘆息した。出席者は、4名で打ち止め。後は、待てど暮らせど、宵待ち草。蒸し暑さと雨が原因か。11-10-9-7-7-6-7-8-10-と、このところ順調に上昇しつつあった出席者数ではあったが、いきなり落下。前期終了目前にきて出席者数最低の、新記録をつくった。
漫画コピーを配布
 この日のゼミは、終着駅『灰色の月』を予定していたが、出席者少なく、臨時停車。時間待ちに先般漫画アクションでデビューした友人の漫画『鈴木先生』を見てもらった。
この漫画は、謎解き漫画で、前編にその謎があり、後編にそれが解かれる。しっかり観察すれば前編でわかる、というヒント。この日、配布したのは前編のみ。なんとなくわかった人はいたが、はっきり解いた人はいなかった。後編は次回配布。
7月11日は補講期間、授業の有無を相談?
 7月11日から16日まで補講期間。休講はなかったので、補講の必要はなかったが、この日の最小出席者数と25日の最終日まで待つのは、気が抜ける、といった話から11日は補講をやってはどうか、という意見がでて皆と相談。この日の出席者は、やってもいい雰囲気だったが、結論は、欠席しているほかの人たちにも聞いてみてということに・・・・。     
三つの話題を雑談
 テキストの読みは中止。三つの話題を取り上げて雑談した。一つは「靖国神社」のこと、二つ目は「ベトナム戦争時代のカンボジア情勢」のこと、三つ目は1968年夏の「日大闘争時代」のこと。
【靖国神社】
取り上げた理由 → 現在、日本が抱える問題のなかで意見がわかれているから。
靖国神社を知っているか → 当日のゼミ参加者は、よく参拝している。首相は参拝に行くべきだ、との固い意見。関心が薄いのでは、と思っていたので意外だった。こうした問題についてはよく話すという。
私(下原)自身は、靖国神社には、何回か行ったことはあるが、参拝したのは、今年はじめて。英霊を拝すというより、花見の帰り父親の13回忌が近いことを思い出して。
 団塊の世代、つまり私たちの世代は、親が戦争経験者。ちなみに私の家では、父親が二回召集され、二度までも外地(中国)に。ずっと南京にいたというから、例の南京大虐殺の真相を何度も聞いた。が、見たことはない、という証言。(但し、父は主計係りで一度も戦闘には参加せずとのこと)二番目の叔父は、警察官から召集され松本連隊に配属。昭和20年7月、南方トラック島付近にて、乗っていた輸送船が撃沈され戦死。三番目の叔父は満州開拓団として満州に、現地で召集されるも終戦。ソ連軍に捕まりシベリアに抑留。5年後、帰国。ということで、戦争は身近だったが、なぜか靖国には、関心は薄かった。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36―――――――――4―――――――――――――――――
【ベトナム戦争とカンボジア】
 残念ながらいつの時代にも戦争はある。現在は、イラク戦争だが、私たち団塊の世代の時代には、ベトナム戦争があった。この戦争は、アメリカと北ベトナム軍、それにベトコンが戦った戦争。1964年から始まり1975年に終わった。結果的にはアメリカが負けた。
が、現在、アメリカはベトナムのドイ・モイ(刷新)と呼ばれる経済政策に協力している。200万もの北ベトナム兵士や一般市民が死に、5万人のアメリカ軍兵士が戦死した。そして100万とも200万人ともいわれるボートピープル。大勢の人が海賊に命を奪われたり、難破して海の藻屑消えた。あの戦争は、何だったのか。当時、岡村昭彦の『続ベトナム従軍記』がベストセラーだった。わたしも愛読書にしていた。それで、ベトナム戦争を話題にしてもよかったが、この日は、カンボジアの話を少しだけした。
 カンボジアは、かってフランスの植民地だった。『人間の条件』『征服者』のアンドレ・マルローは若いとき21、2歳(1923年頃か)この国に行った。何のために、東洋美術への深い憧憬、遺跡コレクター、遺跡盗掘者様々な理由が取りざたされるが謎である。マルローは、このときの体験をもとに『王道』(1930年)を書いた。この国はアンコールワットという遺跡寺院があることで知られていた。太平洋戦争で日本が解放した後、フランスから独立。シアヌーク殿下が独裁社会主義国国家元首として君臨した。が、1970年に無血クーデターでロン・ノル政権ができた。1975年4月1日、ポル・ポト政権ができてからは、200万人ともいえる自国民の虐殺で有名になった。私も、短期間だがこの国で暮らしたことがある。(シアヌークとロン・ノル政権の変わり目にいた)
【日大闘争】
 日大闘争とは何だったのか。37年前の出来事である、現在の学生にとっては既に歴史となっているに違いない。しかし、当時の日大生にとっては未だ昨日のことのように思える人もいる。1994年だったか、市ヶ谷の青年会館で、全共闘大会なるものが開催された。全共闘世代、つまり日大闘争時代の学生が『全共闘白書』を出版したので、それを祝って開いた。私は、全共闘には、関心なかったが、友人が司会を務めるというので参加した。
 はじめにニュースキャスターの筑紫哲也氏、作家の立松和平氏、参議院議員の今井登氏が講演した。そのあと、全共闘時代の大学別紹介があった。が、驚いた。なんと日大生が6人しかきていないのである。聞けば、この会は、もともと東大と日大が主流になってやるということになっていたらしい。参加者は200人、それ以上はいたと思うが、日大生は私を入れて7名とは、あまりに寂しい気がした。(このときの参加者は後に「930の会」というのをつくって毎年、会を開いているらしい)会場には偶然、私の学科で英会話を教えていた講師の方がいた。最近サキの翻訳をしたと言った。サキは好きな作家だったので話が合っていろいろ話した。当時の印象について、彼は「あの頃の学生は気の毒でしたね」と言った。「でも」と私はさえぎった。「それはそれで、面白かったですよ。今にはないものがあった」同情されまいとしたのではない。なぜか本当にあの頃がなつかしかったからである。
