文芸研究Ⅱ 下原ゼミ通信No.254

公開日: 

 

 

日本大学藝術学部文芸学科     2014年(平成26年)12月1日発行

 

文芸研究下原ゼミ通信No.254

BUNGEIKENKYU Ⅱ SHIMOHARAZEMI TSUSHIN

編集発行人 下原敏彦

9/22 9/29 10/6 10/20 10/27 11/10 11/17 12/1 12/8 12/15 12/22 1/30 1/21

2014年、読書と観察の旅への誘い

 

「読むこと」「書くこと」の習慣化を目指して

 

熊谷元一研究のススメ

 

12・1下原ゼミ

 

 

1.本日のゼミ → ゼミ誌について「熊谷元一研究 創刊号」DVD観賞

後期前半ゼミ   冬休み前までのゼミ日程

 

12月1日、8日、15日、22日

 

後期前半ゼミは、本日を入れて4日です。最終日は、振り替えの22日(月)です。

 

ゼミ雑誌『熊谷元一研究 創刊号』について

 

ゼミ雑誌『熊谷元一研究』は目下、村田編集長が編集作業をすすめています。11月24日(月)時点では、入稿間近かとの報告でした。(11月28日予定)

 

3ゼミ合同発表会、2014年は中止

 

毎年、山下ゼミ、清水ゼミ、下原ゼミで実施していた、恒例の3ゼミ発表会は、都合により中止することになった。下原ゼミの最近の報告。

 

2004年 紙芝居・山川惣治作画「少年王者」(おいたち編)16名にて口演。

2005年 紙芝居・山川惣治作画「少年王者」(赤ゴリラ編)12名にて口演

2005年 紙芝居・山川惣治作画「少年王者」(おいたち編)16名にて口演。

2006年 朗読会・志賀直哉『網走まで』→『灰色の月』

2007年 寸劇・模擬裁判「曲芸師美人妻殺人事件」(志賀直哉『范の犯罪』)

2008年 寸劇・模擬裁判「曲芸師美人妻殺人事件」(志賀直哉『范の犯罪』)

2009年 寸劇・模擬裁判「曲芸師美人妻殺人事件」(志賀直哉『范の犯罪』)

2010年 寸劇・模擬裁判「曲芸師美人妻殺人事件」(志賀直哉『范の犯罪』)

2011年 寸劇・模擬裁判「理髪客殺人事件」(志賀直哉『剃刀』)

2012年 寸劇・模擬裁判「曲芸師美人妻殺人事件」(志賀直哉『范の犯罪』)

2013年 寸劇・模擬裁判「曲芸師美人妻殺人事件」(志賀直哉『范の犯罪』)

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.254 ―――――――― 2 ―――――――――――――

 

熊谷元一研究      満州と熊谷元一

 

満州国と、熊谷元一の関係を年譜で追う

 

・1905年(明治38年)ポーツマス(日露講和)条約 → 南満州権益を獲得

・1906年(明治29年)関東都督府の設置・南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立。

・1909年(明治32年)熊谷元一 阿智村駒場に生まれる

・1931年(昭和6年)柳条湖事件 → 満州事変の開始。

・1932年(昭和7年)満州国建国宣言(執政は溥儀)→ 日本は日満議定書で承認。

第一次満蒙開拓移民が出発。

・1936年(昭和11年)満州農業移民20カ年100万戸移住計画決定。

・1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件 → 日中戦争

・1938年(昭和13年)満蒙開拓青少年義勇軍の募集開始。

朝日新聞社『會地村』発刊

・1939年(昭和14年)6月拓務省(大東亜省)嘱託となる。

8月、満州に約1カ月出張。開拓団の撮影。満蒙開拓青少年義勇軍関係の仕事。

1カ月開拓団を撮影。帰路、朝鮮の農村も撮影。

・1941年(昭和16年)熊谷元一、10月、満州へ仕事。開拓団撮影。米英に宣戦布告、

12月8日真珠湾攻撃。 → 太平洋戦争へ。

・1943年(昭和18年)8月満州へ一カ月出張。

・1945年(昭和20年)開拓団成人男子根こそぎ軍隊に動員。

4月13日東京空襲、熊谷元一自宅焼失、朝鮮・満州ネガ消失。

5月1日、会地村(現阿智村)から開拓団175名満州に出発。

子ども51名

戦後無事に帰還できたのは13名。(子どもは60人中6名)

