文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.241

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)6月9日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.241

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 6/30 7/7

2014年、読書と創作の旅への誘い

 

6・9下原ゼミ

 

6月9日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室

1.本日のゼミ  → 6・2ゼミ報告・ゼミ誌考

 

  1.  車窓観察 → 社会、私の関心事

 

  1.  読むこと → テキスト『夫婦』、他

 

  1.  書くこと → 提出課題報告と評

 

 

車窓観察    70年前の正義と悪の戦争に想う

 

先週、BSNHKテレビで深夜零時からはじまる「世界のドキュメンタリー」番組で、ノルマンディー上陸作戦が連夜、放映されていた。人類史上最大といわれる軍事作戦。これまでニュース映像や映画で何度か観てきた。が、今回は70周年記念ということで新場面も。

戦争はいまもむかしも絶対悪である。だが、この上陸作戦に限って、正義のための戦争といわれている。長い封建主義、植民地や王制時代が終わったあと、20世紀という新時代に台頭したのは、独裁者、ファシスト、軍国主義、共産主義だった。第一次世界大戦の後の荒廃した世界にあらわれた一人の貧弱な小男の伍長。元路上似顔絵かき。チョビ髭、絶叫演説、奇妙な敬礼。芝居がかった動作。滑稽なほどユーモラスな外見。だが、彼は世界を震え上がらせた。自分の種族こそ世界一、こんなわけのわからない有色人種蔑視主義とユダヤ人根絶主義を掲げ、なぜか民主主義の力で権力を握った。あの哲学において、文学や芸術において秀でた民族だった、あの国民が、なぜ、あの男を選び熱中したのか。「人間の謎」である。

謎といえば、この男と同盟を結んだ日本の行動も、またしかり、大きな謎である。明治、大正、昭和初期、日本には政治、芸術文化世界に立派な人物が多々いたはず。しかし、日本は、悪魔と手を結んだ。軍人の口車にのり集団的自衛権を行使した。百年先どころか10年5年先もわからぬ為政者に日本を任せてしまったのだ。

そんなわけで、あの日、6月6日の戦争は、正義と悪の戦いといわれている。結果、正義が勝った。世界は、解放された。か ? 否、待っていたのは西か東の冷戦だった。

 

【ノルマンディー上陸作戦】

第二次世界大戦中の1944年6月6日、ナチスドイツが占領するフランス北西部ノルマンディー地方で米英などの連合国が結構した大規模な上陸作戦。連合国の攻勢と勝利のきっかけになった。「Dデー」と呼ばれる作戦開始日だけで連合国軍兵士約1万人が死傷した。

(編集室)

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6・2ゼミ報告   登録者は4名と1人(6月9日現在)

(岩澤・関・村田・西尾・渡辺)

 

6・2参加者 → 西尾智音さん

 

テキスト『網走まで』の謎についてを話し合う

 

「網走」とは何か

 

『網走まで』を手にとると、まず、題名から立ち止まってしまう。最初の疑問は、なぜ「網走」かである。網走は、現代なら映画の舞台や刑務所、メロン産地、オホーツクの流氷やカニなどでよく知られている。が、この作品が発表された明治四十三年(1910年)当時は、どうであったろうか。一般的にはほとんど無名だったのではないかと想像する。そんな土地を作者志賀直哉は、なぜ題名にしたのか。母子の旅の目的地にしたのか。大いに疑問に思うところである。そんなところから、作品検証として、はじめに題名「網走」を考えてみた。

インターネットで調べてみると網走は、元々魚場として開拓民が住み着いたところらしい。「網走」という地名の由来は諸説あるが、いずれもアイヌ語が語源とのことである。

例えば「ア・バ・シリ」我らが見つけた土地。「アバ・シリ」入り口の地。「チバ・シリ」幣場のある島。である。(ウィキペディア)

また、作品が書かれた頃までの網走の歴史は以下のようである。

  • 1872年(明治5年)3月北見国網走郡の名が与えられる(網走市の開基)。アバシリ村が設置される。
  • 1875年(明治8年)漢字をあてて、網走村となる。
  • 1890年(明治23年)釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設
  • 1891年(明治24年)集治監の収容者の強制労働により北見方面への道路が開通
  • 1902年(明治35年)網走郡網走村北見町勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。

