文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.239
日本大学藝術学部文芸学科 2014年(平成26年)5月26日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.239
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
編集発行人 下原敏彦
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2014年、読書と創作の旅への誘い
5・26下原ゼミ
5月26日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室
1. 2014年のゼミ → 5・19ゼミ報告・連絡ゼミ誌ガイダンス
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車窓観察 人間の謎 なぜ振り込め詐欺はなくならないか
どうにもわからないのが「振り込め詐欺」である。年間300億円近くものお金が、被害として届けられている。日本中で1日平均1億何百万円が被害にあっているという。ちなみに私が住む船橋市では、平成25年に発生した「振り込め詐欺」事件は78件。その被害総額は、なんと2億円。昨年1億500万円の2倍と増加しているとのこと。
人は、なぜ怪しい話を電話一本で信じ、大金を振り込んだり手渡したりしてしまうのか。被害にあう人は、きっとお人好しの人、すぐ人を信じてしまう人と思う所だ。が、耳にした話では、そうではないらしい。「自分は、絶対に騙されない」「騙される人は、馬鹿だ」そう堅固に思っている人が、ひっかかるらしい。一度ならず二度三度と騙される。
どのような手口で ? 新聞、テレビのニュースなどで見たりきいたりして知った、犯罪手口は、およそこのようなものであった。
・山梨県の実家に息子から電話があった。母親がでると、息子は「会社の書類をなくしてしまった」と言う。ついては「1千万円、先に必要」という。母親は、山梨でお金を下ろし中央線で東京にでてきた。新宿駅東口の公園で、会社の人間と名乗る男に渡した。この間、まったく疑うことはなかった。携帯で息子に電話してはじめて詐欺とわかった。
・母親のところに息子から電話あった。「女性を妊娠させてしまった。堕すのにお金がいる」。
・税務署から「還付金があります。振り込むのに口座を教えてください」や警察署から、「落とし物が届いています」などなど役所を騙る手口。まさに、浜の真砂は尽きぬとも、である。
それにしても、いずれもちょつと考えれば、ヘンと思うものばかりである。防犯の会で聞くのは、自分に自信があって、なんでも一人で解決しようとする人らしい。
我が家にもかかってきたことがある。朝、遅くの電話。手にとるといきなり
「おれだけど」と言った。おもわず息子の名前をいってしまった。が、「いまどこに」と聞いた。息子はちょつと戸惑って千葉市にいると言った。その瞬間、振り込めだと思った。 (編集室)
5・19ゼミ報告
参加希望者は4名(5月12日現在)
(岩澤・関・村田・西尾)
5・19参加者 → 西尾智音さん 聴講生1
■時評 → 集団的自衛権について
5月16日の朝日・読売朝刊各紙の見出しと概要。
朝日新聞 → 集団的自衛権行使へ検討 首相が「基本的方向性」
専守防衛、大きく転換
他国のために自衛隊の武力を使う集団的自衛権の行使に向けて踏み出した。
【社説】→ 戦争に最小限はない
読売新聞 → 集団自衛権 限定容認へ協議 憲法解釈見直し
来月閣議決定目指す
【社説】 → 日本存立へ行使「限定容認」せよ
グレーゾーン事態法制も重要だ
■DVD観賞 2002年5月20日~6月16日再建完了までの全記録。
日本テレビ放映2002年6月23日(日)、6月30日(日)、7月7日(日)
放映時間0:30~0:55 「パワーバンク」番組「オンボロ道場再建」を見る。
■テキスト読み『菜の花と小娘』 参加者2名で音読
『菜の花と小娘』感想
この作品は、明治39年(1906)4月2日に志賀直哉が23歳のとき千葉県鹿野山(マザー牧場)で書いた「花ちゃん」を、大正9年(1920)37歳のときに改題し『金の船』に掲載したもの。明治37年の日記には、