6月 大東亜省を退職、故郷會地村に帰り教員になる。

8月9日、ソ連軍が満州国に侵入。

8月14日、日本ポツダム宣言の受諾を決定。

8月15日、日本無条件降伏。

8月16日、溥儀、退位と満州国の解体を宣言。

・1946年(昭和21年)旧満州からの集団引き揚げ開始。満州開拓団20万人が死亡。

・2013年(平成25年)「満蒙開拓平和記念開館」開館。

 

  1. 『會地村』
  2. 拓務省→ 大東亜省 嘱託

3.8月満州へ、各地を回る。

4.10月満州へ。

  1. 昭和18年8月28日飯田中同級生が団長の北満のイラハ訓練所を尋ねる。一望千里の実に広々した畑で、大きなキャベツやジャガイモを収穫する様子をカメラに収めた。
  2. 東京空襲4月、自宅下宿焼失
  3. 會地村の移民5月1日満蒙開拓団出発

8.6月、會地村へ帰郷。1カ月前に出発したと聞く。

  1. 国民学校「なぜ、帰郷」に「この村が一番」と答えた。直後に徴兵、九州にで終戦。
  2. 新たな決意。全ての道と夢を絶って教育に捧げる。

 

 

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生涯一教員を貫いた人生

 

熊谷元一と『一年生』

 

三足のわらじへの疑問

 

2010年の晩秋、東京都下清瀬市の介護施設で一人の写真家・童画家が亡くなった。101歳の高齢だったが、最期まで陽気で元気だった。前日お見舞いにきた曾孫に「わしは、いくつだ」と尋ね「ひゃくいっさいだよ」と答えられると「そうか、そんなに長く生きたのか」そうつぶやいて皆を爆笑させた。そうして永久の眠りに着いた。

翌日、新聞各紙はその死を報じた。「写真家熊谷元一さん死去」(読売)「満蒙開拓民の写真 熊谷元一さん」(朝日)「写真・童画家 熊谷元一さん死去」(信毎)などなど。いずれも写真家・童画家と記されていた。後日、NHKテレビの特集番組でも「写真家熊谷元一」として紹介されていた。番組のなかでもアニメ映画の巨匠宮崎駿監督に「すごい写真」と印象づけていた。写真家・童画家として功なり名を遂げた幸福な一生だったといえる。

だが、熊谷には、写真家、童画家の他に、もう一つの顔がある。2011年五月二十八日、信州のある山村の公民館で、熊谷元一の偲ぶ会が開かれた。参加者の多くは、教師時代の教え子だった。追悼セレモニーでは、彼らは思い出を語った。そう熊谷は小学校教師でもあったのだ。生涯一教員として定年まで勤め上げた。それ故、写真は、あくまでもアマチュアカメラマンであり童画も、日曜画家の域をでなかった。

しかし、熊谷は余暇の写真と童画で世に知られた。そのことで、熊谷は、自分の人生を「三足のわらじを履いた人生」と、たとえていた。三足のうち、写真と童画の二足は、上手に履ききったといえる。が、本職の教師はどうだったのだろう。こちらの評価は、芳しいとはいえない。偲ぶ会で、教え子たちは、教師としての熊谷を、このように話した。「教室で勉強を教わった記憶がない」「天気がよければ、すぐ郊外学習だった」。教室でものを教えるより子供たちを外に連れ出し自由に遊ばせ、そのスキに好きな写真を撮っていた。

そのことを裏打ちするように息子さんが最後の挨拶でこんな秘密を暴露した。家にいるときは暗室ばかりいるので、学校で何を教えているのか、子供ながらに不思議に思っていた。それで「あるとき親父の鞄をのぞいてみた」。そしたら中には、カメラと弁当しか入っていなかった。「いま、みなさんの思い出を聞いて合点がいきました。やっぱりか、と」

とたん、しんみりした会場に笑いが起った。

熊谷の人生は、生涯一教員だった。が、世間的には写真家・童画家だった。生まれ故郷の村人もそう思っているようだ。好きな写真を撮るために、童画を描くために、ただ生活の糧を得るために教師をしていた。その印象は、亡くなっても、変わらないようだ。

 

