文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.253

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)11月17日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.253

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/22 9/29 10/6 10/20 10/27 11/10 11/17 12/1 12/8 12/15 12/22 1/30 1/21

2014年、読書と観察の旅への誘い

 

「読むこと」「書くこと」の習慣化を目指して

 

熊谷元一研究のススメ

 

11・17下原ゼミ

 

 

1.本日のゼミ → ゼミ誌について「熊谷元一研究 創刊号」DVD観賞

映画「望郷の鐘」 なかのゼロ、試写会大盛会 開場1時間前から長蛇の列

満州開拓団の悲劇再現

 

11月14日(金)、映画「望郷の鐘」の完成披露試写会が東京中野にある「なかのZERO」大ホールで上映された。この夏、NHKニュースでも報じられた話題の映画ということもあって、会場前は、開演1時間前から長蛇の列。1292席の会場は満席、立ち見。映画制作関係者にとってはうれしい悲鳴となった。7時からの上映に先立って、関係者・俳優陣の挨拶と紹介があった。

はじめに山田火砂子監督が、映画に賭ける意気込み、動機などを話された。原作者の和田登氏は、25年前に書いた物語が、「こうして取り上げら注目されたことに驚いている」と、話され「いまという時代のせいかも知れない」と分析した。主演の内藤剛志さんは、戦争によって起きる悲劇を知ってもらいたい。そんな思いを語った。子役は、6名中3名が出席、監督に、花束を贈った。

阿智村からも村長はじめ、教育委員会の職員が駆けつけたようだ。28会、読書会からも多数が足を運んだ。

 

これからの試写会

 

☆2014年11月21日(金)なかのZERO小ホール 19:00~

☆2014年12月17日(水)関内ホール 小ホール JR関内北口

①14時 ②16時30分 ③19時

☆2015年 1月10日(土)千葉市文化センターアートホール14時

山田監督の舞台挨拶を予定。

☆2015年 1月下旬公開予定 シネマート新宿 シネマジャツク

【問合せ】現代ぷろだくしょん 03-5332-3991

 

 

 

 

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あらすじ      山本慈昭 望郷の鐘 満州開拓団の落日

 

山本慈昭は、長野県下伊那郡会地村にある山寺「長岳寺」の住職であり、国民学校の先生でもあった。昭和20年5月1日、敗戦間近に三つの村の村長に説得され、1年だけという約束で満州に渡る。(開拓団175人と60名の子どもたちを連れて)

8月9日に、日ソ不可侵条約を破ってソ連軍が一方的に攻めてくる。8月15日の敗戦もわからずに逃げ回るが、女子供を抱えてシベリア国境近くの町より逃げても、なかなか先に進まない。列車もなく、橋は、関東軍が逃げる時に壊して行き、平原を歩くとロシア兵に捕まるので山の中を歩き、食料もなく死の旅であった。

地獄の逃避行の途中、慈昭たち一行はロシア兵に捕まり、街の収容所に入れられ、16歳以上の男性はシベリアに連れて行かれる。極寒のシベリアで重労働させられた慈昭は、奇跡的に1年半後に帰国することができた。が、長岳寺に辿りつくと、一緒に満州に行った妻と子どもたちは亡くなったと知らされる。

世の中が民主主義となり、大きく変わりつつある頃、慈昭は開拓団の仲間達の辿った運命を【阿智村・死没者名簿】としてまとめる。同時期に天台宗の大僧正から長野県日中友好協会会長を引き受けることを聞き、平岡ダム建設のために強制連行された中国人のことを知り、亡くなった中国人の遺骨を本国に返す運動に力をそそぐ。

中国を訪れてから1年が過ぎたある日、慈昭のもとに1通の手紙が届く。日本人の残留孤児からのものだった。戦争で中国に残された子どもたちが、日本に入る両親を恋しく思い、再会したいという気持ちが書かれてあった。慈昭は、満州で沢山の日本人の子どもが優しい中国人の養父母によって育てられていたことを知り、残留孤児たちの日本帰国救済運動をはじめる。が、そこには、新しい日本国の壁が・・・・。

 

制作意図  国策の嘘はいまも… 被害者でもあり加害者でもあった

 

満州国とは、日本が中国の東北地方に建てた傀儡国家で、1932年から1945年まで存在した。

山田火砂子監督は、1932年に生まれた。13歳で戦争に負けるまで、東京で育った。1945年3月10日の東京大空襲で、下町一帯は、焼夷弾で火の海となり、10万人以上の人が亡くなった。びっくりした日本政府は、建物疎開と称して地域住民を追い出し建物を取り壊した。あとに広場ができた。そのおかげで山田監督は命拾いした。

2013年の夏、作家和田登さんから一冊の本が送られてきた。『望郷の鐘』という本だった。書かれていたのは、昭和20年5月1日に満州に開拓団として渡る話。「あと3カ月で戦争に負けるというのに・・・!?印刷の間違いかと思った。が、いろいろ調べてみると東京大空襲で生き残った人たちも、8月4日に満州に向かっている。その後の消息は不明。「きっと日本海で撃沈されたのでしょう」もうすぐ負けるとわかっていて、なぜ ??!!

