文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.245

公開日:  最終更新日:2014/07/20

 

日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)7月7日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.245

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 6/30 7/7

2014年、読書と観察の旅への誘い

 

「読むこと」「書くこと」の習慣化を目指して

 

7・7下原ゼミ

 

7月7日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室

1.本日のゼミ  → 6・23ゼミ報告 ゼミ誌作成

  1.  読むこと → 世界名作、戯曲「獅子と白菊」
  2.  書くこと → 車内観察、ゼミ誌に向けて
  3.  土壌館投稿術 →「ゴルバチヨフは語る」から回想の投書

 

 

車窓観察

7・1集団的自衛権行使、閣議決定!!

7月1日、懸案だった集団的自衛権行使がついに与党で閣議決定された。反対の人は、悪い時代へのターニングポイントと不安視する。将来、日本が戦争にまきこまれたとき、今日という日を思い出すという。賛成する人たちは、これで平和が守られると諸手をあげて喜んでいる。いったいどちらが正しいのか。歴史を振り返るとわからなくなる。正義とおもっていたことが戦争のはじまりであったり、大粛清のはじまりだったりした。五族協和しかり人類の理想郷だった社会主義国家しかりである。決定案のポイントはこのようである。

▽密接な関係にある他国への武力攻撃で、国民の生命・自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合、必要最小限度の実力を行使することは憲法上許容される。

▽国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。(編集室)

▽武力攻撃に至らない侵害への対処では、命令や手続きの迅速化を検討。日本防衛に当たる米軍部隊の武器等を自衛隊が防護できるよう法整備

▽駆けつけ警護は、派遣先の政府の同意などを条件に可能となるよう法整備

▽他国軍隊が「現に戦闘行為をおこなっている現場」以外では自衛隊による後方支援が可能

つまるところ、これで憲法の手かせ足かせがとれて堂々戦争に参加できる。だが、翌7月2日の朝日新聞の一面見出しはこうなっていた。

 

9条崩す解釈改憲」「海外で武力行使容認」「強兵」への道 許されない

 

読売新聞は、賛同記事で以下の見出しだった。

 

「集団的自衛権 限定容認」「真に国民を守るとは」

 

◆民主主義の原理原則は多数決である。故に選挙は大切で重要である。

 

学科ニュース    学科事務、長期欠席者の調査開始

 

前期は、早くも終盤になった。このことから学科事務は、長期欠席者の調査に乗りだした。高額な授業料を払いながらも授業に出ていない彼らの謎。彼らは、どこでどう時を、青春を過ごしているのか。彼らにとって授業出席より大切で重要なものとは何か・・・・。

下原ゼミの現状については、7月4日、江古田校舎にて聴き取りがあった。

下原ゼミⅢの実体は、本ゼミ生2名、聴講1だが、長期は0であった。が、ゼミⅡでは、本ゼミ生4、聴講1の5名のうち3名の皆さんが参加されていません。こんどの調査でゼミ誌作成が進展することを願います。

 

ゼミⅡの登録者 → 西尾智音さん  岩澤 龍さん  村田和也さん  関 美琴さん

 

ゼミ雑誌について  ゼミ雑誌刊行までの手順は、以下です。

 

ゼミ雑誌作成計画

 

Ⅰ.申請方法  5月26日(月)4:20 ~ 事務室で説明を受ける。済み

編集委員 = 編集長・西尾智音さん

Ⅱ.発行手順 ゼミ雑誌の納付日は、2014年12月5日(金)です。厳守。

2014年12月5日(金)締切です

以下① ~ ③の書類を作業に添って提出すること。

 

【①ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】

 

  1. 【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢/出版編集室に期限までに提出 7月7日
  2.  ゼミで話し合いながら、雑誌の装丁を決めていく。
  3.  9月末、ゼミ誌原稿締め切り。
  4.  印刷会社を決める。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。
  5. 【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。
  6.  11月半ばまでに印刷会社に入稿。(芸祭があるので遅れないこと)
  7.  雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。
  8.  印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。