 当時、日大闘争に関するもので感動したものがある。1968年6月30日号の『朝日ジャーナル』で発表された声明文である。池田みち子、伊藤逸平、宇野重吉、佐古純一郎、沙羅双樹、当間嗣光、中桐雅夫、埴谷雄高、後藤和子9名が連盟で寄せた支援文。
そして、『日大闘争の記録・反逆のバリケード』に掲載されている雑誌記者・柳田邦夫の「不滅の夏」である。「9月10日、嵐の先ぶれで、本降りになりはじめた神田三崎町の経済学部付近で、私はこの一文を書いている。たった今、三つの文章を読んだばかりである。雨に打たれて半ば破れかかった『壁新聞』ではあったが、それぞれに胸を衝く文章であった。」それは「勝利のうた」と題された詩と日大OBたちの闘争支援の文章であった。
 初めのころの日大闘争は、他の大学の学園紛争とは一線を画すものがあった。日大生にしかわからない怒りと悔しさがあった。
 
―――――――――――――――――― 5―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36
未発表作品
下記の提出作品は、テキスト関連作品を含め時間の関係で発表と合評ができませんでした。
夏休み各自、読んでください。感想・意見をお寄せください。
No.29 畑 茉林さんの「制服と痴漢」(車中の人々・創作)
     畑 茉林さんの「透明人間と対話する女」(車内観察)
―― コラム・JR西日本電車脱線事故に思う ――
No.34 田中大喜さんの「無神経なテレビ報道と助長する視聴者に怒り」
     小河原佑平さんの「非常時に知る人間の本性」
No.36 関 英樹さんの「体質悪化と肥大化は比例する」
―― 普通の一日を記憶する ――
No.34 「学校に行ってはみたが」T・Dさん
No.34 「私の愉しみ」O・Uさん         
―― 車中の人々 ――
No.35 平岩理史さんの「終電観察」
―― テキスト『正義派』感想 ――
No.35 田中大喜さんの「ヒーローを夢見て」
No.36 関 英樹さんの「正義とは何か」
―― なぜ「網走か」 ――
No.36 田中大喜さんの「なぜ網走か」
―― 「網走まで」前後創作 ――
No.36 田中大喜さんの『「網走まで」後編』
・・・テキスト関連作品・・・
読了 = O・ヘンリー『心と手』
末読 = バルザック『砂漠の情熱』(野獣観察)、『ことづて』(馬車乗客観察)(車内観察)、サンテグジュペリ『夜間飛行』(気象観察)、夏目漱石『三四郎』(車内観察)、ヘミングウェイ『殺し屋』(店内と虚無観察)、武富健治『鈴木先生』(漫画観察)
―― 番外 -――
下原敏彦『ひがんさの山』、予定ドストエフスキー『貧しき人々』はじめの10ページ。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36―――――――――6―――――――――――――――――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・車中の人々・・・・・・・・・・・・・・・・
7月4日提出・テーマ「なぜ網走か」
テキスト『網走まで』
なぜ「網走」か
田中大喜
 なぜ網走か。それを知るには、まず網走という土地について調べてみる必要がありそうだ。インターネットで網走について調べてみた。とりあえず最初は網走の代名詞でもある網走刑務所にリンクした。幸いな事に一回目の検索で当たりをひいたようだ。網走の歴史が十分に載っている。
 網走の歴史は網走刑務所の歴史であった。明治時代に政府の政策で北海道を開拓する必要が起こった。開拓するには労働力、それに伴う賃金が必要だ。生命の危険も伴う。そこで考えだされたのが囚人を労働力として案だ。賃金無料、十分な刑罰、命を失っても問題にならないという政府にしてみれば一挙三得の案だった。政府はこれを採用し死刑囚、無期懲役の囚人をどんどん網走に送り込んだ。政府にとっては素晴らしいアイデアだったようだが、囚人にとっては地獄のようなシステムだった。開拓作業は逃亡防止の為に二人一組足に鎖を繋がれて行われた。例え逃亡できたとしても回りには森しかない。凍え死ぬか再び刑務所に戻るしか選択肢がない。厳しい労働で死人が出ても何とも思われず、このシステムが考え直されるような事もないのだ。看守の生活も厳しいものだった。特に冬。氷点下まで気温が下がる冬。当時は大した暖房器具もない。それでも囚人を24時間監視しなければならないのだ。仕事が終わりやっと眠れる時間になっても体が冷えて中々寝つけないようやく体が温まり、眠りについたと思ったらすぐに起床時間が訪れる。当時網走に住んでいた人間というのは看守か囚人のどちらかだろう。つまり網走にいったほとんどの人間がとても大変な状況で生活していたのだ。
 やがてこうした事態(主に囚人への厳しい扱い)を非人道的だと批判する声が上がり、国会で網走刑務所についての問題が持ち上がった。しばらくして北海道の開拓に囚人を利用する事は中止された。恐らくだが、網走刑務所が全国に知れ渡ったのはこの時ではないかと思う。そして世間に網走のイメージを定着、固定させたのもこの時期だろう。この事件から志賀直哉が『網走まで』を執筆するまでには時間の開きがある。この間に網走のイメージを変えるような出来事はなかったのだろう。また、一度定着したイメージは容易に変わらないのだろう。現在でも刑務所といえば「網走刑務所」を挙げる人がほとんどだ。それに網走という土地も刑務所を売り物にしている。
 志賀直哉が網走に抱いていたイメージも世間一般が抱いていたものと同じだったのだろう。生活するにはとても厳しい土地、普通の人間が向かう土地ではないというイメージ。何やらただならぬ事情を抱えた親子の目的地を網走にすることによって読者はこの大きな謎に対して様々な想像を働かせる事ができる。これが「なぜ網走か」への回答である。
 網走が目的地であるからこそ成り立つ話である。もし目的地が東京なら想像に値しない。誰しもが当たり前に向かう目的地なら目的まで説明しなければ何も読者に想起させない。読者に何かを想像させるから小説は小説なのである。この根本を大胆に捕え、それを話の軸に持ってきた作品であるからこそ『網走まで』が志賀直哉の小説の原点なのだろう。