「作文は菜の花をあんでるせん張りにかく」と、しるしている。
過去・朗読者の感想紹介
・千葉県なので感じがわかる。風景を押さえている。ストーリーに取り入れている。
・電車の中の雰囲気に似ている。菜の花と娘の対話は、母と娘の会話のよう。菜の花と小娘
には、初対面とは思えぬ親しさがある。
・人間同士の会話のようだ。
・花を流す。子供のころやった遊び。疾走感がある。作品のリズムがいい。
・たくましい小娘とナイーブな菜の花。菜の花の横柄さにも不思議とムカつかない。
・ムーミンの世界を彷彿した。などなど。
□のどかな光景、母と娘の会話。親しい人間同士の会話、そんな印象を得た人が多くいました。うららかな春のある日、鹿野山に一人で遊びに行った志賀直哉は、山の斜面一面に咲き乱れる黄色い花畑を見てなにを思ったでしょう。11年前、明治28年、直哉12歳のときに亡くなった母、銀のことを思い出した。母と、ここに来て一緒にこの風景をみれたら、そんな叶わぬ願望が過ぎったかも・・・。
そんなふうに想像するとこの作品が、何かしら悲しくも美しいものに思われます。菜の花と小娘の対話も、無理がない気がします。もしかして母親に送った作品だったのかも。
ともあれ、この作品は作文「菜の花」→「花ちゃん」→小説「菜の花と小娘」のプロセスで完成したことになっています。が、解説では、判定しがたい、とも書かれている。
志賀直哉と菜の花と小娘
菜の花が人間のように会話する。この擬人法は、目新しいものではない。旧くはイソップ物語から使われてきた手法である。こうした擬人小説のほかに志賀直哉は、輪廻転生の話も書いている。仲のよい夫婦がいた。死んだあと、何に生まれ変わるかわからないが、必ずここに来て会いましょう、と誓う。やがて夫婦は死ぬ。どちらかだったか忘れたが、夫婦はニワトリとキツネに生まれ変わった。約束を思い出してその場に行く。が・・・残酷な結末である。もしかして志賀直哉は死後の世界を信じていた、あるいは信じようとしていたのかも知れない。その感覚が、作品の端々に感じる。なぜ、志賀直哉はそんな考えを持ったのか。
3月31日に一人で鹿野山に遊びに行った志賀直哉は、4月11日頃まで山の上から谷底一面に花咲く菜の花を眺めて過した。鹿野山は、今日マザー牧場として有名である。子豚のレース、菜の花畑は観光の目玉となっている。が、当時も菜の花はすばらしかったようだ。
谷間の菜の花畑を眺めながら、春の陽光のなかで直哉が読んでいたのは、最近刊行されたばかりの島崎藤村の『破壊』であった。前年、父直温は総武鉄道株式会社の取締役に就任している。経済的に恵まれ7月に学習院高等科を卒業、9月には東京帝国大学英文科に入学する直哉は、明治維新まで、士農工商という階級社会の中にも入れなかったエタと呼ばれる人たちのことをどれほど知っていただろうか。彼らは、士農工商が廃止された明治になってもその差別のなかで生きていたのだ。主人公の瀬川丑松は24歳。奇しくも直哉と、一つしか違わない歳である。『破壊』は直哉にどんな影響を与えただろうか。
志賀直哉が、なぜ小説を書きつづけて行こうと決心したのか。これまで多くの評論家や読者は、貴族趣味の一点に終始してきた。が、『菜の花と小娘』を再読して編集室は、このように思った。春の鹿野山で直哉は、菜の花に母、銀を重ね、瀬川丑松の人生に義憤した。そうして、決心した。自分は「人類の幸せのために小説を書いて行くのだ」と。
5・26ゼミ 時評・社会・テキスト読み・名作読み
□時評 人間の謎「振込め詐欺はなぜなくならないか」
社会 「人生相談」5月連休が終わり、梅雨に入るこの時期、大学を去る学生が多くいます。友人に、こんな相談をされたら、どんな答えを
□テキスト読み『網走まで』 日光に遊びに行くため上野駅で列車に乗った私、相席は赤ん坊と幼い男の子を連れた母親だった。彼女たちは、北海道の網走というところまで行くという。私は、この親子を観察するが・・・、
志賀直哉(1883-1973)の主な観察作品の紹介
(編集室にて現代漢字に変更)
□『菜の花と小娘』23歳
□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。