 

注意 : なるべくゼミ誌印刷経験のある会社に依頼。(文芸スタッフに問い合わせ)

はじめての会社は、必ず学科スタッフに相談すること。

 

7・7ゼミ  嘉納治五郎研究、他

 

ゼミ雑誌作成 → 大きさ 題名「(サブ)2014年読書と創作の旅」

ページ数

 

土壌館投稿術 → No.5 道場のこと

 

テキスト関連 → 嘉納治五郎とは何か。20歳までの年譜

 

読むこと → 柔道のはじまり 脚本読み原作冨田常雄『姿三四郎』

 

 

時評観察  ブラック企業排除 ―ある自治会閣議決定―

 

こんな提言があったとき、どう考えますか

 

先の宵、団地自治会の役員会に出席した。大学の勤めの他、地域では町道場主、民生委員児童委員と貧乏暇なしである。団地自治委員は、団地に30余年住んでいることや、その多くが高齢者ということで、仕方なく役員を引き受けている。が、まだ仕事優先でなかなか協力できないでいる。そんなところから、罪滅ぼしにせめて役員会ぐらいはと参加したのである。この夜の会議のテーマは、自治会最大のイベント盆踊り大会だった。毎回、近隣の団体や会社から総額40万近い寄付金があり大いに助かっている。

会長は、腰痛でめったこないが、この夜は来た。そして、唐突に盆踊りの寄付金について提言した。内容は

「ブラック企業からの寄付金は、受け付けないようにしょう」とのことだった。

「ブラック企業 !?」

若者ならすぐわかる言葉だが、会議に出席しているのはほとんど70歳代の女性7名と。66~80歳までの男性5名。すぐにはわからなかった。

「悪い会社です」会長は得意そうに言った。「代議士が金で逮捕されたあの病院です。あんなところから寄付をもらったのでは、なんだあの自治会はと言われかねません」

「私、通院していますが」初老の婦人が不満そうに言った。「医者も看護婦さんも、みんな一生懸命働いています」

会長は、それを待っていたように間髪をいれずに言った。

「働いている人の問題ではないのです。そうやって地元の患者から集めたお金を選挙のときバラまいて、親族を当選させた行為が問われるのです」

「しかし、選挙違反の代議士と病院と一緒にしたのでは・・・切り離して考えた方がいいと思うのですが・・・」

「いや、だめですね。とにかくそういう悪徳弁護士を生む病院から、寄付なんかもらってはだめなんです」会長は、聞く耳をもたないようだ。

「もう一つはどこですか」75歳になる男性の副会長が聞いた。

「このあいだできたチエン店の居酒屋です。あの経営者は悪徳業者です。従業員を酷使して訴えられているんです。自分は国会議員になりましたけど、とにかく労働時間がひどいという噂です。こんな企業から寄付をもらってはだめです」

「ことし裁判になったことは知ってますけど、ブラック企業は造語で、基準はないのでは・・・ユニクロだってブラック企業といわれていますが」

一番歳の若い役員が(それでも66歳)不審そうに聞いた。

「たいていの会社は、多かれ少なかれ自分のところが良くなるようにやってるんじゃあないですか」やり手の女性事務局長は、そわそわ気味に言って皆を見回した。彼女にとってブラックより、まずは寄付金だが、会長の意には逆らえないといったところのようだ。

7名の女性役員は、社会問題を持ち出されておおいに不満の様子である。採決をとればよいがと思っていると突然

「私は、会長の意見に賛成です」御歳82歳で老人会会長が同調した。「居酒屋の方は、問題外ですが、病院はどうでしょう。しかし、悪徳代議士を当選させた地盤になったのですから、会長のおっしゃる通り、そんなところから寄付をもらってはまずいですよね」

三役と敬老会長の意見で、決定。ことしは寄付金をもらわないことに決まった。何か集団自衛権の閣議決定を思いだしり村八分というのは、こうした現象から起きてくるのか、思ったりで釈然としなかった。多くの役員は、不満があるようだったが、ここで反対を唱えても疲れるだけ、5千円か1万円の寄付金の為に争いになるよりは、と口をつぐんだ。