明治政府は、佐賀の乱や西南の役などの内紛に加え荒れた世相で犯罪人が激増したことから、またロシアの南下対策として彼らを北海道に送ることにした。明治12年伊藤博文は、こんな宣言をしている。

「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにしてその労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えた者はここにそのまま永住させればいい」

なんとも乱暴が話だが、国策として、この計画はすすめられた。

そして、明治12年に最初の囚人が送られた。以後14、17年とつづき、網走には明治23年に網走刑務所の前身「網走囚徒外役所」ができ1300人の囚人が収容された。囚人は、札幌―旭川―網走を結ぶ道路建設にあたった。こうしたことでこの土地は、刑務所の印象が強くなったといえる。しかし作品が書かれた当時、その地名や刑務所在地がそれほど全国に浸透していたとは思えない。第一、当時、網走には鉄道はまだ通っていなかった。従って「網走」という駅は、存在していなかったのである。

では、作者はそんな地名を、なぜ、わざわざ題名にしたのか。あたかも網走という駅があるかのように書いたのか。どう読んでも、物語の流れは網走駅までの印象は強い。最初から大きな謎である。が、この謎が解けなければはじまらない。ということで「網走」の謎について考えてみました。

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ゼミ誌について レイアウト、構成について検討

 

参考のために、これまでの下原ゼミ発行のゼミ誌をみた。

この10年間近くのゼミ誌は、どんなだったか。表題など

 

・『背中に人生を』・・・・・・・・13名 表紙は写真 白黒  人物

・『柔』・・・・・・・・・・・・・11名 表紙は写真 カラー 人物

 

・『ドレミファ そらシド』・・・・16名 表紙は絵 カラ― 図

 

・『サンサシオン』・・・・・・・・・7名 表紙は無地 黄緑

 

・『旅路報告』・・・・・・・・・・11名 表紙は写真 カラ―駅風景

 

・『正体不 Show time 』12名 表紙は絵 カラ―

 

ゼミ雑誌作成計画

 

Ⅰ.申請方法  5月26日(月)4:20 ~ 事務室で説明を受ける。

 

編集委員(編集長を兼ねる) = 西尾智音さん

 

Ⅱ.発行手順 ゼミ雑誌の納付日は、2014年12月5日(金)です。厳守。

以下① ~ ③の書類を作業に添って提出すること。

 

【①ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】

 

  1. 【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢/出版編集室に期限までに提出

 

  1.  ゼミで話し合いながら、雑誌の装丁を決めていく。

 

  1.  9月末、ゼミ誌原稿締め切り。

 

  1.  印刷会社を決める。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。

 

  1. 【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。

 

  1.  11月半ばまでに印刷会社に入稿。(芸祭があるので遅れないこと)

 

  1.  雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。

 

  1.  印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。

 

注意 : なるべくゼミ誌印刷経験のある会社に依頼。(文芸スタッフに問い合わせ)

はじめての会社は、必ず学科スタッフに相談すること。

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車中観察の見本 テキスト紹介 『夫婦』は車中での作者のするどい観察眼がよくあらわれた小作品である。夫婦でしかありえない行為と機微を見事にとらえている。

夫 婦         志賀直哉

 

函南(かんなみ)の病院に療養中の一番上の娘を見舞った帰り、一ヶ月ぶりで熱海に寄り、廣津君の留守宅を訪ねた。前夜、家内が電話でそれを廣津夫人に通じてあったので、門川(もんがわ)の米山夫人が来て待っていた。しばらくして稲村の田林夫人も来た。いずれも廣津夫人と共に家内の親友で、私にとってはバ(婆)-ルフレンドである。久しぶりでゆっくり話し、8時30何分かの電車で帰る。

家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。

私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのではなく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。

その頃、世田谷新町に住んでいて、私と家内と二番目の娘と三人で誰かを訪問するときだった。ちょうど、ひどい降りで、うちから電車まで10分余りの路を濡れて行かねばならず、家内は悪い足袋を穿いて行き、渋谷で穿きかへ、タクシーで行くことにしていた。

玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)

