文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.238

公開日:  最終更新日:2014/05/22

日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)5月19日発行

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.238
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
編集発行人 下原敏彦

4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 6/30 7/7

2014年、読書と創作の旅への誘い

5・19下原ゼミ

5月19日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室

1. 2014年のゼミ  → 5・12ゼミ報告・連絡

2.  自分観察 → テレビ観賞「オンボロ道場再建」・創作ルポ連載

3.  読むこと → テキスト『菜の花』・『空中ブランコ』

4.  書くこと → 提出課題「第9条について」「車内観察」

車窓観察   NHKBS「世界の街角」プノンペンを歩くに想う

5月×日 何気なくテレビを見ていたら「世界の街角」という番組がはじまった。人の目線に固定したカメラが街の観光名所や通り、街の人たちの生活ぶりを映しながら、ときには話しかけたりして、歩調速度で進んでいく。居ながらにして世界の街を歩いた気分にさせる人気番組である。が、近ごろこういった番組は、多くなった。マンネリ化もしている。で、見るのは気分しだいだ。このときはチャンネルを変えようとした。が、手をとめた。
「きょうはプノンペンの街を歩きます」と言ったからだ。この街の名を聞くと、なつかしくもあるが、どこか重苦しい気持ちになる。そうして、この街がいまはどんなになったか、怖いもの見たさで見てみたくもなる。
もう46年も前になろうか。1968年から69年にかけて私は、プノンペンにいた。そのころのカンボジアは、シアヌーク殿下の統治下にあった。王制独裁社会主義国家で鎖国政策をとる奇妙な国体だったが、東西冷戦のさなかにあって綱渡り的外交と揶揄されながらも、一応の評価は得ていた。1968年といえば隣国ベトナムでは、アメリカ軍と北ベトナム、そしてベトコンが熾烈な戦いをしていた時期である。(アメリカはこの戦いで大勢の若者を死なせたことから、それまでの徴兵制度を廃止した。それにより敗戦も加速した)
だが、プノンペンは平和そのものだった。早朝からにぎわう市場、大通りを走るオートバイやシクロの流れ。象がゆっくり歩いていた。フランス風の街は、掃除が行き届いていてきれいだった。午後のメコンの岸辺。日本橋に吹き寄せる涼しい河風。夕涼みの人々。おしゃべりと笑いが尽きない静かな夜は、永遠につづきそうだった。あのとき、誰が予想できただろうか。その後、この国に怒ったあの恐ろしい出来事を…。一夜にして100万人都市が消え、僅か三年余りに200万余の国民が惨殺された。あの忌まわしいホロコーストが繰り返された。あの微笑みの国が「なぜ」その謎は、永遠に解けない。そんな気がしていた。ところが先日、市立図書館で、こんな本を見つけた。舟越美夏著『人はなぜ 人を殺したのか』(毎日新聞社2013)、「ポル・ポト派、語る」で、少し謎は解けた。(編集室)

tumblr_n5wa85HJXj1st5lhmo1_1280

5・12ゼミ報告   参加希望者は4名(5月12日現在)

5・12参加者 → 西尾智音さん (ゼミ誌ガイダンスの件)

ゼミ説明 → 目標の再確認

確認、「読むこと」「書くこと」の習慣化、日常化を身につけ「観察力」を培う。

新聞評「集団的自衛権」について → 朝日・読売「社説」の比較

読売新聞 → 集団的自衛権で抑止力高めよ 解釈変更は立憲主義に反しない

「日本を巡る状況は様変わりした。とくに近年、安全保障環境は悪化するばかりだ。米国の力が相対的に低下する中、北朝鮮は核兵器や弾道ミサイルの開発を継続し、中国が急速に軍備を増強して海洋進出を図っている。領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るため、防衛力を整備し、米国との同盟関係を強化することが急務である。」

朝日新聞(社説) → 平和主義の要を壊すな
本質は他子九の防衛  行政府への抑止なく 憲法を取り上げるな

「いまの議論が、日本の安全を書く実にしたいという思いからきていることはわかる。ならば一足飛びに憲法にふれるのではなく、個々の条件に必要な法整備は何かという点から議論を重ねるべきではないか。仮に政策的、軍事的合理性があったとしても、解釈変更で憲法をねじ曲げていいという理由にはならない。」

5・19ゼミ
■5月15日(木)夕方6時、安倍首相は、集団的自衛権を合法化するため、記者会見を開き説明した。安部首相の言い分はこうだ。

・世界には1800万人の日本人がいる。予期せぬ有事の場合、今の法律では、彼らを守ることができない。
・同盟国が攻撃されても、手助けができない。

5月16日の朝刊各紙の見出しはこのようである。対立する意見

朝日新聞 → 集団的自衛権行使へ検討 首相が「基本的方向性」
専守防衛、大きく転換
他国のために自衛隊の武力を使う集団的自衛権の行使に向けて踏み出した。
【社説】→ 戦争に最小限はない

読売新聞 → 集団自衛権 限定容認へ協議 憲法解釈見直し
来月閣議決定目指す
【社説】 → 日本存立へ講師「限定容認」せよ
グレーゾーン事態法制も重要だ

■DVD観賞 2002年6月~7月3回 日本テレビ放映0:30~0:55 「パワーバンク」番組「オンボロ道場再建」朝日新聞『声』欄の投書がきっかけ
―――――――――――――――――― 3 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.238

