文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.39

公開日: 

日本大学芸術学部文芸学科     2005年(平成17年)10月17日発行
文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.39
BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN
 ホームページ http://www.shimoharanet 編集発行人 下原敏彦
                              
2005後期9/26 10/3 10/17 10/24 10/31 11/7 11/14 11/21 11/28
12/5 12/12 1/16 
2005年、読書と創作の旅
10・17下原ゼミ
10・17の下原ゼミは、下記の要領で行います。(文ゼミ1)
・・・・・・・・・・・・・・・ 記 ・・・・・・・・・・・・・・
1. ゼミ誌原稿の提出 社会観察(報告できる人は発表する)
      
2. テキスト(『児を盗む話』)の朗読と感想
 
3. 読書の秋(配布した短編を読む) ※時間あれば感想を書く
2005年、読書と創作の旅・社会観察
 
 ニートやフリーターの増加は、今日の日本において深刻な問題となっている。特にニートの急増は懸念されている。その対策として先の新聞に、こんな記事があった。(記事太字)
8日文部科学省は、新たなニート対策として、専門学校や若者支援の非営利組織(NPO)と連携して短期間職業教育に乗り出す方針を決めた。「就職に強い」とされる専門学校での学生生活をニートに経験させることで、職業に直結した教育を行うのが狙いだ。関連経費2億円を来年度予算に盛り、来年夏ごろからの実施を目指す。(2005・10・8読売)
 (ニートとは何か。ニート(NEEET)=「Not in Education,Employment or Training」の略語15~34歳の年齢層で、通学も家事もせず、働く意思が全くない人と定義されている。)
 「働く意思が全くない人」にどのようにして労働意欲や意識を植え付けるのか。そんなことが可能なのか。疑問は残るところではあるが、政府は、就職率の高い専門学校を仲介することでニートの就職・自立を促したいとしている。初年度は数千人規模を対象にしているという。それにしても、なぜこのような若者が増えてしまったのだろうか。(関係記事4頁)
目 次
□土壌雑記「小学生観察」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
□10月3日ゼミ報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
□ニート検索&文学作品のニート・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
□連載テキスト解析『生きている兵隊』&『兒を盗む話』・・・・・・・・5、6、7、8、9
□情報、掲示板、編集室・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10、11、12
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.39 ――――― 2 ―――――――――――――――――――