校正・書き込み箇所
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          テキスト作品『正義派』感想
7月4日提出
正義とは何か
 関 英樹
 線路工夫の三人は、監督と比して言えば正義であるといえる。起きたことの事実を、見たまま警察に言っている。しかし、警察から出た三人を覆っているのは、何かしら見返りを求めるような心持である。しかも、彼らはその正義の心から、自らが「明日ッから暫くは食ひはぐれるんだぜ」と職を失ってしまったかもしれないという心配をしている。これは正義というところから派出して出てきた心持であろう。何故、正しいことをした筈の自分達は、周りから振り返られず、職まで失わなくてはならないのか?とどこかで思っているのだ。彼らはすでに正義というものから派出して正義派になった。いや、もしかすればはじめから正義なんてものは存在していなかったのだろうか。正義とは何か?とても曖昧で、人や国や民族によって違うものであろう。
 最後に年かさの工夫は何故泣いたのかが気になっていた。その現場を通った時、「一寸降ろしてくれ」といった工夫には、自分の言ったことが正しかったということを確かめようという気持が浮かんだのではないかと思う。もう彼らは正義“派”なのである。
校正・書き込み箇所
エッセイ・テーマ「JR西日本脱線事故」
                        
体質悪化と肥大化は比例する
関 英樹
 JR西日本の脱線事故以降だと思うが、電車の一、二両目に乗っている人の数が少なくなった。多くの人が不安を抱いたはずである。私が乗るのは主に西武新宿線か池袋線であるが、企業の内部を知らなくては、社員教育が健全であると誰が言えよう。今回の事故で多く取りざたされた事の一つに車内の罰則があった。
 JRは元来国営企業であった。どうしてだろうか、企業も人間も肥大化すると体質が悪くなってしまう。肥大化するに比例して、人間の足腰が弱くなると同じだ。企業も基本的なことを忘れている。利益と安全、この二つを天秤にかけているとしか思えない。安全とは人の命を運ぶのには最も基本的であり、最も重要な事である。それを比してはならない。いじめとも言ってよい罰則があったJR西日本は企業内部の循環が悪くなっているのではあろう。
 我々はたまに思いだすくらいになってしまうかもしれない。しかし遺族は絶対に忘れないだろう。見えにくい企業の風通しの良さと、使う我々が、見えるようにマスコミにも、信頼性とこのような問題に対する眼を持ってほしい。
※ 「問題に対する眼」企業も利用者もマスメディアも、常に観察するということを忘れない。どんなにシステムが優れていても、基本と観察がなければ事故は防げない、と筆者は言っている。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36―――――――――8―――――――――――――――――
2005年、読書と創作の旅 土壌館創作道場
テーマ・『網走まで』後編。車中のあの母子が網走に到着してからの話を創作してみる。
『網走まで』後編
田中大喜
 ようやく網走に到着した。駅の周りには片手で数えられる程の店と住宅が点々とあるが、その他には何もない。これからここで生活するつもりだが、何をして生きてゆけばよいかわからない。とりあえず住宅を探さなければならない。面会に行った時(結局会うことは叶わなかった)に案内してくれた親切な看守に部屋を貸してくれる家はないかと尋ねた。こちらの事情も知っているからか親身に対応してくれた。部屋はやがてすぐに見つかった。刑務所の所長の家。家は刑務所のすぐ裏にある大きな建物。ざっと見て四百坪はありそうだ。一番北に位置する三畳の部屋を与えられた。荷物もなく小さな子供と三人で暮らすには十分だ。この家の庭から刑務所の運動場が見える。夫の姿が見えるのではないかと淡い期待を抱きながらこれから数年間暮らしていくのだろう。
 毎朝五時に起きて冷たい水で雑巾を絞り、廊下、台所、居間、厠・・・・と各部屋を掃除。七時に起床する奥様と共に朝食の用意。朝食を終えた所長が刑務所に向かうのを送り出す。この後、奥様は弁当を作り昼間になると刑務所の所長に届ける。ここでやっと私達親子は朝食を自室で取る。弁当を届けた奥様は囚人の為の食事作りをする。給仕達の指揮をする為三時まで返ってこない。この間に洗濯、夕食の下拵えを済ませる。奥様が帰ってくると二人で夕食の準備を始める。夕食が出来上がる七時頃所長が仕事から帰って来る。夕食の片付けが終わり、所長、奥様が入った後の冷え切った湯船に浸かり、ここでようやく眠れる。これが大まかな一日の流れ、仕事の合間に庭で刑務所を眺めているが夫の姿を目にする事は無かった。
 所長は奥様が刑務所で仕事をしている間たまに帰ってくる事がある。私の仕事を強引に中断させ、庭に面した所長の部屋で私はいつものように抱かれる。最初は戸惑ったが慣れると大した事はなかった。むしろ突然囚人である夫を訪ねて全てを抱え網走にやってきた私を家に受け入れた事に合点がいった。網走での生活も今までの暮らしと大して変わらない。子供はこの時間に昼寝するようさせている。所長に抱かれた後、布団で少し話す。所長と話す時間はこの時間だけ。彼は形式上仕方なく身の上話を聞く。十六歳からの売春を話した翌日から所長の行為はエスカレートした。それでも私は彼の要望に応えていった。彼はどうやらSの人間のようで行為中に私を痛めつけるようになった。包丁で皮膚を薄く切り裂いたり、火のついたタバコを腹部に押し付けたりすると興奮するようである。おかげで体中が切り傷や火傷の痕だらけになった。肉体を痛めつける事に飽きると彼は子供の前で私を抱く事を望んだ。それだけは何と止めるように懇願した。しかしそれがまた彼とセックスをした。子供に手を出すと脅して私に奉仕させると彼は至極満足そうだった。次は夫が運動場にいる時に(実際は所長が手を回して夫が運動場に出るように仕向けたようだ)夫からこちらが見えるように抱かれた。この時網走に来てから初めて(遠くからではあるが)夫の姿を見る事が出来た。夫はすぐにこちらに気付いた。東京にいると思っていた妻が予想もしない場所でこんな行為に及んでいる姿をどんな気持で見ていたのだろうか。
