文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.240

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日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)6月2日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.240

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 6/30 7/7

2014年、読書と創作の旅への誘い

 

6・2下原ゼミ

 

6月2日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室

 

1.本日のゼミ  → 5・26ゼミ報告・ゼミ誌考

 

  1.  車窓観察 → 「人生相談」私のアドバイス

 

  1.  読むこと → テキスト『網走まで』・世界名作

 

  1.  書くこと → 提出課題「テキスト感想」「車内観察」

 

 

車窓観察       土壌館日誌 春季市民柔道大会

 

東京郊外にある私が住む町では、毎年、6月1日は、春季市民柔道大会が行われる。平成26年も予定通り開催された。60万都市で、多いのか少ないのかは不明だが、小学生から一般まで200名余の選手が出場した。(今年は、高校生は、他に大会があって主力選手の大半は、そちらに行ったので、いつもの年より少なかった)会場は、市の武道センター。8時半開場だが、会場準備の為8時に入館する。3年前からそうだが、市民大会は、始まりどきが物々しくなった。元総理の野田さんが来るからである。野田さんは、この町の出身で、中高と柔道部だった。そんなわけで(票集めにもなるが)総理大臣になった時以外は、ほとんど出席している。大臣級の政治家がくるとSPもくるので、なにかと大変だ。最近は、主催の関係者は、目印にシールを胸に貼ったりする。野田さんが「赤いおべべの金魚よりどじょう」の演説で総理になっと時は、黒服はかなりいた。会場に張りつめたものがあった・

が、今年のこの日は、元総理ということもあってあまり緊張感はなかった。それでも、町のお偉いさんは、市長はじめ議長、ライオンズクラブ、県会・国会議員と顔をそろえた。

祝辞は、たいていの人は、オリンピックだの、金メダルだのといった目標をあげるが、野田さんは、さすが話術の達人。簡潔で、物語性があってまとまっている。時間もだいたい3分ときめているようだ。この日は、負けることから学ぶこともある。なにやらご自身のいまの境遇を繁栄したものか。不思議なもので、これまでは、ご威光のようなものがあったが、感度が落ちているようにも思った。政治の世界の厳しさを感じた。

ちなみに土壌館出場選手の成績は以下の通りである。敢闘賞1

小学4年の部 → 小柏選手 優勢をとるも敗退  門根選手 果敢に攻めるも敗退

小学5年の部 → 長瀬選手 武藤選手 不戦敗(小学校運動会で足を痛める)

小学6年の部 → 武藤選手 不戦敗(運で鵜飼で足を痛める)

一般無断の部 → 田島選手 1回戦技ありに近い優勢とるも敗退 2、3回戦敗退

(編集室)

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5・26ゼミ報告   参加希望者は4名と1人(5月26日現在)

(岩澤・関・村田・西尾・渡辺)

 

5・26参加者 → 西尾智音さん 聴講生1

 

■時評 → 振り込め詐欺について

 

最近の手口 振り込んでしまう人の心理 振り込んでしまう人のタイプ

 

■社会観察 → 大学をやめたい人へのアドバイス

 

参加者の関係から次回に

 

■ゼミ誌について → どんなものにするか、

 

大きさ 内容について 毎回、案をだしながらすすめて行くようにする。

ゼミ誌編集長・西尾智音さん 編集委員・関さん、村田さん、岩澤さん 協力・渡辺さん

 

■テキスト『菜の花と小娘』について

 

『菜の花と小娘』研究    前号と重なる

 

この作品は、明治39年(1906)4月2日に志賀直哉が23歳のとき千葉県鹿野山(マザー牧場)で書いた「花ちゃん」を、大正9年(1920)37歳のときに改題し『金の船』に掲載したもの。明治37年の日記には、

「作文は菜の花をあんでるせん張りにかく」と、しるしている。

 

□のどかな光景、母と娘の会話。親しい人間同士の会話、そんな印象を得た人が多くいました。うららかな春のある日、鹿野山に一人で遊びに行った志賀直哉は、山の斜面一面に咲き乱れる黄色い花畑を見てなにを思ったでしょう。11年前、明治28年、直哉12歳のときに亡くなった母、銀のことを思い出した。母と、ここに来て一緒にこの風景をみれたら、そんな叶わぬ願望が過ぎったかも・・・。

そんなふうに想像するとこの作品が、何かしら悲しくも美しいものに思われます。菜の花と小娘の対話も、無理がない気がします。もしかして母親に送った作品だったのかも。

ともあれ、この作品は作文「菜の花」→「花ちゃん」→小説「菜の花と小娘」のプロセスで完成したことになっています。が、解説では、判定しがたい、とも書かれている。

 

志賀直哉と菜の花と小娘

菜の花が人間のように会話する。この擬人法は、目新しいものではない。旧くはイソップ物語から使われてきた手法である。こうした擬人小説のほかに志賀直哉は、輪廻転生の話も書いている。仲のよい夫婦がいた。死んだあと、何に生まれ変わるかわからないが、必ずここに来て会いましょう、と誓う。やがて夫婦は死ぬ。どちらかだったか忘れたが、夫婦はニワトリとキツネに生まれ変わった。約束を思い出してその場に行く。が・・・残酷な結末である。もしかして志賀直哉は死後の世界を信じていた、あるいは信じようとしていたのかも知れない。その感覚が、作品の端々に感じる。なぜ、志賀直哉はそんな考えを持ったのか。