社会雑記         スズメバチ報道観察
秋も本格化して大分、治まってきたが、ひところスズメバチの報道が多かった。毎年、秋口になると、スズメバチに刺される被害が続発する。そんなところからとりあげられるようだ。テレビでもさかんにスズメバチ退治の様子を放映していた。最近、目にしたのは、民家の壁の中につくった巣を業者が殺虫剤で駆除している民放テレビのニュース番組だった。依頼主の主婦は、何度も刺された、と恐怖を語っていた。この時期のスズメバチは獰猛で、より攻撃的である。新聞でも予防対策としてこんな特集を組んでいた。(10月8日 朝日)
「スズメバチ被害どう防ぐ」スズメバチに襲われ、死亡する被害が相次いでいる。刺されないためにはどうすればいいの?もし刺されてしまったら? ――こんな問いにハチの生態に詳しい小野正人・玉川大教授は紙上で対処や注意をこう答えていた。「スズメバチにとって秋は、次世代を担う新女王を育て上げる大切な季節。ここで外敵に巣を壊されたら今までの苦労が水の泡なので、すごく敏感になっているんです」したがって「まず、巣のある場所を知ったら近づかないこと。いきなり刺すことはまずないので、威嚇してきたら急に動かず、来た道をゆっくり戻ることです。においの強い香水や化粧品は、ハチを刺激する可能性もあります」と。そして、万が一不幸にも刺されてしまった場合は。国内唯一の「ハチアレルギー外来」がある独協医大の平田博国医師は、こう話す。「スズメバチに限らず、ハチに一度刺されると1、2割の人にハチ毒に対する抗体ができるのです。ふつう5~10年でなくなりますが、抗体がある人が再び刺されたら、2割以上の確率で全身症状を伴う『即時型アレルギー反応』が出ます」刺されると、じんましん、顔のむくみ、ぜんそく、ひどいときはショック症状を起こして死ぬこともある。が、もし「過去に刺されていても全身症状が出ていなければ、焦らず、安静に様子を見てください。因果関係ははっきりしませんが、ぜんそくの方はぜんそく症状が強く出る可能性はありますね。動悸や冷や汗が出たり、気分が悪くなったりしたら、必ず誰かに病院に連れていってもらう。できれば、救急車で」
以上が最近、目にした社会での出来事である。毎年、こうしたニュースを見たり聞いたりすると、私は、子供の頃の暮らしを思い出したりする。
今日では、上記のような報道でスズメバチは危険なもの、恐ろしいものといった印象がつよい。今やこの日本においてスズメバチは人間にとって野生のなかで一番の野獣なのだ。
しかし、私が子供の頃、スズメバチは体も大きいし、怖いハチにはちがいないが、それより自然の中の食べ物といった印象の方が強かった。(これは私の郷里のみかも知れないが・・・・信州伊那谷の山村)。であるから、スズメバチを見かけても村の人たちは、今日、報道されるようにようにむやみやたらに、怖がらなかった。(むろん、恐ろしさや怖さを煽り立てる報道もなかった)。それよりスズメバチが自分の家の軒下へ巣をつくってくれないものかと願った。なにしろスズメバチが巣をつくると縁起がいいと信じていた。だから、巣がどんどん大きくなることを望んだ。私の家につくったときは、父がたいそう喜んで毎朝、ハチの働きぶりをながめていた。私は、ハチに遠慮して恐る恐る学校に行ったものだ。頭の上でブンブン音を立てて大きなハチが飛んでいるのは気持のよいものではなかったが・・・。
こんなふうにハチのすぐそばで生活していたわけだが、私は郷里でくらした18年間スズメバチに一度も刺されたことはなかった。(ほかのハチにはよく刺された。アシナガバチは毎年だった)、部落でも村でも、刺されたという人を聞いたことがなかった。たいていの巣は、一番ハチの子が多い秋口になってとられた。火薬で眠らせハチの子は食品に、親バチたちは焼酎漬けにされた。スズメバチの子は大きすぎて地バチほど美味しくはなかったが、煮付けや炊込みをよく食べた。焼酎漬けは、足を打撲したり、虫に刺されたりしたとき効能はどうかは知らないが、脱脂綿にひたしてつけていた。
 共生という言葉を聞いて久しい。たしかにスズメバチは恐ろしい。刺されれば痛いだろうし、死ぬかもしれない。が、マサイ族がライオンと暮らすようにスズメバチを恐れながらすぐ近くで生活していた、あの時代も妙に懐かしい。  (編集室)
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2005年、読書と創作の旅
 10・3ゼミ報告
 