だが、はたしてそうだろうか。たしかに熊谷は三足のわらじを履いていた。そのうちの二足のわらじの活躍はめざましい。とくに写真家としての熊谷は、抜きん出ている。昭和13年に朝日新聞社から出版した写真集『会地村・一農村の写真記録』をはじめ今日まで出版された写真集の数は知れない。それらは、いまや日本の貴重な財産となっている。なかでも昭和30年に岩波写真文庫から出版された『一年生』は、写真界の金字塔といっても過言ではない。童画においても、昭和43年に福音館から出版された絵本『二ほんのかきのき』は、今日いま現在まで111万部発刊のロングセラーをつづけている。

華々しく列記された熊谷の功績。偲ぶ会に出席し、パンフレッドの「熊谷元一氏略歴」を見ながら、私は、三足のわらじに対し、ある疑問が湧きあがってくるのを禁じえなかった。それは、なぜ熊谷は、教師をつづけたのか。教育現場に居つづけたのか。なぜ、本職の写真家に、童画家にならなかったのだろう。そんな素朴な疑問だった。

2012

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.254 ―――――――― 4 ―――――――――――――

 

土壌館情報  おんぼろ道場盛衰記

 

おんぼろ道場を引き受けて30年、いろいろな出来事があった。試合の全記録からおんぼろ道場の盛衰を探ってみた。

 

土壌館試合全記録 1

 

土壌館下原道場               2004年(平成16年)9月5日

 

 

第3回千葉県少年柔道大会・土壌館下原道場試合結果

 

9月5日(日)、千葉県武道館で開かれた第3回千葉県少年柔道大会に出場した選手の皆さん、また応援のご家族の皆様お疲れさまでした。同大会における土壌館下原道場の出場選手の試合結果は次の通りたでした。

 

団体戦  【土壌館下原道場】         【轟柔友会】

 

野沢竜也 ○ ―――――――― × 欠場

中澤大和 × ―――――――― ○ 苫米地優葉

有村裕幹 × ―――――――― ○ 小高孝介

平間琢人 × ―――――――― ○ 鈴木一輝

辻村圭佑 × ―――――――― ○ 秋山晃治

 

個人戦  【土壌館下原道場】         【対戦相手】

 

1回戦    梶原 陽 × ――――――― ○ 山崎 (警和会)

柳下 誠 × ――――――― ○ 小林 (市川柔道)

詫間皓介 × ――――――― ○ 久保山 (柔誠会)

野沢竜也 × ――――――― ○ 森  (八街柔教)

中澤大和 × ――――――― ○ 藤宮 (椿井道場)

山口雅之 × ――――――― ○ 鈴木 (小坂道場)

中野胡桃   (欠場)

有村裕幹 × ――――――― ○ 信太(国分寺台)

塙 裕輝 × ――――――― ○ 君塚 (大原柔教)

平間琢人 × ――――――― ○ 渡辺 (秋葉道場)

野沢竜輝 ○ ――――――― × 白井 (長南柔教)

2回戦    野沢竜輝 × ――――――― ○ 山口 (杉崎道場)

1回戦    辻村圭佑 × ――――――― ○ 清宮 (山武少年)

 

大勢の人と蒸し暑いなか選手のみなさんは、よく頑張りました。今回の試合から学ぶこ

とが二つかあったと思います。

一つには、初戦の難しさ。 二つには、日頃の柔道の取り組み方です。

悔しさをバネに、稽古に励みましょう !!

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反省点

試合以前のことですが、礼儀のできていない選手が目立ちました。試合会場外からの礼。紅白線に立ってからの礼、左足から一歩出てからの試合。右足から一歩下がっての礼、試合会場外に出てからの礼。練習中にもよく注意されていることですが、残念ながら(アガッてしまっている人もいたかと思いますが)生かされていませんでした。

これから道場では、自覚をもって身につけてください。礼は、人生において柔道よりも大切なことなのです。

 

土壌館下原道場                   2005年(平成17年)11月3日

 

 

平成17年度秋季市民柔道大会試合結果 2

 

11月3日(木)に開催された船橋市秋季市民柔道大会は、387名の選手が出場し日頃の成果を競いました。土壌館下原道場からは小学生の部に10名の選手が出場、健闘しました。結果は、次の通りでした。

 

敢闘賞2   小柏駿太選手 野沢竜輝選手 

銅メダル3  中澤大和選手 山口雅之選手 辻村圭佑選手

金メダル1  齋藤和馬選手    

 

【小学2年生以下の部】→ 辻元 翔太選手 1回戦 頑張りました。

 