3月31日に一人で鹿野山に遊びに行った志賀直哉は、4月11日頃まで山の上から谷底一面に花咲く菜の花を眺めて過した。鹿野山は、今日マザー牧場として有名である。子豚のレース、菜の花畑は観光の目玉となっている。が、当時も菜の花はすばらしかったようだ。

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谷間の菜の花畑を眺めながら、春の陽光のなかで直哉が読んでいたのは、最近刊行されたばかりの島崎藤村の『破壊』であった。前年、父直温は総武鉄道株式会社の取締役に就任している。経済的に恵まれ7月に学習院高等科を卒業、9月には東京帝国大学英文科に入学する直哉は、明治維新まで、士農工商という階級社会の中にも入れなかったエタと呼ばれる人たちのことをどれほど知っていただろうか。彼らは、士農工商が廃止された明治になってもその差別のなかで生きていたのだ。主人公の瀬川丑松は24歳。奇しくも直哉と、一つしか違わない歳である。『破壊』は直哉にどんな影響を与えただろうか。

志賀直哉が、なぜ小説を書きつづけて行こうと決心したのか。これまで多くの評論家や読者は、貴族趣味の一点に終始してきた。が、『菜の花と小娘』を再読して編集室は、このように思った。春の鹿野山で直哉は、菜の花に母、銀を重ね、瀬川丑松の人生に義憤した。そうして、決心した。自分は「人類の幸せのために小説を書いて行くのだ」と。

 

■テキスト読み『網走まで』について → 書かれた状況 観察 前後は

 

この母子の上野駅まで、網走からは、どんなストーリーが展開するか創作してみましょう。

 

6・2ゼミ 再考察 社会観察・テキスト読み・名作読み

 

□時評 人間の謎「振込め詐欺はなぜなくならないか」

社会 「人生相談」5月連休が終わり、梅雨に入るこの時期、大学を去る学生が多くいます。友人に、こんな相談をされたら、あなたはどんなアドバイスを

 

□テキスト『網走まで』研究 日光に遊びに行くため上野駅で列車に乗った私、相席は赤ん坊と幼い男の子を連れた母親だった。彼女たちは、北海道の網走というところまで行くという。私は、この親子を観察する。草稿には同情的な文面も見られますが、完成作品は、いっさいの感情はなく観察あるのみ。わずかに同情をあらわす個所は・・・

 

志賀直哉(1883-1973)の主な観察作品の紹介

(編集室にて現代漢字に変更)

□『菜の花と小娘』23歳

□『網走まで』1910年(明治43年)4月『白樺』創刊号に発表。27歳。

□『正義派』1912年(大正1年・明治45年)9月『白樺』第2巻9号に発表。29歳。

□『出来事』1913年(大正2年)9月『白樺』第4巻9号に発表。30歳。

□『鳥取』1929年(昭和4年)1月『改造』第11巻第1号。46歳。

□『灰色の月』1946年(昭和21年)1月『世界』創刊号。64歳。

□『夫婦』1955年(昭和30年)7月1日「朝日新聞」学芸欄。72歳。

 

『網走まで』 ポイント「創作性」・「観察」・「疑問点」

 

小説の神様・志賀直哉とは何か。この作家を知るためには、いろいろな方法があります。下原ゼミでは、主に車中作品を考察してみます。最初にあげる作品は、処女作3部作の一つ『網走まで』です。が、一読だけでは解明不十分と思いますので再読してください。再読、再読することで、書かれていない物語や状況を掘り起こしてみましょう。なお、文面は100年前なので編集室で岩波書店『志賀直哉全集』から現代読みにして転載しました。

 

(『網走まで』本作品の草稿は明治41年8月14日)

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小説『網走まで』について

 

この作品は論点を「創作性」、『観察」、「疑問」に絞って考察してみたいと思います。以下の問題点について考えてみてください。

 

  1. この作品には「小説の神様」と言われる所以が隠されている。編集室は、そう思います。この作品に隠されているものとは何かを想像してみてください。

 

  1. なぜ行き先を「網走」にしたのか。どんな理由があってか、この地名にしたのか。この作品が書かれた当時の北海道は、どんなところだったか。1909年前後です。

 

  1. 主人公、「わたし」とは何か。どんな人間か。性格など簡単に。

 

  1. 二人の子供を連れた女の客は、どんな身の上か。想像してください。簡単でもいいです。
  1. わたしが預かった二枚の葉書には、何が書いてあったでしょう。想像して宛先と内容を書

いてください。二枚です。はがき文面を創作してみとください。

 

  1. この作品は帝大発行の雑誌『帝國文学』に投稿しましたが、採用されませんでした。志賀

直哉は、字が汚かったからと書いています。が、実際のところは、どうでしょう。理由はあるでしょうか。

 