なんという国だろう。山田監督は、憤った。そのとき山田監督は、三浦綾子原作の『母』を映画化しようとおもっていた。小林多喜二の母を描いたものだった。が、いまの日本の政治状況を思うと、この作品を先にしようと思った。

私のこの映画のテーマは、「国家が総力を挙げて作り上げた大きな嘘は、いつの時代でも見破るのは容易ではない。そして、それに従った開拓団も義勇軍も客観的には侵略者であったと言う事実は打ち消せない。国家の政策に純粋に協力しただけと言っても、この事実は一人一人が責任を問われることになる。国家に尽くした日本国民は、加害者であって被害者であったのです」

日本国民は全員手をつなぎ戦争をしない、平和国家を作っていきたいとこの映画を作ります。

 

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満州とは何か

 

「満州とは何か」を知るには、まず歴史を知ることにある。併せて満蒙開拓団も。

 

・1905年(明治38年)ポーツマス(日露講和)条約 → 南満州権益を獲得

・1906年(明治29年)関東都督府の設置・南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立。

・1909年(明治32年)熊谷元一 阿智村駒場に生まれる

・1931年(昭和6年)柳条湖事件 → 満州事変の開始。

・1932年(昭和7年)満州国建国宣言(執政は溥儀)→ 日本は日満議定書で承認。

第一次満蒙開拓移民が出発。

・1936年(昭和11年)満州農業移民20カ年100万戸移住計画決定。

・1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件 → 日中戦争

・1938年(昭和13年)満蒙開拓青少年義勇軍の募集開始。

・1941年(昭和16年)米英に宣戦布告、12月8日真珠湾攻撃。 → 太平洋戦争へ。

・1945年(昭和20年)開拓団成人男子根こそぎ軍隊に動員。

4月13日東京空襲、熊谷元一自宅焼失、朝鮮・満州ネガ消失。

5月1日、会地村(現阿智村)から開拓団215名満州に出発。

戦後無事に帰還できたのは13名。(子どもは60人中6名)

6月 大東亜省を退職、故郷會地村に帰り教員になる。

8月9日、ソ連軍が満州国に侵入。

8月14日、日本ポツダム宣言の受諾を決定。

8月15日、日本無条件降伏。

8月16日、溥儀、退位と満州国の解体を宣言。

・1946年(昭和21年)旧満州からの集団引き揚げ開始。満州開拓団20万人が死亡。

・2013年(平成25年)「満蒙開拓平和記念開館」開館。

 

阿智村と満州

 

戦後70年。あの戦争によって起きた様々な悲劇。そのなかには、なぜ、どうしてと耳を疑う出来事も多々ある。

私の故郷で起きた悲劇もその一つだ。沖縄戦がはじまった昭和20年5月1日、新緑の信州の山村から中国に出発した一行がいた。満蒙開拓団の人たちだった。総勢175人のなかには60名の子どもたちもいた。引率者は、村の小学校で教師をしていた山寺の住職。

「広大な満州には夢がある。祖国のため」ときの為政者から懇願されての移民行だった。

だが、開拓団を待っていたのは王道楽土ならぬ地獄の逃避行だった。多くの人たちが死に、

不明になった。無事帰国できたのは、13名、うち子どもは6名という。多くの子どもが、生きるため中国に残った。

しかし、その事実は長らく捨て置かれていた。光を照らしたのは、シベリヤ抑留から還った住職だった。彼の妻は餓死し、娘は不明だった。彼は、団長としての責任と娘探しのため中国残留孤児の帰国実現に残りの人生を捧げた。

そのころ私は、この住職によく田んぼの畦路で会った。小柄でいつもにこにこしていた。話し方も穏やかだった。その姿から、満蒙開拓団の悲劇とは、なかなか結びつかなかった。それより満蒙開拓青少年義勇軍だった叔父の「満州は広い、夕日がすごい」そんな勇ましい話の方が子ども心に強く記憶された。