 やがてこの行為は奥様に発覚される事になり、私たち親子はこの屋敷を余儀なく追い出された。東京へ向かうまでの運賃を奥様から渡された。これはもう網走から出て行けという意味だろう。結局夫の帰りを待つ願いは叶わず網走に滞在したのはたったの一年間だった。
 
 これが私が十八歳で家を飛び出してからの経緯です。自分勝手に放浪生活を続けてきた私はこういった次第で東京に戻ってきたわけです。もう疲れました。もうどこへ行けば良い
―――――――――――――――――― 9 ―――――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36
のかわかりません。最後はこの汚れきった肉体を飛び出すしかないように重います。そこでご迷惑だとは思いますがこの子たち二人の事をよろしくお願いします。他にお願いできる人がいないのです。是非お願いします。
                                     娘より
 数年後、網走刑務所から一人の男が出所した。迎えに来ていたのは老婆。老婆は男に近づき何か一言二言言葉を交わして一通の手紙を男に渡した。男は手紙に目を通した後、読み終わったその手紙で鼻汁を拭き取りクシャクシャと丸めて捨てた。 (完)
 
前期課題原稿の提出状況()は本数
テキスト『網走まで』の感想(原稿提出者)は以下の皆さんです。7月4日現在 順不動
関 英樹   小河原佑平  平岩 理史  林 正人  大島 直文  
中谷 英里  畑 茉林   田中 大喜
 
『車中観察』の原稿提出者は以下の皆さんです。7月4日現在 順不動
関 英樹(3)小河原佑平(3)平岩 理史(3)林 正人  大島 直文(2)  
中谷 英里(2)  畑 茉林   田中 大喜(2)
愛読書アンケート提出者(7月4日までに提出した人)順不同
小河原佑平  平岩理史  関 英樹  田中大喜  大島直文  林 正人
中谷英里   中村健人
「車中の人々」提出者(7月4日までに提出した人)
 畑 茉林 田中大喜(2)平岩理史(2) 関 英樹(2)林 正人(2)中谷英里 
『網走まで』前後編提出者(7月4日までの提出者)
 田中大喜(前編)(後編) 
コラム「JP西日本電車脱線事故について」提出者(7月4日までの提出者)
 林 正人 平山理史 小河原佑平 田中大喜 関 英樹  
なぜ『網走まで』としたか(7月4日までの提出者)
 中村健人  田中大喜 
『正義派』感想 (7月4日までの提出者)
 大島直文 田中大喜 関英樹 
「普通の一日を記憶する」(7月4日現在)
 S・H(5) O・N(2) H・MS(3) H・S(5) O・U(5) N・E(4)
     
 N・K  H・MRN  T・D 
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36―――――――――10―――――――――――――――――
2005年、読書と創作の旅
『灰色の月』を読む
 この作品は、僅か6、7枚の分量なのに、中長編にも匹敵するものを感じる。千枚の告発文にも勝るものがある。万人の哀しみや怒れる声が聞こえる。それはなぜか。たぶんに、作者志賀直哉が観察する車内観察と車中の人々。文字にすれば、ほんの数行だろうが。そこから、人間の愚かさ無力さを読み取ることができるからである。それ故に、この作品は、一時代を映しながらも普遍であり心に残りつづけるのだ。靖国神社参拝問題の折りである。ぜひ読んでもらいたかった。しかし、残念ながらこの作品についてゼミでは、時間がなくて、読みと批評ができなかった。で、本通信にて検証してみることにした。夏休みに、じっくり読んでくれれば幸いである。この作品のどこに普遍性があるのかを検証してゆきたい。
まず、最初の一文である。(太字はテキスト)
東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套で丁度よかった。連れの二人は先に来た上野まわりに乗り、あとは一人、品川まわりを待った。
東京駅は、大正3年12月30日アムステルダム中央駅をモデルにルネッサンス様式赤レンガ駅舎として開業された。原敬首相暗殺や浜口幸雄狙撃など、大きな政治的事件は起きたが、建築的にはいたって頑丈で、大正12年のときに起きた関東大震災でも被害はなかった。それなのに「屋根のなくなった歩廊」、とはどういったことか。疑問は、冒頭のこの光景からはじまる。なぜ、屋根がないのだろうか。日付も説明もないから、読者にはわからない。が、その疑問は、すぐに明らかになる。ちなみに「上野まわり、品川まわり」とあるが、山手線が現在の環状運転になったのは大正14年のことである。と、するとこの物語はそれ以降の話ということになる。「着て来た一重外套」から、季節は初秋とわかる。屋根のなくて見通しのよいホームからは何が見えるか。
 薄曇りのした空から灰色の月が日本橋側の焼跡をぼんやり照らしていた。月は十日位か、低くそれに何故か近く見えた。八時半頃だが、人が少なく、広い歩廊が一層広く感じられた。
 「日本橋側の焼跡」で、読者は、ようやく情景を思い描くことができる。「焼跡」といえば、東京大空襲である。B29の爆撃で焼け野原と化した東京。文印象から静けさを感じるから、既に戦争は終わっているようだ。8月15日に終戦。山手電車も普通に走り出したのなら、10月初旬の頃だろうか。この時の乗客は、どんなだったか。
 遠く電車のヘッドライトが見え、暫くすると不意に近づいて来た。車内はそれ程込んでいず、私は反対側の入口近くに腰かける事が出来た。右に五十近いもんぺ姿の女がいた。左には少年工と思われる十七八歳の子供が私の方を背にし、座席の端の袖板がないので、入口の方へ真横を向いて腰かけていた。その子供の顔は入って来た時、一寸見たが、眼をつぶり、口はだらしなく開けたまま、上体を前後に大きくゆすっていた。それはゆすっているのではなく、身体が前に倒れる、それを起こす、又倒れる、それを繰返しているのだ。居眠りにしては連続的なのが不気味に感じられた。私は不自然でない程度に子供との間を空けて腰かけていた。