連休の谷間
 10月3日(月)のゼミは、出席者が少なかった。この日は、翌日が大学の創立記念日で連休の谷間になる。それが関係してか校舎全体がひっそりしていた。もしかして誰も来ないのでは、そんな不安もあったが、4名の出席者があった。「社会観察」の提出なし。
読書の秋
 この日は、テキスト『児を盗む話』の朗読と感想を予定していました。が、参加者が少なかった為、「読書の秋」に切り替えました。「読書の秋」は、より多く世界文学を知ることを目的に配布した短編コピーを読んでもらい、感想を書いてもらいます。今回は、最初ということもあり、ドストエフスキーの作家デビューのころを少し紹介し処女作『貧しき人々』の冒頭部分を黙読してもらいました。(一部だったので感想はなしでした)
ドストエフスキーの作家デビューまで
 ドストエフスキーは、ロシアでは、いわゆる最初の職業作家となります。ドストエフスキーの前にも、プーシキン、レールモントフ、ゴーゴリ、ツルゲーネフといった作家はいますが、彼らは作品を書いてそれで生活をしていた人たちではありません。
 ドストエフスキーの父親は司祭の家に生まれ、モスクワ帝国外科医学校入学。軍医を経てモスクワ帝国マリンスキイ慈善病院の医師となる。1827年に世襲貴族たることを許される。母マリアはモスクワの商人の娘。生まれてから作家デビューするまでの系譜は下記のよう。
1821年10月30日 モスクワでドストエフスキー家の次男として生まれる。
1831年10歳のとき 父がモスクワ郊外に領地を購入。
1837年2月27日 母マリア病死37歳 1月29日詩人プーシキン決闘で死ぬ。
1838年1月 17歳 陸軍中央工兵学校入学。
1839年6月 父ミハイル、領地の百姓たちに殺害される。ドストエフスキー18歳のとき。自分が願っていたことが現実となった、ということに良心の呵責を感じる。
1842年8月 22歳 全課程を修了。ペテルブルグ部隊工兵団製図局に配属となる。
1844年9月 23歳 退職願提出。10月退官。中尉で。友人グリゴローヴィチと作家を目指して共同生活をはじめる。
1845年5月6日 ドスエフスキー『貧しき人々』で文壇に劇的デビュー
『貧しき人々』の衝撃
 文学となるとどうかは知らないが、暇つぶしとたんに好きということから、小説本はよく読んだ。探偵小説、推理小説、官能小説、恋愛小説、時代もの、忍者もの、冒険もの。それに日本文学。しかし、何かものたらなかった。そんなときこんな話をきいた。ある若者がはじめて書いた小説を友人が知り合いの詩人宅で、朗読した。書簡風小説。詩人は10頁も聞けば、とせせら笑っていた。だが、10頁が20頁、30頁となっても、詩人は止めなかった。朗読が終わったのは翌日の未明だった。とたん詩人は興奮して叫んだ。二人はこんな会話をかわした。「この作者に会いに行こう」「まだ寝ています」「寝ている場合ではないよ」
 世界に、そんな小説があるのだろうか。すぐに作者に会いたいと思うほどの小説が。何が書いてあるのか。どうせ、大げさな書評。しかし半ば期待で本屋に急いだ。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.39 ――――― 4 ―――――――――――――――――――
社会観察『ニート』について
ニートについての検索
ニートについてインターネットで検索してみると下記の説明がでた。
直訳すると
「就業、就学、職業訓練のいずれもしていない人」。英国で名づけられた。
学術的・行政的定義
学生でもなく、
就業者でもなく、
求職「活動」もしておらず、
主婦(主夫)でもない
という者をさす。
注意点
「フリーター」はニートに含まれない。
また、就業意欲があっても求職活動していなければ「ニート」になる。
ただし,家事手伝いはニートに含まれる.
  