豆知識

○バラフ(たいまいの甲、黒いまだらのある)=それでつくったべっこう

※鼈甲(べっこう)の「鼈」はスッポン。なぜタイマイの漢字がすっぽんか。

「江戸時代にタイマイを装飾品に使うことが禁じられたために、すっぽんと称した」

○こうがい=髪かき

○御納戸色=ねずみがかかった藍色

 

『網走まで』とは何か

 

「網走」とは何か。当時、東北以北は、文明開化が進む東京人にとっては、未開の地であったに違いない。その未開の地の果て、海を渡った蝦夷地の端にある網走は、おそらく想像もつかない遠い土地だったと想像する。実際、当時、網走は、まだ鉄道も敷かれていない僻地だったのだ。草稿に書かれているのは、「なだれのある」熊と無宿人の土地である。おそらく、東京に住む人たちの印象もそうだったに相違ない。むろん作者も。

では、何故にそんな土地を題名にしたのか。行き先にする必要があったのか。作者に網走という土地に対する強い思い入れがあったという記録も記述もない。当時の作者の詳しい年譜をみても、これといって思い当たるものもない。25歳の作者にとって網走は、まったく関係のない土地、所であった。

と、すると作者が、地図の上でサイコロを振って決めたのか。それなら、お手上げである。が、そうは考えたくない。なかには、そんな作家もいるだろうが。(書いている最中に、郵便配達が二度ベルを鳴らした。それで『郵便配達人は二度ベルを鳴らす』そんなタイトルをつけたという米国作家の逸話話を聞いたことがある。が)志賀直哉は、他の作品をみても、そんな題名のつけ方はしていない。大概は、ストレートである。『城の崎にて』しかり、『和解』しかりである。いずれも、その題名に作者が関係しているか、想起できるものがある。

 

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ところが、この網走だけは、なんの関連も思い浮かばない。そこで、まったくの空想だが、この地名の謎を解くには、もう一つの謎が関係するのではないだろうかと考えた。つまり毒には毒をもってと同様、謎には謎をもって、というわけである。

それでは、もう一つの謎とは何かを考えてみた。それは、作品『小説網走まで』が、応募先の編集部で没にされたという事実である。前号でも紹介したが、志賀直哉は一九○八年八月十四日、この作品を書き終えた。二十五歳のときである。このころ志賀は、同人四人と回覧雑誌(のちの『白樺』)をはじめたが、この作品『小説網走まで』は、同人達の好評を得た。同人達は、投稿をすすめた。で、志賀直哉は「当時帝国大学に籍を置いていた関係から『帝國文学』に投稿した」。が、没書された。志賀は、これについて創作余談で「原稿の字がきたない為であったかも知れない」と回想している。しかし、これは作者のやさしさか自虐的謙遜であろう。原稿の字が下手だから、きたないから採用しない。それ故に、不採用になった。作家は、もともと字が汚いといわれるだけにあまり聞かぬ話である。それよりプロの編集者というものは、たとえミミズがのたくっていようが読み解く業を心得ているものだ。それが真の編集者というものである。と、すると、当時の『帝國文学』には、真の編集者がいなかったのか。現に、そう評している作家もいる。しかし、文学を少しでもかじったものなら、(筆者のような浅薄な文学感覚さえ持ち合わせていない人間でさえ、そうだが)この作品を、駄作と見逃すはずはない、そう思いたい。

なんでもないエッセイのような車中作品。面白みも、物語性もない。だが、読んでいると何か非凡を感じる。人気流行小説にはないものがある。そんなふうに思うのである。

それ故に、私としては、『帝國文学』の編集者に、見る目がなかったと思いたくない。きっと理由あってのこと。そう信じるわけである。

 

では、なぜ、彼らは小説『網走まで』を、没にしたのか。させたのか。没になったのは、顕然たる事実である。回覧雑誌の同人達、彼らは、この頃、若いとはいえ、のちの『白樺』の面々である。(武者小路実篤、里見弴ら)彼らが絶賛し、また現代においても、充分に評価の対象と成りえる作品。そんな作品をなにゆえ、いったいどんな理由から没としたのか。俄かには信じがたい。もし字のきれいきたないで採否を決められたら、採用されるのは書家か清書屋の額縁作品ばかりで、とても文学作品は生まれない。作家は、悪筆家が多いと言われている。

では、この作品はなぜ、採用されなかったのか。その理由として、想像できたものを四点ほど挙げてみた。

 

  1. 編集者・採用者に目がなかった、文学的素養がなかった。
  2. 志賀直哉が思ったように字がきたなかったから。
  3. 網走という地名に不自然さを感じるから。
  4. 真実ではないから。(この時代、網走まで鉄道は開通していなかったようだ)

 

没になった作品はその後どうなったか。1910年(明治43年4月)『白樺』の創刊号に発表される。同雑誌への掲載者は、武者小路実篤、里見弴 有島武郎ら。ちなみに創刊号の小説は、志賀直哉の『網走まで』と、正親町公和の『萬屋』の二作だった。