 ここには東京駅から有楽町までの車内の乗客観察が描かれている。当時の(終戦直後の)夜八時半頃の山の手電車の、乗車状況がどうだったかは知らない。しかし、「車内はそれ程、
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混んでいず」とあるから7、8割の乗客があったかも。観察では、右隣の「もんぺ姿の女」
のほかに「少年工」のことが書かれている。「連続的なのが不気味に感じられた」とあるから八分入りの車内で少年は目立った存在だったのだろう。が、ホームに着くたびに乗客は入れ替わる。志賀直哉(この作品では、主人公を志賀直哉本人とみるべきである。続々創作余談で「あの通りの経験をした」と語っている)は「車中の人々」を、どう描いたのだろう。みてみよう。山手電車は、有楽町、新橋と停車していく。
有楽町、新橋では大分込んで来た。買出しの帰りらしい人も何人かいた。二十五六の血色のいい丸顔の若者が背負って来た特別大きなリックサックを少年工の横に置き、腰掛に着けて、それにまたぐようにして立っていた。その後ろから、これもリックサックを背負った四十位の男が人に押されながら、前の若者を覗くようにして、
「載せてもかまいませんか」と云い、返事を待たず、背中の荷を下ろしにかかった。
「待って下さい。載せられると困るものがあるんです」若者は自分の荷を庇うようにして男の方へ振り返った。
「そうですか、済みませんでした」男は一寸網棚を見上げたが、載せられそうにないので、狭い所で身体をひねり、それを又背負ってしまった。
 若者は気の毒に思ったらしく、私と少年工の間に荷を半分かけて置こうと云ったが、
「いいんですよ。そんなに重くないんですよ。邪魔になるからね。おろそうと思ったが、いいんですよ」そう云って男は軽く頭を下げた。見ていて、私は気持よく思った。一頃とは人の気持も大分変わってきたと思った。
 乗客はリックサックを背負った人が多くなった。有楽町、新橋から混んできたというから、新橋あたりに市場があったのだろうか。しかし、時間を考えると戦後の闇市を想像する。話は逸れるが、闇市で思い出すのは、昭和40年前後に流行ったヤクザ映画の一つである。当時、高倉健、鶴田浩二の任侠ものが全盛時代ではあったが、それとは違う、戦後のドサクサを描いた、闇市ヤクザ路線も流行っていた。安藤昇という大学出のインテリヤクザが、足を洗い映画監督になってつくったもので闇市がリアリティあった。殺伐とした時代だが、主人公の観察は「一頃とは人の気持も大分変わってきた」と、戦争、終戦で埃のようにまいあがっていた世の中が、漸く治まってきたと見ている。観察は、乗客の表層面から、会話や一人ひとりの感情や思考へと移っていく。
 浜松町、それから品川に来て、降りる人もあったが、乗る人の方が多かった。少年工はその中でも依然身体を大きくゆすっていた。
「まあ、なんて面をしてやがんだ」という声がした。それを云ったのは会社員というような四、五人の一人だった。連れの皆も一緒に笑いだした。私からは少年工の顔は見えなかったが、会社員の云いかたが可笑しかったし、少年工の顔も恐らく可笑しかったのだろう。車内には一寸快活な空気が出来た。その時、丸顔の若者はうしろの男を顧み、指先で自分の胃の所を叩きながら、「一寸手前ですよ」と小声で云った。
男は一寸驚いた風で、黙って少年工を見ていたが、「そうですか」と云った。
笑った仲間も少し変に思ったらしく、
「病気かな」
「酔ってるんじゃないのか」
こんなことを云っていたが、一人が、
「そうじゃないらしいよ」と云い、それで皆にも通じたらしく、急に黙ってしまった。
 
 山手電車は、浜松町、田町、品川と過ぎていく。車内は益々混んできた。乗客も入れ替わったが、あの少年工は、まだ乗っていた。「依然身体を大きくゆすっていた」ところから、
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36―――――――― 12 ――――――――――――――――
他の乗客たちも注目する。奇妙な動作。主人公からは見えなかったが「少年工の顔も恐らく
可笑しかったのだろう。」会社員たちは笑い、車内の雰囲気は快活になった。しかし、新橋から乗っている25、6の若者は、少年工をずっと観察していたので、なにかがわかったようだ。いまでこそ、若者は血色のいい丸顔であるが、戦時中は、この少年工と同じだったのだ。「そうじゃないらしいよ」その意味は、皆にもすぐわかった。ここから主人公は、この少年をじっくり観察することになる。
地の悪い工員服の肩は破れ、裏から手拭でつぎが当ててある。後前に被った戦闘帽のひさしの下のよごれた細い首筋が淋しかった。少年工は身体をゆすらなくなった。そして、窓と入口の間にある一尺程の板張りにしきりに頬を擦りつけていた。その様子が如何にも子供らしく、ぼんやりした頭で板張りを誰かに仮想し、甘えているのだという風に思われた。
 破れ、つぎはぎだらけの工員服。よごれた細い首。甘えるように頬ずりする子供らしい顔。一見、無邪気な光景描写である。しかし、読者は、凍りつく。少年の子供のような仕草は何を意味するのか。この世の全てを放棄した姿。恐れを知らぬ幼児の表情。それとも写真で見たホロコーストの順番を待つ人々の顔か。上野の山ではいまもバタバタ飢え死んでいる。
「オイ」前に立っていた大きな男が少年工の肩に手をかけ、「何処まで行くんだ」と訊いた。少年工は返事をしなかったが、又同じ事を云われ、
「上野へ行くんだ」と物憂さそうに答えた。
「そりゃあ、いけねぇ、あべこべに乗っちゃったよ。こりゃあ渋谷の方へ行く電車だ」
 
 乗客は、少年の運命を知っている。なんとかしたい。男が聞いたのもその表れだろう。しかし、少年には、もはやどうでもよいことだった。こんな日本に誰がした。そんな怒りや絶望も、もはやない。乗客にできることは、電車の方向を教えることだけだった。