日頃、亭主関白で威張っているつもりの私にはこれはまことに意外なことだった。呆れて、私は娘と顔を見合わせたが、家内はそんなことには全然気がつかず、何を急ぐのか、今度は先に立ってハチ公の広場へ出るコンクリートの階段を降りてゆく。私は何となく面白く感じた。ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。

 

(全集第四巻から転載。かな遣い、字体一部修訂)

この作品は、昭和30年(1955年)7月7日「朝日新聞」学芸欄に掲載されたもの。

※熱海の帰りというから東海道線だろうか。横浜から乗り合わせた若い外国人夫婦と子ども。米国人とみたのは、当時の日本の事情からか。昭和28年、自衛隊発足で日本はようやく独立国の体裁を整えたが、内実はまだ米国の占領下であったと想像する。恐らく、兵士の家族か。車内で娘と父親がクチャクチャガムを噛む。当時の日本人はどう思ったのだろう。が、子どもに対する愛情や夫婦の機微は、どこの国の人間も同じ。作家の観察眼は、瞬間に衝撃写真を激写するレンズのように夫婦の絆をとらえ描いている。

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車中観察の見本 テキスト紹介 『夫婦』は車中での作者のするどい観察眼がよくあらわれた小作品である。夫婦でしかありえない行為と機微をしっかりとらえている。短文ながら人間観、夫婦観がよく表れた小品である。

志賀直哉は、よく社会を描かない作家と批判される。家庭のちまちました話ばかりだという。たしかに父親との葛藤を描いた『和解』、主人公とその家庭を観察した『暗夜行路』も表層面の読みでは、そんな印象だろう。これら大作にしてそうなのだから、『夫婦』においては何をかいわんや、そう思うところだが、観察度を探究すれば、そうでないことがわかってくる。たかが小品、されど小品である。たとえば、これが妥当かどうかは知らないが、一つの小石から宇宙全体を知る。そんな思想だか、哲学がある。もしかして、この小品は、その言に当てはまるような気がする。志賀直哉は、小説を書く目的を、世界人類幸福の為、とした。まさしく、この小品は、その目的に繋がっていると想像する。従って、社会が描かれていないなどと評する批評家は、志賀文学を読み解いていないとみる。

それでは、この作品がどんなふうに社会や時代と繋がっているのか。作品の中に探ってみることにする。

この小品が発表されたのは、1955年7月7日の朝日新聞「学芸欄」というから志賀直哉が72歳のときである。全集に収めるときに末尾の夫婦に拘って修訂したというから、主眼は、古希を過ぎた老夫婦の一体化を描いたのかも知れない。が、作者が意図したかどうかはわからないが、真の主眼は、もうひと組の若い外国人夫婦にあったような気がする。

深夜近い電車の車内。狭い空間だが、作者の観察は、そこから人間や人類の幸福につなげている。時代の問題もそれとなく知らしめている。

現在、日本は、米軍基地問題で揺れている。この作品が書かれた時代はどうだったか。1955年(昭和30年)。この頃の日本は1950年に勃発した朝鮮戦争の特需で、立ち上がりの機運をつかんでいた。前年に自衛隊が誕生し、この年の11月には、保守合同(自由、民主結成)いわゆる55年体制のはじまり、高度成長への登山口に達したときである。

しかし、日本には問題が山積みしていた。ようやくにして占領下から独立したかにみえた日本だが、米軍基地問題は、はじまったばかりだった。砂川闘争は3年間つづいた。日本

の軍事大国化、米軍駐留に対する国民の反対闘争は日増しに大きくなっていた。砂川(立川市)等の飛行場拡張受け入れ反対闘争は、その一つである。他に小牧、横田、新潟、伊丹、木更津等もあった。

余談だが、55年体制、自民党結成で、総理大臣になった鳩山一郎は、翌年の国会答弁で「自分はこの憲法に反対であって、軍備をもつのがよい」と答弁し国会を騒然させた。できもしないことをうっかり失言する。今の鳩山首相にはじまったことではない血筋のようだ。

戦時中は、鬼畜米英。終戦後は、神様仏様の米国、悪魔の米軍基地。日本の国民にはそんな印象だった。それはいまも変わることはないが、当時は、もっと強かったに違いない。

 

家内は疲れて、前の腰かけでうつらうつらしていた。電車が10時頃横浜にとまった時、派手なアロハを着た25,6の米国人がよく肥った金髪の細君と一緒に乗り込んで来て、私のところから斜向うの席に並んで腰かけた。