ブラック企業は、排除。自治会は祭の寄付金をむらうべきではない。この考えどうか。

 

 

嘉納治五郎研究   テキストは、なぜ志賀直哉作品か

 

テキストに志賀直哉作品をとりあげたのは、むろん志賀直哉が小説の神様ということもあるしその作品に魅入られたとの思いもある。が、一番の動機は柔道にある。

志賀直哉は柔道において、嘉納治五郎の孫弟子に当たる。学生時代志賀は、柔道に明け暮れた。白樺派時代には嘉納治五郎と親交あった。そんなところから、嘉納治五郎研究を目指すうえで志賀直哉は、重要な作家である。

 

志賀直哉(創作理念)= 嘉納治五郎(柔道理念) → ドストエフスキーの土壌主義

 

嘉納治五郎とは何か 年譜から

 

1860年(万延元年)10月28日兵庫県御影村 銘酒「菊正宗」の一族嘉納家に生まれる。

3月1日桜田門外の変 咸臨丸アメリカへ

1867年11月15日 7歳 坂本竜馬暗殺 大政奉還・王政復古

1869年(明治2年)10歳 母定子病死  版籍奉還

1870年(明治3年)父次郎作と上京。このころの夢は天文学者

1873年(明治6年)14歳 育英義塾入学 征韓論西郷隆盛下野

1874年(明治7年)15歳 外国語学校入学 佐賀の乱

1875年(明治8年)16歳 開成学校入学 この頃、いじめに悩む。柔術道場を探す。

1877年(明治10年)18歳 開成学校→東京大学 柔術道場(福田八之助・天神真楊流)に

入門はじめて柔術を習う。西南の役 西郷隆盛死ス

1878年(明治11年)フェノロサ(25歳)来日、東京大学で哲学を教える。ヘーゲル、カン

トから『自由論』のミルなど。モースの紹介。哲学・美学の父。

1879年(明治12年)20歳 7月アメリカ前大統領グラント将軍来日。渋沢栄一の飛鳥山別荘で柔術の技を披露する。(磯正智、福田)、8月14日福田八之助死去。伝書等を遺族より委託される。天神真楊流三代目磯正智に入門。朝日新聞社創刊。(前年5月大久保利利通暗殺)

1880年(明治13年)21歳 戸田一門、大学で柔術の形と乱どりを披露。治五郎も参加。

1881年(明治14年)22歳 6月磯正智死去、起倒流飯久保恒年に入門。7月東京大学文学部政治学と理財学科卒業、文学士。文学部哲学科に入学。

1882年(明治15年)23歳 学習院講師となり政治学・理財学を講義。2月下谷北稲荷町永昌寺に居を移し講道館柔道を創始。

嘉納塾創立

3月 南神保町に弘文館「英語学校」創設。

中国留学生受け入れ、魯迅ら。

5月 永昌寺に「講道館」を創設。

8月学習院教師に任ぜられる。

1883年(明治16年)23歳 弘文館の土蔵を道場にする。西郷四郎代稽古。学習院に柔道場が設けられ指導に当たる。5月麹町自宅玄関脇に道場を移す。10月飯久保恒年より起倒流免許皆伝を受ける。鹿鳴館完成、鹿鳴館時代はじまる。

 

2月20日、宮城県石巻市で志賀直哉生まれる

 

嘉納治五郎の前半の人生、東大時代、いじめ対策ではじめた柔術に魅せられ、武道再興を目指す。道場探し、設立。昭和13年5月3日、この日の太平洋は、風もなく穏やかだった。雲ひとつない大空の下、豪華客船氷川丸は、穏やかな日差しを浴びながら一路横浜を目指していた。

暗雲漂う世界の中で孤立し戦争へ戦争へと突き進む日本にあって、その船は、戦争から国民を救う唯一の希望の船だった。第12回オリンピック東京大会開催の喜びを満載していた。