『帝國文学』の編集者は、一旦は採用した。そう取る方が自然だろう。そうして、掲載をめぐる編集会議において没にした。証言物があるかどうかは知らないが、想像するに『小説網走まで』は、そんな経緯をたどったような気がする。では、何ゆえに没としたのか。

それは、この作品に大きな矛盾があるからではないのか。絶対に、あってはならないもの

があった。こう推理するのは、荒唐無稽だろうか。

余談だが、以前、何十万部ものベストセラーになった作品が、直木賞から漏れた。そのことで選者、出版界、作者を交えて喧々諤々となったことがあった。読者、出版界が認める作

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品。その作品がなぜ受賞できなかったのか。詳しくは知らないが、物語のなかに、絶対ありえない出来事があったからだという。小説だから、なんだっていいじゃないか。創作とはそんなものだ。といえばそれまでだが、よりリアリズムを目指す作品においては、その作品が優れていればいるほど、そうはいかないというのか。嘘でも空想でもいい。だが、そのなかに些少の矛盾があってはならない。それもまた文学の大道。と、すれば当時も今も、その手の編集者がいたとしても可笑しくない。『帝國文学』の編集者は小説『網走まで』を名作と踏んだ。それ故に、矛盾は許しがたく没とした。独断と偏見だが、小説『網走まで』のごみ箱行きの謎解きは、そのへんにあるような気がしてならない。

では、この作品における矛盾とは何か。早速に言えば、それは、元の謎に戻ってしまうが、やはり題名の「網走」にあったのではないだろうか。まったくの想像だが、没の謎を解く鍵としては、これより他に、思いつかない。当時、網走といえば、どんなところか。東京の人間は、どんな印象をもっていたのか。おそらくは、それほど知られてはいなかったのでは、と推測する。現に作品のなかでも、こんな会話がされている。

「どちら迄おいでですか」と訊いた。

「北海道でございます。網走とか申す所だそうで、大変遠くて不便な所だそうです」

「何の国になってますかしら?」

「北見だとか申しました」

「そりゃあ大変だ。五日はどうしても、かかりませう」

「通して参りましても、一週間かかるさうで御座います」

ここからわかるように、当時は、網走といっても知られていなかったようだ。鉄道は北見

までしか通じていなかったらしいが、そのことを作者は知っていたかどうか。一週間かかるというのは、誰かからきいたのだろう。北の果て、よほどの遠く。作者にしてはその程度の

知識しかなかったのでは。草稿で作者は、主人公に網走について「北見の網走などという場所でしている仕事なら、どうせヂミチな事業ではない。恐らく熊などのいる所であろう。雪なだれなどもあるところであろう」と語らせている。ここから判明するのは、網走という所は、まっとうな仕事をしていない山師のような人間が集まっている所。熊がでる所。雪も深い自然も厳しい所。つまり獣や悪人がいる秘境ということになる。当時、網走が、どの程度の思われ方をしていたのか、知るよしも無いが明治23年前身の「網走囚徒外役所」ができ1300人の囚人がおくられてから、既に18年が過ぎている。重罪犯人が集められた所として、それなりに名前は知れ渡っていたのではないかと思う。

網走まで・・・当時、明治後年頃、その地はとても一般人が旅するようなところではなかった。そんなふうに思われていたのではないだろうか。そんなところに、赤子を背負った、病気がちの子供を連れた母子三人が旅するという。しかも、持ち物ときたら「荷といっても、女持ちの信玄袋と風呂敷包みが一つだけ」北見からは、囚人がつくった荒れ道を徒歩で行かなければならない。不可能とは思わないが、それにしても、無理があり過ぎる。実際に(網走まで行く母子を)見たのなら、それもやむなしと認めるところではあるが、全体、創作である。この作品が書かれた時代、明治43年頃、網走に行くには鉄路を札幌→帯広→池田→北見まで乗り継ぎ、後は囚人道路を徒歩で行くことになる。作品に登場する二人の子供連れの女が向かうには酷な目的地である。荷物からいっても、無理がある。矛盾が多すぎる。だというのに作者は、なぜ強引に「網走」としたのか。

恐らくこの母子の旅を、読者により困難で悲劇的な旅に印象づけんがため。矛盾を押しやって網走とした。そうとるのは無謀だろうか。若き小説の神様は、作品をより深刻にせんがために、リアルを逸っして当時、日本一過酷で恐ろしい地の印象があった網走を母子の終着地にした。その作為を編集者は見逃さなかった。若き志賀直哉の勇み足である。

だがしかし、現在において網走と聞いても、なんら矛盾は感じない。むしろぴったりの題名のように思える。と、いうことは「網走」には普遍性があったとみる。志賀直哉が小説の神様と呼ばれる所以の一端は、そこにもあるのかも知れない。