日本テレビ放映「オンボロ道場再建」まで

創作ルポ 回想とドキュメントを混ぜて物語風ルポタージュにする

オンボロ道場太平記

近年、町道場は激減している。この物語は、オンボロながら三十年近く町道場の灯を守りつづけた記録である。
大雪被害で風前の灯

一月×日

目を覚ますと、私はすぐに窓を開けて外をみた。昨夜、テレビの天気予報が関東地方に大雪注意報をだしていた。はたして団地の五階から見る外の風景は、白一色の雪景色だった。昨夜遅く降り出したのか、相当に積っていた。そうして、いまも視界がきかぬほど、こんこんと降りしきっている。大きな牡丹雪だった。一気に不安になった。
「まずい、道場がつぶれる ! 」
私は、思わず叫んで飛び起きた。
そして、急いで着替えると、ジャンパーをひっかけ雪の中に飛び出していった。家族のものは、布団の中から何事かと寝ぼけ顔で見送っていた。
町道場は、自転車で、七、八分、徒歩で十数分の距離にある。いつもは自転車だが、雪が二十㌢近く積もっていて、歩いて行く他なかった。
休日で早朝の、しかも大雪の住宅街は、森閑として無人の街のようだった。雪だけが、あとからあとから降りつづいていた。本当に大雪のようだ。
私は、人も車も通った形跡のない路地を、傘の雪を払いながら夢中で進んだ。慣れぬ雪に歩くのが困難で、一足一足がもどかしかった。
歩きながら私は、「こんなに降っては、もうダメかも」と、絶望的な気持ちになっていた。私の町道場は、このところ老朽化がすすみ、雨が降っても風が吹いても心配ばかりしていた。角を曲がると二階建て民家の間に挟まれた木造平屋建ての町道場が見えてきた。道場は、降りしきる雪のなかで懸命に建っていた。その姿に、思わず感動した。
「大丈夫だった。つぶれていなかった!」私は、足を速めた。
だが、道場の中に入って愕然とした。道場内は、廃屋同然だった。天井が、トタン屋根に降り積もった雪の重みで破損し垂れ下がり、あちこちから雪解け水がまるで雨のように降り落ちていた。壁のベニヤ板は膨らんだり、ねじれたりしていて破損カ所から雪が吹きこんでいた。道場は、まさに風前の灯だった。
惨憺たる光景に私は、なすすべもなく佇んでいた。暫くして、私は、我に返った。これ以上積もったら、確実に道場はつぶれる。不意にそんな恐怖に襲われた。こうしてはいられない。なにか手を打たなければ――私は、急いた気持ちになった。が、なにをしてよいかわからなかった。とりあえずバケツを雨漏りの下に置いて回っていたが
「そうだ、屋根の雪をおろそう」そんな考えがひらめいて外に飛び出した。
しかし、梯子を引き出したが、どこにかけていいのかわからなかった。道場は敷地いっぱいに建てられていて、隣家の裏庭からでないと梯子をかけられなかった。老夫婦が住んでいたが、挨拶ていどの付き合いしかなかった。主人は、昔、工事現場監督をしていたという、うるさそうなオヤジだった。が、背に腹は代えられない。逡巡しながら、
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.238 ―――――――― 4 ―――――――――――――

隣家に行ってチャイムを押した。でてきた主人は、開口一番
「雪だろ」と、乱暴に言った。そして「かまわねえ、入って早くおろしな。つぶれたら、稽古できなくなる。そしたらこどもらが困る」
すべてお見通しといった顔だった。私は、何度も礼を言って庭に入った。人情に触れた思いがしてうれしかった。はしごをかけて一番上まで登ってみると、トタン屋根の上は厚い雪原となっていた。すでに中ほどは重さでか凹んでいた。屋根に上がったら最後、ペシャンといくに違いないと思った。仕方なく、物干し竿で作った雪かきで梯子にのぼったまま屋根の雪をかきおろすことにした。
案外、うまくいった。全部は無理だが、屋根の負担を軽減することはできた。私は、梯子を横にずらしながら屋根の雪をおろしていった。しかし雪は、一向にやみそうになかった。後から後から降ってくる。雪おろしは、まったく無駄な抵抗のように思えた。軍手の中の手は、感覚なかった。が、私は、やめなかった。他に雪から道場をまもる方法を思いつかなかった。私は、ただひたすら黙々と機械的に腕を動かしていた。どれだけ過ぎたろうか。
不意に下で呼ぶ声がした。見下ろすと息子の良太が立っていた。
「おう、手伝いにきたのか」
私は、うれしそうに言った。二人でやれば、もっと雪が下ろせるかも知れないと思った。
「母さんが、もうやめろと言ってた」良太は、怒り口調で言った。「やるなら、雪がやむのを待てってやれって」
「バカいえ!待ってたらぶっつぶれちまう」私は、怒鳴った。「ちょつと、はしご抑えてろ」私は、言って体をのばしてより遠くの雪をかき寄せた。
「オヤジ、危ないよ」良太は、言いながら渋々、はしごを押さえた。
そのあと私と良太は、交代で屋根の雪を黙々とかきつづけた。手が疲れてくると私がおりて、良太が昇って雪をかいた。
しばらくして、今日は、息子にとって重大な日だったことにはたと気がついた。大雪騒動ですっかり忘れていた。
「そうだ!今日は、成人式じゃないか !」私は、大声で言った。
「そうなんだけど・・・知らんかった」良太は、あきれ声で言った。
「忘れてた」私は、あわてて言った。「もういい時間、まだ間に合うんだろ」
「うん、まあ、昼からだから」
「そんなら早く行け」
「うん、じゃあ、おれ、行くから」良太は、あっさりそう言うと、雪の中に消えていった。遠くからもう一度
「ほんと、もうやめとけ」と、声がした。
成人式は、市の綜合体育館アリーナで開かれると聞いていた。息子にとって記念すべき日だが、えらい日になってしまった。普通なら今晩は、家族でお祝いを――そんなことを考えるところだが、このときは、そんな考え一つも思い浮かばなかった。
一人になった私は、なおも屋根の雪をおろしつづけた。雪は、容赦なく降り続いていた。もう道場は潰れるしかない。わたしは半ばあきらめて手を止めた。そうしてぼんやり目の前の雪をながめた。なんだって、こんなことをやっているんだろう・・・そんなことを思いながら脳裏に道場での今日までのことが、次々浮かんでは消えた。