 

若い外国人が子ども連れの夫婦らしいとはいえ、横須賀基地が近い横浜である。(アロハで推察したのか米国人とあるのは、当時、外人といえば占領軍=米軍人といったイメージだったのか)それだけに、夜の10時に乗り込んでくれば、緊張したに違いない。たとえ

 

男の方は眠った2つ位の女の子を横抱きにしていた。両の眼と眉のせまった、受け口の男は口をモグモグさせている。チューインガムを噛んでいるのだ。

 

としたとしても。いまは大リーグ中継で、ガムを噛む人は珍しくもないが、当時はどうだ

 

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ったのだろう。しかし、作者は、この外人夫婦をしっかり観察する。

 

細君が男に何か云うと、男は頷いて、横抱きにしていた女の子を起こすように抱き変え、その小さな口に指さきを入れ、何かをとろうとした。女の子は眼をつぶったまま、口を一層かたく閉じ、首を振って、指を口に入れさせなかった。今度は細君が同じことをしたが、娘は顔をしかめ、口を開かずに泣くような声を出した。小娘はチューインガムを口に入れたまま眠ってしまったのである。二人はそれからも、かわるがわるとろうとし、仕舞いに細君がようやく小さなチューインガムを摘まみ出すことに成功した。

 

この若い外人夫婦の行為から、何がわかるのか。子どもに対する親の愛情である。それは、とりもなおさず、子を思う親の愛情は、外人でも同じなのだ、という思いである。たとえ彼が憎き占領軍の兵士であったとしても、その心は、やさしい父親なのだ。この数行の観察が、そのことを教えてくれている。さらに、作者の観察は、驚く行為を目撃する。

 

細君は指先の小さなガムの始末にちょっと迷っていたが、黙って男の口へ指をもってゆくと、それを押し込んでしまった。男はよく眠っている小娘をまた横抱きにし、受け口で、前からのガムと一緒にモグモグ、いつまでも噛んでいた。

 

作者の興味は、取り出した指先のガムに集中した。アメリカ映画や大リーグからの印象では、ガムは路上に吐き出すもの。いまでも、そんなふうに思える。それだけに当然、細君は、車中の床に投げ捨てる。そのように思ったかも。

しかし、なんと、彼女は、指先のガムを夫の口に押し込んでしまったのだ。無意識の行為のようだった。この行為に作者は、夫婦の絆というか一体観に感動する。世界中、夫婦というものは、同じだ。そのことを実感するのである。が、ここで、オチのようなユーモアがあるのは、ここである。

 

私はうちへ帰ってから、家内にこの話をし、10何年か前に同じようなことが自分たちのあいだにあったことを言ったら、家内は完全にそれを忘れていた。家内のは忘れたのでは

なく、初めからそのことに気がつかずにいたのである。

思わず笑ってしまう場面である。感激して夫婦間の仲の良さを話したのに、細君は、無意識ですらなかったのだ。落語の小噺にしても、立派なオチになる。

 

玉電の改札口を出ると、家内は早速、足袋を穿きかえた。其のへんはいつも込合う所で、その中で、ふらつく身体を娘に支えてもらって、穿きかえるので、家内の気持ちは甚だしく忙(せわ)しくなっていた。恐らくそのためだろう、脱いだ足袋を丸めて手に持ち、歩き出したが、私の背後(うしろ)にまわると、黙って私の外套のポケットにその濡れた足袋を押込んだ。(初出は「そのきたない足袋を」)

濡れて脱いだ足袋を、当然のように、夫のコートのポケットにねじ込む。夫は、そんな細君の無意識行為を観察しながら、おもわず納得する。

 

ふと夫婦というものを見たような気がしたのである。と。

 

まったく別の環境で育った男女が結婚して夫婦になる。どんなに熱い恋愛でも、どんなにお金や地位があっても、平等化したいまの世の中、最後まで添え遂げるのは難しい。そうしたことを鑑みれば、お互いこんな無意識行為が生活のなかで生まれてくれば、もう大丈夫である。人間、何歳になっても、なかなか悟らぬものだが、志賀直哉は72歳にして臆面もなく

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悟ったと吐露する。そこにこの作家の偉大さがある。

 

『夫婦』の車中観察からわかるものは、親子の愛情、夫婦の絆、親子は夫婦は世界中、どこも同じ。そんな人類愛がみてとれる。何百字、何千字費やしても、はたせぬものが、この小品のなかにある。

 

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熊谷元一研究1.