概況
従来の就業支援策からこぼれ落ちてきた存在であり、失業者としてもカウントされず、これまで把握されてこなかった。
ニートは、働くという意味での社会参加に対する意欲を喪失し、または奪われている。現在、日本でも社会問題化しつつある。
文学作品の中のニート
 ニートという言葉は新しいが、彼らの存在は決して新しいものではない。他者からみれば、志賀直哉自身も、彼の作品の主人公たちもニートのようなものである。夏目漱石も『それから』『門』など、作品のなかにそれらしい主人公たちを描いている。
 しかし、文学作品の中のニートといえば何といっても『罪と罰』のニヒルな主人公ラスコーリニコフである。彼は23歳のエリート学生だった。が、ある日、突然、大学へ通わなくなり、家庭教師もやめ、友人と語り合うのも面倒になり、天井の低い屋根裏部屋に引きこもってしまった。まさに上記の学術的・行政的定義にぴったりのニートとなった。寝てばかりいる彼を心配した下宿屋の女主人が何もしないことを非難すると、彼は翻然「仕事をしている」という。「どんな仕事を?!」訝る彼女に、彼は「考える仕事をしている」という笑ってしまう場面であ。そのとき彼の頭の中にはどんなことがあったのか「ある、押し返しきれない感覚/それは、自分の出会うもの、自分をとりまいているものすべてに対する、あるつきることのない、ほとんど肉体的といっていい嫌悪感だった」
文学作品の中のニートたちは、皆に疎んじられながらも頭の中では、途方もない想念を煮えたぎらせている。非凡人思想、革命思想、などなどである。
では、現実の中のニートたちは、どうだろうか。上記の検索の定義に当てはまる、何もしない若者。彼らは本当に何もしていないのか。否、彼らも文学作品のニートのように地下において強力なマグマを息づかせているのかも。いったん何か意識をもったら彼らは大きな出来事を起こすかも知れない・・・浮動票が勝利した先の選挙のように。
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社会観察・テキストを読む
創作ルポの傑作・石川達三著『生きている兵隊』について
 社会の中で戦争は大きな事件・出来事である。戦争とは何かを知るには、徹底した戦争観察が必要である。今日、マスメディアの発達によって私たちは茶の間で戦争を見ることができる。レポートを聞くことができる。しかし、どんなにリアルな映像も、迫真の実況も石川達三の『生きている兵隊』ほどに戦争と人間の関係を教えてくれない。戦争という現場で、人間はどう変わるのか。本書は、そのことを見事に捉えた戦争観察の名著である。
なぜ創作ルポか
はじめに、このルポタージュは、なぜ創作なのか。それは、この作品が1938年(昭和13年)に書かれたことにある。当時の日本は軍事国家、ファシズム国家である。軍に都合の悪いものは、書けないし書いても没にされた。ゆえに本書でも(前記)で「日支事変については軍略その他未だ発表を許されないものが多くある。」と断っている。もっとも、ファシズムや独裁政権でなくても戦争のノンフィクションものはむずかしい。ベトナム戦争でアメリカはなぜ負けたのか。ペンタゴンや米情報局は敗因の一つに、マスメディアを自由にさせたことをあげた。出撃から就寝まで、米軍兵士の行動はなにもかも筒抜けだったというわけである。その反省をかつて今のイラク戦争では、メディアはすべてが軍の規制下にあるという。このことを思えば、当時の軍国日本において、創作ルポは、まったく当たり前なことだったに違いない。作者石川は(前記)でこうつづけている。「従ってこの稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由に創作を試みたものである」と。
現在、日本が抱える外交問題の一つに南京大虐殺がある。はたしてジェノサイド、大量殺戮はあったのか、なかったのか。72年の歳月が流れても日中間では、未だ真相不明の歴史の謎となっている。毎年、教科書が出版されるたびにもめる原因の一つともなっている。
ちなみに先般出版の扶桑社『新しい歴史教科書』(2001年版)には、この事件についてこう書かれてある。(教科書文は太字)
日中戦争
 関東軍など現地の日本軍は、満州国を維持し、ブロック経済圏を建設するために、隣接する華北地域に蒋介石政権の支配のおよばない親日政権をつくるなどして、中国側との緊張が高まっていた。また、日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937年(昭和12年)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。(最近になって、この発砲事件は日本軍の自作自演と解明された。1965年ベトナム戦争の発端となったトンキン湾事件も同様とみられている。)翌朝には、中国の国民党軍との間で戦争状態となった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
 同年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり(これも、やらせか)これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者がでた。南京事件) 12月12日日本軍南京を攻略した。
 1937年12月25日に新進作家石川達三(32)は東京を発つ。1938年1月5日上海経由で南京着。南京で8日間、上海で4日間取材する。
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.39 ――――― 6 ―――――――――――――――――――
社会観察・戦争ルポ解析       『生きている兵隊』を読む
 石川達三は、この作品を1938年(昭和13年)2月1日から書きはじめ、紀元節の未明に脱稿した。「あるがままの戦争の姿」を知らせたくて書いた。330枚必見の戦場ルポ。
 1937年7月7日から日中戦争がはじまったことから大日本帝国は、9月25日言論統制のための内閣報道部設置。11月大本営が宮中に設置した。ゆえに、この作品は創作ルポの形をとり「部隊名、将兵の姓名などもすべて仮想のものと承知されたい」とした。
    一
 高島本部隊が太沽(タークー)に上陸したのは北京落城の直後、大陸は恰度残暑の頃であった。汗と埃にまみれた兵の行軍に従っておびただしい蝿の群れが輪を描きながら進んで行った。
 