―――――――――――――――――― 5 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.238

息子の入門
四月×日

たとえば野球好きの父親が、子どもに野球をやらせるように。サッカー好きの父親が、子どもにサッカーをやらせるように、父親は、自分がやったスポーツを息子にやらせたがる。私もその例にもれなかった。
この日、息子の良太が小学一年生になった。入学式が終った後、家族全員四人で柔道の道場に向かった。
我が家は半年前、郊外のこの町に東京から越してきた。先日、家族全員で散歩がてら近くにある市役所支所に行った。帰り道、まったくの偶然に町道場を見つけた。私鉄のガード下をくぐって坂道を下ると四つ辻の路地。角の二階建ての民家の向こうに物置小屋同然の平屋建てがあった。色あせた青色の古びたトタンで囲っただけのみすぼらしい木造の建物だった。周囲の住宅とあまりに違うので怪しく思い
「こんなところに、なんだろう」
と、近づいてみた。
埃にまみれたガラス戸の玄関脇に、ほとんどかすれているが
【講道館柔道練習所】〈望月道場〉
と書かれた二つの板看板が掛っていた。
「へーこんなところに、柔道の道場がある」
私は、感激して、埃っぽいガラス窓を覗きこんだ。
中は薄暗く空っぽの倉庫のようだった。右手の中壁に小さな明かりとり窓があり、そこから光が差し込んでいた。窓は、そこだけのようだ。床に三十畳ばかり畳が敷き詰めてあった。それで、たしかに柔道場とわかった。町道場を目にするのは、珍しかった。
「うん、ほんとうに柔道の道場だ」
私は、おもわず叫んだ。柔道は、大学時代にやっていたし、講道館にもときどき通っていたのでなつかしかった。それで思わず良太に
「柔道、やってみるか」と、聞いた。
「うん」良太は、すぐに返事した。そして確認するように「そのかわりスイミングには行かないよ」と、言った。
良太は、運動が苦手で、とくに水泳が大の苦手としていたので小学校に入ったら駅前にあるスイミングスクールに通わせようと話していた。すぐに返事したのは、どうせ通ううなら水より畳の方がまし、と思ったようだ。
そんなわけで、入学式が終わると、気の変わらぬうちに入門させようと、家族総出で連れてきたのである。道場に着くと、妹のモモが、真っ先にのぞきこんで知らせた。
「だれもいないみたい。なか、くらいよ」
「稽古は夕方からだ」私は、言って玄関脇に貼ってある紙を指差した。
【御用のある方は、自宅まで】
と書いてあった。下に略図もあった。
「この前、みておいた」私は、自慢そうに言って、先頭に立って歩き出した。「自宅は、すぐそこにある」
どうしても良太に運動をさせたい理由があった。良太は、生まれてすぐ白血球減少症という病名を告げられた。担当の女医は、「病気にかかったら、まず助からない」とま
で言った。風邪はむろんケガをしても命にかかわるという。私と妻の康子は、覚悟を決め日々の健康状態に一喜一憂した。ケガをしないように気をつけた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.238 ―――――――― 6 ―――――――――――――

幸いにして良太は、その後たいした病気もせず成長した。白血球も、調べるたびに増えいって、いつのまにか正常値を保つようになっていた。それで、小学校に入ったら何か運動を、そう思っていたのだ。
道場主の家は近くにあった。表札に望月由太郎とあった。いかにも柔道家らしい名前だった。玄関を開けると、小柄なお婆さんが前かがみで出てきた。道場主の母親。そんなふうにみえた。
「柔道のことで」と用件を告げると老婆は家の中に向かって
「先生、先生」と、呼んだ。
「おーい」という返事がした。
わりと大きな声だった。がっしりした柔道家を想像した。
老婆と入れ替わりに現れたのは、小柄なお年寄りだった。白髪で、耳だけがやけに大きかった。多分、老婆の夫で道場主の父親だろうと思った。ところが老人は、玄関にどっかと座り込むと大きなギョロ目で見据えて
「入門ですか」と、聞いた。
(後で知ったことだが、左目は戦争で負傷してギョロ目は、義眼だった。)
老人は道場主の望月由太郎先生だった。かなりのお歳にみえた。これも後で知ったことだが、このとき先生は七十七歳だった。柔道は、できるのだろうか。失礼ながら会ったはじめにそんな心配がよぎった。が、現在、小学生は十人くらい通っているとのこと。
望月先生は、小柄ながら言語明瞭でお元気そうだった。しかし、どうみても現役の柔道家の印象はなかった。
が、とにかく入門の手続きをすませ、先生宅を後にした。帰りに、もう一度、道場をのぞきこんだ。
「ほんとうに大丈夫かしら」
康子は、笑いながら言った。柔道のことは、まったく知らないが、望月先生がお年寄りだったので安心したようだった。
私は、なんと答えてよいかわからず、
「年寄りだって、できるさ…」と、口ごもった。
本当に柔道を指導できているのだろうか。そんな疑念もわいたが、とにかく通わせてみようと思った。
決まったらなんだか妙に腹が空いてきた。私たち一家は、昼を食べにラーメン店に向かった。