□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。
□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。
□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。
□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。
□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.239 ―――――――― 4 ―――――――――――――
テキスト読み ポイント「創作性」・「観察」・「疑問点」
志賀直哉とは何か。この作家を知るためには、いろいろな方法があります。下原ゼミでは、主に車中作品を考察してみます。最初は、処女作の『網走まで』を読んでもらいました。が、一読だけでは解明不十分なので、再読してください。なお、文面は100年前なので編集室で岩波書店『志賀直哉全集』から現代読みにして転載しました。
網走まで
宇都宮の友に、「日光のかえりには是非おじゃまする」といってやったら、「誘ってくれ、ぼくも行くから」という返事を受け取った。
それは8月もひどく暑い時分のことで、自分はとくに午後4時20分の汽車を選んで、とにかくその友の所まで行くことにした。汽車は青森行である。自分が上野へ着いた時には、もう大勢の人が改札口へ集っていた。自分もすぐその仲間へ入って立った。
鈴が鳴って、改札口が開かれた。人々は一度にどよめき立った。鋏の音が繁く聞こえ出す。改札口の手摺りへつかえた手荷物を口を歪めて引っぱる人や、本流からはみだして無理にまた、かえろうとする人や、それを入れまいとする人や、いつもの通りの混雑である。巡査がいやな眼つきで改札人のうしろから客の一人ひとりを見ている。このところを辛うじて出た人々はプラットホームを小走りに急いで、駅夫等の
「先が空いてます、先が空いてます」と叫ぶのも聞かずに、われ先と手近な客車に入りたがる。自分は一番先の客車に乗るつもりで急いだ。
先の客車は案の定空いていた。自分は一番先の車の一番後ろの一ト間に入つた。後ろの客車に乗れなかった連中が追い追いこのところまでも押し寄せてきた。それでも七分しか入つていない。発車の時がせまつた。遠く近く戸をたてる音、そのおさへ金を掛ける音などが聞こえる。自分のいる間の戸を今閉めようとした帽に赤い筋を巻いた駅員が手をあげて、
「こちらへいらっしゃい。こちらへ」と戸を開けて待っている。26、7の色の白い髪の毛の少ない女の人が、一人をおぶい、一人の手をひいて入ってきた。汽車はすぐでた。
女の人は西日のさす自分とは反対側の窓のわきに席をとった。また、そのところしか空いていなかったので。
「母さん、どいとくれよ」と7つばかりの男の子が眉のあいだにしわをよせていう。
「ここは暑(あつ)ござんすよ」と母は背の赤子をおろしながら静かいった。
「暑くたっていいよ」
「日のあたるところにいると、またおつむが痛みますよ」
「いいつたら」と子供は恐ろしい顔をして母をにらんだ。
「瀧さん」と静かに顔を寄せて、「これからね、遠い所まで行くんですからね。もし途中で、お前さんのおつむでも痛みだすと、母さんはほんとうに泣きたいくらい困るんですからね。ね、いい子だから母さんのいうことを聞いてちょうだい。それにね、いまに日のあたらない方の窓があくから、そうしたらすぐいらっしゃいね。解かりまして?」
「頭なんか痛くなりゃしないったら」と子供は尚ケンケンしくいい張った。母は悲しそうな顔をした。
「困るのねえ」
自分は突然
2
「ここへおいでなさい」と窓のところを一尺あまりあけて、「ここなら日があたりませんよ」といった。
男の子はいやな目で自分を見た。顔色の悪い、頭の鉢の開いた、妙な子だと思った。
自分はいやな気持がした。子供は耳と鼻とに綿をつめていた。
「まあ、どうも恐れ入ります」女の人は悲しい顔に笑いを浮かべて、「瀧さん、お礼をいって、あそこを拝借なさい」と子の背に手をやってこっちへ押すようにする。
「いらっしゃい」自分は男の子の手を取って自分の脇に坐らせた。男の子は妙な目つきで時々自分の顔を見ていたが、しばらくして漸く外の景色に見入った。
