文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.250

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)10月20日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.250

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/22 9/29 10/6 10/20 10/27 11/10 11/17 12/1 12/8 12/15 1/30 1/21

2014年、読書と観察の旅への誘い

 

「読むこと」「書くこと」の習慣化を目指して

熊谷元一研究のススメ

10・20下原ゼミ

 

 

1.本日のゼミ  → ゼミ誌について(原稿、レイアウトなど)

  1.  読むこと → 家族観察「にんじん」 (熊谷元一研究「村観察」)
  2.  書くこと →「自分の故郷」(生まれ育った町)について

 

 

村観察・熊谷元一研究 新しい阿智村紹介の雑誌 阿智村教育委員会出版

3村合併後の阿智村の姿

 

旧阿智村は、平成18年と21年に波合村、清内路村と相次いで合併した。村教育委員会は、新しく生まれ変わった阿智村について紹介本をまとめてきたが、この春、出版の運びとなった。先の熊谷元一写真賞コンクール最終審査会の折り、「阿智村歴史副読本編集委員会」協力者の一人佐々木賢実氏(南信州新聞社)からいただいたので紹介する。ちなみに阿智村(旧会地村)は、熊谷元一の故郷。熊谷(1909-2010)が写真に撮った村人の生活は、1938年(昭和13年)12月に朝日新聞社から刊行され、注目された。以後、熊谷は戦前、戦中、戦後と村を撮りつづけ平成15年(2003)には『写しつづけて69年』を出版している。會地村は、昭和37年智里村、伍和村と合併して阿智村となり、さらに先般、近隣2村と合併、新しい阿智村として生まれ変わった。熊谷の写真、童画は、生まれ育った駒場や旧会地村にとどまらず、この地方一帯に及んでいるので今後の熊谷元一研究には、貴重な一冊といえる。

 

 

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村観察 新資料『わたしたちの阿智村』 一山村から見えてくる日本の過去・未来

 

写真家・童画家・教師として生きた熊谷元一の故郷「阿智村」とは、どんなところか何か、熊谷の年譜に併せて新資料『わたしたちの阿智村』から読み解きを試みる。

 

阿智村は、長野県下伊那郡の南西部に位置する。(2014年現在)

 

総面積 214.470km2

山林 120.149

原野  1.891

宅地  2.122

田  3.941

畑  3.714

人口  6835人

男  3301

女  3534

世帯数  2360戸

 

観光地 ・昼神温泉郷

・富士見台高原 1770

・園原の里 古事記、箒木

・ヘブンス園原 星空

・あららぎ高原

・治部坂高原 花 スキー

 

□熊谷元一写真童画館 昼神温泉郷

 

□満蒙開拓記念館 2014年開館

 

【現在の阿智村】

 

 

熊谷元一年譜と熊谷の思い出(自伝『三足のわらじ』& 検証)

 

1909年(明治42年)長野県下伊那郡会地村駒場。熊谷元一は、熊谷栄吉、ハツエの長男として7月12日に生れる。実家は、養蚕業の傍ら呉服店を営んでいた。一人っ子のため三人家族。

1916年(大正5年)7歳 会地尋常高等小学校に入学する。

「大正5年の秋なかば、昇る旭の空高く、四海を照らす大君の、めでたさ御代の即位式」

大正ロマン時代の夜明けを示す御大典が盛大に行われた。

この年は私が小学校へ上がる年であったが、この祭りの行列に参加したので、わずかだが記憶がある。

大きな金の冠をのせた屋台を祭衣装の子どもたちが、町内を引きあるいた。

小学校入学後、だれにも教わることもなく覚えた歌がある。

「カゴで行くのは、お軽じゃないか、私は売られて行くわいな、とと

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さんも、かかさんも、また来年も…」忠臣蔵のお軽勘平にちなんだ