五月×日
ふたたび柔道をはじめた日

息子が入門して一カ月が過ぎた。私は、迎えがてら子どもたちの稽古風景を見物するのを日課にしていた。望月先生は、厳しく教えていた。礼儀もうるさいほどだった。が、よくみていると子どもたちは、先生の目を盗んでふざけあっていた。言葉だけの指導がおもしろくないようだ。息子も
「注意ばっかりしてるよ」と、不満そうに話す。
他の迎えの親たちは、ご高齢だからとあきらめ顔でながめていた。
そんなことから、私は一緒にやってみようと、思った。大人が入れば子どもたちも違ってくるかも。それになによりも、私も見ているだけでは、あきたらなくなっていた。健康のためにも、柔道をはじめてみよう。そんな気になっていた。しかし、一度やめた柔道。なかなか腰があがらなかった。が、今日、思い切って自分の柔道着を押し入れからだしてきた。道場に入って着替えていると、子どもたちが、珍しそうに集まってきて口ぐちに質問した。

「おじさん、柔道できるの」
「わざは知ってるの」
「投げたことあるの」
「強いの」
柔道着の袖に腕を通した。最後に講道館で稽古してから五年ぶりだった。黒帯を締めると、子どもたちは珍しそうに、触ったり引っ張ったりした。望月先生は赤白帯だったので、黒帯を見たことがなかったようだ。望月先生がきたので
「子どもたちと一緒にやりますから」と、言った。
「あ、そうですか。経験あったんですか」先生は、ちょつと驚いたふうに言ってから「よろしくお願いします」と丁寧に白髪頭を下げた。ほっとしたようにみえた。
準備体操のあと、受け身練習がはじまった。私は、子どもたちの列に並んで望月先生の号令に合わせてドン、バタンと後受け身や横受け身をした。子どもたちは、気になるらしく、こうやって畳をたたくのだとか、足は、こうやるのだとか、寄ってきて教えてくれた。大人と一緒にやるのがよほどうれしいようだ。
身体が慣れてきたので、私は、回り受け身をやってみせた。何年ぶりだったが、うまくできた。子どもたちは、歓声をあげた。気をよくした私は、昔取った杵柄で、飛び込み受身をやってみせた。こんどもうまくできた。畳をたたく音が大きく響いて、子どもたちは、目を白黒させた。はじめて見る大胆な受け身に子どもたちは、大満足のようだった。帰り際、望月先生は、近づいてきて
「まだまだ、やれそうだね」と、笑顔で言った。「これからも、お願いします月謝はいりませんから」
「そうですか、じゃあ、できるときには」私は、頷いた。なにかすっきりした気持ちだった。私は、もう一度柔道をはじめることにした。昭和59年の5月のことである。

私と柔道
×月×日

高齢の道場主に代わって柔道を――いらぬ節介から、私は息子が入門した柔道の町道場で子どもたちと一緒に柔道をはじめることになった。
しかし、私の柔道歴は、心もとないものだった。私は、内気で運動が苦手な子どもだった。が、ヒーローは、忍者の猿飛佐助だった。
私が、はじめて柔道という言葉を知ったのは、そのころ国民的に人気のあったプロレス中継からだったと思う。熱狂のアナウンサーが、「この選手は柔道経験があります」とか、「これは、柔道技です」などと叫んでいるのを見ていて興味を覚えた。小さい人が大きな外国人レスラーを投げる。柔道を習ってみたくなった。
しかし、私の郷里は、木曽山脈の山ふところにある山村。柔道を知る人は、私が知る限りたった一人しかいなかった。噂だが昔、柔道家だったというのは、宿場町の豆腐屋の主人だった。彼は、毎朝夕、自転車でラッパを鳴らして村の端からはしに豆腐を売って回っていた。お相撲さんのように大きな体をしていたが、温和な人柄で「なしの屋の鉄さ」と呼ばれ村人から親しまれていた。後で知ったことだが、彼は、戦前は、満蒙開拓団として満州に行っていた。帰国後は、村にある梨の山に開拓者として入植していた。それで「なしの屋」と呼ばれていたようだ。
このなしの屋の鉄さが、むかし東京にいたとき講道館で柔道をやっていたという。いつもにこにこしていたが、名古屋で暴漢を投げ飛ばしたという武勇伝もあって、私は、ひそかに尊敬していた。そんなことから、豆腐売りのラッパを聞くたびに、いつか柔道を、習ってみたいと思うようになっていた。だが、信州の山奥では、その夢は叶わなかった。村には、柔道の道場はなかったし、中学校にも、高校にも柔道部はなかった。

私は昭和四十年、日本大学農獣医学部(現生物資源科学部)に入学した。そのとき同学部の柔道部に入部した。柔道は、長年の夢だったが、初心者だったので私を知るだれもが驚いた。心配する声もあった。と、いうのは、前年に、東京農業大学のワンダーホーゲル部でしごき殺人事件があり、大学の運動部は恐ろしいところと思われていた。が、私には、どこ吹く風だった。そのころ冨田常雄の『姿三四郎』に憧れていたこともあったが、実際に背中を強く押したのは、題名は忘れたが前年テレビ放映されていた青春熱血ドラマの影響もあった。大学の柔道部員たちが主人公だった。