 

課題報告5・15  「私の小学校入学式の日の思い出」

 

小学一年生の頃の記憶、ありますか。思い出して書いてください。

 

 

 

 

ランドセルと消しゴムの思い出

西尾 智音

新潟から東京へ越してきて、まだ間もない頃、私は小学校の入学式を迎えた。向かいに住む同い年の男の子に手を引かれて、少し黒みがかったワインレッドのランドセルを背負った私は学校へ向かう。当時は、学校までの道のりが長く感じた。

入学して一番最初に残念に思ったことは、ランドセルの表面に蛍光の黄色いカバーを取り付けなければならないことだった。周りのみんなと比べると少しくせのあるランドセルの色がお気に入りで、それが隠れてしまうことと、教室中のみんなが黄色いカバーを付けていて自分もみんなと同じでいることがすごく嫌だったのを覚えている。

ランドセルのお披露目は2年生になってからとあきらめて、それまでランドセルを汚さないように丁寧に使おうと決心したのだった。

もう一つ覚えていることは、となりの席の男の子に消しゴムをかしてあげたことだったこと。まだ一度も使っていない角のとがった消しゴムだったが、戻ってきたときには一つの角が少しまるくなっていた。私は、そのまるくなった角は避けて、残りの三つの角を均等に減らすように消しゴムを使い始めた。

 

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熊谷元一の生涯  写真家・童画家・教師として生きた熊谷の軌跡を追う

(原案・熊谷元一著『三足のわらじ』南信州新聞社)

連載1

創作ルポ・夢果てなく 

 

 

晩秋の青空が窓いっぱいにひろがっていた。熊谷元一は、一人部屋のベットを少し持ち上げて、ぼんやり窓外をながめていた。どこが悪いというのではないが一週間前、なんとなく体の不調を感じたことから、清瀬の自宅から、そう遠くないこの老人介護施設に思いきって入居した。妻の貞子は数年前、亡くなった。性分が独立独歩の性格なので、もしかのときは、と、申し込んでおいたのだ。先ほど、今年五歳になる曾孫が長男夫婦と見舞いにきた。すっかりわんぱく坊主になった曾孫は、入ってくるなり元気に駆けよってきて大声でいった。

「じいちゃん、きたよ」

「ほう、きたか」

熊谷は、おどけ顔をして叫ぶとからかうようにきいた。

「わしは、いくつだ ? 」

「ひゃくいっさいだよ ! 」

曾孫は、そんなことぐらいはしっているぞ、といわんばかりに胸をはって答えた。

「ほう、百一歳か」熊谷は、おどけたように言った。「そんねん生きたのか」

「いやですよ。おじいちゃん、そんな言い方しては」

後から入ってきた長男の嫁は、子どもを叱るように言ってほほ笑んだ。

彼女は、熊谷が教師を定年退職し、東京の清瀬に家を建て妻の貞子と故郷長野県から越してきて以来からずっと同居してきた。出版社に勤める夫は多忙でほとんど家にいなかった。彼女は、二人の子どもを育てながら、熊谷元一という写真家・童画家の窓口になって働いてきた。出版社の打ち合わせや来客の予約や接待。秘書と嫁、一人二役でこなしていた。姑の貞子が病気入院してからは、秘書として、嫁として、姑の代役として熊谷の世話に徹した。三足のわらじで熊谷を支えてきた。夫の博人は、出版社を辞してから、装丁会社を立ち上げ、ほとんどが会社に泊りこみだった。夫より、はるかに多い時間を熊谷と共にした。それだけに、つい厳しい口調にもなる。が、熊谷は、意に介さない。

「えれえ、いきたもんだなあ」

と、他人事のように感心した。

「まだまだ、大丈夫ですよ」

遅れて入ってきた孫夫婦と夫の博人は、口々にそう言って笑った。

本当に、そうみえた。それもそのはず、熊谷は、生涯を通じ病気らしい病気をしたことがない。入院したのは七十三歳のとき脱腸手術のため市内の病院に一度入院したきりだった。体は、子どもの頃から丈夫だった。信州の自然のなかで育ったせいと思っていた。