歌だが、いまではわからない。わかるのは、大正三年に発表された

島村抱月作でトルストイの『復活』の主題歌。

「 カチューシャ かわいや 別れの辛さ

せめて淡雪とけぬ間に 神に願いを

ララ かけましょうか 」

こんな歌もうたった。大正六年北原白秋作「さすらいの唄」

 

「 行こか戻ろかオーロラが下を

ロシアは北国、果て知らず  西は夕暮れ 東は小煙

鐘が鳴ります中空に 」

 

自伝『三足のわらじ』のなかで、これらの唄を「柿の実でもたべながら歌っている姿を想像するとなにかうれしくなる。」と述懐している。が、学校での音楽は不得意だったので「いやな思い出」が多いと、会うたびに話されていた。よほどにがてだったようだ。

会地村は、山間にある。熊谷の家がある駒場は、前も後ろも山に囲まれている。目の前には、澄みきった阿知川がながれている。子ども時代、山や川での遊びについては、このように記している。

「山の思い出は、春先、山すそへいたんどりを取りに行ったこと、裏山へ栗拾いに行ったことなどで、木の芽取りやきのこ取りなどの思い出はそうないが、川の思い出は多い。

夏はまっぱだかで水あびをした。夏休みなど、早く昼ごはんを食べて、三時ごろまでおよいだ。早い季節にあびる競争をして、春の彼岸に、今日はちょつと暖かいぞと水につかって、冷たくてくちびるを紫にして、見つかりおこられもした。

春先からはカジカ取り、およなという少しこぶりなかじかとおくまという少し黒みがかった大きいのがいて、石をおこしてはざるで取った。とったかじかはわけて家へ持って帰るが、けっして食べずに用水へながした。・・・・・・

手ごろな石を集め、大きいのを下にだんだん積み上げ一尺くらいの高さにして、少し離れたところから小さい石を投げて、落とす遊びもたのしかった。

正月ごろは凧揚げもした。川原はあぶなくなく、よい遊び場だった。」

 

※子ども時代の遊びの思い出が童画家としての熊谷を育てた。(山村の子ども文化の伝承)

つづく

 

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年譜考察【1909年という時代について】

 

熊谷元一が生れた1909年とは、どんな年だったのか。また、著名人では、どんな人がい

るのか。歴史を振り返ってみた。

2014年現在、韓国と日本の間は依然としてぎくしゃくしている。それもかれも1909年

のこの年の7月に閣議決定した韓国併合の方針。このことが根本原因になって尾をひいて

いる。そう思っても過言ではないかも知れない。この年1909年の10月、伊藤博文(68)

はロシアの大蔵大臣と対談するため降り立った中国ハルピン駅頭で安重根に暗殺された。

が、翌年(1910年8月に日韓併合条約調印)韓国併合は成った。以後、この傷は、戦前、

戦中、戦後を通じ癒えることはない。

ちなみに、この年生れた著名人は以下の通り

小説家では太宰治、松本清張、漫画家では横山隆一、映画評論家では、淀川長治、

小森和子、映画俳優では、田中絹代。これらのひとたち。

この年、亡くなった人は、二葉亭四迷(45)

1909年に書かれた作品は、アンドレ・ジイド『狭き門』 永井荷風『すみだ川』

流行った歌 「野中のバラ」「ローレライ」

満州進出の序章時代

1904年(明治37年)に起きた日露戦争で些少だが勝利した日本は、世界列強の仲間入りを目指し、満州に進出していった。1907年~1916年にかけて日本はロシアとの協調をすすめ4回の日露協約をむすび満州と蒙古における両国の勢力範囲を決めた。満州鉄道の開発。思えば、30数年後におきる阿智満蒙開拓団の悲劇のはじまりは、この時代にあったのかも知れない。1939年、熊谷は大東亜省の嘱託として満州に渡ることになる。

植民地時代から、資本主義、社会主義社会への移行。19世紀から20世紀に入った風雲渦巻く混沌の時代。極東日本の山村の村はどんなだったか。熊谷28歳のときに刊行された写真集がある。時代の証言として貴重な写真集である。(この写真集は、内外ともに高く評価された。写真先進国ドイツに逆輸出された)