昨日、見つけた机の端に、
誰が書いたか三つの言葉、
真理、人生、ああ青春・・・

たしかこんな歌詞だった。私は、この主題歌が気にいっていて、大学に入ったら、絶対、柔道部に入ろうと思っていた。長年の夢叶ったわけだが、入部した新入生は、柔道経験者ばかりだった。私は、一からはじめるために藤沢市内にあった町道場、石井道場に入門した。教養課程は、藤沢校舎だったので、私は、その町に住んでいた。夜間日本石油のガソリンスタンドでバイトをしながら受身を練習した。そんなわけで最初に柔道を習ったのは、町道場ということになる。私と町道場は縁がある。奇縁である。
大学の道場では、同じ一年生にぽんぽん投げられた。彼らは、高校の柔道部で鍛えられたものばかりだった。
「きみなら、目をつむってても、片手でも投げれるよ」
と、からかわれたものだ。そして、実際に人形のように簡単に投げられた。そのかわり、ちょつとでも手こずらしたら、私が強くなった証拠。彼らの本気度が私の柔道の上達度だった。
一番最初の試合は、水道橋にある経済学部の道場で行われた学部対抗試合だった。歯学部四年生と当り、寝技で一本負けした。最初の勝ち試合は、西部新宿線にある野方警察学校との試合だった。背負いで一本勝ちした。大学で稽古しながら竹橋にある毎日新聞社でバイトした。守衛さんに誘われて新聞社の柔道クラブに所属して丸の内警察の道場で稽古した。いろんな大会に出たが、七割方、負け試合だった。
大学三年の夏、学園紛争で、校舎は占拠され授業ができなくなった。私は、柔道着ひとつ持って日本を飛び出した。柔道が盛んなフランスに行ってみようという計画だった。ナホトカからシベリヤ鉄道の経過もあったが、船にした。当時、外国旅行は、まだ船が主流だった。『なんでもみてやろう』にはじまって『アデウス日本』『西域潜行八年』など日本脱出本がベストセラーになっていた。
一九六八年の夏、私は、横浜メリケン波止場からマルセーユ、横浜間の定期貨客船「ラオス号」一万三千㌧に乗船した。船には、いろんな国の若者が乗船していた。
柔道修業から帰国するスイス人青年、アメリカ人のヒッピー、自転車で世界一周を目指す日本人の若者などなど。ほとんどが着の身着のままの無銭旅行だった。この時代、1ドル365円で国外持ち出し金は10万円までと決まっていた。
途中、大学の先生から紹介された人を、カンボジアのプノンペンに訪ねた。当時、カンボジアはシアヌーク殿下が統治する独裁社会主義国で鎖国政策をとっていて、入国は飛行機でしか手段がなかった。が、その珍しさから寄ってみたい気持ちになった。

紹介された人は、元高崎経済大学長の田中精一先生で、カンボジアの政府機関で経済顧問をしていた。私たちは予期せぬ珍客だったが先生夫妻からは、歓待された。カンボジアに住むことをすすめられた。縁は異なもの予定は未定で、私と友人は、プノンペンで暮らすことにした。
当時、王制社会主義で鎖国政策をとっていたカンボジアは、東西冷戦を巧みに利用して国内の安定をはかっていた。しかし、その平和もベトナム戦争激化で、風前の灯だった。が、魅力ある国に見えた。私と友人は、田中先生の紹介で、この国で農業の手伝いをすることにした。行き先はボコールという高原で、日本人家族が入植して農業を営んでいた。驚くことにこの時代、カンボジアは日本人の移民を受け入れていたのだ。
長期ビザの許可を待つあいだ、のんびりプノンペンで過ごした。プノンペンには、講道館から派遣された柔道家が一人いた。警察、軍隊、フランス人相手に柔道を教えていた。柔道家のO師範は、豪放磊落な人だったが、大酒飲みが玉に傷だった。メコン岸辺のダンスホールで大トラになって警官を何人も河に投げ込んだという武勇伝をもっていた。南方暮らしにすっかり退屈していて、私が柔道をやるとわかってたいそう喜んだ。夕方になると、私の宿舎にオートバイで迎えにきた。私は、後ろに乗って二人で各道場を回った。プノンペンには、立派な道場が三ヶ所あって、大勢稽古していた。彼らはエリート層でこの国の将来を担う若者たちだった。一緒に稽古した彼らだったが、ポル・ポト時代、ほとんど殺されてしまったと聞く。クーデター騒ぎで私は、一時帰国した。在日カンボジア大使館で、長期ビザもとり、再度のカンボジア入りを待っていた。が、インドシナ情勢は悪化するばかりだった。プノンペンの田中先生宅に爆弾が投げ込まれるなど、不穏な状況になり、先生夫妻は、帰国した。
外国熱も冷めた。気が付くと大学は学費未納だった。戻るか、やめるか迷っているうちに退学となった。しかし,柔道部だけは、卒業扱いで籍を残してくれた。柔道だけが、私を見捨てなかった。
所属をなくしてわかったのは、柔道をつづけるのはむずかしさだった。フリーの人は、講道館で稽古するしかなかった。それで、講道館に通うことにした。週に何日か通ううちに顔見知りもできた。が、はじめのうちは嫌なこともあった。新参者だというので、古参から、稽古を申し込まれた。古参連中は、若いときたいていそれなりの大会の出場経験者でめっぽう強かった。
私が入っていくと、いつものように寄ってきて稽古を申し込まれた。ボス格の、四十歳前後の大きな人だった。胸に刺繍があり実業団の出身者らしかった。私は、ほとんど子ども扱いだった。ポンポン投げられていたが、あるとき不意に汗で足がすべった。
次の瞬間、私の体は、畳の上に仰向けにあった。天井の電気がまぶしかった。一瞬、何が起こったのか、わからなかった。頭を起こしてみると、どうしたことか相手も倒れていた。周囲の皆は、ア然とした顔で佇んでいる。なんだろうと思っていると、相手は、立ちあがって、猛烈な怒り顔で私に突進してきた。私は、なんだろうと立ちあがった。相手は、ものも言わずいきなり足払いをかけてきた。私が倒れても、怒りは収まらず、足をあげて顔面を踏みつけようとする。私は何が何だか分からず、立ちあがって、たずねようとすると、憎々しげに怒鳴った。
「バカ野郎、捨て身わざなんかかけるんじゃねえ」
捨て身技――?! 技で投げられたと思っているんだ。
「かけてませんー」私は、いいかけたが、とっさに説明してもわかってもらえないと思って詫びた。「すみません」
「気をつけろ! 」