 まず作者は最初の1行において、これは創作であると表明した。おそらく言論統制を意識においていたものと見られる。最初のこの文からわかることは、これを書いた従軍記者は北京陥落直後、タークーの上陸部隊にいた。季節は夏の終わりか。
しかし、実際の作者は真冬に中国に行った。当然、内閣報道部は知っているはずで、そんなところから、この作品が即、創作とわかるはず。が、たった二、三行ではあるが、行軍する兵の様子が臨場感よく描けている。除州、除州と人馬は進む。こんな光景が浮かぶ。
それから子牙河の両岸に沿うて敵を追いながら南下すること二ヶ月、石家荘が友軍の手に落ちたと聞いたのはもう秋ふかい霜が哨兵の肩に白くなる時分であった。
先に残暑の頃とあったから8月中旬以降だろうか。従軍記者のいる部隊は、ひたすら時の首都南京を目指して南下していく。が、ルポは、一気に二ヵ月後である。この間、何があったのか。「敵を追いながら」とあるから、ときどき戦闘をしてということだろうか。しかし、二ヶ月の空白は長い。読者は、すでにこの作品が従軍記ではなく創作ルポであることを理解する。作者も大本営の報道部がそうとってくれるよう暗に願っていたかも・・・。
いずれにせよ、この作品はノンフィクションではなく創作作品である。作者は、冒頭の数行でそのことを知らせ、以降、自分の目で見、耳で聞いたことを検閲を想定しながら書いていったに違いない。そのように編集室の筆者は読む。ちなみに、作者は回想で「作中の事件や場所は、みな正確である」としている。
高島本部隊は寧晋(ネンシン)の部落に部隊「師団」集結して次の命令を待ちながら十日間の休養をとった。その間に中隊ごとに慰霊祭が行われた。二人の中隊長は戦死し歩兵は兵力の十分ノ一を失っていたが、補充部隊が来るという話しは聞かなかった。
ここから、はじめて部隊の実況がはじまる。この部落に着くまでの二ヶ月、前文ではあっさり飛ばしてしまったが、「二人の中隊長の戦死」「兵力の十分ノ一を失って」と知れば、この二ヶ月間は、いかに激戦に継ぐ激戦があったとわかる。しかし、補充部隊は来ず、かつ慰霊祭を行ったとあるから、日本軍には、かなり余裕があった、と推測される。その余裕で、赤紙で召集されていった日本兵、すなわち平凡な一市民たちは、戦場でどう変わっていったのか。作家の目は、その地での出来事へと移っていく。
部「聯」隊本部に宛てられた民家のすぐ裏から急に火の手が上がった。夕陽の射していた本部の窓を濃い煙の影がすさまじく走った。
            