「なるたけ、そっちばかり見ていたまえよ、石炭殻が目に入るから」
こんなことをいっても男の子は返事をしない。やがて浦和に来た。ここで自分と向かいあっていた2人が降りたので、女の人は荷と一緒にそこへ移った。荷といっても、女持の信玄袋と風呂敷包みが一つだけ。
「さ、瀧さん、こちらへおいでなさい。どうもありがとうございました」女の人はそういってお辞儀をした。動いたので今までよく眠っていた赤子が目を覚まして泣き出した。母は、
「よしよし」と膝の上でゆすりながら「チチカ、チチカ」とあやすようにいうが、赤子はふんぞり返ってますます泣く。「おおよしよし」と同じようなことをして、こんどは「うま、上げよう」と片手で信玄袋から「園の露」を一つ出してやる。それでも赤子は泣きやまぬ。わきからは、
「母さん、あたいには」とさも不平らしい顔をしていう。
「自分で出して、おあがんなさい」といって母は胸を開けて乳首を含ませ、帯の間から薄汚れた絹のハンケチを出して自分の咽のところへはさんでたらし、開いた胸を隠した。
男の子は信玄袋の中へ手を入れて探っていたが、
「ううん、これじやないの」と首を振る。
「それでないって、どんなの?」
「玉の」
「玉のはない。あれは持って来なかった」
「いやだあ!玉のでなくちゃ、いや」と鼻声をだす。
「その下にドロップが入ってますから、それをおあがんなさい。ね、いい子、ドロップでもおいしいのよ」
男の子は不承不承うなづく。母は又片手でそれを出して子の手へ四粒ばかり、それをのせた。
「もっと」と男の子がいう。母は更に二粒足した。
乳にあきた赤子は、母の髪から落ちたパラフの櫛をいぢって、仕舞いにそれを口へ入れようとする。
「いけません」と母がその小さな手を支えると、赤子は口をあいて、顔をその方へもつていく。下の歯ぐきに小さく白い歯が二つ見えた。
「さ、うまうま」膝の上へ落ちた「園の露」をだすと、あーあーといっていた赤子は黙って、目の玉を寄せてしばらく見つめていたが、櫛を放してそれを取る。そして握り拳のまま口へ入れようとする。その口元からタラタラとよだれがたれた。
女の人は赤子を少し寝かせ加減にして、股の間へ手をやってみた。濡れていたらしかった。
「おむつをかえましょうね」かう独り言のようにいって更に男の子に、
「瀧さん、少しそこを貸してちょうだい、赤ちゃんのおむつをかえるんですから」
「いやだなア――母ぁさんは」と男の子はいやいや立つ。
「ここへおかけなさい」と自分はふたたび前にかけさせた場所を空けてやった。
「恐れ入ります。どうも気むずかしくて困ります」女の人は寂しく笑った。
「耳や、鼻のお悪いせいもあるでしょう」
「御免あそばせ」と女の人は後ろを向いて包から乾いたおしめと濡れたのを包む油紙とを出しながら、
「それもたしかにございます」という。
「いつごろからお悪いんですか」
「これは生まれつきでございますの。お医者さまはこれの父があまり大酒をするからだとおっしゃいますが、鼻や耳は兎に角つむりの悪いのはそんなことではないかと存じます」
腰掛に仰向けに転がされた赤子はあてもなく何かを見つめて、手を動かして、あーあーと声をだしていた。間もなくおしめをかえ、濡れたのを始末して母は赤子を抱き上げると、
「ありがとうございました・・・・・サア瀧さん、こっちへいらっしゃい」といった。
「かまいません、ここにおいでなさい」といったが、男の子は黙って立って向こう側へ腰かけるとすぐ窓へよりかかって外をながめ始めた。
「まあ、失礼な」女の人は気の毒そうに詫びをいった。
しばらくして自分は、
「どちら迄おいでですか」ときいた。
「北海道でございます。網走とか申すところだそうで、大変遠くて不便なところだそうです」
「なんの国になってますかしら?」
「北見だとか申しました」
「そりゃあ大変だ、五日はどうしても、かかりましょう」
「通して参りましても、一週間はかかるようでございます」
汽車は今、間々田の停車場を出た。近くの森から蜩(ひぐらし)の声が追いかけるように聞こえる。日は入った。西側の窓際にいた人々は日除け窓を開けた。涼しい風が入る。今しがた、母に抱かれたまま寝入った赤子の一寸余りにのびた生毛が風にをののいている。赤子の軽くひらいた口のあたりに蝿が2、3匹うるさく飛び回る。母はじっと何か考えていたが、時々手のハンケチで蝿をはらった。しばらくして女の人は荷を片寄せ、そこへ赤子を寝かすと、信玄袋から葉書を2、3枚と鉛筆を出して書き始めた。けれども筆はなかなか進まなかった。