彼は興奮から冷めると、急に投げられたのが恥ずかしくなったのか、稽古相手を探しにぶいといってしまった。
あとで考えると、あれは横掛けか浮き技のような技だったのではないかと思う。ただ汗で足がすべって偶然、横すべりになっだだけだが、きれいにかかったようだ。
相手の人は、怒ったことが気になったようだ。あとで
「金曜会にはいらないか」と、誘いがきた。彼らは毎週金曜日にくる者同士、そんな会をつくっていた。私も一人で稽古するよりか仲間になってと思った。が、その後、家庭をもったことで、柔道は、だんだん遠のいていった。
このように私の柔道経験は、頼りないものだった。が、息子の入門で、また柔道着を着ることになって、ふたたび柔道人生がはじまった。

7月×日    観音様とカニ  はじめて「センセイ」と呼ばれる

アパートの前に、大きな黒い乗用車が停まっていた。狭い道路なのに堂々と真ん中にとめてある。新しく越してきた103号室の住人の車だ。どこかに駐車場があって、ときどき乗りつけるのだが、どうもヤーさんぽかったので、皆、敬遠していた。
本当にやくざかどうかは知らないが、よく大声で夫婦げんかしていた。物が割れる音、壁をたたく音が、ときどきアパート中に響き渡って住人を怯えさせた。いつだったか、路地に入ってきた車が、103号室の車が邪魔でクラックションをピーピー鳴らしたことがある。103号室の住人は、部屋にいて、ゆっくりでてきた。四十前後の髪の長い中年男だった。が、なぜか上半身裸だった。へんな奴とおもいながら、みていると、背中が見えた。なんと大きな観音様の刺青が青一色で背中いっぱいに描かれていた。やっぱりやくざ者かと確信した。103号室は、なにをするわけでもなく、ゆっくり歩いていって自分の黒い車のドアをあけただけだった。が、背中をばっちり運転手に向けていた。クラックションを鳴らした車は、逃げるようにバックで、後戻りして行った。
やっぱりやくざだ。アパートの住人たちは、不安がった。私は、ちょうど近くの団地に空き部屋が補欠であたり、引っ越すことになっていたので、ほっとした。が、なるべく廊下や前庭でぱったりあわないように気をつけていた。
それが、今日、道場に行こうとして、外にでたら黒い乗用車が目に入った。まずい、出ていってからにしよう。私は、部屋に戻った。が、なかなか車は発車しない。良太の宿題も、終わりそうだ。しかたなく、自転車置き場から自転車をだした。幸いまだ出てきていない。このスキにと、家にいる良太を呼ばろうとした。
そのとき、背後で車のドアの閉じる音がした。イヤな予感がした。そっと振り向いて見ると、黒い背広姿の103号が、こちらに向かって歩いてくるではないか。何かインネンを !
とっさにそんな恐怖が走った。私は、良太を呼ぶふりをして自宅に向かって早足で歩きだした。とたん背後に駆ける足音を聞いた。マズイ、ほんとうだ。
私は、小走りになった。
「センセイ、せんせい」
背中に、そんな声を聞いた。
しかたなく足をとめて振り返った。103号が追いついて立っていた。細面の目が鋭い、みるからにヤーさんぽい。自転車で車体をこすられた。子どもが石をぶっつけた。そんないいがかりかも、一瞬、トリ肌になって体がこわばった。が、観念した。
私は、勇気をふりしぼって
「なんでしょう」と、言いかけた。
ところが、その前に103号は、何か入ったビニール袋をぐいと私の前に差し出して、言った。
―――――――――――――――――― 11 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.238

「せんせい。これカニじゃけ、いっぱいもらったけん。食べてみてくれ」そう言って渡すとさっさと車の方に帰っていった。そして、すぐにエンジンをかけて行ってしまった。
私は。ぽかんとして見送っていたが、あとで考えると103号室は、車のなかで私がでてくるのを待っていたのかも知れない、と思った。
103号室は、私が、高齢の望月先生に代わって師範代になったことを知っていた。どこで知ったか、私は知らない。が、道場以外で、「せんせい」と呼ばれた最初の日だった。
何年かして、駅の改札で、偶然103号室に会ったことがある。そのとき103は夫婦連れで、小さな男の子どもを連れていた。そして、うれしそうに
「先生、これわしの子どもじゃけん」と、紹介した。
幸せそうに人混みのなかに去っていく3人の後姿を見送りながら、私は、不意に思った。103号も、子どものころ、きっと柔道をやっていたのだ。それに違いない、と。
人の心をなつかしがらせるもの、つなげるもの。柔道には、そんなところがある。師範代を引き受けてよかった、なんでもないきっかけだが、そんなことを思った。