体で悪いところといえば右目が乱視で、徴兵検査のときに乙種だったことぐらいだ。白寿をむかえても歯も丈夫なら、耳も聞こえた。目は右目は乱視だが、左目は眼鏡なしで新聞が読めた。一〇一歳になっても変わることはなかった。

そんなわけで、このたび入院となっても息子夫婦は、たぶん一過性のことだと思った。すぐに退院してカメラを手に清瀬の街に出ていく。足が動かなければ、歩かなくてもよい撮影方法を考える。そんなふうに思っていた。なによりも熊谷自身、そう考えていた。これまでとは、違う写真集をつくりたい。それが百歳からの夢だった。

賑やかだった見舞客が帰って部屋は、急にひっそりした。熊谷は、じっとしていることが嫌いだった。家族のものが言っていたように、足さえ動けば、自分は、まだまだ大丈夫だ。

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その証拠に足が弱っていくぶん歩行困難になったが気持ちは青春時代と変わらない。画家を目指してキャンパスに向かっていた飯田中学のあのころと。

一〇一歳か・・・熊谷は、さきほどの曾孫との会話をおもいだした。とても自分のこととはおもえなかった。自分には、まだまだやることがある。これで、終わりになってもらっては困る。ぼんやりしているが、最後の目標が目の前にある。そんなふうに思った。

しかし、いまここに横たわっていることは現実だ。熊谷は、少し焦った気持ちになった。が、すぐにその気持ちを振り払うように小春日和の日差しがふりそそぐ窓に目をやった。

晩秋の黄昏前の空は、あくまでも高く青く澄み渡っていた。不意に熊谷の脳裏に赤石山脈の上にひろがる信州、伊那谷の青空が甦った。その瞬間、新しいアイディアがひらめいた。

よし、退院したら、阿智村に帰ろう。もう一度、阿智村に住んで、村人を撮る。これまでは白黒の写真だった。が、こんどは、カラーでも撮ってみよう。なつかしい故郷の山や川。ふるさとを離れて44年。自分は、都会という竜宮城で遊んでいただけかも知れない。熊谷は、浦島太郎になった自分を想像しながらも、新しい力がふつふつと沸いてくる気がした。

 

 

編集発行 熊谷元一写真童画館 2003・11・25 熊谷は、故郷の阿智村(旧會地村)を生涯にわたって撮りつづけた。

 

二〇一〇年十一月六日、熊谷元一は、東京都清瀬市の老人介護施設で亡くなった。最期まで陽気で元気だった。百一歳の年齢に

「そうか、そんなに長く生きたのか」

と、あきれるようにつぶやいて皆を苦笑させた。そうして永遠の眠りに着いた。

聞くところによると教え子の一人に自分の葬儀のとき、バンザイをやってくれと頼んでおいたという。実行されたかどうかは不明である。が、要するにそうした独創的な人物だった。

翌日、新聞各紙は、一斉にその死を報じた。「写真家熊谷元一さん死去」(読売)「満蒙開拓民の写真 熊谷元一さん」(朝日)「写真・童画家 熊谷元一さん死去」(信毎)などなど。いずれも写真家・童画家と記されていた。後日、NHKテレビの特集番組でも「写真家熊谷元一」として紹介されていた。追悼番組のなかでもアニメ映画の巨匠宮崎駿監督が「すごい写真」と感銘していた。つまるところ写真家・童画家として功なり名を遂げた一生だったといえる。

 

熊谷には、写真家、童画家の他に、もう一つの顔があった。二〇一一年五月二十八日、信州のある山村の公民館で、熊谷元一の偲ぶ会が開かれた。参加者の多くは、教師時代の教え子だった。追悼セレモニーでは、彼らは教師熊谷の思い出を語った。

そう熊谷は小学校教師でもあったのだ。生涯一教員として定年まで勤め上げた。それ故、写真は、あくまでもアマチュアカメラマンであり、童画も、本業の童画家ではなかった。

しかし、熊谷が世に知られたのは、あくまでも余暇の写真と童画だった。とくに写真にお

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いては、その才能をいかんなく発揮させた。しかし、その作品がどんなに高い評価を得ようが、世間から認められようが、熊谷は、教師の道から逸れることはなかった。アマチュアカメラマンとして生きつづけた。