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この作品の真の狙い

作者は、題名をなぜ「網走」としたのか。これまでの考察で、作者は、母子の旅を、より困難なものに印象づけようとした。それで目的地を無理を承知で、鉄道もまだ敷けていない網走にした。当時としては、若き小説の神様の勇み足と読み解いた。が、普遍的に捉えれば「網走」でよかったことになる。『網走まで』という題名に、何の違和感はない。むしろぴったりする題名と思っている。しかし、母子の旅を読者に同情させなければならないのか。矛盾をだしてまで過酷な旅にしたのは、戦争へ戦争へと暴走する明治政府への警鐘。そのように思えてならない。母子を乗せた、列車は、開拓地・網走を過ぎると、速度をあげ、満州の大平原をひた走っている。ヒロシマ、ナガサキを目指して。

そして、『灰色の月』、『夫婦』へと車内は変化していく。その意味で、志賀直哉の車内観察作品は、まだ来ぬ時代の車窓を映す壮大な叙事詩ともいえる。現在、課題の車内観察からも、その壮大の抒情の一端を感じ取れればと思うのである。

「日光」について

この作品の車内観察は、未来へと繋がっている。考察と推理で、そのことがわかってきた。その結論を立証するため、次に内容について、もう少し詳しく分析してみたい。

主人公について、ゼミ参加者の感想は、評判はあまり芳しくなかった。が、いったい主人公の「わたし」はどんな人間か。

 

宇都宮の友に、「日光のかえりには是非おじゃまする」といってやったら、「誘ってくれ、ぼくも行くから」という返事を受け取った。(本文)

 

ここから「わたし」を読み解くと・・・・

冒頭の二行から、主人公は、気楽な身分の青年という印象を受ける。題名の網走は、当時どの程度知られていたか、わからないが、日光は、たいていの日本人なら知っている。江戸時代は、徳川家康が祀られていることで国民的知名度は抜群。東照宮といえば左甚五郎の眠り猫、言わず聞かざる見ざるの三猿も有名だ。中禅寺湖や温泉もある。明治になってからは名所旧跡の観光地、華厳の滝もよく知られている。この時代の華厳の滝は、

「明治36(1903)年5月、18歳の旧制一高生であった藤村操-ふじむらみさお-がミズナラの木に「巌頭之感-がんとうのかん-」を書き残して投身自殺をして以来、自殺の名所にもなってしまった。」このことでもかなり世間の注目を浴びていた。

国民が日光を見る目は、このような情報であったと思う。とすれば、当然、主人公は日光に遊びに行った。そうとるのがふつうだろう。仕事でいったといっても読者は、疑問に感ず

るだけである。おそらく、この時代、東京人にとって娯楽のメッカといえば西の熱海、東の日光ということになろう。たぶん作者は、よく日光に遊びに行っていた。だから日光とした。そうとるのが自然である。が、作者の創作術を考えると、単純に、一概にそうだとも言い切れない。やはり、日光は計算された地名。そして網走も、である。題名を「網走」とした以上、本文の冒頭にどうしても「日光」を使いたかった。方や地の果て未開の地、方や娯楽と観光の地。あまりにも対極にある二つの地名。両地をだすことで、作者は、この作品の重みを読者に伝えたかった。インプットしたかったのではないだろうか。

 

夏の夕方、上野から青森行きの列車に乗った。私は、文学仲間と日光に遊びに行く気楽な身分。宇都宮に住む友人が誘ってくれというのでが、行き先は宇都宮である。同席した、私と同じ年ぐらいの女性は、乳飲み子と、病気持ちの気難しい男の子を連れていた。色白で、美人とは書いてないが、(男の感覚としては)美人なのだろう。娘時代は、よい家庭で育った。階級色が強い明治時代だからわかるのかも。しかし、いまは、どうみてもみすぼらしい。男運が悪かったに違いない。聞けば、行き先は「網走」だという。鉄道も敷けていない未開の地だ。都会で、小説を書いている自分には想像もつかない旅である。あまりにも遠いとこ

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ろなので、私は言葉を失った。その地に、なぜ行くのか、という疑問より、大変だ。かわいそうだ。という思いの方が先に立った。「網走」という地名に、草稿では、熊がでる、ジミチではない連中が住むところ、という印象を持っている。

この幸薄い母子のために私は、何ができるのか。(全人類の幸福のために小説を書く)という「わたし」だが、できることはよれたハンカチを直してやることと、頼まれた葉書を出してやることぐらいだった。作者のやさしさが感じる作品。だが、作者の若さをも感じられる作品でもある。同情した。かわいそうに思った。だから葉書を見てもかまわない。そんな自己満足が垣間見える。(「同情するなら金をくれ」テレビドラマでこんなせりふがあった。人間社会の現実である。が、主人公はまだそんなことも知らないボンボンなのだ)

志賀直哉年譜(『網走まで』の)履歴

 

1883年(明治16)2月20日、父直温(第一銀行石巻支店勤務)、母銀の次男として宮城県

に生まれる。(ナオハル)