 

【熊谷元一の故郷、会地村】  「しごく平凡な村」と紹介

 

(こんな平和な村が、なぜ戦争に巻き込まれていったのか。犠牲となったのかを検証・考察)

 

阿智村の前身「會地村」は1938年(昭和13年)12月に朝日新聞社から刊行された

熊谷元一著『會地村 一農村の写真記録 

本書で熊谷は、會地村を以下のように紹介している。

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「會地村は長野県下伊那郡の西部にある。面積075方里、戸数630余戸、人口3250余人に過ぎない小さな村だ。四囲を山に囲まれたこの村は、約半数が養蚕と稲作とを営む農家で、他は農家を相手とする小売商、手工業者、雇用労働者及び俸給生活者だ。県下の農村としては比較的文化程度の高い方であるが、別に模範村でも、更生村でもない。といって窮乏村と呼ばれるほど逼迫もしていない、しごく平凡な村だ。」

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四方を山に囲まれた「しごく平凡な村」。この村に生れ育った熊谷は、1966年、東京に移転するまで、この村で半生を過ごした。101歳の生涯のうち前半生の56年間である。

阿智村は、現在温泉郷の観光地となっている。熊谷の実家があった駒場は、宿場町として栄えた。いまも通りの格子戸に、その名残がある。昭和50年の出版による地元観光誌『いいだよいとこ』(南信州新聞社)には、このように紹介されている。

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【中馬街道駒場宿】

 

飯田駅(現・JR飯田線飯田駅)から国道153号線を西方13㌔、車で30分いうところに阿智駅とか関の駒んばといわれた駒場宿がある。阿知川べりに沿った細長い町並みで、大和から東北に通っていた、東山道も、阿智駅には駅馬30頭、伝馬10頭が常備されていた。この地方の交通の中心になっていた。山村でありながら宿場町として栄えたところ。

 

宿場町・駒場   熊谷元一の実家がある駒場町は宿場町

 

会地村の中心にある駒場町は、この辺りでは一番大きな宿場町である。(このたび合併した清内路村の清内路峠を越すと島崎藤村の『夜明け前』で有名な馬籠宿、妻篭宿がある)、熊谷元一が生れ育った駒場について、『わたしたちの阿智村』「駒場のにぎわい」には、このように記してある。

 

【熊谷の生家】熊谷の実家は、駒場宿の栄町にあった(現在無人)

 

※いまも会地村(現・阿智村)駒場にある熊谷元一の生家。無人だが、ときどき写真家やファンが訪ねていく。知る人ぞ知る観光名所。(写真は、日芸講師窪田尚先生のお母さんが写真仲間と訪れて撮影したもの。後で熊谷と下原との関係を知って送っていただいた)

 左絵 熊谷が描いた、熊谷が子どものころの駒場宿の風景

 

駒場のにぎわい

 

熊谷の少年時代(大正から昭和のはじめ)養蚕、林業が盛んになると宿場町、駒場は、近郷の中心としてにぎわった。街道に沿ってお菓子や、薬屋、種屋、八百屋、肉屋、魚屋、洋服屋、靴屋、げた屋

写真屋、カフェ―、旅館、料亭、銀行、そば・うどん屋、鍛冶屋、豆腐屋、銭湯などなどあらゆる店が軒を連ねた。

 

 

 

 

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お知らせ  映画「望郷の鐘」(会地村が舞台)完成

 

阿智村(旧會地村)舞台の映画が今夏、完成しました。11月に完成披露試写会があります。上映月日と場所は以下の通りです。(2015年1月下旬全国公開)

2014年11月14日(金)、21日(金)開場18:30 上映 19:00

 