今夏、この悲劇を描いた映画「望郷の鐘」が完成した。作ったのは、山田火砂子監督(82)。「そんなバカな話ある?!」という疑問と怒りからだという。このニュースを知って私は、むかし故郷で起きた悲劇をようやく実感した。伝えて行く重要さを思った。

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「望郷の鐘」パンフレッド  主演の内藤剛志さん(日芸映画中退)

 

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熊谷元一と満州 熊谷は、拓務省の仕事で3度満州を訪れた。

 

・1939年(昭和14年)熊谷元一は『會地村』(朝日新聞)により6月拓務省(大東亜省)嘱託となる。満蒙開拓青少年義勇軍関係の仕事。8月、満州に出張

1カ月開拓団を撮影。帰路、朝鮮の農村も撮影。

・1941年(昭和16年)熊谷元一、10月、満州へ仕事。開拓団撮影。

・1943年(昭和18年)満州へ一カ月出張。

 

 

熊谷撮影 満州日本村で働くの人たち

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新しい阿智村  満蒙開拓団という悲劇を経験しながらも村は発展した

 

会地村は、昭和31年に智里村・伍和村と合併「阿智村」に、平成18年21年に浪合村、清内路村とも合併、新しい阿智村になる。

 

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『わが道』草稿  資料あつめとあらすじ

 

ゴッホやゴーギャンを夢見た絵の好きな少年は、東京の美術学校の試験に失敗。村で代用教員しながら油絵を描きながら漫画の投稿をはじめる。

漫画が採用されたことで、マンガの世界に自分の道を見つける。

・1931年(昭和6年)22歳 投稿した漫画が童画家の父・武井武雄に認められる。

・1932年(昭和7年)23歳『コドモノクニ』寄稿家 市田小学校

 

はじめて武井武雄に認められた作品

 

熊谷元一写真賞コンクールについて 9月30日最終審査会にて決まる

 

18回応募作品のテーマ「親子」

 

次回作品のテーマは、議場において「まつり」などいくつかの候補があがったが、より広い範囲でとの提言から「家族」に決まった。詳細は「熊谷元一写真童画館」HP

応募締め切り 2015年9月20日

 

ゼミ誌について   『熊谷元一研究』創刊「熊谷元一とは何か」

  1. 年譜、作品・出版物、マスメディアの評価などの紹介
  2. ゼミ生参加者原稿(10月27日現在)

感想「岩波写真文庫『一年生』を読む」 大野純弥

社会観察「デモと若者」 詩篇「夢」  西尾智音

写真「コッペパンを食べる少年の奇跡」 下原敏彦

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下原ゼミⅡ日誌

 

ゼミ生=村田、西尾、岩澤、関、渡辺

 

□ 9月22日 参加、村田君 『地下室の手記』「ぼた雪」について

□ 9月29日 参加、村田君 『にんじん』家族観察、ゼミ誌について

□10月 6日 台風18号直撃で休講。振り替えは12月22日(月)

□10月20日 『黒板絵は残った』編纂

□10月27日 村田君から電話連絡(風邪) 西尾さんは不通、

□11月10日 電話・村田君、事務室報告「熊谷元一研究」を預ける

□11月17日 予定・寸劇「ぼた雪」か「范の犯罪」稽古。

□12月 1日 予定・寸劇「ぼた雪」か「班の犯罪」稽古

□12月 8日 予定・寸劇「ぼた雪」か「班の犯罪」稽古

□12月15日 予定・寸劇「ぼた雪」か「班の犯罪」稽古

□12月22日(10月6日の振り替え)三ゼミ合同発表会

「ぼた雪」(『地下生活者の酒気』の脚本化) 『范の犯罪』「曲芸師美人妻殺人事件」

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掲示板

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会

 

月 日  2014年12月13日(土)

時 間  午後2時 ~ 5時

会 場  池袋・東京芸術劇場小会議室7

作 品  『罪と罰』 坂根武氏論文「罪と罰」ノート

 

ドストエーフスキイに興未ある人、歓迎です。作品を読んでいても、まだ読んでなくても可。一緒に全作品を読んでいくのが目的です。現在5サイクル目

 

・・・・・・・・・・・・・・「下原ゼミ通信」編集室・・・・・・・・・・・・

 

投稿、受け付けます。創作、エッセイ、評論など可。枚数が多いときは、連載になる場合があります。下記のメールアドレスにお願いします。

 

土壌館編集室 TEL:047-475-1582 09027646052メール: toshihiko@shimohara.net

 

※一部「下原ゼミⅢ通信」と重複します。

 

下原と熊谷元一

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