1886年(明治19)3歳 芝麻布の幼稚園に入園。父直温文部省七等属会計局勤務。

1889年(明治22)6歳 9月学習院初等科入学。

1893年(明治26)10歳 父直温、総武鉄道入社。

1895年(明治28)12歳 8月母銀死去享年33 秋、父、浩(こう)24と結婚。

1898年(明治31)15歳 中等科四年落第、機械体操、ボート、水泳、自転車など運動得意。

1900年(明治33)17歳 内村鑑三の夏期講談会に出席。以後7年間通う。

1901年(明治34)18歳 足尾銅山鉱毒問題で父と意見衝突、父との長年の不和の端緒。

1902年(明治35)19歳 春、鹿野山に遊ぶ。学習院柔道紅白戦で三人抜きをする。

1904年(明治37)21歳 日露戦争、「菜の花」を書く。

1905年(明治38)22歳 父総武鉄道専務就任、帝國生命保険、東洋製薬等の役員。

1906年(明治39)23歳 学習院高等科卒業、武課のみ甲、他乙、成績22人中16位。

1907年(明治40)24歳 家の女中に恋する。反対の父、祖母、義母と争う。諦める。

1908年(明治41)25歳 8月14日『小説網走まで』を書く。

 

志賀直哉 1883年(明治16年)2月20日~1971年(昭和46年)10月21日88歳

 

『網走まで』と『三四郎』

 

時代背景

 

『網走まで』は、明治四十三年(1910)に『白樺』第一号に発表された。が、実際に書かれたのは二年前の明治四十一年といわれている。作者が二十五歳のときである。明治三十九年七月に学習院高等科を卒業。九月に東京帝国大学文科大学英文学科に入学している。

この時代、明治四十年代は、どんな時代だったのか。日清日露戦争に勝利した日本は、韓国併合(1910)を目指して大陸侵攻の準備を着々と進めていた。ポーツマス条約、明治三十九年(1906)には南満州鉄道会社を設立するなど富国強兵政策をますます強めていた。

しかし、華々しい国策の裏で暗い出来事が次々起きていた。明治四十二年には伊藤博文がハルビン駅で暗殺された。また四十三年には、大逆事件が起き、幸徳秋水ら二十四名に、死刑、の判決がくだった。そのうち十二名が減刑され無期懲役となったが、幸徳秋水はじめ12名が絞首台の露と消えた。

 

大逆事件は知識人に大きな衝撃をあたえた。森鴎外、永井荷風、石川啄木、与謝野鉄幹らのおどろきと打撃はかれらの作品に書きのこされている。(『高校日本史』実教出版)

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大逆事件(明治天皇の暗殺を計画したとされる嫌疑)は、明治四十四年(1911)二月十八日に上記の判決が下った。この死刑宣告の判決について、志賀直哉は、その感想を二十日金曜日の日記にこう書きしるしている。

二月二十日 金曜日

 ・・・一昨日無政府主義者二十四人は死刑の宣告を受けた。日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍しい出来事である。自分は或る意味で無政府主義者である、(今の社会主義をいいとは思わぬが)その自分が今度のような事件に対して、その記事をすっかり読む気力さえない。その好奇心もない。「其時」というものは歴史では想像出来ない。

 

 

漱石の『三四郎』は明治四十一年(1908)九月一日から十二月二十九日まで、百十七回にわたって東西の朝日新聞に掲載された。『網走まで』は明治四十一年(1908)八月十四日と執筆年月日が明記されていることから、両作品は、ほぼ同時期に書かれたとみてよい。

同時期に書かれた『三四郎』と『網走まで』。この二つの作品の違いは、まず作者だが、『三四郎』を発表したときの漱石は四十一歳の男盛りである。前年、明治四十年(1907)一切の教職を辞して朝日新聞社に入社。すでに『草枕』を発表し、『我輩は猫である』『坊ちゃん』などを相次いで出版。押すも押されぬ大流行作家となっていた。が、文学一本に人生を絞ったのである。ちなみに『三四郎』を発表した年、明治四十一年の年譜をみると、このような文学活動をしている。

 

1月1日より4月6日まで『坑夫』を朝日新聞に連載。

『虞美人草』(春陽堂)出版。友人、森田草平に小説『煤煙』の執筆を勧める。

6月13日より21日まで『文鳥』を大阪朝日新聞に連載。

7月から8月にかけて『夢十夜』を東京・大阪朝日新聞に連載。

9月1日より12月29日まで『三四郎』を朝日新聞に連載。

 

この時期、志賀直哉は、25歳の文学青年。同人誌『白樺』もまだだしていない。たとえ年齢は違っても時代を観察する眼は同じである。文豪となる夏目漱石の目に、日本の姿と将来はどのように映ったのか。未来の小説の神様の目には、どうだったのか。二つの作品の車内観察から文豪たちの見た日本を読み解いてみたい。

二つの作品の車内観察は、同じ車内でも微妙に違っている。まず主人公である。三四郎は、これから大学生になる学生。『網走まで』の私は、すでに大学生か社会人になりながらもきままに暮らしている文学青年の様子。行き先は、三四郎は、東京。私は、日光だが、その前に友人と会うため宇都宮で降りる。はじめての上京、同席となった女の行き先である。

 

志賀直哉とは何か

 