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2005年読書と創作の旅・社会観察・戦争ルポ解析
 火事の描写は簡潔である。無駄がない。作者・石川達三は2年前に第1回芥川賞を受けた。落選した有名作家たちは、どこの馬の骨かも知れぬ奴に、と口惜しがったというが、この作家がこれまでの私小説作家と違うのは、その観察力にある。貧しいがゆえに、日本を見限り、また日本から捨てられて、はるか遠く地球の裏側に希望を託す人々。彼らの旅を冷静に観察した作品『蒼氓』。作者は、日本国民の哀しみと絶望を訴えた。貧しきものは日本では生活できないのか。なんとかしろ、と。しかし、その何とかは、他国に侵略することだった。作者は、大いなる皮肉を感じながらもこの仕事を引き受けたに違いない。従軍した有名作家たちが送ってくる現地報告。「俺が全然こんなのとは違った従軍気を書いてみせる」。ほんとうの「戦争とはこんなものではない」ということをみせてやる。
 最初にかけつけた笠原伍長と部下の二人の兵とが現場をうろついていた一人の支那人を捕えた。二十二三の青年で貧しい服装をしており、首筋も手足も垢でまだらになっていた。
 作者の目は、出来事から兵士観察へと移る。捕えられた中国人の青年にも。戦争さえなければ、日本が侵略さえしなければ、友人になれたかも知れぬ二人。だが、侵略された者と守る者、両者に妥協はない。
「?(ニイ)!』と笠原伍長は怒鳴った。しかし訊問するだけの支那語は知らなかった。彼は鼻水をすすり上げながら部下に言った。
「お前な、本部の通訳さんを呼んで来い」
 兵が走り去ると笠原は道に投げ出してあった甕に腰をかけて火事を眺めはじめた。炎は壁づたいに二階の天井を這い棟に達していた。瓦と瓦との間が白熱の色に光りはじめ、窓の中は炎が渦を巻いて流れていた。
「よく燃えるなあ。熱いなあ」
 今一人の兵は両手をかざして火鉢にあたる恰好をしながら支那人の顔を眺めて言った。
「こいつ、やりそうなつらをしてやがる」
 通訳を必要とする戦争。話し合いのない人間関係。火事とはいえ、火の熱さで暖をとる。なにか懐かしい光景でもある。話でもしたくなる。しかし、そこにはもう敵という人間しかいない。「本部の通訳さんを呼んで来い」なんと悲しい会話であるか。
突然、村にやってきた日本兵たち、この中国人青年の口惜しさ無念さは想像できるが、攻め入った地での日本兵の気持はなかなか想像できない。捕えた青年をどうするのか。
 青年は二人の兵の傍にぽつねんと枯木の様に立っていた。表情のない顔、痩せた、どこか呆けた顔つきであった。ぞろぞろと七八人の兵が集って来てこの青年をとり巻いた。
 この中国青年の運命は、どうなるのか。 
つづきは、次号40号に掲載予定。
『生きている兵隊』
中公文庫 571円+税
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.39 ――――― 8 ―――――――――――――――――――
「2005年、読書と創作の旅」社会観察・テキスト解析
一般に「心の闇」と呼ばれる若者の犯罪事件。志賀直哉の作品にも、「心の闇」に光を当てた作品がある。若者は、どんな動機から事件を起こしたのか。事件最中の心境はどんなだったか。『兒を盗む話』は、容疑者の心の闇を隈なく照らし出している。同時に今でいうニートの主人公の気持の経緯を丁寧に追っている。
テキスト『兒を盗む話』について
 女の子を誘拐する。近頃、そんな事件が多くなっている。なぜ女の子を。誘拐するのか。容疑者の心の闇とは何か。志賀直哉の作品『兒を盗む話』は、まさにその闇に光を当て犯罪者の心理を白日の下にさらした貴重な作品である。(太字は全集抜粋)
この作品は、1914年(大正3年)4月1日発行の『白樺』第五巻第四号にて発表。1917年(大正6年)6月、新潮社刊行の「新進作家叢書」の1冊『大津順吉』に収録、そのとき末尾に「(大正2年)」と執筆年が明示された。
【創作余談】
 尾の道生活の経験で、半分は事実、子を盗むところからは空想。然しこの空想を本気でしたことは事実。友達もない一人生活では空想という事が日々の生活で相当に幅を利かしていた。それを実行するには未だ遠いにしろ、そういう想像を頼りにする。今ならそういう想像をする事の方を書くかも知れないが、その時代は想像をそのまま事実にして書いてしまった。もっともこれは何れがいいとか悪いとか云うことをいっているのではない。『兒を盗む話』は今はもう愛着を持っていない。多少愛着を感じていたこの小説の描写は『暗夜行路』の前篇に使ってしまった。 
前号のつづき
『兒を盗む話』を読む②
 幼女誘拐犯の「心の闇」とは何か。テキストを検証することで、その謎に迫ってみたい。
 (原文を編集室が現代表記)
前号・ニートの私は父から「貴様は一体そんなことをしていて将来どうするつもりだ」と罵られ家を飛び出した。瀬戸内のある町にきて一人で住むことにした。
私もその時とは大分気持が変わった。事情も違っていた。しかし出来るだけ不完全な生活から来る不愉快は避けようと思った。何かと必要な世帯道具を求めてきた。机、膳椀、下げ箱、出刀、薄刀、大根おろしのようなものまで揃えた。入口には名刺を貼り付けた。その下にチョコレートを入れてきた木箱で郵便箱を作って打ち付けた。傷だらけな壁には美しい更紗の布を買ってきてあげた。それで隠し切れない所には造花の材料にする繻子を打ち抜いた木の葉をピンで留めたりした。
 この町で住むことにして借りた家。私は、こまごまとした日用品をそろえる。そうすることで、これまでの家出とは違うことを、固く心に誓う。その証として玄関には郵便箱をつけ、部屋の壁は更紗の布で飾る。これから暮らす部屋をきれいにする。主人公の心の中も同じ明るく希望に満ちている。ニートの若者の心は晴れやかだ。闇はまだない。
――――――――――――――――――― 9 ――――― 文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.39
景色はいい所だった。前が展けて、寝転んでいて色々なものが見える。直ぐ前に島がある。そこに造船所がある。朝からカーンカーンと槌の音をさせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場がある。松林の中で石切りが絶えず歌を唄いながら石を切り出している。その声が町の遥か高いところを通って直接私の居るところに聞こえてくる。夕方、私は延び延びした心持で縁へ腰かけて、そういう景色を見ている。遥か下に、商家の屋根の物干しで、子供が沈みかけた太陽の方に向いて棍棒を振っているのが、小さく小さく見える。その上を五六羽の白鳩が忙しそうに飛び回っている。六時になると後の山寺で時の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つする。又小さいのが帰ってくる。静かな日には四つも五つにもなって反響してくる。その頃になると前の島の山と山の間から三角に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光りだす。三十秒位にピカリと光ってまた消えてしまう。造船所の銅を熔かしたような火が目に映る。十時になると多度津通いの連絡船が汽笛を鳴らしながら帰ってくる。舳の赤と緑の灯、甲板の黄色く見える幾つかの電燈、それらを美しい縄を振るように海に映しながら進んでくる。もう町からは何の騒がしい音も聞こえなくなって、船頭等のする高話が手にとるように聞こえてくる。
 ここには、部屋から見える景色や、周囲の有様がよく観察されている。眼下にひろがる町や海。主人公の心が一番に和んだひとときといえる。
こういう東京とは全く異なった生活が私を喜ばした。私は落ち着いた気分になって暫く休んでいた長い仕事に取りかかった。夜中から明けるまでを其時にした。耳の中で起こる響が自分でも騒々しく感じるような夜更けには私も全身で快い興奮状態に浸ることが出来た。私は総てと全て差し向かいになるような気がしていた。
 はじめこの主人公は、いわゆるニート族。そんな印象があった。そのことで父親から咎められている。そう思っていた。が、世間でいう生粋のニートでもなさそうだ。「休んでいた長い仕事に取りかかった」とあるところから、志賀作品を読んでいるたいていの人は、志賀直哉の代表作品に重ねると思う。つまり、この主人公は、文学青年ということになる。見知らぬ土地の眺めのよいところに家を借りて小説を書く。なんの生活の心配もなく。一見、作家志望のものにとっては、最高の条件といえる。が、・・・・。
こんな夜が半月ほど続くと私は段々に疲れてきた。頭が重く肩が凝って何となく不機嫌になってきた。明け方の寝つきにはよくうなされるようになった。熟睡ということがまるで出来なくなった。
 