「母ァさん」景色にもあきてきた男の子は、眠そうな目をしていった。
「なあに?」
「まだなかなか?」
「ええ、なかなかですからね、おねむになったら母ァさんに寄りかかって、ねんねなさいょ」
「ねむかない」
「そう、じゃ、何か絵本でもごらんなさいな」
男の子は黙ってうなずいた。母は包の中から4、5冊の絵本を出してやった。中に古いパックなどがあった。男の子はおとなしく、それらの絵本を一つ一つ見始めた。その時自分は、後ろへ寄りかかって、下目使いをして本を見ている男の子の目と、やはり伏せ目をして葉書を書いている母の目とが、そっくりだということに心附いた。
自分は両親に伴われた子を――例えば電車で向かい合った場合などに見る時、よくもこれらの何の類似もない男と女との外面に顕れた個性が小さな一人の顔なり、体つきなりのうちに、しっかりと調和され、一つになっているものだということに驚かされる。最初、母と子とを見比べて、よく似ていると思う。次に父と子とを見比べてやはり似ていると思う。そうして、最後に父と母とを見比べて全く類似のないのを何となく不思議に思うことがある。
今、このことを思い出して、自分はこの母に生まれたこの子から、その父を想像せずにいられなかった。そうしてその人の今の運命までも想像せずにいられない。
自分は妙な連想からこの女の人の夫の顔や様子をすぐ想い浮かべることができた。自分がもといた学校に、級はそれ程違わなかったが年はたしか五つ六つ上で、曲木という公卿家族があった。自分はその男を思い出した。彼は大酒家であった。大酒をしてはいつも、大きなことをいっていた。鷲鼻の青い顔をした、大柄な男で、勉強は少しもしなかった。二三度つづけて落第して、とうとう自分で退学してしまったが、日露戦争後、上州製麻株式会社とかいうのの社長として、何かの新聞でその名を見たぎり、今はどうしているか更に消息をきかない。自分は、ふとこの男の思い浮かべて、あんな男ではないかしらと思った。しかし彼は大言壮語をするだけで別に気むずかしいという男ではなかった。どこか快活で、ヒョウキンな所さえあった。もっとも、そんな性質はあてにならぬことが多い。いかに快活な男でも度々の失敗にあえば気むずかしくもなる。陰気にもなる。きたない家のなかで弱い妻へ当り散らして、いくらか憂いをはらすというような人間にもなる。
この子の父はそんな人ではないだろうか。女の人は古いながらも縮緬の単衣にお納戸色をした帯を〆ている。自分には、それから、女の人の結婚以前や、その当時の華やかな姿を思い浮かべることができる。更にその後の苦労をさえ考えることができた。
汽車は小山を過ぎ、小金井を過ぎ、石橋を過ぎて進んだ。窓の外はようやく暗くなってきた。女の人が二枚葉書を書き終わった時、男の子が、
「母ァさん、しつこ」といいだした。この客車には便所がついていない。
「もう少し我慢できませんか?」母は当惑してきいた。男の子は眉根を寄せてうなづく。
女の人は、男の子を抱くようにして、あたりを見回したが別に考えもない。
「もう少し、待ってネ?」としきりになだめるが、男の子は体をゆすって、もらしそうだという。
間もなく汽車は雀の宮に着いたが、車掌にきくと、その間はないからこの次になさい、という。この次は宇都宮で8分の停車をする。宇都宮まで、どんなに母は困らされたろう。そのうちに眠っていた赤子も目を覚ました。母はそれへ乳首を含ませながら、ただ、
「もうすぐですよ」という言葉を繰り返していた。この母は今の夫に、いじめられ尽して死ぬか、もし生き残ったにしてもこの子にいつか殺されずにはいまいというような考えも起きる。やがて、ゴーウと音をたてて、汽車はプラットホームに添って停車場に入った。まだ停まらぬうちから、
「早くさ、早くさ」と男の子は前こごみに下腹をおさえるようにしていう。
「さあ、行きましょう」母は膝の赤子を腰掛に下ろし、顔を寄せて、「おとなしく待っててちょうだいょ」といい、更に自分に「恐れ入ります、一寸見ていただきます」
「ようございます」と自分は快くいった。