なかのZERO 大ホール

☆前売り券 1000円 「下原ゼミ通信Ⅲ」まで  ☆当日券 1800円 映画館で

映画のあらすじ

日本の敗戦が鮮明になった1945年。満蒙開拓団として日本を発つ一団がありました。信州伊那谷の貧しい三村からなる阿智郷開拓団です。寺の住職で国民学校の教師でもある山本慈昭は、村の有力者からの懇願で、妻と幼い二人の子どもと教え子51名を引率して満州に向かいます。しかし現地について間もなくソ連が参戦。慈昭はシベリア送りとなり、二年間の重労働後、帰国しますが、妻子は教え子たちと共に死んだと聞きます。

しかし、子どもの一人は生きている。そんな情報があり、それを機に、「残留孤児探し」が始まります。子どもと再会できた山本慈昭は、すでに80歳を超えていました。

※慈昭さんを内藤剛志さん(日芸中退)が演じます。山本慈昭さんとは、子どもの頃、道で時々会いました。いつもにこにこしていて穏やかな大人。そんな印象があります。国策に翻弄された悲劇と執念の人をどのように演じるのか楽しみです。(下原)

 

熊谷元一と満蒙開拓団

 

2010年11月6日、熊谷元一が101歳の生涯を閉じたとき、マスメディアは一斉にその死を報じた。ほとんどの新聞は、その見出しを「写真家、童画家」として紹介した。が、ただ一紙、朝日新聞(中南信版)は、「満蒙開拓民の記録写真 熊谷元一さん死去」と報じた。

熊谷元一は私の恩師である。私が50歳を過ぎてから同級会、写真集編纂、テレビ取材などで会う機会が多くあった。自宅や宴席で、いろいろと話した。先生は、子どもや教師時代のこと、東京にきてからのこと。写真のこと、童画のこと何でも気軽に話してくれた。私も、遠慮なくなんでも聞いたような気がする。

だが、いまになって思いだすと、なぜか満蒙開拓団のことについては、ほとんど話さなかったような気がする。いちどだけ、「中国に行った帰り、韓国の農村を撮った」と話されたことがある。沢山の写真を撮られたといった。しかし、そのほとんどは3月か4月の東京大空襲で焼失してしまったと話された。「もったいなかったですね。韓国にとっても、日本にとっても」私が、残念そうに言うと、先生は「そうだなあ」と、つぶやかれただけだった。いつもは陽気な先生だが、そのときは何か複雑そうな顔だった。写真家の前に人間としての顔をみた気がした。

先生には、話したくない話題が一つあった。教員時代に巻き込まれた赤化事件である。誘われて知らずに参加した集会が共産思想の集会で、教師を辞任する羽目になった事件だ。

満州のことも、そうだったかも知れない。が、亡くなったとき朝日新聞は、このように紹介している。『会地村』の「写真集が、外地行政を束ねる拓務省(当時)の目にとまり、同省のカメラマンとして1939年、41年、43年に満州に渡り、満蒙開拓青少年義勇軍と開拓団を取材した。その写真を手に、生徒を義勇軍に送るよう内地の校長会で説明した」という。

これだけだと、なんとなく先生が国策に積極的に加担したようで不満である。NHK朝ドラの「花子とアン」では、子どもニュースで花子が戦争に協力したと親友や近所から白眼視される。熊谷先生もあんな立場か心内だったろうと想像している。そうした謎も、今後の熊谷元一研究で、探究していきたいものである。

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ゼミ雑誌について  ゼミ雑誌刊行までの手順は、以下です。

 

ゼミ雑誌作成計画

 

【②見積書】【③請求書】順次実施して行きます。

 

  1.  ゼミで話し合いながら、雑誌の装丁を決めていく。
  2.  9月末、ゼミ誌原稿締め切り。
  3.  印刷会社を決める。レイアウトや装丁は、相談しながらすすめる。
  4. 【②見積書】印刷会社から見積もり料金を算出してもらう。
  5.  11月半ばまでに印刷会社に入稿。(芸祭があるので遅れないこと)
  6.  雑誌が刊行されたら、出版編集室に見本を提出。
  7.  印刷会社からの【③請求書】を、出版編集室に提出する。