 いくら恵まれた生活でも半月もつづけば、飽きてくるというもの。主人公の心に闇が忍び込みはじめる。
・・・未だ手を入れてないしみだらけな皮つきの瓢箪の肌をそのままに顔の皮膚にした12、3の女の子が木の生い茂った下の小さな御堂の縁側に腰かけて気味の悪い笑いを浮かべてじっと私の顔を見つめている。私は夢だとは承知しているのだ。そのくせ「寄って来るぞ」と思った。さう思えば寄って来るにきまっているのだが、矢張り思ってしまう。すると直ぐ、ぐっと寄ってきた。近づくと一緒に大きくなってもう鼻の先へくっつきさうにする。急に苦しくなる。もがくが駄目だ。と、その子供が私の鼻先で、不意にうつ向いた。短い髪の毛が前へ下がる。それがさん俵ぼつちを被ったような荒いこわばった毛だ。顔は見えないが、その乱れた神の間から気味の悪い赤さをした下唇が舌でも出したようにだらりと垂れ下がっているのが見えた。
 闇は、悪夢に形を変えて主人公を苦しめる。悪夢を操るこの闇とは何か。 次号へ
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.39 ――――― 10 ―――――――――――――――――――
2005年、読書と創作の旅  文芸情報
10月18日(火)発売!!
漫画アクション 定価290円 双葉社
武富健治『鈴木先生』第2弾
6月7日14日発売No.12、13の『鈴木先生』第一弾が好評 
新聞・読売新聞夕刊 2005年(平成17年)10月6日木曜日
またまた他者説
シェークスピアの作品、実は英国の外交官の作品!?
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2005年、読書と創作の旅      文芸情報
読売新聞 2005年(平成17年)10月9日 日曜日 スキャナー
文芸研究Ⅱ下原ゼミNo.39 ――――― 12 ―――――――――――――――――――
掲示板
 
