文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.246

公開日:  最終更新日:2014/08/13

日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)7月21日発行

文芸研究下原ゼミ通信No.246

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

4/14 4/21 4/28 5/12 5/19 5/26 6/2 6/9 6/16 6/23 6/30 7/7 21

2014年、読書と観察の旅への誘い

 

「読むこと」「書くこと」の習慣化を目指して

 

7・21下原ゼミ

 

7月21日(月)の下原ゼミは、下記の要領で行います。文ゼミ2教室

1.本日のゼミ  → 前回ゼミ報告 ゼミ誌について 前期回顧

  1.  読むこと → 反戦歌 脚本『地下室の手記』Or『獅子と白菊』
  2.  書くこと → ドキュメント「墓参の旅」

 

 

車窓観察     甦る反戦歌  平和願う詩 拡散中 7月9日夕刊 朝日

7月9日(水)の朝日新聞(夕)でこんな記事と詩を読んだ。以下抜粋

 

「明日戦争がはじまる」ネットで話題に

「明日戦争がはじまる」と題された詩が、インターネット上で話題になっている。安倍政権が集団的自衛権の行使容認に突き進むのと時を同じくして、ツイッターで拡散した。人の命に無関心になった社会への危惧をストレートに表現した言葉に、共感が広がっている。

…作者は高知県出身で、埼玉県に住む詩人の宮尾節子さん。1993年には思潮社の『現代詩ラ・メール』新人賞を受賞した。

 

明日戦争がはじまる       宮尾節子

まいにち

満員電車に乗って

人を人とも 思わなくなった

インターネットの掲示板のカキコミで

心を心とも 思わなくなった

虐待死や

自殺のひんぱつに

命を命と 思わなくなった

 

じゅんびは ばっちりだ  戦争を戦争と

思わなくなるために いよいよ 明日戦争がはじまる

 

反戦歌ベスト3 1位「君死にたまふことなかれ」 2位「私が1番きれいだったとき」 3位「花は何処へ行った」

 

7・7ゼミ報告

ゼミ誌発行申請書 出版編集室に提出

 

7日、ゼミ授業前、西尾ゼミ詩編集長は、所沢出版編集室にゼミ誌発行申請書を提出した。これにより今年度ゼミ誌作成作業がはじまった。

 

ゼミⅡの登録者 → 西尾智音さん  岩澤 龍さん  村田和也さん  関 美琴さん

 

【ゼミ誌内容】 ゼミ誌構成原稿の内訳

 

ゼミ授業 → 日本国憲法について(改憲の是非) 集団的自衛権について

飾りとして新聞記事「社説」欄

テキスト → 『菜の花と小娘』感想 『夫婦』感想 解説

『夫婦』『菜の花』全文掲載

書くこと → 『網走まで』前後の創作 自由(エッセイ・車内観察)

 

熊谷元一研究 → 「私が一年生だったとき」どんな時代だったか。

 

レイアウト → 写真と文をどう組み合わせるか

【時 評】 盆踊り大会の寄付金を受け取るか否か(西尾)

 

風評ブラック企業と自治会 排除か融和か

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ゼミ雑誌について  ゼミ雑誌刊行までの手順は、以下です。

ゼミ雑誌作成計画

 

Ⅰ.申請方法  5月26日(月)4:20 ~ 事務室で説明を受ける。済み

編集委員 = 編集長・西尾智音さん

Ⅱ.発行手順 ゼミ雑誌の納付日は、2014年12月5日(金)です。厳守。

2014年12月5日(金)締切です

以下① ~ ③の書類を作業に添って提出すること。

 

【①ゼミ雑誌発行申請書】【②見積書】【③請求書】

 

  1. 【①ゼミ雑誌発行申請書】所沢/出版編集室に期限までに提出 7月7日
  2.  ゼミで話し合いながら、雑誌の装丁を決めていく。
  3.  9月末、ゼミ誌原稿締め切り。
  4.  印刷会社を決める。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。
  5. 【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。
  6.  11月半ばまでに印刷会社に入稿。(芸祭があるので遅れないこと)
  7.  雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。
  8.  印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。

 

注意 : なるべくゼミ誌印刷経験のある会社に依頼。(文芸スタッフに問い合わせ)

はじめての会社は、必ず学科スタッフに相談すること。

 

前期回顧 長期欠席者が多かったが、その分、出席者の孤軍奮闘が光った。ゼミ誌編集は参加者だけになりそう。「読むこと」「書くこと」の習慣化は、続行中。

 

反戦歌について  下原ゼミで選ぶベスト3の紹介

 

維新後、脱亜細亜を目指して戦争へ戦争へとひた走る大日本帝国の大陸政策を批判。

1904年 明治37年『明星』に発表。

1905年1月旅順開城 3月奉天占拠 5月日本海海戦

 

1位 君死にたまふことなかれ

 

与謝野晶子(1878-1942)

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく

わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

 

昭和16年、彼女(詩人)は15歳、昭和20年、彼女は19歳だった。

1937年(昭和12年)7月7日、日本軍は北京郊外盧溝橋付近で中国軍と衝突。日中戦争勃発。1941年(昭和16年)12月8日、日本軍ハワイ諸島にいたアメリカ太平洋艦隊を奇襲。太平洋戦争に突入。1945年(昭和20年)8月6日広島に原子爆弾、9日には長崎にも。

 

2位 私が一番きれいだったとき

 

茨木のり子(1926-2006)

 

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように

 

この詩は、はじめ作者不明だった。アメリカ人の音楽家ビート・シーガー(1919-2014)は、ルーツを探した。ソ連の作家ショーロフの『静かなるドン』のなかにコサックの子守唄として紹介されているのがわかった。1964年、アメリカはトンキン湾事件(嘘)を口実に北爆開始、ベトナム戦争勃発。1965年までつづく。この歌は、ベトナム戦争反戦歌として歌われた。2000年の多国籍軍とイラクの戦争のときにも歌われた。