甲板の藤椅子に老人が一人座って心地よさそうに昼寝をしていた。その寝顔は、大役を果たした後の安らぎがあった。しかし、

 

架空秘話・千帆閣の海

1867年11月末の木枯らし吹くある夜、神戸の御影村にある酒造業の嘉納家に久しぶりに当主が帰ってきた。嘉納家に婿入りした次郎作は、家業は妻の定子に任せて、自分は廻船業を行って幕府の廻船方ご用達の勤めについていた。この時期、海軍奉行勝海舟の命を受け和田岬砲台の建造に関っていた。7歳の嘉納治五郎は4人の兄姉たちと玄関に出て迎えた。父次郎作は、いつものように子供たち長兄の寅太郎(久三郎)、次兄亀松(謙作)、長女柳子、

次女勝子に「かわりはないか」「母の言う事はきいているか」など次々声をかけた。
末っ子の治五郎にも
「治五郎、お前も立派にあいさつできるようになったときいたぞ」
と、にこやかに声をかけて片手を頭に乗せて撫ぜた。
幕府のお殿様(閣老小笠原壱岐の守長行)が摂海防施設視察にきたときのことだとわかった。後日、姉の勝子はこのときのありさまを
「治五郎は両手を膝の上にそろえて乗せ、壱岐の守様のお尋ねにはきはきお答えしていた」
と、会う人ごとに自慢していた。
治五郎は、誉められたことはうれしかったが、何か気にかかった。たしかに、いつものように快活な父ではあったが、その実、何か違った。声が重い。その予感は当たった。父次郎作は、千帆閣の広いお座敷に定子と子供たちを並ばせると沈痛な面持ちで静かに言った。
「治五郎は、どうか知らないが、皆は、覚えていよう。神戸海軍操練所で塾頭をしていた坂本さまが亡くなられた。勝のお殿様からの話だ」
「えっ?!坂本さまといわれると、坂本竜馬さま?ここによく来られた」
定子は、驚いて聞いた。
「そうだ。あの坂本さまだ。土佐藩を脱藩して勝の殿様の一番弟子になられた」
「覚えております」兄の久三郎と亀松は、声を揃えて言った。「庭で剣術を教わりました。こんどは北辰一刀流をみせてくれるといっていたのに残念です」
「面白い、型破りのお方でした。治五郎は、よく遊んでもらいました。子供のように素直な本当にいい方で、こんどはいつ来られるのかと楽しみにしておりましたのに」定子は、言ってまだ信じがたい顔でたずねた。「それで、まだお若いのに、どうされたのですか」
「それが、・・・」次郎作は、言い淀んだ。子供たちに聞かせるべきか躊躇した。が、意を決してぼつりと言った。「お順さまの、婿殿と同じだ」
「まあ」定子は絶句した。
(三年前、勝海舟の義弟佐久間象山は、公務の帰路、京都三条付近で暗殺された。)
「いい眺めじゃけん、これはいかん。土佐の海を思い出すばい」
勝に連れられてはじめて千帆閣にきたそのぼさぼさ頭の若者は、歓声をあげて庭に下りていった。千帆閣の広大な築山の向こうには神戸の海が広がっていた。彼は、なつかしそうに庭から一望できる海を眺めた。大きな背中に無邪気さが溢れていた。子供は、子供のような大人をすぐに見分けるようだ。三歳の治五郎は、背後から近づくと恐れも遠慮もなく若者の足にぶつかっていった。不意をつかれて若者はよろけた。
「これ治五郎。お客さまに」定子は、驚いて言った。
「かまわんです。これは油断しとりました。まっこと油断大敵本能寺じゃ」
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.245 ―――――――― 6 ―――――――――――――

 