下原ゼミ後期提出原稿について(提出数は何本でも可、郵送、メール可)
後期のゼミ提出原稿のテーマは下記の通りです。
□「社会観察」(社会で起きた事件・出来事を書いてください。自身、周囲でのことも可)
□テキスト『子を盗む話』の感想
□創作『ニート』「なぜ私はニートになったのか」「閉じこもりするのか」対策など
□普通の一日を記憶する
□配布された名作の感想
□配布した『車中の人々』の自分の作品の校正。
読書会・例会(ドストエフスキー関係)
・ドストエーフスキイの会第171回例会
10月29日 土曜日 午後6:00~9:00 千駄ヶ谷区民会館
発表者 木寺律子氏 大阪外語大博士課程在学中 
『カラマーゾフ兄弟』における『ファウスト』の登場 一般参加者500円    
・ドストエーフスキイ全作品を読む会・第212回読書会
12月17日 土曜日 午後2:00~4:45
東京芸術劇場小会議室1 作品:『地下生活者の手記』2回目
親睦会5:30~  
ロシアの古典 詩と音楽
・10月22日(土)19時開演「ようろっぱ風さろん 蛮」
・宇和島(四国)・ロシア文化交流協会主催
 以上詳細は下原まで
編集室便り
☆原稿用紙は、文芸専用原稿用紙を配布します。題名をしっかり書いてください。
☆提出原稿は直接か下記の郵便住所かメール先に送ってください。
「下原ゼミ通信」編集室の住所〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方
  メール:toshihiko@shimohara.net TEL・FAX:047-475-1582 
☆本通信はHP「土壌館創作道場」に掲載されています。
☆後期も頑張って発行していきますので、よろしくお願いします。皆さんの原稿、お待ちし
ています。
☆下原ゼミ提出原稿「名作感想」  名前
☆下原ゼミ提出原稿「テキスト子を盗む話」の感想  名前
☆提出原稿・テーマ「ニート」創作、ルポ、など 名前  高梨 直樹
☆「2005年、読書と創作の旅」テーマ「社会観察」 名前  小川 顕
 
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罫線の描き方↑
罫線(A)→線種とページ罫線と網掛けの設定→水平線→線を選んでOK
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○ 9月8日、木曜日の朝日新聞朝刊一面4段見出し「箱島新聞協会長 辞任へ」「秋山本社社長、おわび会見」
 これは、8月21日、22日の朝日新聞朝刊に掲載された記事(虚偽メモ発覚)の責任をとったと報じたもの。虚偽メモ発覚とは、(衆院解散後)亀井静香元議員と田中康夫長野県知事が長野県内で会って新党設立の密談をしたという報道記事。記事内容は、本社長野総局の記者(28)が実際田中知事に取材していないにもかかわらず、さもインタビューしたような架空の取材メモを作成(創作)した。本社はこのメモを基にして選挙関係の記事を作って掲載した。が、田中知事が記者会見で指摘し発覚した。朝日新聞は、若い一人の記者のまったくの創作メモから選挙記事をつくり発表したのである。発覚後、記者は懲戒解雇、本社編集局長は更迭されたという。
 若い記者は、なぜ、そんなウソのメモを作ったのか。あまりに稚拙すぎて信じがたいが、動機は、たんに自分をよくみせたいという単純なものであったという。原因について朝日新聞本社社長は、「社員、記者の一部にモラルの低下がみられた」とわびた。
 しかし、謎はのこる。なぜ、この若い記者は、調べれば(調べなくても)すぐにバレるようなメモを作ったのか。今日、本当に記者のモラルは低下したのか。低下したとすれば、それはなぜか。考えのある人は書いてください。
紹介・この記事を読んでいるとき、昨年の暮れに亡くなった元新聞記者(71)が書いた本のことを思いだした。本は、今年はじめ出版された。
本田靖春著 講談社2005年2月発行 定価2500円
『我、拗ね者として生涯を閉ず』
土壌館創作道場・不定期連載物予告『青春水滸伝』
[前記]1960年代末の日大は混乱を極めた。68年夏、学園紛争とは無縁だった日大に突如、火の手があがった。大学の不正事件が原因だった。火の粉は、たちまちのうちに全学部に燃え広がった。日大の長い歴史のなかで、あの一時期は暗黒の時代だった。が、また一塊の金剛石のような時代でもあった。一瞬の閃光の中に多くの物語が見えた。しかし、あの時代について書かれたものは僅かだ。見た者も多くを語ろうとしない。従ってあの時代は何であったか、今もって深い霧のなかにある。最もこの稿は、日大闘争の記録でも、あの学園紛争の真相を描くものでもない。あの激動の時代にこんな学生群像があった。たんにそれを記したかった。ただそれのみの動機である。なお、この話はあくまでも作者の自由な創作である。学部学科名、職員及び学生の姓名、出来事などすべて架空のものであることを承知されたい。
下原ゼミの理念「人類全体の幸福に繋がりのある仕事」(『暗夜行路』から)

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