 

注意 : なるべくゼミ誌印刷経験のある会社に依頼。(文芸スタッフに問い合わせ)

完成12月5日(金)締切日です

 

後期ゼミについて

後期前半ゼミは、以下の三つの目標を支柱にすすめていきます。

 

○.ゼミ雑誌作成

 

○.「岩波写真文庫『一年生』の感想」、テキスト読み(志賀直哉作品、他)

 

○.12月合同発表 模擬法廷、「ぼた雪」寸劇稽古

 

卒論テーマについて

 

2年次もあと僅かです。修得単位は大丈夫でしょうか。4年次の卒論テーマは、決まったでしょうか。下原ゼミでは、通年、熊谷元一研究をつづけていきます。が、まだテーマに迷っている人がいれば、熊谷元一研究に沿った卒論テーマをおススメします。

 

・阿智村の歴史を学び検証する。一山村の歴史が、どう国家の歴史問題につながるか。

国策満蒙開拓団を通して考える。

・なぜ熊谷元一は教師人生を選んだのか。一人の芸術家の人生選択。その謎を考察推理する。

・阿智村をテキストに、日本の農村問題を考える。併せて地方自治も。

 

□ちなみに国立静岡大学の矢野敬一教授は、教育の視点から熊谷元一研究をすすめています。

会地村研究として、『阿智村時空探検隊』をつくり、地元小学校の子どもたちと協力して熊谷の教育を現代の教育に繋げようと試みている。

□また名城大学の志村ゆず先生は、熊谷元一の写真・童画にある「懐かしさ」に着目し、「回想法」を研究することで、高齢者問題に役立てようとしています。

 

※一つのことを観察し表現する。志賀直哉の作品もそうでしたが、熊谷の作品と教育も観察・継続・記録です。熊谷研究は、これからの自分の人生にも大いに役立と思います。

 

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下原ゼミⅡ日誌

 

ゼミ生=村田、西尾、岩澤、関、渡辺

 

□ 9月22日 参加、村田君 『地下室の手記』「ぼた雪」について

□ 9月29日 参加、村田君 『にんじん』家族観察、ゼミ誌について

□10月 6日 台風18号直撃で休講。振り替えは12月22日(月)

□10月20日

 

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紙面都合でNo.7は次号掲載

土壌館・実践的投稿術 紹介No.7

 

文章力修業として投稿も、その一つの手段といえます。投稿は、投稿者が多ければ多いほど採用される確率は低くなります。が、そのことは即ち投稿作品の質の向上にもなります。様々なものへ観察・興味を抱く要因ともなるので、投稿は一石三鳥ほどの価値があります。

もっとも投稿といっても、小説・論文投稿から標語まで多種多様です。が、ここでオススメするのは新聞投稿です。新聞は、毎日投稿できます。政治・社会・生活観察・自分の意見と幅もあります。また、時流や出来事のタイミングも重要となり自然、書くことの日常化・習慣化が身につきます。文章力研磨にもってこい場ともいえます。

土壌館では、文章力を磨く目的はむろんですが、社会への疑惑や自分の意見・感想を伝えるために新聞「声」欄に投稿をつづけています。なぜ「声」欄かというと、500字という字数は、人が飽きなく読む字数であるということと、文体を簡潔にできるからである。

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掲示板

 

熊谷元一写真賞コンクール

 

18回応募作品のテーマ「家族」

 

次回作品のテーマは、議場において「まつり」などいくつかの候補があがったが、より広い範囲でとの提言から「家族」に決まった。詳細は「熊谷元一写真童画館」HP

応募締め切り 2015年8月末日

 

・・・・・・・・・・・・「下原ゼミ通信」編集室・・・・・・・・・・・・・・・

 

土壌館編集室 TEL:047-475-1582 09027646052メール: toshihiko@shimohara.net

 

下原と熊谷元一

書く事ことの習慣化

 

課題 「私の故郷」(生れ育った所)           名前

 

 

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