【小学3年生の部】→  柳下 誠選手 頑張り増した。

詫間 皓介選手 2回戦 善戦しました

野沢 竜也選手 2回戦 善戦しました

小柏 駿太選手 ベスト8  

【小学4年生の部】→  中澤 大和選手(準決勝) 山口 雅之選手(準決勝)

【小学5年生の部】→  有村 裕幹選手(善戦)

【小学6年生の部】 → 野沢 竜輝選手(ベスト8) 平間 琢人選手(善戦)

塙 裕輝選手(善戦)

【中学1年生の部】 → 辻村 圭佑選手(準決勝)

【中学2年生の部】 → 原園 学選手(善戦)

【中学3年生の部】 → 塙 淳輝選手(二回戦進出) 齋藤 和馬選手(決勝)

平間泰 裕選手(善戦)

 

【市長杯の部】  → 高梨 直樹選手 (善戦)

  

監督・下原良太 審判・下原敏彦

時計・塙 淳輝、齋藤和馬、原園学

講評・「日ごろの練習の成果がよく出ていました。とくに4年生の進歩にめざましいものがありました。試合は毎日の積み重ねです。道場にいる間は、しっかり柔道に打ち込みましょう」

以上です。ご苦労様でした。    土壌館下原道場 下原敏彦

 

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.254 ―――――――― 6 ―――――――――――――

土壌館下原道場              平成14年6月20日2002年 

JUDO速報

平成14年度船橋市春季市民柔道大会試合結果  3

 

6月2日(日曜日)船橋市武道センターで開かれた春季市民柔道大会の試合結果は次の通りでした。

 

市長杯 下原良太選手、決勝戦

 

健闘!! 銀メダル1個  敢闘賞4

 

小学生の部

 

有村 裕幹選手  頑張りました

野沢 竜輝選手  1回戦判定勝ち  敢闘賞

平間 琢人選手  頑張りました   敢闘賞

足立 英之選手  頑張りました   敢闘賞

塙  裕輝選手  頑張りました

平間 泰裕選手  健闘しました

塙  淳輝選手  健闘しました

 

市長杯選手権の部

 

寄藤隆弘選手  1回戦、見事な返し技一本でした  敢闘賞

 

下原良太選手  2回戦、判定勝、3回戦一本勝ち  準優勝

 

※   監督は下原モモ・代表は下原敏彦

 

 

◎オンボロ道場を善人の若者たちがきれいにしてくれました。これで怪我の心配なく稽古ができます。厚くお礼申し上げます。

尚、その様子は、下記の日時でテレビ放映されます。

 

2002623() お昼1230100まで 前編

番組は日本テレビ「パワーバンク」

    630()    同上        後編

    7月 7(日) オンボロ道場再建

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土壌館プレイバック

嘉納治五郎生誕150周年に想う

 

今年は、嘉納治五郎の生誕150年に当たる。が、マスメディアは、まったくとりあげていない。嘉納治五郎といえば柔道の創始者として知られている。しかし、昨年、「嘉納家」は127年間つづいてきた柔道の総本山・講道館から退いた。それによって、柔道界からも、遠からず忘れ去られていく運命にある。柔道を愛するものにとって私は、柔道をはじめて45年、町道場で地域の青少年に教えて20年になる。つづけられた理由は嘉納治五郎の柔道理念に魅せられてである。それだけに、大いに残念である嘉納家の名がない柔道界は、という人物に魅せられて柔道界からこの節目に合わせるように柔道は、大きく変化しようとしている。より分かりやすい試合、より一本がとれる試合を目指して、「柔道はあくまでも柔道ということを徹底しなければならない」ことへの取り組みやルール改正がそれである。国際柔道連盟(IJF)は、これによって全世界のより多くの人たちが柔道を再認識してくれることを期待するという。柔道はいま、まさに嘉納治五郎が掲げた理念JUDOへと生まれ変わろうとしている。それ自体、喜ばしいことではある。

 

嘉納治五郎とは何か

 

しかし、嘉納治五郎の生涯を振り返ったとき、日本では、その功績が、あまりにも偏った評価が定着している。正しく知られていない。そのことが、残念な限りである。

嘉納治五郎とは、何か。世界と日本では、その見方が大きく違っている。日本における嘉納治五郎は、あくまで柔道の創始者でしかない。今日、それを知る柔道競技者も少なくなったが、柔道を考案し普及に務めた人。武道という伝統文化の範疇である。他方、世界が見る嘉納治五郎像は、それとは異なる。先ごろ、ニュースでロシアのプーチン大統領が、自身が作った柔道DVDを紹介していたが、柔道は、伝統文化に縛られたものではない。競技ではあるが、たんなるスポーツではない。柔道は、世界平和への実践道具。その理念を具現化した競技。それ故に、嘉納師範は、偉大な国際人と日本とは大きく違ってくる。