「2010年読書と創作の旅」では、テキストとして志賀直哉の作品をとりあげます。来週からの授業では、志賀直哉作品を読んでいきますが、その前にこの作家について少しばかり触れておきます。

処女作三部作

小説の神様といわれる志賀直哉とは何か。それを考えるには、まず処女作三部作を読み解く必要があります。

処女作三部作とは、『菜の花と小娘』、『或る朝』、『網走まで』です。下原ゼミは、このなかで主に車中作品の『網走まで』を取り上げ、以後の車中関連作品を朗読・合評していきます。併せて自分たちの車内観察を発表します。

ちなみに、これらの作品は明治37年(1904)から明治41年(1908)ころに書かれた。志賀直哉21歳から25歳のときです。

文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.240 ―――――――― 10 ―――――――――――――――

 

名作案内

5月の詩「谷間に眠るもの」

 

前号に文学を志すなら、『トニオ・クレエゲル』は必読と書いた。同じように詩人に憧れるなら、まずランボーを知れである。野口雨情も中原中也も皆、ランボーに魅入られた。

19世紀末のフランスに彗星のように現れ消えたランボーとは、どんな人間だったのか。金子光晴訳『ランボオ詩集』(角川文庫1970)の解説ではこのように紹介(抜粋)。

 

・1854年10月20日 ジャン・アルチュール・ランボオはフランスの北西にあるシャルルヴィルの町で生まれた。父は軍人、母は百姓。兄弟は5人。兄、次兄、姉、ランボー、妹。

・1865年、中学校に入った彼は、すばらしく優秀な生徒であった。ラテン語の詩をはじめ、すべての課目をマスターして、しばしばアカデミー・コンクール賞を獲得した。・・・彼は、文学と革命思想との魅惑から、詩人になることを自分の転職と考えるようになった。

・1870年8月、ランボー15歳、はじめてパリに家出する。以後、度々、家出する。

・1872年、18歳 詩人ヴェルレーヌとの放蕩生活。ロンドンで二人で放浪生活。

「地獄の季節」を書き始める。7月8日別れ話からヴェルレーヌ拳銃でランボーの左手首を撃つ。ヴェルレーヌ2年の禁固刑。

・1873年 19歳 散文詩「地獄の季節」の大部分を燃やす。以後、筆をとらない。

・1891年 5月マルセイユ病院に入院。11月9日死去。 37歳。

 

代表作『酔っぱらいの舟』「韻文で書かれた彼の作品の頂点を示すものであろう。」訳者

以下、長篇なので出だしの触りを紹介。全篇は各自で。

 

酔っぱらいの舟

 

 ひろびろとして、なんの手ごたえもない大河を僕がくだっていったとき、

船曳きたちにひかれていたことも、いつしかおぼえなくなった。

罵りわめく亜米利加印度人たちが、その船曳きをつかまえて、裸にし、

彩色した柱に釘づけて、弓矢の的にした。

 

 フラマンの小麦や、イギリスの木綿をはこぶ僕にとっては、

乗組員のことなど、なんのかかわりもないことだった。

船曳きたちの騒動がようやく遠ざかったあとで、

河は、はじめて僕のおもい通り、くだるがままに僕を連れ去った。

 

訳者・金子光晴(1859-1975)解説

・・・マラルメや、ヴァレリーとまた違った意味で、ランボーの詩は、難解な詩というふうに宣伝されすぎた嫌いがある。・・・・彼の想像と、幻想の中から生まれた海洋は、それ

自身の血肉をもって、現実の海洋に拮抗し、それもより奥深いものにしようとした。・・・

新緑がまぶしいこの季節になると、この詩を思い出す。5月の光が燦々と降り注ぐ谷間。青葉しげる泉。詩人がそこにみたものは・・・・。『ランボオ詩集』金子光晴訳

アルチュール・ランボオ(1854-1891)37歳没 第一詩集(1870-1872)に収録。

この詩の背景は普仏戦争。ランボー16歳、家出を繰り返していた時期。普仏戦争とは

普仏戦争1870年~1871年
プロイセンとフランス間で行なわれた戦争。スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦。プロイセン側が圧倒的に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降伏、退位。パリでは共和制の国防政府が樹立され抗戦を続けたが、1871年パリを

開城して敗戦。フランスはフランクフルト条約でアルザスロレーヌアルザス・ロレーヌ地方

 

―――――――――――――――――― 11―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.240

 

の大部分を割譲、賠償金50億フランを支払った。戦争終結直前の1871年1月8日、プロイセン王・ヴィルヘルム1世がベルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ統一が達成された。
プロイセン・フランス戦争、独仏戦争とも。(HP)

 

日本テレビ放映「オンボロ道場再建」まで

 

ルポ・連載5 回想とドキュメントを混ぜて物語風にする

 

オンボロ道場太平記

 

近年、町道場は激減している。この物語は、オンボロながら三十年近く町道場の灯を守りつづけた記録である。

 

それぞれの家庭事情

 