若者は、治五郎を軽々と抱き上げ、肩車すると目前の海を見渡して叫んだ。
「海は広いのう。ぼんは、この海の向こうにも人がいることは知っとるか」
「知ってらあ」治五郎は、バカにするなと若者のボサボサ頭をポカリなぐった。
「こら」若者は、笑って言った。「行ってみたいか」
「うん、父上の船で行くんだ」
「そうか、おじちゃんの船にも乗せてやるぞ」
「おじちゃん、船もってるの」
「うん、将来な。そのために勝先生に船の乗り方を学ぶのだ。面白いぞ」
「じゃあ、約束してくれる。おじちゃんの船に乗せてくれるって」
「おう、約束するぞ!二人で世界中をまわろう」
「セカイジュウをまわろう」
「そうだ、世界中だ。でっかいぞ。出発!」若者は、叫んで駆け出した。
はじめての肩車に治五郎は、揺られながらキャッキャツと大はしゃぎだった。28歳の若者と3歳の幼児。仲の良い叔父と甥が遊んでいる。そんな微笑ましい光景に見えた。
「あの二人、よほど意気が合うとみえますな」
「そのように」
縁側から勝海舟、次郎作、定子の三人は、なかばあきれて眺めていた。

庭から聞こえてくる、二人のはしゃぎ声。

 

そのとき吹き寄せた一陣の荒い汐風が懐かしい思い出を吹き飛ばした。

しばしの沈黙のあと
「お順さまの婿殿も立派な人でした。坂本さまも・・・」定子は悲しそうにつぶやいた。「いい人ばかりがどうしてでしょう。それも、ご自分のためではなく、よい世の中をつくろうとと考え努力されている方ばかりが」
「わからん、勝のお殿様も落胆しておられた。もう、あんな男はいない、と。徳川様も大政を奉還されるそうだ。大変な世の中になるかも・・・」
次郎作は、肩を落として言った。
治五郎は眠くなっていた。父と母が話している坂本さまのことは、ほとんどおぼえていない。ただ誰かの肩の上で揺られて、海を眺めた記憶だけがぼんやりとあるだけだ。治五郎は、睡魔で薄れゆく意識のなかで夢をみた。剣を持った大男が、海に向って立っていた。男は、剣の達人で、新しい平和な世の中をつくるために世界に行くという。自分は、その肩の上に立っている。どこまでもつづく青い大空と大海原。
治五郎は一瞬の眠りから目覚めた。目の前に大海原がひろがっていた。五月晴れの太陽の光りが燦々とデッキの上に落ちていた。ここはどこか、自分は、セカイを救うためにあの大男と旅にでたのか。次の瞬間、治五郎は我に帰った。1938年5月3日、自分は、いまバンクーバー発の客船「氷川丸」に乗って日本に帰るところだ。あと3日で帰国できる。
治五郎は、自分の年齢を思った。79歳になる。よく生きた。治五郎は、その後、皆の話で坂本竜馬の偉業と無念を知った。もうはるか昔になるが、勝の殿様は、会うたびに悔しがられた。「竜馬が生きていればな」と。戦争へ戦争へとひた走る日本。坂本竜馬がいればこうはならなかった、というのだ。そして、次に治五郎のことを心配した。「治五郎、おまえさんの柔道理念は、竜馬の言うとることとよう似ちよる。用心せい」まだ三十代と若いが、柔道の創始者、近代教育の実践者として名を馳せる嘉納治五郎を呼び捨てにできるのは、日本広しといえども、勝海舟ただ一人である。皆が幸せになることを考えすぎる自分の身を危うくさせるというのだ。いま日本もセカイも、のっぴきならぬ状態に陥っている。が、東京オリンピック招致決定で、あの大男との約束は、半分は果たした。そのように思った。そのときどこかで「油断大敵、本能寺」そんな声を聞いた気がした。ボサボサ頭の大男の声だ。

 翌日、1938年5月4日午前6時33分、嘉納治五郎死す。79歳。

 

土壌館・実践的投稿術 ⑤

オンボロの町道場を引き継いで10数年、相次ぐ風雪被害で町道場はついに廃屋同然となった。もはや、たたんで土地は地主に返還するしかない。そう決心したとき、かっての教え子が現れた。彼は小学校は土壌館で、中学高校は学校の柔道部で柔道をやっていた。ときどき顔をみせていたが、卒業してからは