そのことで、熊谷は、自分の人生を「三足のわらじを履いた人生」と、たとえていた。三足のうち、写真と童画の二足は、101歳の生涯のなかで完璧に履ききったといえる。マスメディアによる写真家、童画家としての紹介が証明している。この二つのわらじに比べ、本職の教師はどうだったのだろう。残念ながらこちらの評価は、あまり芳しいとはいえない。

偲ぶ会で、教え子たちは、教師としての熊谷を、このように話した。「教室で勉強を教わった記憶がない」「天気がよければ、すぐ郊外学習だった」。教室でものを教えるより子供たちを外に連れ出し自由にさせ、そのスキに好きな写真を撮っていた先生。教師時代、まさに熊谷はそんな印象だった。

そのことを裏打ちするようにご長男さんが最後の挨拶でこんな打ち明け話をされた。

「家にいるときは暗室ばかりいるので、学校で何を教えているのか、子供ながらに不思議に思っていた。それで、あるとき親父の鞄をこっそりのぞいてみた。そしたら中には、カメラと弁当しか入っていなかった。いま、みなさんの思い出を聞いて合点がいきました。やっぱりそうだったか」と。とたん、会場に笑いが起った。

熊谷の人生は、生涯一教員だった。が、社会的、マスメディア的には写真家・童画家だった。しかし、生まれ故郷の村人たちには、写真家でも、童画家でもなかった。教師でもなかった。「もといっさ」それが村での熊谷のすべてでであった。村人にとって「もといっさ」は、たんに写真を撮る「もといっさ」、童画を描く「もといっさ」、教師をしている「もといっさ」であって、写真家、童画家ではなかった。教師としての印象もなかった。

しかし、村人の思いをよそに熊谷の写真家、童画家として活躍は、眼を見張るものがあった。とくに写真家としての熊谷は、早くにその実力は認められていた。昭和十三年に朝日新聞社から出版した写真集『会地村・一農村の写真記録』をはじめ今日まで出版された写真集の数は知れない。それらは、いまや日本の貴重な財産となっている。なかでも昭和三十年に岩波写真文庫から出版された『一年生』は、写真集の金字塔といっても過言ではない。

童画においても、昭和四三年に福音館から出版された絵本『二ほんのかきのき』は、今日のいま現在まで百万部発刊のロングセラーをつづけている。

偲ぶ会のパンフレッドに列記された熊谷の写真家・童画家としての功績。私は「熊谷元一略歴」を見ながら、ふと、ある疑問が湧きあがってくるのを禁じえなかった。

戦前においても、戦後においても日本の写真界に築いた業績は大きい。その才能も十分に認められ評価された。そういっても過言ではないだろう。それなのに、なぜ熊谷は、教育現場に戻ってきたのか。道はひらけていたのに。熊谷は何故、教師に舞い戻ったのか。そして、定年まで教師をつづけたのか。

なぜ、アマチュアで甘んじたのか。なぜ、プロの写真家に、童画家になろうとは思わなかったのか。そもそも、その道が、最初の目標ではなかったか。そんな素朴な疑問だった。幸いにして熊谷は自伝ともいえる著書『三足のわらじ』を残している。本書を手掛かりに、その謎を解いてゆきたい。

 

熊谷元一年譜

 

・1909年(明治42年)長野県会地村(現会地村昼神温泉郷)に生まれる。

ちなみに小説家の太宰治も、この年に生まれている。

・1920年(大正9年)11歳 家で、絵を描きはじめる。『少年世界』を読む。

・1924年(大正13年)15歳 少年雑誌に絵・文芸などを投稿する。

・1925年(大正15年)17歳 漫画投稿がはじめて「信濃時評」に掲載される。

 

つづく

―――――――――――――――――― 11―――――文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.241

 

土壌館・実践的投稿術 紹介No.1~22

文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。

もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。

土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞「声」欄に投稿をつづけています。なぜ「声」欄かというと、500字という字数は、人が飽きなく読む字数であるということと、文体を簡潔にできるからである。