少年工は身体を起こし、窓外を見ようとした時、重心を失い、いきなり、私に寄りかかってきた。それは不意だったが、後でどうしてそんな事をしたか、不思議に思うのだが、その時ほとんど反射的に寄りかかってきた少年工の身体を肩で突返した。これは私の気持を全く裏切った動作で、自分でも驚いたが、その寄りかかられた時の少年工の抵抗が余りに少なかった事で一層気の毒な想いをした。私の体重は今、十三貫二三百匁に減っているが、少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。
 私は、なぜ少年を突返したのか。死神がついている。無意識にそれをみたのかも知れない。このときの私は、体重が13貫余りというから50㌔に満たないわけだ。少年工のそれはそれよりもはるかに軽かった。とあるから、少年は栄養失調を過ぎた体だったのだろう。この少年にたいして何をしてやれるのか。作者には『小僧の神様』になれる余裕も体力も気力もなかった。このときの気持を作者志賀は【続々創作余談】でこう述べている。
「あの場合、その子供をどうしてやったらいいか、仮に自家へ連れて来ても、自家のものだけでも足らない食料で、又、自身を考へても程度こそ異ふが、既に軽い栄養失調にかかっている時で、どうする事も出来なかった。まつたくひどい時代だった。」
「東京駅でいたから、乗越して来たんだ。―― 何処から乗ったんだ」私はうしろから訊いて見た。少年工はむこうを向いたまま、
「渋谷から乗った」と云った。誰か、
「渋谷からじゃ一回りしちゃったよ」と云う者があった。
少年工は硝子に額をつけ、窓外を見ようとしたが、直ぐやめて、漸く聞きとれる低い声で、
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「どうでも、かまはねえや」と云った。
少年工のこのひとり言は後まで私の心に残った。
どうやら少年工は、山手線を乗ったままぐるぐる回っているようだ。乗客たちは、おせっかいに、むろん悪気はないのだろうが騒ぎだした。少年も皆が自分の行き先に注目していることがわかった。山手線を一回りしようが何周しようが、少年にとってどうでもよいことだった。少年は、現世とは、もはや完全に縁を切った世界にいる。他者は、どうすることもできない。ヘミングウェイの短編に『殺し屋』というのがある。不況とギャングが横行するアメリカの暗黒時代の話だ。主人公のニックが働くレストランに二人の殺し屋がやってきた。時間まで待って殺す相手が来ないとわかると帰って行った。ニックは、知らせに走った。だが、狙われている「オール・アンダーソンは、きちんと服を着たままベッドに横になっていた」そうして逃げようともせず、他人事のように「どうしょうもねえんだ」と言うばかりであった。死ぬことを、殺されることを受け入れた人間の前にニックは、なす術もない。
 近くの乗客たちも、もう少年工の事には触れなかった。どうすることも出来ないと思うのだろう。私もその一人で、どうすることも出来ない気持だった。弁当でも持っていれば自身の気休めにやることも出来るが、金をやったところで、昼間でも駄目かも知れず、まして夜九時では食い物など得るあてはなかった。暗澹たる気持のまま渋谷駅で電車を降りた。
 昭和二十年十月十六日の事である。
                   (『志賀直哉全集』を現代読みに・編集室)
「暗澹たる気持」志賀直哉は、この「暗澹」、アンタンという言葉をこの時代、何度か使っている。が、おそらくこの言葉が最初に口にでたのは、あの日ではなかったか、と推測する。
昭和8年2月25日(土)の日記にこう書いている。
<MEMO 小林多喜二2月20日に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる。ふと彼等のの意図ものになるべしという気する>
このとき志賀直哉が抱いたアンタンは、より闇を濃くして国民を戦争へ戦争へと駆り立てていった。今日、靖国神社は戦犯合祀の問題でゆれている。死ねば、誰しもが英霊か。否、時の為政者は、死してなおその罪を償わなければならない。それが為政者の使命であり、義務である。前号で紹介したが、志賀直哉の怒り「銅像」しかり。小説を書いただけで、あんな惨たらしい殺し方をしていいもんだべか。と訴えた小林多喜二の母の嘆きを誰か知らん。戦犯の彼らには戦争の罪の前に、自国民の自由を奪い殺した罪、その罪もあるのだ。
 しばしば志賀直哉は、社会を描かなかった。自我の解放を社会的広がりに拡大し、作品化させなかった。という点で批判されている。この指摘は、当たっているだろうか。表層面だけ捉えれば頷けなくもない。『網走まで』も『灰色の月』も、一人よがりだ。北の果て網走まで行く母子に、同情は寄せるがそれ以上の行為は何もない。『灰色の月』にしても、主人公は可哀そうには思うが、結局は何の手も差し伸べない。なぜ「小僧の神様」のようにしないのか。社会派にとっては、我慢のならぬ所かもしれない。が、救済状況が社会全体では、どうにもならない。『網走まで』は、創作だが、仮にそんな母子が目の前にいたとしても、若い志賀直哉に何ができただろうか。先日、知床が世界遺産として登録されたが、アイヌの土地を荒らしたのは誰か。戦争孤児と餓死者であふれる街。栄養失調の少年が目の前にいたとしても、それはもう普通の風景であったに違いない。個人の力では、どうすることもできない現状。このときの主人公にできたのは。せいぜい暗澹たる気持になるしかなかった。それが本当のところに違いない。灰色の月だけが知っている。
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2005年、読書と創作の旅・旅日誌
前期ゼミ旅日誌
4月18日 参加者13名
 ゼミ案内=志賀直哉の車内作品を手本に、「車内観察」「車中の人々」を発表・批評していく
 講師自己紹介=日本テレビ番組『オンボロ道場再建』のビデオ鑑賞する。60分。
4月25日 参加者11名(下原ゼミ12名登録)
ゼミ司会・中村健人 ゼミ登録者自己紹介11名全員
ゼミ誌編集委員2名決め=中谷英里さん、中村健人さんに。写真集『五十歳になった一年生』