ではなぜ、日本では、嘉納治五郎は柔道の創始者、たんなる柔道家として一括りにされてしまったのか。それは、戦前の日本の国策によるものと想像している。富国強兵をすすめる明治政府は、武器なき武器としての柔道に注目した。嘉納治五郎は、いじめ対策として武術を習いはじめたが、そのなかに能や歌舞伎同様の芸術を感じ、その廃れるを惜しみ、国民体育としての柔道を考案した。そして、それは世界平和の手段となるとも考えたのである。嘉納治五郎と為政者との考えは、出発点から乖離したものであった。精力善用・自他共栄。力はよいことに、時刻の繁栄は他国の繁栄あって。この理念は、悪用された。柔道の広まりと、嘉納師範の理念の違い。軍部は、この股裂き現象を一つにまとめるために、近代日本人の基礎となる教育に貢献した師範を、一介の柔道人とするに図った。そして、それはみごとに成功した。アジア初のオリンピック委員として第二次大戦を防ぐために奔走した姿はを知る人は少ない。世界の知識人と交流をもった日本人も、稀である。その一つに、こんな逸話がある。スイス、ジュネーブで書店に入った嘉納は、一冊の本に興味を持った。あとがきをみれば作者は、同じ都市に住む。嘉納は、さっそくに訪ねて、「その人はユングという人であった」嘉納治五郎の、こうしたグローバルな概念はどこで培われたものか。目下、NHK大河ドラマで『篤姫』が人気だが、この時代、神戸の千帆閣という造り酒屋の離れ座敷で海軍奉行勝海舟と、塾頭阪本竜馬が、神戸の海を眺め世界を語りあっている。そのそばをちょこちょこと遊びまわる幼子。三つ子の魂、百までも。その幼子が嘉納治五郎だった、と想像できなくもない。

嘉納治五郎師範を柔道から解き放ち、偉大な日本が生んだ国際人として、再評価されることを願うばかりである。

2010・3  下原敏彦

文芸研究Ⅱ下原ゼミ通信No.254 ―――――――― 8 ―――――――――――――

 

熊谷元一写真賞コンクールについて 9月30日最終審査会にて決まる

 

18回応募作品のテーマ「親子」

 

次回作品のテーマは、議場において「まつり」などいくつかの候補があがったが、より広い範囲でとの提言から「家族」に決まった。詳細は「熊谷元一写真童画館」HP

応募締め切り 2015年9月20日

 

下原ゼミⅡ日誌

 

ゼミ生=村田、西尾、岩澤、関、渡辺

 

□ 9月22日 参加、村田君 『地下室の手記』「ぼた雪」について

□ 9月29日 参加、村田君 『にんじん』家族観察、ゼミ誌について

□10月 6日 台風18号直撃で休講。振り替えは12月22日(月)

□10月20日 『黒板絵は残った』編纂

□10月27日 村田君から電話連絡(風邪) 西尾さんは不通、

□11月10日 電話・村田君、事務室報告「熊谷元一研究」を預ける

□11月17日 電話・村田君、ゼミ誌相談。

□11月18日 池袋の店でゼミ誌編集打ち合わせ。村田君。

□11月24日 事務室から電話、村田君、入稿予定。28日に設定。

□12月 1日 DVD観賞

□12月 8日

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掲示板

 

ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会

 

月 日  2014年12月13日(土)

時 間  午後2時 ~ 5時

会 場  池袋・東京芸術劇場小会議室7

作 品  『罪と罰』

 

ドストエーフスキイに興未ある人、歓迎です。作品を読んでいても、まだ読んでなくても可。一緒に全作品を読んでいくのが目的です。現在5サイクル目

 

・・・・・・・・・・・・・・「下原ゼミ通信」編集室・・・・・・・・・・・・

 

投稿、受け付けます。創作、エッセイ、評論など可。枚数が多いときは、連載になる場合があります。下記のメールアドレスにお願いします。

 

土壌館編集室 TEL:047-475-1582 09027646052メール: toshihiko@shimohara.net

 

下原と熊谷元一

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