汽車は停まった。自分はすぐ扉を開けた。男の子は下りた。
「君ちゃん、おとなしくしているんですよ」とそこを離れようとすると後ろから、手を延ばして赤子は火のついたように泣き出した。
「困るわねえ」母は一寸ためらったが、包から、スルスルと細い、博多の子供帯を出すと、赤子の両のわきの下を通して、すぐ背負おうとしたが、袂から木綿のハンカチを出して自身の襟首へかけ、手早く結いつけおんぶにして、プラットホームへ下り立った。自分も後から下りて、
「じゃあ、私はここで下りますから」といった。女の人は驚いたように、
「まあ、そうでございますか・・・」といった。そして、
「いろいろ、ありがとうございました」と女の人は丁寧におじぎをした。
人ごみのなかを並んで歩き出した時、
「恐れ入りますが、どうかこの葉書を」こういって懐から出そうとするが、博多の帯が胸で十字になっているので、なかなか出せない。女の人は一寸立ち止まった。
「母ァさん、何してんの」と男の子が振り返ってこごとらしくいった。
「ちょっと、待って・・・」女の人は顎をひいて、無理に胸をくつろげようとする。力を入れたので耳の根が、紅くなった。そのとき、自分は襟首のハンケチが背負う拍子によれよれになって、一方の肩のところに挟まっているのを見たから、つい、黙ってそれを直そうとその肩へ手を触れた。女の人は驚いて顔をあげた。
「ハンカチが、よれていますから・・・・」こういいながら自分は顔を赤らめた。
「恐れ入ります」女の人は自分がそれを直す間、じっとしていた。
自分が黙って肩から手を引いた時に、女の人は「恐れ入ります」と繰り返した。
我々は、プラットホームで、名も聞かず、また聞かれもせずに、別れた。
自分は葉書を持ったまま停車場の入口へ来た。そこに箱のポストが掛ってあった。自分は葉
書を読んでみたい気がした。また読んでも差支えないというような気もした。
自分は一寸迷ったが、箱へよると、名宛を上にして、一枚づつそれを投げ入れた。入れるとすぐもう一度出してみたいような肝した。何しろ、投げ込む時ちらりと見た名宛はともに東京で、一つは女、一つは男名であった。 完 (本作品の草稿は明治41年8月14日)
豆知識
○バラフ(たいまいの甲、黒いまだらのある)=それでつくったべっこう
※鼈甲(べっこう)の「鼈」はスッポン。なぜタイマイの漢字がすっぽんか。
「江戸時代にタイマイを装飾品に使うことが禁じられたために、すっぽんと称した」
○こうがい=髪かき
○御納戸色=ねずみがかかった藍色
『網走まで』とは何か
この作品は論点を「創作性」、『観察」、「疑問」に絞って考察してみたいと思います。以下の問題点について考えてみてください。
- この作品には「小説の神様」と言われる所以が隠されている。それが解けないと志賀直哉
はわかりません。編集室は、そう思います。この作品に隠されているものとは何か。まず、
それを明らかにしてみてください。何も隠されていない。それでも結構です。想像性
- なぜ行き先を「網走」にしたのか。いかなる理由があってか。この作品が書かれた当時の
北海道や網走事情を調べてみてください。1909年前後です。疑問点
- 主人公、「わたし」とは何か。どんな人間か。性格など簡単に。観察
- 二人の子供を連れた女の客は、どんな身の上か。想像してください。簡単でもいいです。
観察・創作
- わたしが預かった二枚の葉書には、何が書いてあったでしょう。想像して宛先と内容を書
いてください。二枚です。
はがき文面の創作
- この作品は帝大発行の雑誌『帝國文学』に投稿しましたが、採用されませんでした。志賀
直哉は、字が汚かったからと書いています。が、実際のところ編集者はなぜボツにしたの
でしょうか。その理由を、作品を読んだ感想から書いてください。あなたならどう評価し
ますか。
想像・観察・疑問 あなたが編集者だったら、どう評価するか。
日本テレビ放映「オンボロ道場再建」まで
ルポ・連載4 回想とドキュメントを混ぜて物語風にする
オンボロ道場太平記
近年、町道場は激減している。この物語は、オンボロながら三十年近く町道場の灯を守りつづけた記録である。
巨大な粗大ゴミを引き受ける
「引きうけなさいよ。いい話じゃない」
妻の康子は、あっさり言った。