テキスト『網走まで』を全員で朗読と感想。提出原稿=「愛読書アンケート」「車内観察」
5月9日 参加者10名
ゼミ司会・中村健人
テキスト草稿『小説網走まで』全員で朗読、合評と感想。
テキスト『網走まで』感想発表、車内観察報告
5月16日 参加者9名
 ゼミ司会・大島直文
 今日の出来事・外人部隊のこと
 テキスト『網走まで』感想、「車内観察」発表
5月23日 参加者7名
 ゼミ司会・田中大喜
テキスト『夫婦』全員で朗読と感想 「車内観察」、「愛読書アンケート」発表
5月30日 参加者7名
 ゼミ司会・小河原祐平
テキスト『正義派』全員で朗読と感想 「車内観察」、「車中の人々」発表
6月6日 参加者6名
 ゼミ司会・関 英樹
テキスト『出来事』全員で朗読と感想 「車内観察」、「車中の人々」「JR西日本事故」
テキスト関連作品=O・ヘンリー『心と手』の読み、全員で、他発表
6月13日 参加者7名
 ゼミ司会・平岩理史
 テキスト『網走まで』前編、「一日を記憶する」、「JR事故」などを発表
 テキスト外の読み=『ひがんさの山』朗読のみ 全員で、他発表
6月20日 参加者8名
 ゼミ司会・中谷英里 ゼミ誌ガイダンス報告
テキスト『城の崎にて』全員で朗読と感想、テキスト草稿『いのち(城の崎にて)』朗読のみ
 バルザックの『砂漠の情熱』、サンテグジュペリの『夜間飛行』抜粋を配布、他発表
6月27日 参加者10名 ゼミ誌についての決め=締切、枚数、題名
 ゼミ司会・中村健人
夏目漱石『三四郎』車内部分の配布、「車内観察」、創作、他発表
7月4日 参加者4名
漫画「鈴木先生」前編、テキスト『灰色の月』の配布、ヘミングウェイ『殺し屋』保留
7月25日 予定
 前期まとめ=感想と反省点など
試み読本・ドストエフスキー『貧しき人々』10枚読んだらやめられないは本当か!?
 ビデオ鑑賞・NHKアーカイブス「教え子たちの歳月」45分 時間あれば
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2005年、読書と創作の旅・文芸情報紹介  
石川達三と太宰治
先日、第133回芥川賞の受賞者とその作品が発表された。毎回、この時期、書店にいって思うのは、なぜ石川達三の本が書棚にないのかということである。たまに1冊か2冊みかけることはあるが稀である。それに比べ太宰治の本は、『人間失格』『斜陽』『津軽』をはじめ『グッドバイ』まで書いたほとんどの作品がずらりと並んでいる。人気の差といわれればそれまでだが、納得いかないものがある。今という時代でこそ戦争とは何かを問う『生きている兵隊』、談合落札疑惑を照射する『金環蝕』ダム建設で翻弄される村人たちを描いた『日陰の村』、時代の流れのなかで信念を貫く難しさ『風にそよぐ葦』などなどを若い人に読んでもらうべきである。書店の経営者たちが、ただ売れ筋という功利的理由だけで並べているのは残念なことだ。
石川達三は1905年生まれ。太宰治(津島修治)は1909年生まれ。年齢的には太宰の方が四つばかり若いが、文壇においては太宰が大先輩である。既に若手新進作家としてその名を知られていた。1936年(昭和10年)第一回芥川賞が創設された。当然、太宰の『逆行「蝶蝶」「決闘」「くろんぼ」「盗賊」』が候補作にあがった。いずれも「ダンディズムとニヒリズムがあやしく交錯」する傑作と評判を呼んだ。なかでも、東大仏文科の進級試験を観察した「盗賊」は絶賛された。津島修治は、受賞を確実のものにするため、選考委員に手紙で頼んだりしていろいろ運動もした。抜け目ない男である。だが、蓋をあけてみると受賞したのは、まったく無名のブラジル帰りの青年だった。受賞作品は『蒼氓』、同人誌に掲載されていた中編の移民船観察小説だった。選考委員は退廃的な学生の話より、貧困と飢餓から逃れ、新天地を目指す貧民の話を選んだのである。当時の日本、酒と女で明け暮れている若者がいれば、日本に捨てられるように移民する人々がいたのだ。この作品をいち早く認めた作家芹沢光治良や選考委員の佐藤春夫の評眼の確かさを思う。もし現在だったら、逆になっていたかも知れない。もっとも、落選したことが太宰という作家にとって、それが鬼に金棒となってしまったということもあるが・・・。今日、書店の本棚をながめれば、それもうなずけなくもない。しかし、まだ時代はつづく。いつの日か、石川達三が再び読まれることを期待したい。
新聞情報・読売新聞夕刊2005年(平成17年)7月22日金曜日 文化欄(抜粋)
“作って残さず”直木三十五 直木三十五(1891~1934)は直木賞にその名を残すのみで、忘れられた作家だった。本名植村宗一<植村の、植を二分して、直木、この時、三十一歳なりし故、三十一>。年齢とともに三十二、三十三と筆名を変え、昭和元年三十五で固定、菊池寛創刊の雑誌「文芸春秋」の主要執筆者として小説、雑文を書きまくった。伝奇的なチャンバラ小説が主流だった大衆文学にあって、<彼出でて初めて、日本に歴史小説が存在した>と評価した菊池は、直木の死の翌年、芥川賞とともに直木賞を創設した。しかし、その作品は『日本剣豪列伝』(大東出版社)などを除き、絶版になっている。
 それが直木賞創設70年の今年、甥にあたる植村鞆音著『直木三十五伝』(文芸春秋)が出版されるなど再評価が始まった。今月16日にはTBS系で「この人をご存知ですか~直木三十五伝」が放送された。<小心にして傲岸、寡黙にして雄弁、稀代の浪費家で借金王、女好きのプランメイカー>と『三十五伝』の帯にあり、<芸術は短く、貧乏は長し>と言われたように、破天荒な生涯である。小説家として本格的に活動したのは大正、昭和の10年に満たないが、“直木の辻斬り論法”と称された辛辣な文壇ゴシップ記事をはじめ700編におよぶ小説・雑文を残し、執筆量では芥川と並び文壇の横綱格だった。なにより新しがり屋で
一流志向。外国製の自動車を乗り回し、飛行機が大好きで/日本初の文芸映画とされる「京子と倭文子」を製作する。/小説は荒い。「仇討ち二十一話」と「南国太平記」が90年代、講談社の文庫で復活したが、いずれも初版で絶版。/(鵜飼哲夫記者)
今年2月「直木三十五記念館」大阪にオープン