二人の高校生
6月×日

このあいだ久しぶりに背広を着て電車に乗った。乗車時間だけを考えていて徒歩が抜けていた。で、時間がない。新宿駅に降りると都庁に向かって走った。新しい都知事青島幸男の記者会見がはじまってしまう。ぎりぎりだ。青島幸男が都知事になったので、友人が応援の月刊誌を創刊した。徒手空拳で組織政党に勝ったところが気にいっての勝手連だという。私は編集委員として手伝うことにした。手始めの取材だった。なんとか間に合った。その後、ゴミ問題、新宿駅西口のホームレス騒動などで走り回った。
そんなわけで、道場からは、足が遠くなっていた。望月先生は、相変わらず怒っていた。私に、ずっと師範代をやって欲しかったようだが、そうもゆかなかった。
雑誌の特集記事も終わり落ち着いたので、久しぶりに道場に顔を出した。柔道着をふたたび着て、子どもたちと柔道をはじめてから十一年の歳月が流れていた。息子の良太は、高校の柔道部に入ったため、道場には、たまにしか来なくなっていた。半年留守したら通う子どもが、すっかり減っていた。
日本の柔道人口は二十万人、フランスは七十万人。この数字が示すように、いまや日本の柔道は世界において後進国になりつつある。町道場の衰退も比例しているようだ。
がらんとした道場で二人の若者がプロレスごっこをしていた。私が休んでいるとき入門した高校生らしかった。二人は、私をみると照れくさそうに
「清水です」
「宮澤です」
と、挨拶した。
清水君は、一八十センチ以上はありそうなノッポ。宮澤君は、中背だが、鍛えた体だ。
二人は、高校二年生で、清水君は野球部だったが退部した。理由は、先輩との人間関係で、相手を殴ってやめた。宮澤君は、学校は違う幼友達。空手の道場に通っていたが、清水君が柔道をやってみたいというので、一緒にやることにしたという。
この二人をこれまで高齢の望月由太郎先生が指導していたわけだが、高校生は無理だったようだ。仕方なく二人は、プロレスごっこをしていた。やっと大人がきて相手をしてもらえるとうれしそうだった。逆立ちやバックテンして私が着替えるのを待っていた。私が準備体操をすませると
「お願いします」と、いきなり前に立った。すぐに乱取をやりたいというのだ。
「柔道の経験は、」
私は、苦笑して聞いた。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.238 ―――――――― 12 ――――――――――――――

「あります」と元気にこたえた。「体育の時間ですけど」
「授業で ?! 」
私は戸惑って聞いた。
「はい、でもふつうにできます」
ノッポ君は、プロレスごっこができるから柔道もできる。そんなふうに思っているようだった。
私は、一瞬どうしようか迷ったが、勇んでいるノッポ君に受け身だの打込みだのといってもはじまらない。ここは、柔道がどんなものか、みせてやるほかない、と思った。ノッポ君は、一六四㌢の私より二十㌢も大きくて力もありそうだった。
が、相手をするのに初心者ほど楽なものはない。
二人を代わる代わるぽんぽんと投げてやった。二人は、体が大きい自分たちが小柄なおっさんに、苦もなく投げられるのが納得いかなかったようだ。なんどもきたが、そのうち息がきれて動けなくなってしまった。
「受け身が上手になると、しぜん柔道もうまくなるよ」
私は、笑って言った。そうして、複雑そうな顔で立っている
練習を終えて、玄関をでると、二人が外で待っていて、
「柔道、教えてください」
ノッポの清水君は、野球部を退部して他にすることがないからと入門してきた。ヤセの宮澤君は、通っていた空手道場が面白くないからと入門してきた。
「お願いします」
と頭を下げる。
私は、困惑した。雑誌の編集手伝いもあったが、それよりもっと大きな問題があった。康子が、病気になってしまったのだ。乳がんである。
つづく

掲示板

◇募集 平成26年度「児童虐待防止推進月間」標語募集
電子メール又は〒はがきに1作品。
メール:jidou.hyougo@city.wakayama.lg.jp 「票語の応募」
郵送 〒640-8043 和歌山市福町40
「和歌山市こども総合支援センター」標語募集担当 宛 6月10日締切

お知らせ  ドストエフスキー全作品を読む読書会
6月28日(土)池袋 東京芸術劇場小会議室7 午後1時半~5時迄。
作品『地下生活者の手記』2回目 参加学生500円(ゼミ生は無料)詳細は、編集室まで。

・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・

○創作、エッセイ、評論、など書けた人は「下原ゼミ通信」にお寄せください。いつでも歓迎です。〒かメール、手渡しでも。

□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室
メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net 09027646052

2014・5・12
課題1. 「第9条について」       名前

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
課題2.テキスト感想「菜の花と小娘」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
課題3.「車内観察」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