彼女は柔道のことは、まったく門外漢だったが、私の唯一の趣味ということと、自分の父親が若い頃やっていたということから、柔道にたいしては好意的だった。
しかし、たとえ家族が賛成してくれても私はなかなか決心がつかなかった。引き受けるべきか、受けないべきか。私は迷った。と、いうのも、道場を引き受ければ、面倒なことがいろいろあるのではないかと予想されたからだ。
道場主となれば、稽古だけしていれば済むというわけにはいかなくなる。現に今、息子の通う高校から名前だけでいいからと頼まれ断れきれずPTA会長を引き受け四苦八苦している状態なのだ。これ以上、人間関係や組織活動に関わりたくない。が、正直な感想だった。しかしその一方で、本好きの少年が、書店主になることを夢みるように、一度は道場主になってみたい。そんな願望もあった。坂本龍馬や近藤勇といった剣客が集った道場を持つことが私の少年の頃の夢でもあった。
「やってみたら」
近所に住む姉からもすすめられた。
それでもまだ私は迷っていた。が、その迷いを決めさせる出来事があった。
この時期、私は、NHKのあるドキュメンタリー番組作りに協力していた。米寿を迎えた元小学校教師が、五十歳になった、教え子を訪ね歩く、という番組で、その教師というのが私の小学一年生のときの担任だった。撮影対象は、そのときの一年生。つまり私たちだった。番組のクライマックスは、四十三年ぶりに開くクラス会だった。私は、会社勤めでなかったので幹事を任せられていた。
「道場で柔道をやっているところを撮らせてもらいたい」
恩師について、同級生の一人一人を回っているテレビのスタッフが、そういって頼みにきた。たいていは職場であったり、自宅撮影であったりしたが、私は、いまだ文学修業の途上にてだっ。自宅も団地建替えの引っ越し騒ぎで、郷里の方言でいう「ささらほうさら」(散らかって手のつけられない)状態で、とてもテレビにうつせるものではなかった。それで、現在の私を紹介するには、柔道しかなかったのである。
そんなわけで五十歳、正確には四十九歳と五ヶ月の私は、道場で柔道を教えている、という、何かはっきりしないあやふやな肩書きで紹介されることになった。そのことが、私に道場を引きうけてみよう。そう決心する出来事となった。
「とにかく、できるところまでやってみよう」
巨大な粗大ゴミであったとも知らずに引き受けた。
おりしもアトランタ開催のオリンピックで日本のホープ田村淳子が北朝鮮のケー・スンヒに敗れ、日本の柔道熱も一気に下がり始めた頃だった。
最初の生徒たち
たとえオンボロでも晴れて道場主となった私である。これまで通りぼんやりと稽古をしているだけではすまない。まずはじめに私がしなければならないことは生徒を増やす算段だった。私が休んでいるあいだ生徒はぐつと減っていた。このとき通ってくる生徒は小学生二人と、ノッポの清水君とヤセの宮澤君、この高校生二人きりだった。
望月先生は、新聞の折りこみ広告をすすめてくれた。が、一回こっきりで二万も三万するうえ印刷代も馬鹿にならないので、やめにした。かわりに、手製の絵入りの看板を何枚か作って、公園や学校周辺に掛けてまわった。しかし、入門者はなかなかあらわれなかった。が、ある日を境に、入門者がふえた。
まずはじめに三年生の保坂が友人を連れてきた。近くの自衛隊から二十六歳の山田青年が入門してきた。つづいて大学生の冨澤君が入門した。そして、つづいて小学二年生の佐野が入門した。佐野の家はお母さんがお琴の先生で、
「きびしくやってください」
が注文だった。
この家はお父さんも厳しそうで、大会で会ったときなどさかんに
「びしびしやってくださいよ」
と、はっぱをかけられた。
一気に四人もの生徒が増えたのである。全員で八人となると、オンボロ道場もさすがにぎやかになった。
私は、とくにこれといった指導方法は考えていなかった。とにかくケガのないように、子どもたちが楽しく柔道を練習できれば。それが私のモットーであった。
つぎに大学生の冨澤建作君が入門してきた。冨澤君は、いまどきめずらしいほとの礼儀正しい若者だった。
幸先のよいスタートとなった。
最初の弟子たちの昇段
朝、電話があった。でると望月先生からだった。
「昇段審査を受けたいと言っていたが」
「はい、四人います」
「ハガキがきたから、ここに手紙を書きなさい」