 

2000年(平成12年)4月2日 日曜日 朝日新聞

 

町道場の灯を支える教え子

一人でも通ってくる子供がいる限り、減り続ける町道場の灯を消すまい。そんな思いで柔道を続けてきた。

しかし、年々少なくなる生徒の数。築三十年の老朽化した道場は、雨が降れば雨漏りの、風が吹けばトタン屋根の、稽古中はでこぼこ床の心配が絶えない。それだけに修理代もバカにならず、地主との契約もある。こんな状況に限界を感じ、道場をたたもうかと迷っていた。

そんなとき職人風の若者が訪ねてきた。十数年前に通っていた生徒だった。社会に出てからやめてしまったが、また稽古したくなったとのこと。私が現状を話すと、見るまでもないが、彼は道場のオンボロぶりにあきれながらも「自分が直しますから」と申し出た。

かつての生徒は大工になっていた。先日の日曜日、彼は材料を車に積んでやって来た。棟梁の父親も一緒だった。息子の心意気をかって、協力したいと言った。

親子が一日がかりで根だを取り替え、床を張り替えた。「近くに柔道が出来る場所がないと困りますから」。若者は言った。「そのうち屋根も直しましょう」。屈託のない笑顔が頼もしかった。続けられる限り。そんな勇気がわいてきた。

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彼のおかげでオンボロ道場は2002年5月まで持ちこたえることができた。

 

投稿術バックナンバー

No.1 「医師への金品 規制できぬか」   1994・2・2  朝日新聞「声」欄

No.2 「カラー柔道着 いいじゃないか」  1994・5・17    朝日新聞「声」欄

No.3  「立会人が見た 活気ある投票所」  2009・9・2  朝日新聞「声」欄

No.4   「勧誘の仕方 改められぬか」    1994・10・15   朝日新聞「声」欄

No.5 「団地建替え 住めぬ人びと」    1995・9・24     朝日新聞「声」欄

No.6 「地域に必要な 子供たちの場」   1996・11・5  朝日新聞「声」欄

No.7 「燃える家々に 戦争を実感」MoMo 1999・4・3  朝日新聞「声」欄

No.8 「嘉納」の理念 世界に発信を    2009・3・10  朝日新聞「声」欄

No.9 「50歳の1年生 師の撮影行脚」    1996・9・16  朝日新聞『声」欄

No.10 「教師の創意で 生徒に楽しさ」   1995・3・15  朝日新聞「声」欄

No.11 「子どもが集う道場は街の灯」    2002・5・8   朝日新聞「声」欄

No.12 「町道場の灯を支える教え子」    2000・4・2   朝日新聞「声」欄

1994.6.4

2000.11.17

2006.3.19   2006.7.28  2008.7.8  2011.1.8

 

 

 

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2014年、読書と観察の旅日誌

 

□4月28日(月)村田 ゼミ紹介

□5月12日(月)西尾 時評 ゼミガイダンス

□5月19日(月)西尾、渡辺 テキスト読み DVD観賞

□5月26日(月)西尾 テキスト解説 ゼミ誌

□6月 2日(月)西尾、ゼミ誌点検、テキスト『網走まで』考察

□6月 9日(月)西尾、渡辺 テキスト『夫婦』 研究・考察『網走まで』

□6月16日(月)西尾、渡辺 人生相談、ドラッグについて、カラー柔道着

□6月23日(月)通信発送

□7月7日(月)

 

【テキスト読み記録】・『菜の花と小娘』 ・『日本国憲法』 ・『網走まで』 ・『夫婦』

【課題】1.車内観察 2.子ども時代の思い出 3.社会批評(社会問題・日本国憲法)4.一日

【.創作】『網走まで』前後、

 

掲示板

 

・・・・・・・・・・・・・編集室便り・・・・・・・・・・・・・・

 

□住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方『下原ゼミ通信』編集室

メール: TEL・FAX:047-475-1582  toshihiko@shimohara.net 09027646052

 

 

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