第一回テキスト読み『菜の花と小娘』

本作品は『志賀直哉全集』岩波書店を編集室にて全文現代よみに変換しました。

菜の花と小娘
志賀直哉
或る晴れた静かな春の日の午後でした。一人の小娘が山で枯れ枝を拾っていました。
やがて、夕日が新緑の薄い木の葉を透かして赤々と見られる頃になると、小娘は集めた小枝を小さい草原に持ち出して、そこで自分の背負ってきた荒い目籠に詰めはじめました。
ふと、小娘は誰かに自分が呼ばれたような気がしました。
「ええ?」
小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しましたが、そこには誰の姿も見えませんでした。
「私を呼ぶのは誰?」
小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢張り答えるものはありませんでした。
小娘は二三度そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本わずかに首を出している小さな菜の花でした。
小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいで、顔の汗を拭きながら、
「お前、こんなところで、よくさびしくないのね」
と言いました。
「さびしいわ」
と菜の花は親しげに答えました。
「そんならならなぜ来たのさ」
小娘は叱りでもするような調子で言いました。
菜の花は、
「ひばりの胸毛に着いてきた種がここでこぼれたのよ。困るわ」と悲しげに答えました。
そして、どうか私をお仲間の多い麓の村へ連れていってくださいと頼みました。
小娘は可哀そうに思いました。小娘は菜の花の願いをかなえてやろうと考えました。そして静かにそれを根から抜いてやりました。そしてそれを手に持って、山路を村の方へと下って行きました。
路にそって清い小さな流れが、水音をたてて流れていました。しばらくすると、
「あなたの手は随分、ほてるのね」と菜の花は言いました。「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ」と言って、うなだれた首を小娘の歩調に合せ、力なく振っていました。
小娘は、ちょっと当惑しました。
しかし小娘には図らず、いい考えが浮かびました。小娘は身軽く道端にしゃがんで、黙って菜の花の根を流れへ浸してやりました。
「まあ!」
菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。すると、小娘は宣告するように、
「このまま流れて行くのよ」と言いました。
菜の花は不安そうに首を振りました。そして、
「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。
「心配しなくてもいいのよ」そう言いながら、早くも小娘は流れの表面で、持っていた菜の花を離してしまいました。菜の花は、
「恐いは、恐いわ」と流れの水にさらわれながら見る見る小娘から遠くなるのを恐ろしそうに叫びました。が、小娘は黙って両手を後へ回し、背で跳ねる目カゴをえながら、駆けてきます。
菜の花は安心しました。そして、さもうれしそうに水面から小娘を見上げて、何かと話かけるのでした。
どこからともなく気軽なきいろ蝶が飛んできました。そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。菜の花はそれも大変うれしがりました。しかしきいろ蝶は、せっかちで、
移り気でしたから、いつかまたどこかえ飛んでいってしまいました。
菜の花は小娘の鼻の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。
「今度はあなたが苦しいわ」
と菜の花は心配そうに言いました。が、小娘はかえって不愛想に、
「心配しなくてもいいのよ」と答えました。
菜の花は、叱られたのかと思って、黙ってしまいました。
間もなく小娘は菜の花の悲鳴に驚かされました。菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。
「まあ、少しそうしてお休み」
小娘は息をはずませながら、そう言って傍らの石に腰をおろしました。
「こんなものに足をからまれて休むのは、気持が悪いわ」菜の花は尚しきりにイヤイヤをしていました。
「それで、いいのよ」小娘は言いました。
「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸あげてください。どうか」と菜の花は頼みましたが、小娘は、
「いいのよ」
と笑って取り合いません。
が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。
少しきたところで、
「やはりあなたが苦しいわ」
と菜の花はこわごわ言いました。
「何でもないのよ」と小娘はやさしく答えて、そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間先を駆けて行くことにしました。
麓の村が見えてきました。小娘は、
「もうすぐよ」と声をかけました。
「そう」と、後ろで菜の花が答えました。
しばらく話は絶えました。ただ流れの音にまじって、バタバタ、バタバタ、と小娘の草履で走る足音が聞こえていました。
チャポーンという水音が小娘の足元でしました。菜の花は死にそうな悲鳴をあげました。小娘は驚いて立ち止まりました。見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、
「早く速く」と延びあがっています。小娘は急いで引き上げてやりました。
「どうしたのよ」
小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しました。
「あなたの足元から何か飛び込んだの」と菜の花は動悸がするので、言葉をきりました。
「いぼ蛙なのよ。一度もぐって不意に私の顔の前に浮かび上がったのよ。口の尖った意地の悪そうな、あの河童のような顔に、もう少しで、私は頬っぺたをぶつけるところでしたわ」と言いました。
小娘は大きな声をして笑いました。
「笑い事じゃあ、ないわ」と菜の花はうらめしそうに言いました。「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ」こう言って菜の花も笑いました。間もなく村へ着きました。
小娘は早速自分の家の菜畑に一緒にそれを植えてやりました。
そこは山の雑草の中とはちがって土がよく肥えておりました。菜の花はドンドン延びました。そうして、今は多勢の仲間と仕合せに暮す身となりました。

この作品は、明治39年(1906)4月2日、作者が千葉県鹿野山にて執筆した草稿「花ちゃん」を我孫子時代に改題、改稿し、大正9年(1920)1月1日発行の『金の船』に掲載。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

志賀直哉(1883-1973)の主な観察作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『菜の花と小娘』23歳
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
○犯罪心理観察作品として『児を盗む話』1914年(大正3年)4月『白樺』第5巻4
号にて発表。31歳。
○電車関連作品として『城の崎にて』1917年(大正6年)5月『白樺』第8巻第5号。
34歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。

シェアありがとうございます

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket

コメントを残す

PAGE TOP ↑