なんの話か思いだした。
一年がこようとしていた。季節はめぐって、ふたたび春がやってきた。生徒は増えも減りもしなかったが、皆、休むことなく稽古に励んでいた。とくに清水君はじめ一般の生徒たちは熱心だった。それだけに当然の成り行きともいえるが、いつのころからか
「黒帯になりたい」
と、昇段を望むようになった。
「よし、じゃあみんなで昇段試験を受けてみるか」
私は言った。
がしかし、このとき私は、昇段するためにはどんな手続きが必要か、まったく知らなかった。わたしがはじめて黒帯になったときは、大学に入って間もなくで他の部員たちと広いところに受けにいった記憶があるだけだった。
で、望月先生に相談していた。
「昇段試験日は連絡がある。連絡がきたら知らせるよ」
が望月先生の答えだった。
そして、この日、望月先生から
「昇段試験日のハガキがとどいたよ」
と、電話がきた。
「はじめてだから、会長に事情を説明した方がいい」
望月先生は、そういって昇段試験を実施するこの地区の会長の名前と住所を教えてくれた。そうして
「手紙をだすのは、早いほうがいい」
とのアドバイスした。
このとき、私はよく考えればよかった。が、ちょうどこの折り、郷里の父が危篤という知らせも受けていてそのことで頭がいっぱいだった。柔道界の仕組みをまったく知らなかった。
一番底辺に市町村組織があり、その上にいくつかの市町村が集った地区団体があり、その上に各都道府県団体があり、最終的には全日本柔連盟という大きな組織。
昇段に関しては、市町村組織がまとめて地区団体に提出するといった順であった。私の町なら、市の柔道連盟の会長にお願いするのが筋であった。
しかし、私は知る由もなく信州の父が、いよいよ危ないということもあって、望月先生にみせた手紙を地区会長に郵送して郷里に旅立った。
一週間、葬儀のため留守した私だが、私が事情を書いて投函した昇段の問い合わせのことで、大変なことになっていた。
「どうして、筋を通してくれなかったのだ」
と、私は大目玉をくらうことになった。
私はこのとき高校のPTA会長をしていたので、失態は身にしみてよくわかった。私が処理すべきものが、頭上を通り越して地区代表のところにいっていたら、私だってどんなに嫌な気持ちになることか。私は大汗をかいて平身低頭謝罪するしかなかった。
もう昇段は無理だろうな。私は、あきらめた。残念がる弟子たちの顔が頭に浮かんだ。それで、あらためて頼むことにした。すると、案ずるより産むが易しで、こんどは懇切丁寧に教えてくれた。なんで最初に相談しなかったのか、悔やむばかりであった。
七月末の暑さまつ盛りの日曜日、浦安市武道センターで開かれた審査会で彼らは晴れて黒帯を手にした。
一九九六年(平成八年) 十一月五日付け(火曜日) 朝日新聞「声」欄
地域に必要な子供たちの場
下原敏彦
いま町道場で子供たちに柔道を教えている。半年前
高齢の道場主から都合で続けられなくなったと相談さ
れた。築三十年近く、根太は腐り、雨漏りはするオン
ボロ道場で、けいこにくる子供もわずかだった。が、
私は息子が十年以上も通った道場だけに愛着があった。
一人でも子供がいる限り町道場の灯を消したくない。
そんな思いもあって引き受けた。
町道場をやってみてわかったことがある。柔道場に
限らず子供たちが運動する場所が、地域にはあまりに
も少ないということだ。最近の子供は体力が下がって
きているという調査がある。が、子供たちはランドセル
を置いてもどこにも行く場所がないのである。
テニスコート、ゴルフ練習場、ダンス教室と、大人
が運動する場所はたくさんある。それに比べ、子供が
思い切り体を動かせる場所は、皆無に等しい。スポー
ツ都市宣言などで、公共施設は立派なものが完備され
ている。が、地域においては空地すらない。町道場も
激減している。子供たちの体力づくりを真剣に考える
なら、地域施設の整備が先決だろう。
柔道大会に向けて、子供たちは床の抜けそうな道場
で一生懸命、けいこしている。
つづく
2014年、旅日誌
□4月28日(月)村田 紹介
□5月12日(月)西尾 時評
□5月19日(月)西尾、渡辺 テキスト読み DVD観賞
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