私の投稿きっかけは、文章修業ではなく他者に相談されたあることと、そのことにたいする疑問と関心からだった。掲載されたことで、多くの反響があり、投書の力を知ると同時に修業の場になることがわかった。以後、今日まで、自分の意見・感想を投稿している。本欄で紹介していくのは、これまでに採用になったものである。

□ 第1回目の投稿動機は、入院を控えた知人からのこんな相談だった。

「こんど病院に入院することになった。手術しなければならないのですが、そのときは、担当の医者にいくら払えばいいだろうか」

「退院のときでいいのではないか」

私は、笑って答えた。知人は、家内がある医大の職員というのを知っていた。それで、話のついでにだいたいの入院費用のことを聞いたのだろうと思った。が、違った。

「病院費とは別に担当医師医者に払う謝礼金のことなんだ」

「えっ、!?」私は、絶句した。この日本で、ありえない話と思った。「そんなバカな」

が、知人は、謝礼は、患者社会の常識という。私はまったく知らなかった。

入院費のほかに、医者に謝礼を払う。開発途上国ならともかく。もし本当なら、あってはならぬことだ。しかし、知人は断固そうだという。中元、お歳暮の類と反撃する。

議論しあったが知人は謝礼するとのこと。私は、納得できず投書してみた。採用された。

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◆ 1994年2月2日付 朝日新聞「声」欄 下原敏彦

 

医師への金品 規制できぬか

手術で入院する時、担当医の付け届けは何とかならないだろうか。先日、大学病院への入院を控えた知人から「執刀医に、いくらぐらい包んだらいいだろうか」と相談された。相場を教えてくれというのだ。

入院費の中には手術代も含まれているはずだが、手術前に個人的に担当医に一封を渡す。そんな慣例があるという。礼状でいいのではと薦めたが、知人は「周りは皆そうしているから」と謝礼の必要を説いた。

むろん規定にはないことなので、受け取る医者と受け取らない医者がいるという。渡さないからといってメスさばきに加減があると思えない。

だが患者や家族の立場は弱い。普段は無用な事と思っていても、いざ患者の立場になると「一応、なにがしかの金品を手渡さなければ」と腐心してしまうのだ。渡す側が悪いのか、受け取る側が悪いのか、人間の同義的基盤には限界がある。

患者が安心して入院するために何らかの規制があればと思う。寄付金を断ったために入学できなかったニュースに、この国にはびこるあしき習慣を痛感する。ゼネコン汚職糾弾も、政治改革も、我々一人ひとりが日常生活にある不条理を断っていかない限り、達成できないのではないか。

文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.241 ―――――――― 12 ―――――――――――――――

 

2014年、読書と創作の旅日誌

 

□4月28日(月)村田 ゼミ紹介

□5月12日(月)西尾 時評

□5月19日(月)西尾、渡辺 テキスト読み DVD観賞

□5月26日(月)西尾 テキスト解説 ゼミ誌

□6月 2日(月)西尾、ゼミ誌点検、テキスト『網走まで』考察

 

 

【テキスト読み記録】

 

・『菜の花と小娘』 ・『日本国憲法』 ・『網走まで』

 

【書くことの記録提出】

 

・課題1「ランドセルと消しゴムの思い出」西尾

 

提出課題

 

  1. 車内観察   2.子ども時代の思い出   3.社会批評(社会問題・話題)

 

  1. 創作 → 『網走まで』前後

掲示板

 

 

◇募集 平成26年度「児童虐待防止推進月間」標語募集

電子メール又は〒はがきに1作品。

メール:jidou.hyougo@city.wakayama.lg.jp 「票語の応募」

郵送 〒640-8043 和歌山市福町40

「和歌山市こども総合支援センター」標語募集担当 宛 6月10日締切

 

お知らせ  ドストエフスキー全作品を読む読書会

6月28日(土)池袋 東京芸術劇場小会議室7 午後1時半~5時迄。

作品『地下生活者の手記』2回目 参加学生500円(ゼミ生は無料)詳細は、編集室まで。

 

・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・

 

○創作、エッセイ、評論、など書けた人は「下原ゼミ通信」にお寄せください。いつでも歓迎です。〒かメール、手渡しでも。

 

□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室

メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net 09027646052

 

 

 

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