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.36―――――――― 16 ――――――――――――――――
掲示板
前期提出原稿
 まだ受付ます。夏休み中にも書いてください。(提出数は何本でも可、郵送、メール可)
① 「車内観察」「車中の人々」(常時観察・提出することで観察力、表現力を高める)
② 「普通の一日を記憶する」(書けなくなったら一日の生活を書く。習慣化)
③ 「なぜ網走か」を論じてください。
④ 『網走まで』の前後の話を創作してみる。(想像・空想力をみがく)
⑤ テキスト『夫婦』『正義派』『出来事』『城の崎にて』『灰色の月』の感想。
⑥ テキスト外の作品『ひがんさの山』の感想
⑦ 靖国神社参拝問題について
お知らせ
ドストエーフスキイ全作品を読む会・第210回読書会暑気払い大会
・ 8月13日 土曜日 午前10:00~12:00 東京芸術劇場小会議室7
・ 題目「小山田二郎とドストエフスキー」発表者=福井勝也氏 
・ ドストエフスキーのプーシキン講演 レールモントフ「私は一人道に出る・・・」他を朗読(原書) 朗読・小林銀河氏
ドストエーフスキイの会第170回例会『広場』合評会
・ 8月13日 土曜日 午後2:00~5:00 小会議室7    
ドストエーフスキイ全作品を読む会・第211回読書会
・10月8日 土曜日 午後2:00~5:00
・ 東京芸術劇場小会議室1 作品:『地下生活者の手記 発表者、未定
 以上詳細は下原まで
前期ゼミについて
下原ゼミの目標は、読むこと書くことの習慣化。人間とは何かを探ることです。
この目標に向かって前期ゼミは、志賀直哉の車中作品をテキストに、すすめました。関連作品や、関連事故(JR西日本)にも触れたため予定したテキストまで及びませんでした。また、欠席数の多い人もいて、授業内での、全員の習慣化は確認できませんでした。読むこと書くことは、どこにいてもできるので、できなかった人は実行してください。
後期ゼミについて
 後期も引き続き読むこと書くことの習慣化を実施します。手法としては、「社会観察」を行います。電車を降りて街や世の中を見学します。テキストは志賀直哉作品の他に新聞記事・テレビニュースなど事件や出来事です。夏休み、新聞記事やニュースに注意しておいてください。事件・出来事からの創作。社会問題討論です。
編集室便り
☆提出原稿は直接か下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール:toshihiko@shimohara.net TEL・FAX:047-475-1582 
☆本通信はHP「土壌館創作道場」に掲載されています。
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」提出原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」テキスト「『灰色の月』感想
                         名前
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」 テーマ「靖国神社合祀・参拝問題」 
  名前
                      ―――――――――――――
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」 前期ゼミ感想
  名前
                      ―――――――――――――
☆ゼミ雑誌の作成手順
ゼミ雑誌作成は、以下の計画手順で進めてください。
1. ゼミ雑誌編集委員2名。中村健人さん、中谷英里さん
2. 6月14日(火)12時30分より文芸棟教室1でゼミ雑誌作成ガイダンスがあります。 編集委員は必ず出席してください。
※ この席で申請書類が配布されます。かならず受け取って期限までに提出してください。(出版編集室へ提出)
3. 編集委員を中心に、ゼミで話し合いながら雑誌の装丁を決めてください。
※6月 ~  7月のあいだに
4. 9月26日(月)ゼミ誌原稿締め切り。編集委員は原稿を集めてください。
  ※提出が遅れると、掲載できない場合もあります。
5. 印刷会社をきめ、希望の装丁やレイアウトなどを(印刷会社と)相談しながら編集作業をすすめてください。
6. 印刷会社から見積もり料金を算出してもらってください。
※10月中旬までに
7. 10月末日までに「見積書」をかならず出版編集室に提出してください。
  ※予算内に収まらないとゼミ員の自己負担となるので、注意してください。
8. 11月中旬までに印刷会社に入稿してください。
9. ゼミ雑誌が刊行されたら出版編集室に見本誌を提出する。
10. 印刷会社からの「請求書」を出版編集室に提出する。
ゼミ誌予算  →  250000円 オーバーしないように注意!
発行部数   →  最大250部以下
印刷会社について → 過去に依頼したことのある主な印刷会社の連絡先は、文芸学科スタッフまで問い合わせてください。
           それ以外の印刷会社を利用したい場合は、かならず事前に学科スタッフに相談すること。
■ 実施の1ヶ月前までに提出。出版編集室へ。
下原ゼミの理念「人類全体の幸福に繋がりのある仕事」(『暗夜行路』から)
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙   
「2005年、読書と創作の旅」
車内観察したものをヒントに創作する   名前
                    ―――――――――――――――
土壌館創作道場・下原ゼミ原稿用紙
テーマ「なぜ網走か」を論じてください     名前
日本大学芸術学部文芸学科・文芸研究Ⅱ「下原ゼミ通信」原稿用紙 
「2005年、読書と創作の旅」 テーマ・「なぜ網走か」を論じてください。

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