「大輔(仮称)がいないんです」

秋の市民大会が終って自宅に帰ると、村山大輔の母親からあわてた声で、こんな電話がかかってきた。村山大輔は小学五年生で、道場近くに自宅がある。一年前に入門した子どもだった。細い体の、おとなしい子どもだった。家が近いせいか、一つ下の妹も、よく道場にきていた。気になることがあった。道場には、柔道の練習用にと、ふとんをまるめたものをいくつか作っておいてあるが、そのうちの一つ、人の顔を描いたふとん袋を、兄と妹でさかんに

「このおやじめ、このおやじめ」

と言ってなぐったり踏みつけたりしていた。

ふざけ顔ではなく、なにかに取り憑かれたような真剣な表情だった。

「なにやってるんだ、練習用のものを」

私は注意した。

ふたりは、夢から覚めたように私を見ると、何も云わずそのまま向うに行ってしまった。何か薄気味、悪かった。

おとなしかった大輔と妹が、奇声を発して、布団を踏んづけていた。反抗期か。私は、そのように思った。その後、大会があった。終わって家に戻ると、大輔の母親から電話があった。大輔がまだ帰っていないという。小学校5年だし、どこかで道草をくっているのでは、といったが、母親の心配ぶりは異常だった。警察に連絡したいとまでいうので私と康子も手分けして探した。道場の周辺、コンビニ。どこにもいなかった。しばらくして家に戻っていると電話があった。なんとバス停にいたらしい。いつも母親がその時間に降りるかららしかった。

その後、母親から、父親がアルコール中毒で会社を辞めたことを明かされた。母親は、家出か自殺を想像していたようだ。いろいろな家庭事情の子がきている。 つづく

子どもたちの成長に悪い。この春、母親は二人の子どもを連れ東北の実家に帰っていった。半年ほどして、ペンションで働く母親と、元気に学校に行く大輔からハガキがとどいた。父親は精神病院に入院した。

同じ春、離婚してきて二人の息子を通わせていた、母親が再婚した。

「ぼくたち苗字がかわるんだ」

複雑な顔でそういった兄弟も、母親と一緒に新しい家庭に引っ越していった。

つづく

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.240 ―――――――― 12 ―――――――――――――――

 

土壌館・実践的投稿術 紹介No.1~20

文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。

もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。

土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞「声」欄に投稿をつづけています。なぜ「声」欄かというと、500字という字数は、人が飽きなく読む字数であるということと、文体を簡潔にできるからである。

 

No.1 「医師への金品 規制できぬか」   1994・2・2  朝日新聞「声」欄

No.2 「カラー柔道着 いいじゃないか」  1994・5・17    朝日新聞「声」欄

 

2014年、旅日誌

 

□4月28日(月)村田 紹介

□5月12日(月)西尾 時評

□5月19日(月)西尾、渡辺 テキスト読み DVD観賞

□5月26日(月)西尾 テキスト解説 ゼミ誌

 

掲示板

 

◇募集 平成26年度「児童虐待防止推進月間」標語募集

電子メール又は〒はがきに1作品。

メール:jidou.hyougo@city.wakayama.lg.jp 「票語の応募」

郵送 〒640-8043 和歌山市福町40

「和歌山市こども総合支援センター」標語募集担当 宛 6月10日締切

 

お知らせ  ドストエフスキー全作品を読む読書会

6月28日(土)池袋 東京芸術劇場小会議室7 午後1時半~5時迄。

作品『地下生活者の手記』2回目 参加学生500円(ゼミ生は無料)詳細は、編集室まで。

 

・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・

 

○創作、エッセイ、評論、など書けた人は「下原ゼミ通信」にお寄せください。いつでも歓迎です。〒かメール、手渡しでも。

 

□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室

メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net 09027646052

 

 

車中観察の見本 テキスト紹介 『夫婦』は車中での作者のするどい観察眼がよくあらわれた小作品である。夫婦でしかありえない行為と機微を見事にとらえている。

夫 婦         志賀直哉

 

函南(かんなみ)の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川(もんがわ)の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ(婆)-ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。

家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。

私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。

その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。

玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)

日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。

 

(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)

この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。

※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であったと想像する。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように夫婦の絆をとらえ描いている。

 

 

 

 

女子プロにはいりたいと入門してきた女子高生。大きな体の小山七歩さん。わずか三年のあいだに、さまざまな出来事が浮かんでは消えた。

ハッサン、レオというアフリカの青年が二人きたこともあった。

子どもたちの家庭にはそれぞれの事情があった。私もいろんな事情を抱えていた。妻康子の病状への不安もあったが、モモのことも気になりはじめた。

「当りが弱くなったんで心配してるんです」

PTA会議が終ったあと剣道部顧問の佐藤先生が、小声でおしえてくれた。

モモはやせ細っていた。そうして、やがて不登校になった。親に問題があるという不思議な病気だった。私は、変わることなく、柔道をつづけるしかなかった。モモはやせた体で道場にきて竹刀を振った。自分のなかの病気と必死で闘っていた。

永遠に降りしきると思われた雪は、昼になって雪はやんだ。潰れるも潰れないも、あとは運を天に任すしかない。私は安堵と不安な気持ちで自宅に戻った

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