 

3位 花は何処へ行った

 

作詞・作曲 ビート・シーガー  訳詩 阪大ニグロ

 

どこへ行った 野に咲く花は
どこへ行った あの花は
どこへ行った 娘たちが摘んだ
いつになったら わかるのだろう

どこへ行った あの娘たち
どこへ行った 娘たち
どこへ行った 若者たちのもとへ
いつになったら わかるのだろう

どこへ行った 若者たちは
どこへ行った あの若者
どこへ行った 戦争に行った
いつになったら わかるのだろう
どこへ行った あの兵士たち
どこへ行った 兵士たち
どこへ行った あの墓の下に
いつになったら わかるのだろう

どこへ行った 兵士たちの墓は
どこへ行った あの墓は
どこへ行った 野辺の花になった
いつになったら わかるのだろう

どこへ行った 野に咲く花は
どこへ行った あの花は
どこへ行った 娘たちが摘んだ
いつになったら わかるのだろう

 

□ベトナム戦争反戦歌は、多い。このほかにいまも記憶にあるのは、こうした歌である。

1971年の「イマジン」ジョン・レノン、新谷のり子の「フランシーヌの場合」1969・3・30にベトナム戦争に抗議して焼身自殺したフランス人を悼む歌。1968舞台ミュージカル「ヘアー」1979年映画にもなった。映画監督はミロス・フォアマン。「ヘアー」は、ソ連邦崩壊後勃発したユーゴスラピア内乱のときサラエボで繰り返し演じられていた。

 

日本の主な反戦歌 HP検索

 

ドキュメント墓参の旅   大学柔道部同期の墓参

 

昭和40年(1965)私は、大学に入学すると念願だった柔道部に入部した。同期は9名いた。学校周辺でのランニング、夏合宿。辛いときもあったが楽しい日々だった。昭和43年(1968)学園紛争の嵐の中で散り散りとなった。柔道部の仲間はむろん同期とも、それ以来会っていない。が、主将のM君が65歳で急逝したと風の便りに知った。連絡とれる同期と、いつか墓参に行こうと話し合っていた。3年が過ぎた今年、大阪で接骨医院を開業しているO君が呼びかけて同期6名、墓参の旅に行くことにした。集合は、近くの玉造温泉。皆、50年ぶりの再会である。参加者の住居は、広島1名、大阪1名、千葉2名、福島からは2名。

 

712(土)台風8号接近するも温帯性低気圧に変化。蒸し暑くなる。

11時30分東京発「のぞみ29」に乗車。車中、昼食の後、依頼原稿を書くため辰巳ヨシヒロの漫画『劇画漂流』上下を読む。

15時55分岡山着、大阪からのO君と会う。

O君は、柔道整復師、大阪で接骨医院を開業。

16時05分岡山発特急「やくも」に乗車。倉敷 → 安来 → 米子 → 松江 →

立っていられないほどの揺れる特急。遠くにきた感じがした。

17時50分玉造温泉駅着、宿泊の玉造グランドホテル長生閣の送迎車

想像していたより大きな温泉地だった。城の崎温泉に似ているとのこと。メノウ

石の産地。まが玉。

18時00分玉造温泉宿に着、6名全員揃う。618の部屋

ピカピカ頭、白髭、禿頭、50年の歳月は、容貌を変えていたが、中身は変わらなかった。会って3分もたたぬうちに,学生時代に返っていた。

同期の出身学科は、水産学科、獣医学科、土木学科、畜産学科、拓植学科

50年ぶりに会う同期は、だいたい出身学科の職業についていた。

水産は水産会社を起業。土木は、建設会社を定年退職して、現在も土木(福島原発)畜産は、養豚・養鶏業

宴席での話。50年ぶりの同期の人生は、どんな人生だったか。はじめは、年収六億の会社、30億の事業と景気がよかった。が、そのうち子どもや病気、連れあいのことなど抱える悩みや不安を告白しはじめた。

713(日)激しい雨。墓参時だけやむ。無事墓参

6時00分起床、雨が激しく降っているので驚く。風呂に入る。

7時00分朝食バイキング

8時30分 レンタカーで出発。島根県××郡××町大字××番地 M君自宅探しの旅

10時00分、2軒目の家で聞いてわかる。お墓は高台に。自宅の仏壇にお参り。

11時30分飛行機組と別れて玉造温泉駅に向かう。

11時55分 玉造温泉駅から特急「やくも」

2時47分 岡山から新幹線「のぞみ」に乗車

 

2014年、読書と観察の旅日誌

 

□4月28日(月)村田 ゼミ紹介

□5月12日(月)西尾 時評 ゼミガイダンス

□5月19日(月)西尾、渡辺 テキスト読み DVD「オンボロ道場再建」観賞

□5月26日(月)西尾 テキスト解説 ゼミ誌

□6月 2日(月)西尾、ゼミ誌点検、テキスト『網走まで』考察

□6月 9日(月)西尾、渡辺 テキスト『夫婦』 研究・考察『網走まで』

□6月16日(月)西尾、渡辺 人生相談、ドラッグについて、カラー柔道着

□6月23日(月)通信発送 『黒板絵は残った』編集

□7月 7日(月)西尾 「集団的自衛権行使閣議決定」について ブラック企業排除は

□7月21日(月)

 

※参加自由 7月26日(土)江古田・清水正教授講演  9月30日(火)熊谷元一写真コンクール最終選考回(市ヶ谷)

 

楽しく有意義な夏休みをお過ごしください!!

 

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